錢形平次捕物控
閉された庭
野村胡堂
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江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次は、春の陽が一杯に這ひ寄る貧しい六疊に寢そべつたまゝ、紛煙草をせゝつて遠音の鶯に耳をすまして居りました。
此上もなく天下泰平の姿ですが激しい活動のあひ間〳〵に、こんな閑寂な境地を樂しむのが、平次の流儀でもあつたのです。
「八、何をして居るんだ。用事があるなら大玄關から入れ」
いきなり平次は振り返りもせずに、後ろの方──さゝやかな庭木戸のあたりに居る人間に聲を掛けました。
「へツ、よくあつしと解りましたね」
平次のためには大事な『見る眼嗅ぐ鼻』ですが、人間の燒が少々甘い八五郎は、木戸の上に長んがい顎を載つけたまゝ斯う言ふのです。
「大層意氣な影法師が縁側まで泳いで來るぢやないか、そんな根の弛んだ髷節が、朝つぱらから俺の家を覗くとしたら、八五郎兄哥でなくて誰だと思ふ」
「違げえねえ、──が、大玄關は洗濯物と張板で塞がつて居ますぜ」
八五郎はそれでも氣になるらしく左の方に曲つた髷節を直し乍ら、木戸を押開けてバアと入つて來ました。
「お伴れは何うした、八」
「そいつも影法師の鑑定でせう、親分」
「いや、今度のは匂ひだよ」
「まア」
少し嬌顰を發したらしい若い女の聲、それを聽くと平次は起き直つて、
「まア入れ、其處に立つて居ちや、お長屋の衆が通られまい」
と蟠りもなく招じ入れるのでした。
八五郎と一緒に來た客といふのは、十七八の可愛らしい娘で、至つて粗末な木綿物を着て居りますが、何んとなく氣性者らしいところがあり、平次の惡い冗談に腹を立てたものか、八五郎の後ろへ隱れるやうにツンとそつぽを向いて居ります。
「ね、親分。若い娘が一人煙のやうに消えてなくなつたんですがね、こいつは年代記ものぢやありませんか」
八五郎は話上手に持かけました。
容易に人を縛らぬ錢形平次は、一面にはまた恐ろしく無精なところがあり、江戸の町人達がよく〳〵平次の叡智と腕とを借り度いと思ふ場合は、氣性を呑み込んだ八五郎に頼んで、斯んな具合に持ちかけ、平次自身の乘出して來るのを待つ外はなかつたのです。
「婆さんか赤ん坊が消えてなくなりや不思議だが、若い娘や息子が行方不知になるのを一々不思議がつた日にや、江戸に住んぢや居られないぜ」
「それが親分、唯の行方不知とはワケが違ひますよ。何しろ内から戸締りをしたまんま、床が藻拔けの殼で、寢んでゐた筈の娘が煙のやうに──斯う」
ガラツ八は一生懸命兩手を宙に泳がせて、煙の恰好を見せるのでした。
「それは一體何處で、誰が消えてなくなつた話なんだ」
平次の興味も漸く動き始めた樣子です。
「本郷金助町の御浪人大瀧清左衞門樣の一番目娘でお茂世さん、──詳しいことは此處に居る妹のお勢さんに訊いて下さい」
八五郎は席を讓るやうに身體を捻つて、後ろに居る若い娘を指さしました。
「親分、お聽き下さい。父は不心得者は放つて置け──と申しますけれども、姉は自分勝手に家出をするやうな人では御座いません。あんまり不思議ですから、八五郎さんにお願ひしましたが、戸締りをしてある家から、姉はどうして外へ出たのでせう──いえ姉が外へ出てから、誰が戸締りをしたのでせう」
「さア」
「お願ひでございます、姉を搜して下さい。──明後日になると、芝田樣がお見えになる筈で──」
お勢と言はれた娘は、先刻の輕い怒りなどは忘れてしまつた樣子で、八五郎の側へ膝をすゝめました。身扮は質素な町人風で、裏やら袖口やらにほのめく赤い物も可憐ですが、物言ひや態度は武家風で、可愛らしいうちにも、妙に侵し難いところがあります。
「芝田樣?」
「姉の許婚の方でございます、明後日九州から御入府の筈で」
「兎も角、詳しく伺ひませう」
平次も漸く開き直りました。
お勢と八五郎の話を綜合すると、一昨日の朝、本郷切つての美人といはれた、金助町の浪人大瀧清左衞門の娘お茂世が、何時まで經つても自分の部屋から起きて來ないので、妹のお勢が姉の部屋を覗くと、床は空つぽで部屋は嚴重に締め切つたまゝ、お茂世は影も形もなかつた──といふのです。
「履物は?」
平次は口を挾みました。
「其處までは氣が付きませんでした」
賢さうでも若いお勢には、そんなところまで氣が廻らなかつたのです。
「それから心當りを方々尋ねて見ましたが江戸には近い親類も懇意な家もなく、姉の行方は少しも見當がつきません。父は姉が不心得の家出をしたと思ひ込んで、少しも相談に乘つてくれず、思案に餘つて少しの手蔓をたよりに、八五郎さんにお願ひしました」
お勢の話はなか〳〵行屆きますが、肝甚のことを二つ三つ言ひ落して居るやうです。
「不心得の家出をするやうな心當りがあるのでせうな」
それを追つかけるやうに、平次の問ひが突つ込みます。
「──」
お勢はさすがに答へ兼ねてモヂモヂして居ると、八五郎が引取つて、
「こいつは近所の噂を聽き集めたんだが、行方不知になつたお茂世さんは、九州から出府する許婚の芝田何かといふお侍を嫌つて居たさうですよ」
「好きな男はなかつたのかな」
八五郎の説明に、平次はもう一歩踏込みます。
「大層な容貌だつたといふから、町内の若い男は門並逆上あがつてゐましたよ、中でも遊び人の喜三太──お厩中間上がりの喜三太といふ厄介な男を親分も御存じでせう。それから同じ町内の呉服屋──三河屋の若旦那で敬太郎といふのが一番夢中になつて居たといふことで」
「お孃さんの方は?」
「親御がやかましいから、浮いたことはなかつたでせうが、若旦那の敬太郎は滿更ぢやなかつたやうで、──ね、それに違ひないでせう、お孃さん」
「──」
いきなり八五郎に問ひかけられてお勢はハツと赤くなりました。姉の素振を思ひ出して、自分のことのやうに恥かしかつたのでせう。
「此處で考へたところで眼鼻が付くまい、兎も角、行つて見るとしようか」
平次は漸く御輿をあげました。
「さう來りや百人力だ、どうも二本差は苦手でね、あつしぢや此上探りの入れやうはねえ」
八五郎は首を縮めて薦めるのです。無遠慮に突つ込み過ぎて、お勢お茂世の父親──大瀧清左衞門に小つぴどくやられたことを思ひ出したのでせう。平次の家──神田臺所町から、湯島金助町まではほんの一と丁場。八五郎を從へ、お勢に案内された平次、間もなく、思ひの外構へだけは大きい浪宅の入口に立つて居りました。
其處で暫らく待つてゐるうちに、お勢はどう父親を撫めたものか、
「父がお目にかゝると申します、どうぞ此方へ──」
と改めて二人を迎ひ入れます。
構への大きい浪宅と見たのは、大家の寮へ留守番代りに住んでゐるせゐらしく──これは後でわかつたことですが──中へ入つて見ると、屋臺にそぐはぬ調度の貧しさが、寒々と人に迫るものがあります。
「これは、平次殿と言はれるか、拙者は大瀧清左衞門、以後御見識りを」
尊大でない程度に四角張つて、いとも古風な挨拶をするのは、五十二三の浪人者で、人品も賤しからず、貧乏臭いのさへ我慢すれば、隨分立派な人柄です。
「お孃さんが見えませんさうで、御心配なことで御座います」
「何、些細なことで、──親に無斷で身を隱すやうな不心得者は探す迄もないことぢや」
以ての外の機嫌です。
「あれお父樣、わざ〳〵お願ひして來て頂きましたのに」
飛付いて父親の口でも塞ぎ度いやうなお勢の熱心さを見ると、さすがに其上抗ひ兼ねたものか、
「では勝手に」
むづかしい顏の紐をほぐしもせず、そのまゝ奧へ引込んでしまひました。
平次はお勢の案内で一と通り家の中を見せて貰ひました。某といふ大町人の建てた寮を、そのまゝ懇意づくで借りたといふ家は、少し古くはなつて居りますが、戸締りなどはなか〳〵に嚴重で、外から迂濶に入れる隙もなく、それに間數も六つ七つ、主人の清左衞門と、若い娘二人が奉公人も使はずに住むにしては、少し廣過ぎる位です。
姉のお茂世が寢て居た部屋といふのは、右手へ突き出した六疊で何にかの都合で後から建て増したところらしく、その手前の四疊半──妹のお勢が寢んでゐる部屋を通らなければ何處からも行けないやうになつて居ります。
外部に出られるのは突き當りの一方だけ、其處の雨戸三枚は、その朝嚴重に内から締めてあつたとお勢が證言したのに間違ひはないでせう。尤も南側には一間の腰高窓がありましたが、其處には頑丈な格子が打つてあつて、猫の子の出入りも出來ないやうになつて居ります。
念のため、お茂世の持物を一と通り見せて貰ひましたが、娘らしく小布の箱と物の本二三册と、手習ひ草紙と、古い歌留多と、それに可愛らしいもの細々したものが少しばかりあるだけ、貧しさに徹してろくな紅白粉も、髮の飾りもない痛々しい有樣です。
「隣の妹さんの部屋へ拔ける外には、此處から出られる道理はありませんね、親分」
八五郎は今更感心して居ります。
「隣には私が寢んでおります」
お勢は言ひ切りました。丸ぽちやで健康さうで、存分に可愛らしくあるのですが、この娘には何處か確りしたところがありさうです。
平次は一應縁側の樣子から戸袋の具合、戸締りなどを調べましたが、上下の棧をおろして置けば、雨戸の印籠ばめは思ひの外嚴重で、外から開けることができたにしても、戸外から締めることなどは思ひも寄らず、お茂世がそつと脱出して、外から締めて置いたのではあるまいかと思つた平次の豫想は、根抵から引くり返されてしまひました。
それに、雨戸の外は五六坪の小さい庭で、庭を巡つて大町人の好みらしく頑丈な板塀を繞らし、塀の上には少し痛みかけた忍び返しが一列の鉾を並べたやうに、あらゆる出入りの可能性を否定して春の萠黄色の空に突つ立つて居るではありませんか。若し人間が何んかの方法で此忍び返しの上を越したとしたら、忍び返しの五本や三本は、無抵抗に折れてしまつたことでせう。
外への通路と言つては、北側の横手に小さい木戸が一つ切つてありますが、幾年も幾月も開けなかつたらしく、海老錠がすつかり錆ついて、お勢が持つて來てくれた鍵を差し込んでも廻らうともしません。庭は陽が疎くて、漸く霜柱が解けたばかり、犬の仔が通つても足跡を殘さずに濟まぬ柔かさ──
「此處の出入りは難かしい、羽でもなきや」
「すると矢張り消えてなくなつたんで」
平次の獨り言に八五郎の註が入ります。
「人間が消えてなくなるわけはないよ、妹さんが寢む前に脱出したんだらう」
平次の判斷は何處までも常識的でした。
「いえ、私が寢む迄、姉は六疊でお仕事をして居りました」
お勢は何處で聽いて居たものか、二人の前へ顏を出すと、斯う抗議するのです。
「さうなると神隱しだね」
八五郎は酢つぱい顏をします。その頃は記憶の喪失で行方不明になつたのや、原因不明の失綜を『神隱し』といふ言葉で簡單に片付けてゐた時代です。
念のため向う三軒兩隣を當つて見ましたが、門並小商人としもたやで、何んの得るところもありません。お茂世の部屋の西、板塀の外には寄りそつたやうに長屋が三軒建つて居りますが、一軒は空家、一家は摘み綿の師匠でお鶴といふ中年の一人者、一番手前の一軒は古金買の金兵衞の家で、これは夥しいガラクタの山の中に住んでゐるやうな暮し、子澤山と見えて恐ろしく丈夫な物干竿が三本、濡れたの乾いたの、あらゆる物をブラ下げて、日向をあさつたやうに三方へ張り渡してあります。
「歸らうか、八」
「これつきりですか、親分」
「神隱しぢや十手捕繩の御威光でも及ばないよ。ところでお前は遊び人の喜三太と呉服屋の伜の敬太郎の樣子を見て來てくれ。お茂世が行方不知になつたといふ噂は町内で知らない者もないだらうから、少しでも引つかゝりのある者は。岡つ引の顏を見るとソハソハするかも知れないがあわてて縛つちやいけないよ。神妙に家に居るなら、それを見定めて歸りや宜いんだから」
「へエー」
平次の命令は行屆きますが、それも全く無駄な努力で、その晩八五郎の持つてきた報告によれば、喜三太も敬太郎も、此二、三日は何處へも行かず、神妙に家に居たといふことでした。
事件はこれがほんの發端でした。翌る日はこの平凡らしい、──が奇つ怪な因子を孕んだ行方不明事件は、一擧に妻まじい破局へ盛り上げてしまつたのです。
「親分、た、大變つ」
髷節を先に立てて飛んで來た八五郎は、格子に突き當つて、ポンとけし飛んで、例の木戸からバアと顏を出しました。
「馬鹿野郎、何が大變なんだ。第一、懷手のまんま飛んで歩いてちや危ないぢやないか」
「懷ろ手を拔く隙もないんですよ、今日のは古渡の大變で、──金助町の浪人の娘──あのお茂世といふのが、死骸になつて庭の眞ん中に投り出されてあつたとしたら、親分だつて驚くでせう」
斯んな調子で物を言ふガラツ八ですが、事件の重大さは、その彈む息にも、變つた眼の色にも充分讀み取られます。
「よし、行かう」
平次は立上がりました。斯うなると獲物を見付けた獵犬の本能が目覺めて、難事件の眞ん中に飛込み、惡者の首根つこを押へて、地獄の釜の中からでも引つこ拔いて來なければ承知しない平次だつたのです。
金助町の浪宅に行くと、あれほど眞四角に取濟した大瀧清左衞門も、彌次馬や土地の安岡つ引に包圍されて、娘の非業を悲しむ暇もなく、たゞうろ〳〵して居りました。
「あ、錢形の親分」
人波を掻きわけて近づく平次と八五郎を、眼聰くも見付けたのは妹娘のお勢でした。
「大變なことでしたね、お孃さん」
「姉の仇を討つて下さい、親分」
慰められるとツイ涙聲になつて、平次に取縋りさうにするのは、さすがに小娘氣の失せないお勢ですが、平次がまだ若くもあり、好い男でもあるのに氣が付くと、ハツとした樣子で立ち縮みます。
お勢の部屋を通つて、お茂世の部屋だつた六疊の縁側から見ると、西向の狹い庭に漸く高くなつた陽足が這つて、その中程──ぐつと板塀寄に、檢屍前のお茂世の死骸が横たはつて居るのです。
足跡は庭一杯に散つてをりますが、それはお勢のらしい女の跣足と、庭下駄の跡だけで、外から入つたらしい足跡は一つもなく、表の方に出られるたつた一つの木戸は錆付いたまゝ、昨日から開けた樣子はありません。
死骸の位置は塀に近いのですが、頭の上の朽ちかけた忍び返しには何んの異状もなく、死骸を外から運び入れた形跡は一つもないのですから、平次の常識論を以つてすれば、家の中から持ち出して捨てたとしか思へず、八五郎の想像を飛躍させると、天から降つたとでも見る外はありません。
「今朝、雨戸は?」
平次は後ろに從ふお勢を顧みました。
「念入りに締めてありました。今朝風を入れようと思つて、雨戸を開けると──」
お勢はゴクリと固唾を呑みます。
「兎も角」
平次は庭下駄を突つかけて降りると、足跡を踏まないやうに死骸に近づき、踞んだまゝそつと死骸の顏を覗きました。
「──」
危ふく聲を立てようとして、そのまゝ息を呑むと、平次は兩手を合せて、暫らくこの凄じくも美しい死骸を拜んで居ります。
あまり陽當りのよくない、まだ春が蘇つたとも思へぬ庭の柔かい土の上に、若い娘の死骸が顏を上向にして無造作に轉がされてあるのです。
苦惱に歪んで、髮も衣紋も亂れて居りますが、それは實に拔群の美しさ──半眼に開いた眼、顰む眉、豊な頬、色のない唇、死の手の慘虐な化粧に痛め拔かれ乍ら、これはまた何んといふお面のやうな靜寂な美しさでせう。深刻な苦惱の跡を刻み付け乍らも、それは觀念しきつた、いとも靜かな死顏です。
襟をはだけると、首には娘の帶上げらしい赤い紐をキリキリと卷いてありますが、念のためにその紐を解くと、圓い首筋には大した溝もなく、反對に側に投出した手は妙に歪んで可愛らしい手首が、痛々しいほど縊れて居ります。
胸をはだけると、所々紫色の斑點があり、手にも足にも傷がある上、身體は庭の柔かい土にめり込み、八五郎の想像したやうに、天からでも降つたと思はなければ、テニヲハの合はないところもあるのでした。
「この着物は?」
「寢卷ではございません。姉が好きで着た不斷着で──」
平次の問ひの眞意を覺つて、お勢は斯う註を入れました。古いが、柄の良い、折目正しい銘仙の袷は、ひどくもみくちやになつて居りますが、何んとなく身躾みのよさを思はせ、寢床から拔け出してフラフラと外へ出たものでないことは明かです。
「どんなに不思議に見えても、これは人間の仕業に違ひありません。極惡非道で、恐ろしく惡智惠の廻る人間──そいつを縛るのが私の役目で御座います」
「──」
平次は後ろにソツと立つて、娘の死顏を見詰めて居る『悲しみの立像』のやうな父親──大瀧清左衞門を顧みました。
「つまらないと思つたことでも、どんな小さい事でも、お孃樣の關係したことは皆んな仰しやつて下さい」
「──宜からう、なんなと訊くが宜い」
清左衞門は大きくうなづきます。
「第一に、お孃樣は許婚の芝田樣とやらが江戸へお還りになるのを、あまり喜んではゐらつしやらなかつたさうで」
「その通りだ、──あんまり小さい時、兩親の話し合ひで決めた約束で、娘はそれが氣に入らなかつたらしい、不心得なことだが──」
「芝田樣といふのは?」
「昔の藩の者だが、──」
「外にお孃樣に御執心の方が二三人あつたやうに伺ひましたが」
「左樣、そんな事もあつたやうだ」
「遊び人の喜三太、呉服屋の伜敬太郎といふやうな」
「左樣」
大瀧清左衞門は如何にも苦々しい樣子です。
「他には?」
「これは關係のないことと思ふが、──さる大身の旗本から、側近く使召ひ度いといふ申出はあつた。再三の望みであつたが、痩ても枯れても大瀧清左衞門、これでも武士の端くれぢや。金に眼がくれて、娘を手掛けに出しては祖先にも相濟まぬ」
思ひ出すのさへ苦々しいらしく、清左衞門の顏は憤怒に歪みます。
「お孃樣は?」
「申す迄もない、大層な腹立であつた」
「そのお旗本のお名前は?」
「──」
「それは是非お明しを願ひます」
「關りのないことだが、念の爲に申上げよう、──湯島切通しに屋敷を持つてゐられる、三千五百石の直參、望月丹後といふ仁ぢや。内室は先年産後で亡くなられ、丹後殿は三十五の若盛りで、定まる後添もない。拙者の娘茂世を行儀見習として差し出して欲しいといふ申出でで、大枚の仕度金を持つて參つたのぢや。いづれ權門大家から改めて後添を貰ふ迄の繋ぎのつもりであらう。その仕打が憎いから、拙者はきつぱりと斷つた。その後人を變へて再三の申込であつたが、一度お斷り申した上は、金輪際變換することではない」
大瀧清左衞門は頑固らしく首を振るのです。
「仲へ入つて口をきかれた方は?」
「それが氣に入らぬのぢや。筋の通つた人間でも立てることか、桂庵を内職にして居る町の誰彼れ──例へば隣家の古金買ひ、金兵衞のやうな人間では話になるまい」
清左衞門は古金買ひの金兵衞などを人間の屑のやうに思つて居る樣子です。
此處でこれ以上に訊く事もないと見ると、平次は八五郎を促して外へ出ました。噂に上つた隣の古金屋の金兵衞は勝手口へ來て何やら手傳つてをりますが、四十五六の小柄な親爺で、無口で、頑丈で、そのくせ何處か愛嬌のある人間です。
「これは錢形の親分さん、御苦勞樣で」
そんなお世辭を聞捨ててお勝手口から隣の長屋を覗くと金兵衞の家は相變らず三本の物干竿が洗濯物で一パイ、隣の摘み綿の師匠の家は弟子やら町内の金棒曳きやらでハチ切れるやうな姦しさです、多分この變事の噂でもしてゐるのでせう。
「八、心當りを一と廻りしようか」
「へエ──」
平次は先づ八五郎と一緒にツイ五六軒先のお厩の喜三太の家を覗きました。
「誰も居ませんよ。昨日から明けつ放しで、何處かの賭場へ潜り込んでゐるんでせう」
隣のお神が叱るやうな調子で注意してくれます。
「今度は三河屋の伜を當つて見ませうか」
八五郎はもう外へ氣が移つて居りますが、
「待つた、八。あれは何んだ」
平次は格子から家の中を指します。
「何んです、親分」
丁度誂へたやうな障子の穴があつて其處から見える疊の上に、娘の扱帶らしい紅鹿の子の紐が一本、長々と眼へ燒きつくではありませんか。
「變ですね、親分。喜三太の野郎は獨り者ですぜ」
「入つて見よう」
平次の手に從つて格子戸は開きました。障子を押し倒すやうに入ると中は亂離骨灰、土瓶も火鉢も引くり返してその水と灰の中に例の赤い紐がむづかしい謎を投げかけるやうに長々と投り出してあつたのです。
「親分、ちよつと、親分」
外から火の付いたやうに八五郎が呼びます。
「何んだ、八。騷々しいぢやないか」
「あれを見て下さい、三河屋の若旦那が──」
「何がどうしたといふんだ」
八五郎の調子の物々しさに驚いて兎も角喜三太の家は其儘にして飛出した平次の前に、日頃平次と對立的な地位に立つて、手柄爭ひにばかり沒頭してゐる中年者の御用聞三輪の萬七とその子分のお神樂の清吉が、三河屋の伜敬太郎に腰繩を打つて、追つたてるやうに番所の方へ行くではありませんか。
「おや、錢形の親分。浪人者の娘を殺した下手人なら、もう擧がりましたよ」
お神樂の清吉は早くも平次の顏を見て斯んな事を云ふのです。
三河屋の伜敬太郎は、平次の方に燃えるやうな歎願的な瞳を向けましたが、後ろから跟いて來た萬七に睨まれると、そのまゝ俯向いて、トボトボと去つて行きます。
「好い男だね、八」
平次は思はず斯う云ひました。少し華奢ですが、腰繩を打たれて萎れた姿は、歌舞伎芝居の二枚目のやうで、浪人の娘お茂世と、何彼の噂が立つたのも無理のないことです。
「それよりあつしはあの清吉の野郎の面が癪にさはつてなりませんよ。敬太郎は本當に下手人でせうか、親分」
ガラツ八は鼻の先で拳骨を振り廻して、カンカンに腹を立てて居ります。
翌る日、ガラツ八の八五郎は鬼の首でも取つたやうに、恐ろしい勢ひで錢形平次の家へ飛込んで來ました。
「親分、喜んで下さい。お神樂の清吉の野郎に一と泡吹かせましたぜ」
「清吉が泡を吹かうがしやつくりをしようが、俺の知つたことぢやないよ」
平次は以ての外の機嫌です。
「でも、あの浪人の娘──お茂世が殺された晩、三河屋の敬太郎は店から一と足も出なかつたといふ生證人が七人もあるんだから確かでせう。その上、あの晩何處に居たかはつきり云へないお厩の喜三太の家には、殺されたお茂世の紅鹿の子の扱帶があつたでせう、遁れつこはありませんや。賭場に潜つてゐるのを引つ立てると、最初はジタバタして居ましたが、紅い扱帶を見せると、──そいつはお茂世さんのだ──と、酷く吃驚して、素直に番所へ引かれて行きましたよ」
八五郎が得意になつたのは、斯うした理由だつたのです。
「びつくりして、引かれて行つた──? そいつは飛んでもないことをしたよ、八」
平次は妙に考へ深くなりました。
「誰が何んといつたつて、あの喜三太の野郎が下手人に間違ひありませんよ、──大河の旦那(係り同心)も、あつしの話を聽いて紅い扱帶を見せられると、すつかり堪能して、直ぐ敬太郎の繩を解くやうに言つてゐましたが──」
「待つてくれ、八、俺には呑み込めねえことばかりだ。お前の手柄にケチを付けるわけぢやないが、罪のないものを人殺しにしちやなほ惡い。もう少し樣子を見て居ようと思つたが、──斯うなつちや落付いて居るわけにも行くめえ、どりや」
錢形平次は、到頭御輿をあげたのです。その後から、不服さうに跟いて行く、八五郎の器量の惡さ──。
錢形の平次は跟いて來る八五郎の顏色などには頓着なく、一番先にお厩の喜三太の家を覗いて、その隣家のお喋りらしいお神に聲を掛けました。
「お神さん、俺は喜三太の友達なんだが、奴さん何處へ行つたか知りませんか」
「お前さん、あの人の友達なら氣を付けるが宜いよ。大きい聲ぢや云へないが、喜三さんは先刻岡つ引に縛られて行きましたよ。怖いね、本當に」
お神は腹の底から脅えて居る樣子です。平次は昨日も此處を覗いて、皆と格子戸越しに話した筈ですが、幸ひ顏は見られなかつたらしく、そんなことに氣の付いた風もありません。
「へエ──、そんなことは知らなかつたが──あの野郎は盜みや喧嘩をする柄ぢやなし、縛られたとすれば、精々女出入りか勝負事だが、お神さん何にか氣が付いたことはありませんか」
「さア」
「一昨日の晩は無事に巣へ歸つたでせうな」
「一と晩家をあけたやうですよ。どうせ締りのない家だが、歸れば壁隣りの私が知らない筈はないから──」
「若い女が來やしませんか」
「近頃は、その方は恐ろしい不漁だ──なんて言つては居ましたよ」
「喜三太は近頃大望を起して、金助町の浪人者の娘を張つて居るといふ評判だが──」
「そんな噂もありますが、相手は武家の出だから、ツンとして中間上りの喜三さんなんかには洟汁も引つかけないさうですよ──さう言へばその武家の娘が殺されたといふぢやありませんか」
「そんな話も聞いたが──」
お神さんの話が肝腎の點に觸れると、平次は器用に切上げて、物蔭に隱れて居る八五郎を促し乍ら、路地の外へ逃げ出しました。
「八、聽く通りだ。どんな證據があるにしても喜三太は下手人ぢやないよ」
往來へ出ると平次は、憑かれたやうな顏をして跟いて來るガラツ八に斯う云ふのです。
「へエー、あの女の云ふことを眞に受けて宜いんでせうか。親分」
「大抵間違ひあるまいよ。中年のやかましさうな女が、壁隣りで若い男が逢引してゐるのを知らずに居る筈はないし、知つて居て隱す筈もないぢやないか。そんな事を嗅ぎ出しや、町内中に觸れ廻る柄だよ」
「──」
「喜三太は娘に嫌はれてゐたといふから、三日前の晩に、あんなに器用に誘ひ出せる筈もなく、誘ひ出したところで隱して置く場所もあるまい。それに喜三太が本當に娘を殺したのなら、長火鉢や鐵瓶まで引くり返して、その上へこれ見よがしに紅鹿の子の扱帶を長々と載つけて置く筈もあるまいぢやないか」
「その扱帶を見せられてびつくりしたのは、親分」
八五郎は辛くも最後の抗議を持込みました。
「それも考へやうぢや喜三太に罪のない證據さ。若し身に覺えがあるなら、そんなものを見せられても、白ばつくれて平氣な顏をするよ──多分賭場で夜明かしをして、何んにも知らずに出て來たところをお前に捕まつた上、紅い扱帶を見せられて膽を潰したんだらう」
「そんなものですかね親分」
「本當の下手人は恐ろしく企みの深い、此上もなく太てえ野郎だ。若旦那の敬太郎や、厩中間上がりの喜三太のやうな三文奴ぢやあるまいよ」
「すると」
「早合點は禁物だ、もう一度振り出しに戻つて念入りに調べる外はあるまいよ」
江戸開府以來と云はれた名御用聞の錢形平次が後で『──こんな念入りな細工は見たことも聞いたこともない──』と述懷した恐ろしい事件は此時まではまだ、眞相を嗅ぎ出すさゝやかな手掛りも見付かつてはゐなかつたのです。
三河屋へ行つて見ると、若旦那の敬太郎はまだ歸されませんが、いづれは無事に歸るといふ前觸があつたものらしく、店中は一脈の不安を殘し乍らも、何んとなく明るくなつて居ります。
平次は一應店中の者に當つて見ましたが、平常は三日に一度、五日に一度家をあける若旦那ですが、此四五日は母親の加減が惡かつたのと、店の仕事が忙しかつたので、孝行者の敬太郎は何處へも出ず、
「それはもう、私共皆んなの首を賭けても差支はございません。若旦那はこの四五日──いや丁度あの晩で五日になりますが、親御樣が床に就かれてからといふものは、一度も外へ出られなかつたことは確かで、店にも裏にも多勢寢て居りますから、誰にも知れないやうに、ソツと拔け出すなんといふことは、出來ないことで御座います」
斯う言ふ老番頭の言葉は疑ふべくもなかつたのです。
「若旦那がちよい〳〵出るのは出るんだね」
「若い盛りで御座いますから──尤も惡所通ひなどはいたしませんが、お道樂もあることで御座います」
「道樂?」
「小唄を稽古して居ります。そりや良いお聲で、若い方にしては珍らしく錆のある、──斯うふんはりとした柔か味のある──」
番頭は年甲斐もなく若旦那の隱し藝を褒めるのでした。どうかしたらこの禿頭の番頭も同じ道樂を持つてゐるのかも知れません。
平次は其處を宜い加減に切り上げて、金助町の浪宅──お茂世の父の大瀧清左衞門を訪ねました。
清左衞門は寺の方へ行つたさうで折惡しく留守、代つて妹娘のお勢は、相變らずテキパキ應待してくれます。
「お孃さん、昨日訊き漏したことを、ほんの二つ三つ訊き度いんですが」
「え、どうぞ、──でも、姉上を殺した下手人はもう縛られたといふぢや御座いませんか」
「それが腑に落ちないことばかりで、困つてしまひましたよ」
「腑に落ちないことと仰しやると?」
「例へば、お姉樣がどうして殺される前の晩戸締りをしてある家から脱出したか、──いや、お姉樣が脱出した後、誰が戸締りをしたか。第一それからしてわからないぢやありませんか」
「父上か私が、姉上の脱出するのを手傳つたと仰しやるんですか」
お勢は辛辣に撥ね返しました。此十八娘は全く小氣味の良いほどピチピチして居ります。
「そんな筈はないから不思議なんです、──これまでもお姉樣が、夜分に外へ一人で出られるやうなことはなかつたでせうね」
「そんなことがある筈も御座いません。何時でもお休みになる前には、私に聲を掛けて下さるお姉樣ですもの、──それに、私の部屋を通つて玄關へ出るか、私の枕元の雨戸を開けて裏に出る外には、外へ出られない筈ですもの」
「お夕食の後では、直ぐ銘々のお部屋へ引取るのですね」
「えゝ、父上も、姉上も、靜かなところがお好きですから、戌刻か戌刻半には別々に銘々のお部屋に引取つて、お仕事をしたり、お手習をしたり、御本を讀んだりします」
「お姉樣が見えなくなつた晩は?」
「戌刻(八時)少し過ぎに御自分の六疊に引取つて、お仕事をして居らつしやる樣子でした。私は父上のお部屋でお肩を揉んで上げて、半刻ばかり遲れましたが」
「それから」
「亥刻(十時)少し前に、お隣の部屋からお姉樣が──お寢みなさい、私はもう寢みましたから──とお聲をかけて下さいました」
「──確かに、もう寢んだ──と言つたのですね」
「え」
「それが、翌る朝見ると床は敷いてあつたが、お姉樣は藻拔けの殼であつたと言ふんでせう。──床の中で聲を掛けたとすると、その後で着換をして脱出したわけですね」
「籠つたやうなお聲でした。確かにお床の中に潜つて──お寢みなさい──と仰しやつたに違ひありません」
「?」
「私は若いくせに眼ざといと言はれて居ります。私の眠つた後で、私の枕元の雨戸を開けるのを知らずに居る筈は御座いません。雨戸は御覽になればわかりますが、建て付けが惡くなつて、開けようとすると大きな音を立てるんです」
斯う言ふお勢の言葉には何んの疑ひを挾む餘地もなかつたのです。
念のため、隣にお茂世の部屋を見ると、相變らず鐵桶のやうな嚴重さで、僅かに左手にある一間の腰高窓が、障子の破れたまゝ、僅かに外界との連絡を保つて居るだけ。雨戸にも何んの異状もなく、庭の木戸も相變らず錠が錆び付いたまゝです。
「お姉樣が行方不知になつた翌る朝、此窓はどうなつて居ました」
「何うもなつては居ません。格子はその通り丈夫ですし」
「いえ、雨戸は締つて居ましたか」
「雨戸は締つて居なかつたやうです。格子があるにしても、用心深いお姉樣がそこを開けたまゝ寢む筈はないんですが」
「窓の外は?」
「其處は丁度裏の三軒長屋の空家のあたりになつて居ります」
窓を開けると、其處は庭が狹くなつて、塀までほんの一間ばかり、塀の外には三軒長屋の屋根が、近々と眉に迫るのでした。
平次と八五郎は、念のため裏の三軒長屋を覗きました。
一番手前の金兵衞の家は相變らず洗濯物が長いのや短かいのや、太いのや細いのを取交ぜた三本の物干竿一パイに掛け連ねてありますが、肝腎の金兵衞は留守で、少し智慧の足りないらしい十二三の伜が一人、ぼんやり日向に寢そべつて、何を訊いてもハキハキした返事もしません。
お隣の摘み綿の師匠のお鶴は、平次と八五郎の顏を見ると、下卑た品を作り乍ら、恐ろしい勢ひで捲くし立てました。
「まア、親分さん方、御苦勞樣ですこと、──お隣のお孃さんを殺した下手人は、もう擧がつたさうぢやございませんか。三河屋の若旦那ぢやありませんとも、あの優しい若旦那が、人などを害めるものですか、下手人はお厩の喜三太ですよ、誰が何んと言つても、えゝ」
喋舌り捲くるのを、唯一のお世辭と思ひ込んで居るのでせう、平次もやゝ暫らく、此饒舌の大氾濫を、どうしやうもなく苦笑ひをするばかりです。
「あの晩、お前は家に居たのか」
平次は潮時を見て漸く問ひを投込みました。
「それが不思議ぢやございませんか、お孃さんが行方不知になつた晩も殺されて死骸になつて歸つた晩も、私は他所に泊つて此家には居りませんでした。えゝ本當ですとも、古金買ひの金兵衞さんに留守を頼んで行つたんですから、間違ひはありません。嘘だと思つたら金兵衞さんに訊いて下さい」
「何處へ行つて泊つたんだ」
「あら、親分さん、御存じなかつたんですか。まア、まア」
その大袈裟な表情に、好い加減胸を惡くして居ると、ガラツ八は後ろからソツと囁いてくれました。
「お鶴は時々家をあけて娘のところへ泊りに行きますよ。あんな若作りのくせに三十近い娘があるんです、その娘は池の端の出合茶屋で──」
「よし〳〵解つた。不思議にお前の留守を狙つて變なことが起つたといふのだな」
「さうですよ親分さん」
「ところで、隣の金兵衞には女房があるのか」
「お神さんは五年前に亡くなつたさうで、十三になる男の子とたつた二人暮しですよ」
「何時見ても、恐ろしい洗濯物だが」
「近頃は雨の降る日も洗濯物を取入れませんよ、ホ、ホ、ホ、あれが洗濯狂ひと云ふんでせうね」
妙なところで笑ふお鶴です、それが何よりも結構な媚とでも思つて居るのでせう。
「金兵衞は昔から古金買ひをして居るのか」
「いえ、昔は結構な藝人だつたさうで、本人もそれが何よりの自慢ですよ、尤も何んかの時鼻唄位はやりますが、ちよいと錆のある良い聲で、──それに物眞似が上手ですよ、お隣の御浪人の眞似や三河屋の若旦那の聲色なんか、そつくりその儘で」
「フーム」
「あんな器用な人はありません、智慧も力も人並勝れてゐて、貧乏するのはよく〳〵運ですね、尤も近頃は工面が良いやうですが」
お鶴の饒舌の尚ほ續きさうなのを背後に聽いて、平次は八五郎に眼配せすると、隣の空家の方へ行つてしまひました。今日はよく〳〵中年女の饒舌に祟られる日です。
「八、此處が臭いよ、開けて見な」
「へエー」
八五郎の金剛力を出す迄もなく、空屋の戸はわけもなく開いて、中からはカビ臭い空氣──とは似もつかぬ、爽やかなものを感じさせる、明るさと華やかさが匂ふのです。
「此家は何時頃から空家になつて居るんだ」
「二三年空いてゐるやうですよ、隣が摘み綿の師匠ぢや、まともな人間は住み付きやしません」
「それにしちや變だね」
見渡したところ、一と通り掃除も屆き、火鉢には極く最近炭火を起した形跡もあり、其邊の樣子が何んとなく人間臭く整頓してゐるではありませんか。
「誰か住んでゐましたね」
「そんなことだらうよ」
平次は外へ出ると、空家の前のあたり、鼻の先に立ち塞がる塀越しに隣の浪宅──わけてもお茂世の部屋のあたりを見渡して居りましたが、ヅカヅカと塀側に寄ると、腹這ひになるやうに、其の邊の地面を嗅ぎ廻りました。
「八、──これを何んだと思ふ」
指したのは、一尺ほどの間隔を置いて、行儀よく並んだ長方形の深い穴が二つ。
「梯子を置いた跡ですね」
「お前もさう思ふか」
平次の注意は眼まぐるしく働きました。やがてお鶴の家の後ろから九ツ梯子を一つ見つけて來ると、いきなりそれを二つ並んだ穴の上へ──
「あつ、その梯子だ」
「シツ、聲が高いぞ、八」
スルスルと梯子を登つた平次は、いきなり忍び返しに手を掛けてゆすぶりましたが、これは恐ろしく時代が附いて居る癖に思ひの外嚴重でビクともしません。
「忍び返しは拔けませんか」
と下からガラツ八、
「釘で打ち付けてあるよ、──新しい釘で、フム、五本かな、いや六本かも知れないぞ」
平次は梯子の上で暫らく唸つて居ましたが、やがて下へ降りると、梯子を元へ返して、けゞんな顏をするお鶴と八五郎にはかまはず、古金屋の金兵衞の家の軒から三方に掛け渡した、太く逞しい物干竿を外して、洗濯物を縁側へ投り出したまゝ、ためつすかしつ釣竿屋が釣竿を試すやうなことをして居りました。
「八」
「へエ」
「お前、向うの家へ行つて、妹さんの部屋に入つて、暫らく樣子を見てくれ」
「何を見るんです?」
「疊のめどでも勘定して居るが宜い、俺が聲をかけたら、縁側へ顏を出すんだ」
「へエー」
八五郎は何が何やら解らぬまゝに、飛んで行きました。空家の前から左へ少し行くと路地の行止りで、其處に隣の大瀧清左衞門の浪宅の裏口──恰度妹娘のお勢の部屋から出る木戸があるのです。
八五郎は木戸を押し開けて入ると、丁度其處に居合せたお勢に聲をかけて、裏口から四疊半に入れて貰ひました。
「何にかお手傳をしませうか」
「いや、疊のめどを算へて居りや宜んで、へ、へ、へ」
さう言つて小鼻をふくらませる八五郎の長い顏を、お勢はどんなに不氣味なものにみたことでせう。
併し、本當に不氣味なのは、これから起る不思議な事件でした。
「八、どうだ、疊のめどを勘定したか」
いきなり隣の部屋──曾て姉娘のお茂世が行方不明になつた六疊の部屋から、親分の平次の籠つたやうな聲がするではありませんか。
「親分、何處です?」
「俺は布團を冠つて寢て居るんだよ、ちよいと來て見るが宜い」
「變な冗談ですね」
そんな事を言ひ乍ら立上つた八五郎、何んの氣もなく境の唐紙を開けて、隣の六疊を覗きましたが──
「おや?」
其處には親分の平次の影も形もなかつたのです。
「驚いたか、八。そんなところにマゴマゴして居ると、下手人が逃げ出すよ、大急ぎで裏の空家へ引返してくれ」
親分の平次の聲は、相變らず六疊の中で響きますが、その姿が部屋の中にも縁側にも絶對に見えないことを確かめると、さすがのガラツ八も無氣味になつたものか、
「何處です、親分。人を脅かしちやいけませんよ」
そんな事を言ひ乍ら、呆氣に取られて見送るお勢には聲もかけず、あたふたと裏口から飛出しました。
その時丁度空家の前には、思ひも寄らぬ事件が展開して居たのです。
「御用ツ」
叱咜するのは、ツイ今しがた浪宅の六疊で聲のした親分の平次です。
「何をツ」
恐ろしい勢ひでその平次に突つかゝつて行くのは、中背の猛獸のやうな逞ましい男。それが古金買ひの金兵衞と判るまで、八五郎は一瞬躊躇しました。
「神妙にしろ」
相手が近過ぎたのと、あまりに猛烈な襲撃を受けたので、得意の投げ錢を飛ばす隙もなかつたものか、平次ほどの者も、脆くも突き飛ばされました。
「あツ」
といふ間に飛退つた金兵衞、一氣に逃げようとしましたが、いけません。左の手首には早くも、平次の投げた捕繩がキリキリと卷き付いて居るではありませんか。
「野郎ツ」
ガラツ八の八五郎は猛然と飛付きました。そのうちに立ち直る平次、二人が力を協せさへすれば、金兵衞がどれほど獰猛でも及ぶことではありません。
きり〳〵と縛り上げて見て平次は驚きました。これがあの愛嬌のいゝ柔和そのもののやうな、古金買ひの金兵衞とは思へないほどの變りやうです。顏は絶望と忿怒に藍隈を刷いたやう、毒蛇のやうにキラキラと光る眼、膏汗の浮いたこめかみには蚯蚓のやうな血管が腫れて、風のやうな呼吸、キリキリと噛む齒、此上もなく念入りに縛られ乍らも、ともすれば平次へ飛びかゝらうとするのです。
殺されたお茂世の許婚で、西國のさる大名に仕へてゐるといふ芝田要は、その日の晝頃九州から入府、江戸屋敷の留守居に挨拶した上、その足ですぐ金助町の浪宅に大瀧清左衞門を訪ねました。
許嫁のお茂世の死體は、この人の入府を待つてまだ入棺もせずに居る有樣、其處に通されて、一年振りの死顏に對面した芝田要の驚きは言ふ迄もありません。
「芝田氏、飛んだことに相成つて何んとも申譯はない。が、これと申すも、娘の不所存から起つたこと、本來ならば父親の拙者が坊主になつても詫をするところだが、今更それも詮ないことだ」
父親の大瀧清左衞門は、膝に置いた手を疊に滑らせ、折入つた樣子でこの若い武家に詫るのでした。
「飛んでもない、父上、──それにしても、お茂世殿をこのやうな姿にした下手人は捨て置き難い、何人の仕業で御座る」
芝田要は意氣込むのです、色の黒い、背の高い、左一眼の潰れた醜い武家で、お茂世に嫌はれるのも無理のない姿ですが、その代り正直一途で、健康さうで、何んとなく頼母し氣な青年武士です。
「そのお答へは私から申上げませう」
平次は部屋の隅からにじり出ました。
「あれは?」
「町方の御用を承はる──平次、錢形の平次殿と言はれる」
清左衞門はこの一介の町方御用聞に、並々ならぬ敬服の眼差を注ぎました。
「お孃樣をおびき出したのは裏に住む古金買の金兵衞と申すもので御座いますが、害めたのは、湯島切通しに屋敷を構へる、三千五百石の大旗本、望月丹後と、その用人近藤幾馬と申すもので御座います。お孃樣をおびき出して望月丹後の屋敷につれ込み、その最期まで見て居た金兵衞が、悉く白状した上、口書きまで取つてありますから間違ひ御座いません」
「何んと言はれる」
芝田要の驚きは、やがて主人清左衞門の説明で、激しい忿怒に變つて行きました。
「その望月丹後は、娘を何處やらで見掛けたさうで、強つて傍近く召使ひ度いと人橋を架けて執拗こく申込んだ上、支度金と申して、大金まで持つて來させたのぢや。痩せても枯れても大瀧清左衞門は武士の端くれ、娘を妾手掛にして、榮耀をしようとは夢にも思はぬ。一ヶ月ほど前に用人の近藤幾馬が來た時は、うんと耻かしめて追つ拂つたが──」
清左衞門はさう言つて聲を呑むのです。頑固一徹なやうでも、その爲に美しく育つた十九の娘を、非業に死なせた悔のやうなものが、犇々と老ひの胸をしめ付けるのです。
「その望月丹後は」
と芝田要。
「ぬく〳〵として居ります。相手が三千五百石取の旗本では、どんなに證據が揃つても、町方御用聞風情の手が屆きません」
平次も齒を食ひしばります。惡徳と僞善とを憎み拔く名御用聞の血は沸々としてたぎりますが、超えることの出來ない階級制度は、十手も捕繩も何うすることも出來なかつたのです。
「父上、──その始末をこの芝田要にお任せ下さらぬか」
「?」
「此儘泣寢入りしては、人間の道に反きます。金兵衞とやらの口書を持參して瀧の口評定所へ驅け込み訴へをいたしませう」
芝田要は果してもえ立つやうな男だつたのです。
「それはなるまい。相手は直參の大身、それを相手取つては藩公の御迷惑とも相成る」
「浪人をいたします」
芝田要の答へは至つて簡單です。
「何?」
「百二十石の祿を捨てても、直參の非道を懲せば、惜むところは御座いません、──父上樣も五年前、この芝田要が惡人共に陷れられるのを救はれて三百石の高祿を捨てて浪人なされました」
「だが、娘は、他の男に誘はれて、うか〳〵と夜分外へ出るやうな不所存者であつた」
大瀧清左衞門は、親として此上もなく恥入る樣子でした。
芝田要はそんな事は耳にも入れず、其場から藩の江戸屋敷に戻り、永の御暇を願つた上、錢形平次を伴つて、龍の口評定所へ眞つ直ぐに驅け込んだのです。
それはむづかしい事件でした。が、芝田要の熱情と、その不屈の精神が若年寄を動かし、更に望月丹後の不行跡の數々を、錢形平次が調べ上げて證據を提供したので、幾月かの後龍の口の大評定となり、望月丹後は切腹を仰せ付けられた上、家祿を沒收。用人の近藤幾馬は、舊惡まで露見して縛り首になり、その年の秋には悉く一件落着しました。
「親分、芝田樣と大瀧樣は一緒に歸參が叶つた樣ですよ」
フラリと訪ねて來たガラツ八が、珍らしく嬉しい便りを持つて來たのは朗かな菊日和の晝下がりでした。
「それはよかつた、──俺のところへは、芝田樣とあの妹娘のお勢さんと明後日の晩祝言するさうで、その御つかひが來てゐるよ、──八五郎殿も御同道──といふ文面だ」
「へエ──、武家の祝言は少し肩が張るね」
「贅澤を言ふな」
「ところで、前から聽き度いと思つて居ましたが、あの姉娘のお茂世さんが閉切つた部屋から脱出したり、死骸が出入口のない庭に投り出してあつたのは、どういふわけなんでせう」
八五郎がこの春の奇怪な事件を今更想ひ出して訊くのです。
「何んでもないよ。あの晩、姉のお茂世さんは、妹のお勢さんが、父親の部屋で肩を揉んでゐる間に、そつと妹の部屋から裏口へ忍び出たのさ。まだ宵のうちだから、あの四疊半の雨戸は開いて居たんだ」
「すると、妹のお勢さんに一刻も後で──お寢み──と隣の部屋から聲をかけたのは誰です」
「姉のお茂世さんさ」
「その時はもう歸つて居たので?」
「いや、塀の外の空家の前にゐたのさ、わからないのかな、梯子の上から節々を拔いた竹竿で、自分の部屋の格子窓へ──お寢み──と聲だけ送つたんだ。窓の障子に穴があいてゐたし、雨戸は閉めて居なかつた筈だ」
平次の説明は奇怪です。
「その竹竿は」
「金兵衞のところにあつた三木の物干竿が三木とも節が拔いてあつたよ」
「へエー」
「節を拔いた物干竿を誤魔化すためにあの騷ぎがあつた後は滅茶々々に洗濯物を掛けて居たのさ──おれはそれを見ると何も彼も判つたよ。あの長いのや短いのやいろ〳〵の物干竿を使つて、金兵衞の入智慧で若旦那の敬太郎はお茂世さんを呼出しては逢引して居たんだらう。金兵衞がうんと甘い汁を吸つたことは言ふ迄もないよ」
「──」
ガラツ八は事件の眞相の怪奇さに壓倒されて口もきけません。
「あの晩は望月丹後に頼まれて、金兵衞が敬太郎の聲色を遣つてお茂世さんをおびき出したのさ──金兵衞は藝人崩れで、聲色がうまいと言つたのを知つてるだらう──、敬太郎に呼出されたつもりで、そつと家を脱出したお茂世さんが、敬太郎の姿が見えないので吃驚したことだらうが、金兵衞はそれを撫めすかして切通しの望月丹後の屋敷につれ込み、妾奉公するやうに責めたことだらう。お茂世さんがどうしても言ふことを聽かないので、ツイ責め殺してしまつたのが本當の事だ」
「ひどい事をする二本差ですね。ところで、死骸が出入口のない庭にあつたのは?」
「金兵衞の細工だよ。塀の外から梯子をかけて死骸を運び上げ、忍び返しを拔いて其處から庭へ投げ込んだのさ。古い忍び返しが五六本だけ、新しい釘で打ち付けてあるので氣が付いたよ」
「なアーる、でも首尾よく下手人が擧がつて宜い鹽梅でしたね」
さう説明されると何んでもありません。ガラツ八は此親分の明智のお蔭で明後日ありつける素晴しい祝言の御馳走のことを考へて居りました。
底本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房
1953(昭和28)年10月20日発行
初出:「東北文庫」
1946(昭和21)年
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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