錢形平次捕物控
井戸端の逢引
野村胡堂
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「へツ、へツ、親分え」
ガラツ八の八五郎は、髷節で格子戸をあけて、──嘘をつきやがれ、髷節ぢや格子は開かねえ、俺のところは家賃がうんと溜つて居るから、表の格子だつて、建て付けが惡いんだからと──、錢形の平次は言やしません。
兎も角、恐れ入つた樣子で、明神下の平次の家へ、八五郎はやつて來たのです。
「此方へ入んな、何をマゴ〳〵してるんだ」
平次はツイ、長火鉢の向うから聲をかけました。入口の障子を開けると、家中が見通し、女房のお靜が、お勝手で切つて居る、澤庵の數までが讀めやうといふ家居です。
「それがね、親分、少し敷居が高いんで、へツ」
「いやな野郎だな、敷居が高かつたら、鉋でも持つて來るが宜い、土臺ごと掘り捨てたつて、文句は言はねえよ」
「さう言はれると面目次第もねえが、あつしは生れてからたつた一度、親分に内證で、仕事をやらかさうとしたんで」
「何んだ、そんな事か、恐れ入ることは無いぢやないか、お前も立派な一本立ちの御用聞だ、うまい具合に酒呑童子を縛つて來たところで、俺は驚きはしないよ、一體何をやらかしたんだ」
錢形平次は一向氣にする樣子もありません。それよりは、何時までも平次の子分で甘んじてゐる八五郎を、早く一本立の立派な御用聞にして、嫁でも貰つてやりたい心持で一ぱいだつたのです。
「それが、そのね、最初から話さなきやわかりませんが──極りが惡いなア、親分」
八五郎は言ひそびれて、ポリ〳〵と小鬢を掻いたりするのです。
「極りなんか惡がる面ぢや無いぜ、お前は」
「極りの方で惡がる面でせう、その台詞は何度も聽きましたよ、──ところがね、親分、あつしが、生れて始めて、戀文をつけられたとしたらどんなもんです」
「ウフ、ツ」
「嫌だなア、さう言ふ下から、親分は直ぐ笑つてしまふでせう」
「笑はないよ、笑はないと言つたら、金輪際笑はないよ、俺は今、死んだお袋のことを考へてゐるんだ」
「笑はなきや言ひますがね、天地紅の半切に、綺麗な假名文字で、──一と筆しめし上げ〓(まいらせそうろう)──と來ましたね、これならあつしだつて讀めますよ」
「その手紙は何處にあるんだ、俺が讀んだ方が早く埒があきさうだ」
「口惜しいことに、書いた娘に取り戻されてしまつたんで、もう讀んだ上は要らないでせう、とグイグイ」
「何んだいそのグイグイといふのは?」
「丸い肱で、あつしの脇を小突いたんですよ」
「まあ、そんなことは、いづれ春永に伺ふことにして、手紙の文面は」
「一と筆しめし上げ參らせ候」
「それはわかつた、その先は?」
「八五郎親分樣には、いよ〳〵御機嫌のよし、目出度く存じ參らせ候」
「わかつた、その先は?」
「今夜四つ過ぎ人目を忍び中坂下の井戸のところまで御出で下されたく、命をかけて待ち上げ參らせ候、かしく──と、斯う言ふ手紙を、親分に見せられますか」
「相手は誰だ」
「こと──とだけ、何んにも書いちや居ません、でも若くて綺麗な女には違ひありませんね」
「恐ろしい早合點だな、どうして若くて綺麗なんだ」
「文使ひの親爺が言ひましたよ、──親分、奢つて下さいよ、この手紙を、十九か二十歳の可愛らしい娘に頼まれましたよ、──とね、それから」
「まだあるのか」
「あとは口上で、──決して怪しい者では無い、お目にかゝればわかります、どうぞ助けると思つて、あの井戸のところまで、お出で下さい──と」
「行つて見たら、お化が出たといふ話ぢやないのか」
「そんな間拔けな話ぢやありませんよ、現にこのあつしが」
八五郎は首を縮めてニヤニヤするのです。
その晩八五郎は、大めかしにめかし込んで、九段の中坂までやつて來ました。と言つても目印の井戸のあつたのは坂下で、其處で逢引しようといふのは、少し薄寒くもありましたが、そんなことを考へても居られません。
第一手紙は八五郎にも讀める假名文字ですが、筆跡もまことに見事で『こんや來ておくれよ、後生だから』とよく羅生門河岸のあの妓が書いてよこすのとは變り、方式通り天地紅の結び文、開くとプーンと白檀が匂つて、文字だつて何んとか流の散らし書きで、〓(まいらせそうろう)〓(かしく)──と優にやさしく結んであるのです。
その頃の九段は、今からでは想像もつかない淋しいところでした、井戸は九段下にも、中坂にも明治の末まで殘つて居り、決して逢引などをする場所ではありませんが、八五郎をこんなところに呼んだのは、何んか思惑があつての仕業でせう。
江戸一番のフエミニストの八五郎は、そんな事を考へるやうには出來ては居ず、浮世草紙の若旦那が貰ふやうな色文を貰つて、すつかり有頂天になつたのも無理のないことでした。
時候は二月の末、梅には遲く櫻には早く、忍ぶには誂へ向の月の無い晩ですが、井戸の側まで行くと、──合圖の手拭か何んかでせう、チラ〳〵と白いものが、八五郎を招くのです。
「八五郎親分でせう」
優しく香はしく、ほの〴〵とした若い聲でした。
「俺は八五郎に違げえねえが、お前さんは?」
八五郎は闇の中を透しました。
「あれ、知つてるくせに、柳屋の琴ぢやありませんか」
「あ、お琴さんか」
八五郎は膽をつぶしました。美しくも、やさしくもある筈です。飯田町二丁目、ツイ其處の裏路地に、近頃のれんを掛けた小料理屋の娘で、お琴、お糸といふ姉妹の一人、なか〳〵のきりやうと、取まはしのよさに、界隈の安御家人、中間小者の間に、大した評判になつて居る娘だつたのです。いや、暗くてよくはわかりませんが、その蓮葉な調子から、姉のお琴に間違ひもありません。
「でも、よく來て下すつたわねえ、──お狐にでも化されると思つたでせう」
「何んだつて、こんな古風な手紙なんかで呼寄せたんだ」
「人樣に書いて頂いたんですもの、色文なんか、人に頼んで書かせるものぢやありませんわね、それやもう、じれつたいといふことは、ウ、フ」
かう含み笑ひをされると、八五郎はどんな不合理も忘れてしまひます。
「で、どんな用事なんだ」
「ま、極りが惡い、親分といふ人は、開き直つて訊いたりして」
叩いた袖がフワリと宙に浮いて、柔かい娘の腕だけが、八五郎の首筋に觸ると、サラサラと頬を撫でる洗ひ髮が、八五郎の胸をときつかせます。
「わかつた、わかつたよ、もう何んにも訊かねえが、此處に立つて居ちや、寒くて叶はねえ、お前の家へ入らうぢやないか、ツイ其處だもの」
「それがいけないの、──うちの主人は、岡つ引とゲジゲジが大嫌ひで──ま、御免なさい、ツイそんな事を言つてしまつて」
「構はないよ、それから」
「少し我慢して下さいね、私は八五郎親分と、ゆつくり話して居たいんですもの」
「それは宜いが、かう暗くちや」
「構はないぢやありませんか」
「でも、顏だけでも拜ましてくれよ」
「勘辨して下さい、私が此處に居るとわかると、困つたことになるんです」
少し行くと、柳屋の灯が射して、お琴の顏位は見得るのですが、あの中には、顏を見られたくない人が居るとやらで、娘は井戸端を離れようともしません。
「で、俺を呼出した用事は?」
八五郎は危ふく職業意識を取戻しました。お琴の態度は、申分なく馴々しく、色つぽくさへあるのですが、唯簡單な情事で、八五郎を呼出したのでは無ささうです。
「いろ〳〵聽いて頂きたいことがあるんです、私の身分や素姓、それから今困つて居るいろ〳〵のこと」
「話すが宜い、聽いてやらうぢやないか」
「あれ、又、あの人が來て、私を搜して居る、本當にどうしませう」
さう言へば柳屋の家の中では、醉つた男のわめく聲が、井戸端まで手に取るやう。
「誰だえ、あれは」
「三丁目の大野田仁左衞門の伜金之助、旗本だか、なんだか知らないけれど、毎晩四つ(十時)といふと、此處へやつて來て、私を追ひ廻すんですもの──」
お琴は、たまらなさうに身を揉むのです。
「でもかうして居ては惡からう」
八五郎は大通のやうに粹をきかせました。折角呼んでくれたお琴は、自分に何んか話したいことがある樣子ですが、何時までも引留めて居ては、お琴のために、惡からうと思つたのです。
「それぢや、一寸行つて宥めて來ます、ちつと待つて下さるわねえ」
「あ、宜いとも」
「歸つちや嫌よ、本當に、八五郎親分に聽いて貰ひたいことがあるんだから」
「大丈夫歸りやしない、夜つぴてでも待つて居るよ」
「嬉しいわ、では指切り」
眞つ暗な井戸端、手と手を探るやうに指切りをすると、綿細工に血の通つたやうな、でもヒヤリと冷たい娘の掌が、八五郎の感觸に、異る興奮を誘ふのです。
暫らくすると、醉つ拂ひのダミ聲が鎭まつて、娘はまた井戸端に歸つて來ました。
「お待ち遠さま」
言葉少なに言つて、そつと八五郎に寄り添ふと、今度は化粧を直して來たのか、伽羅油の匂ひが、艶めかしく、八五郎の頬を撫でます。
「甚助野郎は鎭まつたのか」
「えゝ、どうやら」
「それぢや話してくれ、お前の用事──さう〳〵素姓から始める筈だつた」
「待つて」
娘は不安さうに身體を曲げて、柳屋の方を透して居りましたが、
「どうしたんだ」
「シツ、靜かに」
柔かい暖かい掌が、八五郎の唇を押へるのです。先刻と違つて、家の中に何かあつたのか、ひどく神經質になつて居る樣子です。
二人は默つて、井戸端の柳に凭れて居りました。柳屋の中は、すつかり鎭まつた樣子ですが、娘は何に脅えたか、八五郎から誘つても、容易に唇を開かうとはせず、その間に、不安な時が經つて行きます。
若い娘──馥郁たる若い娘の手を取つたまゝ、井戸端の柳に凭れて、ヂツとして居るのは、八五郎に取つては、全くの新らしい經驗で、夜はこのまゝ、三日位續いたところで、大した退屈も感じなかつたことでせう。
「ね、お琴」
やゝ暫らく經つて、八五郎は恐る〳〵聲を掛けました。握つた手は思ひの外温かく少し汗ばんで、小刻みに顫へて居るのを、八五郎は意識したのです。
「──」
「一體これは、どうしたことだ」
「默つて、──私は怖い」
漆の闇で、顏の表情はわかりませんが、お琴は容易ならぬ恐怖に襲はれて居るのでせう。
その時不意に、──それは全くの不意でした。柳屋の家から恐ろしい悲鳴が聞えて、人が八方に飛出しました。
「なんかあつたのかな」
「行つて見ませう」
さう言ふ間もなく、お琴は八五郎の手を振り切つて、柳屋の中に驅け込んでしまひます。
「早く醫者を」
何樣唯ならぬ樣子で、人々は右往左往して居ります。
何が何やら、わけのわからぬまゝに、お琴の後から柳屋ののれんをくゞると、
「八五郎親分、大變なことが、──丁度宜いところよ、見て下さいな」
もう一度飛出して氣たお琴、八五郎の手をひいて、柳屋の店の中に飛込むのです。
「何が始まつたんだ」
「大野田の金之助樣が」
「どうした」
「突殺されて」
「何?」
それは全く大變なことでした。飯田町三丁目に住んでゐる、三百五十石の旗本、大野田仁左衞門の伜金之助が、場所もあらうに、中坂下の小料理屋、柳屋の奧の一と間で、首筋を刺されて死んで居たのです。
八五郎の話はこんなものでした。明神下の平次の家へ行つたのは、その翌る日の朝、一と通り説明すると、重荷をおろしたやうに、ホツとして煙草盆を引寄せるのです。
「それからどうしたんだ、話はそれつ切りか」
「まだありますよ、金之助は左の首筋を深くゑぐられ、──お琴、お琴──と言ひ乍ら、間もなく息を引取つてしまひました、當のお琴は、中坂下の井戸端で、私と逢引の最中、と言つたところで、ツイ今しがたまで、手を取合つて居たんだから、金之助を殺す筈はありません。死に際の妄想で、惚れた女の名を呼んだことでせう」
「で?」
「それからは大變な騷ぎでしたよ、何しろ柳屋の奧の一と間──四疊半は血の海だ、早速大野田家へ知らせると、主人の仁左衞門と用人の禿げ頭と飛んで來ましたが、たつた一人の伜金之助が殺されて居るのに、涙一つこぼさず、言ふことが宜い」
「──」
「これが表沙汰になると、大野田の家名に拘はる、佛は暗いうちに引取るから、何事も穩便に濟ましてくれるやうに──と伜の敵を討つことなどは考へても居ません、侍なんてものは、不人情なものですね」
「ありさうなことだな」
「柳屋には、後の掃除料といふことで、いくらか包んだやうですが、柳屋の主人勘六のニコニコした顏を見ると、いづれ纒まつた額でせうが、二三日商賣を休んで、疊でも換へたら、又商賣を始めるんだと言つて居ましたよ。何しろあの邊は人の惡いので有名な御家人町だが、中間小者が多いから、飮屋が大繁昌でいつまでも休んでゐるわけには行かないでせうよ、それに柳屋はお琴とお糸の二人の娘を看板に、大した勢ひですからね」
八五郎は今更持て餘して、親分の平次を誘ふのでした。事件が面白くて、骨折甲斐があるとわかれば、損得に構はず、乘出さずには居られない、平次の探求本能をよく心得て居たのです。
「だが、そいつは俺が乘出すまでもあるまいよ、相手が三百五十石の武家ぢや、發き立てたところで後がうるさい、お琴とか言ふ娘に、古文眞寶な色文を貰つた因縁で、お前が一手に引受けて調べて見ちやどうだ」
「やつても構ひませんかね」
「言ふ迄もないが、見當は、お琴がお前に用事があつて呼出したに違ひあるまいから、改めてその用事を聽き出すんだ」
「へエ?」
「それから、お糸といふ妹の方の娘は、この時何處に居たか?」
「そいつはわかつて居ますよ」
「感心に氣が付いたね」
「お糸は可哀想に寢たつ切りですよ、物置のやうな裏二階で、──たつた十九になつたばかりで、姉のお琴よりもきりやう良しですが、癆症の氣味で三月も起きません」
「それは氣の毒だな」
「毎日夕方から熱が出るんださうで、あつしも一寸逢ひましたが、青白くて、お人形のやうな綺麗な娘ですよ」
八五郎はこのお糸にも精一杯の好意を寄せて居る樣子です。
「それから、外に、柳屋の家の者は?──」
「喜三郎といふ若い男が居ますよ、使ひ走りから出前持、用心棒にもなるわけで」
「年の頃は?」
「二十五六でせうか、ちよいと良い男で」
「?」
「柳屋の女房はお米といふ三十七八、色つぽい大年増ですが、口がうるささうで」
「それつ切りか」
「柳屋の主人の勘六だつて、脂切つた親父ですよ、お糸が病氣で手が足りないから、女房のお米を客の相手に出すと、その後で燒餅喧嘩が大變なんださうで、近所でもそれが評判ですよ。何しろ亭主の勘六は板前もやつて居るから、時々は商賣道具の出刄庖丁を振り廻したり──」
「昨夜、大野田の伜を殺した刄物は何んだ」
「殺された金之助本人の脇差ですよ、それを首筋へ打ち込んで死んでゐたんだから、間違ひありません」
「鞘は?」
「傍に轉がつて居ました」
「そんな事なら、下手人は直ぐわかるだらう、もう一度行つて調べて見るが宜い」
「へエ」
「お琴お糸姉妹の素性を調べるのだ、それから、大野田の家を怨むものは無いか?」
「?」
「殺された金之助の身持」
「それはもう滅茶々々で、二本差の子のくせに、あんなタチの惡いのはありません、女を騙す、博奕は打つ、押借、ゆすり位やり兼ねない男で」
「腕は?」
「大なまくら、威張り散らすだけで、いざとなつたら、何んの役にも立たなかつたでせうよ」
徳川の直參も太平に慣れて、そんな心細い武士が次第に殖えて行くのを防ぎやうもありません。
「親は、默つてそれを見て居たのか」
「一人息子で、甘やかし放題、昔は堺御奉行の與力で、隨分鳴らした大野田仁左衞門ですが、此節は無役で、裕福に暮らして居ますよ」
「それだけわかつて居れば、大したものだ、もう一と息押して見るが宜い、大野田の家を潰しても仕樣があるまいが、調べるところまでは調べて置きたい」
錢形平次の本能が、このまゝでは濟みさうもありません。
「さうでせうが」
「もう一つ、大野田家は金之助が一人息子だと言つたね」
「さうなんで」
「金之助は病死のお屆でも濟むが、すぐ跡取を立てなければなるまい、それがどうなるか氣をつけることだ。兎も角、俺は構はないから、そのお琴とか言ふ娘と相談して、お前一人で調べて見るが宜い」
「やつて見ませうか」
お琴を相棒にと言はれると、八五郎は急に威勢がよくなります。
八五郎はもう一度飯田町に引返しました、平次にさう言はれて見ると、大野田家と柳屋が、この事件を表沙汰にすることを好んでも好まなくても、岡つ引の建前として、トコトンまで調べ拔いて、下手人の顏を見てやりたい心持で一パイだつたのです。
「おや、八五郎親分、何んか又御用で?」
柳屋の主人勘六は、甚だ面白からぬ顏をするのです。
「心得のために、一應調べて置きたいのさ、お目付衆の耳に入れるわけぢやない」
「へエ、どうぞ御自由に」
さう言ふ勘六を尻目に、八五郎はお勝手口から入り込みました。
金之助の死體は、夜の明けぬうちに、吊り臺で三丁目の大野田家に移しましたが、したゝかに血を呑んだ疊は、急に處分するわけにも行かず、そのまゝにして、次の夜の來るのを待つて居ります。
「ま、八五郎親分、お待ち申して居りました、今日はもう、唯はお歸ししませんよ、昨夜のお禮も申上げなきや」
あの惱ましき女房のお米が、奧の一と間に案内して、ポン〳〵と手を拍くのです。
三十七八の大年増、盛りこぼれさうな色氣を發散して、あらゆる男性を牽き寄せようといふ作爲は、本人はどう考へて居やうと、はたから見ると、相當以上に扱ひ憎いものです。
「御呼びで?」
そつと唐紙を開けて、顏だけ見せたのは、姉娘のお琴でした。襟の掛つた地味な袷、白粉つ氣無しの、健康さうな白い肌、少し公家眉で、受け口で、女將に知れないやう、そつと挨拶を送ると、まことに非凡の媚です。
「何んか見つくろつて、一本つけて來ておくれ、それから暫らく此處へは誰も入れないやうに」
行屆き過ぎるほどの指圖です。
それからざつと小半刻、ホロ苦い酒を呑まされ乍ら、八五郎は散々口説かれました。町方の耳に入つては、もうどうにも仕樣が無いが、表沙汰になれば、お上の評判のよくない大野田家は、取潰しになるにきまつて居る、伜一つの命にも代へられないから、この一件は是非内證にしてくれといふのです。
「すると大野田の旦那は、金之助さんの敵を討つ氣は無いのか」
「いえ、親ですもの、大野田の殿樣も、若旦那樣の敵を打つてやりたいのは山々ですが、それよりは三百五十石のお家が大事で──」
お米までが、お家大事の思想にかぶれて、八五郎の口を塞ぐことに必死です。
尚ほも突つ込んで訊くと、大野田仁左衞門は、堺奉行の與力として、なか〳〵の腕利きと噂され、異人の取引にも、いろ〳〵手柄を立てましたが、拔け荷のことから妙な噂が立ち、御役御免になつて江戸に歸り、そのまゝ五年、七年、裕福で安穩な日が經つたといふのでした。
「殺しがあつたに違ひないから、相手は何樣であらうと、調べるだけは調べ、一應八丁堀の旦那方へ、お知らせしなきやならないのさ、それから先のことは、こちとらは知るものか、惡く思はないでくれ」
「──」
八五郎にさう言ひ切られると女將のお米も、取付くしまもありません。
「ところで、金之助樣はこの店に毎晩來るのか」
「毎晩といふ程でもありませんが」
「まア、毎晩見てえなものだらう、その目的は、お琴か、お糸か」
「お糸はあの通りの病人ですから」
「ところで、そのお琴の方は」
「あの娘は強情で、お酒の相手しかしてくれません」
「へツ、頼もしいところがあるね」
八五郎はツイ思つたことを言つてしまひました。
「頼もしいもんですか、三百五十石のお旗本の惣領をフリ飛ばすなんて」
「ところで、そのお琴は何處の娘なんだ」
「生れは上方だと聽きましたが」
「請人があるだらう」
「それが、ね、その」
かう言つた曖昧茶屋などは、確とした請人も證文もなく、氣輕に安値に人身賣買が行はれたのでせう。
「お前は、喜三郎ぢやないか」
女將の部屋を出た八五郎は、チヨロチヨロと庭を拔ける、氣のきいた小男に聲を掛けました。二十五六の、いかにもキビキビした男前です。
「何んか御用で」
「何んか御用ぢやないよ、俺と女將の話を聞いてたんだらう」
「そんなわけぢやございません、ちよいとその薪を取りに」
「薪はお座敷にあるわけは無え、まア宜いや、聞かれて惡い内密事を話して居たわけぢや無いから」
「へエ」
「ところで、お前は、お琴に夢中だつてね、隱すな、證人は二、三十人もある」
「御冗談で親分、あつしの方で夢中だつたところで、お琴さんは氣位が高いから相手にもしてくれませんよ」
「お琴さんに氣があると、お前はツイ大野田の金之助さんを憎いと思つたことだらうな」
「飛んでもない、あの方はお武家で、こちとらとは身分が違ひます」
武家の子と町人の子──それも出前持の若い男が、鞘當の出來る世の中ではありません。
「おや、あれは?」
八五郎はフト二階を見上げました。中庭を隔てた二階の障子が開いて、お琴はひらりと其處へ入つて行くのです。
「あれは?」
「お糸さんの部屋ですよ、──あの人は妹思ひだから、一日に何度となく行つてやります」
「さうか」
八五郎は喜三郎に背を向けると、お琴の入つた二階へ訪ねて行きました。
「御免よ」
「──」
それは北向の寒さうな部屋で、病間といふよりは、納戸に疊を敷いたやうなところでした。
「開けても宜いか」
「待つて下さい、──八五郎親分でせう」
お琴の聲は、彈み切つて居りました。
「見せたくないと言ふのか」
「いえ、若い女の病間、むさ苦しいところを、殿方には」
「ウ、フ、殿方と來たか、心配するな、こちとらは、そんな事に驚きはしない」
「ではどうぞ」
「御免よ」
一と思ひに障子を開けると、プンと藥の籠つた臭ひ、中に寢て居るのは、十八九の若い娘ですが、姉に助けられて起直ると、それでも床の上に坐つてお行儀よくお辭儀をするのです。
若い顏、ポーツと顏を染めた、消耗性の熱、濃い眉、やゝ下脹れで、それは清らかな美しい娘でした。こんな娘を、こんな境遇に陷し込んだ、貧苦か逆境か、兎も角容易ならぬ物の間違ひに、八五郎はフト暗い氣持になります。
「昨夜はお世話になりました」
「お世話?」
八五郎はお琴の言葉をフト聞きとがめました。あの一刻ほどの逢引、何んの意味があつたわけで無いにしても、八五郎はお禮を言はれる筋合では無かつたのです。
「あんなことで、申上げることも申上げずにしまひました」
「それぢやまた、井戸端で」
八五郎はあんな逢引なら、幾度でもやつて見たいやうな心持です。
「いえ、もう澤山、でも、八五郎親分にはいろ〳〵申上げたいことがあります、もう一度」
「もう一度」
「今晩、この家へ」
お琴は眼顏にものを言はせて、八五郎に呑込ませるのです。
「それにしても、不思議でたまらねえのが、お前達二人の素姓だ。今までは唯の茶屋女と思つて居たが、今日は急に改まつて、言葉から物越しまで、唯の娘ぢやねえ」
八五郎にもそれはよくわかりました。
「それもいづれ、今晩はわかります」
「それが本當なら、きつと來るよ」
「庭から入つて、石燈籠を足場に、二階へ──あとは心得て居りますから」
お琴は尚ほもさゝやくのです。
「ところで、お糸の病氣はどうだ、顏色が良くねえやうだが」
「大したこともございません」
ニツコリ笑つて肩を落すと、髮だけはたしなみよくあげて、細い首筋が重さうなのもあはれでした。
「それぢや大事にしねえ」
八五郎は妙に心ひかれ乍ら、二人の姉妹を後にしました。梯子段の下には女將のお米が、二階の話を氣にして眼を光らせて居ります。
その晩八五郎は、お琴に教はつた通り、柳屋の庭木戸を押して、石燈籠を踏み臺に、二階の欄干をまたぎました。
幸ひ柳屋はまだ商賣を休んで居るので、誰も見とがめる者はありません。
「──」
そつと手を握るものがあります、柔かいが冷たい手です、驚いて聲を立てようとすると、
「お願ひですから、八五郎親分、どんなことがあつても、聲を立てないで下さい、默つて聽いて居て下されば、おしまひには、何も彼もわかることですから」
それは聞き覺えのあるお琴の聲です。頬を撫でる香はしい娘の息を感じて、八五郎は闇の中でコツクリコツクリうなづきます。
「さア、此方へ」
導かれたのは、梯子の上の、狹い納戸でした。つまり二階の納戸を二つに仕切つて、大きい方はお糸の病室に當て、小さい方は納戸のまゝ、ガラクタを詰めてあるのでせう。
そのガラクタの中に、八五郎は僅かの隙間を見付けて踞みました。と間もなく二階に灯が入つて、下には少し權柄づくの人聲、それは、昨夜も此處へ訪ねて來た、旗本大野田仁左衞門がたつた一人、
「お琴、お糸といふ、二人の姉妹に逢ひたい、明日までは待たれぬ急用だ」
精一杯殺したダミ聲が、二階の八五郎の耳にはよく響くのです。
「いや、──二階に居るなら、それで宜い、案内には及ばぬ」
先に立つた内儀のお米を、梯子段の下から追ひ歸して、大野田仁左衞門がたつた一人、二階にやつて來ました。何んとなく、憤々とした足取りです。
「入らつしやいませ」
それを迎へたらしい、お琴の聲です。
「お前一人か」
「妹は容態が惡くてお目にかゝれません、お詫びを申上げます」
「何、お前達姉妹は、何をこの私に言ひたいのだ」
「お怨みを申し上げたいと存じます」
「何?」
間髮を容れぬお琴の言葉に、大野田仁左衞門はハツとした樣子です。
「お聽き下さい、大野田樣」
「いや聽かぬ、今晩、此處へ來てお琴お糸二人の姉妹に逢へば、伜金之助を害めた下手人を教へてやるといふ手紙があつたから參つたのぢや」
「まだ外にも、文句があつた筈でございます」
「万一、拙者がこの家へ來なければ、伜金之助、人手に掛つて殺された一埒を、御目付衆に訴へる──と」
「それはもう、龍の口へ訴状として差出しました」
お琴の言葉は、冷たくキビキビして居ります。
「何? 龍の口へ──それは本當か、何んの怨みで、大野田家へ、そのやうな」
大野田仁左衞門、ひどくあわてた樣子です。
「お心付きはございませんか、私と妹は、泉州堺の住人、祝圓之丞の娘──」
「な、なんと」
「母はお梶と申しました、七年前、其方堺御奉行與力を相勤め、母上に無體の戀慕、父上を拔け荷扱ひの罪に陷入れ、祝家の身上を悉く奪ひ取つた上、父上を獄死させ、母上を手に掛けた極惡非道の振舞」
「何、何を證據に、左樣なことを」
あまりの不意の訊斷に、大野田仁左衞門さすがに又膽をつぶしたらしくあしらひ兼ねてしどろもどろです。
「證據は山程ある。此度國元から老僕周吉と申す者が參り、七年に亙る探索で、其方の非曲の種々を調べ上げ、證據の種々をその手文庫に入れてある、御上に差上ぐる前、見たくば後で見るが宜い」
「己れ、飛んでもない言ひ掛りを申す奴、その分には差しおかぬぞ」
「昨夜、其方の伜金之助を殺したのも、天罰と氣がつかぬか」
「えツ、まだ」
「おツ、言ふとも、祝圓之丞の娘、琴と糸、今こそ思ひ知つたか」
「えツ、勘辨ならぬ女奴」
大野田は一刀拔いて切つてかゝつた樣子、八五郎思はず飛出さうとしましたが、お琴は早くも身を逃れて、廊下から梯子段へ、一足飛びに逃げてしまひました。
それを追ふ樣子も無いのは、大野田仁左衞門、押入に殘された、手文庫に氣がついたのでせう。その中からハミ出して居るのは、まさしく古い手紙、覗くと紛れもない、それは自分の筆跡なのです。
「──」
大野田仁左衞門、押入の中に半身を入れると、思はず棚の上の手文庫に手を延ばしました。
「アツ」
何處に仕掛けがあつたかわかりません、押入の床がスポリと拔けて、大野田仁左衞門、一とたまりも無く下へ落ちてしまつたのです。
それは實に慘憺たる有樣でした。二階押入の床が拔けて、階下へ落ちた大野田仁左衞門は、どんな彈みだつたか、自分の手に持つた白刄に、自分の首を貫かれて、暫らくはノタ打ち廻りましたが、間もなく息が絶えてしまつたのです。最早醫者にも藥にも及びません。
その騷ぎの中に、二階から飛降りた八五郎は、天から降つたものゝやうに、柳屋の者を驚かしましたが、兎も角、岡つ引きが一人、この騷を見屆けてくれたことは、柳屋に取つては、勿怪の幸ひといつた有樣でした。
騷ぎの中に、お琴とお糸の姉妹が、何時の間にやら姿を隱したことに氣がつきましたが、大野田仁左衞門は、明かに二階の押入から落ちて、自分の刀で、自分の首を突いたことは、八五郎がこの耳で聽きこの眼で見て知つて居るので、今更誰を下手人に擧げることもならず、お屆けだけを濟ませて、事件はそのまゝ、うやむやになつてしまひました。
一應の手續きが濟んで、明神下の平次の家へ行つた八五郎は、それからの顛末を、事細かに話して、
「あつしには腑に落ちないことばかりですよ。大野田の伜金之助を殺したのも見當が付かないのに、親仁の大野田仁左衞門だつて間違つて二階から落ちて、自分の刀を自分の首へ突立てゝ死んだとも思はれません」
八五郎は狐につまゝれたやうな顏をするのです。
「お前がお目出度いからだよ、女で無きや、そのお琴といふ娘を、岡つ引にしたい位のものだ」
「へエ」
平次は面白さうに笑ふのです。
「でも、それで良かつたのさ、なまじつか目がきくと、飛んだ罪を作るところよ」
「?」
「宜いか、八、中坂下の井戸端で、お琴と逢引したとき」
「逢引といふほどのものぢやありませんがね」
「まア、遠慮することは無い、逢引にして置けよ、──隨分眞つ暗で、何んにも見えなかつたと言つたね」
「生憎月は無いし、あの邊はまた灯が無いからやけに暗い」
「お互の顏も見えなかつたことだらうな」
「鼻をつまゝれてもわかりませんでしたよ」
「そこで、お琴は一度柳屋へ歸つて、又戻つて來たと言つたね」
「へエ」
「最初洗ひ髮でお前の頬へさはる毛がサラサラして居たと言つたらう」
「その通りで」
「後では──二度目に戻つて來たときは、伽羅の油の匂がしたと言つた筈だ」
「へエ」
「最初は手が冷たかつた筈だが、二度目に手を握り合つたときは、手が温かで、顫へて居たと言つたらう」
「──」
「始めはよくしやべつたが、二度目からは物を言はなくなつた筈だ」
「すると?」
「人が代つたのだよ、最初に出て來て、お前と話したのは、姉のお琴で、二度目に出て來て、默つて手を握つたのは、妹のお糸だ、──丈夫な者は手が冷たいが、夕方から熱の出るやうな弱い娘は、手が温かいのも無理はない」
「すると」
「金之助を殺したのは、姉娘のお琴だ。お前を呼出して、證人に立てるつもりでやつた細工さ、妹と入れ代つて室へ戻り、金之助の脇差を拔いて、しなだれ掛かると見せて、後から手を廻して喉をゑぐつたのだ」
「あ、成程、太てえ阿魔で」
「驚くな、二度目にお前を二階の納戸に生證人に入れて置いて、押入の床を拔いて、文庫に釣られて潜り込んだ大野田仁左衞門を下へ落した」
「でも」
「下には多分、お琴が待つて居たことだらう、二階から落ちて氣の遠くなつた仁左衞門の手から、白刄を奪りあげて、首へ突つ込んだだけのことさ、恐ろしく氣のつく女だ」
「でも、二階の押入には、仕掛がありましたよ、床板を鋸で引つ切つて、人間が乘れば落ちるやうに、輕く留めてありましたが、あれは女の子の細工ぢやありませんよ」
「出前持の喜三郎の細工だらうよ、その證據には、喜三郎も姿を隱した筈だ」
「あツ、その通りで」
錢形平次の明智は、掌を指すやう、まさに八五郎一言もありません。
「で、あの二人姉妹は何處へ行つたでせう」
「多分故郷の堺にでも歸つたことだらうよ。放つて置け」
「殘り惜しいやうな氣がしますね」
八五郎も裏淋しさうでした、あの晩の井戸端の逢引を思ひ出したのでせう。
底本:「錢形平次捕物全集第五卷 蝉丸の香爐」同光社磯部書房
1953(昭和28)年5月25日発行
1953(昭和28)年6月20日再版発行
初出:「面白倶楽部」
1953(昭和28)年1月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年4月2日作成
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