錢形平次捕物控
野村胡堂




「こいつは驚くぜ、親分」

 ガラツ八の八五郎は、相變らず素頓狂すつとんきやうな聲を出し乍ら飛込んで來ました。急に春らしくなつて、櫻のつぼみがふくらみさうなある日のひる頃のことです。

「驚くよ、八五郎が馬を曳いて來たつて、暮れ以來お手許不如意ふによいで、兩とまとまつた金はあるめえよ、なアお靜」

 平次はお勝手で水仕事をしてゐる女房に聲を掛けました。

「馬なんか曳いちや來ませんよ」

 八五郎の甚だ平かでないのへ押つ冠せて、

「お前と一緒に來て、路地の外に立停つた駒下駄の音はありや何んだえ。近頃流行つてゐる下駄の、それも小股こまたの切上つた輕い音だが」

 平次はひどく呑込んだ顏をして居るのです。

「驚ろいたなア、あつしと一緒に歩く小股の切れ上つた女は、馬と極めて居るんですか」

「まアそんな事だらうよ。お前の情婦いろならドタドタするし、叔母さんと來ると、少しよろ〳〵して居る」

「そんな間拔なものぢやありませんよ。今朝麻布あざぶに不思議な殺しがあつたんですよ──六本木の大黒屋清兵衞の伜の清五郎が、軒の下に芋刺いもざしになつて死んでゐて、かゝうどの何んとかいふ娘に下手人の疑いが掛つたから、助けてくれ──とその妹といふのが飛込んで來たんです。そりや良い娘ですよ親分」

 八五郎は聲をひそめるのです。その癖路地の外まで筒拔つゝぬけ、十四五の可愛らしい娘が、それを聽かされて今更逃げもならず、袖を頬に當てたり、肩をゆすぶつたり、惱ましい所作しよさを續けて居たことは言ふ迄もありません。

「折角お前を頼つて來たのなら、お前が一人で出かけるが宜いぢやないか。俺なんかの出しや張る幕ぢやなささうだぜ」

「さう言はずに親分」

「近頃はお前の方が人氣がありさうぢやないか」

「からかつちやいけませんよ」

 そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に外へ出ました。

「親分さん──」

 何やら口の中で言つて、丁寧にお辭儀をしたのは、まだ肩揚かたあげのとれぬ十四五の小娘で、可愛らしさは申分ないにしても、身扮みなりの貧しさと共に、ひ弱さうで、痛々しいものさへ感じさせました。

「六本木から獨りで來たのかえ」

 平次もツイ、物の哀れを覺えました。こんな小娘が片跛かたちんばの下駄をいて、六本木から神田まで驅けて來るといふのは、容易のことではありません。

「中ノ橋の金太親分が見張つてゐて、姉さんは一と足も外へ出られませんし、此儘放つて置くと、本當に縛られさうなんです」

「で、どんな樣子なんだ。歩き乍ら聽かしてくれ」

 平次は少しでも豫備知識を、此小娘の口から引出さうとしましたが、それは何んと言つても無理なことでした。小娘は充分かしこさうではあるにしても、人間と人間との混み入つた關係は、わからないことも多く、わかつてゐるにしても、表現する言葉を持たなかつたのです。

 だが、そのたど〳〵しい言葉のうちから、これだけのことがわかりました。麻布六本木の大黒屋清兵衞といふのは、香具師やしから身を起して一と身上しんしやうこさへた男で、今では地主でもあり、高利貸でもあり、そして押しも押されもせぬ土地の顏役でもありました。

 其處に引取られて、掛り人になつて居るのは、お北お吉の二人姉妹で、これは清兵衞のためには恩も義理もある香具師やし仲間の大親分星野屋駒次郎の忘れ形見で、二人は當然お客樣扱ひで暮すべき筈ですが、姉のお北が美し過ぎるため、女房お杉の嫉妬しつとかうじて、兎角家の中のもめ事の種になり、何時の間にやら待遇たいぐうの格を下げられて、今では奉公人とあまり變らぬ──どうかしたらもつとひどい生活をさせられてゐる樣子でした。

 大黒屋の伜の清五郎は、少し智惠が足りない上に醜男ぶをとこで、お北をうるさく追ひ廻して居りましたが、今朝見るとお北お吉の寢てゐる二階の窓の下、丁度ひさしから羽目へかけての修復で、足場を組んだ眞下に、長いので胴から首へ、芋刺いもざしに貫かれて死んでゐたといふのでした。

 大黒屋の家族といふのは、主人清兵衞、女房お杉、伜清五郎の外にお北お吉の姉妹、それにをひの與之松と下男の辰三の七人きり、與之松と辰三は、かつて清兵衞がいかさまの見世物などを興行してゐた頃、その口上言ひと木戸番だつた男で、與之松は二十七、辰三は三十三、どちらもこの仲間の特有の賢さと、人を喰つたところのある人間で、その上喧嘩出來事にも馴れた、鬪爭的な體力の持主だといふことでした。



 六本木の大黒屋は、がけの上に建つた二階屋で、大通りからは少し入りますが、贅澤と惡趣味を念入りに發揮はつきした、恐るべきこけおどかしの構へでした。

 八五郎を先に走らせて、一應中ノ橋の金太に渡りをつけさせると、

「何? 錢形の親分が來てくれた? それは有難い。お蔭で明るいうちに下手人げしゆにんが擧がるだらう」

 そんな調子の良いことを言ひ乍らも、腹の中では相當に反感を募らせて居る樣子です。四十前後の働き盛りで、何んとなくたくましい鬪爭心を感じさせる男でした。

「錢形の親分さん、とんだ御苦勞樣でございます。何んとかして一日一刻も早く伜をあんなむごたらしい目に逢はせた、惡者を擧げて下さいますやうに。私はもう、喉笛のどぶえへ噛み付いてやりたいやうな心持になつて居ります」

 岡つ引に對して、丁寧過ぎる物の言ひやうや、卑下ひげし過ぎる物腰など、主人の清兵衞は露骨ろこつにその前身を匂はせて居りますが、人間はさすがにふて〴〵しく、伜を殺した相手が知れたら、本當に何をやり出すか判つたものではありません。

 年の頃は五十前後、充分に脂切あぶらぎつて、ギラギラする袷や、銀鎖ぎんぐさりの逞ましい煙草入や、身の廻りの物一つ〳〵にも、馬鹿々々しい見得があふれて居ります。

 その後ろから默つてお辭儀をしてゐるのは四十四五のトゲトゲした女で、青黒い顏、白み勝ちの三白眼、薄い唇など、更年期かうねんきのヒステリツクな女の模範的な型らしく見えました。

 平次はそれに一と通りの挨拶をして、早速殺された伜清五郎の死體を見せて貰ひました。本人の部屋といふ奧の六疊に、まだ入棺にも及ばず寢かしてありますが、上覆うはおほひを取つて一と眼。

「フーム」

 平次がうなつたのも無理はありません。二十三四の背の低い、青脹あをぶくれの醜い男が、まさに田樂刺でんがくざしになつて死んで居るのです。

「檢屍の時、刀は拔いたが、こいつが脇腹から肩へ突き貫けてゐる圖は凄かつたよ」

 中ノ橋の金太は、死體の側に白布で卷いて置いてある、寸の延びた一刀を取上げて言ふのでした。

 それはやくざ者などが好んで持つて歩く新刀物のそりのない長脇差で、柄糸つかいとなどは朱を塗つたやうに血に浸り、紫色に曇つた刀身などまことに物凄い限りです。

さやは?」

「廊下に捨ててあつたさうだ──家の者がやりましたと言はぬばかりに」

 金太は部屋中の者の顏を見渡して苦笑ひをして居ります。

「その刀は、私の物でございます。若い時分に持つて歩いた品ですが、今では入用もないので、納戸の箪笥たんすはふり込んで居りました。まさか、それで伜を──」

 かつて幾人かの人の血を流したかも知れない喧嘩刀で、自分の伜の命を斷つた不思議な廻り合せに清兵衞は何んとなく身顫みぶるひを感じて居たのでした。

 死骸になつて居る清五郎は、全くみにくい男でした。親の清兵衞の評判の惡さもあつて、嫁に來てのなかつたのも無理のないことです。

「死骸のあつた場所を見せて貰はうか」

 平次は言葉少なに立ち上ります。

「此方だ」

 心得顏に金太は、庭下駄を突つかけて先に立ちます。

 お勝手の前を通つて、家の外廻りをざつと半分廻つたところに、突き出したやうに二階があつてその外側に、足場を組んで、材木や小道具が散亂して居りますが、ひどく血が飛沫しぶいて、斑々はん〳〵たる凄まじさです。

「死骸は此足場の下にあつたのだよ──脇腹から肩まで脇差を突き通したまゝ」

 金太は足場の下、血潮の飛散つた中を指さしました。

「足場の上に居るのを、斜下なゝめしたから恐ろしい力で突き上げたのでせうね。さうでもなきやあの傷は受取れない」

 八五郎は一かど考へたことを言ひます。

「それにしても大變な力ぢやないか。それに下から突き上げちや、下手人は頭から血飛沫を浴びたことになるが──」

 平次はさう言ひ乍ら、思ひの外たくみに足場を登つて、二階の窓の下のあたりに顏を持つて行きました。崖の上に建てた家で、此處から下をのぞむと一寸氣味が惡くなります。

「二階の部屋の中には、誰か居るのかえ」

 平次が聲を掛けると、閉め切つてあつた二階の雨戸を、ガタピシさせ乍らも一枚開いて若い女が一人顏を出しました。二十歳前後でせうか、少し病身らしくあるが、妖艶な感じのする、眼のさめるやうな女です。

「──」

 女は少し極り惡さうに、默つてお辭儀をしました。

「お前は?」

「北──と申します」

 平次と三尺とはへだつてゐなかつたでせう。戸を開けた彈みに、顏と顏がハタと逢つたのが、ひどくお北を面喰はせた樣子です。

「何をしてゐるのだ」

「あの、此處から出てはならぬと──あの方が」

 お北の明るい眼がそつと足場の下の金太の顏を見やるのでした。

「昨夜何にか變つた音を聽かなかつたか」

「寢ようと思つた時、何にかドタリと物の落ちたやうな音を聽いたやうでもあります」

「時刻は?」

亥刻よつ(十時)少し過ぎだつたでせうか──あれは何んだらう──と妹も不思議がつて居りました」

「清五郎の嫁は決つて居るのか」

「そんな話を聽きません」

「お前にうるさく言ひ寄つたことだらうな」

「──」

 平次の問ひは唐突たうとつでしたが、恐ろしく效果的でした。お北はハツとした樣子で顏を染めて俯向うつむきます。

「外に、お前にうるさく言ひ寄つた者がある筈だが──」

「──」

 お北はさすがに口をつぐんでしまひました。平次の問ひはいかにも露骨で猛烈です。

「ところで、もう一度雨戸を閉めてくれ。少し見たいことがある」

「ハイ」

 お北はほつとした樣子で、三尺の雨戸を閉め切りました。表がかりの贅澤な普請ふしんに似氣なく、此處はまたひどい荒れやうで、雨戸の板は陽に反つたまゝ場所によつては五分以上も口を開いて居るので、若しこれが夜で、中に灯がいて居るとしたら、隨分隙見くらゐは出來さうです。

 平次は尚ほも念入りに調べましたが、中でも足場に並べた踏板ふみいたと、それを結へた繩の結び目を、幾度も見直して居ります。

 そして繩にからんで居る長い毛のやうなものを見付けると、丁寧に拔き出して、そつと懷ろ紙の中に入れました。

「もう一度聽くが」

「ハイ」

 お北はもう一度雨戸を開けて首を出しました。

「此處へ何時頃から職人が入つて居るんだ」

「五六日前からでございます。屋根から羽目へかけてひどく痛んでゐるので」

「昨日も職人が來て居たのかえ」

「薄暗くなるまで働いて居りました」

「お前達が此二階へ引取つたのは?」

「お吉は御飯が濟んで直ぐで、私は跡片付けをしてから──酉刻半むつはん(七時)頃だつたと思ひます」

「それから誰も二階へは來なかつたのだな」

「──」

 お北はうなづきました。

「今朝死骸を見付けたのは誰だ!」

「たゞ辰三さんが下で大きな聲を出したので、びつくりしました。卯刻むつ(六時)時分だつたと思ひます」

 お北の口から引出したのは、これで全部でした。



「親分、雨戸はひどい隙間ですね。清五郎はあの足場に登つて、お北の寢姿でも覗いて見たんぢやありませんか」

 平次の降りて來るのを迎へて、八五郎はすつかり嬉しさうです。

「そんな事かも知れないよ」

「それをあの娘が腹を立てて、上から刺したとしたらどうでせう」

長脇差ながわきざしを用意して置いてか?」

「え」

「いきなり雨戸を開けたら、いかな面の皮の厚い清五郎でも逃出すだらう。それに刺した傷跡は、脇腹から肩へ拔けて居るぜ」

「へツ」

「清五郎が逆立さかだちしたところを、あの娘が長脇差で脇腹から肩まで刺したといふのか。そいつは曲藝だぜ、八」

「成程ね」

「お前も一度足場の上に登つて隙間から覗いて見るが宜い、いろ〳〵面白いことがあるぜ」

「へエ、金太親分、行つて見ませうか」

 八五郎と金太は足場の上にぢ登りました。暫らくの間は雨戸の隙間から、變な恰好で覗いて居りましたが、結局何んにも得るところがなかつたらしく、つまゝれたやうな顏をして降りて來る外はなかつたのです。

「あの隙間は宜い鹽梅あんばいに出來てゐますよ。中の障子が丁度破れてゐるんだ」

「あの障子は雨戸の隙間と合せるやうにわざ〳〵破つたものだらう──娘達はそんな事をする筈はないから、覗いた奴が晝のうちにあの部屋へ入つて、間違つたやうな振りをして破つたのだらう」

「そいつは氣障きざだね」

「ところで、外に何んか氣がつかなかつたのか」

「──」

「足場の踏板だよ、その板を留めた繩の結び目に氣が付かなかつたのか」

「?」

「職人はそんな結びやうをする筈はない──一枚だけ結び直してあるんだが、そいつが女結びになつて居るのだよ」

「すると?」

「足場の踏板を一枚、すぐ外れるやうに仕掛けてあつたのだよ。清五郎が其處そこから毎晩覗くのを知つて居た奴が、踏板ふみいたの繩を解いて、その上に乘つて、身體を動かすと直ぐ外れるやうに仕掛けてあつたのだ」

「──」

「そして、足場の下へ──丁度隙間を覗いて居る清五郎が踏板を滑つて落ちた時、その身體へ眞つ直ぐに突き立つやうに、下の横木に拔刀ばつたうの長脇差を切尖を上へ向けて縛つて置いたのだ」

 平次の想像はあまりに飛躍的で、そして不氣味なものでした。斯う聽いただけでも氣の弱い者は横腹がムズムズする心持です。

「さうでもなきや、人間の身體へ、脇腹から肩へ突き拔けるほど、脇差を突立てられる筈はない。それにもう一つ──」

「?」

 平次は足場に近づいて、其處に散らばつてゐる繩切れを拾ひ上げました。

「此横木にこの繩で棒でも何んでも構はない、上へ向けて縛つてくれ。そして八は上から何にか落して見るが宜い、手頃な物がなきやお前が踏板から轉げ落ちて見せても構はない」

「御免かうむらうよ、親分。脇差でなくたつて、横つ腹をその棒で小突かれちや、生命が危ない」

「遠慮するなよ──もつともこの羽織で間に合はないこともあるまい、中へ何にか重い物を入れるんだ、石ぢや可哀想だ、質の値が下がるぜ、木片か何んか──」

 この實驗は思ひの外上首尾に行きました。八五郎が平次の羽織に木片を入れて足場の踏板から落したのが、豫想以上に適確てきかくに下に立てた棒の上へバサリと落ちて來たのでした。

「成程こいつは驚いたね。すると下手人は──いやこの仕掛をこさへた奴は、清五郎が死んだ後でソツと出て來て、横木に結へた脇差の繩を解いたのだね」

 中ノ橋の金太も、平次の叡智えいちの前に、心から屈服する外はなかつたのです。

「ところがそれには及ばなかつたらしいよ。脇差を足場の横木に縛つた繩は、上から落ちて來た人間の重みで、苦もなく切れてしまつたのだ。曲者は大して手も汚ごさずに、跡始末あとしまつをしたことだらう──外れた踏板を直して置きさへすれば宜かつたのだ」

「その曲者は誰です、親分」

 八五郎はいきり立ちます。



 これだけのことはわかりましたが、こんな手の混んだ細工をした者は、平次にもわかりません。念のため、平次はお北お吉の部屋にも入つて見ました。此處には至つて粗末な調度と、姉妹の貧しい夜の物の外には何んにもなく、わけても美しいお北が見る影もない古袷ふるあはせに包まれて、人の足音におびえるやうに、部屋の隅に小さくなつて居るのは、平次の眼にも物哀れに映ります。

「お前は?」

「へエ、辰三と申します」

 お北の部屋の下、階段の蔭に隱れて居た男は、平次の早い眼に見とがめられました。三十二三にもなるでせうか、むなしく年をくさらせた、典型的な下男です。

「何をして居たんだ」

「何んにもして居たわけぢやございませんが、お北さんお吉さんの姉妹が可哀想でなりませんよ」

「それはどういふわけだ」

 辰三は妙なことを言ふのです。

「主人の惡口を言つちや濟みませんが、あれぢや恩人の娘だか、奉公人だか、それとも女居候だかわかつたものぢやございません」

「──」

「散々こき使はれた上、三度の食事もあてがひ扶持ぶちで、可哀さうにあの御姉妹は、腹一杯には水も呑めません。尤も、あの馬鹿息子の言ふ通りに、嫁になる氣になつたら別でせうが」

「お前は何を言ふのだ──清五郎はお北を嫁に欲しいとでも言つて居たのか」

「嫁に欲しいと言つたつて、あれぢや人身御供ひとみごくう同樣で、まだしも岩見重太郎に退治される猅々ひゝの方がしでさ」

「それで何うした」

「胴腹を芋刺いもざしにされたのは天罰てんばつですよ、尤も──」

 辰三はプツリと言葉を切つたのです。振り返ると其處へ、二十七八の多血質らしい男が、警戒的な素振りで近づいて來るのでした。

「あれは?」

「お女將かみさんの甥の與之松さんで──あれもお北を追つかけ廻して居る口ですよ。尤も若旦那よりは少し筋が通つて居るが──」

 辰三の言葉の終らぬうちに、與之松は近づいて平次と八五郎に挨拶しました。色白の世馴れた男で、調子も何んとなくハキハキして居ります。

「お前は何時から此處に居るんだ」

 平次は當らずさはらずのことを訊ねました。

「三年前からでございます──尤も叔父が商賣をして居る頃は、小屋で働いて居りましたが」

 この男がろくろ首か鳥娘の興行の口上言ひをして居たことは平次も聽いて居りました。

「まだ獨り身だらうな」

「へエ」

「お北が清五郎殺しの下手人で縛られるかも知れないが、お前には助ける工夫はないのか」

 平次の言葉は途方もないものでしたが、それにもかゝはらず與之松をひどく驚かせた樣子です。

「そんな馬鹿なことがあるものですか。あの人が、人なんか殺せるか殺せないか、一寸見ただけでもわかることぢやありませんか」

 與之松はすつかり激昂げきかうして、平次へ喰つてかゝりさうな氣勢を見せるのでした。

「證據が揃つて見ると、それも仕樣があるまいよ。本當の下手人が名乘つて出なきや」

「私が──私が下手人だと言つたらどうします、親分さん。清五郎の奴が、身の程も知らずにあんまりうるさくお北を追ひ廻すから、見て居られなくなつて突き殺したとしたら──」

 與之松はすつかり自分を投出してしまひました。

「どうして殺したのだ。脇差は胸から肩へ逆樣に突き拔けて居るぜ」

「腹立ちまぎれに突き上げたんです」

「宜いよ、もう澤山だ。清五郎を殺したのはお前のやうな一本調子の人間ではない」

 平次は大きく手を振つて、この純情家を追つ拂つてしまひました。それから、もう一度主人の清兵衞と、内儀のお杉に逢つて見ましたが、何んの得るところもありません。さすがの平次も日が暮れるのを合圖に一應神田へ引揚げる外はなかつたのです。



 だが、此事件は此儘で濟んだわけではありません。平次と八五郎は神田から六本木まで三度も通ひ、中ノ橋の金太は毎日のやうに大黒屋へやつて來て、この清五郎殺しの巧妙かうめうな仕掛を考へた曲者をぎ廻しましたが、五日經ち十日經ち、江戸の櫻が大分咲き揃つても、此曲者ばかりは尻尾をつかませる樣子はなかつたのです。

 ある朝のことでした。

「親分さん、お願ひ──」

 格子戸を開けて轉げ込んだのは、大黒屋のかゝうど、お北の妹のお吉だつたのです。

「お吉ぢやないか、何うしたんだ」

 平次はお靜に手傳はせて家の中に抱き上げ、水などを呑ませたり、背中をさすつてやつたり、息も絶え〴〵に疲れ切つて居る小娘を、どうやら物が言へるまでに元氣づけると、

「親分さん、大變なことになりました」

「どうしたのだ」

昨夜ゆうべ主人が殺されました」

「え」

「そして今朝薄暗いうちに、中ノ橋の親分が姉さんを縛つて行つたんです」

 姉の繩目を見て仰天したお吉は、明けたばかりの街を精一杯に驅けて、六本木から神田まで急を訴へに來たのでせう。

「主人はどんな殺されやうをしたのだ」

「自分の部屋で、障子越しに脇腹を刺されて──」

 十五の娘はこれだけ言つて唇をふるはせます。

「お内儀かみさんは居なかつたのか」

「清五郎が死ぬと、お内儀さんはひどい夫婦喧嘩をして、三日前に出てしまひました。あの清五郎さんといふ人は、本當はお内儀さんの連れ子だつたさうです」

「さうか、道理で變なことがあると思つたよ。ところで、主人はその後變つた樣子がなかつたのか」

「姉さんが困つて居りました」

 お吉はモジモジし乍らやうやくこれだけの事を言ふのです。

後添のちぞひになれとでも言ふのだらう」

「え、年が三十も違ふのに──お内儀さんもそれで腹を立てて家を出たのです。昨夜も姉さんを自分の部屋に呼びつけて、變なことばかり言つて居たさうですが、姉さんが逃げて二階の部屋へ歸つた後で、柱にもたれて一人でお酒を呑んでゐるところを、背後から障子越しに──」

 お吉は餘りの物凄ものすさまじい光景を思ひ出したものか、固唾かたづを呑んで絶句してしまひました。

「兎も角も行つて見るとしよう」

 平次はお吉と一緒に、昌平橋しやうへいばしまで來ると、丁度向柳原の叔母さんの家からやつて來た八五郎に逢ひました。三人が六本木に着いたのは、巳刻よつ(十時)少し過ぎ、檢屍は濟んでお北を擧げた金太は引返して來て、何やら家の内外を嗅ぎ廻して居る最中でした。

「中ノ橋の親分、又殺しがあつたさうだね」

「お、錢形の親分。今度は宜い鹽梅に下手人を擧げたよ──あのお北の阿魔あまさ。もつとも主人の清兵衞も惡かつたよ、お内儀が居るうちから、義理の伜と張り合つて、お北を附け廻して居たが、お内儀を追出すと、天下晴れて強引がういん口説くどいたんだ、三十も歳の違つてゐる者を。お北がカツとなつたのも無理がないがね」

 金太は自分の素早い手柄に陶醉たうすゐして、少しばかり良い心持さうです。

「兎も角、現場を見せてくれ」

 平次はそれにはあまり取合はず、早速主人清兵衞の部屋といふのを見せて貰ひました。馬鹿馬鹿しく贅澤な、そして趣味しゆみの惡い裝飾のゴテゴテとした八疊で、書院風になつた床側の柱の側、もたれて酒を呑んで居たといふ障子に、一面の血飛沫ちしぶきがして、脇差を通した跡といふのが、不氣味な大穴になつて居ります。

「此通りだ、一人で自棄酒やけざけか何んか飮んでゐるところを、そつと廊下に忍び込んで、障子越しに一と思ひに突つ込んだのだ。死骸を見るとわかるが、傷は左肩胛骨ひだりかひがらぼねの下で、胸へ突き拔ける程の手際だ」

「女にしては手際が良過ぎはしないか」

「だがな錢形の、お北の着物に血が着いて居るのだよ」

「どんな具合に?」

「胸から前褄まへづまへ、かなりの血だ」

「死骸を見せて貰はうか」

 平次はあまり金太の言葉には取合はずに、廊下へ出て見ました。

「死骸は此方だよ」

「待つてくれ、中ノ橋の親分。廊下には少しも血が附いちやゐないぜ、障子の血飛沫ちしぶきはひどいが──多分脇差わきざしを障子越しに突立てられると、主人は傷を負ひ乍ら飛退いたのだらう。これぢや廊下に居る人間に血が附く筈はないぜ」

「ところが、現にお北の着物には血が着いてゐるんだから──それとも、刀を突つ立ててから障子を開けて部屋の中へ入つたのかな」

 金太の論理はどうやらしどろもどろになりかけました。



 主人清兵衞の死骸を見て、その後ろからの突き傷の凄まじさに舌を卷いた平次は、店へ戻つて來ると、いきなりをひの與之松を呼び留めました。

「與之松」

「へエ」

「お前は卑怯ひけふだぞ──何んにも知らないお北に生命まで達引たてひかせる氣か──あの綺麗な首をさらし臺に載せて眺めるつもりか」

 平次の舌は日頃にもなく辛辣しんらつです。

「親分──私が惡うございました。伯父を殺したのは、此私でございます。お北さんが縛られるのを此眼で見乍ら、ツイ自訴じそし兼ねてしまひました。私は卑怯者に相違ございません」

 與之松はヘタヘタと崩折れると、平次と金太のすそを掴んで皺枯しわがれ聲を振りしぼるのです。

「この野郎、今頃そんな事を言やがつて──何んだつて清五郎を殺した時白状しなかつたんだ」

 中ノ橋の金太はいきり立ちます。

「あれも、この與之松でございます。でも、昨夜、伯父が強引にお北さんを口説いて手籠にし兼ねない樣子を見ると我慢が出來なかつたんです。私は障子越しに伯父を突きました──その時狂ひ立つた手負ておひの伯父につかみかゝられて、前に居たお北さんは血を浴びたのです。私はお北さんが逃げるのを見て、そのまゝ自分の部屋に歸り、まんじりともせずに一と晩明かしてしまひました。私は伯父殺しに違ひありませんが、あの伯父といふ人はお北さん姉妹にどんな仕打をしたか、これだけの身上しんしやうを拵へるのに、何百人の人を泣かせたか──」

 わめき立て乍らも、與之松は金太の繩で引つ立てられて行くのでした。

        ×      ×      ×

 一件落着して大分經つてからのこと。

「親分あつしにはに落ちないことがあるんだが──大黒屋の主人を殺した與之松が、身體から言つても智惠から言つても、若旦那の清五郎を殺さうと思へば、造作もなく始末が出來たのに、何んだつてあんな千番に一番の兼合見たいな仕掛をこさへたんでせう。清五郎の身體が三寸外れると、折角の仕掛も引つ掻きくらゐしか付けられません」

 八五郎はなか〳〵うまい事に氣が付きました。

「その通りだよ、八。眞當ほんたうのことを言ふと、主人の清兵衞を殺したのは與之松だが、伜の清五郎を殺したのは、與之松ぢやなかつたんだ」

「へエ──」

 平次の言葉はあまりにも豫想外です。

「お北お吉の居る部屋の窓の外へ這ひ上つてあんな仕掛けが出來る筈はないし、清五郎が落ちて死んだ後で、踏板ふみいたを直して置くことなどは出來ないよ」

「すると?」

「繩は女結びになつて居た。それに繩には長い細い毛が一本結び目にからまつて居たよ、あの仕掛けは、二階の窓からそつと降りて、女の手でこさへたものだ」

「すると?」

 八五郎は膝を乘出しました。

「妹のお吉の細工だよ。あの娘は氣性者だし智惠もたくましい。姉のお北が清五郎に附きまとはれて惱み拔いて居る上、夜になると、窓から自分と姉の寢姿まで覗かれて居ると氣が付いて、若い娘らしくカツとしたのだ。そして姉がまだお勝手に居るうちに窓から脱出して細工をし、清五郎が落ちた後で樣子を見に行くやうな顏をして窓から出て踏板を直したのだ──足場に脇差を縛つた繩は、清五郎の身體の重みで切れたのだらう」

「驚いたね、どうも」

「與之松はお北と言ひ交して居たかどうかわからないが、生命がけで惚れて居たらしいよ。清兵衞が手籠てごめにしさうになつたのを見ると、我慢が出來なくて突き刺したのだらう。一度は命が惜しくなつて、お北が縛られて行くのまで默つて見て居たが、俺に卑怯ひけふ呼ばはりをされて名乘つて出る氣になつたのだ──どうせない命ならと、その時清五郎殺しの罪まで背負しよつて出たのだ」

「成程ね」

「お北お吉の姉妹は身寄の者に引取られ、大黒屋の身上はお上に沒收ぼつしう、これで何も彼もお仕舞さ。だが、お吉もあまり寢覺ねざめよくあるまいが、此上ほじくり出すのは俺の流儀ぢやないよ」

 平次はさう言つて、二三日はもとの閑寂かんじやくな生活に還るのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年115日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1948(昭和23)年3月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年622日作成

2017年34日修正

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