錢形平次捕物控
南蠻祕法箋
野村胡堂
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小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代を築き上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。
「やい〳〵こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」
風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴つて居ります。
「ハイ、唯今、直ぐ參ります」
女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃の薪を二三本投げ込みましたが、頑固な鐵砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などといふ器用なものがありませんから、忽ち風呂場一杯に漲る煙です。
「あツ、これはたまらぬ。エヘン〳〵〳〵、其處を開けて貰はう。エヘン〳〵〳〵、寒いのは我慢するが、年寄に煙は大禁物だ」
「何うしませう、ちよつと、お持ち下さい。燃え草を持つて參りますから」
若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまゝ、面喰らつて物置の方へ飛んで行つて了ひました。
底冷のする梅二月、宵と言つても身を切られるやうな風が又左衞門の裸身を吹きますが、すつかり煙に咽せ入つた又左衞門は、流しに踞まつたまゝ、大汗を掻いて咳入つて居ります。
その時でした。
何處からともなく飛んで來た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになつた又左衞門の二の腕へ深々と突つ立つたのです。
「あツ」
心得のない人ではありませんが、全く闇の礫です。思はず悲鳴をあげると、
「何うした何うした、大旦那の聲のやうだが」
店からも奧からも、一ぺんに風呂場に雪崩込みます。
見ると、裸體のまゝ、流しに突つ起つた主人又左衞門の左の腕に、白々と立つたのは、羽ごと六寸もあらうと思ふ一本の吹矢、引拔くと油で痛めた竹の根は、鋼鐵の如く光つて、美濃紙を卷いた羽を染めたのは、斑々たる血潮です。
「俺は構はねえ、外を見ろ、誰が一體こんな事をしあがつた」
豪氣な又左衞門に勵まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立つて居るのは、埃除けの手拭を吹流しに冠つて、燃え草の木片を抱へた嫁のお冬、美しい顏を硬張らせて、宵闇の中に何處ともなく見詰めて居ります。
「御新造樣、何うなさいました」
「あ、誰か彼方へ逃げて行つたよ。追つ驅けて御覽」
と言ひますが、庭にも、木戸にも、往來にも人影らしいものは見當りません。
「こんな物が落ちて居ます」
丁稚の三吉がお冬の足元から拾ひ上げたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒、竹の節を拔いて狂ひを止めた上に、磨きをかけたものですが、鐵砲の不自由な時代には、これでも立派な飛道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言はれる位、後には子供の玩具や町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだ〳〵、吹矢も相當に幅を利かせた頃です。
餘事はさておき──、
引拔いたあとは、つまらない瘡藥か何かを塗つて、其儘にして置きましたが、其晩から大熱を發して、枕も上がらぬ騷ぎ、曉方かけて又左衞門の腕は樽のやうに腫れ上がつて了ひました。
麹町から名高い外科を呼んで診て貰ふと、
「これは大變だ。併し破傷風にしてもこんなに早く毒が廻る筈はない──吹矢を拜見」
仔細らしく坊主頭を振ります。
昨夜の吹矢を、後で詮索をする積りで、ほんの暫らく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなつて了つたのです。
「誰だ、吹矢を捨てたのは」
と言つたところで、もう後の祭り、故意か過ちか、兎に角、又左衞門に大怪我をさした當人が、後の祟りを恐れて、隱して了つたことだけは確かです。
「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗つてあつたかも知れぬて」
「え、そんな事があるでせうか」
又左衞門の伜又次郎、これは次男に生れて家督を相續した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言つていゝ程の男です。
「さうでもなければ、こんなに膨れるわけがない。この毒が胴に廻つては、お氣の毒だが命が六づかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思ふが、如何でせうな」
斯う言はれると、又次郎はすつかり蒼くなりましたが、父の又左衞門は、武士の出といふだけあつて思ひの外驚きません。
「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
千貫目の錘を掛けられたやうな腕を差出して、苦痛に歪む頬に、我慢の微笑を浮べます。
「ネ、親分、右の通りだ。田代屋の若旦那が錢形の親分にお願ひして、親父の片腕を無くさせた相手を取つちめて下さいつて、拜むやうに言ひましたぜ」
「多寡が子供の玩具の吹矢なら、洗ひ立てして、反つて氣の毒なことになりはしないか」
錢形の平次は、容易に動く樣子もありません。
「吹矢は子供の玩具でも、毒を塗るやうな手數なことをしたのは大人でせう」
「それは解るもんか」
「その上、吹矢筒の吹口には、女の口紅が付いて居たつて言ひますぜ」
「何だと、八」
「それお出でなすつた。この一件を打明けさへすりや、親分が乘り出すに決つてると思つたんだ」
ガラツ八はすつかり悦に入つて内懷から出した掌で、ポンと額を叩きます。
「八、それや本當か。無駄を言はずに、正味のところだけ話せ」
「正味もおまけもねえ。吹矢筒の吹口に、こつてり口紅が付いて居るんだ。その上、吹矢が飛んで來た時、外に居たのは嫁のお冬だけ。疑ひは眞一文字に戀女房へ掛つて行くから、又次郎にしては氣が氣ぢやねえ」
「フム」
「錢形の親分にお願ひして、何とかお冬の濡れ衣が干してやりてえ、あの女は、そんな大それたことの出來る女ぢやねえ──つて言ひますぜ」
「誰しも手前の戀女房を惡黨とは思ひたくなからう。ところでガラツ八、その吹矢は一體誰のだえ」
「それが可笑しいんで──」
「何が?」
「親分も知つて居なさるだらうが、田代屋の總領といふのはあの水道端の又五郎つて、親仁にも弟にも似ぬ、恐ろしい道樂者だ」
「さうか、あの水道端の又五郎は、田代屋の伜か」
「それですよ親分、十年も前に勘當されて、暫らく海道筋をごろついて居ましたが、一年ばかり前、藝妓上りのお半といふ女房と、取つて八つになる、留吉といふ伜を伴れて歸つて來て、圖々しくも、田代屋のツイ隣に世帶を持つたものだ」
「フヽ、話は面白さうだな」
「呆れた野郎で、世間では、田代屋の身上に未練があつて、古巣を見張り旁々戻つて來たに違げえねえつて言ひますぜ」
「そんな事もあるだらうな」
「吹矢はその小伜の留吉のだから面白いでせう」
「何だと、八、なぜ早くさう言はねえ」
「へツ、へツ、話を斯う運んで來なくちや、親分が動き出さねえ」
「馬鹿野郎、掛引なんかしあがつて」
さう言ひ乍らも平次は、短かい羽織を引つ掛けて、ガラツ八を追つ立てるやうに、水道端に向ひました。
先は多寡が質屋渡世の田代屋ですが、二萬兩の大身代の上、仔細あつて公儀からお聲の掛つた家柄、まさか着流しで出かけるわけにも行かなかつたのです。
向うへ行つて見ると、待つてましたと言はぬばかり。
「錢形の親分、よくお出で下さいました」
若主人、又次郎は、足袋跣足のまゝで、店口から飛出し、庭木戸を開けて、奧へ案内してくれます。
「親分、これは若旦那の又次郎さんで──」
ガラツ八が取なし顏に言ふと、
「有難う御座いました。滅多に人を縛らないといふ錢形の親分がお出で下すつたんで、何なに心強いかわかりません。親仁は昔氣質で、腕一本は惜しくないが、家の中の取締りがつかないから、繩付を出しても仕方がない、吹矢を飛ばした女を突き出せ──と斯う申します。吹矢を飛ばした奴と言はずに女と言ふのは、家内の冬に當てつけた言葉で、私共夫婦は途方に暮れて了ひました。出來ることなら親仁の迷ひを晴らして、家内を助けてやつて下さいまし」
山の手の廣い構、土藏と店の間を拔けて、母家へ廻る道々、又次郎は泣き出さんばかりの樣子で、斯う囁きます。
やがて奧へ通つて、大主人の又左衞門に引合されましたが、これは思ひの外元氣で、床の上に起直つて平次とガラツ八を迎へました。
「錢形の親分ださうで、よくお出で下さいました」
「飛んだ災難で御座いましたな、どんな樣子で?」
「なアに腕の一本位に驚く私ぢやないが、やり口が如何にも憎い。刀か槍で向つて來るなら兎も角、風呂場で煙責にして置いて、毒を塗つた吹矢を射るといふのは、女の腐つたのがすることぢやありませんか」
暗に嫁のお冬と言はないばかり、無事な右手に握つた煙管で、自棄に灰吹を叩きます。成程福島浪人と言ふのは嘘でなかつたでせう。七十近い巖乘な身體に、新しい忿怒が火の如く然えて、物馴れた平次も少し扱ひ兼ねた樣子です。
「吹矢筒は其儘にしてあるでせうな」
と平次。
「大事な證據ですから、私の側から離しやしません、この通り」
伜の又次郎が手を出しさうにするのを止めて、自分で膝行り寄つて、壁際に立てかけてあつた吹矢筒を取つて、平次に渡します。
平次は受取つて、端つこを包んだ手拭をほぐすと、中から現れたのは、成程はつきり紅いものの付いた、吹口。
「ね、錢形の親分、口紅でせう」
「さうでせうね」
平次は氣の乘らない顏をして、一と通り吹矢筒を調べると、
「矢は矢張り見えませんか」
解り切つたことを言ひます。
「それが見えないから不思議で──」
「たしかに毒が塗つてあつたでせうな」
「それが間違がありません。神樂坂の本田奎斎先生、──外科では江戸一番と言はれる方だ。その方が診て言ふんだから、これは確かで」
「成程、ところでそんな恐ろしい毒を手に入れるのは容易ぢやありませんね」
「ところが、親類に生藥屋があるんですがね」
「えツ?」
「嫁の里が麹町の櫻井屋で」
「──」
平次は默つて、この頑固な老人の顏を見上げました。麹町六丁目の櫻井屋といふと、山の手では評判の生藥屋で、お多の里が其處だとすると、これは全く容易ならぬことになります。
「どうでせう錢形の親分、これでも疑ふ私が惡いでせうか。打明けると家の恥だが、隣に住んで居る總領の又五郎、やくざな野郎には相違ありませんが、近頃は幾らか固くもなつたやうだし、自分から進んで親の側へ來る位だから、少しは人心もついたのでせう。私も取る年なり、いづれ勘當を許して、せめて隱居料に取り除けて置いた分だけでも孫の留吉にやりたいと話したのがツイ四五日前の事だ。その舌の乾かぬうちに、私の命を狙つた者があるんだから變でせう──こんな事を言ふと、伜の又次郎が厭な顏をするが、私の身に取つて見ると、さうでも考へるより外には、道がないぢやありませんか、ね、錢形の──」
又左衞門の心持は、益々明かでした。又次郎は席にも居たゝまらず、滑るやうに敷居の外に出ると、誰やら其處で立聽きをして居たものか、又次郎のたしなめる聲の下から、クツと忍び泣く聲が洩れます。
「一應御尤もですが、私にはまだ腑に落ちないことがあります。ちよつと、お宅の間取りから、風呂場の樣子、雇人の顏も見せて下さいませんか」
「サア、どうぞ──。これ、親分を御案内申しな。自由に見て頂くんだぞ」
「ハイ」
次の間から出て來た又次郎、──若い美しい女房に溺れ切つて、家業より外には何の樂しみも望みも持つて居ないらしい若者、父親の嚴めしい眼を避けるやうに、いそ〳〵と先に立ちます。
「これが家内」
又次郎に引合されたのは、ひどく打ち萎れては居りますが、なんとなくハチ切れさうな感じのするお冬、丈夫で素直で、美しくて、先づ申分のない嫁女振りです。
「それから、これが妹分のお秋」
これはお冬にも優して美しい容貌ですが、何處か病身らしく、日蔭の花のやうにたよりない娘です。年の頃は十八九。
これは後で又次郎に聞いた事ですが、妹と言つても實は奉公人で、頼るところもない身の上を氣の毒に思つて、三年越し目をかけてやつて居る娘だつたのです。如何にも育ちは良いらしく、物腰態度に、何となく上品なところさへあつて、見やうによつては、町家に育つた、嫁のお冬よりも遙かに美しく見えます。
續いて大番頭の長兵衞、手代の信吉、皆造、丁稚小僧までなか〳〵の人數ですが、平次は面倒臭さうな樣子もなく、一人々々に世間話やら、商賣の事やらを訊ねて、お勝手から風呂場の方へ歩みを移します。
仲働きはお増といふきかん氣らしい中年者、飯炊きは信州者の名前だけは色男らしい權三郎。合間々々に風呂も焚かせられ、庭も掃かせられ、ボンヤり突つ起つて居ると、使ひ走りもさせられる調法な男です。
一と通り風呂を見廻つた平次は、油障子を開けて外へ出ました。
「ね、親分、此處がその又五郎つて、兄貴の家ですぜ」
「──」
何時の間にやら、ガラツ八が縋いて來て囁きます。
「風呂場の障子が開けつ放しになつて居ると、此垣の根からでも流しに立つて居る人間へ吹矢が屆かないことはないでせう、──吹矢を飛ばした上で、筒を向うへ放り出すと──丁度あの邊」
「──」
「尤も、此處からは五六間あるから、馴れなくちや、そんな手際の良いことは出來ねえ。この節は兩國あたりの矢場で吹矢を吹かせるから、道樂者には、飛んだ吹矢の名人が居ますぜ」
「馬鹿ツ、何をつまらねえ事を言ふんだ──默つて居ろ」
「へエ──」
妙にからんだガラツ八の言葉を押へて、平次は垣の外から聲を掛けました。
「今日は、又五郎さんは居なさるかい、今日は──」
「何を言やがる──、此處からでも吹矢が屆かないことはない──なんて、厭がらせを言やがつて一體何奴だ」
飛出したのは、又次郎の兄、田代屋の總領に生れて、やくざ者に身を落した又五郎です。三十を大分過ぎた、一寸良い男。藍微塵の狹い袷の胸をはだけて、かけ守袋と白木綿の腹卷を覗かせた恰好で、縁側からポンと飛降ります。
「あれ、お前さん、錢形の親分だよ。滅多なことを言つておくれでない」
後ろから袖を押へるやうに、續いて庭先に出たのは、三十を少し越したかと思ふ、美しい年増、襟の掛つた袢纒を引つかけて、眉の跡青々と、紅を含んだやうな唇が、物を言ふ毎に妙になまめきます。
「何をツ、錢形だか、馬方だか知らねえが、厭な事を言はれて默つて居られるけえ。憚り乍ら、親子勘當はされて居るが、此節はすつかり改心して、親の居る方には足も向けて寢ねえやうに心掛けて居る又五郎だ。間違つたことを言やがると、土手つ腹を蹴破るぞ」
「兄イ、勘辨してくんな、大した惡氣で言つたわけぢやあるめえ。なア八、手前も謝まつて了ひな」
平次は二人の間へ食込むやうに、垣根越し乍ら、又五郎を宥めます。
「錢形のがさう言や、今度だけは勘辨してやらあ。二度とそんな事を言やがると、生かしちや置かねえぞ、態ア見あがれ」
又五郎は少し間が惡さうに、ガラツ八の頭から捨臺詞を浴びせて家の中へ引込んで了ひました。
「サア、錢形の親分、もう何も彼もお解りだらう。家の者だつて、外の者だつて、遠慮することはない。縛つて引立てゝおくんなさい」
外から歸つて來た平次を見ると、又左衞門はいきり立つて、皆んなの後から蹤いて來た嫁のお冬を睨め廻します。
「旦那、まだ其處までは解りません──が、吹矢を射たのは、御新造でないことだけは確かですよ」
「えツ、何、何うしてそんな事が判ります」
「吹矢筒の口をもう一度見て下さい。付いてゐるのは口紅に相違ないが、それは唇から付いたんぢやありません。唇から付いたんなら、もう少し薄すり付きますが、筒の口は紅が笹色になつてゐるほど付いてるでせう。それは、紅皿から指で筒の口へ捺つたものに相違ありません」
「えツ」
「見たところ、ほんの少しでも、口紅をさして居るのは、この家の中では御新造だけだ。誰か惡い奴がそれを知つて居て吹矢筒の口へ紅を塗つて、庭へ捨てゝ置いたんでせう。その時直ぐ、其處に居た者の指を見りや、一ぺんに判つたんだが惜しいことをしましたよ」
「フム──」
錢形平次の明察は、掌を指すやうで、又左衞門も承服しないわけにはいきません。
「まだありますよ。吹矢は風呂の棚の上からなくなつたと言ひましたが、私は見當をつけて探すと、一ぺんに見つかつて了ひました、これでせう」
平次は二つ折にした懷紙を出して、又左衞門の前に押し開くと、その中から現れたのは、紛れもない磨いた油竹に美濃紙の羽をつけた吹矢──、尤も吹矢はすつかり泥に塗れて、紙の羽などは見る影もありません。
「あツ、これだ〳〵、何處にありました」
「それを言ふ前に伺つて置きますが、御新造は、その晩外へ出なかつたでせうな」
「え、風呂場からお父樣を此處へお運びして、それからズツとつき切りで御座いました」
お冬は救ひの綱を手繰るやうに、おど〳〵し乍ら言ひ切ります。
「さうでせう、──ところでこの吹矢は庭の奧の土藏の軒に、土の中に踏み込んであつたのです」
「えツ」
「それも、女の下駄なんかぢやありません。職人や遊び人の履く麻裏で踏んでありました」
「ホウ」
又左衞門も又次郎も、聲を合せて感歎しました。その一座の驚きに誘はれるやうに、
「有難う御座います。錢形の親分、私は、もう何うなることかと思ひました」
お冬は敷居際に、泣き伏して了ひました。
事件はこんな事では濟みませんでした。
紛れるともなく經つた、ある日のこと、平次の家へ鐵砲玉のやうに飛込んで來たガラツ八。
「親分、大變ツ」
「何だ、ガラツ八か。相變らず騷々しいね」
「落着いて居ちやいけねえ、田代屋の人間が鏖殺にされたんですぜ」
「何だと、八?」
錢形の平次も驚きました。あわて者のガラツ八の言ふ事でも鏖殺は穩やかではありません。
「それツ」
と神田から水道端まで、一足飛にスツ飛んで行くと、成程田代屋は表の大戸を締めて、中は煮えくり返るやうな騷ぎです。幸ひガラツ八が聞き噛つた、鏖殺の噂にはおまけがありましたが、一家全部何を食つてか恐ろしい中毒で、いづれも蟲の息の有樣、中でも一番先に腹痛を起した小僧の三吉は、平次が驅けつけた時はもう息根が絶えて居りました。
年は取つても、剛氣な又左衞門は、一番氣が強く、これも少食のお蔭で助かつた嫁のお冬と一緒に、家族やら店の者を介抱して居りますが、日頃から丈夫でない養ひ娘のお秋は、一番ひどくやられたらしく、藍のやうな顏をして悶え苦しんで居ります。
町名主から五人組の者も驅けつけ、醫者も三人まで呼びましたが、何分、病人が多いのと、急のことで手が廻りません。そのうち平次は、
「ガラツ八、今朝食つた物へ、皆んな封印をしろ。鍋や皿ばかりでなく、水瓶も手桶も一つ殘らずやるんだ、解つたか」
「合點」
平次のやり方は機宜を掴みました。もう半刻放つて置いたら、親切ごかしの彌次馬に荒されて、何が何だかわからなくなつて了つたでせう。
吹矢で腕一本失つた時と違つて、今度は事件を揉み消すわけに行きません。一家中毒を起して小僧が一人死んだ上、あと幾人かは、生死も解らぬ有樣ですから、平次が行き着く前に、町役人から屆出て朝のうちに檢屍が下だる騷ぎです。
町醫者立會の上、いろ〳〵調べて見ると、毒は朝の飯にも汁にもあるといふ始末、突き詰めて行くと、井戸は何ともありませんが、お勝手の水甕──早支度をするので飯炊きの權三郎が前の晩からくみ込んで置いた水の中には、馬を三十匹も斃せるほどの恐ろしい毒が仕込んであつたのです。
「これは驚いた、これほどの猛毒は、日本はもとより唐天竺にも聞いたことがない。附子や鴆と言つたところで、これに比べると知れたものだ」
と、奎齋先生舌を卷きます。
「すると、其邊の生藥屋で賣つて居ると言つたザラの毒ではないでせうな」
と平次。
「左樣、これほどの水甕に入れて、色も匂ひも味も變らず、ほんの少しばかり口へ入つただけで命に係はるといふ毒は私も聽いたこともない。これは多分、──南蠻筋のものでもあらうか─」
「へエ──」
「耳掻き一杯ほどの鴆毒でも、何百金を積まなければ手に入るものではない、──イヤ何百金積んでも手に入らないのが普通だ」
奎齋老の述懷は、益々平次を驚かすばかりです。
「夜前にくみ込んだ水甕へ、それほどの毒を入れたのに、戸締りが少しも變つて居ないところを見ると、これは外の者の仕事ではない。矢張り家の中の者だらう。錢形の親分、今度こそは、遠慮せずに引つくゝつて下さいよ」
又左衞門は氣を取り直して、一本腕の不自由さも、毒の苦しさも忘れて斯んな事を言ひます。當てつけられて居るのは言ふ迄もなく嫁のお冬、これは又不思議に丈夫でほんの少しばかりの血の道を起したと言つた顏色、舅にいやな事を言はれ乍らも甲斐々々しく病人達を介抱して居ります。
平次はそれを尻目に、小半刻水甕に噛り付いて、調べて居りましたが、
「この柄杓は新しいやうだが、何時から使つてますか」
お冬を顧みて斯う問ひかけます。
「昨夜、古い方の柄杓がこはれて了つたとか言つて居りました。多分一つ買ひ置きの新しいのがあつたのを、權三郎がおろしたので御座いませう」
「これだツ」
「何ですえ、親分」
とガラツ八。
「仕掛はこの柄杓だ。ちよいと氣がつかないが、よく見ると底が二重になつて、その間に毒が仕込んであつたんだよ」
平次は火箸を持つて來て、外側から眞新しい柄杓の底をコジ明けると、果してもう一つ底があつて、その中に、晒木綿で作つた、四角な袋が忍ばせてあつたのです。
「あツ」
驚き騷ぐ人々の中へ、平次は盆の上に載せた柄杓を持つて來ました。
「この通り、種は矢張り外から仕込んだものに違ひありません。家の者ならこんな手數なことをせずに、いきなり水甕へ毒をブチ込むところでせうが、曲者は外に居るから、こんな手數なことをして、そつと柄杓を換へて遣いたんでせう──これは一體誰が買つて來ましたえ」
「死んだ三吉で御座いました」
お冬はさう言つて、ホツと胸を撫でおろしました。自分の上に降りかゝつた、二度目の恐ろしい疑ひが、また平次の明察で朝霧のやうに吹き拂はれてしまつたのです。
「それにしても又五郎は何うしたんだ」
思ひ出したやうに又左衞門はさう言ひました。火事息子といふ言葉もある位で何か騷ぎのある時驅けつけるのが、勘當された息子の詫を入れる定石になつて居る時代のことです。ツイ垣隣りに住んで居て、これほどの騷ぎを知らないと言ふのも餘程どうかして居ります。
「成程、さう言へば變ですね」
と平次。
「だから、あつしは言つたんで、何うもあの垣の外が臭いつて──」
とガラツ八。
「默らないか、八、そんな下らない事を言つてゐる暇に、ちよいと覗いて來るがいゝ」
平次にたしなめられて、尻輕く外へ飛んで出たガラツ八、間もなくつまゝれたやうな顏をして歸つて來ました。
「可怪しな事があるものだ、もう晝だつて言ふのに、まだ雨戸も開いてねえ」
「何、まだ雨戸が開かねえ」
「親分、恐ろしい寢坊な家もあつたもんですね」
「そいつは可怪しい。來い、ガラツ八」
平次は彈き上げられたやうに起ち上がりました。改めてさう言はれると、又左衞門もガラツ八も、お冬も背筋をサツと冷たいものが走つたやうな心持になります。
庭を突つ切つて、垣を飛び越えると、平次はいきなり雨戸を引つ叩きました。
「今日は、今日は、隣から來ましたがね、──田代屋の旦那が、御用があるさうですよ」
續け樣に鳴らしましたが、中は靜まり返つて物の氣配もありません。赤々と雨戸に落ちる陽ざしはもう晝近いでせう。どんな寢坊でも、雨戸を閉めて置かれる時刻ではありません。平次はガラツ八に手傳はせて、到頭雨戸を二枚外して了ひました。
一足中へ踏み込むと、碧血の海。
「あツ」
又五郎とその女房のお半は、どんなにもがき苦しんだことか、血嘔吐の中に、襤褸切れのやうに醜く歪められ、つくねられ、捻りつけられ死んで居たのです。雨戸を開けた間から、春の光がサツと入つて、この陰慘な情景を、何の蔽ふところもなくマザマザと描き出しました。
「子供は? 留ちやんは?」
蹤いて來たお冬は、あまりの怖ろしさに顏を反け乍らも、女の本能に還つて、顏見知りの子供の名を呼んで居ります。
「此處だ〳〵」
ガラツ八は、部屋の隅から、菜ツ葉のやうになつてゐる留吉を抱いて來ました。食べた物が少かつたのか、こればかりはまだ壽命を燃やし切らず、身體も動かず聲も立てませんが、頼りない眼を開いてまぶしさうに四方を見廻します。
「留ちやん、留ちやん、大丈夫かい、しつかりしておくれよ」
この人の好い叔母に抱かれて、それでも留吉は僅かに、こつくり〳〵やつて居ります。まだ、驚くほどの氣力も、泣くほどの氣力も恢復しないのでせう。
「大丈夫だよ留ちやん、もう大丈夫だよ、叔母ちやんがついて居るから、お泣きでないよ」
お冬はさう言ひ乍ら、留吉を抱いて、母家の方へ歸つて行きます。
その後姿をツクヅク見送つた平次。何を考へたか、自分も母家へ取つて返して、薄暗い中に蠢めく人々を一應見廻すと町の人達に後の事を頼んで、追ひ立てられるやうにサツと戸外へ飛出します。
「親分、何處へ」
後ろからガラツ八、これは下駄と草履を片跛に穿いて追いかけます。
「八、お前は暫らく此處に居るがいゝ」
「へエ──」
「俺は少し行つて來るところがある」
「あれは一體、どうした事でせう親分、あつしには少しも解らねえ」
「正直に言ふと俺にも解らないよ」
「へエ──」
「八、恐ろしい事だ。いや、もつと〳〵恐ろしい事が起りさうで、何うもヂツとしちや居られねえやうな氣がするんだ」
「親分、大丈夫ですかえ」
「──」
「親分」
半刻ばかりの後、八丁堀組屋敷で、與力笹野新三郎の前に錢形の平次ともあらう者が、すつかり悄氣返つて坐つて居りました。
「旦那樣、これは一體どうした事でございませう。一と言通りの家督爭ひとか、金が仇の騷動なら、大概底が見える筈ですが、この田代屋の一件ばかりは、まるで私には見當もつきません。旦那のお智慧を拜借して何とか目鼻だけでもつけたう御座います」
「フム、大分變つた事件らしいが、平次、お前は本氣で見當掛つかないと云ふのか」
笹野新三郎は妙に開き直ります。
「へエ──さう仰しやられると、滿更考へたことがないでは御座いませんが──、あまり事件が大きくて、私は怖ろしいやうな氣がします」
「それ見ろ、錢形の平次にこれほどの事が解らぬ筈はない。兎も角、思ひついただけを言つて見るがよい。お前で解らぬことがあれば、私の考へたことも話してやらう」
「有難う御座います。旦那樣、それでは、平次の胸にあることを、何も彼も申上げて了ひませう」
「──」
「あの、田代屋又左衞門といふのは、確か、慶安四年の騷ぎに、丸橋忠彌一味の謀叛を訴人して、現米三百俵、銀五十枚の御褒美をお上から頂いた親爺で御座いましたな」
「その通りだ。それはせ知つて居るお前が、何を迷ふことがあるのだ」
「へエ──、すると矢張り、田代屋一家内の紛紜ではなくて、由井正雪、丸橋忠彌の殘黨が、田代屋に昔の怨みを酬す爲と考へたもので御座いませうか」
「先づさう考へるのが筋道だらうな」
「田代屋が一と先づ片附けば、次は同じく忠彌を訴人した本郷弓町の弓師藤四郎、續いては、返り忠して御褒めに預つた奧村八郎右衞門を始め、御老中方お屋敷へも仇をするものと見なければなりません」
「その通りだよ平次」
「又浪人共を狩り集めて、謀反を企てる者がないとも申されません──」
「いや、其處までは何うだらう」
「それにしても不思議なのは、あの毒藥で御座います。醫者の申すには、町の生藥屋などに、ザラに賣つて居る品ではない、多分南蠻筋の祕法の毒藥でもあらうかと──」
「平次、お前はあの事を知らなかつたのか」
「と仰しやいますと」
「田代屋一家の騷ぎは大した事ではないが、私にはその毒藥の出所の方が心配だ」
「──」
「平次、これはお上の祕密で、誰にも明かされないことになつて居るが、心得の爲に話してやらう。漏らしてはならぬぞ、萬々一、人の耳に入つたら最後、江戸中の騷ぎにならずには濟むまい」
「へエ──」
笹野新三郎は自分も膝行り寄つて、平次を小手招ぎました。
「丸橋忠彌召捕の時、麻布二本榎の寺前の貸家に、三百三十樽の毒藥が隱してあつた。これは由比正雪が島原で調合を教はつたといふ南蠻祕法の大毒藥で、一と樽が何萬人の命を取るといふ恐ろしいものであつた」
「──」
「玉川に流し込んで、江戸の武家町人を鏖殺にしないまでも江戸中の大騷ぎを起させる目論見のところ、丸橋忠彌の召捕から一味悉くお處刑になつて、毒藥はお上の手に召上げられ、越中島に持つて行つて燒き拂はれた──これだけの事はお前も聞知つて居るであらうな」
「へエ──、存じて居ります」
「ところが、二本榎の貸家で見つかつた毒藥といふのは、その實二百三十樽だけで、あと百樽の行方が何うしても判らぬ」
「エツ」
「一味の者は誰も知らず、係りの平見某は口を緘んで殺され、その首領の柴田三郎兵衞は、鈴ヶ森で腹を切つてしまつた。御老中方を始め、南北の御奉行、下つて我々までも、ことの外心配したが、百樽の毒の行方はなんとしても判らず、忘るゝともなくそれから何年か經つて了つた」
「──」
「若しその百樽の毒藥が由比、丸橋の殘黨の手に入り、諸方の井戸や上水に投げ込まれるやうなことがあつては、江戸中の難儀はもとより、ひいては天下の騷ぎだ。田代屋一家鏖殺に使つた毒は、町の生藥屋で賣るやうな品でないとすれば、或ひはその百樽の毒藥から取出したものかも知れぬ」
「──」
「平次、これは大變な事だ、一刻も早く曲者の在所を突き留めて百樽の毒藥を取り上げなければならぬぞ。手不足ならば、何十人、何百人でも手傳はせてやる、何うだ」
笹野新三郎の思ひ入つた顏を、平次は眩しさうに見上げ乍ら、それでも聲だけは、凛として居りました。
「旦那樣、暫らくこの平次にお任せを願ひます」
「何?」
「せめて今日一日、この平次の必死の働きを御覽下さいまし。その代り、弓師藤四郎、奧村八郎右衞門はじめ、御老中方お屋敷に人數を配り萬一の場合に備へて頂きたう御座います、その手段は──」
平次は新三郎の耳に口を持つて行きました。
平次はその足ですぐ田代屋へ取つて返しました。奧へ通されて、主人の又左衞門と相對したのはもう夕暮れ。小僧の三吉と、隣に住んで居た又五郎夫婦の死體の始末をして、家の中は上を下への混雜ですが、幸ひ他の人達は全部元氣を取り返して、青い顏をし乍らも忙しさうに立ら働いて居ります。
「實はイヤな事をお聞かせしなければなりませんが──いよ〳〵、毒を盛つた人間の目星がつきましたよ」
「へエ──、何處の何奴で御座います」
腕の痛みにも、毒藥の苦しさにもめげず、相手が判つたと聞くと又左衞門は膝を乘り出します。
「それが厄介で、いよ〳〵この家から、繩付を出さなきアなりません」
「矢張りあの女で──」
「いや考へ違ひなすつちやいけません、御新造は何にも知りはしません」
「へエ──」
「風呂場から吹矢を盜んで、外へ捨てゝ相棒に土の中へ踏み込ませたり、柄杓の底へ仕掛をして、外から毒を持ち込んだやうに見せたり、恐ろしい手の込んだ細工をして、私の眼を誤魔化さうとしましたが、曲者の片割れは、矢張り此家の中に居るに相違ありません」
「誰です、その野郎は、早く縛つて下さい」
「いや、さう手輕には行きません。田代屋一家を鏖殺にしようと言ふ曲者ですから。一筋繩では行きません、もう一刻經てば此家に居る曲者と、外に居る仲間と、一ぺんに縛る手筈が出來て居ります」
「田代屋一家を怨む者といふと若しや──?」
「氣がつきましたか旦那、あれですよ、丸橋忠彌の一味──」
「エツ、家の中の誰がその謀反人の片割れです、太い奴だ」
「シツ、靜かに、人に聽かれちや大變──つかぬ事を訊きますが、あの奉公人とも養ひ娘ともつかぬお秋──、あの女の身許がよく判つてゐませうか」
「いや──そんな事はありやしません。あの娘に限つて」
「あの娘の毒に中てられた苦しみやうが、一番ひどかつたが、他の人とは何處か調子が違つて居はしませんでしたか」
「さう言へば──」
二人の聲は次第に小さくなります。
四方を籠めて、次第に濃くなる闇の色、その中に何やら蠢めくのは、隣室から二人の話を立ち聽く人の影でせう。
「太い女だ、三年この方目をかけてやつた恩も忘れて」
と又左衞門、腹立ち紛れにツイ聲が高くなります。
「今騷いぢや何にもなりません。あの女は雜魚だが、外に居るのが大物です──。それもあと一刻の命でせう──、今頃は捕方同心の手の者が百人ばかり、もう八丁堀から繰り出した頃──もう袋の中の鼠も同樣──」
平次の聲は、潜め乍ら妙に力が籠つて部屋のそとまで、かすか乍ら聽き取れます。
間もなく田代屋を拔け出した一人の女──小風呂敷を胸に抱いて後前を見廻し乍ら水道端の宵暗を關口の方へ急ぎます。
大日坂の下まで來ると、足を停めて、一應四方を見廻しましたが、砂利屋が建て捨てた物置小屋の後ろへ廻ると、節穴だらけな羽目板へ拳を當てゝ、二つ三つ妙な調子に叩きました。
「誰だ?」
中からは錆のある男の聲。
「兄さん、私」
「お秋か、今頃何しに來た」
「大變よ、手が廻つたらしい」
「シツ」
中からコトリと棧を外すと、羽目板と見えたのは潜りの扉で、闇の中へ大きい口がポカリと開きます。
「何うしたんだ、話して見ろ」
伏せて居た龕燈を起すと、圓い灯の中に、兄妹二人の顏が赤々と浮出します。蒼白い妹のお秋の顏に比べて、赤黒い兄の顏は、何と言ふ不思議な對照でせう。
藍微塵の意氣な袷を着て居りますが、身體も顏も泥だらけ、左の手に龕燈を提げ、右の手に一梃の斧を持つて居るのは一體何をしようと言ふのでせう。年の頃は三十二三、何となく一脈の物凄まじさのある男前。
「兄さん、あと一刻經たないうちに、此處へ役人が乘込んで來ます。捕方同心一隊百人ばかり、八丁堀を出たといふ話──」
お秋の息ははずみ切つて居ります。
「誰がそんな事を言つた」
「錢形の平次」
「何處で」
「田代屋の奧で、旦那と話して居るのを聽いて、夢中になつて飛出して來ました」
「馬鹿ツ」
「──」
「平次がそんな間拔な事を、人に聽かれるやうに言ふ筈はない、お前があわてゝ飛出す後を跟けて、俺の巣を突きとめる計略だつたんだ。何と言ふ間拔けだ」
「エツ」
思はず振り向くお秋の後ろへ、ニヤリ笑つて突つ立つて居るのは、果して錢形の平次の顏です。
「あツ」
驚くお秋を突き返けて、
「御用だぞ、神妙にせい」
一歩平次が進むと、早くも五六歩飛退いた曲者、──龕燈を高々と振り上げて平次を睨み据ゑました。
「平次、寄るな、この龕燈の先を見ろ。向うにある眞つ黒なのは焔硝樽だ。あの中に投り込めば、俺もお前も、この物置も、木端微塵に吹き飛ばされた上、百樽の毒藥は、神田上水の大樋の中に流れ込むぞ──」
「──」
寸毫の隙もない相手の氣組と、その物凄い顏色、わけても思ひもよらぬ言葉に、さすがの平次も驚きました。
「寄るな平次、退かないか、丸橋先生、柴田先生が三百三十樽の毒藥のうち、百樽を此處に隱して、神田川上水に流し込む計略だつたんだ。半月經つて、誰も氣がつかずに其儘になつて居るのを知つて上水の大樋まで穴を掘り、毒藥の樽を投り込むばかりになつて居るんだぞ、サア、どうだ」
平次もさすがに驚きましたが、相手の氣組を見ると、全くそれ位のことはやり兼ねないのは判り切つて居ります。
「待て〳〵、そんな無法な事をして、江戸中の人間に難儀をかけるのは本意ではあるまい。天運とあきらめて、神妙にお繩を頂戴せい」
「何を馬鹿な、俺は死んでも仇は討てるぞ、見ろツ」
右手に閃めく龕燈、そのまゝ、後ろの焔硝樽へ投げ込まうとするのを平次は得意の投げ錢、掌を宙に飜すと、青錢が一枚飛んで、曲者の拳をハタと打ちます。
「あツ」
龕燈を取り落すと同時に飛込んだ平次、暫らく闇の中に揉み合ひましたが、何うやら組伏せて早繩を打ちます。
物置の外へ出ると、ガラツ八、これはお秋を縛つて、漸く繩を打つたところ。
「親分、お目出度う」
「お、八か、骨を折らせたなア」
× × ×
捕まへた曲者は、慶安の變に毒藥係を勤めた平見某と弟同苗兵三郎とその妹お秋、由比正雪、丸橋忠彌その他一黨の遺志を繼いで老中松平伊豆守、安部豊後守をはじめ、一味の者に辛かりし人達へ怨を酬い、太平の夢を貪る江戸の町人達にも、一と泡吹かせようと言ふ大變なことを目論んだのでした。
調べたら面白いこともあつたでせうが、人心の動搖を惧れて、兄妹二人は人知れず處刑されて了ひました。この時代には、よくそんな事が行はれたものです。
平次は老中阿部豊後守のお目通りを許され、身に餘る言葉を頂きましたが、相變らず蔭の仕事で、表沙汰の手柄にも功名にもなりません。それも併し氣にするやうな平次ではありません、時々思ひ出したやうに、
「あのお秋つて娘は可哀さうだつたよ。田代屋の又次郎に惚れて居て、嫁のお冬が憎くて〳〵たまらないところへ、兄貴の兵三郎につけ込まれたんだ。戀に眼の眩んだ女は、どんな大膽なことでもして退けるよ」
こんな事をガラツ八に言つて聽かせました。
底本:「錢形平次捕物全集第八卷 地獄から來た男」同光社磯部書房
1953(昭和28)年7月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1932(昭和7)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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