錢形平次捕物控
お銀お玉
野村胡堂




「親分、變な事があるんだが──」

 ガラツ八の八五郎が、鼻をヒクヒクさせ乍ら來たのは、後の月が過ぎて、江戸も冬仕度に忙しいある朝のことでした。

「手紙が來たんだらう、恐ろしい金釘流かなくぎりうで、──兩國の蟹澤かにざはのお銀が死んだのは唯事ぢやねえ。とむらひの濟まぬうち、檢屍を頼む──とう書いてある筈だ」

 錢形の平次は粉煙草をせゝり乍ら、少し節をつけて言ふのでした。

「親分は、どうしてそれを?」

 ガラツ八は眼を圓くし乍ら内懷を探つて居ります。

「千里眼だよ。八五郎の懷中などはこと〴〵く見通しさ。その手紙の入つて居る大一番の野暮な紙入の中に、質札しちふだが二枚と、一昨日兩國の獸肉屋もゝんじいやで掻拂つた妻揚枝つまようじが五六本、それから寛永通寶くわんえいつうはうが五六枚入つてゐる筈だ。大膽不敵だね、それで江戸の町を押し廻すんだから」

「ど、どうしてそんな事が分るんです、親分」

 ガラツ八の眼の色が少し變ります。

「八五郎さん、だまされちやいけませんよ。此處へもそんな手紙が來たんですよ」

 お靜はたまり兼ねてお勝手から助け舟を出しました。

「なんだ、つまらねえ。それならそれと、冒頭はなつから言へば宜いのに」

「種を明かしちや、どんな手品だつてつまらなくなるよ。──ところで、蟹澤一座のお銀といふのをお前は知つて居るのか」

 錢形平次はやうやく眞面目な話にかへりました。

「江戸中で知らないのは錢形の親分ばかりだ。兩國一番の人氣者で、いやその綺麗なことと言つたら」

「馬鹿だなア、よだれを拭きなよ。兩國の輕業かるわざ小屋の女太夫に夢中になつて、立派な御用聞が毎日通つちや見つともないぜ」

「毎日は通ひませんよ、精々三日に二度」

「呆れた野郎だ。それほど執心しふしんなら飛んで行くが宜い。お前が顏を見せなきやお銀も浮ばれまい」

「だから親分も行つて下さいよ。兩國は石原の利助親分の繩張りだが、利助親分は相變らず床に就いたつ切りで、可哀さうにお品さんが獨りで氣を揉んでゐる」

「お品さんのせゐにして、俺をおびき出す氣だらう。まア宜いや、行つて見よう」

「有難てえ」

 ガラツ八はいそ〳〵と先に立つて案内するのでした。

 蟹澤一座といふのは、その頃軒を並べた兩國廣小路の見世物小屋の一つで、座主の百太夫ひやくだいふといふのは、大した藝ではありませんが、お銀、お玉の二人の娘太夫が評判で、その上品な美しさが、評判になつて居りました。

 姉のお銀は十九か二十歳、歌がたくみで、踊りの地もあり、身輕な藝は不得手ですが、水藝や小手先の手品、さう言つたもので客を呼び、妹のお玉の方は十六七、これは輕捷けいせふな身體が身上しんしやうで、綱渡りから竹乘り、撞木しゆもく飛び、人のハラハラするやうな危ない藝當が得意でした。

 お銀の優しく愛くるしいのにくらべて、お玉は色の淺黒い品の良い顏立ちで、姉妹といふ觸れ込みですが、どこかひどく違つたところがあります。座主の百太夫は大袈裟おほげさな道化た調子で人を笑はせますが、大した藝のある男ではありません。四十がらみの、少し肥つて來た身體が、藝の邪魔をしてゐるのでせう。百太夫の女房お徳は、三十五六の達者な女で、これは三味線も掻き鳴らし太鼓も叩きのめし、下座の鳴物ひと通りは何でも間に合はせる調法者、青黒いひたひ疳癪筋かんしやくすぢがピリピリと動いてゐる種類の大年増です。

 錢形平次と八五郎が行つたのは、もう晝近い頃、蟹澤の小屋は木戸を閉めて、裏には石原の利助の子分達が二三人、嚴重に見張つて居ります。

「錢形の親分、丁度宜い鹽梅でした。兎も角も死骸を持出すのを止めて置きましたよ。百太夫の家は緑町なんださうで、小屋からとむらひは出し度くないつて言ひますが──」

「石原の兄哥のところへも、變な手紙が行つたんだね」

「それでやつて來ましたが、檢屍をお願ひしてありますから、追付け旦那方が見えるでせう」

「そいつは宜い工合だ。ちよいと檢屍前に見せて貰はうか」

 平次は裏から小屋へ入つて行きます。



「錢形の親分さん、入らつしやいまし」

 薄暗がりから、大鹽辛聲おほしほからごゑを掛けたのは、木戸番の傳六といふ三十男でした。

 澁紙しぶがみ色にけてさへゐなければ、顏立も尋常ですが、手足と顏の外は、寸地も白い皮膚のない大刺青ほりものの持主と後でわかりました。

 平次一行の姿を見ると、おびえたやうにコソコソと物蔭に隱れたのは、横幅の方が廣い怪奇な人間。これは萬之助と言つて、口上こうじやう言ひの一寸法師です。もう三十五六にもなるでせうが、一寸見は十七八とも見える幼顏をさながほで、舞臺へ白粉をつけて出るのが、何よりの樂しみと言つた、不思議な好みに引摺ひきずられて、ほんの食扶持くひぶちだけで此の小屋にやとはれて居ります。

「御苦勞樣で御座います、錢形の親分さん」

 たつた一つしかない樂屋の大部屋に、不味まづさうに煙草を喫んで居た座主の百太夫は、平次の姿を見ると、引つ掛けてゐた丹前たんぜんを滑らせて、それでも丁寧に挨拶するのでした。小肥りのしたゝかさうな面魂ですが、舞臺から客を笑はせ馴れてゐるので、何處か小悧巧こりかうらしい愛嬌のある男でした。

「お銀が死んださうぢやないか」

「そのことで、落膽がつかりして居ります。この小屋に取つては大事な米櫃こめびつで、へえ」

「死に樣が變だといふ話だが──」

自害じがいで御座いますよ、親分さん。なんだつて死に度くなつたか、あつしには見當もつきませんが、死にやうに事をいて、自分で舌を噛み切つたんで、へえ。早速お屆けをするとよかつたんですが、小屋にケチがつくと、暫くは居喰ひをしなきやなりません、ツイその──」

 百太夫の辯解は大分苦しさうでした。

 お銀の死骸はその隣の小さい部屋に寢かし、百太夫の女房のお徳と、お銀の妹のお玉が側に附いて居ります。

 平次は丁寧に線香をあげて、さて死骸の顏をおほぬのを取りました。

「──」

 ハツと平次も息を呑んだほどのそれは凄じさです。肉付の豊かな通つた鼻筋も、反り加減の唇の弧線こせんも、夢見るやうなかすんだ眉も、美しいには相違ありませんが、らふのやうな青白い顏は、恐怖と苦痛にゆがんで、二た眼とは見られない痛々しい表情です。それに舌を噛み切つたといふにしては、口中に大したれもなく、唇を開けさせると、少しばかりの血溜りはありますが、舌の傷はさしたるものとも思へません。

「髮がれてゐるやうだが?」

 平次は鬘下かつらしたに結つた、死骸の頭のあたりをでて居ります。

「少しよごれて居りますので、これに洗はせました」

 百太夫は死骸の足の方に、泣き疲れて俯向うつむいたお玉の方を指しました。これはお銀の妹にしては、色も淺黒く、柄も大きい娘ですが、顏立ちは非常に立派で、名ある歌舞伎かぶき役者にも比べられるでせう。もつとも力業にも似た輕業をするだけに、骨組肉付は、若い娘にしては思ひ切つた見事さです。

「お前はお玉といふのだな」

「え」

「お銀とは本當の姉妹か」

「え」

「生れは何處だ、──親はどうしてゐる」

「生れは相州の厚木在あつぎざいで、兩親とも早くくなりました」

 少し太いが、張りのある良い聲です。

「お銀は何時何處で死んでゐたんだ。よく訊き度いが」

昨夜ゆうべ此處がはねてから、此の部屋の中で死んでゐましたよ。皆んな緑町の家へ歸つた後で、お玉が見付けて大騷動になつたんです」

 まくし立てるやうに、横からお徳は説明しました。疳癪筋かんしやくすぢが青黒い大年増は、恐ろしい達辯の持主で、しやべり始めるととめどがありません。

「舌を噛んだにしては、血が少ないやうだが」

 平次は何よりそれが怪しいと睨んだのでせう。床の上にも、疊の上にも、おびたゞしかるべき血のあとなどは一つも殘つては居なかつたのです。

「皆んないてしまひました。この娘はよく屆く娘で──」

 お徳はまたお玉を指しました。

「その時小屋に殘つて居たのは誰と誰だ」

「皆んな居た筈ですが、不思議なことに一人も居なかつたさうです。お玉は隣りの小屋の人を頼んで、緑町の家へ知らせてくれました。緑町へ歸つたばかりの私と主人が驅け着けると、其の邊で一杯引つかけてゐた傳六も、フラフラ歩いて居た萬之助も歸つて、間もなく皆んな顏が揃ひました。その時はもう戌刻半いつゝはん過ぎだつたでせう」

 お徳はまた奔流ほんりうのやうにまくし立てます。

「お前と百太夫とは、緑町の家へ一緒に歸つたのだな」

「いえ、私が先でした。小半刻ほどして主人が歸ると、間もなく小屋からの使です」

「傳六は何處で呑んでゐたんだ」

「横町の叶屋かなふやです。お訊きになればわかります。へえ」

 傳六の鹽辛聲は、後ろの方から響くのでした。ガラツ八は早くもそれを確めに行つた樣子。

「萬之助は?」

「外をフラフラ歩いてゐたさうです。あの人は陽のあるうちは決して戸外そとへ出やしません。人立ちがして叶はないつて言ひますよ。だから、ふくろふみたいに夜遲くなつてから、フラフラと外へ出る癖があります。──あの身體ですものねえ」

 一寸法師の萬之助が、日の光を嫌ふのももつともですが、さう言ふお徳の調子にはひどく小意地の惡い響がありました。

 後はこと〴〵く狩り集めた臨時の男女で、此の事件にさしたる關係があるとも覺えません。

「お玉はズーツと小屋に殘つて居たのか」

「いえ、お玉は日が暮れると身體が明きます。ひと風呂樂屋がくや風呂を浴びて、酉刻むつ少し過ぎに緑町へ歸つたが、姉の歸りが遲いので、私と入れ違ひに戌刻いつゝ時分に迎へに來ましたよ」

「途中で小屋から歸る百太夫に逢つた筈だが──」

 平次はこの複雜な人間の出入りを、頭の中で組織そしき立てて考へて居る樣子でした。

「お前は何時ものやうに相生あひおひ町から河岸ツ縁を歸つたらう」

 今迄默つてゐた百太夫が口を容れました。

「いえ、松坂町の路地を拔けて來ました」

 とお玉。

「さうだらう、俺は相生町から河岸ツ縁を歸つたが、逢はなかつたもの」

 さう言へば成程そんなものでせう。

「ところで、小屋の中を見せて貰ひ度いが」

「へえ──、どうぞ」

 百太夫が案内して、舞臺から客席、樂屋、風呂場と見せてくれます。

「贅澤な風呂場だな」

「時々は芝居の眞似事もしなきや、お客樣が喜んで下さいません。へえ」

 百太夫は極り惡さうに首筋を掻きました。その頃輕業小屋で芝居をすることなどは、嚴重な禁制だつたのです。

「風呂のふたにほんの少しだが血が附いて居るやうだな」

 と平次。

「先刻、お銀のものをいろ〳〵洗ひましたが」

 それは苦しさうな辯解ですが、平次は別に追及しようともしません。



 近所のうはさを掻き集めると、いろ〳〵の事が分つて來ました。第一番に何と言つてもお銀の美しさが問題の中心で、一座の傳六が夢中になつて居ることや、百太夫までが變な態度をするので、女房のお徳が氣がめる話など、噂の種は際限もありません。

 その中でお銀と仲の惡いのは一寸法師の萬之助だけで、これはどうせ相手にされないと分り切つて居るせゐか、お銀の機嫌を取らうとするでもなく、時々は一座の花形へ皮肉な惡戯をして、ひどく妹のお玉に怒られたりすることもありました。

「ところで親分、下手人げしゆにんがあるでせうか」

 歸る道々、ガラツ八はたまりかねて平次のみやくを引きました。

「お前はどう思ふ」

 逆襲する平次。

「檢屍までもなく、あれは自害ぢやありませんね」

「その通りだよ。あの顏は自害した人間の顏ぢやない。自害した人間の顏は、どんなに惡相でも、觀念したところのあるものだ。──あの美しさで、あの凄い形相は──」

 平次もさすがに固唾かたづを呑みます。

「舌を噛んだといふのも變ですね」

「人間はあれ位のことぢや死に切れるものぢやない、第一いくらも血が出てゐないぢやないか──もつとも風呂のふたには少し血が附いて居たが」

「髮もれてゐましたね」

「あれに氣が付いたのか。尋常の濡れやうぢやなかつた。──耳の穴を見たか」

「いゝえ」

「中に少し水が溜つて居た」

「へえ──」

「それからもう一つ、變つたことがあつた筈だ。氣が付いたか、八」

「さア」

 ガラツ八の八五郎は頻りに首をひねりましたが、此のうへ少しも思ひ當る節はありません。

「もう一度小屋へ歸つて見て來るが宜い」

「何を見るんで?」

たねを明かしちや、手品はつまらなくなるよ。何か變つたことがあつたら、それをとことんまで搜し拔くんだ」

「へえ──」

「俺は出直さうと思つたが、こいつはお前の智慧に任せよう。やつて見るが宜い」

「さア分らねえ」

「此處で首をひねつたつて、何にもならないよ。もう一度あの小屋へ歸つて、檢屍に立會つて見るんだ」

「へえ──」

「念のために言つておくが、あの妹娘に氣をつけろ。お玉とか言つたな」

 さう言ふ平次の背後姿を眺めて、ガラツ八はうらめしさう立つて居ります。



 その晩。

「親分、分つたやうで少しも分らねえ」

 ぼんやり歸つて來たガラツ八は、大袈裟おほげさに腕などをこまぬいて、平次の前へシヨンボリ坐るのでした。

「何が分つたんだ。先づそれから聽かうよ」

 平次は何時になく膝などを乘出します。この報告が餘つ程待ち遠しかつた樣子です。

「死骸の着物は左前ひだりまへに着せてあつたでせう」

「それだよ、八」

「檢屍の役人は何にも言やしませんよ。佛樣の着物は左前に決つて居るんですね」

「それは經帷子きやうかたびらだ。お銀は死んだばかりで、まだ湯灌ゆくわんも濟んぢやゐない。舞臺で着る赤い振袖の襟を、左前に合せるのは變だらう」

あつしもさう思ひましたよ」

「赤い振袖を左前に着て舌を噛み切るのは、何の禁呪まじなひなんだ」

「それが分らないんで」

「お玉に當つて見たか」

 平次は質問の方向を變へました。

「いろ〳〵訊いて見たが、あの娘は片意地だ。何にも言やしませんよ」

「本當に何んにも言はなかつたのか」

「たつた一と言、んなことを言ひましたよ。──何にもかないで下さい、今晩中には何も彼も分ることですから──つて」

「今晩中には分る? ──本當にさう言つたか、八」

「それから、天道樣てんたうさまは無駄には光らない、つて言つたやうで」

「困つたことになるぞ、八」

「何が困るんです」

「お前はこれから直ぐ兩國へ引つ返して、お玉を此處へ連れて來てくれ」

 平次は大變なことを言ひ出しました。

「お玉をつれて來てどうするんです」

「何でもかまはない、平次が話し度いことがある、とか何とか、宜い加減のことを言つて連れて來るが宜い。どうしても來なきや、十手に物を言はせるんだ。八五郎の懷中に、そんなものが伊達だてに突つ張つてるわけぢやあるめえ」

「やつて見ませう」

「人間一人の生命にかゝはることだ、宜いか」

「大丈夫で」

 八五郎は大きく胸を叩くと、もう一度兩國へ取つて返しました。

 八五郎がお玉をつれて來たのは、それから一ときほど經つた頃、やがて亥刻よつ近い時分でした。

「さア、素直に入れ。あんまり剛情を張ると、俺は十手に物を言はせなきやならねえ」

 門口で又ひとみするのを、

「八、手荒なことをしちやならねえ。お玉の心持は、俺にはよく分つてゐるつもりだ。氣の毒なことに、お銀に死なれてがつかりしてゐるんだ」

 錢形の平次はそんな調子で手を取らぬばかりに、お玉をさそひ入れました。

 派手な輕業かるわざの太夫に似氣なく、よごくさつた木綿のあはせに、赤い帶を無造作に締めたその晩のお玉は素足に長刀なぎなた草履、髮も、形も、つくろはぬまゝに荒んで、激しい怒氣を含んだ顏には、日頃の美しさとは似てもつかぬ凄じい氣組がみなぎります。

「先づ其處に坐れ。──お靜、湯でも茶でも持つて來てくれ」

「──」

 平次の穩かな調子にいくらか怒氣をくじかれたものか、お玉はヘタヘタとしてその前に坐りました。

「それから、その匕首あひくちは俺が預かつて置かう。腹を立てて刄物を持つてゐるのは、決して宜いことぢやない」

「──」

 お玉は平次の顏をジロリと見ましたが、言葉の柔かさに似ず、その表情の決然たるのを見ると、懷中から匕首あひくちを取出して、さやごと默つて平次の前に押しやりました。

「それでよし。──ところで、昨夜ゆうべのことを此處で打明けて話して見る氣はないか。──それはいやだといふのか。金輪際こんりんざい打ち明ける氣はないと言ふつもりだらう」

「──」

 頑固ぐわんこに口をつぐむお玉を、なだめるやうな調子で平次は續けました。

「それぢや、俺が代つて話してやらう。──昨夜、姉の歸りが遲いので、お前は心配して緑町からもう一度兩國の小屋へ引返したと言つたな。小屋へ行つたが、中には誰も居ない。百太夫夫婦も、傳六も、萬之助も、肝腎かんじんのお前の姉も見えない。お前は空つぽの小屋の中を搜して風呂場へ入つた、──と、風呂のふたを半分ほど上げて、湯の中に人間が入つてる。見るとそいつはお前の姉のお銀だつた。お銀は死んでゐた」

「──」

 お玉はゴクリと固唾かたづを呑みました。

「少し舌を噛んで、口から血は引いてゐたが、それは風呂に入つてゐるところを、いきなり上から蓋をされて、苦しまぎれにんだ傷だ。お銀は風呂の中でおぼれ死んでゐたのだ。──風呂の中で病氣を起して頓死とんしをしたのなら、自分で蓋をしてゐる筈はない。お銀を殺した下手人は、恐ろしく惡智慧のある人間だが、さすがに、人一人殺してあわてたと見えて、風呂の蓋を取るのを忘れて逃げたんだらう」

「──」

「姉の淺ましい姿を見ると、お前は夢中になつて風呂から引上げ、ろくに身體も拭かずに、其處にあつた赤い振袖を着せ、あの小部屋に抱いて來て、手當をしたが、お銀はどうしても生きかへらなかつた。そこでお前は、隣の小屋の留守番に頼んで緑町へ知らせてやつた」

「──」

「どうだ、それに違ひあるまい。──ところでお前は、姉を殺した下手人げしゆにんはよく分つてゐる筈だ。誰だ、それは」

「──」

 お玉は相變らず頑固に默り込んで居ります。

「お前は匕首あひくちまで用意してゐる。──が、よく考へて見るが宜い。姉の下手人を殺せば、お上への言ひわけは立たない。姉の下手人が誰といふ、はつきりしたあかりが立たないのに、うつかりした事をすると、お前はたゞの人殺しにされてお處刑しおきになるかも知れない。──姉のお銀を殺したのは誰だ」

「證據がない」

 ぶつ切ら棒に言つたお玉。その聲は悲しみと怒りにれて、ひどく陰慘でした。

「證據がないばかりに、姉の下手人が分つてゐても、お上に引渡せない。それでお前はその下手人を殺さうと言ふのだな」

「──」

 お玉はうなづきました。

「それは無法だ。若し間違つたらどうする」

「間違はない」

 お玉はかたくなに頭を振るのです。



「それぢや此處で考へて見よう。證據がないと思ひ込んでも、下手人は飛んだところに足跡あしあとを殘して居るかも知れない」

 錢形平次は、お玉を相手に始めました。お玉はそれを輕蔑けいべつし切つた樣子で、冷然と眺めて居ります。

「お銀を殺しさうなのは先づ四人ある。一人は口上こうじやうの萬之助、二人目は木戸番の傳六、三人目は主人の百太夫、四人目はその女房のお徳だ」

 錢形平次は委細ゐさい構はず續けるのです。その前に八五郎はもう一度兩國へ樣子を見にやられ、平次の女房のお靜は、行燈あんどんの側へ來て、二人の話を氣遣ひながら、くる夜も構はず、何やら冬仕度の仕事をして居ります。

「──お徳は百太夫より半刻も前に緑町へ歸つて居る。風呂場でお銀を殺す暇はない。お銀を憎んでゐることはお徳が一番だが、どう考へてもこれは下手人ではない。それから木戸番の傳六は、日頃お銀を追ひ廻して居たやうだが、輕業かるわざがはねる前に身體が明いて、横町の叶屋かなふや樽天神たるてんじんを極め込んでゐる。これは多勢の人が見て居るから、お銀を殺す暇はなかつた筈だ」

「──」

 平次の系統けいとう立つた説明を聽くと、お玉の冷たい瞳が、次第に活氣を帶びて、頬は恐ろしい忿怒に燃えます。

「──殘るのは主人の百太夫と一寸法師の萬之助だ。萬之助とお銀は互に敵同士みたいに仲が惡かつたさうだ。萬之助は負け惜しみが強くて皮肉ひにくで、お銀の樣子がしやくに觸つてたまらなかつたんだらう。──美い女は大抵高慢かうまんで人を人とも思はない。お銀もさうだつた。──だがそれは表向で、萬之助の腹の中は、お銀が好きで〳〵たまらなかつた。萬之助は負け惜しみが強いから、自分の身體に耻ぢて、口にも出さず、素振りにも見せなかつたが、腹の中では毎日泣いて暮して居た。萬之助の日頃の樣子──わざとらしい皮肉や意地惡や、先刻さつきお銀の死骸を見た眼の恐ろしい惱みは唯事ではない。その萬之助は、暗くなると、自分の心のやり場がないので、氣狂ひのやうになつて外を歩いた。昨夜ゆうべも外を歩いてゐたといふが、誰にも逢つた樣子はなく、誰も見た者はない。風呂場に隱れて居て、お銀を殺さないとは限らない」

「──」

「百太夫は主人だが、多分金づくで無理にお前達姉妹を、コキ使つて居るんだらう。傳六に訊くと、百太夫はお銀に無理な藝をさせようとしてゐたさうだ。若い女には、我慢の出來ない耻かしい藝だつたと思ふ。──それが嫌なら俺のめかけになれと言つてゐたさうだ。これは傳六の言葉だがうそではあるまい。お銀はそれを頭から斷り通してゐた。その上お前達姉妹が借りた金も大方返した筈だし、お銀とお前は近いうちに、あの蟹澤かにざはの一座から飛び出して、故郷の厚木あつぎへ歸るつもりだつた。──その通りだらう。これはお徳に聽いたのだ」

「──」

「百太夫は死物狂ひになつて、お銀を引留めようとした。お銀はどうしても聽かない。そこでフラフラ殺す氣になつた──どうだ、それも本當らしいだらう。それからお前が緑町から兩國へ引返したとき、どの道を通つたと訊いたのは百太夫だ。お前が松坂町の路地を通つたといふと、──俺は相生あひおひ町の河岸ツ縁を眞つ直ぐ歸つた、だから逢はなかつた──と言つた。實はあの時百太夫はお銀を殺して、まだ小屋の中でマゴマゴして居たのかも知れない。うたがひがかゝると困るとか何とか言つて、女房と口を合せて、大分前に歸つたやうな事を言つてるが、そんなこまかい細工をするのは身に覺えのある奴に限つたことだ」

「──」

「何方だ、萬之助か、百太夫か、お前の姉を殺したのは?」

「證據がない」

 お玉の答は相變らずうめくやうです。

 その晩平次とお靜はほとんど寢ずの番をさせられて了ひました。彈み切つた少女お玉は、兎もすれば飛び出して、兩國へ歸らうとするのです。

 兩國へかへつたら最後、その晩のうちに、もう一つ血腥ちなまぐさい事件が起らずには濟まないでせう。若しそれが相手を間違つたとしたら、それこそ取返しのつかぬ事になるでせう。

 運よくお玉の感が當つて、姉のお銀を殺した、本當の下手人を殺したとしても、證據がなくては言ひ分が立たず、この純情な娘は自分の命を棒に振るのが精々です。

 大骨折の一夜はやうやく明けました。

「あツ、あの人が、何處かへ行つてしまひましたよ」

 お靜の聲に驚いて、顏を半分洗つた平次は井戸端から家の中に飛び込みました。

「どうした、何處へ行つた」

 そんな事を言つたところで追付きません。お玉はわづかのすきを狙つて、はやり切つた奔馬ほんばのやうに、兩國へ驅け戻つたのでせう。

 平次は直ぐ後を追ひました。が、輕業娘の輕捷けいせふさには及ぶべくもなく、汗みどろになつて兩國へ辿たどり着くと、

「あツ、親分、大變ツ」

 蟹澤かにざはの小屋の裏口に迎へたのはガラツ八の八五郎です。

「どうした、八」

「遲かつた、親分。到頭殺されましたよ」

「誰が、誰に」

 ガラツ八を押しのける樣にして飛び込むと、一昨夜の慘劇ざんげきのあつた風呂場の流しに、これは着物を着たまゝの百太夫が、紅に染んで死んでゐるではありませんか。

 その側に呆然ぼうぜんと突つ立つてゐるのは、なんと、ツイひと足先に此處へ來た筈のお玉。

「お玉、何といふ事をするのだ」

「親分、私ぢやありませんよ。でも、姉を殺したのは此奴です、私にはよく分ります」

 百太夫の死骸を指すお玉には、何のうろたへた樣子もなかつたのです。

「親分、百太夫を殺したのは、お玉ぢやありませんよ。あの一寸法師ですよ。萬之助の野郎ですよ」

「?」

 錢形平次はガラツ八の言衆を、夢心地に聽きました。江戸開府以來の名御用聞も、この時ほど馬鹿々々しい思ひ違ひをしたことはなかつたのです。

        ×      ×      ×

 間もなく萬之助の死骸は、兩國橋の下からあがりました。お銀のうらみを晴した純情の一寸法師は、自分から身を投げて死んだことは言ふまでもありません。

「今度ばかりは親分も見當違ひをしたでせう。百太夫を殺したのをお玉と思ひ込んだ親分の顏は、全く忘れられませんよ」

 ニヤニヤするガラツ八です。

「全く一言もないよ。それといふのも、最初お銀を殺したのが、百太夫か萬之助か、どうしても分らなかつたせゐだ。──だが萬之助はあの通り身體が小さいから、たとへ女一人でも、風呂へ入つてるのを上からふたをして、死ぬまで押へて居る力はない。それに氣が付かないばかりに、ひと晩無駄な苦勞をしたよ」

「へえ。──親分でも氣のつかない事があるんですか」

「だがな、八。俺にも隱してある役札がもう一枚あるよ。それは、大した事ぢやないが、お玉は女ぢやないと看破みやぶつたことさ」

「へえツ、冗談ぢやありませんか、親分」

「あれはたしかに男だ。──十六かな、十七位かな、兎に角女の子ではない。女の子なら人形遊びでれてゐるからどんなにあわてても左前に着物を着せる筈はない。それにお玉は綺麗ではあるが男顏だ。多分百太夫の智慧だらうと思ふが、男の子を女に仕立てて、はげしい藝をさせて人氣を取つたんだらう。それにお銀ときやうだいといふのもうそだらう、顏がまるつきり似てゐない」

 お玉の激怒の中には淡い戀のひそんでゐるのを平次は見逃さなかつたのです。

底本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年1020日発行

初出:「文藝讀物」文藝春秋社

   1943(昭和18)年12月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2016年34日作成

2017年34日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。