錢形平次捕物控
酒屋忠僕
野村胡堂




「親分、平右衞門町の忠義酒屋といふのを御存じですかえ」

「名前は聞いて居るが、店は知らないよ」

 ガラツ八の八五郎は何んかまた事件を嗅ぎ出して來た樣子です。大きな小鼻をふくらませて、懷ろから出したで、長んがいあごを撫で廻し乍ら、んな調子で始めるのでした。

 薄寒い日射しが障子に這ひ上がつて、街にはもう暮近い賑やかさが脉打つてゐやうといふ或日の出來事です。

「孝行や忠義はこちとらに縁はないが──」

「何んといふばちの當つた口を利くんだ、馬鹿野郎。掻拂ひや巾着切を追つ駈けるばかりが能ぢやあるやえ、たまには御褒美の出る口でも聽込んで來い」

「へエ、精々心掛けますがね、──差當り平右衞門町の忠義酒屋加島屋の話で──」

 錢形平次の馬鹿野郎を喰ひつけてゐる八五郎は、おくした色もなく話を續けるのでした。もつとも小言をいひ乍らも平次は、粉煙草のけむを輪に吹き乍ら、天下泰平の表情で、八五郎の話を享樂して居るのです。

「加島屋が暮の大賣出しでも始めるといふのか」

「そんな世間並な話ぢやありません。が、親分はあの忠義酒屋の因縁いんねんを御存じですか」

「いや、知らないよ。お前には小言をいつたものの、俺なんかも忠義や孝行とは縁のない人間かも知れないな」

「尤もお靜姐さんは、町内で評判の亭主孝行──」

「馬鹿野郎、亭主の前で女房を褒める奴があるか」

「へエツ」

 八五郎は月代さかやきを撫で上げて、ペロリと舌を出しました。平次の戀女房のお靜は、何んにも知らずに、お勝手を明るくさせ乍ら、たしなみよくお化粧をして居ります。

「無駄は拔きにして、忠義酒屋の加島屋が一體どうしたと言ふんだ」

 平次は際限なくタガのゆるむ話を、もとの話題に引戻しました。

「へツ、相濟みません。──その加島屋の娘──二人ありますがね、姉はお咲と言つて二十歳、妹はお駒といつて十八、姉のお咲は咲き立ての牡丹ぼたんのやうな、良い女ですが、妹のお駒は見つともない娘で──同じ枝に咲いた花が、あんなに違つてゐたら見世物でせうが、人間の姉妹だから大した不思議とも思はない──」

「今日はどうかして居るぜ八、お前の言ふことは一々かんにさはるが」

「相濟みません。──惡る氣ぢやないんで、勘辨して下さい。──ところでその娘が昨日わざわざあつしのところへ來たとしたらどんなもので、へツ、へツ」

「嫌な奴だね、姉の方か、妹の方か」

「姉の方だと申分ないんだが、妹の方でしたよ」

「不足らしい事を言ふな、新造しんぞが折角訪ねて行つたんだ」

「さう思つて、精一杯お愛想をしましたよ」

「用事は?──まさか八五郎を口説くどきに行つたわけぢやあるめえ」

「お察しの通りで──近頃加島屋に妙なことがあるから、來て見てくれ──と斯ういふぼんやりした話でしたよ」

「どんな事があるんだ」

「姉さんの、──あの綺麗なお咲が、誰かにねらはれて居るやうで、氣味が惡くて叶はないといふんで」

「それつきりか」

「へエー、それつきりだから話になりません、唯もう何となく怖くて〳〵たまらないんださうで」

 八五郎の話はつかまへどころもありません。

「そのお咲といふのは病身ぢやないのか」

きりやうも良いが、身體も丈夫ですよ、少し位のことを氣に病むたちぢやありませんが、この夏頃から變なことが續くんださうです。物干場へ上がると、手摺てすりが外れてゐて、屋根へ轉げ落ちさうになつたり、夜なんか外へ出ると、誰かきつと後ろからいて來たり──」

「──」

「それだけなら大した氣にもしなかつたでせうが、ツイ二三日前、雪が降りましたね」

「フーム」

 八五郎の話は妙に飛躍します。

「夜のうちに五六寸降つて、朝はカラリと晴れたでせう。あの雪景色を見ると、加島屋の主人は下手へたな狂歌なんか作つて見たくなつたんですね、町内の胡麻摺ごますりや野幇間のだいこを集めて急に雪見船を出すことになりました」

「フーム」

 話は大分面白くなりさうで、平次もツイ乘出しました。

「船の支度が出來て、兩國の下にもやつたのは辰刻いつゝ(八時)少し過ぎ、結構な短册に下手つ糞な歌などを書いて居ると、お料理やお燗の世話をして居るお咲の頭の上へ、薪割まきわりが一梃、凄い勢ひで落ちて來たといふぢやありませんか」

「怪我は?」

「幸ひ薪割は少し外れて、お咲の肩をかすつて水の中へ落ちました。それツと船の中の者が立ち上がりましたが、兩國の橋架の欄間らんまもやつた船から、橋の上が見える道理はありません」

「薪割は何處のだ」

「水の中へ落込んで、この寒空ぢや搜しやうはありません。尤も加島屋の物置にあつた筈の古い薪割が一梃なくなつてゐたさうで」

「その時刻に店を出た者はないのか」

「多勢の奉公人で、誰が外へ出たか、はつきりは判りません。唯、これだけは言へますよ、番頭の清兵衞は帳場を動かなかつたし、手代の喜三郎──此男は忠義酒屋の綽名あだなの主で、江戸中でも評判になつた心掛の良い男ですが、その騷ぎの最中に丁度船へ辨當を運んで來たさうですから、この二人にだけは疑ひが掛らなかつたわけです──喜三郎は船へ來るとひどく腹を立てて裸になつて大川へ飛込んで薪割を搜すと言ひ出して皆んなに留められたさうで」

「曲者は加島屋の家の者に違ひあるまい。が、こいつはむづかしいな」

 平次も腕を組みました。これだけの事件では、錢形平次が乘出すわけにも行きません。



「ところで、その忠義酒屋の因縁いんねんをお前は知つて居るだらうな」

 平次は妙なことを訊きました。

「知つてますよ。神田から淺草へかけて知らないものはありやしません」

「ところが、口惜くやしいが俺は知らない。神田つ子の名折になるといけないから、筋だけでも通してくれ」

「お安い御用で、三味線拔きでやりませうか、へツ」

「馬鹿だなア、氣取つたつて木戸錢は出ないよ」

「平右衞門町の酒屋、加島屋の子飼の手代で喜三郎。こいつが大の忠義者で、お神さんがわづらつた時は觀音樣へ曉方のお百度詣りをしたとか、寒中に水垢離みづごりを取つたといふ話もありましたが、それほどの信心でも定命ぢやうみやうに勝てなかつたものか、お神さんは二年前に亡くなりました」

「それつきりか」

「まだありますよ。此春は主人の金兵衞が傷寒しやうかんわづらつて、危ないと言はれましたが、喜三郎はその枕元に付きつきりで、六十日の間帶も解かなかつたさうですよ」

「フーム、大した辛棒だな」

「主人はその看病のお蔭で病氣が癒つて、お禮心に百兩といふ金をやつたが、喜三郎は涙を流して受取らなかつたといふことで──それでは主人の命を百兩といふ金に代へたやうで氣が濟まないから──といふんださうです」

「成程」

「あんまり心掛が良いので、平右衞門町小町と言はれた、娘のお咲の婿むこにして、加島屋の跡取にしようとしたが、これも辭退をして受けなかつたさうで、──それといふのは、喜三郎は江戸一番の心掛の良い男だが、あばたで、見る蔭もない醜男ぶをとこです。こんな見つともない者と一緒になつたら、お孃さんはきつと長い間に嫌になるだらうといふんださうで──罰の當つた野郎ぢやありませんか、鏡と相談して縁談を斷わるなんて、男のすることぢやありませんね」

「お前とは少しばかり心掛が違ふやうだ、──それにしても少し遠慮が過ぎるね」

「あんまり心掛けの良いのも氣障きざですね。兎も角、喜三郎の人氣は大變なもんですよ、近所ばかりでなく、神田、下谷、淺草へかけて、忠義酒屋と言へば知らないものはありやしません」

 八五郎がんな話を持つて來てから四五日經ちました。暮の氣分の忙しさに紛れて、ツイ『忠義酒屋』の話を忘れるともなく忘れてゐると、

「親分、到頭やられましたよ」

 八五郎はいつもの平次の不精をとがめるやうな調子で飛込んで來ました。

「何がやられたんだ」

「お咲ですよ」

「えツ」

「平右衞門町の小町娘をローズ物にしやがつてしやくにさはるぢやありませんか」

 八五郎の報告は何時になく穩かでした。──大變ツ──の旋風せんぷうを吹かせて飛込む元氣もなかつたのでせう。

「行つて見よう、八」

「あんな娘を殺すやうな野郎は、一日も放つちや置けません。──昨日もあつしが樣子を見に行くと、──八五郎親分御苦勞樣、本當に恩に着ますよ、お茶が入りましたから、どうぞ──つて、小菊に包んで落雁らくがんを五つ──」

「泣くなよ八、大の男が天道樣に照らされて泣くのは見つともよくないぜ」

「でも、口惜しいぢやありませんか、親分」

 そんな事を言ひ乍ら、二人は平右衞門町に急ぎました。まさか八五郎は泣きもしなかつたでせうが、ひどくがつかりして居たことは事實です。



 加島屋の騷ぎは、全く上を下へといふ形容詞けいようしの通りでした。

 ガラツ八の注進が早かつたので、平次が行つた時はまだ土地の御用聞も來ず、お咲の殺された現場も手付かずで、平次流の觀察や調べ事には此上もなくあつらへ向です。

 主人にも、店の者にも挨拶を交す隙もなく、八五郎に案内さして平次はいきなり現場に飛込みました。

 店からは遠く、母屋おもやの一部には相違ありませんが、南向の一番端つこの六疊がお咲の部屋で、その手前が妹のお駒の部屋、それから婢共をんなどもの部屋、この三つの部屋が境の戸で仕切られて、それから手前へ廊下續きに番頭や手代や若い男達の部屋が店近く列んで居ります。

「これは」

 障子を開けてたつた一と眼、物別れた平次もさすがにうなりました。それほどお咲の死は凄慘で、それほど痛々しかつたのです。

 床から拔出し加減に、小町娘のうらみに燃える眼は、天井の一角を見詰めて居ります。顏は少しれて、美しさはひどく損ねましたが、喉笛をされた死骸は、ひどい苦悶の跡を留めるにしても、生れ付きの美しさに救はれて、そんなにみにくいものではありません。

 多分下手人はお咲の布團の上に馬乘りになつて、兩手の恐ろしい力で、この造化の大傑作とも言ふべき美しい娘を扼殺したのでせう。白い圓い首筋に、印された恐ろしい指の跡が、曲者の圖太さと、その兇暴さをまざ〳〵と語つて居るのでした。

 有明の行燈の下で、美しい眼一パイに溢れた苦悶と、怨の視線を浴び乍ら、この娘を殺す人間の冷たさむごたらしさを、平次は腹の底から憎くならずには居られません。

「これほどの事に、誰も氣が付かなかつたのだな」

「今朝、下女のお秋が雨戸を開けに來て氣がついたさうです」

 側から應へたのは八五郎でした。

「錢形の親分さん、あんまりひどい殺しやうで、私は腹わたが煮えくり返るやうです。なんとか早く下手人を縛つて下さい。──申しおくれましたが、私は主人の金兵衞でございます」

 月代の光澤つやの良い五十二三の中老人は、平次の前に頭を下げました。

「お氣の毒だね。こんな娘を──」

 平次はさう言ひ乍ら、片手拜みに死骸から離れました。寢卷や布團の贅は、町人には少しおごりの沙汰と思はれる程で、主人金兵衞の溺愛できあい振りが思ひやられます。

「ところで──」

 平次は四方を見廻し乍ら續けました。幸ひ其處には暫らく人が絶えて、奉公人達は遙かに此座をけた樣子です。

「──こんな事を訊いても無駄かも知れないが、家の中で殺された娘を怨む者はなかつたかな」

「怨む者なんかあるわけはありません。娘は誰へも一樣に親切にして居りました」

 その誰へも一樣に親切にしたことが、案外若くて美しい娘に取つては命とりの原因だつたかも知れません。

「少し立ち入つた事を訊くやうだが、ことに親しくして居た者は──」

「それもなかつたと思ひます。最も婿になり度い者は多勢ございました」

「例へば」

「外では日本橋の佐渡屋の若旦那、浪人の染井五郎樣、伊豆いづ屋の弟御」

「店の者では?」

「手代の國松、安五郎などで──二人共人を頼んで養子になり度いといふ申入れがありましたが、私も娘も不承知で斷わりました」

「喜三郎といふのが居るさうだが──」

「あれは感心な男で、私から娘の婿にと望みましたが、──お孃さんの氣に染む筈はないから──とはつきり斷はりました」

 主人金兵衞の、喜三郎に對する信用は宏大でした。

「戸締りは?」

 平次は縁側に立つて、冬枯ふゆがれの小さい庭を眺めやりました。

「私は用心深い方で、戸締りは一々自分で見廻りますが、決して手落や間違ひはなかつた筈でございます。今朝下女のお秋が開けた時も、少しも變つたところはなかつたさうで」

「あの庭ぢや外からは足跡をつけずに入られませんよ」

 ガラツ八の八五郎は、霜解しもどけのひどい庭を指しました。それに昨夜は暖かでこほらなかつたので、下手人が外から來たとすれば、足跡を殘さずには近づけなかつたでせう。

 平次は部屋を出て、縁側をぎやくに店の方へ戻つて見ました。お咲を殺したのは、明かに男の強いの力ですが、この屋根の下に寢て居るのは主人の外に國松、安五郎、喜三郎の若い男達と、五十男の番頭の清兵衞だけで、主人と清兵衞を除けば、國松、安五郎、喜三郎の三人に限定されることになります。



 縁側の盡きるところで、平次はハタと當惑しました。

「此戸は?」

「女共の部屋と若い男達の部屋とを分けるために、夜分は其戸を締めて置きます」

「締めるのは誰の役目で」

「締めるのも、開けるのも、お秋の役目でございます」

「すると此戸から此方には、二人のお孃さんと──」

「下女が二人、お秋とお竹が寢んで居ります。飯炊きのお定はお勝手の隣りに寢て居りますから」

「そのお秋とお竹を呼んで貰はうか、一人づつ」

 平次の聲に應ずるやうに、店の方から來たのは十五六の小柄な娘でした。

「あれがお秋で」

 平次は默つてうなづき乍ら、

「昨夜此戸が開いて居た筈だな、お秋」

 如何にもそれは唐突たうとつでしたが、一言の辯解も許さぬ態度です。

「でも、お竹さんが、自分で締めるからと、たつて言ひましたから」

 主人の顏を盜み視乍ら、お秋の聲は蚊の鳴くやうに小さくなります。

「そんな事は時々あるのか」

「いえ、五日に一度、十日に一度ぐらゐ」

「誰をさそひ入れるんだ」

「私は──」

 ハツと赤くなつて、モヂモヂして居るお秋を、此上追及しても駄目と見たか、

「お竹を呼んでくれ、──今のことは默つてゐるんだよ」

「ハイ」

 お秋は虎口ここうをのがれでもしたやうに、店の方へ引返します。

「あの、私に御用ださうで──」

 入れかはつて來たのは二十二三の大年増ですが、商人の家の奉公人にしてはひどく厚化粧で、物言ふ毎に少しゆがめて白い齒をチロリと見せる唇は、やゝ下品ではあるがこびをさへ含んで、なかなか美人でした。

「時々夜中にお前のところへ忍んで來るのは誰だ」

「え?」

「白ばつくれるな、種は皆んな擧がつてゐるぞ」

「でも、お孃さんの部屋へは參りません」

「そりや當り前だ、お前と逢引した男だけは、間違ひもなくお孃さん殺しの下手人げしゆにんではなかつた筈だ」

「──」

「安五郎か、國松か、それとも喜三郎か」

「まさか」

 お竹はひどく喜三郎を輕蔑けいべつして居る樣子です。

「喜三郎はそんな男ぢやない、──矢張り國松か安五郎だらう」

「──」

「お前が言はなきや、二人共縛つて、つれて行く外はない、後で怨まれても知らないよ」

「申し上げますよ、親分」

「誰だ」

「安五郎さんで──まア極りが惡い」

 お竹は袖で自分の顏を隱して、バタバタと店の方へ歸りました。

「ところで八、その縁側がよく鳴るやうだな」

 平次は縁側ばかり歩いてゐる八五郎に聲を掛けました。

「まるで鶯張うぐひすばりだ、此縁側をそつと歩くには忍術にんじゆつの心得が要るね」

 ガラツ八はよく鳴る縁側を歩き乍ら、そんなことを言つて居ります。

「陽が入るので、板が詰まつてしまひましたよ」

 金兵衞は苦笑ひをして居ります。

うなると、殺された死骸があつて、下手人がないといふことになりさうですね」

 それはまつたく八五郎の言ふ通りでした。

 續いて平次は母屋おもやに寢んで居る三人の若い男にも逢つて見ることにしました。合圖一つすると、ガラツ八がつれて來たのは加島屋を有名にした忠義者の喜三郎です。

「お前は喜三郎といふんだね」

「へエ」

 黒あばたで思ひ切つてみにくい男ですが、その代り物柔ものやはらかで腰が低くて、丈夫さうで、典型的な頼母しい奉公人です。

「昨夜なにか氣の付いたことはなかつたか」

「何んにも存じません。私はよく寢る方でへエ」

「お前の評判は大層なものだが、お咲の婿になるのまで斷わつたのは、遠慮が過ぎはしないか」

「御尤でもございますが、私は此通りで、若くて綺麗な女とは縁がございません。親の威光ゐくわうで一緒にされても、後でイヤなことが起るのは眼に見えて居ります」

「そんなものかな、其處まではこちとらは考へられないが──ところで、何が望みでお前は働いて居るんだ」

「望みと申しましても──御主人への御恩返しの外には考へても見ません。それにゆく〳〵は暖簾のれんを分けて下さると仰しやいますので、小さい店でも持つた時の爲に少しづつはたくはへもふやし、商賣の駈引も見習つて置き度いと存じます」

「お前は幾つなんだ」

「二十五で御座います」

やくだな、ところで、ゆく〳〵店でも持つとして、いくら位溜つたんだ」

「へエ──」

「何百兩とか言ふんだらう」

「飛んでもない親分、精々三十兩位のものでございます」

「幾才から奉公して居るんだ」

「十三の春からでございます」

「十三年の間に三十兩か」

「へエ──」

 平次は此驚く可き奉公人を默つて見詰みつめる外はありませんでした。



 次に逢つたのは安五郎でした。

「お前は昨夜お竹に逢つて居たさうだな」

「へエ──」

 安五郎は此一言ですつかり萎氣しよげてしまひました。三十前後の背の高い男で、喜三郎に比べると男振りは見事ですが、その代り氣の廻りもにぶく、遊び心だけは相當に猛烈らしく見えます。

「お竹とは前から馴染なじんでゐるのか」

「へエ──この春からでございます」

「境の戸はお竹が開けてくれるんだらう」

「へエ──」

「お前の外に誰か女部屋の方へ入つたものはなかつたのか」

「一向氣が付きませんが」

 この上何を訊いても、この男から引出せさうもありません。

 最後に逢つたのは國松といふ手代でした。色の淺黒い、キリヽとした男で、二十七といふにしては少し老けて居りますが、何んとなく油斷のない面構へで、逢つて話してゐると、妙にしたゝかな感じを與へます。

「お前は此處へ奉公して幾年になるんだ」

「今年で十五年になります」

「何が望みだ」

「──」

 この平次の問ひには、國松もさすがに驚いた樣子です。

「その男は、私の死んだ女房の遠縁で、格別眼をかけて居りますが」

 見兼ねた樣子でそつと囁いたのは主人の金兵衞でした。

「養子にでもするつもりで?」

「いや、飛んだ口強馬こはうまで、私の手には合ひませんよ」

 主人と平次は囁き交します。

 それを小耳に挾んだのでせう、國松の眼はキラリと光りました。

「お咲を殺した下手人の心當りはないのか」

 平次は改めて國松に訊きました。

「私にわかるわけはありませんよ」

 お前は十手捕繩を預つてゐてもわからないぢやないか──と言つた調子です。

 平次はこれ以上追及する氣もないらしく、案外手輕に歸してしまひました。

「あの野郎が一番變ぢやありませんか、親分」

 八五郎はそのかたくなな感じのする後ろ姿を見乍ら、つばでも吐き度いやうな調子です。

「御主人、奉公人達の持物を調べ度いが、構はないでせうな」

「へエ〳〵どうぞ御自由に」

 平次はそれから一ときばかり、國松、喜三郎、安五郎を始め、お秋、お竹などの荷物を念入りに調べました。

 一番金を持つて居たのはお竹で、これは三十兩餘り、一番少ないのは喜三郎、三十兩の貯蓄たくはへは主人に預けてあるさうで、自分の手にはほんの二分か一兩だけ。國松は十兩餘り。安五郎は五兩そこ〳〵で、その代り變てこな字でなすくつた戀文が一と束、代々の女中に渡りをつけて居たことがわかつて、すつかり主人を怒らせてしまひました。

「親分、喜三郎の部屋の押入に、ひどく汚れた着物が入つて居りましたよ」

「どれ〳〵こいつは寢卷ぢやないか、寢卷に乾いた土と媒埃すゝほこりをうんと附けて居るのは變だね」

 平次は萬筋の地味な寢卷を念入りに調べて居ましたが、それつ切りもとの押入に返させました。

「人間一人確かに殺されてゐるんだから、何處か忍び込む道があるんだらう。──ところで一度俺は兩國へ行つて見ようと思ふが」

「へエ」

「お駒をさそひ出してくれ。一緒につれて行つて訊き度いことがある」

 ガラツ八は飛んで行きましたが、間もなく妹娘のお駒をつれて來ました。姉のお咲とは似もつかぬ不きりやうですが、色が黒くて愛嬌あいけうもあつて、健康さうで利發者で、何んとなく好感の持てる娘です。

昨夜ゆうべ氣の付いたことはないか、──例へば縁側を誰か通つた──と言つた」

「いえ、私は大變に寢坊で」

 お駒はさう言つて赤い顏をするのです。晝のうちよく働くせゐでせう。

「ところで、喜三郎はお前の姉さんのことを何んとも思つては居なかつたのか」

「思つて居ましたよ、可哀想にあの人はあんな樣子ですから、それを口に出しては言へなかつたんです」

「姉さんの方は」

「ひどく嫌つて居ました。喜三郎の噂をすると顏色を變へた程で」

「國松の方は」

「一時姉さんの聟にといふ話もあつたやうですが、姉さんが嫌ひでそれつきり話は立消えになつたやうです」

「國松は姉さんをうらんで居るだらう」

「さア──」

 十八娘のお駒に取つては、これ位のことを言ふのが精一杯の樣子です。

 三人は何時の間にやら兩國に來て居りました。

 平次は船を一艘出させて、八五郎とお駒を乘せていつぞやの雪見船の居た場所につながせ、自分は橋の上から暫らく樣子を見て居りましたが、かねて用意した石を二人の居る船の側へ投げると、大急ぎで橋の袂を廻つて、船へやつて來ました。

「どうだ、八」

「待つて居ると隨分手間取りますね、煙草二三服といふところですよ」

「ところで、あの日、薪割まきわりを投つてから、喜三郎が雪見船へ來るまでの間はどれくらゐかゝつて居るんだ」

 平次は改めてお駒に訊きました。

「直ぐでしたよ、こんなにはかゝりません。薪割まきわりが姉さんの肩をかすつて水へ落ちたので、總立ちになつて大騷ぎをしたのと、喜三郎どんが重箱を背負しよつて船へ飛込んだのと一緒でした。喜三郎どんは、まだブクブク泡の立つて居る水を眺めて、はだかになつて飛込んで、それを拾つて來ると言ひ出したんです」

 お駒の觀察は行屆いて居りました。が、橋の上から船へは、平次が試みたより早く來る方法はありません。

「喜三郎ぢやないな」

「──」

「だが、もう一つがある。來い八」

「へエー」

 三人はまた大急ぎに平右衞門町に引返しました。



「八、お前は家中の者を見張つてゐてくれ。逃げ出す奴があつたら縛つても構はないよ」

「へエー、親分は?」

「少し恰好は惡いが天井へもぐり込むよ──提灯を借りて來てくれ」

「まだ晝前ですよ」

 平次は提灯に灯を入れると、いきなりお咲の部屋の押入に潜り込みました。

「布團がなくなると、出入りが自由だ。時々やつたと見えて、ろくにほこりも落ちないよ」

 平次は押入の上の板を動かして居りましたが、動くのを一枚見付けると、簡單に天井裏に潜り込んでしまひました。

 其處へ入つて見ると、案外何處からともなく明りが射すので、眼が馴れると提灯にも及びません。

 音のしないやうにはりを傳はつて行くと、媒埃すゝほこりの中に道は自然に付いて、二た間、二間先へ平次をみちびいてくれます。

 それは此上もなく不思議な探險でした。が、下の縁側から曲者が入つた形跡がないとすれば、縁の下と天井裏の外に通路はありません。

 縁の下は此場合問題でなく、天井裏と氣が付くと、平次はすぐその探險に取かゝつたまでのことです。

 はりの上から見定めて、部屋々々の押入の上のあたりを見ると、重しの石の動いて居るのや、ほこりのないのがよくわかります。

 此處ぞと思ふところの裏板を上げて、そつと押入に降りて見ると、

「野郎ツ、逃げる氣かツ」

 廊下では八五郎が、ドタリバタリと組討の眞つ最中です。

「八、その野郎だ、逃すな」

 續いて押入から飛出した平次、八五郎の組敷いたのを見ると、それが何んと、忠義酒屋の看板で奉公人の龜鑑きかんのやうに思はれて居た、喜三郎の絶望と屈辱くつじよくに歪む恐ろしい顏ではありませんか。

「私ぢやない、人、人違ひだ。私ぢやありません」

 物狂はしく最後の抵抗を續ける喜三郎を、兎も角も二人がかりで押へて、一と間につれ込みました。

「喜三郎、見つともないぞ、觀念して皆んな話せ。お咲を殺したのは誰だ、お前は、知つて居る筈だ、──言はなきやお前が下手人げしゆにんだ」

「──」

「いや、俺はお前が下手人だと言つて居るわけではない、──知つてることを皆んな話して見ろ」

 平次の調子には、妙に涙を含んだやうなしんみりしたところがあります。

「親分」

「どうだ、喜三郎、少しは氣が靜まつたか」

「親分、私は口惜くやしい」

 荒れ狂つてゐた喜三郎が、急に靜かになると、サメザメと泣き始めました。

「何が口惜しいんだ、言つて見ろ」

「親分、私は忠義者なんかぢやありません」

「それも解つて居る、お前は主人と相談づくで、忠義の芝居をして居たのだらう。加島屋の店の評判をよくするために」

「親分──」

 恐ろしい明察の前に、喜三郎は首を垂れました。

「百度詣りも寒垢離かんごりも、皆んな芝居に違ひあるまい、──お前は私の顏をまともに見ることも出來なかつた──」

「親分さん、私は氣が弱かつたのです、主人にさう言はれると、氣に染まないことでもいやとは申せませんでした。帶を解かずに六十日、主人の介抱したと言ふのも大嘘で、私と旦那は毎晩玉子酒たまござけこさへて樂しんで居りました」

「──」

うなればもう、皆んな申上げてしまひます。百兩の禮金を辭退したといふのも嘘、最初からそんな金なんか見たこともありません。お孃さんの婿を辭退したといふのも嘘、──何も彼も嘘で固めたことで、旦那もお孃さんもそんな事を承知する筈もありません」

 それは恐ろしい告白こくはくでした。お咲殺しの疑ひから免れようともがいた喜三郎は、自分の潔白を示すのに急で、胸の中にわだかまつて居た長い間の鬱屈うつくつを、一ペンに吐き出してしまつたのです。

「忠義酒屋の評判が高くなつて、店は繁昌するし、私は飛んだ人氣者になり、往來を歩いてさへ人樣に指を差されるやうになりましたが、私の身になると、んなイヤなことはありませんでした。『忠義酒屋の喜三郎』──何んといふ嫌な名でせう、私はさう言はれる度に嘔氣はきけがするほど胸が惡くなりました。その上お孃さんは、チンチンやお預けをするやうに、私をからかつちや獨りで面白がつて居ります」

「──」

口惜くやしいと思つても、私はどうすることも出來ません。そのうちフト天井裏傳ひに、お孃樣の部屋の押入へ行けることに氣が付き、毎晩あの押入まで忍んで行つては、せめてお孃樣の寢顏を見るのを樂しみにして居りました。恥かしいことですが、忠義者にされて猿芝居さるしばゐの猿のやうに暮してゐる私に取つては、それが人知れぬ氣儘な樂しみでございました」

 哀れた忠義者は、苛酷かこくな運命と強い意志とに引摺ひきずられ乍ら、こんな異常な樂しみに、僅か自分の生活を見出して居たのでせう。

「ところで昨夜はどんな事があつた」

 平次は漸く問題の重點に入りました。

「私がお孃樣の部屋の押入にゐる時、誰か廊下を歩く音がしました。安五郎どんが、お竹と外の廊下へ出た後です。私は旦那が見廻りに來たのかと思つて、びつくりして押入から天井に這ひ上がりましたが、暫らく經つてもひつそりして居るのでもう一度押入へ戻つて見ると──」

「暫くといふと、どれほど經つてからだ」

「四半刻(三十分)くらいだつたと思ひます──すると」

 喜三郎はゴクリと固唾かたづを呑み乍ら續けました。

「──部屋の中にはお孃さん一人で、誰も見えませんでした。少し床から拔出して、變な恰好だなとは思ひましたが、あの時まさかお孃さんが死んで居ようとは思ひません──それつ切り私は自分の部屋へ歸つてしまひました」

 喜三郎が此處まで話して來ると、

「八、解つたよ」

「誰です下手人は」

「もう一つ聽き度い、近頃此家へ養子が來ることになつて居る筈だらう」

 平次は妙な事を訊ねます。

「へエ、日本橋の佐渡屋の若旦那が、三千兩の持參金で乘込む筈でございます」

「その前は養子の口がなかつたのか」

「私が辭退したことになつて居るので、遠縁の國松どんが、養子になるだらうと言はれて居りました、本人もその氣だつたやうで」

 下手人の輪廓りんくわくが次第にはつきりして來ました。

「もう一つ──雪見船を出した日、お前の後か先かに店を出た者はなかつたのか」

「國松どんが私の後から店を出たやうです」

 喜三郎の話が終ると一緒に、

「親分」

 ガラツ八はもう立上がつて居りました。

        ×      ×      ×

 お咲殺しの下手人は、手代てだいの國松でした。これは八五郎の手で召捕られて、間もなく處刑されましたが、『忠義酒屋』の加島屋は、忠義が人氣取の芝居とわかつて、江戸つ子の反感はんかんを買ひ、惡評の中に見る〳〵沒落して行きました。

 數年の後忠義者の猿芝居を打つた喜三郎は、みにくいが人柄の良いお駒と夫婦になつて、僅かに加島屋の店をたもつて行つたといふことです。

 その當座、平次は八五郎の問ふがまゝに、んな調子に説明してくれました。

「喜三郎は氣が弱かつたが、惡人ぢやない。惡いのは主人の金兵衞と、國松だよ。雪見船に薪割まきわりを投つたのは、喜三郎のせゐにしようと思つたらしいが、少し早過ぎたので、却つて喜三郎の無實の證據になつたのさ」

「へエー成程ね」

「喜三郎が押入から天井裏へ出て、お咲の部屋へ行くのを、國松は感付いたのさ。安五郎とお竹が逢引あひびきしてゐる僅かの隙にお咲の部屋に忍び込んで、あんなむごたらしいことをし、それから喜三郎の寢卷を土埃つちほこりすゝで汚して置いたんだらう。ところが天井裏は思ひの外綺麗で、あんなに着物が汚れる筈はなかつたんだ」

「──」

「國松は利巧者で、つまらない細工の好きな方だつたが、それでも惡い奴は器用な細工をすればするほど尻尾を出すことになるんだね。──だが忠義の猿芝居は嫌だつたな。商人の人氣取も、あすこまで行けばアクが強過ぎて笑へない」

 平次はつく〴〵さう言ふのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年115日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1946(昭和21)年12月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年420日作成

2017年34日修正

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