錢形平次捕物控
紅い扱帶
野村胡堂




 小網こあみ町二丁目の袋物問屋丸屋六兵衞は、到頭嫁のお絹を追ひ出した上、伜の染五郎を土藏の二階にめてしまひました。

 理由はいろ〳〵ありますが、その第一番に擧げられるのは、染五郎は跡取には相違ないにしても、六兵衞の本當の子ではなく、わらの上から引取つたおひで、情愛の上にいくらかかみしもを着たものがあり、第二番の直接原因は、お絹の里が商賣の手違ひから去年の暮を越し兼ねて居るのを見て、ツイ父親に内證ないしよで五百兩といふ大金を染五郎の一存で融通ゆうづうしたことなどが知れた爲だと言はれて居ります。

 しかし、もつと〳〵突込んだ本當の原因といふのは、染五郎とお絹の仲が良過ぎて、ツイしうとの六兵衞の存在を忘れ、五十になつたばかりの獨り者の六兵衞は、筋違ひの嫉妬しつとと、無視された老人らしい忿怒のやり場に、若い二人の間を割いたとも取沙汰されました。

 丸屋六兵衞のしたことは、その頃の社會通念から言へば、一々もつともで、公事師が束でかゝつても、批辯の持込みやうはありません。お絹は染五郎との仲を割かれ、泣く〳〵新茅場町の里方へ歸り、染五郎は小網町二丁目の河岸つ縁に建てた、丸屋の土藏の二階に籠つて、別れ〳〵の淋しい日を送つて居るのでした。

 二人は併し、生木なまきを割かれたまゝ、ぢつと運命に甘んじてゐるにしては若過ぎました。土藏の二階に追ひ上げられて、暫らくの謹愼をひられた染五郎が、先づ思ひ出したのは、お絹が嫁入りする前のかつての日、此處から川をへだてて、新茅場町のお絹の家の裏二階と合圖を交し合つた昔の記憶だつたのです。染五郎の家の小網町と、お絹の家の新茅場町とは、陸地を拾つて行く段になると、右へ廻つて思案橋又は親爺橋、荒布あらめ橋、江戸橋、海賊橋と橋を四つ、左へ廻つて箱崎橋──一にくづれ橋──港橋、靈岸橋と橋を三つ渡らなければなりませんが、眞つ直ぐによろひの渡しを渡れば眼と鼻の間で、丸屋の土藏の二階窓から、お絹の里の福井屋の二階は、手に取るやうに見えるのでした。

 染五郎は早速窓の格子かうしに手拭を出して見せました。千萬無量の思慕を籠めた手拭が、ヒラヒラと夕風にひるがへると、それを待ち構へたやうに、川を隔てた福井屋の二階欄干からは、赤い鹿の子しぼりの扱帶しごきが下がるではありませんか。

「あ、お絹」

 染五郎は思はず乘り出しました。欄干らんかんの赤い扱帶こそは、かつて戀仲だつた頃のお絹が、萬事上首尾といふ意味を、川をへだてて染五郎に言ひ送る合圖だつたのです。この合圖を受取つた昔の染五郎は、何を措いてもよろひの渡しを越えてお絹に逢ひに行きました。

「若旦那、お樂しみですね」

 さう言ふ渡し守のずるさうな顏を見ると、染五郎はツイ餘計な酒代さかてをはずまなければならなかつたことなど──今はもう悲しい思ひ出になつてしまつたのです。土藏の中に閉ぢ籠められてゐる染五郎にしては、此處を拔け出して、川向うへ行く工夫はつきません。

 うして焦躁せうさうの幾日か過ぎました。父親六兵衞の怒は容易に解けさうもなく、そのうちに丸屋の親類や仲人の出入りの激しくなる樣子を見ると、いよ〳〵嫁のお絹を離別するつもりになつたことが、土藏の中の染五郎にもよく判るのでした。あれほど染五郎が目をかけてやつた店中の者は、主人六兵衞の眼を怖れて一人も近づかず、三度の物を運んでくれる小僧の留吉だけは、何彼と心配をしてくれますが、十三や十四の少年では、染五郎の憂悶いうもんを救ふ工夫もありません。

 その中にたつた二人、染五郎とお絹の割かれた仲に同情してくれる者がありました。一人は石卷左陣いしまきさぢんといふ浪人者で、丸屋の裏に年久しく住み、袋物の内職をさせて貰ひ乍ら、染五郎に道樂の指南をした中年男。もう一人はお半と言つて丸屋のかゝうどですが、死んだ六兵衞の女房のめひで、取つて二十二になる小意氣な年増女です。

「若旦那」

「あ、お半か」

 染五郎は不意に階下したから聲を掛けられて、窓格子にしがみ付いた顏を離しました。

「可哀想に、お絹さんが合圖をして居ますね」

「──」

 お半は何も彼も知つて居たのです。

「呼んでおあげなさいよ、若旦那。──これつ切り別れ話になると、お絹さんは生きちや居ませんよ」

 お半はホロリとするのです。小意氣ではあるが、自分のみにくさを意識して居るお半は、お絹と染五郎の仲を、犧牲ぎせい的な心持で同情してやつて居るのでした。

「どうすれば宜いのだ、お半」

よろひの渡しは人目に立つが、大廻りに橋を渡つて來る分には、江戸の街に關所はありやしません。暗くなつたら此處へ來るやうに、合圖をして御覽なさいよ」

「合圖」

「赤い扱帶しごきが=萬事上首尾、忍んで來い=といふ合圖ぢやありませんか」

「えツ」

「私が知らないと思つてゐらつしやるの、若旦那。──長い間見せつけられたんですもの、どんな事でも見通しよ。ホ、ホ」

 お半は少し蓮葉はすつぱに言つて、笑ひを噛み殺すのです。

「?」

「若旦那の方から行かれないんだから、今度はお絹さんが通ふ番ぢやありませんか。合圖をして御覽なさいよ。──扱帶しごきは私のでも間に合はないことはないでせう」

 くる〳〵と解いたお半の扱帶、同じ緋鹿ひか子絞こしぼりを、自分の手で土藏の窓からサツと、外へ投げかけました。

 川を隔てて、それを見たお絹は、どんな轉倒した心持になつたことでせう。此時福井屋の二階のほのめく物の影は、欄干らんかんに乘出してヂツと此方を見入るのが、夕陽の中に白々と浮き上がるのです。



 その翌る朝、丸屋六兵衞の死體は、店と土藏の間、ろくな陽の當らない、ジメジメした路地の中に發見されました。

「わーツ、た、大變ツ」

 張りあげたのは小僧の留吉です。

「何んだ〳〵」

 飛出した多勢の中には、番頭の宗助も、掛り人のお半も、下女のお角も、手代の竹松も居りました。

 傷は浴衣ゆかたの後ろから一と突き、路地一パイにひたす血潮の中に、頑固ぐわんこてつで鳴らした六兵衞は、石つころの樣に冷たくなつてゐるのでした。

 其處に集まつた人數は、互に顏を見合はせるばかり、暫くはどうして宜いのか見當も付きません。

「旦那樣」

 番頭の宗助は、兎も角主人の死體を抱き起しましたが、そんな事をしたところで、呼び生けられるわけでもなく、唯恐ろしい沈默を破つて、自分の息づまる心持をまぎらすだけのことです。

「何んだ〳〵」

 木戸の外から聲を掛けたのは、庭下駄をつゝかけて、房楊枝ふさやうじをくはへた浪人者の石卷左陣でした。三十二三の總髮、袋物の内職もやれば下手なうらなひもやると言つた、器用貧乏の見本のやうな男、武藝も學問も大したものでない代り、口前と男前だけは相應です。

「あ、石卷さん、主人が──」

 宗助は助け舟が欲しさうに乘出しました。

「これは大變。──だが、そんなに荒しちや後が困る、無暗に足跡あしあとをつけないやうに。──それから、外科と町役人に飛ぶんだ。若旦那はどうした、此騷ぎの中に見えないやうだが」

 さすがに浪人者の左陣は落着いて居ります。

「藏の二階ですよ」

 お半は口惜くやしさうでした。

「そいつは一番先に出さなきや。──窮命きうめいも時によりけりだ」

 うなると石卷左陣が命令者でした。

 一人は外科へ、一人は町役人へ、一人は土藏の扉を開けて若旦那の染五郎を出す爲、左陣は生濕なまじめりの路地に足跡をつけるのを嫌つて、大廻りに店口の方から入つて來ました。

 間もなく飛んで來た外科は、一と眼に引導いんだうを渡してしまひました。傷は後ろから一と突きしたもの、多分聲も立てずに死んだことでせう。それと前後して、町役人と一緒に乘込んで來たのはガラツ八の八五郎でした。近所まで用事があつて、暑くなる前に片付けるつもりで來たのが、フト順風耳に入つた丸屋六兵衞殺しを、手柄にするつもりもなくのぞいたのです。

「おや、八五郎親分」

 道樂者の石卷左陣は、こんな調子で迎へました。

「大變なことになりましたね、石卷さん」

「後ろからやられてゐるんだから殺しには違ひない。八五郎親分の良い手柄になるぜ」

 左陣はそんな事を言ひ乍ら、色々の事を説明してくれるのでした。

 丸屋の六兵衞と伜染五郎の關係、嫁のお絹を里へ歸して染五郎は今朝まで現に土藏の二階に押込められてゐた事、丸屋の主人は頑固ぐわんこで一徹者てつものだが、商賣熱心といふだけで、人にうらみを買ふやうな人間でない事。

「盜られた物は無かつたのかな、番頭さん」

「へエ、何んにも盜られた樣子はございません。主人は金のことはまことに几帳面きちやうめんな方で、私の知らない出入りは無い筈で御座いますから」

 ガラツ八の問ひに對して、宗助はもみ手をしながう言ふのでした。

「この木戸は開いてゐたのかな」

 ガラツ八は路地から河岸かしぷちに通ずる、粗末な木戸を指しました。

「開いて居ましたよ」

 死骸を見付けた小僧の留吉です。

「多勢で踏み荒しちや何んにもならないから、此處へは人を寄せ付けないやうにしたんだが──」

 さう言ひながら左陣はしめつた土の上を指しました。よく見ると、死骸のあつた場所から店の方は散々踏み荒して、何が何やらわかりませんが、死骸から木戸まで三四間ほどの間は、左陣の注意でよく保存されたらしく、すかして見ると、小刻みの足跡がはつきり讀めるのです。

「此處はあまり人が通らないのか」

「滅多に通りません。暗くて陰氣で、何時でもジメジメして居りますから」

 番頭の宗助はちうを入れました。足跡をよけて木戸の外へ出ると、河岸つ縁は初秋の陽が一パイに射して、クワツとするやうな明るさ、鼻の先のよろひの渡しをへだてて、向う河岸の家並が、人間の表情まで讀めさうに見えるのでした。

「お、あれはどうした?」

 ガラツ八は土藏の二階窓をふり仰ぎました。其處からは赤い鹿の子絞りの扱帶しごきが、仕舞ひ忘れた洗濯物せんたくもののやうに、朝風にハタハタと動いて居るではありませんか。

「へツ、氣が付きましたかえ、親分。あいつは合圖なんで」

 小僧の留吉が應じます。

「合圖?」

「若旦那が、新茅場町の福井屋に歸つて居る、御新造への合圖を送つたんで。へツ」

「お默りツ」

 お半は我慢がまんのなり兼ねた樣子で留吉の耳を引つ張りました。

「痛いぢやないか、お半さん」

「お前は本當におしやべりだよ。子供はそんな事を言ふもんぢやない」

「チエツ」

「いや、言つてしまつた方が宜い。──その合圖はどうしたんだ」

 ガラツ八の八五郎はあわてて口を入れました。

「親分さん、小僧の言ふことなどをに受けないで下さい。そいつは何んでもありませんよ」

 お半は必死の調子でその場をつくろひますが、土藏の窓に下がつた赤い扱帶しごきの祕密は、ガラツ八の注意をひしとつかんで容易にわき目を振らうともしません。



「親分、大手柄ですよ」

 その晩ガラツ八の八五郎は、鳴物入りで平次の家へ飛込みました。

「何んだ騷々しい、一番槍一番首と言つたやうな手柄かい」

 錢形の平次は夕飯の膳を押しやつて胸一杯の凉風を享樂きやうらくしてゐる姿です。

「冷かしちやいけません。──小網町の丸屋殺しの下手人を、たつた半日で擧げたのは大したことでせう」

「成程そいつは手柄だが、──誰が一體下手人だつたんだ。くはしく話して見るが宜い」

「伜染五郎との仲を割かれた、嫁のお絹といふのが下手人ですよ。この春祝言したばかり、二十歳といふにしては初々しくて、なはを掛け乍らあつしもほろりとしましたがね」

「成程そいつはむごたらしいな」

「まるで白木屋お駒か、八百屋お七を縛るやうでしたよ。骨細で、華奢きやしやで、子供々々した顏が眞つ青で、泣きもどうもしないが大きな眼を見開いて──」

「そんなおもひまでして、手柄を立てたいのかな、八」

「だつて、外面如菩薩げめんによぼさつ、内心如夜叉によやしやといふんでせう。あつしは目をつぶつて縛りましたよ」

「それほど動かない證據があつたのか」

「證據はあり過ぎる位で、──第一、染五郎と割かれて、うんとしうとを怨んでゐるでせう」

「フーム」

「川の向うから合圖をして、昨夜染五郎に逢ひに來て居る。──土藏に閉ぢ籠められた染五郎は、ノコノコ出かけるわけには行かないから女の方が通つたことは、小僧の留吉も、よろひの渡しの渡し守も知つてゐますよ」

「──」

「木戸を開けて入つて、其處そこから出て行つたのは、足跡でわかりましたよ。足跡は小さい駒下駄で、お絹のものに間違ひは無いし、木戸は外からでも開くことは、家の者だけが知つて居る」

「それから」

「刄物は短刀で、川をさらはせると、わけもなく出て來ましたよ。こいつはお絹の嫁入道具の一つだ」

「その短刀は何處にあつたんだ」

「木戸のすぐ外、土藏の下のところに投り込んでありましたよ。引潮ひきしほになると見える位で、──もつとも傷口にくらべると少し細刄でしたが」

「お絹は渡し舟で來たのか」

「いえ、人に顏を見られるのが嫌だから、江戸橋を廻つて來たんだ相で、これは本人が言ふんだから間違ひはありません。よろひの渡し守は、仕舞ひ舟を出さうとして、客をあさるともなく眺めてゐると、丸屋の木戸へ若い女が入るのを見た相で」

「成程、證據はそろつて居るな」

 平次は何にかに落ちないものがある樣子です。

「でせう、親分」

「少し揃ひ過ぎてゐるよ」

「?」

「木戸の中の足跡は小刻こきざみに付いてゐたと言つたな」

「へエ──」

「亂れては居なかつたのか」

「へエ」

「人を殺した若い女が、おのうの橋がかりを引込むやうに逃げられるものかな」

「?」

「親爺橋、江戸橋、海賊橋と廻つて歸るなら、血の附いた短刀だつてわざ〳〵木戸の外へ捨てるに及ぶまいよ。傷口と短刀の合はないのも變だ」

「──」

「嫁の道具はまだ返してゐない筈だ。その荷物の中から、わざ〳〵自分の短刀を持出して、しうとを殺すのはどういふ量見だい」

「?」

 斯う平次に疊み込んで來られると、折角ガラツ八のきづき上げた疑ひが、はなはだ怪しいものになります。

「證據が揃ひ過ぎるよ、八」

「──」

「他に怪しい奴は無いのか」

「ありませんよ。番頭の宗助は子飼ひの忠義者だし、手代の竹松は宗助と枕を並べて寢て居るし、あとは通ひの職人ばかり」

「それから」

かゝうどのお半といふのは無類のお人好しで、顏はまづいが氣立ての良い女だ。染五郎とお絹のことといふと夢中になる」

「そいつは幾つだ」

「二十二三でせうね、嫁の口をあきらめ切つたやうな年増ですよ。──でも小意氣な小股こまたの切上がつた、ちよいとめないことはありませんが」

「それつ切りか」

「あとは小僧の留吉と、店子の浪人石卷左陣と──」

「その敵役見たいな浪人は何んだい」

「丸屋の袋物の内職をさせて貰つて、ちよい〳〵當らないうらなひもやります。三十二三の浪人者で、好い男ですよ」

「──」

「路地の足跡や、川の中の短刀は皆んなその浪人が見付けてくれました。見掛けによらない才智者で、うんとめてやると、──こいつは兵法へいはふの一つだから、何んでもないよ、なんて脂下やにさがつて居ましたが」

「岡つ引も兵法の心得が要るやうになつたのかな」

 平次はそんな事を言ひ乍ら、何やら深々と考へ込んでしまひました。



「親分、大變ツ」

 翌る朝、ガラツ八の大變が鳴り込んで來ました。髷節まげぶしが少しゆるんで拳固げんこで額際の汗を撫であげる樣子は尋常ではありません。

「何が大變なんだ、相變らず御町内の子供衆を皆んな蟲持にするぜ、少しはたしなめ」

「落着いてゐちやいけませんよ、親分。三輪の萬七親分が乘出して、小網町を小半日せゝつて居ると思つたら、何に目星をつけたか、お半を縛つて行きましたぜ」

「何? 三輪の親分がお半を縛つた?」

「だからあわてもするぢやありませんか、ね親分。何んとかして下さいよ」

「お絹を縛るよりたしかだぜ、八」

「親分までそんな事を言つて居ちや、あつしは丸潰まるつぶれだ。お半といふ女は、そりやみにくい女に違ひないが、若旦那と嫁の間を一所懸命取持たうといふほどの善人ですぜ」

「お前の鑑定めきゝが當てになるものか。兎に角行つて見るとしようか」

「有難てえ、さう來なくちや」

 錢形平次は到頭八五郎に引つ張り出されました。

「お前の面を丸潰れにするでもあるまいと思ふから出かけるんだが、別に下手人の當てがあるわけぢやないよ」

「でも、親分が乘出して下されば、何んとか眼鼻が付きますよ」

 ガラツ八にしては、平次が顏を出しさへすれば、自分の不面目が救はれるやうな氣になつて居るのでした。小網町の丸屋に行つて、現場の樣子も見、染五郎以下の者にも會ひました。が、ガラツ八が報告してくれた外には、何んの新しい發見もありません。

「土藏のかぎは誰が持つて居たんだ」

「店にありますから誰でも持出せます。若旦那を窮命きうめいさせる心持さへ通ればよかつたんで」

 番頭の宗助は實直らしい額を撫でるのです。

「その晩若旦那は誰と〳〵逢つたんだ」

 平次の問ひは染五郎に向けられました。

「お半に二度、お絹に一度逢ひました」

「お絹さんが來た時刻と、歸つた時刻は?」

戌刻いつゝ(八時)過ぎに來て亥刻よつ前に歸りました」

 染五郎は昂然かうぜんと應へるのです。天地神明に恥ぢないと言つた態度です。一つはお絹を縛つたガラツ八に對する反感もあつたでせう。

「その後では?」

「お半が來て床を敷いてくれました。それつ切りです」

「お半は主人を怨んでは居なかつたのかな」

「そんな事はありません。孤兒みなしごになつて困つて居るのを引取つた位で──それに氣の良い女ですから、この恩を返したいと言ひ續けて居ました」

 染五郎の言葉には、何んの陰影も無かつたのです。

 それからもう一度番頭に會つて、帳面のことを訊くと、

「こんな事は無い筈ですが、よく調べて見ると、旦那のお手許に差上げた金のうちから、二三百兩不足して居ります。金箱も用箪笥ようだんす錠前ぢやうまへしつかりして居りましたから、泥棒が入つた筈もありません」

 宗助はおよに落ちない顏をするのでした。

「親分」

 宗助の後姿を見送つて、ガラツ八はそつと耳打をします。

「あの番頭が怪しいといふのか。──そんな事は無いよ。自分さへ默つて居れば、誰も氣の付く筈の無い金の不足のことを言ふんだもの。日本一の正直者さ」

 外へ出て見ると、店と母屋おもやが土藏に並んでギユウギユウに建つた上、その奧には長屋が二軒、一軒は石卷左陣の浪宅で、一軒は空いたまんまです。

「覗いて見ませうか、親分」

 ガラツ八がさそふまゝ、平次も勝手口の方から枝折戸しをりどを押して、石卷左陣の浪宅の前に立つて居りました。

「お、これは〳〵錢形の親分」

 左陣は内職の袋物を押しやつて、秋の陽ざしの中に顏を出しました。これで武藝學問の心掛があつたら、三百石にもめさうな人柄です。

「石卷の旦那ですか、飛んだお邪魔をします」

「何んの、邪魔じやまどころか、私は飛んだ物好きで、捕物が面白くて面白くて仕樣がないのさ。その後どうなつたえ、親分」

「一向眼鼻が付きません。いづれこの八五郎の縛つたお絹か、三輪の親分の縛つたお半が、どつちかが下手人でせう。旦那のお考へはどうです」

「そいつは判らないね。──だが、お絹さんは下手人にしては綺麗過ぎるよ、ハツハツハツ。そんな事を言つたら、玄人くろうとに笑はれるだらう。それに、自分の使つた短刀を、わざと見えるやうに土藏の側の河の淺いところへ投り込む奴もあるまい」

「成程ね」

 平次は早くも見破つたことですが、左陣の話を聽くと、平次は今更らしく神妙に感心して見せるのでした。

「だが、お半も氣の良い女だ。恩人を殺す筈も無いやうに思ふが──」

 石卷左陣は内職のうらなひをする時のやうに、もつともらしく首をかしげるのです。



 番屋へ行つて見ると、お半はすつかり潮垂しほたれて、運命を待つ姿でした。その側で口書きを取つて居るのは、得意滿面の三輪の萬七、お神樂かぐらの清吉。

「お、錢形の、御苦勞だね」

 う言つた調子です。

「三輪の親分、八の野郎が飛んだ縮尻しくじりをやつたさうで、面目次第もないが。──お半の方は白状したかえ」

 平次はひどく下手に出ました。

「しぶとい女でね、判り切つたことをまだ白状しねえのさ。お絹の嫁入道具の中から、短刀を持出せるのは、奉公人ぢやあるまいから、まづお半に決つたやうなものだ。それに、あの晩おそくお絹が歸つてから、土藏の中へ行つて染五郎に逢つたお半は、ひどくソハソハして居た相だよ。よく調べて見ると、その晩着てゐた單衣ひとへにも、ほんの少しだが血が附いて居たぜ」

 三輪の萬七は得意さうでした。

「成程さう聽けば疑ひは無いが、ちよいとその短刀を見せてくれ──さやごと川の中に捨ててあつたんだね。──誰も拭きやしなかつたかい、これを」

「拭くものか、汐水のれるまんま持つて來たんだ」

「それにしちや血の跡も無いぜ」

「拭いたんだらう」

「いや、鞘に入れて捨てる短刀を、わざ〳〵拭く筈は無い。──拭いても脂位あぶらくらゐは浮いてる筈だが。──この鞘はよく出來て居ると見えて、ろくに汐も入つちや居ない、今いだばかりといふ刄の色だ。──それに傷にしちや短刀が細過ぎるね」

「──」

「お半。──お前は言ひにくからう。──人殺しよりもつと恥かしい事をしたんだから、──だが、それぢや濟むまいぜ」

 平次は短刀を元の場所に置くと、靜かにお半の方を振返るのでした。

「──」

「お前は主人殺しの罪を引受けて、磔柱はりつけばしらを背負ふつもりだらう。が、そいつはつまらない量見だ。お前のした事はよくない事だ。女としては此上もなく恥かしい事だが、命まで投げ出すことぢやあるまい。どうだ、お半。俺は何も彼も判つたやうな氣がするが──」

 平次は諄々じゆん〳〵として説くのでした。三輪の萬七と八五郎のガラツ八は、ただ呆氣あつけに取られるばかり。

「親分さん、私が惡う御座いました」

 お半は堅い表情が崩れると、いきなりヒステリツクに泣き出したのです。

「よい〳〵本當の下手人げしゆにんさへ擧げれば、三輪の親分もお前には用事はあるまい。お前が言ひ惡いなら聽かない事にしよう」

「親分」

「八、お前は氣の毒だが、石卷左陣さんを呼んで來てくれ。短刀を鑑定めきゝして頂きたいからつて、宜いか」

「へエー」

 平次の言葉の意味をはかり兼ねた樣子ですが、八五郎は何んにも言はずに飛出しました。その後ろ姿を見送つて、そつと續く平次、物蔭に身を隱して、ガラツ八にさそひ出されて行く石卷左陣の姿を見ると、入れちがひに、左陣の長屋に滑り込みました。

 第一番に上がりかまち、下駄箱、落しと手早く覗いて、女下駄の古いのを一足見付けると、その底に附いた新しい土を爪でさはつて見て、それからたつた二た間しかない家の中を、疾風しつぷうの如く調べあげました。

「無い」

 暫らくすると、平次はがつかりして外へ飛出しました。せまい家の中は天井裏から床下まで調べあげましたが、搜すものが見付からない先に主人の石卷左陣が歸つて來たのです。それを見ると、

「これは何んだ」

 石卷左陣はサツと顏色を變へました。

「氣の毒だが、少し見せて貰ひましたよ」

 平次はニヤニヤして居ります。

「これでも二本差しだぞ、留守中に入つて濟むと思ふか」

 左陣は叱咜しつたします。その後ろから心配さうに覗くのはガラツ八の顏です。

「こんなものを見付けましたよ、石卷さん」

「その下駄が何うした」

「丸屋の木戸の中にあつた足跡にピタリと合ひますよ」

「女子供の下駄は大抵たいてい同じやうなものだ、それが何うした。──尾羽をは打枯うちからして居るがこれでも武士の端くれだぞ。何んの爲に人の家へ入つた。先づそれを言へツ」

 石卷左陣は日頃の穩和さを失つて、怒氣をふくんだ顏がむらさきにさへ見えるのでした。

「血染の脇差と、──もう一と品。──金の包みをさがしましたよ」

「そんな物はあるまい」

 左陣はニヤリとしました。が、その眼はしかし妙な方角へ──。

「判つた、八。その下水の中を見ろ、石を起すんだ。俺はこの野郎と一汗ひとあせく」

「何を無禮」

「御用だぞツ」

 平次はパツと石卷左陣に飛びかゝつたのです。

 この捕物は、平次にしては思ひの外樂でした。奸智かんちにだけけて、武藝の心得の怪しい石卷左陣を取つて押へると、丁度八五郎は、下水の蓋になつてゐる御影石みかげいしを起して、その下から三百兩の金包と、碧血へきけつ斑々はん〳〵たる脇差を搜し出したのでした。

「親分、この通りだ」

「八、お前の顏も立つたぞ」

「有難てえ」

        ×      ×      ×

 お絹もお半も許され、お絹は間もなく丸屋に戻つて、染五郎とむつまじく暮しました。

 石卷左陣は丸尾六兵衞殺しの罪状が明かになつて、死罪になつたことは言ふまでもありません。その罪状といふのは、丸屋六兵衞に後添を世話すると持込み、その仕度金を三百兩受取つて、急に金が欲しくなり、世間體をはゞかる丸屋六兵衞をあざむき、夜陰におびき出して刺し殺したのです。その頃丸屋の嫁が里に歸され、染五郎と逢引の合圖をかはしてゐるのを見て、惡賢い左陣は、女下駄で足跡までこしらへて罪をお絹に轉嫁しましたが、川に捨ててあつたお絹の守り刀については、不思議なことに何んにも知らなかつたのです。

「不思議ぢやありませんか。ね、親分。あの川の中から見付けた、お絹の短刀はどうしたことでせう」

 一件落着してから、ガラツ八が最後の疑ひを平次に持出すのも無理のないことでした。

「あれは俺にも判らなかつたよ。しかし、お絹の荷物の中から短刀を盜み出せるのは、お半の外にはないことを考へると、すぐ判つたんだ」

「へーエ?」

「お半は根が惡い女ぢやあるまい。自分が見つともないのを百も承知で、染五郎とお絹の間を取持ち、二人を一緒にしてやつた位だもの。でも、矢張り女だ。子供の時から一緒に育つた染五郎をお絹に取られて、口惜くやしいと思ふ心持は何處かにあつたんだらう。その嫉妬しつとを恥かしいことだとは百も承知して居るが、二人の仲があんまりむつまじいのを見ると、つひムラムラツとしたのだらう」

「へエ──つまらねえ女ですね」

 ガラツ八にはその微妙な心持がわかりません。

「あの晩路地の中で主人の六兵衞が殺されてゐるのを見ると、これがお絹のせゐだつたら、自分のところへ染五郎が轉げ込まないものでもあるまいと思つたのさ。お絹の短刀を持出して、一度は死骸の側に捨てるつもりだつたが、それもあんまり氣がとがめるので、路地の中から木戸を越して川へ投り込んでしまつた」

「それは本當ですかえ」

「お半に聽いたわけではないが、多分その通りだらうと思ふ。──だから、下手人の疑ひは晴れたが、お半はその日のうちに房州の遠い親類のところへ行つてしまつた。二度と丸屋へ歸つて、夫婦の睦じいところを見る氣はあるまい」

「へーエ。こはい女ですね」

「あんなことさへしなきや、一生善人で通る女さ。フトした心の迷ひだ。あんまりほじくり出すのも可哀想だから、俺は知らん顏をして逃がしてしまつたよ。もつともこの殺しは最初から女の細腕ではあるまいと思つたよ。あんな建込たてこんだ中で、たつた一と突きで人を殺せるのは、何んと言つても大した手際だ」

 相變らず平次は、さう言つた男だつたのです。が、ガラ八に取つては、このみにくい女お半は、妙に忘られない人間の一人でした。

底本:「錢形平次捕物全集第十七卷 權八の罪」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年1010日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1942(昭和17)年9月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年1212日作成

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