錢形平次捕物控
遺言状
野村胡堂




 柳原の土手下、丁度御郡代おぐんだい屋敷前の滅法淋しい處に生首なまくびが一つ轉がつて居りました。

 朝市へ行く八百屋さんが見つけて大騷ぎになり、係り合ひの町役人や、彌次馬まで加はつて搜した揚句あげく、間もなく首のない死骸が水際のやぶの中から見つかり、それが見知り人があつて、豊島町一丁目で公儀御用の紙問屋越前屋ゑちぜんやの大番頭清六と判つたのは、大分陽が高くなつてからでした。

 ガラツ八の八五郎の大袈裟おほげさな注進で、錢形平次が來たのはまだ檢屍前。

「寄るな〳〵見世物ぢやねエ」

 そんな調子で露拂ひをするガラツ八の後ろから平次はつゝましい顏を出して、初秋の陽の明るく當るむしろを剥ぎました。

 殺された清六は五十七八、小作りの胡麻鹽髷ごましほまげ、典型的な番頭ですが、死骸のむごたらしさは、物馴れた平次にも顏を反けさせます。

「辻斬でせうね、ひどい事をするぢやありませんか」

 八五郎は横から覗きました。

「──」

 平次は默つて首を振りました。こんな下手へたな辻斬があるわけもありません。

「越前屋からは、まだ引取り手が來ませんよ。親分」

 八五郎はそれが不平さうです。

「ツイ二十日前に、主人が卒中そつちうで死んだばかりだから、無理もないが──」

 町役人は辯解がましく口を入れました。さう言へば越前屋の主人佐兵衞が急死したことは、平次もガラツ八も聽いて居りました。重なる不幸で、越前屋の混雜は思ひやられます。

「──その上店のこと萬端取仕切つてゐるをひの吉三郎さんが、大阪へ商賣用で行つてゐるとかで、迎ひの飛脚ひきやくを出す騷ぎでしたよ」

 町役人は更にちうを入れました。

「濡れ手拭を持つてゐるところを見ると、風呂の歸りでせうね。親分」

びんれてゐるよ。──風呂の歸りに、わざ〳〵柳原河岸へ出るのは變ぢやないか。それに──」

 平次は首をかたむけて居ります。

「何か變なことがあつたんですか、親分」

「變なことだらけだ」

「首を斬るのは穩かぢやねエ。辻斬でなくても、下手人は武家に決つてるやうなものですね」

 と八五郎。

「穩かな人殺しといふのはないだらうが、──この下手人は武家ぢやないよ」

「へエ──」

「やつとうの心得などのない人間だ」

「何だつて、それぢや首を斬り落したんでせう」

「それが解れば一ぺんに下手人が擧がるよ」

「?」

「どうかしたら、一度め殺して置いて、それから首を斬り落したのかも知れない。生き身の人間がこんなに斬りさいなまれ乍ら、默つて居るわけはねエ、いくら柳原でも、家もあれば人も通る」

 平次は早くも事件の祕密に觸れて行くのでした。

「親分、死骸の側に斯んな物が落ちて居たさうだが、何かの役に立ちますかえ」

 懷中煙草が一つ──印傳いんでんかます赤銅しやくどうあぶの金具を附けた、見事な品を町役人は平次に渡しました。

「これは良いものが手に入つた。何處に落ちてゐたんだ?」

「死骸の下敷きになつてましたよ」

「文句はねエな。死骸の下に煙草入をねぢ込むやうな物好きな野郎はあるめえから」

 ガラツ八は又とがつた口を入れます。

 其の時、ドカドカと驅け付けて來たのは、豊島町一丁目の越前屋の人達です。



 越前屋の同勢の中で頭立つたのは、これも主人のをひで金次といふ若者。まだ二十五六の、遊びぐせの拔け切らないのを、叔父の佐兵衞に引取られて、年上の從兄いとこ吉三郎と一緒に、商賣を仕込まれてゐるといつた、一寸好い男です。

 その外めひのお辰といつて、二十一になる美しいの、居候で浪人者の岩根源左衞門。これは名前だけはおつかない敵役のやうですが、ヒヨロヒヨロとした青白い四十男で、劍術よりは下駄の鼻緒はなをを直したり、障子を張つたり月代さかやきを當つたりすることのうまい人間です。あとは奉公人多勢、唯もう逆上のぼせ氣味で、番頭の遺骸を中に騷ぐばかり。

「店の支配人は居ないのか。──騷いでばかり居ちや調べが出來ない」

 檢屍の同心苅田かりた孫右衞門は、驅けつけ樣、この混亂を睨め廻しました。

「へエ、支配人の吉三郎は大阪へ行つて居ります」

 甥の金次は小腰を屈めます。

「番頭の清六が殺されて、支配人が留守だとすると、あとの取締りは誰がするのだ」

「私で御座います、へエ」

 若くて少し道樂強さうな、金次に、越前屋の取締は出來るかどうか、同心苅田孫右衞門も胡散うさんな眉を寄せました。

「支配人は何時歸るのだ」

「二十日前に主人佐兵衞が頓死とんしいたしましたので、その日のうちに大阪へ急使を出しました。何分上り下り二十四日の旅程で、大阪で出發前に一二日手間取ると見ても、あと六七日經たなければ、江戸へは戻りません」

「それでは、支配人の吉三郎が戻るまで、お前が代つて店の支配をすると思つて差支へはあるまいな」

「へエー」

「此處では調べもなるまい。一同の者は番所へ參れ、死骸も運んで來るがよい」

 苅田孫右衞門が先に立つて、一同の者をツイ眼と鼻の間の、淺草橋番所へ引揚げました。

 調べの結果、いろ〳〵の事が判つて行きます。主人佐兵衞が二十日前に死んだのは、明かに卒中で、これは越前屋の者が口を揃へて言ふことに疑ひもありません。

 支配人の吉三郎は丁度三十の働き盛りで、評判の商賣熱心、伯父の代理で大阪へ行つたのは一と月前、ゆく〳〵越前屋の身上しんしやうはこのをひに讓られるだらうといふ噂もありますが、一方吉三郎と嫁合めあはせる筈で、同じ越前屋に引取つて養つてゐるめひのお辰は、もう一人の甥の金次と氣が合ひ、兎角吉三郎を嫌ふ樣子があり、佐兵衞はそればかり氣にして居りました。

 吉三郎と金次は、どちらも佐兵衞の甥に相違ありませんが、年上の吉三郎は少し陰氣ですが、思慮しりよ分別もあり、人間も堅くて、商賣熱心な上、伯父の佐兵衞にもこと〴〵く氣に入つて居りますが、若い甥の金次は、明るくて好い男で、皆んなに可愛がられる代り、道樂氣が拔けないので、伯父の佐兵衞には、甘えたり、叱られたり、まるつ切り子供扱ひにされて居ります。

「昨夜の事をくはしく申して見るが宜い」

 苅田孫右衞門はうながしました。

「番頭の清六どんが、手拭を下げてブラリと出たのは、店が閉つてから──戌刻半いつゝはん(九時)時分で御座いました。清六どんは恐ろしい湯好きで、内風呂の立たない晩は、必ず町内の巴風呂へ參ります」

 金次は皆んなの顏を見乍ら、思ひ出し思ひ出し續けました。

「──清六どんの出たのは、皆んなよく存じて居ります。それつ切り一刻待つても歸らないので、表戸を閉めさせ、裏口を開けて寢てしまひました」

「不用心ぢやないか」

「でも、夜遊びなどする人ではなし、必ず歸ると思ひましたので」

「それつ切り歸らなかつたのだな」

「へエ。──昨夜歸らないのを、今朝になつて氣がつきました、店中で騷いでゐると、柳原で殺されてゐるといふお使ひで──」

「ところで昨夜ゆうべ誰も出た者はないのか」

「なかつた筈で御座います」

「裏口を開けたまゝ寢てしまつたのなら、それから出た者があるかも知れないではないか。──風呂から歸りかけてゐる清六を途中から柳原へさそひ出して、殺すといふもある──」

 苅田孫右衞門はさすがに氣が付きます。

「番頭さんは長湯かえ」

 錢形平次は不意に口をはさみました。

「いえ早い方で、毎晩入るから。──俺のはからす行水ぎやうずゐだ──と申して居りました」

 金次はぼんやり顏を擧げます。

「表戸を締めたのは、たしかに番頭が出てから一刻も經つた後だらうな」

「手代の巳之松と丁稚の三吉が締めました。間違ひは御座いません」

「その間お前は何をしてゐたんだ」

「帳場で帳合を見て居りました」

「誰も外へ出たものはないな」

「へエ」

 平次は細かく店中の者の不在證明アリバイを調べて行くのです。

「お辰さんは?」

「奧でお仕事をして居りました」

 これも金次の證明ですが、手代、小僧、誰の顏にも、それに反對の色はありません。

岩根いはねさん──とか言ひましたね。旦那は?」

「裏の四疊半──これは私の部屋だ。其處へもぐつて、早寢をして居りましたよ」

 居候浪人──岩根源左衞門は多勢の後ろから、首だけヒヨロ高い身體を浮かしました、恐ろしくくだけた二本差です。

「お部屋へ引取つた時刻は?」

酉刻半むつはん──いや戌刻いつゝ近かつたかな。小僧の三吉がよく知つてゐるよ」

 その部屋から、そつと拔出せるかどうか、それはいづれ後刻實地を調べる外はありません。

「ところで、此の煙草入は誰の物だ」

 平次はズラリと並んだ越前屋の奉公人の鼻先へ、何の技巧ぎかうもなく、死體の下にあつた印傳いんでんの煙草入をズイと出したのです。

「私の品で御座いますが」

 金次の答へも、それにおとらず無造作でした。

「これが死骸の下から出て來たのはどういふわけだ」

「──」

 恐ろしい緘默、重つ苦しい空氣の中で、越前屋の奉公人達は、お互の顏をそつと盜み見て居ります。



 それから二日、越前屋の番頭殺しの下手人は、わけもなく擧がりさうで、一向眼鼻もつかなかつたのです。

 越前屋は數萬兩の大身代で、その跡取は當然問題になるべき筈ですが、遺言状ゆゐごんじやうを預つてゐる筈の番頭清六が殺され、支配人の吉三郎が大阪から歸らなくては、何が何やら見當も付きません。一番疑はれるのは、當然吉三郎と相續爭ひになるをひの金次ですが、金次は亥刻半よつはん(十一時)過ぎまで帳場に居たことが明かになり、早い湯の清六がそれ迄風呂にひたつて居る筈はないのですから、これは煙草入の證據があつたにかゝはらず、からくも繩目をまぬがれました。尤もその煙草入も半歳程前に支配人の吉三郎から貰つたもので、滅多に持つて歩くやうなザツな品でないといふことも辯解の一つになりました。

 浪人の岩根源左衞門も、佐兵衞の遠縁に當るさうで、遺言状がなくなれば、何かの利得にありつける一人ですが、當夜自分の部屋で早寢をしたといふに嘘はなく、店中の人の起きて居るうちは、人に姿を見られないやうに、外へ出ることなどは思ひも寄りません。

 姪のお辰も當然疑ひの圈内けんないに入るべきですが、二十一になる華奢なお辰では、蟲一匹潰すのさへむづかしく、大の男の首をちよん切ることなどは、どう考へても出來ないことです。此上は支配人の吉三郎が歸るのを待つて、第二段の活動に入り、遺言状でも搜し出して、下手人の當りをつける外はないことになりましたが、清六が殺されてから二日目の晩、

「親分、助けて下さい」

 向柳原むかうやなぎはらの伯母さんの家にとぐろを卷いて居るガラツ八の八五郎のところへ、思はぬ人間が飛込んで來ました。

「何だ。植木屋の松さんぢやないか。どうしたといふんだ」

 それは近所に住んでゐる植木屋の松五郎といふ中年男、八五郎とはよく馬の合ふ正直者です。

あつしは殺されさうなんで」

「何を言ふんだ、親の敵でも討たれる覺えがあるのか」

「冗談ぢやありませんよ」

「それとも人に狙はれるほど金でも入つたのか」

「それなら有難てえが。──相變らずのピイピイで」

「さア判らねえ。女出入りにしちや、松さん少し汚なくけ過ぎたぜ」

 八五郎は何處までも茶にして居るのです。

「兎も角、聞いて下さいよ、八五郎親分。一昨日をとつひの晩は越前屋の歸り、柳原でいきなり暗闇から白刄で突つかけられ、跣足はだしになつて逃げ出したし、昨夜は家へ押込みが入つて、すんでの事に寢首を掻かれるところだつたし、ツイ先刻は兩國橋の上から、もう少しで大川へ突き落されるところでしたよ。欄干らんかんに掴まつたから宜いやうなものの、さうでもなきや、あつしは徳利同樣だ、今頃は土左衞門になつて居るところで。──ブルブルブル」

 松五郎は首をちゞめるのでした。

「成程そいつは物騷だ。──何か人に狙はれる覺えがあるのかい」

「ないこともありませんよ」

「何だい、そいつは?」

「越前屋の番頭さんが殺された一件で」

「フーム」

 八五郎もツイ乘出しました。

あつしはね、越前屋の亡くなつた旦那には可愛がられましたよ。お前は少し馬鹿だが正直で氣がおけなくて宜い──つて」

「成程ね」

「──で、番頭の清六さんとあつしを呼んで旦那の仰しやるには──私も段々取る年で、何時ぽつくり行かないものでもない。氣になるのは死んだ跡の越前屋の相續だ。口で言つたんぢや世間で信用しない者もあるだらうから、遺言状ゆゐごんじやうを作つて、私が死んだ後、甥の吉三郎と金次と、姪のお辰と、それに番頭の清六とお前が立ち會ひの上で見ることにして置き度い──とういふわけで」

「フーム、フーム」

「番頭の清六さんとあつしを手傳はせて、三人力をあはせて遺言状を隱しましたよ」

「何處に隱したんだ」

「そいつは滅多めつたに言へません。番頭さんが、死んだ上は、吉三郎さんが、大阪から歸つた上で、皆んな顏を合せて、あつしから申上げ、遺言状を取出して、その通りにしなきやなりません」

「お前を殺して、どうしようと言ふのだらう──その遺言状をる氣かな」

あつしを殺せば、遺言状の隱し場所は誰にも判りやしません。番頭さんは殺されてしまつたし、遺言状は其のまゝくさつて了ひますよ」

「腐つて了ふ」

「へエー」

「兎も角、そいつは俺一人の思案ぢやらちがあかない。ちよいと錢形の親分のところへ行つて見ないか」

 八五郎はさすがにおのれを知つて居りました。

「もう外へ出るのは御免ですよ。此處へ來るんだつて、容易のことぢやなかつたんで、誰かけて居る樣子で」

「氣の弱いことを言ふな」

「でも、何處から白刄が飛出すか、わかつたものぢやありません」

「よし〳〵、それぢや俺だけ行つて來る。此家こゝから外へ出ちやならねえよ」

「出ろつたつて出やしません」

「大丈夫だな」

 八五郎は萬事を伯母に任せて、親分の錢形平次の家へ驅けつけました。



 ガラツ八が平次をつれて引返して來たのは、それからほんの一刻の後。

「松五郎さんは直ぐ歸つたよ」

 あれほど頼まれた伯母は、けろりとしてんな事をいふのです。

「えツ、あんなに言つて置いたのに、何だつて歸つたんだらう」

 八五郎ははなはだ拍子拔けの氣味でした。

「だつて松さんの伜の──丑松とか言つたね。──あの子が迎へに來たんだよ」

「仕樣がないなア」

「松五郎の家といふのは遠くはあるまい。行つて見ようか、八」

 平次は氣輕にさう言つてくれます。

 其處から、松五郎の家までは、ほんの五六丁。

 が、二人は行き着く前に、大變な事件にでつくはしてゐたのです。

「何だえ、八、あの人だかりは?」

 柳原土手、提灯の行き交ふ中へ、平次とガラツ八は顏を持つて行きました。

「あ、大變ツ、松さんが」

 それは思ひも寄らぬ事でした。植木屋の松五郎は後ろから胸のあたりを一と突きにされて、土手の上にこと切れ、血だらけの死骸に取縋とりすがつて、十三になる伜の丑松は泣いてゐるではありませんか。

「どうした、丑松」

 それを抱き起すやうに、八五郎。

「わーん、ちやんが、ちやんが、親分」

 小伜はもう他愛もありません。

 いろ〳〵なだめてくと、八五郎の伯母の家から父親とつれ立つて、此處までやつて來ると、いきなり後ろから追ひ拔いた男が、父親──松五郎の背中から脇差を突つ立て、はツと思ふ間もなく逃げ去つたといふのです。

 素より人相も判らず、身扮みなりもはつきりしません。

 盜られたものは一つもなく、急所の重傷に、松五郎は直ぐ息が絶えた樣子ですが、死に際にたつた一と言。

ちやんは苦しさうに、石、石、──つて言つたよ。石を拾つて、惡者へはふれといふ事かと思つたが、眞つ暗でもう何んにも見えなかつたんだ」

 丑松の言つたのはたつたこれだけ、何の事やら見當もつきません。曲者の姿で、をさない丑松の眼にも氣の付いたのは、草鞋脚絆わらぢきやはんに足を堅めてゐたことですが、その晩は小雨が降つて、何となく薄寒かつたので、曲者が草鞋脚絆に身を堅めてゐたところで大した不思議ではありません。

 植木屋の松五郎殺しが、越前屋の番頭殺しと、脈を引いて居ることは判りますが、下手人は誰かといふことになると全く五里霧中です。

 越前屋の金次にも、浪人の岩根源左衞門にも、完全な現場不在證明アリバイがないにしても、大した怪しい節もなく、お辰も此の場合も疑ひの外に置かれます。

 わけても、金次は其の時分風呂へ行つたと判り、疑へば疑へる地位に立ちましたが、風呂屋の番臺で聽いても、確かに湯に入つて居り、それにわざ〳〵足拵あしごしらへなどをするひまがあらうとも思へず、浪人者の岩根源左衞門は、相變らずの早寢で、外へ出た樣子もありません。

「親分」

「何だ、八」

 八五郎が飛込んで來たのはその翌る日の朝でした。

「三輪の萬七親分が、金次を擧げましたぜ」

「へエー」

「清六殺しの松五郎殺しですつて」

「そいつは變だな」

「大丈夫でせうか、親分」

「俺はそれより、浪人者の寢る四疊半に、拔け穴でもないか、それを搜した方が早いと思ふよ」

「あの浪人者が。──下手人ですか、親分」

「いや、さうらしくないから困るんだ」

めひのお辰はどうでせう。──あの女はやけに綺麗だが、何を訊いても物を言はず、二人が殺された時刻にも、何處に居たか判りませんよ」

「まさか、あの娘の手際ぢやあるまいよ」

 平次はあまり取合ひません。

「それから、大阪へ支配人を迎へにやつた越前屋の使ひの者が今日歸つたさうですよ。丁度二十四日目だ。支配人の吉三郎は二日遲れて發つた筈だから早くて明日、遲ければ明後日江戸へ入るんですつて」

「フーム」

「越前屋から、今朝迎ひが出ました。川崎の萬年屋まんねんやで落ち合ふ筈ださうで──」

「行かう、八」

 錢形平次はいきなり立ち上がりました。

「何處へ行くんで、──親分」

「川崎の萬年屋だ。大阪から歸つて來る支配人に會つて、いろ〳〵訊いて見たい」

「へエー」

 ガラツ八には何が何やら判りませんが、斯うなると、錢形平次に引摺ひきずられて動く外はありません。



 平次と八五郎が川崎の萬年屋に着いたのは、その日の晝少し過ぎ、越前屋の手代二三人は、お茶を呑んだり、外を覗いたり、落つかぬ樣子で支配人の着くのを待つて居ります。

「おや錢形の親分さん?」

 けゞんな顏をする手代達に迎へられて、

「大師樣の歸り、ちよいと覗いて見ただけさ」

 平次は事もなげですが、大師樣をだしに使ふのはくすぐつたいのか、八五郎はテレ隱しにポリポリ小鬢こびんを掻いて居ります。

 そのうちに、

「來ましたよ。あれ、向うから支配人さんが」

 物見に出て居た小僧が飛んで來ました。それツと店先へ出ると、

「おや〳〵、わざ〳〵多勢で此處まで來て下すつたのか。それは御苦勞樣で」

 越前屋の支配人吉三郎は、長途の旅に困憊こんぱいし盡した姿乍ら、ほこりだらけの顏にも豊かな微笑を浮べて、皆んなの前に近づくのでした。

「昨夜の泊りは何處でしたえ」

 不意に聲を掛けたのは八五郎です。

「戸塚の米田屋よねだやで──」

「その前の晩は?」

「大磯の虎屋で──あ、お前さんは、どなただえ」

 吉三郎はまじ〳〵と八五郎の顏を見るのでした。それを横から取つて錢形の平次は、

「吉三郎さん、留守に大變な事が起つたよ。番頭の清六さんと植木屋の松五郎が殺されて、大旦那の遺言状がなくなる騷ぎさ」

「えツ」

あつしは平次だ」

「錢形の親分さん。──さうでしたか、それは〳〵」

 吉三郎はやうやく平靜を取戻した樣子です。

 それからは何事もなく、迎への店の人達と一緒に、少し足を痛めたらしい吉三郎は、平次を加へて、何彼と打語り乍ら、江戸へ入りました。

 吉三郎が歸つて來ると、越前屋も何となく落着きを取戻して、日頃の秩序ちつじよよみがへります。

 跡目の相續は、吉三郎か金次か、それともお辰か、いづれ親類が寄つて、亡くなつた佐兵衞の氣持を考へ合せた上、何とか決めることになりましたが、それにしても、せめて三十五日が濟んでからといふのが吉三郎の穩當な主張でした。

 松五郎殺しの疑ひで、三輪の萬七に擧げられた金次は、三日經つても、四日經つても歸らず、そのまゝ清六松五郎殺しの下手人に決まるのではないかと思はれた七日目の晩、平次の家へ──。

「親分さん、どうぞ、金次さんを助けて下さい。あの人は人なんか殺すやうな惡い人ぢやありません。お願ひ──」

 轉げ込んで來たのは、越前屋のめひのお辰でした。

 二十一になるといふのに、子供々々した美しさで、その純情さも、一と通りではない樣子です。

「お辰さんぢやないか。どうしたといふのだ、今頃──」

「今晩親類達が寄つて、私を吉三郎さんと一緒にして、越前屋の後を繼がせることに決めました。私はもう」

 お辰はたゞさめ〴〵と泣くのです。

「支配人の吉三郎さんは、それで、どうしたんだ」

「一應は辭退して居ましたが、皆んなで決めてしまつては、どうしやうもありません──吉三郎さんが跡を取つても構ひませんが、私は嫌で、嫌で」

「よし、判つた。俺もあの吉三郎といふ男は蟲が好かないよ。そのうちに何とかなるだらう、少し待つてくれ」

「でも私は、越前屋へは歸られません」

 お辰がむづかつて居る眞つ最中でした。

「親分、判つた。──あゝ、草臥くたびれた」

 疾風はやてのやうに飛込んで來たのはほこりだらけの八五郎でした。

「八、御苦勞だつたな。どうだ樣子は?」

「川崎から眞つ直ぐに東海道を、大磯まで行きましたよ。吉三郎が前の晩泊つたといふ米田屋で訊いたが、その晩は講中の客で一杯、ふりの客は皆んな斷つてゐる」

「大磯の虎屋は?」

「こいつは大笑ひだ。大磯に虎屋なんて旅籠屋はないぜ。大磯に虎屋があるなら、少將屋せいしやうやもあるだらうつて、へツへツ」

「そんな事だらうと思つたよ」

「すると、あの吉三郎の野郎が」

「うん、あの野郎だ。大阪から江戸まで十二日の旅だが、早飛脚はやびきやくは十日から八日で通すのが常法だ。三枚で飛ばせば七日でも來られないことはない。あの野郎、越前屋から行つた急使を一日早く發たせて、その後から金に糸目をつけずに飛ばし、七日目か八日目に江戸へ着き、案内知つた自分の家へまぎれ込んで樣子をさぐつた上、金次の煙草入を持出して、清六の風呂へ出るのを待ち受け、途中から柳原河岸へおびき出して殺したんだ」

「首を斬つたのは?」

「煙草入が證據にならなかつたら、浪人の岩根源左衞門に疑ひを向けるつもりだつたのさ」

「へエー」

「それから松五郎をねらつて殺し、遺言状をうやむやにして越前屋を乘取るつもりだつたんだらう。吉三郎は支配人面をして威張つて居ても、主人の佐兵衞は目が高いから、跡目は人の好い金次にがせるつもりだつたのさ」

「へエー、どうしてそんな事がわかつたんです、親分」

「俺は小僧の三吉に頼んで、吉三郎の道中差を盜み出させたよ。よく拭いては居るが、あぶらでベツトリだ」

「へエー」

「さア行かう、これだけ證據が揃へば文句は言はせねえ。面倒な事が起つたら、道中の問屋場と人足を調べるまでの事だ。──松五郎を殺して引返し、川崎へ埃だらけになつて來た足取りを調べるだけでも澤山だ」

 平次とガラツ八は、其足で直ぐ越前屋に飛込み、落着き拂つて親類會議のお祝儀しふぎを受けて居る吉三郎をキリキリと縛り上げました。

「太てえ野郎だ、神妙にせい」

 いやもう八五郎の威勢のよかつたこと。

        ×      ×      ×

 金次は、間もなく許されて歸り、お辰は平次の口添くちぞへで、金次と祝言することになりました。

 が、困つたことに、越前屋佐兵衞が、番頭の清六と、植木屋の松五郎に手傳はせて隱したといふ、大事な遺言状の行方がわからず、越前屋の跡を繼ぐ者もないまゝに、五日十日と過ぎました。

「親分、遺言状はどうしたでせう」

 越前屋の家中の者を指圖して、家の中から土藏まで、床下天井の差別なく搜し拔いた八五郎は、毎日歸つて來るとう平次に聽くのでした。

「待つてくれ、八。死んだ主人が一人で隱せなくて、番頭清六と植木屋の松五郎に手傳はせたと言つたらう」

「だから敷石をいだり、井桁ゐげたくづしたり、土藏の壁まで崩しましたよ」

「そんな場所ぢやあるまい。それから、松五郎は死に際に、伜の丑松に何とか言つたさうぢやないか」

「石をはふれと言つたんでせう」

「それだよ、石、石と言つたのは石を抛れといふのではなかつたんだ。重い石──重い石──、判つたよ。八」

「何處です。親分」

「越前屋の菩提所ぼだいしよは何處だ?」

「谷中の長海寺で──立派なたふがありますよ」

「それだツ」

 平次の推理すゐりは見事に的中しました。谷中の長海寺の越前屋の墓所の塔の中に、金次をお辰と嫁合めあはせて越前屋の相續人にすると書いた佐兵衞の遺言状は、その晩のうちに見つかつたのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第十八卷 彦徳の面」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年1020日発行

初出:「文藝讀物」文藝春秋社

   1943(昭和18)年10月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年1213日作成

2017年34日修正

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