錢形平次捕物控
謎の鍵穴
野村胡堂




「八、目黒の兼吉親分が來て居なさるさうだ。ちよいと挨拶をして來るから、これで勘定を拂つて置いてくれ」

 錢形の平次は、子分の八五郎に紙入を預けて、其儘向うの離屋はなれへ行つて了ひました。

 目黒の栗飯屋くりめしや、時分時で、不動樣詣りの客が相當立て混んで居ります。

「姐さん、勘定だよ。何? 百二十文。酒が一本付いてゐるぜ、それも承知か。やすいや、これや」

 ガラツ八は自分のふところ見たいな顏をして、鷹揚おうやうに勘定をすると、若干なにがしか心付けを置いて、さて妻楊枝つまやうじを取上げました。

 ぬるい茶が一杯。

 景色を見るんだつて、資本もとをかけると何となく心持が違ひます。

「ちよいと、伺ひますが、あの錢形の親分さんは?」

 優しい聲、耳に近々と囁くやうに訊かれて、ガラツ八は振り返りました。二十はたち前後の大店おほだなの若女房と言つた女が、少し顏を赧らめて、尋常に小腰を屈めるのでした。

「親分は向うへ行つてるが、何んだい、用事てえのは?」

「あの、錢形の親分さんのところの、八五郎さんと言ふのはあなたで──」

「よく知つて居るな、八五郎は俺だ」

「確かに八五郎親分さんで──」

「八五郎親分てえほどの貫祿くわんろくぢやねえが、錢形の親分のところに居る八五郎なら俺に違ひねえ。本人が言ふんだから、これほど確かなことはあるまい」

 ガラツ八は古風な洒落しやれを言つて、んがい顎を撫でました。

「それぢやこれを、そつと錢形の親分さんへお手渡し下さいませんか」

 八五郎に握らせたのは、半紙半枚ほどの小さく疊んだ結び文。

「あツ、待ちねえ。親分と來た日には江戸一番の堅造かたざうだ。こんなもの取次ぐと、俺は毆り倒されるぜ」

 追つかける八五郎の手をスルリと拔けて、女は店口から往來の人混みの中へ、大きな蝶々てふ〳〵のやうに身を隱して了ひました。

「冗談ぢやねえ、岡つ引へ附け文する奴もねえもんだ。これだから當節の女は嫌ひさ」

 ガラツ八はでつかい舌鼓したづつみを一つ、四方あたりを見廻しましたが、さて、その結び文を捨てる場所もありません

「まゝよ、何うとも勝手になれ」

 幸ひ平次から預つた羅紗らしやの紙入、それへポンと投り込んで、素知らぬ顏をすることに決めて了ひました。これなら結び文は完全に平次の手には入りますが、自分は知らぬ存ぜぬで通せば、餘計な橋渡しをした罪だけはまぬかれます。尤も、平次の女房のお靜には少し濟まないやうな氣がしないではありませんが、少々位良心がチクチクしたところで、そんな事に屈託する八五郎でもなかつたのでした。

「どりや歸らうか」

 平次は離屋から歸つて來ました。

「へエ紙入。勘定は百二十文、あんまり安いから受取も中へ入れて置きましたよ」

「栗飯の受取なんざ、禁呪まじなひにもなるめえ」

 庭石をトンと踏んで、傾きかけた西陽を浴びると、成程女に附文をされるだけあつて平次はまだまだ若くて好い男であります。

「何をニヤニヤして居るんだ。歸らうぜ」

「へエ──、姐御がさぞ氣がめるだらうな」

「何だと」

「なに、此方のことで」

 二人は肩を並べて、神田へ向ひました。



 その頃ガラツ八は、向う柳原の叔母の家に泊り込んで居りました。無人で困るからと言ふ叔母の願を叶へてやるつもりの八五郎。

 何時までも獨りでもあるまいから、嫁を持たせる支度に、夜の物や、折々の着物も一と通り揃へさせてやりたいといふのが叔母の下心だつたのです。

 その日ガラツ八の八五郎が平次のところで、遲い晩飯を濟ませて、フラリと柳原土手を歸つて來たのは戌刻いつゝ過ぎ、人通りのハタと絶えたところへ來ると、いきなり闇の中から飛出して、ドカンと突き當つたものがあります。

「氣を付けろ、間拔け奴」

 一人前の啖呵たんかを浴びせて、默つて飛んで行く男の後ろ姿を見て居ると、後からもう一人。

「あツ」

 と立直るところを、足をさらはれて、さすがの八五郎、逆樣さかさまに引くり返つて了ひました。

「な、何しあがるんでえ、うらみがあるなら名乘つて來い。金なんざ、百も持つちや居ねえぞ」

 と言つたが追付きません。相手は恐ろしく強いのばかり三人。ガラツ八も力づくでは滅多に人に引けを取りませんが、こんなに腕つ節の強いのに揃つて來られては、全くどうすることも出來なかつたのです。

「──」

 三人の相手は、おしの如く默りこくつて、ガラツ八の懷から袂、髷節まげぶしの中から、ふんどしの三つまで搜しました。

くすぐつてえや、野郎、何が望みで人の身體をさがすんだ。へそなんか摘むと噛み付いてやるぞ、畜生ツ」

 口だけは達者に動きますが、非凡の腕力揃ひに、兩手と首を押へられての作業では、ガラツ八の武力も全く用ゐやうがなかつたのです。

 これが素人衆だと、大きい聲を出して自身番を呼ぶとか、往來の人に驅けて來て貰ふもあつたでせうが、十手捕繩を預かる身で、素姓も知れない者に、往來で手籠にされるのを見られたくありません。

「ない」

「人が來た」

「引揚げよう」

 小さい聲で囁き交した三人、ガラツ八を土手の上から突き轉がすと、そのまゝ後をも見ずに三方へ。これは實に心得たやり口でした。ガラツ八が三人のうちどれを追つ驅けようと、暫く躊躇ちゆうちよするうちに一人殘らず町の闇に解け込んで了つたのです。

 いやそれどころではありません。土手から川へ轉がされて柳の根つこに獅噛しがみ付かなかつたら、危ふく土左衞門になるところだつたのですから、三人の曲者を追つかけるどころの沙汰ではなかつたのです。

 立上がつて懷を探ると、幸ひ十手は無事。

「畜生奴ツ」

 髷の刷毛先はけさきを直して、肩から裾のほこりを拂ふと、ガラツ八はもう歩き出して居りました。懷中の十手さへ無事なら、多勢に無勢、袋叩きにされても致し方がないと言つた達觀した氣持になつて居るのでした。



 翌る日、ガラツ八のところへ大變な者が押し掛けて來ました。

「小母さん、八さん在らつしやる? あらさう、まだ寢て居るなんて頼母たのもしいわねえ」

 二十五六、この時代の相場では大年増ですが、洗ひ髮を無造作に束ねて、白粉つ氣なしの素袷すあはせ、色の白さも、唇の紅さもなまめきますが、それにも増して、くね〳〵と品を作る骨細の身體と、露をふくんだやうな、少し低い聲が、この女の縹緻きりやう以上に人を惱ませます。

「お前さんは?」

 叔母は少し遠い眼を見張りました。

「お吉よ。あら、忘れなすつたの。心細いわねえ、八さんの許嫁いひなづけぢやありませんか、ホ、ホ、ホ」

「まア、呆れた。私にはそんな氣振りも見せないんだよ、あの子は」

 叔母は少し涙含なみだぐんでさへ居ります。二階で大いびきを掻いて寢て居るあの子の八五郎は、角の乾物屋の二番目娘でも貰つてやらうと思ふ、自分の計畫を裏切つたばかりでなく、こんな何處の山犬とも知れない不潔ふけつさうな女が、ノメノメと押掛けて來たのが、腹が立つてたまらなかつたのです。

「小母さん、二階へ行つて宜いでせう。何うせこれから先、ズツと此處に居る心算りよ、可愛がつて下さるわねえ」

「──」

 呆れ果てた叔母の口へほこりを落して、お吉と名乘る女は二階へ登つてしまひました。

「あら、本當に寢て居るよ、この人は」

 お吉は八五郎の枕元へ、浮世繪うきよゑの遊女のやうに、ペタリと坐り乍ら、片手はもうその夜具の襟に掛つて、精一杯の媚態しなを作り乍らゆすぶつて居りました。いや、八五郎をゆすぶつたと言ふよりは、八五郎の夜具へ手を置いて、自分の身體を搖つて見せたと言ふ方が適當だつたでせう。

「ちよいと、起きて下さいな。私が來て上げたのに、寢て居るつて法はないワ。鼻から提灯なんか出してさ、狸ならもう少し綺麗事にするものよ、──もう辰刻いつゝぎぢやないの、ちよいと八さんてば」

 何と言ふ惱ましさ、窓から入る秋の朝陽が、暫らくクワツと赤くなつたほどの情景です。

「うるさいな、もう少し寢かしてくれ」

 くるりと寢返りを打つた八五郎。

「あら」

 枕の下に入れた財布がはみ出したのを見ると、女はそつと引出して中を調べました。

「まア、ちよいと、大の男がこんな財布を持つて歩くの。良い膽つ玉ね、鐚錢びたせんまで入れて六十四文、ホ、ホ、ホ、ホ、だから八さんは可愛いのさ」

 女はそんな事を言ひ乍ら、長火鉢の側ににじり寄つて、上から順々に抽斗を開けて見ました。それから、手箱、押入と、覗いて廻るのを、この時はもうすつかり眼の覺めた八五郎は、夜具の袖から眼ばかり出して、世にも怪奇なものを見るやうに覗いて居るのでした。

「八さん、世帶道具はこれつ切りかえ」

 女は又元のところへ來てペタリと坐りました。例の惱ましき姿態ポーズ

「お前は誰だい、何だつて人の家へ入つて來るんだ」

 起き上がつて、寢卷の胸をカキ合せると、長い顏を引締めて少し屹となります。

「あら、忘れちやいやだよ、夫婦約束までしたお吉ぢやないか。よく氣を落着けて御覽よ、私の顏を見忘れる筈はないぢやないか」

「な、何だと?」

「なんて怖い顏をするんだらう。だけどさ、不斷お前さんは優しいから、さう屹となつたところも、飛んだ立派よ。頼母しいつたらないんだよ、ウフ」

 女は身をかへすと、掛けかうを三十もブラ下げたやうなあやしく、艶めかしい香氣を發散させて、八五郎の膝へ存分に身を技げかけるのでした。

「わツ、何をしあがるんだ。俺は女が嫌ひだよ。ことにお前のやうなのは、見ただけでも、蟲唾むしづが走る」

「何を言ふのさ、此間は一緒になつてくれつて、お前さんの方から泣いて口説くどいたぢやないか」

「冗談も休み〳〵言へツ。それともお茶番の稽古なら、又日を改めてお願しようぢやないか。馬鹿々々しい」

 併しこの勝負は完全に八五郎の負けでした。何うしても一緒になると言ふ女を突き飛ばして、ろくに顏も洗はず、昨夜の泥の付いた袷を引掛けたまゝ飛出したのは、それから四半刻ばかり後のことですが、八五郎は骨のずゐまで女臭くなつたやうな氣がして、神田川へ飛込んで洗はうか──と言つた、途方もない衝動にかられ乍ら、錢形平次の家へ、一目散に驅けて行つたのでした。ガラツ八の八五郎、自慢ではないが、これがへその緒切つて以來の女難だつたのです。



「親分、こんなわけで、馬鹿々々しくて人樣に話が出來ないが、深いわけがありさうだから、此儘隱して置けません」

 ガラツ八は昨夜からの一一什しじふを打明けて、親分の平次の智慧を借りました。

「そいつは面白さうだ、手前てめえ幾つだ」

 平次は大眞面目にこんな事を言ひます。

「三十になつたばかりで」

「勘平さんと同い年か、それで女が出來ないつて法はあるまい。そのお吉とか言ふのも、何處かでからかつたんぢやないか。よく思ひ出して見るが宜い」

「飛んでもねえ、親分。この八五郎が、女にからかつて忘れるか忘れねえか」

「まア、さうムキになつて怒るな。お前に覺えがなきア、これは話が面白くなりさうだ。何か大事なもの──どうせ金目のものぢやあるまいが、──人樣から預るか何かして持つちや居ないか」

「大した品ぢやありませんが、たつた一つ心當りがあります」

 ガラツ八は、目黒の栗飯屋で、大店おほだなの嫁と言つた若い美しい女から──平次親分さんへ渡すやうにと結び文を頼まれたことを話しました。

「それ〳〵、それに決つたよ八。昨夜の柳原の暗討も、今日の押掛女房も、その結び文が欲しかつたんだ、──何だつて又つまらねえ遠慮をして、俺に渡さなかつたんだ」

「親分の紙入の中へソツと入れて置きましたよ」

「何、俺の紙入に入れた。人の惡いことをしあがる」

 平次は懷から紙入を出して見ましたが、中には鼻紙と小遣が少々はさんであるだけ、結び文などは影も形もありません。

「おや、親分のところへも押掛女房がやつて來たんぢやありませんか」

 ガラツ八は少しばかり溜飮りういんを下げました。

「そんな馬鹿なことがあるものか。お靜、お靜、紙入の中に入つて居た、結び文を知らないか」

 平次は次の間へ聲を掛けると、

「これでせうか」

 お靜は何のわだかまりもなく、小さい結び文を封も切らずに手箱の中から出して持つて來ました。

「それ〳〵、氣がきくのも好し惡しだ。紙入の物を始末する時は、一應俺に訊いてからにしろ」

「ハイ」

 お靜は少し赧くなりました。淡い嫉妬しつとたしなめられたやうな氣がしたのでせう。それでも、結び文を封を解かなかつたのは、何といふ仕合せだつたのでせう。内氣なお靜はたすきの結び目をほぐし乍ら、そんな事を考へて居るのでした。

「どれ〳〵、八、お前もかゝり合ひだ、立ち合つてくれ」

 平次は馴れたもので、半紙を二枚ほど持つて來て、臺の上へ並べると、その上でそつと結び文を解いて行きました。髮の毛一と筋砂一粒入つて居ても、見のがさないやうにする爲だつたのです。

「おや?」

 思つて居た通り、疊んだのは半紙半枚、はさみの切口まで判然わかりますが、中には何にも書いては居ません。

 いや、大きい二重◎ぢゆうまるが一つ、肉太のの字が一つ、もう一つ小さい二重◎が一つ、──こんな變哲もないものを描いてあるのです。

「これは何だい、一體」

 裏返して見ましたが、それつ切り何にもありません。

 上の二重丸は少し大きくて徑一寸ほど、その下一寸二三分離して描いた二の字は几帳面きちやうめんな字角で、左の方だけ揃つて居るのも不思議ですが、上の棒が二分位、下の棒が三分位、一番下の二重丸は二の字に直ぐ續いて、その直徑二分五厘ほど。何べんくり返して眺めても、この三つの外には、點一つ見付からない、最上等の手紙です。

「何でせう親分」

「判らないよ、──だけど、これが欲しさに、立派な御用聞を手籠てごめにしたり、すたり者らしくない年増が、押掛嫁に來るところを見ると、餘程の品には違ひあるまい。斯うしようぢやないか、八」

 平次はお靜を紙屋に走らせて、同じ程度の上質の半紙を買はせ、その一枚を半分にると、八五郎がたくされた結び文と同じ繪を三つ、──念入りに眞似たくせに、わざと少しづつ寸法を變へたのを描きました。上の二重丸は少し小さく、直徑八分位に、丸との字は二寸ばかり離して、の字の足はそれ〴〵五厘ほど長く描き、最後の二重丸はグツと大きく、徑三分五厘ほどに書き上げたのです。

「八、これを持つて歸れ、あはせたもとへ入れて行くんだ。そのお吉と言ふ女がまだ居るんなら、きつと探し出して贋物と知らず持つて歸るに違ひない。其處を跟けて、巣を突き止めるんだ。これは餘程大仕事かも知れないぜ、氣を付けてやるが宜い」

 八五郎は平次に言はれた通り運びました。歸つて來たのは夕景、お吉と言ふ女は、すつかり女戻氣取りで、叔母を手傳つて晩飯の支度などをして居ります。

「おや、八さん、お歸んなさい。大層な御機嫌ね」

「何を言やがる」

 八五郎はツイ痛烈つうれつに浴びせかけましたが、思ひ返して、着てゐた袷を脱ぎ捨てると、少し薄寒さうな浴衣を引かけて、手拭を片手にプイと飛出しました。

「あら、錢湯へ行くのかい、一本つけて待つてますよ」

 追つ驅けるやうにお吉の聲。ガラツ八は舌鼓したづつみを一つ、大急ぎで、路地を出ると、天水桶の蔭へ蝙蝠かうもりのやうにピタリと身を隱しました。

 お吉は八五郎の脱ぎ捨てた袷の袂から、贋物の結び文を搜し出して、續いて其後から飛出した事は言ふまでもありません。

「へン、錢形の親分の見透しさ。お吉の阿魔あま、すつかり喜んで後を振り向いても見ねえ。尤も、振り向かれちや大變だ」

 八五郎はブラサゲた手拭を早速頬被ほゝかむりにしました。ガラツ八相應の變裝術へんさうじゆつです。

 女はそんな事も知らぬ樣子で、賑やかなところを通るやうに、──白金へ辿り着いた時はもう亥刻よつ(十時)近い頃でしたでせう。



「おや?」

 六軒茶屋町から永峰ながみね町、行人坂ぎやうにんざかを越して、ガラツ八は女の姿を見失つて了つたのです。

 太鼓橋を渡つて、中目黒の方へ、田圃たんぼ道を當もなく行くと、昨夜と違つて良いお月樣に照されて、その邊の風物までが妙に感傷をそゝります。

 何處やらで──女の悲鳴。

 驅け出したガラツ八は、ハタとつまづきました。

 往來に崩折れて居るのは紛れもないお吉、抱き起すと、──あツ血、胸を一とゑぐり、一とたまりもなく死んだ樣子です。

 早くも結び文に氣の付いたガラツ八は、帶の間、袖、襟──など、凡そ女が物を隱しさうなところを殘るくまなく搜しましたが、下手人に奪られたと見えて、其邊には影も形も見えません。

 それからの騷ぎはどんなに大袈裟おほげさであつたにしても、この物話の筋とは關係のないことです。兎に角自身番まで死骸を運ばせて町方役人立合で檢屍けんしを濟ませたのは夜中過ぎ、困つたことに、女の身元がどうしても解りません。

「錢形の親分ところの八兄哥あにいぢやないか、飛んだ事に掛りあつて。さぞ迷惑だつたらう」

 連れて飛んで來た目黒の兼吉──これは老巧な良い御用聞で、平次にたてを突いたり、八五郎をからかつたりするやうな人柄ではありません。

「目黒の親分、これには深いわけがありさうですぜ。兎に角女の身元をあらつて見て下さい」

 八五郎も外に工夫はありません。

 兼吉の子分は八方に飛びました。

 女は矢張りお吉と言ふのが本名で、中目黒切つての物持ち、洒落しやれに兩替もやると言つた、近江屋七兵衞の番頭佐太郎が、人目をはゞかつて、思ひ切り遠方に圍つて居る妾だつたのです。

 近江屋の番頭佐太郎は、翌る日の晝前に縛られました。番所で引つ叩かないばかりに責めて見ましたが、知らぬ存ぜぬの一點張で、筋の通つたことは一つも白状しません。

 丁度その頃。

「親分、大變、近江屋の主人が死にましたぜ」

 兼吉の子分が、番所へ飛込んで來たのです。

「何? 頓死とんしか、怪我か」

「それが怪しいんで──、晝飯の後で、大變な苦しみやうだつたといふし、身體がまだらになつて、舌も眼も引釣つたつて言ふから、ことによればやられたのかも知れません」

「そいつは大變だ。八兄哥行つて見るかい」

 兼吉と八五郎は宙を飛びました。岩屋の辨天前を通つて、龍泉寺の門前、この邊は昔の方が繁昌したところで、近江屋も片手間乍ら場所柄だけの商賣はあつたわけです。

 店の内外はゴツタ返す騷ぎ、それをかきわけて入ると、奧は思ひの外しんとして、主人七兵衞の死體には、若い女房のお峯と奉公人の釜吉が附いて居るだけ──。

「おや」

 もう一つ驚いたことは。七兵衞と言ふ年寄臭い名を持つて居るのに、死んだ主人といふのは、精々二十五六、一寸好い男ですが、死體は二た眼とは見られないむごたらしさです。

「あツ、お前さんは」

 八五郎はもう一つ度膽どぎもを拔かれました。死體の側に居る女房のお峯と言ふのは、ツイ二日前に、同じ目黒の栗飯屋で、親分の平次へ──と言つて、謎の結び文を渡した、あの美しい女だつたのです。

「──」

 お峯の訴へる眼付き──邪念じやねんなどは微塵もありさうのない、大きい悲しみと困惑とに惱まされた眼付──を見ると、八五郎もそれを言ひ出す氣にもなりません。

「これは、親分樣方、──御苦勞樣で御座います」

 下男とも、小使とも、庭掃にははきとも、一人で兼ねて居る釜吉は、五十男らしい實體さで挨拶しました。笑ふと恵比須ゑびす樣になる男ですが、さすが主人の死體を前にして、沈み切つて愛想つ氣もありません。

 先代七兵衞は十年ばかり前に此土地へ來て、せがれを育てゝ嫁を貰ひましたが、本當の他國者で、嫁の里の外には、身寄も友達もありません。



 二つの死骸をめぐつて、事件は恐ろしく複雜になりました。番頭の佐太郎は、商賣上手な四十男で人などをあやめさうもない人間ですが、お吉が殺された時分丁度店に居なかつたのと、着物に血潮がベツトリ附いて居たので、疑ひを言ひ解く術もなかつたのです。

 それに、近頃お吉の貪慾どんよくな追及を持て餘して、切れたがつてゐると言つた噂も、佐太郎には暗い影でした。全く佐太郎に取つて、この二三年來のお吉は、重荷だつたに相違ありません。その爲、彼方此方に借金を作つて居ることなども、調べが進むに從つて、追々に判つて來たことです。

 主人の七兵衞は、本道ほんだう(内科醫)が立合つて檢屍の末、毒を盛られたと判りました。その毒は、晝頃食べたなま菓子のあんの中に入つて居たのではあるまいかと──言ひますが、確かなことは判りません。七兵衞は茶が好きだつたのと、朝から晝までの食物で、一人で食べたのは、その生菓子の外にはなかつたといふところまで判つたのでした。

 お茶の相手をしたのは女房のお峯ですが、それは金米糖こんぺいたうか何かを一粒口に入れただけで、生菓子は食べなかつたと自分で言つて居ります。七兵衞の死んだのは、佐太郎が番所へ引かれて一刻も經つてからですから、疑ひは當然嫁のお峯一人に掛つて來なければなりません。

 兼吉はお峯も縛ると言ひ出したのは、決して無理なことではなかつたのでした。

「お願ひですから、錢形の親分さんをお呼びして下さい」

 自分の身邊が危ふくなると、お峯はそつと八五郎に囁きました。

「それぢや訊くが、あの結び文は何だえ、それを言つて貰はなきア、御新造をかばひやうはない」

 八五郎の言葉は少しきびしく聞えたのでせう。

「私には何にも判りません、──主人やどが亡くなる二三日前から、どうも危ない、此儘で居るとどんな事になるか解らないから、これを預つてくれ、と私へ渡したのです。訊き返しても何にも言ひませんでした」

 お峯の言葉は意外でした。が、綺麗な小さい顏、わなゝく唇、一生懸命な瞳を見て居ると、どんな不自然なことでもガラツ八は信じてやりたいやうな氣になります。

「それから」

「あの日錢形の親分さんが不動樣に參詣にいらしつたと聽いて、私は一人で決めて飛んで行きました。主人やどはもうろくな口もきかないほど心配して居ましたし、私はあの結び文を持つて居るのが怖くてならなかつたのです」

「──」

「八五郎さんにお願して、錢形の親分にお頼みしたと話すと、主人やどは、──さうか、仕方があるまい、あの符牒ふてふだけでは、見る人が見なければ判る道理がないから、──と申して居りました」

 お峯の話はそれだけです。

 間もなく兼吉がやつて來て、繩は打ちませんが、お峯を番所まで伴れて行つて了ひました。

 が、町内の醫者や、目黒から白金しろがね、麻生一圓の生藥屋を調べさした子分が歸つて來ると、兼吉のした事はすつかり引くり返されて了ひました。毒を手に入れようとして、醫者や生藥屋に、いろ〳〵手を盡したのは、お峯ではなくて、却つて佐太郎だつたことが判つたのです。



 何日なんにちか無駄に過ぎました。

 佐太郎はどんなに責めても、お吉殺しを白状せず、お峯の方も、夫殺しの嫌疑が段々薄くなるばかりです。

 佐大郎の着物に着いて居た血といふのは、人を刺した時の返り血でなくて、刄物を拭つた血の跡だと判りました。これは八五郎が指摘してきしたので、『錢形平次親分に注意されて來た』とはつきり斷つて居ります。成程さう言へば血潮は刄形に附いて居て、自分で自分の着物で匕首あひくちを拭かなければ、こんな型が付く道理はありません。尤も、お吉殺しの時の不在證明アリバイは持つて居ませんが、それには深い仔細のあることでせう。

 お峯にかゝつた主殺しの疑ひも、同じやうに段々薄れて行きます。夫婦の仲が雇人達がうらやむほど良く、それに、夫でも殺さうと言ふ惡心があるなら、江戸一番の捕物の名人に、謎のやうな結び文を預けていらざる注意を喚び起す筈もありません。

 もう一つ、生菓子へ入れた毒も、その時お峯が入れたとは限らないわけで、一刻も二刻も前に入れて置いても、七兵衞が喰ふに決つた菓子だつたのです。

 二人は許されて歸つて來ましたが、さうかと言つて、他に疑ひをかける程の人があるわけではありません。

 釜吉は實直一點張の男、菓子もその日の朝七兵衞に頼まれて自分が赤坂から買つて來たのですから、自分の手で毒を仕込むやうな馬鹿なことはする筈もなく、第一その菓子を誰が食ふのか、よく知つて居る道理がなかつたのでした。

 丁稚でつちの長六、下女のお咲、仲働のお春、どれも一期半期の奉公人で、お吉や七兵衞を殺すほどの理由を持つやうなのはありません。

「錢形の、──氣の毒だが、兄哥も滿更掛り合ひがないわけでもあるまい。少し乘出して智慧を貸しちや貰へまいか」

 兼吉がわざ〳〵神田までやつて來たのは、それから七日も經つた後でした。

「俺が出しや張つちや、兄哥に濟まない。斯うしよう、たつた一つ心當りを言つて置くが、兄哥の手で調べて貰へまいか」

 平次は遠慮深くこんなことを言ひます。

「どんな事だい、錢形の兄哥、斯うなりや、どんな事でもやつて見るが」

 四十男の兼吉は、此稼業の者に似合はぬ、謙虚けんきよな、人柄な男だつたのです。

「近頃、あの家の者か、出入の者で、鍵をこしらへさせた者はないだらうか、山の手一圓の鍛冶屋かぢや鑄掛屋いかけやを、ごく内證で調べて貰ひたいんだが──」

「そんな事ならわけはない」

 兼吉は大喜びで飛出しました。平次の註文は見當も付きませんが、何となく自信あり氣で、これが六つかしい事件をほぐす端緒たんしよになりさうな氣がしたのです。

 が、それも全く無駄な努力でした。山の手の鍛冶屋鑄掛屋に、この十日ばかりの間に鍵を頼んだのは三十人もありますが、困つたことに、その中には近江屋の者は言ふ迄もなく近江屋出入の者も一人もなかつたのです。

「どうだらう、錢形の」

 二度目にがつかりして兼吉が來た時、平次は日頃にもなく悄氣しよげて、

「成程これは惡かつた。あれほどの曲者が、自分で鍵を註文に行く筈はない」

 斯んな事を言つて居ります。



 到頭平次は乘出しました。

 目黒へ行く前、南の奉行所へ一寸顏を出して、書き役の遠藤佐仲さちうに逢ひ、

「丁度十年か十一年前に、何か飛んでもない物が盜まれて、それつ切り、その品も現れず、盜人も知れないと云ふやうな事は御座いませんか」

 こんな事を訊ねます。

「左樣。十年か十一年前と云ふと古いことだが、品物も盜人も現はれないのは、大抵書き殘してある筈だ、待つてくれ」

 帳面をバラバラとめくつて行つた遠藤佐仲は、暫らく經つて、會心の笑みを浮べました。

「ありましたか、旦那」

「あつたよ平次、──しかも二つだ」

「へエ──」

「一つは、遠州濱松ゑんしうはままつで──」

「そんなのは要りません、江戸の近在のだけで澤山で」

「板橋の東景庵とうけいあん藥師如來像やくしによらいざうが盜まれた。これは慶運作の御丈け四尺五寸といふ大した佛像だ。厨子づしは金銀をちりばめ、佛體には、玉がはめ込んである、が十一年前の春盜まれて、未だに行方が知れない」

「それから」

「金座の後藤が、勘定奉行へ送つて極印ごくいんを打つて貰ふ、吹き立ての小判が六千兩、常盤橋ときはばし外で、車ごと奪られた、其時人足が二人、役人が一人斬られたが、これもまた品も下手人も、現れない」

「その小判には極印が打つてあるでせうか」

「捺してない筈だ」

「通用出來ませんね」

「十年も經つて、世間で忘れて居るから、極印位はなくとも、今なら少々は通用するかも知れないよ、尤も極印のにせを作れば、それつ切りだ。お上でも知らないうちに、通用して居るかも知れない」

 遠藤佐仲まことに心得たことを言ひます。

「それだツ」

「あ、驚いた、何がそれだ」

「いえ、此方の事で、どうも御手數を掛けました。有難う存じます」

 平次は其足で目黒へ──。

「目黒の兄哥あにい、大方見當が付いたぞ。今度の曲者は一と筋繩では行かないわけがある。何十人でも宜い、大急ぎでき集められるだけ人數を集めて貰ひたい──」

 兼吉を呼出して、そつと囁きます。

「宜いとも」

 顏の良い兼吉は、即座に子分や牒者てふじやを呼びました。一刻も經たないうちに、近江屋の庭に集まつた人數はざつと三十人。

「有難い、これだけありやどんな狸でも逃しつこはねえ、型ばかりの家探しをさせて、日が暮れたら一人殘らず歸る振りをするんだ。尤もそつと引返して、塀の外から見張つて居て貰ひたいんだ」

「宜いとも」

 二人は打合せると、

「サア、これから家探しだ。天井裏から、床下まで、目の屆かないくまがあつちやならねえ。押入も、戸棚も、奉公人の荷物も、皆んが探すんだ。目當ては、お吉を殺した匕首あひくちと、主人を殺した毒藥だ、──他の物には目をかけるに及ばねえ」

 平次が號令すると、三十人ばかりの人數、一齊に動き出して、凡そ氣の長い家探しを始めました。

 それが半日、日が暮れて、灯がなくては何にも見えなくなると、平次と兼吉は、つかれ果てた人數を庭へ集めて、

「どうも御苦勞、これだけ探して見當らなきア、此家に隱して置かなかつたんだらう。一人殘らず歸つて休んでくれ」

 兼吉に言はれて、文句を言ふわけにも行かず、銘々ふくれ返つて店から、裏口から、暗くなつた下目黒の往來へ出て行きました。



「これで切上げだ。──下手人は到頭解らないが、いづれ閻魔えんま樣が見付けて下さるだらう。最後の思ひ出に、二人で見て廻るとしようか、目黒の兄哥」

 平次はおつくふさうに立上がりました。

「無駄だらうよ、錢形の」

「無駄は解つて居るが念の爲だ、──番頭さん、御新造さん、案内して貰ひませうか、釜吉も一緒に來てくれ、疑ひのかゝらなかつたのはお前ばかりだ、人徳があるんだね」

「御冗談を、親分」

 釜吉は佐太郎とお峯の後に從ひました。

 平次は兼吉を先に立てゝ、店から始まつて、納戸へ、居間へ、佛間へ、お勝手へ、雇人の部屋へ──と鍵のあるもの、錠前のあるものを一つ〳〵覗いて行きます。

 時々は自分の袂から二三十束にした鍵を出して、いろ〳〵廻したり開けたり。

 到頭手燭てしよくと提灯を點けさせて、釜吉と八五郎に前後から照させ乍ら、庭の方まで出かけて行きました。

 庭の奧の林の中には、近所の百姓地で荒れ放題になつて居たと言ふ、稻荷いなり樣のほこらを移して、元の儘乍ら小綺麗に祀つてあります。赤い鳥居が十ばかり、その奧は一間四方ほどの堂があつて、格子の前には、元大きな拜殿の前にあつたといふ、幅三尺に長さ六尺、深さ三尺五寸もあらうと言ふ法外に大きな賽錢箱さいせんばこがあります。

「これは大層慾張つた賽錢箱だネ」

 平次は笑ひながら覗いて見ました。

 けやきの厚板で組んだ、恐ろしく巖乘なもので、大一番の海老錠えびぢやうを卸してありますが、覗いて見るとよく底が見えて、穴のあいた小錢が五六枚あるだけ、何の變哲もありません。

「──」

 平次は小首を傾けましたが、其邊にあつた細い棒を持つて來て、賽錢箱の内と外の深さを測り、それから、自分の鍵束の中の大きい鍵を海老錠に持つて行くと、び付いて少しきしみますが、それでも手に從つて廻つて、錠はわけもなく外れます。格子になつた蓋を取つて、箱を横にしようとしましたが、これが恐ろしい重くて、一人の力ではどうしても動きません。

 平次は箱の中に手を入れると、バラ錢をかき集めました。

「あツ」

 そのバラ錢の一枚は糊で付けたもので、剥すとその下から、鍵穴が一つ出て來たのです。

 平次は豫期したことのやうに、その穴に同じ鍵を入れて廻すと、床板は手に從つてボカりと取れ、その下から、目の覺めるやうな山吹色──。小判で六千兩の大金が、提灯と手燭の灯を受けて燦然さんぜんとして眼を射たのです。

「これは何だ」

 驚く兼吉。八五郎も佐太郎もお峯も、釜吉も、暫らく息を吐くことさへ忘れたやうでした。

「十年前、稻妻組いなづまぐみと言つた三人組の泥棒が、常盤橋ときはばしで金座の後藤から勘定奉行へ送り屆ける六千兩の小判を盜つたが、極印が打つてないので費ふわけに行かなかつた、──それにしても、賽錢箱へ金をかくすと云ふ惡智慧には驚いたよ。賽錢箱は錢を入れる道具だ。覗いて見るとバラ錢が少し底の方にある。へつゝひや佛壇に金を隱すなら誰でも氣が付くが、賽錢箱までは思ひも寄らない」

 平次は一人で感心して居ります。

「その六千兩を奪つた泥棒は誰だ」

 たまり兼ねて兼吉は口を挾みました。

「近江屋の先代七兵衞がその首領かしらだ。七兵衞が死ぬと、二代目の七兵衞は賽錢箱の鍵を預つたが、あと二人の仲間がおびやかすので、恐ろしくて叶はないで、そつと、鍵を捨てゝ、鍵の寸法だけ取つて御新造に渡して置いた。御新造が八五郎に渡したのがその鍵の寸法だつた」

「──」

「大きい二重丸は鍵の上の輪だ、これはあつてもなくても宜い。次のの字は、鍵の一番大事な二本の足だ。左が揃つて居るのはその爲だ。下の二重丸は、鍵のぢくの太さだ。俺も、これが鍵の寸法と解るまでには一日かゝつたよ」

「その鍵は親分」

 とガラツ八は平次の持つて居る鍵を指します。

「近所の鑄掛いかけ屋に、寸法書通りのものを作らせたのだよ」

「出鱈目な、寸法を書いてお吉にやつたのは?」

「曲者に一杯喰はせる爲さ。曲者はお吉を使つてお前から寸法書を取らせたが、お吉は昔の七兵衞の仲間の泥棒の娘だつたので、もう一人、生き殘つた泥棒が殺して了つたのさ。お吉があんまりいろ〳〵の事を知つて居たのと浮氣ツぽくて氣が許されなかつたのだ」

「──」

 平次の明察に、皆んな固唾かたづを呑むばかりです。

「曲者はお吉を殺した上、二代目の七兵衞まで殺した。生菓子へ入れた毒は、其邊の藪に澤山ある×××××だ。あれは味が解らない上、鴆毒ちんどくよりも利く」

「誰だい、その曲者は」

 兼吉は我慢のならぬ聲を出します。

「證據から先に見せてやらう。先刻の家搜やさがしで、見付かつては大變と思つたのだらう、曲者は、俺が書いた僞寸法で拵へた鍵を自分の身體に持つて居る筈だ」

「野郎ツ、鍵を捨てたなツ」

 八五郎は怒鳴つて、猛犬のやうに誰かへ飛付きました。恐ろしい必死の格鬪が、ほんの暫らく續くと見るや、曲者くせものはガラツ八を蟲のやうにハネ飛ばして、高い塀へ飛付いたのです。

「馬鹿ツ、外には三十人も居る、神妙にせい」

 平次が手から投げた錢は、塀の上の曲者の頬を打つと、曲者の身體はそのまゝ下へ。

 不意を喰らつて、よろめくところへ、塀の外に伏せた人數は、折重なつて縛り上げました。

 曲者は、下男の釜吉、昔の稻妻組いなづまぐみの仲間であつた。先代七兵衞のところへ潜り込んで時節を待つうちに、お吉の父親も七兵衞も死んで、ツイ六千兩を一人占めにしようと言ふ氣になつたのでした。

 番頭の佐太郎は何にも知らず、お吉は、佐太郎のお人好しに食ひ下がつて、釜吉と張合つて、近江屋の内情を知らうとして居たのです。

 佐太郎はお吉が殺された時刻に、何處に居たか、言ひ開きの出來なかつたのは、お峯に庭の闇にさそひ出されて、何と言ふこともない、若い女の神經を脅かす『恐怖きようふ』を聽かされて居たのですが、世の誤解をおそれて、それを言はなかつた迄のことでした。

底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年710日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1934(昭和9)年11月号

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

2014年214日作成

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