錢形平次捕物控
兵庫の眼玉
野村胡堂
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「八、花は散り際つて言ふが、人出の少くなつた向島を、花吹雪を浴びて歩くのも惡くねえな」
錢形平次は如何にも好い心持さうでした。
「惡いとは言ひませんがね、親分」
「何だ、文句があるのかえ」
「斯う、金龍山の鐘が陰に籠つてボーンと鳴ると、五臟六腑へ沁み渡りますぜ」
「怪談噺てえ道具立てぢやないよ。見ろ、もう月が出るぢやないか」
「へツ、へツ、眞つ直ぐに申上げると、腹が減つたんで」
ガラツ八の八五郎は、長い顎を撫でました。涎を揉み上げると言つた恰好です。
「もう食ふ話か、先刻あんなに詰め込んだ團子は何處へ入つたんだ」
「それが解らないから不思議で、──何しろ竹屋の渡しから水神まで三遍半歩いちや、大概の團子腹がたまりませんよ」
「泣くなよ八、風流氣のない野郎だ」
錢形の平次と子分の八五郎は、こんな無駄を言ひ乍ら、向島の土手を歩いて居りました。
晝のうちは、落花を惜む人の群で、相當以上に賑ひますが、日が暮れると、グツと疎らになつて、平次と八五郎の太平樂を紡げる醉つ拂ひもありません。
丁度牛の御前のあたりへ來た時。
バタバタと後から足音がして、除け損ねた八五郎の身體へドンと突き當りました。
「危ねえ、後から突き當る奴もねえものだ。何をあわてるんだ」
「御免下さいまし」
振り返つたガラツ八の袖の下を掻潜り樣、ト、ト、トと前へ、物に驚いた美しい鳥のやうに驅け拔けたのは、紛れもなく若い女です。
「どつこい、待ちねえ。胡亂な奴だ」
後ろから伸びた八五郎の手は、その帶際を無手と掴みました。
「急ぐ者で御座います。お許しを願ひます」
女は花見衣の袖に顏を埋めて、堤の夕闇に消えも入りさうでした。
「懷中物の無事な顏を見ないうちは、うつかり勘辨するものか」
八五郎は遊んで居る片手を働かせて、内懷から腹掛の丼から、犢鼻褌の三つまで搜つて居ります。女巾着切と思込んだのです。
「八、何てえ事をするんだ。見れば御武家方に御奉公して居る御女中のやうだ。無禮があつてはなるまい」
平次は見兼ねて肩を叩きました。
「へエ、巾着切ぢやありませんかえ。花時の向島土手で、不意に後ろから突當るのは、巾着切と決つたやうなものだが」
ガラツ八は漸く手を放します。
「飛んでもねえ野郎だ。──お女中、勘辨してやつて下さい。こんな解らねえ野郎でも、役目があるもんだから」
「ハイ、イエ」
女はひどく恐縮して、二人へ辯解をするともなく、顏の袖を取りました。堤の掛行燈は少し遠過ぎますが、丁度田圃の上へ出た月が、その素晴らしい容貌を、惜みなく照し出します。
「お急ぎのやうだ、構はず行きなさるが宜い。まだ花見の往來があるから、物騷なことはあるまい」
「有難う存じます。船がツイ竹屋の渡の手前に待つて居りますから」
「それぢや、ほんの一と丁場だ、──送つて上げるのも氣障だ。醉つ拂ひか何かに絡み付かれたら、大きな聲を出しなさるが宜い」
平次は月明りのまだよく屆かない橋の下陰を透し乍ら、行屆いた注意を與へて居ります。
「錢形平次親分といふ荒神樣が附いて居るんだ、──とな」
「餘計な事を言ふな、馬鹿野郎」
「へエ」
ガラツ八の凹む顏を見て、女は始めて微笑みましたが、其儘物優しく小腰を屈めると、踵を返して竹屋の渡しの方へ急ぎます。
土手の人足は至つて疎らですが、川面は夜櫻見物の船が隙もなく往來し、絃歌と歡聲が春の波を湧き立たせるばかりです。
「何か間違があつたらしいな」
平次は三圍の前に來た時、堤の下を覗きました。其處に繋いだ一艘の屋根船の中には、上を下への大騷動が始まつて居るのです。堤の上からは若い武家が一人、それを覗いて居るのを見逃す平次ではありません。
「行つて見ませうか、親分」
ガラツ八の職業意識は燃え上りました。
「放つて置くが宜い、武家の遊山船だ。──町方の岡つ引が口を出す場所ぢやねえ。第一後がうるさいよ。それよりは堤の上から一生懸命、船の樣子を見て居る、若い武家の人相を覺えて置くが宜い」
平次は其儘そつぽを向いて通り過ぎます。
丁度その時、堤の下の屋根船には、大變な騷ぎが起つて居りました。
駒形に屋敷を持つて居る、旗本大村兵庫。三千五百石の大身ですが、若くて無役で無類の放埒、此日は柳橋から花見船を仕立てさせ、用人村川菊内、愛妾のお町、中間の勝造、それに庭掃除の親爺三吉をお燗番に、藝妓大小三人、幇間一人を伴れて、晝から漕ぎ出させ、水神まで一と往復した上、夕景から三圍の前に着けさせて、存分に夜櫻の散るのを眺め、月が明るくなつてから歸らうといふ計畫を立てました。
日が暮れる前、召使といふ名義になつて居る愛妾のお町は、長命寺境内に叔母が居るから、一寸挨拶だけでもして來たいと言ひ出し、相當むづかる主人の大村兵庫をなだめて船から上り、お燗番の三吉は、用意の酒を醉つ拂ひの幇間にこぼされたので、口を開けたばかりの灘の銘酒の補充に、一と走り駒形まで歸りました。船の中は、醉つてないのは二人の船頭だけ、七輪は中間の勝造が預かつて、たそがれと共に、際限の無い亂醉に落ちて行きさうでした。
しばらく濃くなる夕闇──それも存分に灯がはひると、飮んで騷ぐ分には、何の煩ひもありません。
大村兵庫、此上もなく滿足でした。喰らひ肥つた三十二歳の巨體を、傍若無人に藝妓の膝に凭せ、左手に擧げた朱塗の大盃を半分乾すと、
「ホーツ」
と息を繼ぎます。
「殿樣、卑怯千番。敵に後ろを見せるといふ法は御座いません。グツと、グツとお乾し遊ばして。お流れは、へツ、この私が頂戴仕ります」
幇間が中腰になつて、泳ぐやうな手付をするのでした。
「武士に向つて卑怯、──とは聞捨にならんぞ。卑怯や臆病で休んで居るのではない。酒が切れて、お燗番の勝造が眼を白黒させて居るではないか──三吉はまだ戻らぬか」
「もう、追つ付け戻りませう」
用人の村川菊内は少し苦々しいのを我慢して、精一杯合槌を打つて居ります。此邊で御意に逆らふと、いきなり「──仲へ行けツ──」と言ひ出さないものでもありません。
「大分手間取るやうだな。ところで、月はまだ出ぬか、眞暗では花見も一向興がない」
「土手の上は月が射して居ります。今出たばかしで御座いませう」
勝造は艫へ立上つて、小手をかざしました。
その時、
「あツ」
主人の大村兵庫、いきなり杯を投げ出して俯向いたのです。
「何うなさいました、殿樣」
藝妓、幇間の騷いだのも無理はありません。大村兵庫の左の眼に楊弓の矢が眞つ直ぐに突立つて、血潮は滾々として頬から襟へ滴つて居るではありませんか。
船の中は煮えくり返る樣な騷ぎですが、誰も何うする事も出來ません。その中で一番落着いて居るのは、眼を射られた本人の大村兵庫でした。さすがは三千五百石を喰む旗本だけに、氣が落ち着くと、自分で矢を拔き取り、有合せの布を集めて、キリキリと繃帶はしましたが、流るゝ血は、潮時と見えてなか〳〵止りません。長さ九寸、朴の木で作つたヒヨロヒヨロの矢ですから、他の場所に當つたんでは、大した業もしなかつたでせうが、眼玉を射ただけに、これは厄介です。
「此邊に外科はないか」
それでも村川菊内、一番先に醫者の事に氣が付きました。
「向島の土手ぢや醫者がありません。本所へ行かなきア」
これは勝造です。
「本所へ行く位なら、向う岸へ引返した方が宜からう。少しでも御屋敷へ近く行きたい」
村川菊内の言葉は尤もでした。二人の船頭はそれを聞くと、堤の下の杭に繋いだ纜を解いて、もう艪を押す支度をして居ります。
「あ、待つて下さい」
愛妾お町はこの時、昇つたばかりの月を背に受けて、堤を下つて來たのでした。
「早く、お町さん、──殿樣がお怪我をなすつた」
「えツ」
勝造の言葉は、お町に取つて恐ろしい打撃だつたらしく、暫らく船に乘るのも忘れて堤の中腹に立ち縮みました。
「どうなすつた。お町さん」
「本當にお怪我? 人にどうかされたのではない? 勝造さん」
「楊弓で眼を射られなすつたのさ。さア、船を出すぞ」
酒を取りに駒形へ歸つた三吉を待つては居られません。其儘船を漕ぎ出して中流へ五六間とも行かないうちに──。
「おーい、其船待つてくれ」
淺草の方から小舟でやつて來た三吉。摺れ違ひ樣、川の中で舷を付けて、此方の船に飛乘りました。
「三吉か、──もう酒は要らねえよ」
と勝造。
「どうしたんだ。勝兄哥」
三吉は三升樽をブラ下げて、艫に踞みました。五十六七、すつかり月代が色付いて、鼻も眼も口も萎びた、剽輕な感じのする親爺です。
翌日用人の村川菊内、神田の平次を訪ねました。
「ざつと斯う言ふわけだ。公儀へは遠乘りの途中暴れ馬が殿を乘せたまゝ雜木林に飛込み、木の枝で眼を突かれた──と屆出てゐるが、町人の玩ぶ楊弓の矢で眼を一つ潰されては、何としても諦らめられない。意趣か、惡戯か知らぬが、兎に角、入費はいかほど嵩まうと苦しうない。是が非でも曲者を探し出し、主君の手で成敗し度いといふ仰せだ。斯樣なことは素人に手の付けやうなく、江戸一番の御用聞と聞いて參つたわけだ。何と引受けてはくれまいか、平次殿」
折入つての頼みです。四十そこ〳〵、まだ用人摺れのする年ではありませんが、主人大村兵庫の脂切つたのと違つて、ひどく氣の弱さうな菊内は、御用聞風情の前に揉手をして居るのでした。
「御氣の毒樣ですが、私の手に了へさうも御座いません。そればかしは御勘辨を願ひます、村川樣」
平次は日頃になく尻込みをして居ります。
「それは又、どう言ふわけだ」
「第一、御武家方の紛糾は畠違ひで御座います」
「それも承知だが、役目の表でする仕事ではない。公儀筋へ聞えては此方も迷惑、内々で探つて貰へば宜いのだが──」
「──」
「折入つての頼みだが、平次殿」
「まアお手をお上げ下さい。御武家に拜まれちや私は逃出しでもしなきアなりません」
「斯う言つただけでは疑念があるかも知れない──序に言つて仕舞ませう──實はな平次殿、私が此處へ參つたのは少しばかり仔細のある事だ」
「へエ──」
「主人が何と仰しやらうと暗闇の耻を明るみへ出し度くはないが、堤の上から楊弓を射た疑ひが騷ぎの直ぐ後で船へ歸つた御女中のお町といふ者に懸つて、昨夜から恐ろしい折檻を受けて居るのぢやよ」
「へエ──」
平次は後ろに控へたガラツ八と顏を見合せました。
「お町は主人の御寵愛の深い女で、そんな事をする筈はないと思ふが、困つたことに、いろ〳〵の證據がある」
「──」
「主人は眼の傷の手當をし乍ら苦痛を忍んでお町の折檻だ──處でそのお町と云ふ女中が神田の錢形平次親分を呼んで下さい。あの方は何も彼も御存じだから、と斯う言ふのだ」
「へエ」
平次は驚きましたが、それよりガラツ八はたまり兼ねて、平次の後ろから袖を引いて居ります。昨夜向島の堤でガラツ八に突當つたのは、そのお町と言ふ女でせう。
「旦那、よく解りました。いかにもお邸へ參りませう」
「えつ、乘出してくれる、──それは有難い」
「ついてはいろ〳〵承り度いことも御座いますが」
「何なと訊くが宜い」
村川菊内、すつかり喜んで了ひました。
「第一に、殿樣に奧方はおありでせうな」
「お喜佐樣と言はれる、三十七歳、お歳上だが、貞淑の譽高い方ぢや」
「お里方は?」
「西久保町の矢吹樣、以前は歴とした直參ぢやが──」
「御當主は?」
「御家族と申しては御舍弟狷之介樣たつたお一人。まだ部屋住で、大村樣御邸に掛り人で在られる」
矢吹家が微祿して居ることは、言外の意味でよく解ります。
「殿樣を怨む者のお心當りは御座いませんか」
「無いとは申されぬが、さて、差當り思ひ出さぬが──」
これではなか〳〵埒があきません。
駒形の大村邸に行つた平次とガラツ八は、大變な情景を見せられて了ひました。
通されたのは女中部屋の隣の大納戸。
若い女が一人、長襦袢一枚に剥かれて、キリ〳〵と縛り上げられた儘、疊の上に崩折れて居たのです。
側に立つて居るのは主人の大村兵庫。半面を白布で卷いて、弓の折を杖に、苦痛と憤怒に、火のやうな息を吐いて居ります。
「神田の平次を召連れて參りました」
村川菊内が聲を掛けると、
「お、平次と言ふか、御苦勞であつた。──飛んだ目に逢つてのう、──醫者は動いてはならぬと言ふが、一眼を潰した曲者が如何にも憎い。朝つから休んでは責め、責めては休みぢや。この女の強情が續くか、余の根が續くか──」
兵庫は顏を擧げて苦笑ひしましたが、左の眼の痛みに引釣つて、脂切つた顏は、見る影もなく歪みます。
「證據があるやうに承りましたが」
平次は恐る〳〵顏を擧げました。
「澤山ある、──第一に余が楊弓で眼を射られた時、此女は船に居なかつた。大騷ぎの最中に堤を降りて來たのぢや」
「それは」
平次は口を容れようとしましたが、兵庫はそれに構はず續けます。
「いや、まだある。この女は船へ歸ると、余の傷よりも、楊弓の矢の心配をした、──眼から拔いて側へ置いた血だらけな矢を隱さうとしたのぢや」
「殿樣」
「一年越し世話をした女だ、分に過ぎた事もしてやつてある。その恩も思はず、楊弓で主人の眼を射るとは、不都合と言はうか──」
大村兵庫はこみ上げて來る激怒に、前後を忘れて弓の折を振り上げました。
「殿樣、暫く御待ち下さいまし」
「いや放つて置け」
弓の折は大納戸の淀んだ風を切つてピシリ、お町の肉に鳴ります。
「あツ、ツ」
身體をねぢ曲げて、齒を喰ひしばる女の苦悶の姿は、どうかしたら、兵庫には快よいものに映るのかもわかりません。たつた一つの眼が、苦痛のうちにも妖しく歡喜に輝きます。
「言へツ、女、言はぬか」
兵庫は續け樣に弓の折を振り冠るのでした。
埃臭く、黴臭く淀んだ大納戸の空氣は、美女の苦惱の聲と折檻に絞り出された汗に薫蒸して、言ひやうもなく不思議な匂ひを釀し出すのを、平次は顏を反けて我慢しました。
「殿樣、それは大變なお間違ひで御座います。そのお町さんとか言ふ方は、昨夜月の出る頃から、船の中で騷ぎが始まる迄、私と一緒に堤の上に居りました。──突き當られた八五郎が何よりの證據で御座います」
平次はさう言ひ乍ら、激情に驅られるやうに、兵庫と女の間に割つて入りました。
「それもこの女の口から聞いたよ。平次、一つは、その言葉が本當か嘘か、たしかめる爲に、お前を呼んだやうなものだ」
「──」
「だがな、平次。楊弓を射たのは此女ではない、此女の兄と言つて、時々邸へも出入りした男が怪しいのだ。淺五郎と言ふ遊び人だ。兄と言ふのは、どうせ僞りだらう」
「──」
殿樣は妙に下情に通じて居ります。
「その淺五郎が、昨日向島の土手の上をウロウロして居るのを見た者があるのだ」
「誰方が?」
平次はツイ釣られるともなく口を容れました。
「矢吹狷之介と言うてな、奧の弟ぢや」
「えツ」
「奧の嫉妬からない事を告げ口させる──と言ふやうな疑ひもあるだらうが、それは大丈夫だ。狷之介はまだ十九歳、一本氣の男だ」
「それにしても殿樣、堤の上から、船の中の人の眼玉を射るのは容易の腕前では御座いません。何の某と言ふ楊弓の名人でもなければ──」
「一應尤もだが、平次、まぐれ當りと言ふ事がある」
「へエ」
平次も弱りました。三十そこ〳〵で、放埒で、我儘で、惡く賢こくて、なまじ下々の事に通じて居ては、凡そ扱ひにくい典型的な殿樣です。
「長命寺境内に叔母が居ると言つたのも、大方嘘であらう。その證據には、折檻されてから寺島新田と言ひ直して居る。恐らく土手の上をウロウロする淺五郎の姿を見かけ、それに逢ふ爲に口實を拵へて、一刻あまりも座を明けたに相違あるまい。楊弓で余の眼を射させたのも、二人の談合づくであらう。──斷つてさうでないと言ふなら、淺五郎の住所を言へツ」
兵庫は又お町の頭の上へ弓の折を振り上げました。
「殿樣、──私は、何も存じません。──仰しやる通り淺五郎には逢ひましたが、月の出る前に別れて、お船へ歸つて參りました」
お町の言ふのは本當でせうが、兵庫は、
「僞を申すな、──淺五郎は何處に居る」
少しも責手を緩めようとはしなかつたのです。
「存じません」
「しぶとい女だ。これでもか」
「あツ、ツ、ツ」
續け樣に四つ五つ。
「菊内、代つて打て。眼に響いて叶はぬ」
大村兵庫は弓の折をポンと放つて奧へ入りました。
この邊で少しばかり楊弓の事を説明して置かなければなりません。
言ふ迄もなくこれは寸法二尺八寸の極めて小さい弓。で、初めは楊柳で作りましたが、後にはいろ〳〵の貴い材料で作り、繼弓にして金爛の袋などに入れて持つて歩くやうになりました。
矢は九寸が極り、羽にはいろ〳〵の彩色を施し、七間半の距離から三寸の的を射るのが定法です。一表の矢數は二百本。その中五十本以上の當りには、いろ〳〵の名前が付いたもので、江戸時代の名人と言はれた人には、百八十本以上百九十四五本當てる人は決して少くなく、稀には二百本『皆矢』のこともあつたと傳へて居ります。
室町時代には高貴の方々の遊びであつたのを、江戸時代になつてから、民間の遊戯となり、天保以後は品格が崩れて、美しい矢取女を呼物とする矢場に墮落し、一種の魔窟になつて了ひました。
明治の矢場はその名殘で、明治十九年の取締で廢絶しましたが、天保以前の矢場、即ち結改場はなか〳〵品格のあるものだつたと言ふことです。
楊弓の技に優れた人だつたら、向島の土手の上から、船の中の人の目を射るのは、左して困難ではなかつたでせう、が同時に、それだけの腕を持つた人は、廣い江戸にも幾人もありません。
平次は、この曲者が女や子供ではない。特別な技があるだけに、反つて直ぐ判るだらう──と思つたのは、一應尤もです。
それは兎も角──。
平次はお町の繩を解いて貰つて、一應村川菊内に預け、それから、菊内の引合せで、大村邸内に住んで居るほとんどの人間に逢ひました。
最初に逢つたのは、奧方のお喜佐、──少し淋しい、平凡らしい婦人で、取立てゝ言ふ程の特色はありません。夫兵庫の放埒を止める力もなく、蔭では泣いて居ると言つた型の、消極的な人柄ですが、こんなのが思ひの外嫉妬が強いのではあるまいか──と平次は考へて居りました。
次に逢つたのは、その弟で矢吹狷之介、十九歳の大柄な青年ですが、元服はしても部屋住で、西久保巴町の邸に歸つて、やがて家祿を繼ぐ事になつて居る──と村川菊内が説明してくれます。
「親分」
この若い武家の顏を見ると、ガラツ八は驚いて平次の袖を引きました。あの晩、向島の堤で、船の騷ぎを覗いて居た人間に紛れもなかつたのです。
「平次、お前の腕前は大したものだと言ふな、何分頼むぞ。曲者は間違ひもなくあの淺五郎の奴だ。お町も共謀だらう、──淺五郎が船を追つかけて、向島の堤を往つたり來たりして居たのを、この私が確かに見たんだから間違はあるまい」
狷之介は肩などを怒らし乍ら、こんな事を言ひます。姉の敵と思つて居るのでせう、お町に對してはかなりひどい反感を持つて居さうです。
「その淺五郎を御覽になつたのは、何刻頃でせう?」
と平次。
「申刻半かな」
「何か持つて居ましたか」
「さア、其處だよ。繼弓にしても目に付く筈だが、どうも思ひ出せない」
「貴方樣は、殿樣日頃の遊ばされやうについて、どう考へていらつしやいます」
平次は妙な事を訊ねました。
「打明けて言ふと面白くないな、──兄上もあんまりだ」
青年らしい一本氣で、狷之介の顏にはサツと忿怒が一と刷毛彩られます。
平次はそんな事にして、中間の勝造を呼んで貰ひました。三十七八の中間にしては少し年を取つた渡り者で、隨分摺れては居るやうですが、大した惡人とは思はれません。
「楊弓の巧い人間に心當りはないかえ」
平次が心當りに當ると、
「芝の五郎、未磧なんてのは?」
それは當時聞えた名人です。
「そんなのぢやない。もう少し若いのでは誰だらう」
「淨瑠璃の今井一中がうまいつて言ひますよ」
「少し見當違ひだな」
今井一中は都一中のこと、これも旗本の眼玉とは縁の遠い名前です。
外に女中が三人、小侍が二人、門番が一人。
最後に逢つたのは、庭掃の三吉爺やでした。
「爺さん、お前はあの騷ぎを知らなかつたんだね」
「土手にはろくな酒がないし、お邸には口を開けたばかりの菰冠りがありますから、竹屋の渡しを渡つて、駒形まで飛んで歸りましたよ。三升ばかり取り分けて驅け出さうとすると吾妻橋手前で、幸ひ知つてる船頭衆に逢つて、三圍前のお船まで小船で送つて貰ひました。船から船へ移ると、──今殿樣がお怪我をなすつたと言ふ騷ぎでせう。いや驚いたの驚かないの」
三吉親爺はさう言つて首を振りました。年にしては少し老けて居さうで、顏の皺にも、曇つた眼にも、曲つた腰にも、何となく勞苦が刻まれて居るやうです。出は、上總の知行所、先代の庭掃の株を讓られたまでゞ、身分にも何の變哲もありません。
平次はそんな事にして引揚げることになりました。
「村川の旦那、隱さずに仰しやつて下さい。殿樣はこれまで隨分罪を作つてお出ででせうね」
これが、菊内の胸倉を掴むやうにして訊ねた最後の問です。
「左樣」
「御女中で、目を掛けられたのは、何人位あるでせう」
質問は具體的です。
「お町が三人目で──」
「その前はどうなりました」
「申上げ惡いことだが、──一人は奧方の御憎しみを受けて自害し、一人は不義の疑ひがあつて、御成敗を受けたよ」
「それが怪しいぢや御座いませんか。村川の旦那、その身内の者はどうして居るんです。名前は?」
平次はせき込みました。
「自害したのはお小夜と言つてな。三年前に死んだ時は十八だつた。兩親には過分のお手當を下すつた筈だ。下谷で安樂に暮して居るよ」
「旦那は御存じで」
「よく知つて居る」
「もう一人の方は」
「おせいと言つて二十だつた。──これはもう十年にもなる」
「不義の相手はどうなりました」
「これも死んだよ。當時三十そこ〳〵の好い男だつた。又三郎と言ふ遊び人でな、殿樣に追はれて袈裟掛に斬られたまゝ、大川へ落込んで了つたよ」
「女の身寄は?」
「姉夫婦があつた。これも世間の口がうるさいから、多分の御手當で、今以つて繁昌して居る」
平次は少し胸が惡くなりました。こんな亂倫な旗本の爲に十手捕繩の誇まで犧牲にして、楊弓の曲者を捕へるのが、何だか馬鹿々々しいやうな氣がしたのです。
「親分、何うする積りなんで」
それつ切り十日ばかり、ろくに外へ出ようともしない平次を見ると、ガラツ八の方が氣を揉み出しました。
「何うもしねえよ。寢溜めだ」
「楊弓の下手人は」
「この十年の間、江戸で高名な楊弓の名人を書き上げて貰つて、その道の者に一人々々身元を當らせたが、大村兵庫に怨のあるやうな氣のきかない人間は一人もない」
「淺五郎は?」
「お町の亭主かい、──丁半の心得はあるだらうが、楊弓などに縁があるものか」
「困つたね。親分」
「放つて置くが宜い。俺はお上の御用を勤めて居りや宜いんだ。お町が可哀想だと思つて乘り出したが、──入費は嵩んでも苦しうない──てな事を言ふ武家の紛々なんかに首を突つ込むのは嫌だ」
手の付けやうがありません。錢形平次は全くこんな事を考へて居たのでせう。
その時──。
「親分、──お願ひ」
外から案内も乞はずに轉げ込んだ者があります。
刷毛先を散らして左へ曲げた、色の淺黒い兄哥。唐棧の胸をはだけて、掛け守袋の紐と、腹帶に呑んだ匕首の脹らみを見せようと言つた種類の人間です。
「何でえ。吃驚するぢやないか」
ガラツ八は以ての外の顏を出しました。
「命に拘る大事だ。濟まねえが錢形の親分に逢はしておくんなさい」
「平次は俺だが、──お前は」
八五郎の後ろから顏を出した平次を見ると、
「有難てえ。これで死んでも浮ばれると言ふものだ。あつしは淺五郎と言ふケチな野郎で──」
「あツ、お町の」
平次もガラツ八も驚きました。まさか、兵庫の眼を楊弓で射たと思はれて居る、淺五郎が飛込んで來ようとは思はなかつたのです。
「へツ、お町の阿魔がお世話になつたさうで、あつしからもお禮を申します」
「そんな事はどうでも宜いが、何だつて此處へ飛込んで來たんだ」
と平次。
「あの狷之介の野郎に捉まつて、駒形の大村屋敷に引立てられ、危なく笠の臺が飛ぶところでしたよ」
淺五郎は自分の首を平手でピシヤリピシヤリと叩きました。
「──」
「庭先に引据ゑられて、殿樣が一刀を引拔いて後ろへ立つた時には驚きましたよ。なアに、命に絲目をつけるわけぢやねえ。この首が欲しきア、熨斗を附けてくれてやるが、あの屋敷の中で死んだんぢや無禮討で濟まされるから、これほど詰らねえことはねえ」
「──」
「計略を用ゐて、殿樣の面へ砂を叩き付けると、塀を飛越えて逃出しました。いや驅けたの驅けねえの」
「何だつて俺のところへ飛込んで來たんだ」
平次はまだ腑に落ちません。
「助けて貰はうてんぢやありません。この淺五郎に繩を附けて、奉行所へ突出して貰ひ度いんで──」
「何だと」
淺五郎は大變な事を言ひ出しました。
「大村兵庫の眼を、楊弓で射潰したのは、この淺五郎に相違御座いません。金づくで女房を奪られた怨だ。どんな處刑でも受けますが、その代り、遊び人風情に女出入りで眼玉を射られた大村兵庫も何とかして貰ひませう──とね、斯う申上げる積りで。町方が筋違ひなら、龍の口の評定所へでも、若年寄の御邸へでも驅け込んでやりますよ。兵庫の野郎に腹を切らせて、あの邸にペンペン草を生やさなきア、胸が治まらねえ」
淺五郎は全く眞氣で言ふのですから、手の付けやうがありません。
「馬鹿な事を言へ。お前にあんな器用なことが出來るものか、あれは楊弓の名人の仕業だ」
平次は相手になりません。
「親分、そんな情ねえ事を言つて貰ひたくねえ。あれは紛れ當りだ」
「そんなに都合よく紛れるものか」
「一生懸命になりや、俺だつて、畜生ツ」
「駄目だよ淺五郎。そんな事で平次は騙せねえ。出直すが宜い」
「よし、それぢや頼まねえ。錢形の、平次のと言ふから、もう少し判る人間かと思や、何でえ」
「歸れ〳〵」
「縛らなくつてさ。これから南の御奉行所へ驅け込み訴だ」
「馬鹿な事をしちやならねえ」
平次は驚いて飛出しました。入口で淺五郎を捕まへるのが精一杯。
「放してくれ、親分に用事はねえ」
「それ程まで思ひ詰めたのなら相談に乘つてやらう、先づ入つて坐れ」
「有難てえ。それぢや突出して下さるか、親分、やくざ者が三千五百石の大旗本を背負つて行きア本望だ。三尺高けえ木の上から上總房州を眺めて、淨瑠璃を語つて見せるぜ、親分」
淺五郎は少し有頂天です。
「待て〳〵、そんな話ぢやねえ。お前を突出す代り、本當の下手人を搜して、あの邸からお町を救ひ出しや、それでよからう──そんな事で手をうつちや何うだ」
「有難てえ。親分、未練なやうだが、お町は泣いて居るぜ、助けてやつておくんなさい。恩に着ますよ親分」
淺五郎は涙含んでさへ居りました。
「俺には段々判つて來て居るんだが、あの家の人間が氣に入らねえのと、とりわけ殿樣の面が癪にさはるから、暫らく知らん顏をして樣子を見る積りだつたんだ。──お前に言はれなくたつて、人身御供のお町だけは助けてやりたい。行つて見ようか、八」
「親分」
ガラツ八も妙に涙つぽい眼で平次を見上げました。
「平次、どうだ、曲者が判つたか」
大村兵庫はまだ左の眼に繃帶をしたまゝ、脇息にもたれて平次の方を見やりました。
「大方判つたやうな氣がいたします」
「ほう、それはえらいな。──褒美の金に絲目をつけるわけではないが、お町と淺五郎は、此方で捉まへたのだから、曲者がこの二人のうちなら、其方の手柄にはならぬぞ」
殿樣の生摺れが、又イヤな事を言ひます。
「お町、淺五郎に罪は御座いません」
「はて?」
「他に下手人があつたとしましたら、お町淺五郎の兩名はお許し下さるでせうか」
「許し難いところだが、其方の手柄に免じても宜いのう」
「それでは申上げます」
平次は少し居住を直しました。
縁側に坐つて、存分に春の陽を浴びて居りますが、キリヽとして好い男振りが、場所柄も、主人の傲慢さにも壓服される氣色がありません。
平次の後ろには、お町が菊内に護られて、慎ましく坐りました。
その後にはガラツ八の八五郎、これは少し場うてがして居りますが、それでも親分の號令が掛れば、直ぐにも飛出しさうです。
「お町はいつぞや申上げた通り、あの時、私と八五郎の側を離れません。淺五郎はお町に逢つたのは眞當で御座いますが、それからズーツと、寺島新田の叔母の家に居りました。長命寺境内と申したのは遠方へ行くのはお許がむづかしいと思つたからで御座いませう。これは間違ひ御座いません。それから、もう一つお町が矢を隱したのは、淺五邸に疑ひのかゝるのを心配した取越苦勞からで御座います」
「フム」
平次の話は依然として少しの疑ひを挾む餘地もなかつたのです。
「あの騷ぎの時、所在の判然しないのは、此御邸の方でたつた二人御座います」
「曲者は邸内の者とどうして相判つた」
大村兵庫決して馬鹿ではありません。
「殿樣の人氣と申しませうか、外向の御噂はまことに宜しい方で、御所領の百姓は申す迄もなく、御朋輩、御同役、目付、重臣方にも申分のない評判で御座います」
「左樣か」
少し御世辭になりましたが、兵庫も惡い心持はしなかつた樣子です。
「それに、船の行方を一日つけ廻した淺五郎が、自分の外にあの船を狙つた者はないと申して居ります。若し又堤を通りかゝつた者が偶然船の中の殿樣を御見かけして、折よく持つて居た楊弓で射たと致しますと、あまり物事が都合よく纒り過ぎます。そんな廻り合せは滅多にある筈は御座いません」
「成程」
「すると、三圍前にお船のとまつて居る事を知つた者が楊弓を用意して、丁度月の出前の暗い時刻を見測らつて射たと見るのが順當で御座います」
「よく判つた。ところで、あの時刻に所在不明の二人と言ふのは誰と誰だ」
「申上げる前に、三人の女中を除いて、あとの方御一同、これへ御召を願ひます」
平次は大村兵庫の邸にお白洲を開く積りでせう。奧方お喜佐、弟狷之介、愛妾にして女中のお町、用人村川菊内、中間勝造、庭掃の三吉爺を始め、二人の小侍、門番、──までズラリと竝べました。
「これで宜からう。曲者は訟だ、名指して見るが宜い」
大村兵庫は一刀を引寄せます。
恐ろしい緊張が、縁から庭に流れた。男女十數名の顏をサツとかげらせました。
「それを申上げる前に、少しばかり、古いことを思ひ出して頂き度う御座います。今から十年前、格別の御目を掛けられた召使おせいといふ娘、不義の惡名を負はされて御手討になつた事が御座います」
「──」
「眞實は不義ではなく、許嫁の良夫があつたので御座います。又三郎と言ふ遊び人で好い男ではあつたが、至つて向う見ずで、殿樣に召された許嫁のおせいと、御邸の木戸のところで逢引して居るところを見付けられ、おせいは一刀の下に斬られて相果て、又三郎は逃げる背後から袈裟掛に斬られたまゝ大川に落ちて相果てました」
「──」
大村兵庫は痛いところに觸られて、ムズムズして居りますが、平次の調子に淀みがないのと、一つも嘘が交らないので、口の出しやうがありません。
「──いや、死んだと思はれて、其實人に助けられ、傷養生をして丈夫になつたので御座います。又三郎は袈裟掛に斬られたに相違ありませんが、刀尖が伸びなかつたので、背中を斜に一尺も割かれ、大變な出血で、暫らくは命が助つても起上る力もなかつたことで御座いませう。でも、取つて三十の又三郎は、どうやら斯やら起出すと、其儘上方へ飛んで、知り人の金で本式の結改場(矢場)を開きました」
「──」
一座は矢場と聞いてザワザワとなりました。
「それから十年、商賣の楊弓を稽古してしつかり磨き、京に幾人といふ名人になつた又三郎は、名と姿を變へて此御屋敷に入り込み、殿樣に怨を酬いる折を狙つたので御座います。江戸の楊弓番附をどんなに調べても、殿樣に怨を持つ者のなかつたのはそのわけで御座います」
「誰だ、その曲者は」
大村兵庫はたつた一つの眼を光らせて見廻しました。四十前後と言ふと、村川菊内、中間勝造、それに二人の小侍がありますが、いづれも曲者らしくはありません。
「あの時所在の判らなかつた二人のうちの一人で御座います」
「誰だ、それは」
「一人は狷之介樣、──併しこれは又三郎にしては若過ぎます」
「──」
狷之介は默つてうつ向きました。何にかやましい事があつたのでせう。
「奧方の御憤りを思ひやられるのは、御姉弟の情として御尤もですが、曲者を御見逃しになつたのは御手落で御座いました」
「それは眞實か、狷之介殿」
兵庫の一つの眼はギラリと光ります。
「尤も、なまじ曲者を捉へ、これが表沙汰になつては、反つて御家の瑕瑾になると覺召された事でせう。下賤の者に楊弓で眼を射られたと知れては、御身分に拘りませう。狷之介樣の遊ばされ方は、御褒めになつて宜しいかと存じます。尤も、お町を憎しみの餘り淺五郎に罪を被せようとなすつたのは面白くありませんが──」
「フーム」
上げたり下げたりです。
が、兵庫はこれで堪能し、狷之介はすつかり油を絞られた形です。
「ところで曲者は?」
重ねて問ふ兵庫には答へず、平次は庭の方へ向直りました。
「又三郎、背中の傷痕を見せて上げな」
「へエ」
何と言ふ事。
素直な返事をしたのは、五十七八、六十近い老人と見えた、庭掃の三吉だつたのです。
「眞つ平御免ねえ」
パツと肌脱になつて後ろを向くと、頸筋から背中へかけて、斜一文字に、物凄い古傷の痕。
「己れツ、不屆な奴」
一刀を提げて大村兵庫は立ち上りました。續いて、村川菊内も、二人の小侍も──。
「御待ち下さい。表沙汰にすると、家名に拘はりますぞ。狷之介樣、殿樣を御留め下さい」
平次と狷之介とガラツ八が一生懸命宥めて居るうちに、柄に似ぬ輕捷な三吉の又三郎は、二つ三つ跳んで、木戸から路地へ、往來へと逃げ去つて了ひました。
「逃がしてはならぬ、それ追へツ」
と兵庫、縁側から庭へ、足袋跣足で飛降ります。
「殿樣、それはなりません。あれは一度斬られて死んだ男の幽靈で御座います。強つて捉まへても成敗のいたしやうがありません。公儀の御耳に入れば、あの男の命一つと、三千五百石の御家が釣り替になつた上、一つ間違へば殿樣の腹切道具になります」
平次は木戸に突つ立つて、兩手を擴げて押し止めました。
「殿、穩便の御沙汰を願ひます」
「邸外への聞えも如何、平に御鎭まりを」
村川菊内外一同、寄つてたかつて兵庫を座敷へ押上げて了ひました。
× × ×
「どうだ八、溜飮が下つたらう」
「その代り褒美はフイになつたぜ、親分」
「慾張るな、三吉を逃した上、お町さんを貰つて來たんだ。なア、淺五郎が神田の家で待つて居るぜ」
平次はさう言ひ乍ら、後ろからイソイソと從いて來るお町を顧みました。
「狷之介が曲者を見たと何うして解つたんで、親分」
「相變らず繪解きか。あの晩三圍の前で船の騷ぎを面白さうに見て居たからさ──投げ槍か、刀、鐵砲でやられたのなら、狷之介に相違ないと思ふところだが、曲者は楊弓の名人と解つて居るから迷つたよ」
「三吉が曲者と解つたわけは」
「船の居る場所を知つて、楊弓を用意して來る隙のあるのは三吉だけさ」
「それにしても酒を持つて船で來た筈だが──」
「それが詭計だよ。往きは渡船で行つて、歸りに知合の船頭に頼んで船に乘せて貰つたと言ふのが可怪しいと思はなかつたかい。──あれは、船頭を一人仲間に引入れて、少し下手の土手に着けさせ、そつと登つて、堤傳ひに船の上へ行くと、狙ひを定めて矢を射たのさ、──當つたと見ると、繼弓を疊んで元の場所へ引返し、船を中流まで出して、宜い加減のところから漕ぎ戻らせ、今向う岸から來たやうな顏をしたのだらう。船から船へ乘移つたのが疑はせない手だよ」
「どうしてそれが解つたんで、親分は?」
「楊弓の名人は、どんなに道具を大事にするか知つてるだらう。紫檀の繼弓を捨てる位なら、自分の身體を隅田川へ捨て兼ねないよ。──俺はさう氣が付いたから、村川の旦那に頼んで、そつと三吉の荷物を搜さしたのさ。三吉もそれを察したらしいが、あはよくば三千五百石の殿樣を抱いて自首する積りで、逃げも隱れもしなかつたのだよ。それにあの男は風呂へ入るところを人に見られるのをひどく嫌つて居たさうだ。背中の傷痕があるからだ」
「又三郎は四十そこ〳〵ぢやありませんか、三吉はどう見ても五十七八、六十位に見えるが」
「大怪俄で精氣を費ひ盡したのだらう。それに人の三倍も五倍も苦勞をした。その上少し顏へ細工をして、年よりは十七八老けて見えるやうになつたから、平氣であの屋敷へ入つたのさ。生れは上總の知行所だから、住込むとなると、わけはなかつたらう」
「變な仕事だつたネ、親分」
「笹野の旦那には叱られるだらうが、宜い心持さ。岡つ引もこれだから滿更ぢやねえよ」
人を縛らない時は、本當に朗らかな平次だつたのです。
底本:「錢形平次捕物全集第六卷 兵庫の眼玉」同光社磯部書房
1953(昭和28)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1935(昭和10)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年5月24日作成
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