錢形平次捕物控
美女を洗ひ出す
野村胡堂
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芝三島町の學寮の角で、土地の遊び人疾風の綱吉といふのが殺されました。櫻に早い三月の初め、死體は朝日に曝されて、道端の下水の中に轉げ込んで居たのを、町内の人達が見付けて大騷ぎになつたのでした。
傷といふのは、伊達の素袷の背後から、牛の角突きに一箇所だけ、左の肩胛骨の下のあたり、狙つたやうに心臟へかけてやられたのですから、大の男でも一たまりもなかつたでせう。刺された拍子に轉げ込んだものと見えて、下水の中は蘇芳を流したやうになつて居ります。
この邊の繩張りは、柴井町の友次郎といふ御用聞、二足の草鞋を穿いて居るといふ惡評もありますが、先づ顏の通つた四十男。早速驅け付けて、役人の檢屍の前に、一と通り、急所々々に目を通しました。
「親分、ひどい事になつたものですね」
「お、八五郎か。錢形の仕込みで大層鼻が良いな」
「からかつちやいけません。まだこの死體を見付けてから、半刻と經たないつて言ふぢやありませんか。いくら鼻がよくたつて、神田から驅け付ける暇なんかありやしません」
「ぢや品川の歸りつて寸法かい」
友次郎は何處までからかひ面だかわかりません。
「飛んでもない、川崎の大師樣へ日歸りのつもりで、宇田川町を通ると此騷ぎでせう」
「成程ね。そこで、俺の間拔けなところを見て笑つてやらうと言ふ廻り合せになつたんだね。まア、宜いやな。この通りの始末だ。種も仕掛けもねえ、よく見てやつてくんな」
友次郎の妙に絡んだ物言ひが癪に障らないではありませんが、ガラツ八とは貫祿が違ひますから、腹を立てたところで、喧嘩にも角力にもなるわけではありません。
「殺されたのは、疾風の綱吉だつて言ふぢやありませんか」
「さうだよ。可哀さうに、後ろ傷で往生しちや綱の野郎も浮ばれめえ。何とか敵を討つてやらなくちや」
「刄物は」
と八五郎、何とか厭味なことを言はれ乍らも、職業意識は獨りで働きかけます。
「それが不思議なんだ。どうしても見えねえ。これだけ深傷を負はせたんだから、わざ〳〵引つこ拔きでもしなきア、死骸が刄物を脊負つて居る筈だ」
「へエ──、一體誰がこんな虐たらしい事をやつたんでせう」
とガラツ八。
「それが解りや苦勞はしねえ。つまらねえ事を言ふと、素人衆から笑はれるぜ」
「だが、怨とか、物盜りとか」
「綱吉の野郎にしちや、柄にもねえ纒まつた金を持つて居るやうだから、物盜りでねえことだけは確かだ。物盜りの仕業なら、得物を死骸の背中から引つこ拔く暇に、懷から財布を拔いて行くよ」
「怨となると──」
「知つての通り、綱吉はやくざ者には相違ないが、まことに男振りも評判も好い男だ。人に怨まれるやうな人間ぢやねえ」
「すると」
「女だよ、八兄イ」
「へエ──」
「此間から、神明の水茶屋の、お常の阿魔に熱くなりあがつて、毎日入りびたつて、澁茶で腹をダブダブにしてやがつたよ」
「お常つて言ふと、近頃評判の?」
「さうだよ。あの阿魔は全く綺麗過ぎるから、何か間違がなきア宜いがと思つて居たが、到頭こんな事になりやがつた──」
「ぢや、親分には、もう下手人の當りは付いたでせう」
と八五郎。
「まアね。後學の爲に話して置かう。ネ、八兄イ、よく見て置くが宜い。これはお前、脇差や匕首を突立てた傷ぢやねえ、肉の反り具合から言ふと、槍でなきア、よく磨いた鑿だ」
「──」
友次郎はさう言ひ乍ら、死體の袷を肩から剥いで、左の肩胛骨の下に口を開いた、物凄い傷をガラツ八に見せました。
「ね、解つたらう。いくら夜だつて、やくざ者一人を殺すのに、江戸の町の眞ん中へ、槍を持出す人間もあるめえから、これは鑿に決つて居るんだ」
「──」
友次郎は少し獅子ツ鼻をうごめかし氣味に、下水の端つこに踞んだ八五郎の、あまり賢こくなささうな顏を見上げました。
「不思議なことに、綱吉の野郎と、水茶屋のお常を張り合つて居る男に、露月町の大工の棟梁で、辰五郎といふのがあるんだよ」
「えツ」
「ちよいと意地の強い男でね。カツとすると隨分人位は殺し兼ねねえ野郎だ。鑿で綱吉を殺すやうな人間は、──さう言つちや何だが、お前の親分の錢形の平次が鬼鹿毛に乘つて來たつて、露月町の辰五郎の外にはあるわけはねえ」
「柴井町の親分、それはお前さん、鑑定違ひぢやありませんか。辰五郎はお常の阿魔に氣があるにしたところで、人を殺すやうな大それた事の出來る人間ぢやねえ──」
「な、な、何だと。默つて聞いて居りや、イヤに辰五郎の肩を持つぢやねえか」
「そんなわけぢやありませんがね、柴井町──」
「えツ、默つて引込んで居やあがれ。手前なんかの知つたこつちやねえ。口惜しかつたら、神田へ飛んで歸つて、親分の平次にさう言へ。柴井町の友次郎は、この八五郎が暫らく冷飯を食つて居た、露月町の辰五郎棟梁を縛るかも知れません──とな。解つたか、ガラツ八」
それまで知つて居られては、返す言葉もありませんし、友次郎の劍幕の凄まじさにも、折から係り同心の駈け付けたのにも驚いたわけではありませんが、丁度、いぢめつ兒に打たれた子供が、母親の許へ泣き乍ら歸つて行くやうに、ガラツ八は妙に涙ぐましい心持になつて、神田へ、一足飛に取つて返したのでした。
「親分、お願ひだ。何とかしてやつて下さい」
錢形平次の顏を見ると、ガラツ八は他愛もなく縁側に崩折れて了ひました。
露月町の大工の棟梁、辰五郎といふのは、八五郎が錢形のところへ轉げ込む前、暫らく世話になつた男で、年は若いが侠氣も思慮もあり、水茶屋の看板娘など爭つて、人を殺すやうな人間でないことは、錢形の平次も薄々知らないことではありませんでした。
「柴井町の友次郎を向うへ廻すのは厭だな」
平次は口にまで出して斯う言ひ切りましたが、八五郎の必死の頼みを見ると、劍もほろゝに斷る勇氣もありません。
「親分、さう言はずに、どうか助けてやつて下さい。あつしは恩を知らない人間になりたくないが、相手が柴井町のでは、口惜しいが齒が立たねえ。親分、お願ひだ」
うつかりすると、縁側の日向へ、煙草盆と一緒に出て居る、平次の足でも頂き兼ねない樣子です。
「兎も角、手を付けて見よう」
「有難てえ。さア、善は急げ、直ぐ飛ばして下さい。駕籠が二梃──」
「待ちなよ八、現場へ行つて、柴井町に厭な事を言はれるまでもあるめえ。それに、柴井町のやうな巧者な御用聞が見て、槍か鑿で突いた傷とわかつて居るし、懷に財布があつたとすれば、その上俺が行つたところで、何も見付かる筈はない──ところで、八」
「へエ──」
「綱吉は何を穿いて居た」
「駒下駄ですよ」
「昨夜は少し降りさうだつたな──、その駒下駄は何處にあつたか、知つてるかい」
「えゝと、斯うでしたよ。左の方は脱いで、右の方ははいたまゝで──」
「脱いだ左の方は、何の邊にあつたか、知つてるだらうな」
「直ぐ死體の例の下水の縁でしたよ」
「もう一つ、綱吉は刄物を持つてたか、ゐなかつたか」
「腹卷に匕首を呑んでるやうでした」
「それに手を掛けた樣子はなかつたのか」
「匕首を拔く暇も無かつたんでせうね」
「餘つ程不意にやられたと見えるな──」
平次は、少し三白眼に廂を睨んで、若々しい顏を擧げました。
「親分」
とガラツ八。
「待て〳〵、いよ〳〵現場へ行くのは無駄らしいよ、──ところで、お前はお常を知つてるかい」
「知らないこともありません」
「ぢやこれから、お常の茶屋へ出かけよう。案内を頼むよ」
「姐さんへ默つて行つて宜いんですか」
「馬鹿」
これも兩國の水茶屋に居たお靜は、此時もう平次の女房になつて居たのでした。
露月町の棟梁辰五郎は、その日のうちに友次郎の手に擧げられました。係りの吟味方は、與力笹野新三郎、若くて、啖呵が切れて、頭がよくて、その頃江戸中の人氣を脊負つて立つた人物、大概の罪人は此處で荒ころしをして、町奉行へ調べ書と一緒に送ります。
友次郎を引立てゝ來たのを、一と責め當つて見ましたが、證據は一と通り揃つて居る癖に、どうも手觸りが違ひます。
「綱吉を殺したのは手前だらう。眞つ直ぐに申上げて、お上のお慈悲を願ひな」
さう言ふ新三郎を見上げた、繩付きの顏には、唯あまり不意の出來事に對する、驚きの外には何の表情もありません。
「旦那、あつしは何にも存じません」
「昨夜は何處に居た。宵からの事を詳しく言つて見るが宜い。嘘を言つても直ぐ尻が割れるぞ」
「嘘も僞りもありません。仲間の參會で、金杉橋の『喜の字』で飮んで、遲くなつてから、ブラブラ戻りました」
「刻限は?」
「子刻(十二時)近いと思ひました」
「三島町の學寮の角を通つたか」
「へエ──、通りました」
「道順が違ひはしないか」
「實は神明前のお常の茶屋を、ほんのちよいと覗いて、あれから學寮の角を宇田川町へ出て露月町の家へ歸りました」
「何うしてお常の茶屋へ入らなかつたんだ。大層遠慮深いぢやないか」
「へエ──、中では綱吉が醉拂つて、お常にからかつてるやうでしたから、顏を出しちや惡いと思ひまして」
「さうぢやあるまい。お常と綱吉が巫山戯て居るのを見て、腹立ち紛れに、學寮の角で綱吉を待伏せて殺したらう──」
「と、飛んでもない」
辰五郎の驚きは、次第に深刻に恐怖と變つて、やがて三十過ぎの立派な顏が、恐ろしい苦惱に引歪められるのでした。
「その時、お前は何か刄物を持つて居たか」
新三郎の問は次第に現實の問題に觸れて行きます。
「いえ、何にも持つちや居りません」
「匕首とか、脇差とか──」
「あつしや眞面目な職人で、そんなものに用事は御座いません」
「小刀とか、鑿とか──」
「仲間の參會へ商賣道具を持ち込むわけはありません。持物と言つては、紙入と手拭と、煙草入と、それつ切りで御座いました」
新三郎もハタと行詰りました。お常の茶屋を覗いたことも、綱吉がお常に巫山戯るのを見たことも、學寮の角を通つたことも、何の蟠りもなく話して退ける調子は、身に暗いところのある人間とは、何うしても受取れません。それに、戀敵の綱吉に逢ふことを見通して、仲間の寄合へ、鑿を持つて行くと言ふのも考へられないことです。
「──」
新三郎は、友次郎を顧みて、そつと目くばせしました。名與力と呼ばれた笹野新三郎にしては、これ位のことで繩付を町奉行の前へは差出せなかつたのです。
「旦那樣、その野郎は容易のことぢや口を割りません。思ひ切り引つ叩いて見ませう。ちよいとあつしにお貸しなすつて」
友次郎は立上がりました。
「待て〳〵友次郎、何うも腑に落ちないことがある」
新三郎は何れとも決し兼ねた樣子で迷つて居ると、
「旦那、これを御覽下さいまし、平次の使で御座います」
と、ガラツ八の八五郎が飛込んで來ました。
「何だ、八五郎か、どれ〳〵」
八五郎の手から渡したのは一通の結び文、開く手に從つて、親三郎の顏には疑惑が深くなつて行きます。
「平次の野郎が、又つまらない横槍を入れて、辰五郎の繩を解いて歸せつて言ふので御座いませう」
と友次郎。
「いや、すつかり、あべこべだ。平次は、辰五郎を許しては困る、縛つたまゝで、もう少し成行を見て貰ひ度いと言ふのだよ」
「へエ──」
あまり豫想外な話に、鬪爭心に燃える友次郎の顏も少しばかり寸が延びます。
一方錢形の平次は、其足で直ぐ神明の水茶屋へ行つて見ました。案内はガラツ八、何となくそぐはない空氣の中にも、商賣柄の愛嬌で、茶店の親仁の善六と、看板娘のお常が機嫌よく迎へてくれます。
「綱吉兄哥が殺されたつてね、お前さんのところも飛んだ掛り合ひで迷惑だつたネ」
と平次、赤い毛氈を掛けた床几を引寄せ加減に、腰から煙草入を拔きます。
「有難う御座います。飛んだお手數をかけて相濟みませんが、綱吉親分が手前共の店を出たのは子刻少し前で、飛んだ好い機嫌で御座いましたが、まさか、あんな事にならうとは──」
今朝から同じ事を何遍も繰り返したらしい親仁は、神田で鳴らした御用聞の顏を見ると、暗誦するやうな調子で、斯う始めるのでした。
「爺さん、俺は御用聞には相違ないが、此邊は柴井町の友次郎兄哥の繩張りだから、今日はそんな用事で來たんぢやねえ」
「へエ」
「久し振で神明樣へお詣りをして、近頃評判のお常坊の顏でも見ようと思つてネ」
「へエ〳〵左樣で御座いましたか、飛んでもないことをお聞かせいたしました。いえもう、私にしても、斯んな話は繰り返し度いわけぢや御座いません」
「さうだらうとも」
そんな話をして居るところへ、赤前垂に、型の如く片襷をかけたお常が、眞鍮磨きの釜から湯をくんで、新しい茶を入れて持つて來てくれます。
「いらつしやいまし、親分さん」
「お常坊、評判ほどあつて美しいことだね」
「あれ」
袖口を唇に當てゝ、恥らふ風情に顏を反けたお常は、全く男の一人や二人は殺されても不思議のない美しさでした。
「爺さん、上方から來なすつたんだね」
「へエ、左樣で御座います。氣を付けるつもりでも、なか〳〵江戸言葉が使へません」
「そんな事を氣にする奴があるものか。上方言葉で押し通した方が、反つて愛嬌になるだらう。──ところで、家の者はこれつ切りかい」
「いえ、外に、これの兄が御座います。片輪者で滅多に人前へは顏を出しませんが、器用な男で、つまらない細工物をしてお小遣を稼いで居ります。──菊治、ちよいと出て來て、親分に御挨拶するんだよ」
「おい」
花色の暖簾の奧から、ノソリと出て來たのは、二十五六の青白い男、眼鼻立も尋常で、藝人らしい感じのする垢拔けのした顏ですが、身體を見ると大佝僂で、いぢけ切つた胴に、節高な二本の手と、恐ろしく長い足がニユツと延びたところは、何となく蜘珠を思はせる恰好です。
「神田の錢形の親分さんだ」
と親仁。
「入らつしやいまし、毎度有難う存じます」
言葉少く挨拶する樣子は、恰好の怪奇なのには似ず、不思議に穩かで、人柄なところがあります。
大工の辰五郎は、其晩假牢に入れられましたが、それつ切り何を調べるともなく日が經ちました。
友次郎はひどく氣を揉んで、綱吉に怨を持ちさうな人間──と言つたところで、少しでも水茶屋のお常に氣がありさうな男を、片つ端から擧げて來て洗ひ出しましたが、これは少くない數で、凡そ、芝愛宕下界隈の男の切れつ端は、顫へ上がつたと言つてもいゝ位です。
「お隣の三公も喚ばれたとよ」
「手前も歸されたばかりぢやないか」
「さう言ふ手前だつて、滿更の他人ぢやあるめえ」
「やり切れねえな、門並だ。此樣子だと、お常坊に氣のないのは、柴井町の友次郎親分だけ、つてことになりはしないか」
「さう言へば、近頃は錢形の親分が、お常に夢中なんだつてネ」
「へツ、うまくやつてやがらア」
「強面は氣障だね」
「だが、錢形はちよいと好い男ぢやないか。手前なんかとは比べものにならねえ」
「止せやい、畜生ツ」
こんな噂が、彼方にも此方にも傳へられました。
錢形の平次は、全く何うしたと言ふのでせう。あれから毎日お常の茶屋に入り浸つて、澁茶に駄菓子で納まらなくなると、奧へ入り込んで、一本付けさせ、お常の酌で遲くまで飮んだりするやうになりました。
尤も、商賣柄とは言つても、平次は只の酒を飮むやうな男ではありません。綺麗に勘定をした上、付け屆けが行き亙るので、親仁の善六も、娘のお常も、兄貴の菊治も、惡い顏をするどころではありませんでした。
最初のうちは、綱吉の一件もあり、岡つ引としての平次の身分を忘れ兼ねて、妙に遠慮もありましたが、やがて平次の人柄や、金の使ひ方にひかされるともなく、そんな事を忘れて了つて、心から歡迎するやうな心持になつて居りました。
驚いたのは、最初平次を引張り出したガラツ八と、平次の女房のお靜です。
「親分、近頃はどうなすつたんです」
たうとうガラツ八は堪り兼ねて切り出したのは、それから十日も經つてからの事でした。
「何がどうしたと言ふんだ」
「辰五郎兄いを助けるつもりで働いて下さるのは有難いが、何だか斯う、朝から晩までお常のところへ入り浸つて居ると、姐さんが可哀さうで」
「馬鹿野郎ツ」
「へエ──」
「お常の茶屋へ行けば何うしたんだ、間拔けな意見などをすると承知しないよ」
「へエ──」
これではまるで齒が立ちません。
「お靜、羽織を出しな。今日は泊つて來るかもわからないよ」
お靜は默つて立ち上がると、箪笥から羽織を出して、涙ぐましい目を俯せたまゝ、後ろから着せてやりました。
まだ若い平次が、飮むのも遊ぶのも不思議はありませんが、水茶屋の評判娘のところに入り浸つて、他愛もなく日を送つて居るのは、全く何うかして居るとしか見えません。
──平次のことだから、今に何か掴んで來るだらう──と買ひ被つた人達も、次第に眉を顰めて、この狂態を見ぬ振りするやうになりました。
綱吉殺しの調べは一向進んだ樣子もなく、御用聞の友次郎も、與力の笹野新三郎も、全く五里霧中に彷徨して居るのに、平次の狂態は恐ろしい勢で進展し、半月經たないうちに、
──平次はお常と夫婦約束をしたさうだ──
と言ふ噂がボツボツ聞えて來る有樣でした。
或晩──。
平次は相變らずの上機嫌で、亥刻(十時)過ぎにお常の茶屋を飛出しました。
「親分、今からお歸りですか」
「なアに、一と飛びだ、心配するなつてことよ」
門口まで送つて出たお常の首つ玉にギユツと噛り付くと、
「あれツ」
「靜かにしろよ、お常坊」
娘の頬へ、酒臭い唇を持つて行きました。
闇の中に光る眼──。
平次はそれを感ずると、フツと離れて、
「お常坊、いゝかえ、綱吉殺しの下手人は俺が請合つて縛つて見せる。その上で話を付けるから、待つて居るんだよ」
言ひ捨てゝ神明前の往來へ飛出しました。
三島町の角を、御成門の方へ、今の赤十字本社のある増上寺の學寮の前まで來ると、後ろからヒタヒタと跟けて來るらしい足音が聞えます。大抵の人には氣が付かなかつたでせうが、耳の良い平次には、手に取る如くそれが解ります。
後ろを振り返つて見ようかと言ふ、恐ろしい誘惑を感じますが、振り返つたら最後、一切の獻立は打ち壞しです。それに、振り返つて見たところで、恐ろしい闇、街燈もネオンサインもない時代で、後を跟ける人間などがわかる道理もありません。
平次は全身の毛穴を悉く耳にしたやうに、それでも至つて平靜な足取りで、學寮の前へ差しかゝりました。
後ろの足音は、十間、七間、五間、三間と迫つてハタと止つたやうです。
恐ろしい豫感──。
ハツと身を捻ると同時に、何やら平次の脇をかすめて、學寮の塀に發矢と突つ立つたものがゐります。
「えいツ」
振り返つた平次の手からは、早くも一枚の錢が飛びました。得意の投げ錢が、曲者の何處かへ當つた樣子です。
二人は三四間隔てゝ、暫らく闇の中に睨み合ひましたが、平次の手練に驚いたか、それとも、たつた一本の得物を失つて諦めたか、曲者は踵を返すと、大横町の闇へ消えて了ひました。
平次はそれを追つても無駄なことをよく知つて居ります。これほど巧妙な襲撃をする曲者が、もつと巧妙な逃げ路を用意しないと言ふ筈はありません。
學寮の塀に近づいて探ると、腰たけほどのところに、深々と突つ立つたのは一本の刄、力任せに引つこ拔いて、少し小戻りして常夜燈にすかして見ると、それは匕首でも、槍でも鑿でもなく、手品師や輕業師の使ふ、雙刄の刀──あの宙に投げてお手玉に取つたり、床の上に突つ立てたり、見物の前で呑んで見せたりする、物凄い刀だつたのです。
辰五郎は翌る日許されて歸りました。が、その代り、本當の下手人は、いよ〳〵解らないことになつて了ひました。
「八、お前の頼んだ事だけはやつたよ。辰五郎が許されさへすれば文句はあるまい」
「親分、何とも有難う御座いました。序に下手人を擧げてやつておくんなさい」
「それは六づかしい。この上友次郎兄哥の顏を潰し度くもなし、それに、この下手人は一と通りの人間ぢやねえ。俺に任せてもらつても、突き留めるまでには半年かゝるだらう」
「へエ──」
平次はそれつ切りこの事件から手を引いて了ひました。
いや、詳しく言へば、引いたつもりになつたのは、ほんの一と月ばかりで、又息を吐く間もなく引張り出されて、恐ろしい幕切を見せられて了つたのです。
綱吉は殺され、平次は手を引いて、競爭相手のなくなつた辰五郎は、懲り性もなく撚を戻して、又お常の茶屋へ入り浸りました。それから間もなく、今度は露月町の路地の奧で、綱吉と同じやうに、背後から一と突にやられて死ぬ日まで、辰五郎は到底、この戀の冒險を止さうともしなかつたのです。
辰五郎の死は、柴井町の友次郎をすつかり逆上させて了ひました。お常親子を始め界隈の男つ切れを殘らず調べるやうなやり方を、もう一度くり返しましたが、結局何の手掛りも掴めません。
幾十日目かで、錢形の平次がお常の茶屋を訪ねたときは、さすがの友次郎も、漸く持て餘し氣味で、芝愛宕下一圓の若い男が、追はれた蠅が餌に戻るやうに、懲り性もなくお常の茶屋に集つて居りました。
「お常坊、久し振りだな」
「あら、親分さん」
驚くお常の顏を見て、平次の方がどんなに驚いたかわかりません。暫らく逢はずに居るうちに、娘の美しい前齒が二本拔けて、黒瑪瑙のやうな眼が赤く血走り、さしも輝やかしかつた顏が、何となく醜く淺ましくなつて居るのです。
「どうしたんだ、お常坊、大層な變りやうだな」
「──」
お常は默つて顏を伏せました。
昔のお常の美しさを追ふ、若い男達は、お常の容色の變化などには氣も付かぬ樣子で、相變らず店を賑はして居ります。前齒が二本缺けて、目が血走つたところでお常は矢張り世間並の娘よりは美しかつたに相違ありません。
事件は、併し、これからが本當の峠でした。それから二た月ばかりの間に、此界隈で、若い男が又續け樣に二人やられたのです。一人は濱松町の米屋の息子、もう一人は新網のやくざ者、いづれもお常の茶屋の歸り、町の小闇で、背後から肩胛骨の下をやられて、たつた一突きで死んで了つたのでした。
柴井町の友次郎は、全く氣が違つたのではないかと思ふやうでした。多勢の子分を督勵して、草を分け、瓦を剥ぐやうに下手人を嗅ぎ廻りましたが、相手が凄いせゐか、まるつ切り見當を付けさせません。
その間に平次も、友次郎の氣を惡くさせない程度に、二三度お常の茶屋を覗きましたが、一回毎に、お常の容色が醜くなるのに氣が付いただけで、あとは何にも掴めさうもありません。
お常の眉は蟲に食はれたやうに半分消えて了つて、右の頬に大きなひつゝりが出來たと思ふと。その次に行つた時は、顏の色が妙に銅色になつて、聲までが、何となく不氣味に嗄枯れて居りました。さしもお常に未練を持つた執念の狼達も、この頃から漸く影をひそめて、水茶屋は日増しにさびれて行く樣子です。
「親分、お常が何だつて、あんなに見つともなくなるんでせう」
「さア──、これなら、俺が泊つて行つても、お靜やお前は安心するだらう」
「へツ、一言もねえ」
平次とガラツ八が、そんな事を言ひ乍ら引揚げたのは、お常の赤前垂姿を見た最後でした。
それから幾日目かに、お常親子は神明の水茶屋を疊んで、それつ切り行方不明になつて了つたのです。
お常親子が行方不明になつた後も、不思議な狂暴な殺人鬼は暴れ廻りました。半月に一人、一と月に一人、雙刄の刀で背後から、突殺された死體が、引續きこの界隈で發見されたのです。
殺されたの大抵町人や遊び人でしたが、中には武家も交つて居りました。武術不鍛錬の爲と言へばそれ迄ですが、闇の夜を選つて、背後から雙刄の刀を飛ばされたのでは、大概の武術では全く防ぎやうがありません。
笹野新三郎は到頭しびれを切らして、錢形の平次を呼び出しました。
「平次、芝の人突き騷ぎは、お前も知つての通りだ、此上放つて置くとお上の御威光にもかゝはる。繩張りなどにこだはらずに、一肌脱いではくれまいか」
いつもの調子で、折入つた頼みです。
「宜しう御座います、旦那、決して好い兒になつて居るつもりは御座いません。これでも半歳この方、八方に手を廻して探つて居ります」
と平次。
「うむ、それは知らなかつた。ところで下手人の目星は?」
「漸く付きました」
「それは豪儀だ、誰だ一體」
「もう一日お待ち下さい。騷ぐと鳥が飛んで了ひます」
「さうか。頼むよ、平次」
「へエ──」
錢形の平次は、快く引受けて歸りましたが、惜しいことにたつた一日違ひで時機を失つて了ひました。
翌る日の朝、平次とガラツ八が、芝、麻布界隈を、鵜の目鷹の目で探して歩いて居るうちに、大變な事を聞込んだのです。
「赤羽橋に又人突きがあつたとよ」
「それは大變、行つて見ろ」
そんな事を言ひ乍ら彌次馬の右往左往するのを見たのは、二人が丁度金杉橋へかゝつた時でした。赤羽橋まで一足飛に飛んで行くと、ツイ今しがた檢屍が濟んで、死體と下手人は柴井町の友次郎が始末して、役所へ引揚げたといふ後です。
「下手人が捕つたつて? それは本當ですかい」
近所の人に聞くと、
「殺されたのは大佝僂の男で、下手人はその死體の側に、血を浴びたまゝ目を廻して死んで居たさうですよ」
物好きさうなのが丁寧に教へてくれます。
「えツ、佝僂の男が殺されたつて? 菊治だ」
「親分は御存じで」
「ふゝ、さう言ふわけではないが──、ところで下手人と言ふのはどんな男です」
「男ぢやありません。お化けのやうな顏をした見つともない女で、その上頭から血を浴びて、二た眼とは見られなかつたさうですよ」
「えツ」
平次に取つては、何も彼も豫想外なことばかりです。
二人は柴井町の友次郎のところへ飛んで行かうとしましたが、何となく釋然とした心持になれないので、思ひ直して八丁堀の役宅に、笹野新三郎を訪ねました。
「旦那、今度は佝僂の菊治がやられたさうですね」
「おゝ平次か、いゝ鹽梅に人突き騷ぎも片が付きさうだ。下手人は其場で捕まつたよ」
「それはお目出度う御座います。併し、女にしては手際が良過ぎるやうですから、もう少し、私に考へさして下さいませんか」
「何を考へるといふのだ」
と新三郎。
手柄を友次郎に奪はれて、さすがの平次も少し何うかしたのかとでも思ふ樣子で、凝と見詰める眼には、何となく憫れむやうな色があります。
「全く私の念晴らしですが、菊治を突いた雙刄の刀は其場にありましたでせうか」
「あつたよ、今度は、見事にあの佝僂の胸に突つ立つたまゝ」
「えツ旦那、少々お待ち下さいまし。雙刄の刀は、背後ぢやなくて、今度は胸に突つ立つて居たんですか」
とせき込む平次。
「さうだよ、前と後ろの違ひはあるが、下手人に變りはあるまい」
「それで解つた──。濟みませんが旦那、私が行つては、友次郎兄哥の手柄にケチを付けるやうで惡う御座いますから、誰か人をやつて、その女を風呂で洗ひ出して見て下さいませんか、囚人風呂で構やしません、灰洗ひにする積りやゴシゴシやつて頂きたいんで」
「そんな事なら、人をやる迄もあるまい、俺が行つて指圖をしてやらう」
と新三郎。
「恐れ入りますが、さうして下されば申分はありません。女乞食を洗つた上で、何か變つたことがあつたら、私をお呼び下さいまし。此處で凝つとお待ちして居ります」
赤羽橋の袂から引立てゝ來た女乞食は、奉行所の端女の手で、見事に灰洗ひにされました。前齒を二本拔いて、眼へ紅を差した上、眉と額の毛を拔いて、煤で顏を染めて居りましたが、丁寧に拭いて見ると、下から生地の美しさが現はれて後光の射すやうな娘に變つて了ひました。
「あツ、お前はお常」
立ち會つた笹野新三郎はもとより、友次郎も全く二の句が繼げません。
早速平次が呼び出されました。
「こんな事だらうと思ひましたよ。私はお常の親父の善六の言葉にひどい上方なまりがあるのから氣が付いて、大阪へ手紙をやつて知合の御用聞に頼んで調べさせると、昨日になつて漸く返事が來ました。それによると、──雙刄の刀を使つては上方で名人と言はれた、輕業師の菊太夫といふ佝僂男が人を害めて三年前から行方知れずになつた──と言ふことが解りました。菊太夫が菊治だとすると、大分筋がはつきりします。すぐ捕へる積りで、八の野郎と探し廻つて居るうちに、たつた一日違ひで自滅して了ひました」
平次の話は奇怪を極めました。
「成程、そんな事もあるだらう。それにしても、妹に言ひ寄る男を一々殺すのは可怪しいではないか」
と新三郎。
「それは、お常に聽いたら解りませう、──どうだお常坊、もう隱すまでもあるまい、皆な申上げる方が、お前の爲にも、爺さんの爲にもなるだらう」
「──」
お常は默つて考へ込みました。有合せの單衣を着せられて見る影もない有樣ですが、何となく次第に美しさが蘇つて來るやうです。
「どうだ、お常坊」
「ハイ、皆んな申上げます。あれは私の兄と申して居りますが、本當は爺さんの一人ツ子で、私は養ひ娘ださうで御座います」
「さうだらう」
と平次。
「それぢや、お前の亭主だつたのか」
と横合から、今まで默つて居た友次郎が口を出します。
「いえ、行末は一緒にしたいと爺さんが口ぐせに言つて居りましたが、兄さんは何分にも變屈人で、私は恐ろしくて恐ろしくて」
お常は義理の兄の血を好む恐ろしい性格を思ひ出したやうに、ゾツと肩を竦めて身を震はせました。
「お前に心を寄せる男を片つ端から殺したので、お前はそれが恐ろしさに、自分で前齒を二本缺いたり眼へ紅を差したり、頬へ膏藥を貼つたり、顏へ煤を塗つたり、精々汚ならしく見せようとしたんだらう」
平次は斯う語り續けました。
「お前が見つともなくなるにつれて、首尾よく男は寄り付かなくなつたが、その代り菊治は人殺しの味をしめて、鬼のやうな心持になつたと言ふのだらう。今度は燒餅でもなんでもなく、血に渇いた獸物のやうな心持で、闇の夜を狙つて外へ出ては、見境もなく人を殺して歩いた──それに相違あるまい──俺はどうしてこんなつまらない事が見透せなかつたんだらう」
斯う言ふ平次の調子には、少しの誇らしさもありません。
「──」
お常も、新三郎も友次郎も、この明察の前に固唾を呑みました。
「お前と菊治が子供の時から一緒に育つたせゐが、赤の他人のくせに、不思議に面差しが似て居る、──俺はそれに騙されて、幾日も〳〵無駄にした上、三人も五人も餘計殺生をさして了つた。ところでお常坊、昨夜、菊治は、又人殺しに出かけたのを、お前が追つ驅けて出て、赤羽橋で追ひ付き一生懸命意見をしたので、菊治も漸く自分で自分の心持の恐ろしさに氣が付いて、雙刄の刀をわが胸に來つ立てゝ死んだのだらう」
「いえ、違ひます」
「それを止めようとして、お前は血を浴びた──、そして、氣が遠くなつて了つたのだらう」
「いえ、それは違ひます、親分」
お常は躍起となつて抗ひましたが、平次は相手にする樣子もなく、見て來たやうな事を言つて、
「旦那、お聞きの通りで御座います。菊治が死んで了へば、この人突き騷ぎも幕で御座いませう。お常坊は許してやつて下さいまし。神明で水茶屋を開くと、又此界隈の若い男が騷ぐから、爺さんをつれて、そつと國へでも歸るがよからう」
何も彼も呑込んだ平次の言葉に、お常も新三郎も、友次郎さへも、もう口を利きませんでした。いやもう一人、これは大きな口をあいて聽いて居るガラツ八があつたことを忘れてはなりません。
× × ×
「親分、お常が何か言はうとしたのを、無理に止めたのは、どういふわけです。俺にはどうも呑込めねえが」
神田への歸り路、ガラツ八は平次に寄り添ふやうに斯んな事を言ひます。
「俺にも呑込めないよ」
と平次。
「菊治は自分で雙刄の刀を胸へ突立てたんでなくて、どうかしたら、放つて置くとあと幾人害めるか解らないので、お常がやつたんぢやありませんか。その證據には、──」
「馬鹿野郎、餘計な事を言ふな。それより小情婦の一人も拵へることを考へろ、さうすると手前も少しは悧巧になるぜ」
ガラツ八の疑ひを一蹴した平次は、ケロリとしてお靜が待つて居る家路を急ぎました。
底本:「錢形平次捕物全集第九卷 幻の民五郎」同光社磯部書房
1953(昭和28)年7月20日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1932(昭和7)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年3月16日作成
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