錢形平次捕物控
蜘蛛の巣
野村胡堂
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「親分は? お靜さん」
久し振りに來たお品は、挨拶が濟むと、斯う狹い家の中を見廻すのでした。一時は本所で鳴らした御用聞──石原の利助の一人娘で、美しさも、悧發さも申分のない女ですが、父親の利助が輕い中風で倒れてからは、多勢の子分を操縱して、見事十手捕繩を守り續け、世間からは『娘御用聞』と有難くない綽名で呼ばれてゐるお品だつたのです。
取つて二十三のお品は、物腰も思慮も、苦勞を知らないお靜よりはぐつと老けて見えますが、長い交際で、二人は友達以上の親しさでした。
「何んか御用?」
お靜はお茶の支度に餘念もない姿です。
「え、少しむづかしい事があつて、親分の智惠を借り度いと思つて來たんだけれど──」
「生憎ね、急の御用で駿府へ行つたの、月末でなきや戻りませんよ──八五郎さんぢやどう?」
「親分がお留守ぢや仕樣がないねえ。──八五郎さんにでもお願ひしようかしら」
お品は淋しく笑ひました。ガラツ八の八五郎の人の良さと、頼りなさは、知り過ぎるほどよく知つて居ります。
「八五郎さん、ちよいと」
お靜が聲を掛けると、いきなり大一番の咳をして、
「お品さんいらつしやい」
ヌツと長んがい顏を出すのです。
「まア、八五郎さん其處に居なすつたの。あんまり靜かにしてゐるから、氣が付かないぢやありませんか」
お品は面白さうに笑ふのでした。
「あつしでも間に合ひますかえ」
「まあ、惡かつたわねエ。──八五郎さんが來て下さると本當に有難い仕合せで──」
ガラツ八は擽つ度く、首筋を掻くのです。でも、そんな事に長くこだはつて居る八五郎ではありませんでした。お品が事件の説明を始めるともう夢中になつて、一ぱし御用聞の出店位は引受ける氣だつたのです。
お品が持込んで來た事件といふのは、お品の家とは背中合せの、同じ本所石原町に長く質屋渡世をし、本所分限者の一人に數へられてゐる吾妻屋金右衞門が、昨夜誰かに殺されてゐることを、今朝になつて發見した騷ぎでした。
「家の新吉が下つ引を二三人連れて行つたけれど、こね廻すだけで判りやしません。そのうちに三輪の親分の耳にでも入つたら、どうせ默つて見ちや居ないだらうし、──本當に八五郎さんが行つて下さると助かりますよ」
お品の調子はしんみりしました。
「うまく言ふぜ、お品さん」
そんな事を言ひ乍らも、八五郎はお品と一緒に石原町まで驅け付けてゐたのです。
「それでは八五郎さん」
吾妻屋の入口から別れて歸らうとするお品。
「お品さんも現場を見て置く方が宜いぜ」
「でも、私が顏を出しちや惡いでせう。さうでなくてさへ娘御用聞とか何んとか、嫌な事を言はれるんですもの──」
「近所附合ひだ。見舞客のやうな顏をして行く術もあるぜ」
「さうね」
お品は強ひても爭はず、八五郎と一緒に吾妻屋の暖簾をくゞつて居りました。
「お、八五郎親分」
迎へてくれたのは利助の子分で、兎も角も十手を預かつてゐる新吉でした。
「大層厄介な事があつたんだつてね。一寸覗かして貰ふぜ、新吉兄哥」
八五郎はひどく好い調子です。
吾妻屋金右衞門はその時六十一、生涯を物慾に委ね切つて、隨分無理な金を溜めた爲に散々諸人の怨を買つたらしく、先年女房に死に別れ、放埒な伜を勘當して、娘のお喜多一人を頼りに暮すやうになつてからは滅切り氣が弱くなり、ことに近頃は一種の脅迫觀念に囚はれて、『誰か自分を殺しに來る』『俺はきつと近い内に殺されるに違ひない』と云ひ續けてゐる有樣でした。
そんな事から日常生活が恐ろしく神經質になり、半歳ほど前からは、我慢がなり兼ねて、權現堂の力松といふ男を用心棒に雇ひ入れ、自分は母屋から廊下續きの離屋の二階に住んで、娘と下女のお石と、番頭の周助と、用心棒の力松の外には、滅多な人間を寄せ付けないやうな暮し方をして居るのでした。
主人金右衞門の死骸は檢屍が濟んだばかりで、二階の八疊に寢かしたまゝ、形ばかりの香華を供へて、娘のお喜多が驅け付けた親類の者や近所の衆に應待し、下女のお石は忙しさうにお茶などを運んで居ります。
お喜多は豊麗な感じのする娘で、年の頃十九か二十歳。悲しみも窒息させることの出來ない健康な美しさが、場所柄に似合はず四方に放散しましたが、下女のお石は二十四五の年増。蒼白い顏が少し弱々しく見えますが、粗末な身扮に似合はぬ美しさで、存分に裝はせたら、お喜多に劣らぬ容貌になるでせう。八五郎は咄嗟の間に二人の若い女を觀察すると、死骸の側に膝行り寄つて、何時も親分の平次がするやうに、丁寧に拜んでから、顏を蔽うてある白い布を取りました。
「──」
思ひの外穩やかな死顏です。六十一といふにしては、ひどく頽然としてゐますが、これが半生金儲けに熱中して、石原の鬼と言はれた人間の死顏とも思はれません。
首筋のあたりを見ると、間違ひもなく細紐で締められた跡がありますが、それも至つて薄く、首が畸形的に伸びてない點など、自殺でないことは馴れた八五郎には一と眼で解ります。
「繩も紐もなかつたよ。──自分でやつたのぢやない」
新吉は註を入れました。
「一番先に見付けたのは?」
「私で御座います」
お茶道具を片付けてゐた下女のお石は、少し事務的にハキハキと答へました。
「どんな樣子だつた」
とガラツ八。
「何時ものやうに、南側の雨戸を開けて聲を掛けましたが、お返事がありません。障子を開けて見ると──」
お石はさすがに息を呑みます。
「床の上に居たのか、それとも──」
「床から脱出して、其邊に」
長押の下のあたりを指した手を、お石はあわてて引込めました。其處には娘のお喜多がしよんぼり坐つて居たのです。
「どんな恰好で」
「お寢卷のまゝ、俯向になつて居ました」
「確かに俯向だらうな」
「え、最初は居眠りして居らつしやるのかと思つた位です」
「繩も紐もなかつたのだな」
「え」
「東側の窓は?」
「半分開いたまゝで、朝陽が一パイに射して居ました」
お石の知つてゐるのは、それだけのことです。
一應間取りの具合を見ましたが、二階は八疊一間だけ。階下は母屋と廊下で繋がつて、六疊と四疊半の二た間。四疊半は物置同樣で、六疊は用心棒の力松が夜晝の別なく頑張つて居るのです。
「曲者は何處から入つたんだ」
ガラツ八が思はず斯う言つたのも無理のないことでした。
「それだよ、八五郎親分」
新吉は八五郎の顏に擴がる困惑を享樂するやうに、階下から二階を案内します。二階の八疊は西と北が塞がつて、南は縁側、梯子でも掛けて内から雨戸を開けて貰はなければ此處からは入れさうもありません。
「雨戸は?」
「其處は念入りに閉めてあつたさうだ。用心棒の力松と下女のお石と番頭の周助の口が揃ふからこいつは疑ひやうはねえ。尤も開けつ放してあつたにしても、梯子でもなきやその危い庇に飛付いて二階へ辿り着けつこはねエ」
新吉は狹くて高い庇や、梯子の跡などはない中庭の濕つた土などを指すのでした。二間ほどの空間を隔てて、向うは恐ろしくやはな忍び返し、戀猫が踏んでも一とたまりもなく落ちさうです。
「此方は開いて居たんだね」
東の方は腰高窓、其處を開けると、これは隨分塀傳ひに登れないことはありません。
「主人の金右衞門が疳性で、何處か開いてゐなきや夜寢付けなかつたといふぜ」
新吉の言葉には妙に思はせ振りなところがあります。
「それぢや、曲者は此處から入つたと言つてゐるやうなものぢやないか」
八五郎の高くない鼻は少し蠢きます。
「ところが、窓一杯に張つた女郎蜘蛛の巣があるだらう」
「──」
「今朝來て見た時からそいつがあつたんだ。どんな器用な曲者だつて、蜘蛛の巣を潜つちや入れないよ」
ガラツ八は一言もありません。陽を受けてキラキラと光る美しい蜘蛛の巣は、斯うなると金網よりも嚴重に見えるのです。
殘るのは梯子段が一つ、その下には用心棒の力松が、一と晩頑張つてゐたことに間違ひはなく、力松が下手人でない限り、こゝから曲者が忍び込むことなどは思ひも寄りません。
「すると?」
「曲者は家の者だ──。それも主人の寢てゐる二階へ自由に出入りの出來るものは、番頭の周助か、下女のお石か、娘のお喜多か、用心棒の力松の外にはないことになる」
新吉は自分の智慧を小出しに見せ付けて、ひそやかなる優越感にひたつてゐる樣子です。
「一番後で主人に逢つたのは?」
「力松だよ。──尤も日頑丈夫でない主人は二三日前から寢たり起きたりしてゐたさうだ。現に昨日も氣分が惡いからと、晝過ぎから床を取らせて、晩飯も拔きにしたといふから、誰も日暮前から二階へは行かなかつたらしい」
さう言はれるといよ〳〵怪しくなるのは用心棒の力松です。
「た、大變ツ」
「親分、ちよいと來て下さい」
階下から、急に、遽しい聲。
「何んだ〳〵」
八五郎と新吉が階子段を轉がるやうに降りて行くと、六疊では用心棒の力松を中心に、番頭の周助以下五六人の者が、何やら滅茶々々に揉み合つて居るのです。
「力松が腹を切るつて言ふんです」
「止めて下さい。親分」
見ると大肌脱になつた力松の手から、五六人の者が匕首をもぎ取らうと必死の騷ぎです。
草角力の大關で、柔術、劍術一と通りの心得はあると言ふ觸れ込みで雇はれた力松が、刄物を持つて居るのですから、これは寄易ならぬことでした。
「止せ。──止さないか、力松」
新吉が聲を掛けると、力松はさすがにがつくり首をうな垂れます。匕首は何時の間にやら奪ひ去られて、眞夏乍ら逞しい大肌脱が寒さう。
「相濟みません。──でも親分方、旦那を殺したのは、何んと言つてもあつしの油斷ですぜ。──高い給金を貰つて、旦那の命を預つてゐ乍ら、こんなことになつちや申譯がねえ。せめて腹でも切らなきや」
力松はさう言つて口惜しがるのです。一國らしい中年者で、田園の匂ひが全身に溢れるだけに、此男に嘘があらうとは思はれません。
「お前は本當に寢てゐるうちに曲者が二階へ登つたと思ふのか」
八五郎は要領の良い口を出しました。
「そんな筈はないから、不思議なんで。あつしはね親分、外に取柄は無いが、酒を飮まないのと眼敏いのが自慢なんで──旦那がそれを見込んで年に十二兩といふ高い給金を出して下さつたんだ。梯子段の下に寢て居るあつしの身體を跨いで、二階へ登つてあんな大それた業をするのは、石川五右衞門だつて出來ることぢやありませんよ。それに廊下の雨戸は上下の棧をおろした上、一々閂が入つてゐるんですよ」
今腹を切らうとした力松は、勢ひよく辯じ立てるのです。成程さう言へば、力松に眠り藥でも呑ませない限り、此關所は通れさうもなく、よしんば力松を買收したところで、此處からさまで遠くない店の衆の寢息を窺つて、曲者を引入れるのも容易な業ではありません。
「それほど申譯の筋が立つなら、腹を切るにも及ぶまい──ところでお前が此處に雇はれた筋道はどうなんだ」
新吉は一歩踏込みます。
「あつしの叔母が、大旦那の里親だつたんで、毎年の出代り時には、今でも叔母の子──あつしの從弟が吾妻屋の奉公人を引受けて、村から出します。番頭さんは江戸者だが、店中の者は皆んな同じ村の生れですよ」
「さうか」
さう聽けば、力があつて、少しは武術の心得のある百姓の伜力松が、並の雇人の三倍の給料で、用心棒に雇はれても何んの不思議もありません。
娘のお喜多は、たゞおろ〳〵するだけ、昨日の晝から父親に逢はないといふ以外には、何んの役に立つことも言つてくれません。
番頭の周助は五十年配の強か者で、商賣には拔け目がないといふ評判ですが、主人の財産を殖やすと同じ率で、自分の貯蓄も殖やして行く外には、さして惡巧みがあらうとも思はれません。こんな男に取つては、主人の暖簾と威光が何よりの頼りで、まさか金の卵を産む鵞鳥を絞め殺すほどの無分別者とは思はれなかつたのです。
「昨夜は何んか變つたことがなかつたのか」
ガラツ八の一應の問ひに對して、
「へエ、何んの變つたことも御座いません。旦那樣はお加減が惡いといふことで、晝過ぎから離屋へ參るのを遠慮して居りました。店は五つ半頃に閉めましたが、それから帳合をして私は亥刻半頃家へ歸りました。──私の家はツイ背中合せの、石原の親分さんのお隣で御座います」
念入り過ぎる答へですが、此の言葉からは少しの怪しい節も見出されません。
「主人を怨んで居る者があつたさうだが、誰と誰だ」
「さア、それは一々申すわけにも參りませんが──斯んな商賣をして居りますと、ツイ筋違ひの怨みを買ふことも御座います」
「商賣の外にも怨みを買つたさうぢやないか」
「へエ──」
「若旦那はどうしたんだ」
「若旦那の金五郎樣は、親御樣と仲違ひなすつて、木更津の御親類にいらつしやいます」
「仲違ひ?」
「何んと申しても、お若いことですから」
番頭の周助も吾妻屋の家庭の事については容易に口を開きませんが、これは隣に住んでゐる新吉から後で詳しく聽きました。
伜の金五郎の家出の原因といふのは、少し遊び過ぎただけの事で、大した問題ではありませんが、それより吾妻屋に取つて欝陶しい問題は、ツイ地續きの隣に住んでゐる、田島屋との紛紜でした。田島屋といふのは、二階の東窓から眼の下に見える小さい住居で、若い主人の文次郎はさゝやかな背負ひ呉服を渡世にして居りますが、昔は吾妻屋と並んだ町内の分限で、死んだ先代の頃、吾妻屋と組んで仕入れた上方の織物で大きな損をし、吾妻屋が巧みに逃げたために、一人で引受けて身代を潰したのだと言はれて居ります。
その上文次郎と吾妻屋の娘お喜多が許婚の中だつたのを、田島屋がいけなくなると、吾妻屋金右衞門方から反古にし、近頃は文次郎を寄せ付けないばかりか、往來で逢つても口もきかないので、文次郎はひどく吾妻屋を怨み、『折があつたら、あの親仁を叩き殺す』とまで放言してゐたといふのです。
二十八になつて、背負呉服屋に身を落した上、お喜多との仲まで割かれた文次郎は、血の氣の多い男で、隨分それ位のことはやり兼ねないやうに、町内の人達からも思はれて居るのでした。
翌る日、石原町へ行つたガラツ八は、思ひも寄らぬ事件の展開を聽かされました。
「八五郎親分、困つたことになつたぜ」
新吉は言ふのでした。
「何がどうしたんだ」
「三輪の萬七親分が乘り出して、用人棒の力松を縛つて行つたよ」
「へエ──、證據があがつたのかい」
「證據のないのが證據だといふんだ。二階の南側の縁側からは入れず、東窓にはでつかい蜘蛛の巣があるから、曲者は梯子を登つて行つたに違ひない。梯子の下には力松が夜つぴてとぐろを卷いて居るとすると、下手人は力松の外にないといふんだ」
新吉もこの理論には爭ひやうがなかつたのです。
「それだけのことか」
とガラツ八。
「だから變ぢやないか」
「力松は何が望みで主人を殺したんだ。年に十二兩といふ大金を下さる主人だぜ」
「俺もさう言つたが、萬七親分は、力松の野郎は纒まつた金でも欲しかつたんだらうといふんだ。ところが纒つた金は離屋の二階などに置く筈はない。金右衞門は身近に刄物とか金を置くことが大嫌ひだつたんだ。萬一惡者が忍び込んで、それを使つたり、それを使はれたりしちや困るといふんださうだよ。金は皆んな土藏の中の恐ろしく巖乘な金箱に入れて、一々念入りに錠をおろしてある」
「それでも力松が下手人だといふのか」
「三輪の親分には、別に考へがあるんだらう。それにしても口惜しいぢやないか、こんな時錢形の親分が居てくれたら」
新吉はつく〴〵さう言ふのです。ガラツ八の八五郎では、何んとしても力になりません。
「氣にするなつてことよ、此方で本當の下手人を擧げりや宜いんだらう」
「それだよ。──俺は隣の──田島屋の文次郎が怪しくて仕樣がないんだが」
「そいつを當つて見ようぢやないか」
「吾妻屋のために大きい身上をフイにして、親父はそれを苦にして死んでゐるんだ。その上お喜多との間を割かれて──あの氣性ぢや、默つて居るのが不思議でたまらない」
「──」
「その上、あの日の晝頃、文次郎は裏の空地でお喜多と逢引してゐる。──あの晩、忍び込んで一と思ひにやらないとは限るまい、空地の上は直ぐあの東窓だ」
「蜘蛛の巣はどうなるんだ」
「その蜘蛛の巣が、新しくてやけに丈夫だ」
新吉はまた、蜘蛛の巣に頭を突つ込んでしまつたのです。
「兎も角、文次郎に逢つて見ようぢやないか」
ガラツ八は新吉を誘つて、文次郎の貧しい家を訪ねました。
背負呉服の細い商賣で、辛くも母一人養つてゐる文次郎は、二人の御用聞の顏を見ると、あわてて外へ飛出して、
「親分さん方、後生だからお話は外で願ひます。年を老つたお袋に苦勞をかけ度くはありません」
と手を合せぬばかりにするのです。
二十七八の苦味走つた好い男、血の氣の多い氣象者らしいところはありますが、それでも年寄の母の氣持を考へて、御用聞を外へ誘ひ出すと言つた心やりはあります。
「あの日お前はお喜多さんと逢つてゐた相ぢやないか」
「へエ──」
新吉の問は露骨です。
「まだお前達は附き合つてゐたのか」
「へエ──、面目次第も御座いません。──親御(金右衞門)のお許しがあれば、何時でも一緒になる氣で居りました」
「お前は吾妻屋を怨んで居たらうな」
「へエ──」
お喜多の父親に對する怨みとも憤りとも、親しさとも憎さともつかぬ不思議な心持に惱んで居る文次郎は何んと言つて宜いか迷つた樣子です。
「あの晩お前は何處へ行つて居たんだ。夕方から留守だつた相ぢやないか」
「少しばかりの掛を集めて、あんまり汗になつたから途中で一と風呂入つて戻りました」
「掛は、何處と何處で集めたんだ。──風呂は何處のだ」
「さア」
文次郎は困惑した樣子です。
「數の多いことですし、度々のことで、よくは覺えては居ません」
「思ひ出して置くが宜い。その證明が立たなきや、お前にも人殺しの疑ひが懸るよ」
「──」
文次郎の顏はサツと血の氣を失ひましたが、それつきり口を緘んでしまひました。
蜘蛛の巣さへなければ、この男を助けて置くのでは無かつたと言つた不思議な焦躁が、新吉の胸をさいなみ始めた樣子です。
欝陶しい日が續きました。親分の錢形平次はまだ歸らず、お靜を相手の留守番には八五郎の叔母が行つてくれましたが、石原町の吾妻屋殺しの方は一向目鼻もつかなかつたのです。三日目の晝頃。
「八五郎さんは」
飛込んで來たのは、『娘御用聞』のお品と、田島屋文次郎の母親でした。
「お品さん、何んか變つたことでも──」
八五郎は頼まれ事の埒のあかないのに氣を腐らせ乍らも、大して極りを惡がる樣子もなく顏を出しました。
「新吉が文次郎さんを縛つてしまひましたよ。おつ母さんに泣き込まれて、私も弱つてしまひました。新吉へ彼れ是れ言ふわけにも行かず、さうかと言つて田島屋のお母さんとは、お隣附合ひで、子供の時分からお世話になつて居るし」
お品は餘程困つた樣子です。その後から、
「八五郎親分、伜を助けて下さい。伜は氣の早い男だけれど、お喜多さんのお父さんを殺すやうなそんな惡い人間ぢやありません。新吉さんは──、あの晩伜が何處に居たか、はつきりしないから怪しいつて言ふさうだけれど、私はよく知つて居ります。伜はお喜多さんに呼出されて、裏の空地で話して居たんです」
涙乍らに言ふ老母の言葉の、妙に辻褄の合つた眞實性が、八五郎の胸に徹へます。
「よし、行つて見るとしよう、何んかの間違ひだらう」
飛出した八五郎は、一氣に石原町へ──、利助の家には、幸ひ新吉も居りました。
「新吉兄哥、大變なことをやつたんだつてね」
八五郎の調子は頭ごなしです。
「何が大變」
新吉は少し屹となりました。
「文次郎を擧げた相ぢやないか。──あの男は下手人ぢやあるまい、現に蜘蛛の巣──」
「俺もあの蜘蛛の巣に頭を突つ込んで、三日といふものを無駄に過したんだ。ところが、その間に三輪の萬七親分は、力松を責めて口書を取つたといふ話もある。うつかりしてゐると、どんな事になるかもわからない」
石原の利助の病躯を助けて十手捕繩を預つて居る若い新吉にしては、それ位のあせりのあるのは無理のないことでした。
「それでも蜘蛛の巣が──」
「蜘蛛の巣は──八五郎親分も知つての通り、新しくて綺麗だつた。前の晩張つたものに違ひない──あの邊は陽當りが良いから、どうせ陽のあるうちに蜘蛛は働く氣遣ひはない。八五郎親分に斯んな事を言ふのは變だが蜘蛛が巣を張るのは大抵夕方薄暗い頃だ。あの巣だつて晝のうちは無かつたに違ひない──といふことに氣が付いたんだ」
「──」
「文次郎は薄暗くなるのを狙つて、蜘蛛が巣を張る前にあの東窓から入つて、吾妻屋を殺して脱出した。それで何も彼も解るぢやないか。ね、八五郎親分」
新吉の顏には蔽ひ切れない得意の色が漲ります。ガラツ八の八五郎は、指を咥へて引下がる外はありません。蜘蛛の習性に通じなかつたのが何んとしても八五郎の手ぬかりです。が併し此儘歸つて、まだ吉左右を待つて居る筈のお品と文次郎の母親に顏を合せたとき、一體どんな事になるでせう。
「こいつは弱つたなア」
見掛けに寄らぬ弱氣の八五郎は、神田に歸るに歸られず、そのまゝ、ろくなお小遣もない癖に、親分の平次を迎ひに、品川の方へ辿つて居りました。駿府へ行つた平次は、今日か明日は歸らなければならなかつたのです。
× × ×
川崎で平次に逢つた八五郎は、其儘有無を言はせず、石原町へ引つ張つて行きました。
「待ちなよ、何んといふ事だ。長い旅から歸つたばかりぢやないか。女房も待つて居るだらうし、こんな顏でも見せて安心さしてよ、それから出直したところで遲くはあるまい」
そんな事を言ふ平次も、到頭ガラツ八の熱心に負けてしまつた事は言ふ迄もありません。
吾妻屋へ旅裝束の儘で行つた平次は、内外の樣子を念入りに見た上、一人々々を呼び出して、離屋の二階で調べました。中でも下女お石と娘のお喜多が念入りで、これはざつと小半刻づつ、一通りそれが濟むと、奉公人から娘お喜多の手廻りの品を見せて貰ひ、お喜多の持物の中から、中程で引千切つた紅鹿の子縮緬の扱帶を一本取出し、それを預つてさつさと神田へ引揚げたのです。
自分の家へ歸つて、一と風呂浴びて來て、久しぶりで一本、女房の酌で始めたところへ、我慢のならぬガラツ八が顏を出しました。
「親分、石原町の吾妻屋殺しはどうなつたんです」
「心配するな、もう解つたよ」
「下手人は」
「これだよ」
平次が袂から取出したのは、眼の覺めるやうな紅鹿の子の扱帶。
「その扱帶が下手人?」
八五郎の驚きやうはありません。
「さうだよ。──お前には解るまい、ざつと話さう。力松が下手人なら、僞の證據をうんと拵へて置くよ。庭へ梯子を持出すとか、二階の雨戸を外して置くとか。──そんな事でもしなきや、疑ひは眞向から自分へ來るぢやないか」
「──」
「文次郎はあの晩東窓の下の空地でお喜多と逢引して居たんだ。何處に居たか言はれなかつた筈さ。あの男は好きな女の父親を殺すほどの惡人ぢやない。──それに蜘蛛の巣は夕方明るいうち張り始める。八方から見通しの二階の東窓へ、蜘蛛が巣を張り始める前に人間が忍び込むなどは思ひも寄らない。新吉兄哥は考へ過ぎたのだよ」
「すると」
「下手人は此扱帶さ。──吾妻屋の金右衞門は散々人を泣かせた酬いで、年を老つて氣が弱くなつたんだ。『誰かに殺されさうだ』と言ひ續けて居たのは、正氣の沙汰では無いよ。──その上伜の勘當や女房の病死ですつかり此世がいやになり娘の喜多が何んかのはずみで忘れて行つた扱帶を見ると、この燃えるやうな美しい鹿の子絞りに引かれて、フラフラと死ぬ氣になつた。──金右衞門は時々自分で死ぬ氣になる事があつたんだ。金右衞門はそれが怖くて、刄物や紐類を身近に置かなかつたんだ」
「すると」
「長押に扱帶をかけて首を吊つたのさ──よく見ると長押は扱帶で擦れた跡があつたよ。──が、扱帶が弱いので直ぐ切れた。金右衞門は下へドタリと落ちるはずみに、弱つて居た心の臟を破つたんだ(心臟破裂)、それつきりさ。死骸の喉の跡が薄かつたのも首の伸びてゐないのもその爲だ」
「切れた拔帶はどうしたんです、親分」
「翌る朝あの部屋へ一番先に入つた下女のお石が隱したのさ。見覺えのあるお孃さんのお喜多の扱帶で主人が絞め殺されて居ると思ひ込んだんだ。何が何んでも、こいつは隱さなきやなるまいと思つた」
「力松や又次郎が縛られて默つて居たのは?」
「二人共萬に一つ處刑になるやうな事はあるまいと多寡をくゝつたのさ。あのお石といふ女は妙に行屆いた女だよ。尤もお喜多と逢引する文次郎が憎かつたのかも知れない──若い女の心持は、俺達には謎だよ」
「するとどうしたものでせう」
「放つて置くが宜い。お石ぢやないが力松と文次郎はもう歸るだらう──。歸らなきや明日にも八丁堀へ行つてやらう。三輪の親分や新吉兄哥に強ひて耻をかゝせ度くないが──それより差當つてお靜を口説いてもう一本つけせさる工夫をしよう。お前も附き合つてくれ、なア八」
平次は杯をあげて、カラカラと笑ふのでした。下手人を出さなくて如何にも良い心持さうです。
底本:「錢形平次捕物全集第十七卷 權八の罪」同光社磯部書房
1953(昭和28)年10月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1943(昭和18)年6月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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