錢形平次捕物控
百足屋殺し
野村胡堂
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「親分、お早やうございます。──お玉ヶ池の邊に、妙な泥棒がはやるさうですね」
ガラツ八の八五郎は、朝の挨拶と一緒に、斯うニユースを持つて來るのが、長い間の習慣でした。錢形平次に取つては、まことに結構な順風耳ですが、その代りモノになるのはほんの十に一つで、あとは大抵愚にもつかぬ、市井の噂話に過ぎなかつたのです。
「妙な泥棒は苦手だよ。此間もうちの三毛猫を盜んだ野郎を縛つて拷問にかけて、猫の子を何處へやつたか白状さしてくれと、氣違ひのやうになつて飛込んで來たお神さんがあつたが、あんなのは困るよ」
少しばかり青葉が覗く縁側の障子を開けて、疊に腹ん這になつたまゝ、黄表紙を讀んでゐた平次は、起き上がると煙草盆を引寄せて、こればかりはよく磨いた眞鍮の煙管と共に八五郎の方に押しやるのです。
「今日は良い煙草がありますよ、この通り手刻みなんかぢやありません。毛のやうに細かくて山吹色だ」
ガラツ八はさう言ひ乍ら、懷中から半紙に包んだ一と握りの煙草を取出して、指先でちよいと摘んで見せ乍ら、平次の方へ押出します。
「成程こいつは良い葉だ。國分か、水戸かな、──何處でくすねて來たんだ」
「人聞きの惡いことを言つちやいけません。お玉ヶ池の變な泥棒のことを調べに行つて、百足屋市之助の店に坐り込んだ時貰つて來ましたよ」
「成程、お玉ヶ池には百足屋といふ大きな煙草問屋があつたな、──だが、その術をチヨクチヨク用ゐちやならねえ。煙草屋だから宜いが、同じ山吹色でも、兩替屋などの店先に坐り込んで、小判といふものを半紙に包んで出されたら、どうするつもりだ」
「大丈夫ですよ、そんな氣障なものは振り向いても見やしません」
「ところで變な泥棒といふのは何んだ」
平次は思ひ直して話を本筋に引戻しました。
「お玉ヶ池から小泉町へかけて、今月に入つてから五六軒泥棒に入られましたよ」
「盜られたのは?」
「それが不思議なんで、大きい家を狙つて、雨戸を外して入り、泥足で家中荒し廻るのに、大した物を盜るわけでもなく、精一杯のところで、藥鑵を持出したり、洗濯物の包をさらつたり、子供の玩具を盜んだり、──それも盜みつきりにするわけではなく、少し離れたところへ捨てて行くから變ぢやありませんか」
「泥棒の姿を見た者はないのか」
「二人三人あるやうですが、恐ろしく素早い泥棒で、促まへるどころか、人相も見定めた者もありません。何んでも、五尺七八寸もあるだらうと思ふやうな、肩幅の廣い大男だつたさうで──」
「それだけぢや惡戯としか思へないな。暫らく樣子を見る外はあるまい」
「物騷で叶はないから、何んとかしてくれと、町役人がうるさく言つてますが」
「手の付けやうはないぢやないか。盜んだ品を皆んな捨てて行く泥棒ぢや、──だが、そいつは何んか企らみのあることだらうよ、──藥鑵も玩具も捨石に違ひないやうな氣がするが──」
平次は何やら考へ込んでしまひました。八五郎はその顏を眺め乍ら、プカリプカリと所謂山吹色の國分の煙を輪に吹いて居ります。
この變な小泥棒事件が、思はぬ發展を遂げて、世にも奇怪な結果にならうとは、さすがの平次も氣が付かなかつたのです。
それから四五日經つて、一と雨降つた後のよく晴れた朝のことでした。
「親分、お玉ヶ池の泥棒は、到頭大變なことをやりましたよ」
ガラツ八の八五郎は、例の髷節を先に立てて飛んで來たのです。
「何んだ、いよ〳〵猫の子でも盜んだといふのか」
「冗談ぢやありません。昨夜百足屋へ忍込んで、主人の市之助を殺して逃げましたよ」
「到頭やつたか──今までの變な仕事は、皆んなその大仕事へ運ぶ捨石だつたに違げえねえ」
「出かけますか、親分」
「行かなきやなるまい、お玉ヶ池は鼻の先だ。それに、お前は百足屋に國分煙草一と摘みの恩があるぢやないか」
そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をしました。捕繩を袂に落して、十手を懷中に、單衣の裾を七三に端折つて、新しい麻裏を突つかけます。
「あい」
後ろから戀女房のお靜が、カチ、カチ、カチと鎌を鳴らして切火を掛けてくれるのでした。
お玉ヶ池の百足屋市之助は、正面から脇差で心の臟を一と突き──眞に虫のやうに殺されて居りました。
場所は煙草臭い店から、暗い廊下を入つた奧の一と間。女房のお貞と主人の市之助が、居間にも寢部屋にも使つて居る、薄暗い六疊で、其入口の敷居の上に、仰向に引くり返つて居る死體を、まだ檢屍前で其儘にしてあつたのです。
「これは、錢形の親分さん」
挨拶をしたのは、女房のお貞の父親で、小泉町に大きな酒屋の店を持つて居る、萬屋源兵衞でした。六十近い頑丈な老人で、さすがに此騷ぎに驅付けても、取亂した樣子もありません。
「御苦勞樣で」
その後ろから臆病らしく挨拶したのは、殺された主人の弟の三五郎です。兄の市之助が、小柄ではあるがちよいと好い男で、遊び好きで、諸藝に達して、道樂が止まないに比べて、弟の三五郎は恰幅だけは立派ですが、色の黒い、愛嬌のない、何方かと言ふと、働く外に興味も能もない、不景氣な三十男でした。
その横の方に、しよんぼりと坐つて居るのは、内儀のお貞で、二十七八の青白い顏と、品の良い物越しを特色にした、日蔭の紫陽花のやうな年増です。あまりの驚きと悲歎に、泣くことも忘れたのでせう、放心したやうな、そのくせ今にもどつと泣き崩れさうな表情と、堅く握り合せた華奢な兩手が、ワナワナと顫へて居るのが、妙に平次の眼につきました。
殺された主人の市之助は、三十二といふにしては、少し老けて見える男でした。女と酒に浮身をやつして、人知れぬ苦勞を重ねたためか、それとも身だしなみが良過ぎて、却つて若さを失つて居るのかもわかりません。
良い男のくせに、顏は恐怖と苦痛に歪んで、妙に物凄まじく、胸の脇差は拔いてありますが、黒つぽい單衣をひたして、疊も障子も恐ろしい血飛沫です。
「鞘は?」
「此處にございます」
平次の聲に應じて、三五郎は蝋塗りの鞘を引寄せました。
「その刄物に見覺えはあるのか」
「兄の物でございます、何時も隣室の納戸の箪笥の中に入れて置くのですが」
「──」
平次はうなづきました。曲者は先づ隣の部屋に入つて脇差を取出し、それから此處へ來て主人を刺したことになるでせう。
「親分、死骸の手首にひどい傷がありますね」
「氣が付いたか──曲者と揉み合つた時、手首に噛み付かれたんだらう」
「少し變ぢやありませんか」
八五郎は尤もらしく首を傾げて居ります。
「最初主人が刄物を持つて居たのさ──、曲者がその手に噛み付いたので、刄物を取落した──曲者はそれを拾つて主人を刺した、といふことになるかな」
「すると脇差を取出したのは、曲者でなくて主人といふことになりますね」
「曲者が不案内な納戸へ入つて、先づ脇差を取出し、それから主人夫婦の寢部屋へ入つたと思ふより、主人の市之助が、此節物騷だから、脇差を用意して寢て居たといふ方が本當らしくはないか、八」
「さう言へば、そんなものかも知れませんね」
八五郎は一應この説明で堪能しましたが、説明した平次自身が、却つて覺束なさを感じて居る樣子です。
「ところで、昨夜この騷ぎのあつた刻限は?」
平次は内儀のお貞を顧みました。
「子刻過ぎ──丑刻(二時)近かつたと思ひます」
「その時のことを詳しく聽き度いが──」
「私には何んにもわかりませんが、夜中にフト眼を覺ますと、私の枕元に人が立つて居りました。そしてもう少しで喉を突かれるところでしたが、びつくりして聲を立てると、狙ひが外れて、枕を刺したので、私は危ふいところで助かりました。──その彈みに行燈が倒れて消えてしまひましたが、私の聲を聞いて、三五郎さんが飛んで來て、大變な騷ぎになつたのでございますが」
お貞の話はしどろもどろです。
「その間主人はどうして居たんだ」
「どうして居たか、よくわかりません。店の方から燈を持つて多勢驅け付けたので、始めて主人が殺されたことがわかりましたが」
「曲者は」
「その騷ぎの間に逃げてしまつたことでございませう」
お貞の話の埒のあかないのに氣を揉んで、弟の三五郎は横合から口を出しました。
「曲者が内儀さんの喉を狙ふ前に、主人を刺したのか。それとも、その後で、灯が消えてから組討になつて刺されたのか」
「それはよくわかりませんが──」
お貞の眼は何やら訴へるやうでした。
「曲者の風體は?」
平次は問ひを改めました。
「黒つぽい着物を着た、背の高い男で──」
「物は言はなかつたのだな」
「え」
内儀は覺束ない記憶を絞り出すやうに、美しい眼をまたゝきます。
「主人を狙はずに、内儀さんを狙つたわけだな」
「ところでもう一つ訊き度いが、主人は夜中に殺されたといふのに、寢卷姿ではなくて、ちやんと單衣を着て、角帶を締めて居るのはどういふわけだ」
「昨夜は、──あの遲く戻りましたので」
「何處へ行つたのだ」
「──」
お貞は答へ兼ねて居ります。
「それにしても、お内儀さんは寢て居るところを、喉笛を狙はれたと言つたね」
其處に大きな矛盾がありますが、市之助の道樂は隱れもないことで、遲く歸つた事も仔細のあることでせう。
「親分」
不意に八五郎は、變なものを振り舞はし乍ら飛んで來ました。
「何んだ、八」
「變なものがありますよ、──お勝手口に立てかけてあつたんですが、古箒に衣紋竹を結へて、單衣を着せたのは、何んの禁呪でせう」
八五郎が持つて來たのは、案山子に似た變梃なもので、平次にも何にに使つたものか見當が付きません。
「俺達が長尻なんで、下女が立てた禁呪ぢやないか」
「それにしちや、箒に着物を着せたのは變ぢやありませんか」
「この箒や單衣に見覺えは?」
平次はそれをお貞の方に見せました。
「一向見覺えのない品ですが」
その問ひを引取つて答へたのは弟の三五郎でした。
「お勝手はひどい泥だつたさうですよ。下女のお兼がつまらない氣をきかして、すつかり拭いたさうですが──」
「それは飛んだことをしたものだな」
平次は立上つて、其處から二た間三間手前のお勝手を覗きました。主人夫婦の部屋から其處へ來る間に、下女のお兼の部屋がありますが、あとは納戸や便所で、曲者がお勝手から六法を踏んで通つたところで、誰にも氣が付かれなかつたでせう。
下女のお兼といふのは、十七になつたばかり、健康でお人好しで、此上もない働きものですが、その代りこんなのは、床に入つたら最後、耳の側で鐵砲を撃たれても眼を覺まさない方でせう。
「お前は此家に何年奉公して居る」
「去年の春からですよ」
お兼は少し顫へて居ります。岡つ引などといふ人種は何時人を縛るかわからないと言つた、無智な恐怖にさいなまれて居るのでした。
「主人はどんな人だ」
「へ、親切な方でごぜえますよ」
「お内儀さんは?」
「良い方ですが、お氣の毒でね」
「何が氣の毒なんだ」
「お身體が弱いし、あの通り内氣な方だから、無理もないが──」
お兼はそれ以上のことを言ひません。
平次は好い加減に諦らめて、水下駄を突つかけて外へ出て見ました。
お勝手の敷居がひどく腐つて居る上、鑿か何にかでコジ開けられたらしく、戸は外れたまゝで、棧などはひどく痛んで居ります。
「此締りは誰がするんだ」
「私がしますだ、──昨夜も確かに棧を下ろして、輪鍵を掛けた筈なのに、今朝見ると輪鍵は掛つて居ない上に、外から無理に開けられて、棧は折れて居ましただよ」
「お前が輪鍵を掛けるのを忘れたんだらう」
八五郎が顏を出します。
「そんな筈はねえだが」
下女の話を大概にして、外へ出て見ると、昨日の雨で生乾きの大地には、斑々として足跡が入り亂れ、どれが曲者のやらわかりませんが、その悉くが女物の水下駄で、現に鼻緒のゆるんだのが二足、お勝手の土間に揃つて居ります。
「八、主人の身持がよくなかつたやうだ、店中の評判を聽いてくれ。それからお内儀のお貞の評判、これは近所で聽く方が宜いだらう」
「親分は?」
「俺は歸るよ、外から入つた曲者を、此處で調べやうはあるまい」
「店の者に逢つて見ちやどうです」
「無駄だらうと思ふが、──偶には八の意見も聽いて見るか」
平次はさう言ひ乍ら店へ出て行きました。帳場を預かる番頭の吉兵衞は、五十二三の禿げ頭で、これは通ひで、夜は此家に居ず、店に寢るのは午吉といふ三十前後の煙草切の職人と小僧の與助だけ、これは十四といふにしては少し智慧の遲れた、ノツポの少年です。
この三人は奧の事は何んにも知らず、同じ屋根の下に寢て居乍らも、お内儀などとは滅多に顏を合せることもない樣子です。
主人の弟の三五郎だけは、奧にも店にも立入り、煙草切も手傳ひ帳場も見て居りますが、これは無類の堅造で、夜分はお勝手の例の三疊に陣取り、曾て夜遊びに出たこともないといふ心掛けの男です。
「それから、八」
「へエ」
「もう一つ頼みがあるよ、──此間から泥棒の入つた家を一軒々々當つて見てくれ」
「?」
「泥棒の入つた日と刻限を念入りに聽くんだ──それから入つた手口だ」
「そんな事ならわけはありませんよ」
「時刻は半刻と間違つちやいけないよ、──忘れないやうに紙へ書いて來るが宜い」
「へエ、──書くのは苦手だが、やつて見ませう」
平次の考へは八五郎に解りませんが、兎も角も大呑込で飛んで行きました。
「親分、大變なことになりましたよ」
ガラツ八が飛込んで來たのは、その翌る日でした。
「又泥棒が何處かへ入つたとでも言ふのか」
平次はひどく落着いて居ります。
「お神樂の清吉の野郎が、百足屋殺しの下手人を擧げて行きましたよ」
「誰だいその下手人といふのは?」
「今から七年前──あのお内儀のお貞がまだ萬屋の娘だつた頃、執念深くつけ廻した、遊び人の歌松ですよ」
「歌松が何うしたといふんだ」
「戀の怨で百足屋市之助夫婦を殺しに入つたといふ見込みで」
「七年前の戀の怨みか、──大層辛抱強く待つたんだね」
「歌松が本當に下手人でせうか、親分」
「歌松は背の高い男だな」
平次は妙なことを訊きます。
「物干竿の歌松と言はれたノツポですよ、五尺八寸はあるでせう」
「歌松の足袋は何文だ」
「妙なことを訊くんですね、──背が五尺八寸ありや、足袋は十二文くらゐ穿きますよ」
「百足屋殺しの曲者は、齒の狹い女下駄を穿いて居るよ、歌松ぢやあるまい」
「へエ?」
「それから曲者は五尺そこ〳〵の小作りの男だ、──お神樂の清吉にさう言つて教へてやれ」
「へエ」
「ところで、お前に頼んだことはどうだ」
「百足屋の主人の身持でせう、──あれは大變な男ですよ」
「道樂者だとは聞いたが──」
「ちよいと男がよくて、喉自慢と來てゐるでせう、身上などは持てる筈はありません。あのお内儀の里が小泉町の萬屋で、神田きつての酒屋だから、持參だけでも何千兩といふことでしたが、何千兩持込んだつて、あの道樂ぢや三年と持ちませんよ。この二三年は水の手が切れ通しで、萬屋をせびつてばかり居たさうですが」
「惡い奴だな」
「その上お内儀のお貞が内氣なのを良いことにして、近頃は町内に櫓下から這ひ出した、化猫見たいなお染といふ妾を圍つて、月の半分は其方へ泊るといふことですよ」
「昨夜は?」
「宵のうちは妾のお染のところへ行つて居たさうですが、不用心だからと言つて、夜中に自分の家へ歸つた──とこれは弟の三五郎とお内儀のお貞さんの口が揃つて居ます」
「お内儀の方はどうだ」
「無類の評判ですよ、店の評判は言ふ迄もなく、御近所の金棒曳も、あの内儀には非の打ちやうはありません。少し身體が弱いのは難だが──」
「弟の三五郎は?」
「兄の市之助と血を分けた兄弟とは思へませんよ、堅くて正直で、兄嫁思ひで──」
「評判の惡いのは殺された主人の市之助だといふわけか」
「あんな評判の惡い男はありません。死んだとなると、褒める者なんか、一人もありやしません」
ガラツ八は酢つぱい顏をするのです。
「ところで、お玉ヶ池を荒し廻つた、泥棒の調べは出來たか」
「書いて來ましたがね、あつしに字を書かせるなんざ、親分も殺生が過ぎますよ」
「心配するなよ、眼をつぶつて讀むから」
「冗談ぢやねえ」
平次は八五郎が名筆を揮つた盜難一覽表を讀まうともせず、そのまゝ疊んで袖に入れました。
「一緒に來るか、八」
「何處へ行くんで」
「萬屋から、お妾のお染のところへ廻らう」
「あの女は苦手ですよ親分」
「若い女は皆んな八の苦手さ」
萬屋源兵衞は神田の大町人の一人で、主人の源兵衞は一代に巨萬の富を積んだ人間に共通の、此上もなく強氣な老人でした。
「お氣の毒なことで──」
錢形平次の言ふ世間並の言葉を受けて、
「天罰ですよ、あの男の心掛けぢや、疊の上で死ぬわけはない」
萬屋源兵衞は、一國者らしい無遠慮さで、自分の婿をコキおろします。
「そんなに百足屋の評判は惡かつたのかな、萬屋さん」
「世間知らずの娘が命がけで頼むから、七年前に、大枚の持參で嫁にやつたが、持參金を費ひ盡すと、今度は毎月の無心だ。あんまり圖々しいから、此半歳ばかりは百も合力しなかつたが、ありや日本一の極道者だね──親分の前だが」
源兵衞の口には遠慮もありません。
「この先も貢がないつもりだつたのかな」
「はつきりさう言ひ渡してやりましたよ。妾に注ぎ込む金を貢ぐやうなものだから、私が甘くすれば、娘を泣かせるばかりで」
「成程ね」
「死んだ者の惡口を言つちや濟まないが、好きで嫁に行つた娘は、自分の不心得から出たことと、今ぢや諦めてゐましたよ。あんな奴は生き長らへるほど世間迷惑さね、──さうぢやありませんか、錢形の親分」
萬屋源兵衞の話に辟易して、平次も尻尾を卷く外はありません。
お玉ヶ池──も幕末の頃は、大きな盥ほどの水溜りになつて居たさうですが、平次の活躍して居た頃はまだ池の形のあつた頃で、その池のほとりに、誂へたやうな見越しの松、船板塀の中に納まつたお染を、平次と八五郎は無意氣な調子で驚かしました。
「お前は百足屋の世話になつて居るお染と言ふのだな」
「まア」
入口の障子に半身を隱して、その二人の岡つ引を、存分に非難した調子で迎へたのは、二十三四の、豊滿此上もない女でした。髮の毛の欝陶しいほど多い、ブルース唄ひのやうに少し聲の皺枯れた、そのくせ血色が鮮かで、滿身悉く媚と肉感とででつちあげたやうなお染は、百足屋の内儀お貞の、淋しくつゝましく、病的にさへ見える弱々しさと、まさに絶好の對照を成すものでした。
「あの晩、市之助が歸つて行つたのは何刻だ」
平次の問ひはいきなり核心に飛込みます。
「夜半過ぎだつたかも知れません。急に家の事が心配になつたからと言つて──」
「今までも時々そんな事があつたのか」
「え、十日に一度、七日に一度、夜中に歸ることがありました」
「夜中に歸つた晩を覺えて居るなら、先月から順序に言つてくれ」
「そんな事を覺えちや居ませんよ」
お染はまた障子に縋り付いたまゝ、クネクネと全身で表情をするのです。赤い唇、太い聲、──物を言つたり身じろぎしたりする毎に、妖氣の發散する女でした。
「そいつは大事なことだ、何んか思ひ出す工夫はないか」
平次は容易に諦めません。
「お秋が覺えて居るかも知れません。あの人は物覺えの良い女ですから」
お染は引込みましたが、間もなく三十前後の恐ろしく醜い女が、前掛で手を拭き〳〵出て來ました。
「旦那樣が夜中にお歸りになつたのは、先月の十日と二十三日と二十八日と、今月になつてから三日と七日、それから一昨日の晩だけでございますよ」
この醜い女の頭の良さに、矢面に立つた八五郎はすつかり壓倒されましたが、その間に平次は忙しく懷中から、八五郎の調べ書きを出して、お秋の言葉を引合せ乍ら、すつかり夢中になつて居ります。
「有難う、それで大助かりだよ、──ところでお染」
「?」
平次は問ひを續けました。
「百足屋の旦那は、月々どれくらゐづつ貢いで居たんだ」
「そんな事も言はなきやなりませんか」
お染はすつかり脹れて居ります。
「まア、お白洲で言ふより、此處で言つた方が無事だらうよ」
「月々五兩のきめでしたが、──でも十兩にも二十兩にもなつたことがあります」
「大層張つたものだな、──ところで市之助は、近い内にお前を百足屋の家へ引取ると言つた筈だが──」
「そんな嬉しがらせを言つて居ましたけれど──綺麗なお内儀さんが居るんですからね」
お染は、それはあまり當てにして居ない樣子でした。
「大變な女ですね、親分」
お染の家から出ると、ガラツ八はペツペツと唾を吐き乍らたまり兼ねたやうに斯う言ふのでした。
「遊び馴れた百足屋市之助が好きさうな女ぢやないか」
「ところで、下手人は誰でせう、親分」
「まだわからないのか、八」
「へエ」
八五郎はキナ臭い顏をするのです。
「百足屋へ行つて見よう、下手人はもうわかつて居る筈ぢやないか」
「それがわからないから不思議で」
二人は百足屋へ入つて行くと、平次は店に居た弟の三五郎に耳打して、女房のお貞を、人目を避けて離屋に呼びました。座に居るのはお貞の外に三五郎と平次と、そして狐につまゝれたやうな八五郎だけ。
「さて、──主人の市之助を殺した下手人は、この平次には判つたつもりだ。よく腑に落ちるやうに筋道を立てて話して見ようと思ふが──」
「親分さん──」
三五郎は泳ぐやうな手付きをして、膝を立て直しました。が、平次は靜かにそれを止めて續けるのでした。
「百足屋市之助、──お前には兄、お内儀さんには良夫だが、近頃になつて放埒が益々募つた。小泉町の萬屋からは此上一文も出ないとわかると、お内儀さんを追ひ出してお染を引入れようと思つたが、小泉町には何千兩といふ借金があるから、手輕にそんな事は出來ない。そこで市之助はお内儀さんを殺して、お染を引入れ、小泉町にも文句を言はせない工夫を思ひ付いた」
「まア、親分さん」
お貞はその恐しい曝露に堪へなかつたものか、驚いて平次の口を塞がうとしましたが、平次の冷たい力強い調子は、それを振り切つて續けます。
「いきなりお内儀を殺しては、直ぐ知れる。そこで、町内の物持を五六軒も荒し廻り、泥棒の仕業と見せようとした。藥鑵や玩具を盜んで、すぐ捨ててしまつたのはその爲だ」
「これは主人がお染のところから夜中に歸つた晩に限つて起つたことで、お染のところの下女の言葉と八五郎の調べとピタリと合つて居る」
「──」
「泥棒は背の高い肩幅の廣いヒヨロヒヨロした男だと言はれて居るが、主人は人並外れて背の低い男だ。それは衣紋竹に箒を結へ、單衣を着せて背負つて歩き、背の高い男と見せるやうにした爲だ。主人が殺された翌る朝、その仕掛物が此家のお勝手口にあつたが、單衣の柄を三五郎は見覺がないと言つたのは、多分嘘だらう。見覺はあつた筈だ──その時お内儀と眼配をしたのを、私が見落す筈はない」
「──」
「この邊で宜いといふとこで、主人は一昨日の晩自分の家に忍び込んだ。何處からでも入れるのに、わざとお勝手口の戸をコジ開け棧をこはして入つた、尤も輪鍵は宵のうちに内から外して置いたのだらう。庭の足跡が女物の水下駄の跡ばかりで、外から入つた曲者の足跡のなかつたのは手落だが、それくらゐの縮尻は氣の廻る惡人でもよくあることだ」
「──」
「さて、主人は納戸から脇差を取出して、自分の女房を刺さうとしたが、お内儀が眼を覺して聲を立てたので、あわてて行燈を引くり返した。──其處へ三五郎が飛込んで來て、曲者がまさか自分の兄と知らないから、眞つ暗な中で組討が始まつた。──曲者の手に噛り付いて刄物をもぎ取り、それを構へたまゝ眞つ直ぐに闇を突く──とこれが天罰と言ふものだらう、脇差は兄の市之助の胸に突つ立つて、あつと言ふ間に死んでしまつた。──其處へ店から多勢の人達が灯を持つて來た、──今更驚いたがどうしやうもない、お内儀と三五郎と口を合せて、曲者が外から入つて來たといふことにして誤魔化すつもりだつた」
平次の論告は終りました。その言葉の中ば頃から、深々とうな垂れた二人は、此時平次の前にヘタヘタと崩折れて、
「その通り、少しの違ひも御座いません。まさか實の兄とは知らず、殺す氣もなく突き出した闇の中の刄物で、私は大それた事をしてしまひました。此上はいさぎよくお繩を頂戴いたします」
三五郎はさう言つて、觀念の兩手を後ろに廻すのです。
「あれ、三五郎さん、惡いのはお前さんぢやない、──どうぞ私を」
お貞も一緒に縛られて行くつもりでせう、後ろに手を廻して、困じ果てた八五郎の膝に摺り寄るのです。
「兄殺しは重罪だが、自分の家へ入つても泥棒は泥棒に違ひない、それを暗闇の中で成敗したのは神業だ。此處でお前を縛つちや、少しばかり十手冥利が惡からう。なア、八、どうしたものだ」
平次は靜かに八五郎を顧みるのでした。
「歸りませうよ、八丁堀の旦那衆のお叱は覺悟の前で、──百足屋の主人を斬つた泥棒はつかまらなかつたといふ事にして」
「それも宜からう」
我が意を得たりと言つた顏で、平次は立ち上がりました。三五郎とお貞──この純情な二人の男女の行末はどうなるか、其處までは考へて居られません。
底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房
1953(昭和28)年11月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1947(昭和22)年7月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
2017年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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