錢形平次捕物控
父の遺書
野村胡堂
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「お早よう」
ガラツ八の八五郎は、尋常な挨拶をして、愼み深く入つて來ると、お靜のくんで出した温い茶を、お藥湯のやうに押し戴いて、二た口三口啜り乍ら、上眼づかひに四邊を見廻すのでした。
「どうした八、大層御行儀が良いやうだが、何んか變つたことでもあつたのかい」
錢形平次は縁側に寢そべつたまゝ、冬の日向を樂んで居りましたが、ガラツ八の尤もらしい顏を見ると、惡戯つ氣がコミ上げて來る樣子で、頬杖を突いた顏を此方へねぢ向けました。
「何んでもありませんよ。ほんのちよいとしたことで」
「さうぢやあるまい、何んかお前思ひ込んで居るだらう。借金取に追つ駈けられるとか、義理が惡い昔馴染に取つちめられたとか」
「そんな事じやありません」
「だつて、急に起居振舞が少笠原流になつたり、膝つ小僧がハミ出してる癖に、日本一の鹿爪らしい顏をしたり、お前餘程あわてて居るんだらう」
「なアに、ほんのちよいとした事があつただけですよ」
「何んだそのちよいとした事てえのは? 氣になるぜ、八」
「實はね、親分」
「恐しく突き詰めた顏をするぢやないか。何んだい」
「笹屋のお松が三輪の親分に縛られたんですよ」
それは當時、兩國の水茶屋の茶汲女の中でも、番附に載る人氣者で、ガラツ八の八五郎も、一時は夢中になつて、毎日通つた相手だつたのです。
「何んか惡い客の卷添にでもなつたのか」
「そんな事なら心配しませんがね、人殺しの疑ひが掛つたんだ相で」
「人殺し?」
「親分はまだ聞きませんか、昨夜平右衞門町の河岸つ端で、浪人者の殺された話を」
「聽いたよ、福井町の城彈三郎といふ評判のよくない浪人者が、脇差で胸を突かれて死んでゐたんだつてね。──恐しく腕の出來る浪人者だといふぢやないか、茶汲女や守りつ娘には殺せねえよ」
「ところが、三輪の萬七親分は、お松を縛つたんで、──尤もお松は惡い物を持つて居ました」
「何を持つて居たんだ」
「ギヤマンの懷鏡、──こいつは男の癖にお洒落だつた城彈三郎の自慢の品だつたんで」
「フーム」
「今朝友達に見せてゐるところを、運惡く城彈三郎殺しの下手人搜しに來て居る、お神樂の清吉に見られてしまつたんです」
「怪しい品なら、岡つ引の見る前で出す筈は無いぢやないか」
平次はさすがに氣が付きます。
「だからお神樂の清吉が、そのギヤマンの懷鏡を何處から出した。貰つたら貰つたで宜いが相手を言へと責めたが、お松はどうしても言はねエ」
「その懷鏡をくれた相手に心中立をしてゐるんだらう。お松を張るのは無駄だよ、八。宜い加減にして止すが宜い」
「そんなつもりぢやありませんよ。──あつしは、お松を助けようとも何んとも思つちや居りません。唯、親分が訊くから、ちよいと話しただけで」
ガラツ八は急に堅くなりました。
「さうか。そんな遠慮があるから、小笠原流で番茶なんか飮んで、恐しく突き詰めた顏をして居るんだな。何時もの八五郎なら、大變ツ〳〵と大變のつき物がしたやうに飛込むところだ」
「親分」
「宜いよ、行つて見るよ。今日俺の方から出かけて行つて、お松の繩を解いてやらう。尤も、繩を解いても、お松はお前のところへは轉げ込まないよ」
「親分──あつしはお松のことなんか何んとも思つちやゐませんよ。唯この一年ばかり、毎日のやうに顏を見て、お茶をくんでくれた相手だから──」
「毎日行つたのかえ、本當に」
「へエ、面目次第もありません」
「馬鹿だなア」
平次はさう言ひ乍らも、立ち上がつて仕度しました。
平右衞門町の現場へ行つたのは、もう陽が傾きかけてから──。死骸も取片付け、現場も掃き清めて、其處にはもう何んの手掛りも殘つては居ません。
本來ならもう少し早く覗いて置くべきですが、三輪の萬七が乘出したと聽いて、引込思案の平次が顏を出さずに居るうちに、事件は急進展して、八五郎の歎きを見ることになつたのです。
近所の噂や、八五郎の見聞したことを綜合すると、昨夜亥刻半(十一時)過ぎ、町内の夜講歸りが二三人、無駄話をし乍ら通ると、平右衞門町の路地の奧、町の者が船着き場にしてゐる形ばかりの棧橋の手前に、何やら倒れてゐる者があつたのです。
少し遲い月が漸く河心を照らし初めた頃で、うつかり知らずに通るところでしたが、そのうちの一人がつまづきさうになつて悲鳴をあげ、それから大騷ぎが始まりました。
灯で見ると、倒れてゐるのは三十五六の浪人者で(後でそれは福井町に住んでゐる城彈三郎と知れましたが)脇差で左の胸を深々と刺され、切尖が白々と背に突き拔けたまゝ、横つ倒しになつてこと切れて居りました。
脇差を拔かずにあるので、大した血は流れませんが、鞘はその邊に見當りません。變つてゐるのは、死骸の下半身がぐつしより濡れてゐたことで、川から這ひ上つたところをやられたとしか思へませんが、身扮の立派な浪人者が、夜の大川へ何んな目的で入つたかは見當もつかなかつたのです。
「履物は?」
平次は近所の人に訊きました。
「足袋はだしでしたよ」
「刀の鞘と一緒に流れたのかな。──八、人足を頼んで川をあさつてくれ。武家の履物の揃つたのと、脇差の鞘があるだらう」
「へエー」
八五郎は心得て飛んで行きます。
その間に平次は、小舟を出させて、石垣の工合から、棧橋の樣子を眺めましたが、石垣には何んの異状もなく、唯、一箇所棧橋の板を縛つた繩が解けたのを、素人細工で結び直したところが眼についただけです。
「石垣の間に、何んか隱してあつたんですか、親分」
八五郎はもう歸つて來ました。
「いや、そんなものは無いよ。石垣が一つでもゆるんでゐて、中に千兩箱でも隱してあると面白いんだが──近頃修覆したばかりで、何んの細工も無いところを見ると、城彈三郎はわざと川へ入つたのではないかも知れない」
「すると?」
「解らないなア。兎に角、もう少し陸をあさつて見よう」
其處から平次と八五郎は、福井町の城彈三郎の浪宅へ行つて見ました。
浪宅と言つても、中々の構へで、留守は若い綺麗な下女と婆やの二人、おさのにお倉と言つて、伯母姪同士が奉公してゐると言ひますが、おさのの方は、彈三郎の妾だつたといふ近所の噂が本當でせう。
疑へば疑へる二人でしたが、折よく宵から近所の話好きの老婆が來て、二人共一寸も家を開けず、これは完全に疑ひの外に立ちました。
外に、死んだ城彈三郎と無二の仲だつたといふ戸倉十兵衞と名乘る、中年者の浪人が來て、何彼と世話を燒いて居りますが、江戸には知合が無かつたのか、あとは近所の衆ばかり、何を聽いても要領を得ません。
「戸倉さん、ちよいと伺ひますが」
「何んだえ」
忙しさうにする戸倉十兵衞を、平次は漸く物蔭に引入れました。
「亡くなつた此家の御主人は、何處の御藩中でした」
「九州のさる大藩といふことだが、確かなことは私も知らないよ」
「旦那とは何時頃からのお附合ひで?」
「三年にもなるかな。──近所に住んでゐて、何方も九州生れで、似たやうな下手碁だから、ツイ錢湯で懇意になつたのさ。──碁敵がポツクリ死ぬと、恐しく張合が無くなるといふことを今日初めて知つたよ」
戸倉十兵衞は斯う言つた調子の滑らかな浪人者でした。
「旦那は昨夜何處にお出ででした」
「俺は下手人ぢやないぜ、ハツハツハツ」
「そんなつもりぢや御座いません」
「まア宜い、言譯には及ばない。城彈三郎氏のたつた一人の知合といふのはこの戸倉十兵衞だから、疑はれても文句はない。が、有難いことに、昨夜は川崎の鶴屋に泊つて居る。小田原に所用があつて出かけ、七日目で今日歸ると此騷ぎだ。驚いて飛んで來たのはツイ一刻ほど前さ」
戸倉十兵衞の言ふのは滿更拵へ事らしくもありません。川崎の旅籠屋から拔け出して來て、又川崎へ歸つて、今朝改めて川崎を發つて來るといふ藝當が出來ないことは、平次の智惠をまつまでもなくわかり切つたことです。
「城さんに敵はあつたでせうか」
「無いな」
「ひどく怨んでる者とか、何んとか」
「あるわけは無い。尤も、城彈三郎氏の方で怨んでゐる者はあつた」
「誰です、それは?」
「阿倍川町に住んでゐる、これも浪人者で高木勇名といふのだ」
「へエ?」
「何んでも、三年以前までは九州のさる大藩で、同役であつたといふことだ。城彈三郎氏は何んかの事で高木勇名といふのと怨を構へ、高木の讒言で浪人したが、間もなく高木の方も祿を捨てゝ、江戸へ來たといふことだ」
「──」
「不思議な廻り合せで、お互に遠くないところに住んでゐることがわかつたが、城彈三郎氏はひどく高木勇名を怨んで、出逢ひ次第討ち果すと言つてゐたよ。尤も高木勇名といふ男は、一年ほど前から大病で、身動きも出來ないといふことだ」
「すると?」
「高木勇名の方で、機先を制して城彈三郎を討つたといふ疑ひは充分にあるわけだが、大病人が平右衞門町まで行くのはをかしい」
戸倉十兵衞はさう言つて人の惡さうな冷たい笑を片頬に漂はせるのでした。
念の爲死骸を見せて貰ひましたが、胸の傷は背中まで拔けて、恐しい剛力で脇差を突立てたと分りますが、それにしても心得のある筈の城彈三郎が、刀の柄に手も掛けてゐなかつたのが不思議です。
「城さんはやつとうの方はどうでした」
「立ち合つたわけではないが、話の工合や眼の配り、身體のこなしなどから見て、餘程出來る樣子であつたよ」
「それをたつた一と太刀でやつたのは、餘つ程の腕でせうね」
「大變な力だな。──それにしても、脇差を拔かずに、其儘置いて行つたのはをかしい。武士の作法には無いことだ」
「脇差は何處へやりました」
「役人が持つて行つたよ。大した銘刀ではないが、決してなまくらではなかつた」
「城さんの眤懇な方は、他にありませんか」
「一向氣が付かないが、先づあるまいな。世間附きあひを好きな方ではなかつた」
話は大方そんな事で盡きました。
「八、氣が付いたか」
「何んです、親分」
平次は往來へ出ると斯んなことを言ふのでした。
「あの家の中は、禁制の品だらけぢやないか」
「?」
「城といふ浪人者は、長崎あたりに居たんぢやあるまいか。羅紗やギヤマンや更紗や唐木細工が一パイだ。拔荷でも扱はなきやあんな品がふんだんに手に入るわけは無いよ」
「それがどんな事になるでせう、親分」
「俺にも判らないが、城彈三郎が怨んでゐたといふ、高木勇名といふ人に逢つて見よう」
其處から阿倍川町へ伸して、高木勇名と訊くと直ぐわかりました。路地を入つて奧の奧に置忘れたやうなひどい家で、城彈三郎の豪勢な暮しと、あまりにひどい違ひやうで、錢形平次も眼を見張つたほどです。案内を乞ふ迄もなく、破れた障子から中は見透し、大病人らしい父親を看護して居た若い娘が、客の姿を見ると、いそ〳〵と起つて格子を開けてくれました。
「町方の御用を勤める平次と申すものですが、福井町の城彈三郎さんのことに就て、ちよいとお話を承はり度いことが御座いますが──」
平次の態度は慇懃でした。
「あの、父は、永い間患つて居りますが──」
娘は途方に暮れた樣子です。
身裝は氣の毒なほど粗末ですが、十七八の美しい娘で、あどけなく可愛らしいうちにも、武家の出らしい、品のよさが、好感を持たせます。
「これ、──茂野、──お上の御用を承はる方なら、お通し申すがよい。むさ苦しいところだが──」
破れた唐紙一重を隔てて、主人の勇名は聲を掛けました。ひどい咳に惱まされて、さう言ふ聲も途切れ勝ちです。
「では、──あの、父はお話なんかしますと、すぐ疲れますが──」
娘──茂野は、眼を擧げて、救ひを求むるやうに平次を見上げ乍ら、道を開きました。
「御免下さい。御病氣のところを飛んだ御邪魔をしますが、實は福井町の城彈三郎樣が昨夜平右衞門町で殺されましたので」
「えツ」
主人──高木勇名の驚きは大袈裟でした。見る蔭もなくやつれ果てて、明日も知れぬ命と見えた大病人が、半身を起き直るやうに枕の上に乘り出したのです。
「旦那は御存じでせうな、城といふ人を」
「よく知つてゐる。──天罰だな」
高木勇名は疲れ果てた樣子で、ガクリと枕の上に頬を落しました。熱つぽい匂ひが室中に籠つて、ムツと鼻を打ちます。
「その城彈三郎といふ人が生きてゐる頃、旦那樣をひどく怨んで、出逢ひ次第討ち果すと言つて居た相ですが、御存じでせうな」
「よく知つてゐる。──が、私がこの大患で寢て居るのに、幾度もやつて來て無禮な事をした奴だ。何んの丈夫でさへあれば、城彈三郎如きに後ろを見せる拙者ではないが──」
高木勇名はさう言ひかけて笑ふのです。ポーツと頬のあたりに熱が上がつて、半分咳き込み乍らの話は聽いてゐる方が痛々しくなります。
「差支へが無かつたら、その仔細を明かしちや下さいませんか」
「厭だと言つても聽かずには歸るまい。──お上の御用とあらば、何事も打明けるのが道だが」
「──」
「故主のお名前だけは勘辨して貰ひたい。──實は拙者と城彈三郎は、九州のさる大藩に仕へて、外國船の出入りを取締つて居たことがある──」
高木勇名は苦しい息を繼ぎ乍ら、この長物語を續けました。それによれば、城彈三郎と高木勇名の二人、藩主の命令で、港の役所に出張り外國人や外國船の取締りをして居るうち、城彈三郎は惡い商人と結託し、手廣く拔け荷(密貿易)の取引を始め、暴利を貪つて居ることが判りました。
拔け荷は嚴重な國禁で、萬一幕府に、藩の役人がそんな事に關係してゐると知れたら、どんな咎を受けるも知れず、高木勇名は獨り心を痛めて、いろ〳〵同僚の城彈三郎に忠告し、その反省を促しましたが、何んとしても聽き容れず、そのうちに、何時の間にやら藩重役の耳に入つて、城彈三郎は永の暇になつてしまひました。それは今から三年前のことです。祿に離れた城彈三郎は、自分の惡事を棚にあげ、國を逐はれたのを、事情を知つて居る高木勇名の讒言に相違ないと信じ込み、八方手を盡して陷れ、その結果、續いて、高木勇名も永の暇になり、流れ〳〵て二人は、同じ江戸の、しかも隣町に住んでゐることを發見したのでした。
「斯樣な始末では御座る。死屍を鞭つやうで心苦しいが、申さなければ却つて疑惑を増すであらう」
高木勇名は漸くこれだけのことを話し了つて、疲れ果てた顏を枕に埋めました。
「もう一つ、──城彈三郎樣は、今までの間に、何か仕掛けるとか、附け狙ふとか、變な素振りは無かつたでせうか」
平次は靜かに訊き返します。
「あつた。度々この浪宅を襲つたが、病中でもあり、私の方で避けて相手にしなかつた」
高木勇名は淋しく笑ひます。やつれ果てては居りますが、分別者らしい品の良い顏で、熱を持つた眼も聰明せうに輝きます。
「お子樣は、お孃樣お一人で」
平次は最後の問ひを投げて、ヂツと高木勇名の病床にやつれた顏を見詰めました。
「いや、伜が一人あるが」
「何方にお出ででせう」
「氣に染まぬことがあつて、親類に預けてある」
「御親類と仰しやると?」
「牛込御納戸町の河西源太殿」
高木勇名はこれだけ言ふのが精一杯です。何んか容易ならぬ心の苦惱がありさうです。
宜い加減に切り上げて路地の外まで出ると、後ろからバタバタと追つて來たのは、娘の茂野でした。
「あの、もし」
「お孃さん、何んか御用で」
平次は蟠りのない調子で迎へます。
「父はあの通りの容體で、寢返りも自由にはなりません」
「よく解りましたよ、お孃さん。あの容體ぢや、どう間違つても外へ出られる筈はありません。御安心なさいまし」
「有難う御座います」
茂野は愼しく默禮して、自宅の方へ引返しました。
「良い娘ですね、親分」
ガラツ八は暫くその後姿を見送つてから、思ひ出したやうに斯う言ふのでした。
「お松とどうだ」
「お月樣とすつぽんで、──育ちが違ひますよ」
「すつぽんは喰ひつくと雷鳴がなる迄離れないといふぜ。氣をつけるが宜い」
「喰ひついちやくれませんよ」
「なさけない事を言ふな」
「さう言へばお松はどうなつたでせう。すつぽんでも龜の子でも縛られちや可哀想ぢやありませんか」
「さう〳〵お松の繩を解いてやるのが目あてだつたね。だが、あいつは心配しなくても宜いよ。今頃は多分許されてゐるだらう。今日の間に合はなくても明日はきつと許される。この八卦は間違ひもなく當るよ。──お松と仲の良い男は一體誰なんだ。お松が命にかけてもかばつてやらうと言ふのは──八五郎を除いてだよ」
「へツ、あつしをのぞいてと來ましたね。──親分の前だが、あつしを除けば先づ門前町の時次でせうな」
「さうか、時次か。成程あれなら小意氣で慾が深さうで、ピタリと柄にはまるよ。なア八、お松はそのギヤマンの懷鏡を時次に貰つたのさ。──時次は多分平右衞門町の路地で拾つたんだらう。でなきや、死骸の懷から拔いたのかな。──下手人ぢやないとも。自分で殺した死骸から拔いたのなら、その晩のうちにお松にやる筈もないし、第一、時次風情に城彈三郎は殺せないよ。あれは容易ならぬ使ひ手だ」
「それぢや、下手人は矢張り高木勇名といふ浪人でせうか。隨分いろ〳〵の假病つかひも見たが、あいつは念入りですね」
ガラツ八は後ろの浪宅を指します。
「いや、あれは假病や僞患ひではない。どんな辛抱の良い人間でも、一年も假病を續けられるものぢやない。それに、あれは勞咳も餘つ程重い方らしいぢやないか」
「すると、高木勇名は何んにも知らないわけですね」
「いや、知つて居る。たしかに下手人を知つて居るに違ひない。城彈三郎が殺されたと聽いた時の驚きやうは大變だつた」
「その下手人は誰でせう」
「それはわからないが、──俺は明日の朝、御納戸町の河西源太といふ人の家へ行つて見ようと思ふ、お前は時次に逢つて見てくれないか。お松は一と晩位番所で窮命させるもよからう、浮氣の虫封じになるぜ」
「へエ」
「それから念のために此近所の衆に、昨夜高木勇名の家に出入りした者は無いか訊いて見よう」
平次のこの注意は尤も至極でした。が、豫想の通り、高木勇名は此一年越し外へ出たこともなく伜の敬太郎の姿も半年餘り見えず、たま〳〵外へ出るのは娘茂野の小買物やら、藥取りやら、質屋通ひやらの姿だけと言ふことでした。
茂野の評判は大變なもので、阿倍川町の孝行娘で通ります。昨夜も父親の容體が惡かつたらしく、二度迄もあたふたと平右衞門町の醫者に藥取りに行つたのを見たと言ふ者があります。
御納戸町の河西源太といふのは、町道場の主で、すぐわかりました。
高木敬太郎と名指して訪ねると、道場の入口に現れたのは、二十歳前後の寛達な青年武士で、これは妹の茂野によく似た見るから氣持の良い爽やかな若者です。
平次が城彈三郎の殺された事を言ふと、
「それは惜しい事をした。もう少し生きてゐたら、此俺がやつつけるのだつたが。──尤も今までも二三度出つくはし、一度などは拔き合せるところまで行つたが、人に止められて物別れになつたこともあるよ。それが知れて、父上からうんと叱られ、勘當同樣に此道場に預けられて居るんだ」
何んのわだかまりもなくこんな事を言ふ敬太郎だつたのです。
「昨夜は何處にお出ででした」
平次は氣を引いて見ました。
「口惜しいが平右衞門町へは行かない。兵書の輪講で亥刻(十時)までは起つことも出來なかつた」
「ではもう一つ伺ひますが、高木樣のお仕へしたのは、何處の御藩で」
「それは言はないことになつて居るんだ」
「大村藩で御座いませうね。──それとも平戸? 鍋島」
「──」
「いや、飛んだお邪魔いたしました。阿倍川町の父上樣は重態ですよ。城彈三郎が横死した上は、御遠慮には及びません。御見舞にいらつしやい」
「さうか、それは有難う」
平次は其處から直つ直ぐに久保町の大村丹後守屋敷に飛んで行つたことは言ふまでもありません。敬太郎の明けつ放しな顏にはさう書いてあつたのです。
用人に逢つてきくと、何んの隱すところもなく言つてくれました。
「城彈三郎といふのは如何にも三年前不都合のことがあつて追放したに相違ない。高木勇名は自分で身を退いたと言ふ方がよからう、惜しい武士であつたが。──それから念の爲に申して置くが、城彈三郎は犬畜生にも劣つた奴で、いまだに何彼と主家に迷惑を相かけ、時々強請がましい事を申して來るため、家中の若侍は、今度參つたら一刀兩斷にしてやると意氣込んでゐる有樣ぢや。人手に掛つて相果てたのも、天罰といふものであらう」
斯う聽くと、城彈三郎の下手人を搜すのがいやになります。
神田の家へ歸つて來ると、ガラツ八の八五郎は、欠伸をしたり、鼻歌を歌つたり、粉煙草をせゝつたり、退屈のつき物がしたやうな顏で待つて居りました。
「親分、お察しの通り、天眼通だ」
路地に平次の姿を見るともうこれです。
「何んだ騷々しい、近所の衆がびつくりするぢやないか」
「でもね、こいつは全く兜を脱ぎましたよ。親分の言つたことが一分一厘違はず當つたんだ。──お松はあのギヤマンの鏡を、時次の野郎に貰つたに相違なく、時次はあれを平右衞門町の路地で、捨つたと言つてゐたが、二三十引つ叩かれると、苦もなく恐れ入つてしまひましたよ」
「死骸の懷から拔いたんだらう」
「その通り。──それも念入りに、引き汐の川へ落ちて居た死骸を引揚げて、その懷から拔いたといふぢやありませんか。呆れ返つてお松も愛想を盡かして居ましたぜ」
「よく死骸が見付かつたね」
「夜釣に行かうかしら──と、棧橋の上に立つて潮の工合を見てゐると、丁度月が上つて來たんですつて。見るともなく見ると、足元の石垣の下に、半分水につかつて人間が落つこつてゐる。怪我で落ちたものと思ひ込んで引揚げて見ると、胸に脇差が突つ立つて息が絶えて居たんだ相で、膽をつぶして逃げかけたが、あの野郎慾張つてゐるから、恐る〳〵引返して懷へ手を入れて見た──」
「何があつたんだ」
「懷鏡が一つと、香木と、蜻蛉玉と、何んとか言ふ茶入が一つ。それに金が小判で三百五十兩」
「恐しく持つて居たんだな」
「時次の野郎猫ばゞをきめて、懷鏡一つでお松の氣を引かう等は太てえ量見ぢやありませんか」
「まア、怒るな、八。それより、脇差の鞘と彈三郎の履物は見付かつたのか」
「鞘は兩國で、履物はあの棧橋の下の泥の中で見付かりましたよ」
「よし〳〵それで大方見當は付いた。これからお船番所へ行くが、お前も一緒に行つてくれるか」
「何處までも行きますよ」
平次は其處からすぐ豊海橋の船番所に飛び、舟手役人の助力で大川筋一パイに調べました。
大川筋の船、大きいのは五百石、千石積から、小さいのは釣舟、緒牙船にいたるまで、虱潰しに調べあげられた結果、拔荷を積んだ船が一艘發見されました。船頭は海賊銀太といふ顏の通つた男、取引した南蠻物を持つて、大阪、名古屋、江戸と、諸國の港を渡り、それを金に代へて、夥しい金銀を、まうけて居たのです。
平次の注意で、一方町方の手は、福井町の城彈三郎の家を搜し、其處に夥しい禁制品を隱してあるのを發見した上、更に戸倉十兵衞を捕へて調べると、これも城彈三郎や海賊銀太の仲間で、國禁を犯して夥しい拔荷をさばいて居ることがわかりました。
「親分、拔け荷の調べは宜いかげんにして、城彈三郎殺しを擧げちやどうです」
ガラツ八がそんな事を言ひ出したのは、拔け荷檢擧騷ぎから五六日經つてからでした。
「宜いよ、今に判るよ」
「何が判るんです、親分」
「彈三郎殺しの下手人がわかる時節があるのだよ」
「へエ──。そのうちに暮になりますよ」
「借金ぢやあるまいし、こんな事に盆も暮も關係があるものか」
そんな事をいつて居るところへ、阿倍川町の高木勇名の娘茂野が、眼を泣き脹らしたまゝ訪ねて來ました。
「お、どうしました、お孃さん」
「父が亡くなりました」
「それは〳〵お氣の毒な、何時亡くなつたんで」
「三日前でございます。昨日葬ひを濟ませて早速參りました。父が死ぬ時、これを一日も早く親分に渡すやうにと申しましたので」
茂野はさういつて、小風呂敷の中から丁寧に包んだ一封の手紙を取出し、平次の膝の前に押しやるのでした。
「それはわざ〳〵恐れ入りました。早速拜見します」
押し頂いて平次は、靜かに封を切つて讀み下しました。ほんの二三行の病人らしい苦惱にゆがんだ文字に、何んな意味があつたか、平次は靜かに疊み直して、
「有難う、お孃さん。これでよく解りました」
眉も動かさずにいふのです。
娘──茂野が淋しく歸つた後で、ガラツ八は飛びつくやうに訊きました。
「何が解つたんです、親分。その手紙に何が書いてあつたんです」
「見るが宜い、この通りだ」
平次の出した手紙といふのは、半紙に書いた字がたつた三行。
城彈三郎を討つたるは宿怨を果すためこの高木勇名の仕業に相違無之誓言仕候
とだけ、それも亂れた筆蹟で、平次の助けがなくては、ガラツ八にはとても讀めません。
「矢張あの病人ですかね、へエー」
ガラツ八はすつかり感服して居ります。
「嘘だよ、八」
「へエ──」
「この遺書は嘘だよ。あの病人が死ぬ二三日前に這ひ出して、平右衞門町まで行つて人を殺せるわけはない。高木勇名といふ人は、死ぬまで本當の下手人を庇つて居るのだ」
「すると下手人は、その伜の敬太郎とかいふ若侍ですか」
「いや、敬太郎はあの晩兵書の輪講の幹事をやつて居る。一歩も出なかつた」
「すると?」
「解らないか、八」
「へエ──」
「あの娘だよ。茂野といふ、今此處へ來た娘だよ」
平次の言葉はあまりにも豫想外です。
「そんな馬鹿なことがあるものですか、私をかつぐつもりでせう」
「お前をかついでも仕樣があるまい」
「でもあんな可愛らしい娘が」
「可愛らしくたつて、重病の父親を幾度も〳〵襲ひかけた惡者──兄がそのために命を賭けて爭はうとした怨敵──主家大村丹後守樣まで強請るふとい惡黨──それを討ち取るために、精一杯の智惠を絞つたところで不思議はあるまい」
「へエ──」
「高木勇名といふ人が、伜を勘當したのも、禍の我が子に及ぶのを恐れたためだらう。萬一城彈三郎と生命のやり取りをして、勝てばいゝが、負けては取返しがつかない。それに敬太郎は恐しく一本調子な若者だし、相手の城彈三郎は凄い腕前だ。──伜を遠ざけるに越したことは無いと思つて牛込の親類へ預けた」
「その凄い腕前の敵を、小娘の茂野がどうして殺したでせう」
「何んでもない事さ。──城彈三郎が拔け荷を扱つてゐることを、茂野が知つて居たのかも知れない。それに平右衞門町の路地の入口には、父親を診てもらつてゐる醫者の寛齋が居る。近所の衆はあの晩茂野は二度も藥取りに出たといつたぢやないか」
「──」
「あの晩茂野が藥取に行つた序に覗いて見ると、城彈三郎が棧橋を渡つて海賊銀太の艀舟に乘つた。話聲ですぐ歸ると解つたとしたら、茂野はどうするだらう」
「──」
「家へ歸つて脇差を持つて又飛出したんだらう。平右衞門町へ行つて見ると、まだ時刻があつたから、棧橋の板を一枚外して待つた。──板を結へた繩を解いて、踏めばすぐ外れるやうにして置いたんだらう。──拔け荷の取引を濟ませて歸つて來た彈三郎は、一杯機嫌で棧橋へかゝると、首尾よく茂野の仕掛けた罠に陷ちて、板を踏み外した。物蔭に隱れてゐた──茂野の脇差が、其處を突いて出たとしたら、娘の細腕でも、背後へ突き拔けるわけではないか」
「フーム」
ガラツ八は唸りました。あまりにも明かな推理です。
「城彈三郎は心の臟を刺されて、聲も立てずに川へ落ちると、茂野は一度外した仕掛けの板を、元通り結んで置いた──恐しく落着いた娘だが、悲しいことに素人の、それも小娘の手では本當の繩の結びやうが出來ない。板を縛つた繩の結び目と、背後へ突き拔けた脇差を捨てて逃げたのと、泥の中に深く入つた履物と──そんなものが揃ふと、あの晩二度迄藥取りに出た茂野が怪しくなるではないか」
「解りました。それで、此先どうするんです、親分。あの娘を縛るんですか。──可哀想に」
「どうもしないよ」
「?」
「こんな證據ぢや人は縛れない、皆んな俺の夢物語だよ。──城彈三郎を殺した下手人は矢張り高木勇名さ、それで宜いぢやないか。親心を無にしちやいけない。俺は此手紙を八丁堀の笹野の旦那にお目にかけるよ。──お松と時次のことが氣になるといふのか、あきらめるがいゝ。お松はあんなにまでして、時次をかばつて居るぢやないか。時次は死骸の懷を探るやうなケチな野郎さ。八五郎さんの鞘當の相手になるものか。お前にはもつと結構な娘を見付けてやるよ。──あの茂野さんのやうな。なア、八」
平次はさう言つてゴロリと横になりました。
相變らず日向で煙草の煙を輪に吹いて、暮の近づくのも知らぬ呑氣な顏です。
底本:「錢形平次捕物全集第十七卷 權八の罪」同光社磯部書房
1953(昭和28)年10月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1942(昭和17)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年1月11日作成
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