錢形平次捕物控
平次女難
野村胡堂
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「八、良い月だなア」
「何かやりませうか、親分」
「止してくれ、手前が鹽辛聲を張り上げると、お月樣が驚いて顏を隱す」
「おやツ、變な女が居ますぜ」
錢形の平次が、子分のガラツ八を伴れて兩國橋にかゝつたのは亥刻(十時)過ぎ。薄寒いので、九月十三夜の月が中天に懸ると、橋の上に居た月見の客も大方歸つて、濱町河岸までは目を遮る物もなく、唯もうコバルト色の灰を撒いたやうな美しい夜です。
野暮用で本所からの歸り、橋の中程まで來ると、ガラツ八がかう言つて平次の袖を引きました。大した智慧のある男ではありませんが、眼と耳の良いことはガラツ八の天稟で、平次の爲には、これ程誂向のワキ役はなかつたのでした。
「あの女か」
「ありや身投ですぜ、親分」
「人待ち顏ぢやないか、逢引かも知れないよ」
「逢引が欄干へ這ひ上がりやしません、あツ」
橋の上にシヨンボリ立つて居た女、平次とガラツ八に見とがめられたと氣が付くと、いきなり欄干を越して、冷たさうな水へザンブと飛込んで了つたのです。
「八、飛込めツ」
「いけねえ、親分、自慢ぢやねえが、あつしは徳利だ」
「馬鹿野郎、着物の番でもするがいゝ」
さういふうちにパラリと着物を脱ぎ捨てた平次、何の躊躇もなく、パツと冷たさうな川へ飛込んで了ひました。
女は一度沈んで浮かんだところを、橋の下にやつて來た月見船が漕ぎ寄せ、何をあわてたか櫂を振上げましたが、氣が付いたと見えて、水の中の平次と力を併せ、身投女を舷に引揚げました。
女は激動の爲に正體もありませんが、幸ひ大して水は呑んで居ない樣子、月見船の客は船頭と力を併せて、濡れた着物を脱がせて、船頭の半纒や、客の羽織などを着せて、擦つたり叩いたり、いろ〳〵介抱に手を盡して居ると、何うやらかうやら元氣を持ち直します。
蒼い月の光に照らされたところを見ると、年の頃は二十二三、少しふけては居りますが、素晴らしい容色です。
「何うだい、氣分は。少しは落着いたか、何だつてそんな無分別な事をするんだ」
平次は素つ裸のまゝで、女を介抱して居ります。近間に居る月見船が二三隻、この騷ぎに寄つて來ましたが、無事に救ひ上げられた樣子を見ると、この頃の町人は『事勿れ主義』に徹底して、別段口をきく者もありません。
「有難う御座います」
顏を擧げた女、平次はそれを正面から眺めて、何うやら見覺えがあるやうな氣がしてなりません。
「違つたら謝るが、お前さんは、お樂といやしないか」
「えツ?」
女はもう一度心を取直して、橋間の月に平次の顏をすかしました。
「ね、矢張りお樂だらう?」
「あツ、錢形の親分、面目ない」
女は毛氈の上へ身を投げかけるやうに、消えも入りたい風情です。男の羽織と半纒を引掛けた淺ましい姿がたまらなく恥かしかつたのでせう。
「錢形の親分さんで、──これは良い方にお目にかゝりました。私は長谷川町で小さな質屋をして居る笹屋の源助といふ者で御座います。身分不相應な贅で、生意氣にお月樣などを眺めながら、十七文字を揃へて居ると、いきなり鼻の先へ人間が降る騷ぎでせう、全く、こんなに驚いたことはありません」
成程、俳諧の一つ位は捻りさうな、質屋の亭主にしては、肌合の粹な男。錢形の平次と聞いて、いくらか冷靜さを取戻したものか、身投女の後ろから、こんな事を言つて居ります。長谷川町の笹屋といふと、新しいながら相當繁昌する店で、商賣柄平次も滿更知らないところではありません。
「お蔭で一人助けました、飛んだ功徳でしたよ」
と平次。
「功徳には違ひありませんが、町人はこんな時は何の役にも立ちません」
「ところで、お樂、お前のやうな女が、何んだつて又身を投げる氣になつたんだ」
平次は質屋の亭主にはかまはず、船を兩國の方へ漕がせながら、漸く心持が落着いたらしいお樂に話しかけました。
「何も洒落や道樂に死ぬ氣になつたんぢやありません、親分、お怨み申しますよ」
「何?」
「兄の香三郎が、親分の繩に掛つて、傳馬町に送られてから、世間の人は私を相手にしてくれません」
「──」
「兄は泥棒かも知れませんが、妹の私は何にも知りやしません。それを町内の構者にして、厄病神のやうに追拂つたのは、何といふ譯の解らない人達でせう」
「──」
「大泥棒の妹と知れると、何處でも三日と置いてはくれません。三月の間に五軒も越して歩いて少しばかりの貯へも費ひ果し、身でも投げなきア、乞食をするより外に身の振方の工夫もつかなかつたのです。親分やお上を怨んぢや惡いでせうか」
平次も驚きました。その頃江戸中を騷がせた三人組の大泥棒のうち、一人は逃げ、一人は死に、香三郎といふのだけ捕つたのを、今年中の大手柄にして居ると、何時の間にやら、こんな飛んでもないところに罪を作つて居たのでした。
「そいつは氣の毒だ。岡つ引だつて鬼や蛇ぢやねえ、早くさういつて來さへすれば、何とかお前一人の身の振方位考へてやつたのに──」
「親分、さういつて下さると嬉しいけれど、私はどうせ大泥棒の妹だから」
「さうひがんぢやいけねえ、お前の身の立つやうに、及はず乍ら何とか工夫をしてやらう。もう死ぬなんて、つまらねえ心持は起しちやならねえよ」
「──」
お樂は泣いて居りました。
「親分、土左衞門は何うしました」
輕舸で摺れ違つたのは八五郎でした。河へ飛込んだ親分の身を案じて、西兩國の橋番所に駈け付けると、船を出して貰つて現場──橋の下──へ漕がせたのです。
「八か、何て口をきくんだ」
「それぢやお土左」
「馬鹿ツ」
こんな他愛のない掛合が、船の中の空氣をすつかり柔げてくれました。
「親分、寒かつたでせうね、──その女は橋番所に引渡して大急ぎで歸りませう。姐御は一本付けて待つてますぜ」
「この人を伴れて歸るんだ、駕籠をさういつてくれ」
「へエ──、お土左を? 物好きだねえ」
「つまらねえ事をいふな、──笹屋の旦那、それぢやこの女はあつしが引取つて參ります。飛んだお世話になりました」
平次がお樂を伴れ込んだのを見ると、女房のお靜は惡い顏をするどころか、自分の親身の姉が、久し振りで里に歸つたやうに、何の隔てもなく受け容れてくれました。
まだ厄を越したばかり、若くて美しくて、氣立てのいゝお靜は、氣の毒なほど下手に出て、綺麗で年上で、何となく押の強いお樂を立てゝやつたのです。
翌る日。
「此邊へ商賣用で來ました、序と言つちや濟みませんが、昨夜は親分の御世話になりましたのでお禮傍々伺ひました──」
そんな事を言つて、笹屋の主人源助が手土産を持つて顏を出しました。
「飛んでもない、あつしこそお禮に上がらなきアならないところで」
平次はあいそよく迎へて、何くれとなく話しました。平次よりは幾つか年上でせうが、世故にも長け、文筆にも明るい樣子で、この頃の質屋の亭主には、全く珍らしい人柄でした。
馬が合ふといふものか、二人はすつかり話し込んで、お靜の着替を借りて着たお樂を相手に、到頭日の暮れるまで長話をして了つたものです。
それから源助はチヨクチヨク訪ねて來ました。平次が留守だと、お樂やお靜や、ガラツ八を相手に冗談口をきいて歸ることもあります。
「ありや何だい、質屋の亭主だつていふが、野幇間だか、俳諧師だか解つたものぢやない。あんな物識顏をする野郎は俺は嫌ひさ」
ガラツ八は、蔭へ廻るとこんな事をいひますが、面と向ふと、まことにだらしもなく引込んで了ひます。物識と通人は、ガラツ八に取つては一番の苦手だつたのです。
もう一人、お樂と源助を嫌ひな人間がありました。
それは、ツイ二軒置いた隣に住んで居る、駄菓子屋の娘お町。お靜と一緒に水茶屋に出て居て、平次に氣があつたのですが、張合つて綺麗に敗けて、今でも兩國の水茶屋に通つて、女だてらに大酒を飮んで、男から男へと渡つて歩くやうなだらしのない生活を續けて居るのでした。
「八さん、お寄りよ。知らん顏をして通ると、此間、私を口説いたことを町内へ觸れて歩くよ」
「あツ、お町か、敵はねえな?」
ガラツ八はさう言ひながらも、惡い心持がしないらしく、縁臺に腰をおろして、お町がくんでくれた温い茶を啜ります。
「ね、八さん、あの女は何處の化物さ。平次親分のところへ入り込んで、近頃はお靜さんを使ひ廻して居るツてえぢやないか」
「俺が、そんな事を知るものか。いづれ田舍の從妹とか姪とかいふんだらう」
ガラツ八は當らず觸らずの事を言つて居ります。
「近所にあんなのが居ちや癪にさはるねえ。お靜さんもお靜さんぢやないか、何だつて又默つて眺めて居るんだらう」
「其處がお靜さんのいゝところさ、お前とは少しばかり出來合が違ふ」
「何だとえ、もう一度いつて御覽」
「何遍でもいふよ、お靜さんのあのポーツとしたところを親分が氣に入つたんだ、さういつちや濟まねえが、お町のやうにピンシヤンしてちや、親分の氣に入るわけはねえ」
「畜生ツ、何とでも言ふがいゝ。──ところで、あのお樂とかいふ女は、どうだい」
お町はかう言はれても大して腹を立てる樣子もなく、お樂のことを根ほり葉ほり聞きたがつて居ります。
「あのお樂と來た日には大變さ。唯もうネツトリして、膠でねつて、鳥黐でこねて、味噌で味を付けたやうだよ」
「嫌だねえ、萬一お靜さんから親分を横奪りするやうな事があつたら、このお町さんが生かしちや置かないつて、さう言つておくれ」
「少し物騷だね」
「何が物騷さ、あんな女に町内を荒される方が餘つ程物騷ぢやないか」
お町はさういつた女でした。お靜と平次が一緒になると、ゲームに負けたやうな心持で、一旦綺麗に引下がつては見たものゝ、横合から變なのが飛出して、平次へちよつかいを出して居るのを見ると、自分がいさぎよく引下がつただけに、打ち殺しても了ひたいやうな、言ひやうのない衝動を感ずる──といつた性の女だつたのです。
四五日は無事に過ぎました。
お靜は相變らずまめに立働いて、何の蔭もないやうに暮して居りますが、氣を付けて見ると、呆然して溜息を吐くといつたやうな樣子が、ちよい〳〵平次にも見られるやうになつて來ました。
お樂はガラツ八がいつたやうに、少しねつとりとして居りますが、奉公人のやうに、よく働いて居ります。妾、旅藝人といつた過去はあるにしても、平次やお靜の親切な仕向に折れたのでせう。見たところ、綺麗で、才走つて、身だしなみがよくて、知らないものが見たら、此方が平次の女房で、お靜を妹とでも思ふことでせう。
「ね、お前さん、ちよいと」
或日、お樂の留守を見定めて、お靜は物蔭に平次を呼び入れました。
「何だえ、誰も聞いちやゐない、用事があるなら其處で話せ」
平次は少し面倒臭さうでした。
「私、こんな事はいふまいと思つたけれど、氣味が惡くて、どうにも我慢がならない。お願だから、お金か何かやつてお樂さんを外へ預けて下さいません?」
「何?」
豫想外なお靜の言葉に、平次は眼を瞠りました。
「──出て貰つたつて、其日に困らせるやうな事さへしなければ、義理は濟むぢやありませんか、お願ですから」
「お前妬いてるのか」
「あれ、そんな事ぢやありません。近頃私は此儘ヂツとしてゐると、殺されさうな氣がしてならないんです」
「──」
「昨夜裏の井戸で水を汲んで居ると、いきなり私の足をさらつたものがあるぢやありませんか。井桁につかまつて、井戸へ落ちるのだけは助かりましたが、氣が付いて見ると、水を汲む時立つ場所へ、繩で罠を仕掛けて置いて、梁を通して、繩の端を向うから引くやうにしてあつたんです。誰が引いたか解らないといへばそれまでゞすが、此邊に私を殺す氣の人が居るには間違ありません」
「──」
「それから、今朝は物置に入つてゐると、外から戸を締めて、輪鍵をかけて心張をした上、炭俵へ火を點けた者があります。幸ひ氣が付いて戸を押倒して飛出し、炭俵の火が軒へ移りかけたのを、天水桶から水を汲み出して消しましたが、此樣子だと、これからも何んな事をされるか解りません。お町さんに聞くと、二三日前にもお樂さんは、わざ〳〵兩國の藥屋まで行つて、何か買つてゐるから、そつと後から跟いて行つて見ると、岩見銀山の鼠取り藥だつたさうです、──何處で何時使ふか解らないから用心するがいゝ、狙はれて居るのが鼠ぢやなからう──お町さんはさういつてくれました」
「──」
お靜のいふのは尤もでした。二度も三度も、明かに自分の命を狙ふ者の細工を見せられては、どんな義理があるにしても、此上素姓の怪しいお樂を、同じ家根の下には置きたくなかつたのです。氣の弱い、物優しいお靜が、思ひ切つてかう言ふのですから、それは本當によく〳〵の思ひだつたのでせう。
「お靜」
「ハイ」
「お前は、俺がお上から十手捕繩を預かる身分と知つて嫁に來た筈だな」
「──」
平次の言葉は以ての外でした。嫁入つてから半歳あまり、ツイ荒い言葉も聞いたことのないお靜は、あまりの事に仰天して、平次の憤怒とも、疑惑ともつかぬ顏を見上げました。お靜は息の詰まるやうな心持だつたのです。
「縛られたり、打たれたり、顏へ怪我をしてさへ、一言も泣き言をいはなかつたお前が、それ位のことで、お樂を追ひ出せとは何といふことだ。矢張り嫉妬と言はれても文句はあるまい──いや、言譯は聞かない。身まで投げる氣になつたお樂を助けて、それが氣に入らないといふやうな女房は、俺の方でも考へ直さなきアなるまい。お上の御用を勤めてゐる身體には、何時どんな用事があるかも知れないのに、一々嫉妬がましい事を言はれちや、御用が勤まらないといふものだ」
「あれ、そんな積りぢや」
「默つてお袋のところへ歸つてくれ。長いことは言はない、十日經たないうちに、何とか言つてやらう。兎に角お前が此處に居ちや、ろくな事がなさゝうだ。手廻りの荷物だけ纒めて、後と言はずに、今直ぐ行つてくれ。三行半をやるか、迎への人をやるか、それはもう少し考へてからの事だ──無分別なことをするな」
「お前さん、そんな、そんな、──私はそんな積りで言つたんぢやありません。堪忍して下さい、死んでも私は此處を動きません」
お靜はあまりの事に顛倒して、平次の膝に縋り附くと、赤ん坊のやうにイヤイヤをしながら泣きました。もう二十歳にもなつて、大丸髷の赤い手柄が可笑しい位なお靜が、平常可愛がられ過ぎて來たにしても、これは又あまりに他愛がありません。
「お靜、見つともない、いひ出した事を變替する俺ぢやない。兎も角お袋の所へ行つて、五日なり十日なり、俺の考への決まるのを待つがいゝ」
「否、否、私は否、何んなことがあつても、此處を動きやしません。ね、私が惡かつたら堪忍して下さい」
「馬鹿ツ」
「堪忍して下さい、お願」
お靜は平次の膝から胸へ、首にすがりついて、たつた三つになる子供のやうに泣くのでした。
少し下脹れの可愛らしい顏が涙に濡れて、紅い唇のワナワナと顫ふいぢらしさは、何んな剛情な平次も、折れるだらうと思はれましたが、頑固に眼を閉ぢた平次は、それをむしり取るやうにもぎ離して、
「八、ガラツ八は居ないか」
縁側の方へ聲を掛けるのでした。
「オーイ」
ノソリと立つたガラツ八も、拳固で切りと涙を拭いて居ります。
「氣の毒だがお靜をお袋のところへ連れて行つてくれ。十日經つたら、改めて平次が伺ひますつて、いゝか」
「御免蒙らう」
「何だと?」
「そんな使は御免蒙らうよ」
「馬鹿ツ、突つ立つて物を言ふ奴があるか」
「立たうと坐らうと勝手だ。こんな貞女を追ひ出して、あの雌猫の化けたやうな女と一緒になる積りだらう。そんな野郎はもう親分でも子分でもねえ」
「野郎と言つたな。馬鹿ツ」
「馬鹿の親分は野郎で澤山だ」
「畜生ツ、言やがつたな」
平次は思はず煙草盆を持つて立上がりました。
「あれツ、八さん、お前さんの方が引込んで居てくれなきア、──どうせ私が惡いんだから」
お靜は二人の間に割つて入りました。
「親分、可哀想ぢやありませんか、お靜さんは泣き乍ら行きましたよ。私は丁度横町でバツタリ出會はすと、お靜さんを劬め〳〵行つた八さんが、往來で私を捕まへて、そりや變な事ばかり言ふんですもの、間の惡さといつたら」
お樂はさう言つて銚子を取上げました。お靜が出かけた後、邪魔する者もない心持で、晩酌の相手までしてゐたのです。
「お前が來てから、お靜の調子がすつかり變つたのさ。氣の毒だが、御用聞の平次に、妬く女房があつちやお上の御用が勤まらねえ」
「でもねえ、あんなに騷がれて一緒になつた二人ぢやありませんか。私なんか、遠くから見て居てどんなに羨ましかつたことか」
お樂はさう言つて、圓い顎を襟に埋めました。銚子を持つた華奢な手が少し顫へて、海千山千といつた妖婦肌の女にしては、變に亢ぶる感情を押へきれない樣子です。
「お前も一つやるかい、お樂」
雫の滴れさうな猪口を、お樂は小さく兩手で受けてニツコリしました。妙に脂の乘つた艶めかしさは、嫌な言葉ですが、『ニンマリ笑つた』と言ふのが一番適當して居るでせう。
お靜の着換には相違ありませんが、お樂が着ると、銘仙も木綿も粹になるのでした。洗ひ髮に、赤い〳〵唇、猪口に觸ると其儘酒も紅になりさうな、それは何といふ官能的な魅惑でせう。
「だけど嬉しいねえ、親分とかうして居られるんだから、私はまるで夢のやうな心持よ」
少し馴々しい口をきいて、猪口を返す手に思はせぶりな力をこめたりしました。
「つまらない事を言つちやいけない。ところで、お前にいろ〳〵聞きたいことがあるが、──言つてくれるだらうね」
と平次。
「親分には命を助けて貰つた上、こんなに親切にして頂くんだから何もかも言つて了ひますわ、その代り私の願も聞いて下さるでせう?」
お樂は何時の間にやら長火鉢の向う側から、此方側へ滑つて、平次の身體にもたれるやうにして居るのでした。
「それはもう、大抵の事なら聞くが──」
「有難いわねえ、親分、一體、どんなことをお話すればいゝの」
「外でもない、半歳前に江戸中を荒した三人組の大泥棒、一人はお前の兄の香三郎で、これは傳馬町の大牢に入つて居る。もう一人は蝮の三平──これは死んださうだが、──あと一人殘つた人殺しの房吉、これは頭分で、人の五六人も殺して居る。一人だけ繩目を脱れて、今でも人もなげに御府内を荒し廻り、この平次を白痴にして喜んで居る。俺はこの房吉を縛つて、江戸中の人を安心させたいのだよ」
「解りましたワ、親分、思ひ切つて言つて了ひませう。房吉は名を變へて、今では江戸の眞中に住んで、親分が死んだと思ひ込んで居る三平と一緒に、相變らず惡事を重ねてゐますよ」
お樂の手は何時の間にやら平次の腕に卷き付いて、その少しほてつた顏は、妙に惱ましく平次の緊張した顏を見上げるのでした。
「それは有難い。房吉、あの人殺しの房吉といはれた野郎と、兄弟分の三平は何處に居る、教へてくれ、お樂」
「その代り私のお願ひ、──」
「出來ることなら何でも聞く、──房吉は何處だ」
「──」
お樂が何か言はうとした時でした。
「御免下さい」
お勝手の格子が開いて、ソロリと入つて來たのは、石原の利助の娘で、平次には日頃恩にもなり、親みも持つて居るお品。親の利助の病中は、その代りに子分共を指圖して、十手捕繩を恥しめなかつた女ですから、見たところは弱々しい、出戻りとも思へぬ若くて美しいお品ですが、氣象や才智は、竝の男の三人分もあらうといふ女です。丁度この時、
「親分、今晩は、ちよいとお靜さんのお留守見舞よ、入つていゝ?」
表からは二軒置いて隣りに住む、昔のお靜の朋輩お町、それは、無抵抗で優しいお靜にだけは兜を脱いで居りますが、外の女が平次に指でも差さうとしたら、狂犬のやうに喰ひ付いてやらうといふ恐ろしい女です。
「あツ、お品さん、──お町もかい」
平次も呆氣にとられました。折角お樂の口から兇賊の住所を聞出さうとして居る矢先に、こんなのに飛込まれては、全くやり切れません。
「お町もか──はひどいでせう。親分、そのもかが氣に入らないよ」
お町は自分の家のやうに入つて來ました。
「弱つたなア」
「弱つたのはお靜さんよ。あんの可愛らしいお神さんは江戸中探したつて二人とあるものか、お前さんには過ぎものだ。そんな雌猫の化けたやうな脂ぎつた女なんかと見換へちや罰が當るよ」
「お町、口が過ぎるぞ」
「お神酒は過ぎてるが、口なんか過ぎるものか」
お町は一寸も引きさうにありません、──それどころか、長火鉢の向うへ、女だてらに大胡坐をかくと、お樂の手から猪口をむしり取ります。
「さア、親分注いでおくれ。何をキヨトキヨトして居るのさ、これでも此雌猫よりはましだよ。お靜さんに親分を取られた時は器用にあきらめたが、親分を外の女に取られるやうな事があつちや、兩國の水茶屋の名折れだよ」
平次は苦笑ひして立上がりました。後にはお品、
「親分、お靜さんはお里へ歸つたさうですねえ」
「何處から聞いたんだ、お品さん」
「手紙が來ましたよ、頼むから一と晩親分を見張つて下さい──つて」
「どれ、その手紙を見せな」
平次はお品の手から手紙を受取りましたが、見覺えのある手蹟ではありません。
「親分、此處へ泊つても構はないでせう?」
お品までがこんな事を言ひます。これはお町と違つて、叱ることも追拂ふことも出來ないだけが、厄介といふものでせう。
「こいつは面白いや。女三人で親分を眞中に、睨めつこのお通夜なんざ洒落たものだね」
お町はすつかり喜んで居ります。
「親分、あの話は明日にしませう」
と、お樂。これも辟易する柄ではありませんが、さすがにかうなつては、何を切り出すことも出來ません。
「驚いたな、どうも、みんな歸つてくれ。御親切は有難いが、一と晩頑張つて居られちや、俺がたまらない」
と、平次。
「色男には誰がなるつてね、親分、かう新造に騷がれるのも滿更惡い心持ぢやないだらう」
お町は柱にもたれて太平樂を言つて居ります。
錢形の平次もこの晩ほどひどい目に逢はされた事はありません。脂ぎつた妖艶なお樂と、鐵火で阿婆摺で男のやうに啖呵を切るお町と、出戻りとはいつても、美しくて賢いお品の間に挾まつて、一と晩さいなまれたのです。
朝になると、飛出して一と風呂、お品が拵へてくれた飯を濟ますと、其儘プイと飛出して了ひました。これより外には、女難除けの手段も考へられなかつたのです。留守は多分、お品がいゝやうにやつてくれるでせう。併し、事件は、その日のうちに急轉直下して、凄まじい終局まで推し進んで了ひました。
その晩、町内の錢湯へ行つたお樂が、容易に歸らないと思つて居ると、
「あ、人、人殺しツ」
路地の中で大變な騷ぎが始まりました。
留守番のお品は飛んで出ました。お町が引揚げて了つた後、さすがにお品一人では淋しかつたのです。
「何だ〳〵」
彼方此方から人が飛出して來ました。平次の家の近く、通りから少し入つた一間の路地、一方は板塀で、一方は表を閉した貸家、その先が生垣で、共同井戸で、袋路地になつて居りますから。日が暮れると滅多に人の通らないところです。
誰か手燭を持出すと、
「あツ」
皆な潮の引いたやうに退きました。恐ろしい血潮の中に、若い女が仰向けに倒れて居るのです。
「平次親分のところに居る人ぢやないか」
誰かゞ言ひます。
紛れもなくそれは、お樂の取亂した湯上がり姿に相違なかつたのです。
平次は朝から留守、何うする事も出來ません。そのうちに誰が言つてやつたか、町役人が見廻り同心を連れてやつて來ました。
後ろから顏を出したのは、何うして嗅ぎ付けたか、三輪の萬七とお神樂の清吉。お品は『しまつた』と思ひましたが、今更病中の父親を連れて來るわけにも行かず、一人で氣を揉んで居ります。
「旦那、申上げます。殺されたのは、此間から平次のところへ入り込んで居る女で、お樂とか言ふさうです。その爲に平次は女房のお靜を出したつて話ですから、いづれ、そんな事で刄物三昧になつたんぢや御座いませんか」
萬七はすつかり好い心持さうに、お樂の死體を見たり、其邊中の人に當つたり、目まぐるしく活動しては、合間々々に同心に報告して居ります。
「刄物は何だ」
「匕首の細いので御座います、後ろから突いたところを見ると、下手人はどうせ女でせう」
「フーム」
「妙な物を見付けましたよ、旦那、死體の側の血の中にこれが落ちてゐました」
萬七の渡したのを見ると、斑の入つた鼈甲の櫛。銀で唐草を散らした、その頃にしては、この上もなく贅澤な品です。
「これはいゝ手掛りだ」
と同心。
「心當りの者に聞くと、それほどの品ですから間違はありません、平次の女房のお靜の品なんださうで──」
「何? 平次の女房が下手人だといふのか」
萬七の謎を解いて、同心も驚いた樣子です。
「お靜が下手人だとは申しませんが、兎に角、この女の爲に昨夜追出されて、お袋のところへ歸つたさうですから、一應呼出してお訊き下さいまし。こんな人通りのない路地の奧へ入つて、何うして櫛なんか死體の側へ置いたか、その辯解さへ立てば、お靜の疑ひはすぐ晴れます」
「フーム」
何うも萬七の言ふ事は一々皮肉です。
「もう一つこれは大した事ぢや御座いませんが、念の爲に申上げて置きます。お靜は餘程口惜しかつたと見えて、今日は朝一度、晝頃一度、平次の家の廻りまで來てウロウロして居たさうです。朝と晝來た位ですから、宵に來ないつてわけは御座いません」
「──」
いよ〳〵以て萬七の舌は毒を含みます。
併し、同心も直ぐに平次の女房に繩を打たせるわけには行きません。念には念を入れて、路地の内外、湯屋での樣子、それから平次の家に留守番をして居るお品まで調べました。が、お靜を呼出して訊くより外には、下手人の見込も當りも付きさうもないと解つたのです。
「お靜の里といふのは此附近か」
と同心。
「ツい其處で」
「喚んで來て貰はうか」
同心の許が出ると、清吉は飛出さうとしました。
「どつこい、それには及ばねえよ、お靜さんにやましい事があるわけはねえ」
ヌツと顏を出したのは八五郎でした。
「八兄哥か、錢形の親分も飛んだ掛合ひで氣の毒だな」
萬七は妙に笑ひたいやうな、泣き出したいやうなしかめつ面を見せます。──
「へツ〳〵、有難いことで、三輪の親分が大層氣の毒がつてゐなすつたと、親分へ申して置きませうよ」
「ところでお靜ちやんは何うなすつたえ」
「これもお氣の毒みたいな話で、ツイ今しがたまで、おツ母アとあつしを相手に、泣いたり笑つたりして居ましたよ」
「本當かい」
「お隣で聞けば解りまさア」
「この櫛はお靜さんのだつてね」
萬七は動かぬ證據の積りで、鼈甲の櫛を見せました。
「お靜さんのだつたら、何うなるんだ」
「氣の毒だが下手人の疑ひは免れつこはねえ」
「へーエ」
「死體の側、それも血の海の中に落ちて居たんだ」
「さうですかい、もう一つ同じ櫛を持つて居る人があつたら何うします、三輪の親分」
「何だと?」
「ちよつと待つておくんなさい」
ガラツ八は飛んで行きましたが、暫くすると、ベロンベロンに醉拂つたお町を引つ擔ぐやうにして伴れて來ました。
「何だつて? あの雌猫が殺された? いゝ氣味だね、明日まで生きて居りア、私が殺す積りだつたよ。あん畜生と一と晩啀み合つたので、今日は氣色が惡くて仕樣がないから、店を休んで朝から呑んで居たんだよ」
いやもう滅茶々々の機嫌です。
「お町、人一人の命に關はることだ、確かりしておくれ。これだ、この櫛はお前のだらう」
ガラツ八は一生懸命でした。萬七の手から受取つた櫛をお町の朦朧たる醉眼の前へ持つて行きます。
「私のだよ、誰が盜んで行きやがつたんだ」
「確かにお前のだね」
「お靜さんと一年前に對に拵へたんだよ。お靜さんのでなきア私のさ」
「目印はないかえ」
「そんな物があるものか、針で突いた程の傷も付けないのが自慢だつたんだ。誰が一體盜んで行つたんだ」
お町の言ふのは嘘らしくもありません。
「何時盜まれたんだ、出鱈目を言つちやならねえよ」
萬七は横合から口を出しました。
「出鱈目、チ、畜生、岡つ引ぢやあるまいし、お町姐さんが出鱈目を言ふかい。櫛は二月前に盜まれたんだ。町奉行所へ屆出なかつたのが惡きア、何うともしやがれ」
お町の大地に崩折れるのを尻目に、
「八兄哥、お靜さんの疑ひは晴れたとは言へねえな」
萬七はニヤリとします。
「三輪の親分、お靜さんは晝からズーツと此處へ來るまであつしと話して居たんですぜ」
八五郎は少しムツとした樣子です。
「一つ穴だ、當になるものか」
「三輪の、あつしが嘘をついたつて言ふのかえ」
「誰もそんな事は言はねえよ」
「お町は此間からお樂の阿魔を殺すんだつて威張つて居たが、もう少し訊いてみちや何うです、え、親分」
「こんな醉つ拂ひに人間一人殺せるわけはねえ。無駄だよ、八兄哥──」
「ぢや何うあつても」
「繩張外で氣の毒だが、平次兄哥では此調が六づかしからう。俺が代つてお靜さんの口を割つてやらなきアなるまい、どつこい」
三輪の萬七はさう言つて、お神樂の清吉を振向きました。何やら目くばせすると、苦い笑が二人の顏をニヤリと走ります。
「畜生ツ、そんな事をされちや錢形の親分の名折れだ、お靜さんを調べるなんて、俺が不承知だ」
八五郎は大手を擴げて立塞がりました。
「馬鹿野郎、奉つて置きアいゝ氣になつて、手前達三下の知つたこつちやねえ、默つて引込んで居やがれ」
「何を言やがる、手前は仲間の誼みてえ事を知らねえのか、義理も人情もねえ野郎だ。それもお靜さんに少しでも疑ひがあるなら兎も角、お靜さんは、お袋と俺の側を一寸も離れちや居ねえんだぞ」
「うるさいツ」
「金輪際此處を通すものか」
「役目の表でもか」
「──」
「馬鹿野郎、ドヂを通らねえと、手前のやうになるとよ、ハツハツハツ」
清吉はこんな洒落を言ひ乍ら、八五郎の胸をドンと突きました。
「野郎、突きアがつたな」
飛びかゝらうとする八五郎。
「騷ぐな、八五郎、話は俺がつけてやる」
後ろからそつと肩に手を置いた者があります。
「何をツ」
振り返ると、八丁堀の旦那、吟味與力筆頭笹野新三郎が、微笑を含んで立つて居るのでした。
萬七とガラツ八の爭ひの嵩ずるのを惧れて、お品がそつと人を走らせ、笹野新三郎に助けを求めたのでした。
調べは又最初からやり直し、何から何まで念入りに繰返しましたが、結局、お樂を殺す動機を持つて居る者は、お靜とお町の二人だけ。落ちて居た櫛は、二人のうち、何方かの物と決つて居りますが、お町は二月前に紛失、お靜は昨日落したといふだけで、これも水掛論に終りさうです。
お靜は到頭喚出されて、お町と一緒に調べられることになりました。騷ぎを聞いて丁度其處へやつて來たお靜は、其儘下手人の疑ひを受けて、皆なから冷たい眼で見られなければならなかつたのでした。
丁度其處へ、ノツソリと錢形平次が歸つて來ました。
「あツ、親分、大變な事になつた」
八五郎は飛付きました。萬七の側に引据ゑられたお靜は、飛付くこともならず涙一杯溜めて、平次の喜び勇む顏を見て居ります。
「聞いたよ、お樂が殺されて、お靜とお町が下手人の疑ひを受けてゐるつて話だらう、──お蔭で俺には、何もかも解つたやうな氣がする。旦那、御免なさいまし、三輪の親分、御苦勞樣」
平次はさう言ふと、ツカツカと死體の側に寄り、提灯や手燭の明りで、恐ろしく念入りに調べ始めました。傷口から衣紋から、その邊の大地まで、平次の眼からは、何一つ逃れやうがありません。
「大方見當がつきましたよ、櫛を見せて下さい、ホウ、これはお靜のだ」
「えツ」
ガラツ八はいふ迄もなく、お靜も、新三郎も、萬七までもびつくりしました。自分の女房を致命的な疑ひに引入れるやうな言葉です。
「何の邊に落ちてゐたんだ、誰が拾つた? もとのやうに置いて貰はうか、──それで間違はないね、後で間違つたなんて言はれると困るが、何? 目印が付けてあつた? それは有難い」
平次はさう言つてもう一度櫛を取上げながら續けました。
「この櫛には血が着いて居ない、誰も拭きやしませんね、──尤も一度血の着いた櫛なら、拭いても齒の間に血が殘つて居る筈だが、この櫛にはそんな跡はない、──血の中に入つて居て、血が着かないとすると、この櫛はお樂を殺した時落したんではなくて、後から持つて來て、そつと置いて行つたものに違ひない。血が乾きかけてから置いたなら、櫛へは血が着かなかつたわけで──」
「──」
皆なは此一言ですつかり平次に征服されて了ひました。互に顏を見合せて、次の言葉を待つばかりです。
「自分の持物を死體の側へ持つて來る者はないから、この下手人はお靜でもお町でもありませんよ」
平次は笹野新三郎の方を向いてかう言ひます。
「──」
皆なホツと溜息を吐きました。わけてもガラツ八の喜びやうといふものはありません。
「それから、こんな袋路地の奧へ湯歸りのお樂を連れ込むのは、知つて居る者でなきアならないが、女ぢやありません。後ろから突いたから、一應女と思ふのも尤もだが、女が匕首を持つて向う突きにしたとすると、傷口は上向く筈だ──第一返り血が大變だから、其邊にウロウロして居ると直ぐ見つかる」
「──」
「これは、お樂を胸に抱いて、後ろへ手を廻して匕首を背中に押し當てるやうに、恐ろしい力で突き下げた傷だ。これなら返り血を浴びる事もなし、傷口が下向になつてゐるのが何よりの證據だ。それから、お樂の手の爪の中に紬の糸屑が、ほんの少しだが入つて居る、抱き附いて背中を刺された時掻きむしつたんだね、紬を着るのは大概男だ」
「──」
何といふ明察でせう。萬七は一句もなく首を垂れました。
「一體下手人は誰だ、平次、話して見るがいゝ、お前には解つて居るやうだが──」
笹野新三郎は耐へ兼ねてかう言ひました。
「最初から申しませう。九月十三夜に、兩國橋で私は身投女を救ひ上げました。これがお樂で、三人組の大泥棒、香三郎の妹で御座います。側に居た船へ引上げて貰はうとすると、その船の船頭が櫂を振り上げて私を打たうと構へたのです。幸ひ月見船が二三艘居たので、私も命拾ひをしましたが、これは唯事でないと思つたから、其處からお樂を引取つて、少し見て居ることにしたのです」
「──」
平次の話は奇つ怪でした。調べて見るとお樂は房州生れの河童で、水で死ぬやうな女ではありません。兄の仇を討ちたさ、夫の仕事を手傳ふ積りで、平次の通るのを知つて狂言身投をやり、あはよくば水の中で打ち殺し、やり損じたら、一と芝居打つて、平次の家へ入り込み、平次を何とかして亡き者にしようと思つたのでした。
「笹屋源助といふのはお樂の亭主で御座います、それは後で解りました」
平次はかう續けます。
──お樂は平次の家へ入込みましたが、平次に心惹かれて殺す心が鈍り、その代りお靜を殺さうと計畫したのでした。平次はお靜危ふしと見て、わざと腹を立てた振をしてお靜を母親の許に返し、直ぐ樣怪しいと睨んだ笹屋源助の身許を探し始めました。これがお樂の亭主だつたことは言ふ迄もありません。
お品を呼出した手紙を、平次が手を廻して笹屋の亭主の書いたものと比べると、寸分違はぬ同じ筆でした。笹屋の源助は、女房お樂の心變りを知つて平次と一と晩一緒に置くのを氣遣ひ、お品をおびき出してその番人にしたのです。お町が飛込んで來たのは、これは源助にも豫想外だつたでせう。
──笹屋の源助は三人組大泥棒の首領房吉の變名だつた事は言ふ迄もありません。お樂が自分を裏切つて、自分と三平の在所を教へようとしたのを聞いて、始めて殺意を生じ、いよ〳〵打明けるといふ今晩、錢湯へ行つたお樂を蹤けて、この路地に誘ひ入れ、いろ〳〵に説き立てたのですが、お樂はすつかり氣が變つて源助の言ふ事を聞かなかつたので、前から抱き寄せるやうにして、隱し持つた匕首で一と突きにしたのです。
「櫛は、源助がチヨイチヨイ私の家へ來るうち、何かの役に立てようと思つて持つて行つたのでせう。どうかしたら、昨日お靜が飛出す時、あわてゝ落したのを拾つたものかもわかりません」
平次はかう説明して、一度辛く當つたお靜へ、──勘辨しろよ──といつた優しい眸を送りました。お靜はもう嬉し泣きに泣いて、それも氣の付かない樣子です。
「ところでその笹屋の源助といふのは何うした、急いで手配しなければなるまい」
と笹野新三郎。
「それには及びません、あれで御座います」
指す人込の中から、一人の男、身を飜して逃げ出さうとするのを、早くも平次の手から飛んだ投げ錢、一枚はその項を、一枚は背を打ちます。
「あツ」
ひるむところを、何處を何う飛込んだか、親分の氣を知ることの早い八五郎は、サツと飛込んで後ろから組附きました。
「これが笹屋の源助か」
笹野新三郎は、物優しくさへ見える繩付を顧みました。
「さうで御座います、三人組の首領で、人殺し房吉といふ、恐ろしい男で御座います」
平次は驕る色もありません。
「さうと知つたら、逃げるんだつた。手前の話に釣られて、到頭年貢を納めさせられるよ」
房吉は口惜しさうに齒咬みをします。
「ガラツ八は最初からお前の側に付いて居たよ、俺の眼の動き一つで、何でも讀むのが八五郎の藝だ。逃げた筈の三平も、今頃は捕つて居るだらう。それも手配をして置いたよ」
平次は事もなげにかう言ひます。
「錢形の親分、お前さんはお靜さんを捨てちやならないよ。お靜さんを泣かせると、このお町が承知しないから」
醉つ拂ひのお町はフラフラと立ち上がると、お靜の頸つ玉に噛り付いて、泣き出して了ひました。
底本:「錢形平次捕物全集第十二卷 鬼女」同光社磯部書房
1953(昭和28)年8月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1933(昭和8)年12月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年4月10日作成
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