錢形平次捕物控
女御用聞き
野村胡堂
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「あ、錢形の兄さん」
平次は兩國橋の上で呼留められました。四月の末のある朝、申分なく晴れた淺黄空、初鰹魚の呼び聲も聽えさうな、さながら江戸名所圖繪の一とこまと言つた風情でした。
「おや、お品さんぢやないか、こんなに早くどこへ行くんだ、お詣りや物見遊山でも無ささうだが──」
呼び留めたのは、平次の大先輩で、昔は相當に顏を賣つた御用聞き、石原の利助の娘で、お品といふ美しいの。
「まア、私は」
お品は取亂した樣子が耻かしくなつた樣子で、あわてゝ、髮を直したり、帶を叩いたりして居ります。蒼白く冴えた細面が、少しばかり鼻白んで、二十五の若さが匂ふ年増でした。父親の利助は、事毎に錢形平次と爭つた練達無比の男でしたが、去年の春から輕い中氣で寢込んでしまひ、子分達の離散を防ぐため皆のものに勸められて、出戻りの娘お品が、女だてらに十手捕繩を預かり、辛くも父親の代理を勤めて居る有樣だつたのです。
お品は氣象者で、申分なく怜悧な女でしたが、それでも血腥い事件には怖氣をふるひ、神田明神下に飛んで行つてはツイ、仲の好いお靜に助太刀を頼んで、事毎に錢形平次を引つ張り出すのでした。
物好きな江戸つ子達は、蔭ではお品のことを『女御用聞き』と呼んで居りましたが、本人のお品はそれをまた、どんなに嫌がつたことでせう。
「大層急いでゐるやうだが」
平次は取なし顏にさう言ひました。後ろではガラツ八の八五郎が、うさんらしい鼻をヒクヒクさせて居るのです。
「大變なんです。兄さん、──龜澤町の加納屋に、昨夜殺しがあつて、家の者が二、三人行つて居りますが、とても手に了へさうもありませんし、お願ひですから、どうぞ」
お品は矢張り、平次の迎ひにやつて來たのでした。
「行くのはお安い御用だが、そいつは矢張り、お品さんと石原の子分衆で、ラチを明けるのが本當ぢやないのかな、石原町と龜澤町ぢやお膝元過ぎて、おれがちよつかいを出すと、また何んとかいはれるだらう」
「でもね、錢形の兄さん」
お品は泣き出しさうでした。
近頃、石原の利助の病氣と無能をいひ立てゝ、その預つてゐる十手捕繩を、横取りしようと、手ぐすね引いて居る者が少くないことを、平次は知り拔いてゐたのです。
女御用聞きといはれた美しいお品を、この凶惡無殘な役人鬼と相對させ、必死の鬪爭に追ひやつた平次にもまた理由があつたのです。
「薄情なやうだが、父さんのためだ。子分衆を手一杯に働かせて、お品さん一人の手にこいつを裁いて見る氣はないか」
「やつて見ませう、私は怖いけれど」
平次に激勵されながらも、お品にはまだ割切れないものが殘つてゐる樣子です。透き通るやうな青白い額、白粉つ氣も何にも無いのですが、仕樣ことなしにニツと苦笑すると、引きしまつた薄肉色の唇の曲線が、少しばかり上弦に緩んで、非凡の媚が湧くのです。
「何が怖いんだ」
「加納屋の殺しのあつた晩、石原の私の家の格子から、これを投げ込んだものがあるんです」
お品はさういひながら、帶の間から引出した紙片を一つ、不氣味なものゝやうに、シワを伸ばして平次の手に渡すのです。
「どれ」
手に取つて見ると、薄い半紙表に下手つ糞な字を不揃ではあるが剋明に並べたもので、
加納屋のものを皆殺しにしてやる。外のものは餘計な手出しをして後悔するな
と書いてあるのです。
「見付けたのは今朝、その時はもう、加納屋の手代の磯松が殺されてゐたんです」
「成程こいつは手が混んでゐる。その代り骨折り甲斐はあるだらう」
「錢形の兄さんは、何處へいらつしやるんです?」
お品はまだあきらめ兼ねる樣子でした。
「小梅に用事があるんだ、その序でに、八の野郎に誘はれて、毛虫の見物さ」
「毛虫ぢやない、葉櫻ですよ」
「さう〳〵毛の生えた葉櫻を見るんだつけ」
平次はその日八丁堀の餘儀ない頼みで、小梅村へ調べに行く用事を持つて居たのです。
「では、錢形の兄さん」
「まア、確りやつて見ることだ。脅かしなんかは氣にすることは無いぜ、惡者が惡事を前以つて知らせるのは、何かそれをやらなきやならないワケのある事さ──その變な手紙を念入りに調べるが宜い」
やがて橋を渡ると平次は向島へ、お品は龜澤町へ別れました。
「ね、親分」
「何だえ」
「可哀想ぢやありませんか、お品さんは涙ぐんで居ましたぜ」
「それで宜いんだよ、何時までも俺を頼つて居ると、利助兄哥が何んとか言はれるから、お上でも放つて置けなくなる」
平次は自分に言ひ聽かせるやうに、顎をしやくるのです。
「わツ、親分、大變なことになりましたよ」
ガラツ八の八五郎が、泳ぐやうに飛込んで來たのは、その翌る日のまだ薄暗い時分でした。明神下の平次の家も、早起きの女房お靜が漸く表戸を開けたばかりといふところ。
「何んて聲だ、御町内の方が胆をつぶすぜ、まだ夜が明けたばかりといふのに」
「そんなことに係り合つちや居られませんよ、龜澤町の加納屋で、二人目が殺されたんだ」
「お前はまた、どうしてそんな事を?」
平次も合點が行きませんでした。昨日夕方、平次と一緒に小梅から歸つた筈のガラツ八が、龜澤町の事件を嗅ぎ出して來る筈は無かつたのです。
「親分と一緒に、向う柳原のあつしの家へ歸つたのは、もう薄暗くなつてゐたでせう」
「それで?」
「早速飯にして、床へ入つたが、さて寢付かれねえ、しよんぼり歸つていつたお品さんのことが氣になつて──お節介なやうだが、飛び起きて、龜澤町へいつてみましたよ、もう亥刻半(十一時)過ぎ子刻近かつたでせう」
「なる程な、お節介には違げえねえが、お前がやりさうなことだ」
「ところが、加納屋の店は、どんでん返しを打つたやうな騷ぎだ。前の晩に手代の磯松を殺した下手人もわからねえといふのに、翌る晩の昨夜、二番目の伜の吉三郎といふ、十七の若いのが、庭で突殺されてゐるぢやありませんか」
八五郎の話には手眞似が入ります。
「それからどうした」
「石原の子分衆と一緒に、一と晩調べてみたが、口惜しいけれど、なんにもわからねえ、お品さんも持て餘して、もう一度錢形の兄さんにお願ひしてくれと手を合せて拜むから、足元のみえるのを合圖に龜澤町を飛びだしてきましたよ」
「フーム」
「まづ、最初から話すと、かうです」
「待ちなよ、お前の話を聽いてゐちや、日が高くなりさうだ、それになるべく、この眼で現場をみるまで、お前の量見なんか耳へいれない方がいゝかも知れない」
「チエツ、そんなにあつしは頼りない人間ですかね」
「いや、頼りがあり過ぎて、おれまでお前の利巧に引ずり廻されるんだ、サアいかうぜ、八」
平次は手輕に支度をして、八五郎を促すのです。
「へツ、あつしのいふことなんかどうでも構はねえとして、昨夜からなんにも食はずに働いてゐる、あつしの腹はどうして下さるんで?」
「まア、八五郎さん」
お靜はあわてました、ツイ話の重大さに釣られて八五郎の丈夫な胃の腑の存在を忘れてゐたのです。
龜澤町の加納屋に行つたのは、まだ朝のうちでした。
「ま、錢形の兄さん、矢張り來て下すつたのね、本當に有難うございました」
待ち切れなくなつて、町角に迎へてくれたお品は、平次の顏を見てホツとした樣子です。地味な袷、黒い帶、紅嫌ひと言つて通人の間に持て囃された、浮世繪の一枚刷にあるやうな、此上もなく澁いくせに、持ち前の美しさがそのために引立てられて、反つてそれが、艶やかに見えると言つた、非凡の素質を持つたお品です。
「今度は邪魔をしたくないと思つたが」
平次は仕樣ことなしに苦笑ひをして居ります。
「でも、錢形の兄さんが急所々々で指圖をして下さらないと、私だけではどうにもならないんですもの」
平次の戀女房のお靜とは、親身の姉妹よりも親しい仲で、お品はもう、性別を飛躍して、兄さんと呼べる間柄だつたのです。
「とも角、一應見せて貰はうか」
平次は早速仕事に取りかゝりました。
龜澤町の加納屋といふのは、そのころ本所深川の炭問屋の大元締で、後の世の山口屋や鹽原屋にも匹敵したでせう。店も龜澤町の一角を占め、その後ろに立ち並ぶ商賣物の炭小屋、炭置場の外に、小さいが普請の良い塗籠が一つあり、廊下で母屋に續いて、その母屋がまた、素晴らしい木口で、どつしりと四方をにらんでゐるのでした。
「錢形の親分、相濟みません」
石原の子分の左次郎は、顏を出しました。まだ若い男で、お品を助けて利助の跡を立てゝをりますが、六つかしい仕事になると、錢形平次の智惠でも借りなければさばき切れません。
「まア、兎も角、現場と死骸を見せて貰はうか」
平次は加納屋の多勢の家族に引合はせられる前に、事件の急所を見て置きたかつたのです。
「此處ですよ、親分」
八五郎が先に立つて平次がそれに續き、お品と友次郎も一緒に炭置場の間を潜るやうに裏の空地に出ました。其處は土藏と炭小屋とに取かこまれた三坪ほどの空地で、晝でも一寸人目には付きません。
日蔭の大地は、炭の粉と青苔だらけで、曲者の足跡の見極めがつかぬばかりか、どんなに血を吸つたところで翌る日までには淨化してしまひさうです。
「二番目息子の吉三郎が、此處へ何をしに來たんだ」
平次は四方を見廻し乍ら訊ねました。
「十七になつたばかりの若い男が夜中に此處へ來るのは、女の子に誘はれたんですよ」
友次郎は酢つぱい顏をするのです。
「女の子? そいつは誰だ」
「家の人達の噂では、近ごろ二番目息子の吉三郎さんが、下女のお夏と親し過ぎるので、御兩親が心配して、その娘を親許へ歸さうかと相談してゐたさうです。下女と言つても遠い親類の娘で、行儀見習といふことで、預つてゐるんですつて」
お品は、平次のために説明しました。
「本人は何んと言つてるんだ」
「下女のお夏は、昨夜一足も外へ出ないと言つてゐますが、困つたことに、この空地の隅に、お夏の書いた呼出しの手紙が落ちてをりました」
お品は帶を搜つて、小さく疊んだ半紙を、サツと擴げて平次に渡しました。中に書いたのは、たつた一行半、あまり醜くない女の手らしい假名文字で、
──こんばん、五つはん、いつものところで、ぜひ〳〵
と讀めるのです。もとよりお互の名前も、日付もありませんが、同じ店の中で、人目をはゞかる二人が、うつかり口をきくわけにも行かず、眼から眼へ合圖をかはして、そつと手渡すには、これで充分だつたでせう。
「こいつは飛んだ手掛りぢやないか、──本人は何んと言つてるんだ」
「ずつと前に、こんな手紙を書いたことはあるけれど、昨夜吉三郎さんを呼出した覺えはないと言ひ張るんですもの」
お品の調べは、そこでハタと行詰つた樣子です。その横から八五郎が、
「川柳に良いのがありますよ──若旦那樣と書いたを下女落し──とね、こいつは親分には御存じのねえ情事だが」
「馬鹿、しやれや冗談を言つてる場合ぢやねえ、そのお夏とか言ふ娘でもつれて來い」
平次にたしなめられて、八五郎は横とびに母家の方へ飛んで行きました。
間もなく八五郎と友次郎は、十八、九の若い娘を、用心深くつれて來ました。土竈の埃を冠つた、赤つ毛の背の高い娘、着物も洗ひざらしの木綿物ですが、この見るかげも無い下女が、三尺のところへ來て、恐る〳〵顏を擧げたのを見て、平次も思はず太息をつきました。
傳説の大日如來の化身だと言はれた、お竹といふ召使も、こんな清らかな娘だつたかも知れません。桃色の清らかな肌と、並々ならぬ智惠の光を藏した大きい眼と引締つた可愛らしい口許を見ただけでも、この娘が唯の奉公人でないことはよくわかります。
「お前はお夏といふんだね」
「──」
娘はうなづきました。雄辯な大きい眼が、靜かに平次を見上げるのです。
「この手紙を知つてゐるだらう」
平次はいきなり娘の前に手紙を出しました。
「私の書いた手紙です。先刻も申し上げた通り」
お夏は靜かに──確と言ひ切るのです。──何べん同じことを言はせる積りだらう──と言ひたさうに。
「それをお前は吉三郎に手渡したのだな」
「──」
お夏はまた默つてうなづきます。
「それは何日のことだ、いづれ昨日のことゝ思ふが」
「いえ、五、六日前でした」
お夏はこの場合も、きつぱり言ひ切るのです。
「嘘だらう、手紙は昨日渡したはずだ」
「いえ、五、六日前、どうかしたら、もう少し前だつたかもわかりません」
お夏は頑固に頭を振りました。
「古い手紙かも知れませんね、紙がもめてしわも深くなつてゐるし、それに、折目の間に、煙草の粉が付いてゐるやうですが」
助け舟を出してくれたのはお品でした。
「そのとほりなんです。その手紙の用事はもう濟んでゐるんですもの」
「どんな用事で、お前は吉三郎を誘つたのだ。いつものところといふのは、この空地のことだらう」
平次は改めて備へを直しました。
「そのとほりです。誰にも聞かせたくない事だつたんです。でも」
「でも」
「今は申上げられません」
さう言ひ切つて、お夏は屹と口をつぐむのでした。唯の小娘には相違ありませんが、さう言ひ切つたが最後、平次もこの娘の口を開けさせるむつかしさを感じないわけには行きません。
「お前は吉三郎と何か約束でもしたことがあるのか」
「?」
お夏は大きく眼を見開いて、相手の顏をヂツと見てをります。
「お前と吉三郎は此處で逢引したのぢやないか──と親分は訊ねてゐるんだよ」
八五郎はもどかしさうに註を入れました。若い娘の心の中は、自分の掌中の如くはつきり讀めると信じてゐる八五郎です。
「そんな事を、──吉三郎さんはそんな人ぢやありません。私はたゞ、人に頼まれたことを、そつと取次いだだけです」
「だれに頼まれたのだ」
「──」
平次は間髮を容れずに訊き返しましたが、その時はもう、この娘の唇は、地獄の門のやうに堅く鎖されてゐたのです。
「では、お前は昨夜何處にゐた──騷ぎのあつた時だよ」
「お勝手に、お榮さんと一緒のお仕舞をしたり、明日の朝のお支度をしてゐました」
お夏はそんなことは氣輕に答へます。
刺された吉三郎の死骸は、母家の奧の、吉三郎自身の部屋に取込んで、家中の者は、お葬ひの仕度やら、お通夜の仕度に忙しく働いてをります。
部屋の中には、吉三郎の父親──この家の主人の半左衞門と、母親のお紺が、奉公人の指圖をして、何彼と仕事に沒頭してをります。
身内のものゝ死んだとき、悲嘆に打ちくじかれて何んにもせずにゐるより、手にあまる仕事を引受けて、物を考へる隙もないほど働いてゐるのは、反つて紛れる方法にもなるでせう。
半左衞門は五十六七、もう相當の年輩で、それにつれ添ふお紺はまだ三十八の若さ、若くもあり、元氣でもあり、その上充分に美しくもあります。氣も心も肉體も、やゝ衰へかけた主人の半左衞門が何彼につけて、若く美しい女房に引廻されてゐるのもやむを得ないことでした。
「飛んだことでしたね、旦那」
「錢形の親分だ相で、──何んとか伜の敵を取つて下さい、可哀想に、たつた十七で、素直な子だつたから、誰にでも可愛がられてをりました」
半左衞門は、がつくり首を垂れるのでした。涙を含んだ聲が、平次の耳に殘ります。
「吉三郎さんに怨は無くとも、加納屋を怨んでゐる者はありやしませんか、石原の親分の格子へ、變な手紙を投げ込んだ者もある位だから──」
「そんな者があるわけもありません。私で三代に亙る炭問屋で、口幅つたいやうだが、少しは人樣のためにもなつた筈で御座います、例へば──」
半左衞門は言ひかけて口を緘みました。世にあり勝ちの有徳な町人達のやうに、自分の施した善根などを、岡つ引相手に吹聽するのが、さすがに大人氣ないと思ひ付いたのでせう。
年よりは老けて見える胡麻鹽頭、頬もあごも削けて、ひどく神經質らしく見えるのは、金があり餘るくせに、絶えず何んかと心配に惱まされるせゐでせう。
もつともかう言つた有徳人の中には、お寺や社に餘分の寄進をしたり、大きな石燈籠でも献ずると、私生活は出鱈目で冷酷でも、極樂行の旅券は無條件でもらへるやうに思ひ込んでゐる人も少くはありません。
「御内儀には、何んか人に怨まれるやうなことは?」
「飛んでもない、私にそんな事が」
内儀のお紺はびつくりするやうに大きな聲を出すのです。これは豊滿な大年増で、酒と贅澤食ひのせゐか、脂の乘つた、素晴らしい恰幅です。
「では、吉三郎さんは、女のかゝり合ひでも?」
平次は執こく問ひ進みました。
「あの子は、たつた十七ですもの」
内儀のお紺は、言下に答へた。
「でも、世間では妙な噂を立てゝをりますよ、あの下女のお夏──御親類から預つた娘だ相ですが、あの娘と仲が良いので、御兩親が心配して、お夏を親許に、返すとか返さないとか──」
「誰がそんなことを申しました」
平次の言葉を押へて、内儀は腹立たしさうにいふのです。
「それはまア、それとして、吉三郎さんは煙草を呑みましたか」
「いゝえ、あれはまだ子供ですもの」
「お家で煙草をやるのは誰と誰でせう」
「主人と私と、番頭の文六と下男の彌八と、その四人だけは煙草をやりますが、二人の伜と、甥の房吉は煙草が嫌ひで」
「二人の伜と仰しやると?」
「それは、申上げたくないことですが、一人は吉三郎の兄で、吉之助と申します。放埒でわがままで、その上亂暴なことがあつたために、二年越し木更津の親類に預けてありましたが、近ごろ江戸につれ歸り町内の人達にも隱し、そつと家の中に圍ひを作らせて、その中に窮命させてをります」
圍ひといふのは、言ふまでもなく座敷牢で、二人の伜のうちの一人を、座敷牢に入れて置くといふことは、さすがに人には知られたくなかつたのでせう。
「その息子さんの齡は?」
「二十二になります」
「すると、この家の總領になるわけで」
「そんなことになります」
「失禮だが、内儀さんの本當の子ではないでせうね。齡が近過ぎるやうに思ふが」
「耻しいことですが、繼しい仲の私の不行屆でございます。加納屋の總領を、あんな不身持にしてしまつて」
内儀のお紺は、さすがに顏を伏せるのでした。主人の半左衞門は默つて聽いてゐるだけ、今まで一人で引受けて喋舌つた内儀も、總領吉之助不身持のことになると、さすがに、びつくりするほど言葉少なになつてしまひます。
「その吉之助さんとかに逢はせてもらひませうか」
「いえ、吉之助は何んにも知つてゐるはずは御座いません。木更津からよび寄せたのは去年の秋、それからズーツと、圍ひのなかに入つて、世間づき合ひもさせてはをりません」
「いや、そんなことはどうでも構はない、兎に角一度は」
平次は立ち上がりました。八五郎もお品もそれに續きます。
「それぢや房吉に案内させませう。しばらくお待ち下さい。今呼び寄せますから」
内儀は店の方へ聲を掛けました。
吉之助の座敷牢を見舞ふ前に、平次は隣の部屋に納めてある、吉三郎の死骸を調べました。
それは、十七になつたばかりの華奢な若者で、傷は背後から一とつき、心の臟を破られて、血の氣を失つた顏は、青白く氣高くさへ見えるのです。
父親の半左衞門の神經質なとげ〳〵しさにも、母親のお紺の脂切つた豊滿さにも似ぬ、純情らしい少年の顏は、職業的になりきつてゐるはずの、錢形平次でさへも涙を誘はれます。
「あの空地で殺されてゐるのを、誰が先に見つけたんだ」
平次は誰へともなく問ひかけました。
「私でした。──昨夜伜がソワ〳〵と外へ出たのは戌刻半(九時)近い時分、若い者の出かける時刻ではございませんが、とがめ立てするのも變なものですから、しばらく放つて置きましたところ、四半刻(三十分)經つてももどらないので心配になつて大方見當をつけて、あの空地へ行つて見ると──」
内儀のお紺はさすがに絶句するのです。この氣の強さうな中年女も、たつた一人子の非業の死にあつて、ひどく打ちひしがれたらしく、口に出してはいひませんが、妙なところでひどく考へ込んだり、急に齒ぎしりをしたり、飛んでもない時はしやいで見たりするのを、平次は默つて、痛々しくながめて居りました。
「曲者の姿は?」
「見えませんでした。お月樣が雲から出たばかり、空地には伜が一人、うつ向きになつて──」
「──」
「そこら中黒く見えたのは、灯を持つて來ると、皆んな血だつたんです」
いひ切つて、絶大な我慢も盡き果てたものか、氣の強さうな内儀は、初めて聲をあげて泣くのです。
「その時、下女のお夏は?」
「私は外へ出る前に、もしやと思つてお勝手をのぞきましたが──そこにはもう一人の下女のお菊とにぎやかに話しながら、お夏はお仕舞をしてをりました」
お紺は氣を取直して、お夏のために、かう辯ずるのです。いくらか口惜しさうでもありますが、内儀もさすがに、お夏を下手人だとは思つてゐない樣子です。
そんな問答のうちに手代の房吉といふのが縁側に中腰になつて、内儀のいひつけを待つてをります。
二十四五の、少しタガのゆるさうな男で、色白で無口で、それが又、妙に愛嬌になるといつた人相ですから、誰にも憎まれない代り、店中に特別な味方が一人もないといふ不思議な存在です。後で聽いたことですが、これが主人半左衞門の甥で、店ではなか〳〵のよい顏になつてゐるといふ事でした。
「どうぞ此方へ──」
房吉は先に立つて、廊下を幾曲りもしました。いつの間にやら段々を降つて、道が眞つ暗になると、ハタと逞ましい格子に突き當つたのです。
「暫らくお待ち下さい。灯を持つて參りますから」
房吉は靜かに身を反して、お能の足どりのやうな、恐ろしいスローモーシヨンで、元の廊下を引返します。
「妙な恰好ですねえ親分」
八五郎は肩を縮めて、遠ざかり行く房吉の恰好を眞似て居るのです。
「何が變だ」
「あの男の恰好ですよ。芯の出た帶を猫じやらしに結んで、淺黄の手拭の申分なく汚れたのがブラ下り、着物の裾が十二單衣になつて、踵に去年からのでつかいあかぎれが四つ五つ口を開いて居るから大したもので──」
「何をつまらねえ」
「前からみると、鼻の穴が眞つ黒だ、あれは炭屋の看板みたいなもので、──男のくせに色が白いから、ヤケに目立つ」
「止さないか、八、人樣からみると、お前の方が、餘つ程變かも知れないぜ」
お品は默つてそれを聽いてをりました。八五郎がいふ通り、加納屋の甥の房吉の樣子は、かなり半間で不調和のものですが、それが生眞面目な性格の表象のやうな氣がして、お品の心持では、笑ふ氣などにはなれなかつたのです。
「へエ、お待ち遠さま」
房吉は手燭を持つてもどつてきました。
「總領の吉之助は、こんなひどいところに入つてゐるのか」
平次の聲はツイ激しくなります。
「私もさう思ひますが」
「お前は身内の者だといふことだ、加納屋の主人が本當の伜を、こんな目に逢はせてゐるのを、默つてみてゐるのか」
平次は餘つ程、腹にすゑ兼ねた樣子です。
「私のやうなものが、何を申したところで、大した役にも立ちません、それに、格子の前で申すことですから、若旦那のお耳にも入ることでせうが、若旦那の吉之助樣も、なさり方が、少し羽目を外しました」
房吉は、重い口で斯んなことを言ふのです。
「どんな惡いことをしたと言ふのだ」
「女遊びや勝負事はまア宜しうございます。最初のうちは私共も隨分庇つて上げましたが、加納屋の總領ともあらう方が、喧嘩口論から人樣に怪我までさせ、親が金を積んで内濟にするやうなことでは──」
「それつ切りか」
「圍ひの中の若旦那も、よく聽いて下さい。どんな事があつたにしても、親御樣に手を擧げては、天道樣が許しちや下さらない、こんなところに入れられても、人を怨んではなりませんよ」
房吉は格子の中へさう言ひ送るのです。
「それにしても、土の牢はひどからう」
平次はムカムカして來たのです。總領の吉之助に、どんな惡いことがあつたにしても、縁の下にこさへた格子の内──傳説の土の牢同樣のところへ入れて置くといふのは何んとしたことでせう。
「私もさう思つて、旦那やお内儀さんにも意見がましいことを申しましたが、なんとしても取上げては下さいません。そればかりではなく、義理の母親に手向ひまでした伜だ、打ち殺してもお上への申譯は立つ、とそんなことまで言はれると、私などは口がきけなくなります」
「手向ひ? それはどんなことだ」
「大したことぢやございません。ツイ若旦那も腹を立てゝ、お母さんを突きのけたさうで、もののはずみで轉んでも、義理の親となるとそんなことも言はれます」
「フーム」
「それに、若旦那も、二度も三度も逃げ出さうとなさいました。大の男の若旦那が暴れては、家の者ではとても手に及ばないので、ツイ昔麹室に使つた床下の穴倉に、格子をはめて座敷牢にしてしまひました」
「おや、あれは」
八五郎は頓狂な聲を出しました。眞白なものが、格子を潜つて、暗い廊下を突つ切つたのです。
「猫でございますよ、飼猫の玉が妙に暗いところが好きで」
房吉はそれを大して氣にもしない樣子です。
「この土牢の中の若旦那のお世話を、誰がするのだえ」
お品は初めて口を切りました。石原の利助といふ、親仁の代理で來て見れば、默つてもゐられなかつたのでせう。
「下女のお夏が一人でやつてをります。誰も此處へは來るのを嫌がりますし、若旦那も氣が立つてゐて、見境もなく叱りつけますので、此處へ來るのは、私とお夏位のものでございます」
成程、──お前なら、毒にも藥にもならなくて宜からう──とツイ八五郎は言つて見たくなりました。
房吉は格子に近づくと、手燭をかゝげて、二つ三つ叩きました。
「何だえ」
中では、不精らしく太々しい聲が應じました。今まで房吉と平次の話を聽いてゐるはずなのに、それを問題にもしないといつた、人を食つたところのある聲です。
「錢形の親分さんが、若旦那にお訊きしたい事があるさうですよ」
それにもかゝはらず、吉之助の態度は平靜で無神經でした。
「さうか」
格子の中には、何やら動きます。
「もういゝ、お前は用事があるだらう」
平次は體よく房吉を追ひやつて、その手から手燭を受取り、格子の前に立ちました。
中は六疊程、疊も敷いてあり、息拔もありますが、大地の下の陰鬱さと、カビ臭さがムツと鼻を打ちます。
「吉之助さん、泣いてゐたやうだね」
平次は早くも、格子の中、土牢にしやがんでゐる男の顏から、異状なものを發見したのです。
「へエ」
吉之助はそれを否定も肯定もせずに、少し濡れた顏を灯の中にあげます。
空氣も日光も乏しく、髯さへぼう〳〵と伸びてをりますが、若さと健康が充分なせゐか、見たところ吉之助の體力は大した衰へもなく、その眼の中には、一種鬼氣を覺えさせる反抗心が燃えてゐるのでした。
「お前は、吉三郎の殺されたことを聽いたらう」
平次は先を潜りました。
「お夏が教へてくれました。──私には腹違ひの弟ですが、母親に似ぬ良い男でした」
吉之助は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「兄弟仲はよかつたと見えるね」
「蔭になり日向になり、私のことを案じてくれ、お夏を中立ちにして、三度の食事にまで氣を配つてくれました。あの子(吉三郎)の自由にならないのは、母親の心持だけ──」
さういひながらも、吉之助のホヽには、新しい涙がながれるのです。
「誰が一體、あんな虐たらしいことをしたと思ふ? お前には見當がつくはずだが」
「それが少しもわかりません」
「吉三郎を殺せば、誰が得をするのだ」
「損をするものばかりですよ、あの子は誰とでも仲がよく、誰にも親切にしてくれましたから」
「お前は此處にゐて不自由はないのか」
「弟が死んでしまへば、何彼と不自由になりませう。お夏は親切にしてくれますが、いはゞ、奉公人で」
「お夏といふ娘は、吉三郎と親し過ぎるやうな事は無かつたか」
「そんな事はありません。吉三郎はまだ十七でほんの子供でした」
「でも、二人は手紙などをやり取りしてゐたやうだが」
平次は一歩々々突込みます。
「飛んでもない」
「でも、吉三郎の死骸の側に、こんな手紙が落ちてゐたが──」
平次はお夏の書いたらしい『こんばん五ツはん云々』の手紙を見せました。
「それは、大分前に、私が頼んでお夏に書かせた手紙です。若い二人が口をきくと、妙に人目に立つて困るといふので」
「昨夜では無かつたのか」
「──確か、今日から數へて、三日も前のことです」
吉之助の答は用意でもしたやうに靜かで明確です。
「お前はまだ兩親を怨んでゐるのか」
平次は題目を變へました。この吉之助といふ男には並々ならぬ純情性もありますが、同時にその反面には、容易ならぬ反抗心も潜んでゐるやうです。
「飛んでもない──私はつく〴〵後悔してをります。ツイ氣が短かゝつたので、人と喧嘩もし、親達にも逆らひましたが、今ではもう心の底から折れて、許してもらへるなら、どんな詫でも辛棒でもする覺悟でをります」
座敷牢の逞しい格子にすがりついた吉之助の手は激情にふるへてをります。
「いくら親の威光でも、土の牢はひど過ぎるやうだ。お前が本心に立ち還りさへすれば、名主や町役人に話して、取なしてもらへるだらう、しばらく辛棒するがいゝ」
「有難うございます──よろしくお願ひいたします」
吉之助は牢格子で額を叩くやうに、引揚げて行く平次の後ろ姿を拜むのでした。
「錢形の兄さん」
明るいところに出ると、お品はそつと平次を呼び止めました。
「何んだえ、お品さん」
「少し變ではないでせうか」
お品の美しい眉はひそみます。
「何が?」
「一年越し、縁の下の土の牢に入つてゐたにしては、あの男は元氣過ぎやしませんか、髯こそ伸びてゐるが、身體も手足も、よく洗つてゐると見えて綺麗だし」
「俺もそれに氣が付いたよ、こいつは何んかワケがありさうだぜ、お品さん」
平次はお品を顧みてさういひました。
「すると?」
「あの吉之助といふ男は、俺達が行くまで泣いてゐたらしい。弟の吉三郎を殺す筈は無い。──それより、お品さんの家の格子に挾んであつた『加納屋の者を皆殺しにする』といふ脅かしの手紙の筆跡が知り度い。此家の中の人の書いたものを集めて、一人々々の筆跡を比べてみて見てくれないか」
「そんな事なら、錢形の兄さんがいらつしやる前に、調べてしまひました」
「ほう、そいつは早手廻しだ」
「店中の男は誰でも一應は帳面へ字を書き入れますから、わけは無かつたんです──あの脅かしの手紙の字は甥の房吉の手そつくり」
「へエ、あの男の?」
平次も、それは豫想外のやうです。
「でも、文字が不揃で、一字々々透き寫しに捺つたものでせう。房吉の書いた帳面の中から、入要の文字を拾つて、克明に寫し取ると、あんな具合になります」
お品は始めてその叡知の鋒鋩を見せました。そのお品の言葉が本當なら、曲者は房吉を陷れる積りでやつた細工でせう。
脅かしの手紙は、後で筆跡を調べられることは判り切つてをります。それを預想して置いて、房吉の帳面字を一字々々拾ひ出し、透き寫しにして、文章を綴つたといふことは、曲者の並々ならぬ太さですが、同時に吉三郎殺しは、房吉ではないといふ證據にもなるのでした。帳面の房吉の字が、紙を立てゝ透き寫しにされた爲、墨がにじんで、ひどく汚れてゐるのです。
平次はそれから、番頭の文六にも逢ひ、庭男の彌八にも逢ひました。文六は五十二三の頑丈な男で、細かい企みなどの出來さうな男ではなく、彌八も典型的な炭問屋の下男で、房吉と同じやうに、鼻の穴を眞つ黒にしてをります。
下女のお榮は四十五六の、これは模範的な金棒曳でした。何を訊いても、いや、訊いたことには一向答へずに、自分の言ひ度いことだけを、懸河の辯舌でまくし立て、一向人に要領を得させないといふ、不思議な雄辯家です。
その要領は──總額の吉之助は亂暴で少し怖いけれど、根が正直で良い人だから、土の牢に入れられては可哀想だといふ話、殺された吉三郎は飛んだ兄思ひで、隨分父親や母親に、取なしもし、兄の爲に言ひ爭ひもして來たといふ話、房吉は食へないところはあるが、なか〳〵の良い男で、内々お夏に小當りに當つてゐるらしいが、お夏は吉之助に夢中だから、結局はのれんに腕押しだといふ話。それから主人の半左衞門はお内儀さんの言ひなり放題で、吉之助が氣の毒だといふ話──。
その辯舌は際限もなく發展するのです。
ところで、昨夜外へ出たものは無いかといふ問に對しては、誰も確りとした答へを與へるものはありません。出ようと思へば何時でも自由に出られるのが加納屋の習慣で、その點は家中の者は、誰でも一應は吉三郎殺しの犯人になり得るのです。
もし、その間から例外を求めたとしたら、座敷牢に入つてゐる、總領の吉之助だけ、これは、格子の外の素晴らしい海老錠を見ただけでも、外へ出られなかつたことは明らかで、その海老錠の鍵は、
「主人が腰にブラ下げて持つて居ります。誰にも貸すやうなことはありません。もつとも主人は鍵を幾つも作つて、それを持つて歩くのがいやだといつて、土藏の外鍵も同じもので、たつた一つの鍵が土藏にも座敷牢にも通用するやうになつてをります」
と、房吉が説明してくれました。
成程さういへば、座敷牢の格子には、大一番の海老錠がおろされてあり、朝比奈三郎がやつてきても、これは破れさうもありません。
平次はもう一度主人夫婦に逢ひ、家の外を一と回りして、
「お品さん、こいつは六つかしいぜ、とも角一度引揚げて考へ直すとしよう、なんか變つたことがあつたら、頼むぜ」
さういつて明神下へ引揚げるほかはなかつたのです。
「ね、親分、加納屋の伜を殺したのは、一體誰の仕わざでせう、あつしは見當もつきませんが」
明神下の平次の家へ引揚げてから、八五郎は分別臭い顏をして、ながい顎を撫で廻すのでした。
「俺にもわからねえのさ。加納屋の最初の殺しは手代の磯松だ、甥の房吉と同じ歳の二十四、主人の遠い親類で、良い男だつたが、ある晩外から歸つて來たところを、路地の外で突殺された。女出入りか喧嘩のこじれか、下手人がわからぬまゝに、それつきりになつたが、續いて二人目、加納屋の二番目息子吉三郎が、家の中同樣の物置の前でやられた。今度は放つて置けない、が、俺はなるべく手を出し度くなかつた。お品さんの手柄にして、石原の利助兄きの顏を立てさせ度かつたのだよ、わかるか、八」
「その親分の心持はわかりますがね、それぢや、お品さんが可哀想ぢやありませんか、このあつしが首を捻つてもわからないことが、悧巧な人だけれど、あの良い年増のお品さんにわかる筈は無いぢやありませんか」
斯う言ふことがヌケ〳〵と言へる八五郎です。
「フ、フ、いゝ氣のものだよ、お前は。正直に申上げると、八五郎などよりは、お品さんの方が餘程賢こいんだが」
「でも、錢形の親分にわからないことが、あつしやお品さんにわかるでせうか」
八五郎はなか〳〵絡みます。
「この企らみは餘つ程念入りだが、惡い人間は、どんなに悧巧に立ち廻つた積りでも、することにちと陰影があるから、妙なところに手ぬかりがあるものだ、惡いことでもしようといふ人間に、神樣がまともな智惠を授けて下さるわけは無い。現に、一寸覗いただけで、俺はもう、いろいろの手掛りをつかんでゐる」
「どんなことです、親分」
「ま、待ちな、口に出しでいふほどまとまつたことぢやない」
「例へば?」
八五郎は執こく追及します。平次の智惠の小出しを、少しばかりお品にお裾わけをしてやりたかつたのでせう。
「例へば、──お夏と吉之助は、何かわけがあり相だし、──吉之助が座敷牢の中で泣いてゐたのも唯事ぢやない、──その牢の中に猫の子の入つてゐるのも變だし、──三日前に書いた手紙を、昨夜死骸の側に置いたのもをかしいぢやないか。牢の中の吉之助も丈夫で綺麗すぎるし、──もう一つ、あの脅かしの手紙の寫が怪しい、──手掛りはうんとあるぢやないか」
平次は手掛りの數々をかう讀んで聞かせるのです。
「親分、た、大變ツ」
八五郎が、疾風のやうに飛込んで來たのは、それから又七日目でした。
「何んだ、相變らず、お前が來ると神田中の騷ぎになるぜ」
平次はあへて驚く色もありません。
「加納屋で三人目の殺しです。驚いて下さいよ親分。お品さんが錢形の兄さんの、首つ玉へ繩をつけて引つ張つて來い──て」
「うそをつきやがれ、お品さんがそんな荒つぽい事を言ふものか、ところでだれが殺されたんだ」
「主人の半左衞門が、土藏の二階で虫のやうに殺されてゐたのを、下女のお榮が起しに行つて見付け、石原の子分衆があつしのところへ教へてくれましたよ」
向柳原の八五郎のところを踏石に、お品が平次に報告して來たのです。
「土藏の二階は變だね、兎も角、行つてみよう」
平次と八五郎が龜澤町へ馳けつけた時は、加納屋の上下は煮えこぼれるやうな騷ぎで、お品は子分達に號令して、その混亂の中に調べを進めてをりました。
「おや、錢形の兄さん、濟みません、お呼び立てして」
お品は自分の手に餘つて、また平次を煩はしたのを、ひどく恐縮してゐる樣子です。
「大變なことだつたな。まさか、二人殺しが、三人殺しにならうとは思はなかつたよ。ところで、殺された主人の半左衞門は、土藏の二階に泊つてゐたのか」
平次は第一の疑問に取りつきました。事件の謎は、此處からほぐれさうです。
「近頃主人は、お内儀さんと仲が惡くなつた上に、あの脅かしの手紙を見てから、すつかり脅えてしまつて、土藏の中に籠つて、二階へ一人で寢てゐたさうです。お内儀さんが、うるさ過ぎた樣子です」
お品は内輪に説明してをりますが、ヒステリツクでまだ充分に若くて、一つ子の吉三郎を喪つたお内儀のお紺が、どんなに主人半左衞門を惱ましてゐたかは、想像に餘りあります。
「兎も角、現場を見てから」
平次と八五郎は、お品に案内されて、土藏の二階の現場を見せてもらひました。
「此通り、樫の板戸は海老錠で締つてをりました。その外には漆食の大戸がありますが、曲者の入つた樣子も出た樣子もありません」
お品は、今は開けたまゝになつてゐる漆食の大戸と樫の板戸──地獄の門のやうに嚴重なのを見せました。大海老錠は拔いたまゝ板戸の引手に無造作に引つ掛けてあります。
「鍵は?」
「主人の半左衞門が一つ、内儀のお紺さんが一つ持つてをりました」
お品は調べ拔いたことを答へました。
「土藏の入口は二つあるやうだが──」
「もう一つの入口は、雜用藏の方から入るので、その扉は鐵の棧で内から閉めてありますから、外からは開ける工夫もなく、それに棧も引手も埃が一パイで五、六日は開けた樣子もありません」
お品の調べはよく行屆いてをります。
「今朝此處を開けた鍵は?」
「主人があまり遲いので、下女のお榮が内儀さんの持つてゐる鍵を借りて開けて入つたさうです。雜用藏の長い鍵は、用心深い主人が自分の身につけて藏の中に入つてゐたさうで──」
「すると、外から入つて主人を殺した下手人は、内儀の持つてゐた海老錠の鍵を使つたといふことになるのだね」
「さういふことになります。──尤も内儀さんも息子の吉三郎が死んでからは、氣が立つてよく寢られないし、氣味も惡いので、主人が土藏の二階へ寢る時は、下女のお榮に自分の側へ寢てもらつてゐるさうです。ですから、下女のお榮に氣付かれないやうに、夜中に脱出して、土瓶の二階の主人を殺すことなどは、出來さうもありません」
お品は女同士の細かい心やりで一應内儀のお紺にフリかゝりさうな疑ひを解いてやります。
「他に氣のついたことは?」
「總領の吉之助の入つてゐる座敷牢の海老錠と、この土藏の板戸の錠は、同じ鍵を使つてゐるさうです」
「そいつは大事なことだ。──錠は二つしかないと言つたね」
「その通りです。一つは主人の死骸の腰に、一つは内儀の帶揚に、紐で結んでありました」
「フーム」
平次もこの謎を、ひどく考へ込んだ樣子でした。
土藏の二階の死骸は、床の中に寢たまゝ、鋭利な刄物で首筋を掻き切られたもので、七日前、伜吉三郎のやられた時と、全く同じ手口です。多分、曲者は何かの工夫で土藏の中に忍び込み、頑丈なつくりで、足音もしないのを幸ひ、非常な注意で二階に登り、有明の行燈の光りで、一氣に主人の咽喉をゑぐり、左の大動脈を切つたのでせう。床から板敷をひたして恐ろしい血の海です。
死骸の帶に結んで、大一番の海老錠の鍵はありますが、それは見たところ何んの異状もなく、主人が四六時中それを肌身離さなかつたとすれば、下手人はこの鍵で土藏を開けて入つたのでないことは明らかです。
「錢形の親分さん、飛んだ御世話で」
振り返ると土藏の隅の薄暗いところから、内儀のお紺がゐざり寄つて挨拶をしてをります。脅え切つた青い顏ですが、よく脂が乘つて、ヒステリツクで、主人半左衞門がこの女を持て餘してゐた消息もよくわかりさうです。
「飛んだことでしたね、──ところで、お内儀さん、この土藏の鍵はもう一つあるさうだが、みせて下さいな」
平次は早速用件にとりかゝりました。
「これですよ」
内儀のお紺は、帶の間から大きい鐵の鍵を出し、紐をくゞらせて平次の手に渡しました。
「なるほど、──ところでお品さん、この鍵から、なんか氣の付いたことはないものかな」
「私に?」
お品は平次に渡された鍵を、土藏の窓のところへ持つていつて、念入りにみてをりましたが、やがて懷ろ紙を取出して、小さく捻ると鍵の穴に入れて念入りに拭きはじめました。
「ね、お品さん」
「これでせう? 鍵の穴に、青い印肉がついてゐますね」
「ところで、それはなんだと思ふ、お品さん?」
「鍵の型を取つたのでせうか」
「その通りだ。八、石原の子分達を四、五人頼んで、この邊の飾り屋を一軒々々調べてくれ。青い印肉で捺した型を持つて行つて、鍵を拵へさしたものはないか」
「成程そいつは極め手だ、そんなことなら直ぐわかるに違ひありません、待つて下さいよ」
八五郎は飛出しました。
「ところで、お内儀さん、この鍵を誰かに貸したことはなかつたでせうか」
「さア、そんな覺えはありませんが」
内儀のお紺は考込んでをります。
「主人の持つてゐる方の鍵は?」
「それはもう、寢ても起きても、肌身を離したことのない人でした。土藏には大事なものが澤山入つてをりますし」
「貸した覺えはなくとも、氣が付かずに、鍵を手離したことはありませんか」
「さア」
「例へば、今朝土藏の戸を開けたのは、下女のお榮だといふことだが──」
「さう言へば、お榮にはその鍵を貸して時々藏の戸を開けさせましたよ」
「何時頃から」
「それはもう、隨分前からのことで」
「そのお榮を呼んで貰ひませうか」
内儀のお紺は、土藏の二階から降りると、丁度其處にゐ合はせた、甥の房吉に頼んで、お勝手にゐる筈の下女のお榮を呼ばせました。
「あら、私に、御用ですつて」
お榮はぬれた手を拭き〳〵土藏の二階へ顏を出しました。
「お前は土藏の鍵を、誰かに貸したことはなかつたか、こいつは大事なことだ、本當のことを言つてくれ」
平次の調子は少し開き直ります。
鍵を誰にも貸さなかつたかと訊かれて、下女のお榮はプーツとふくれました。丈夫さうな四十女の赤い頬が、良い光澤になつて、なか〳〵見事です。
「人に貸すわけがないぢやありませんか」
「待つてくれ、お前をとがめるのぢやない。手が閉がつてゐて自分が藏の戸が開けられなくて、誰かに頼んで開けて貰つたことはないのか、それを訊いてゐるのだよ」
平次は素直に言ひ直しました。どうも相手が惡さうです。
「それなら、ありますよ。私はお勝手が忙がしいので、二度ばかりお夏さんに藏の戸を開けてもらつたことがあります。御飯が煮えこぼれてゐるんですもの、仕方がないぢやありませんか」
鍵を貸すといふことゝ、土藏をあけて貰ふといふことを、お榮は全く別のことのやうに考へてゐる樣子です。
お榮はお勝手へ歸されて、その代りお夏が呼出されました。十九のお夏は、神經がたかぶつてゐるせゐか、土藏の二階へ來るのが、嫌で〳〵たまらない樣子ですが、さうも言ひかねて、唇をかんでをります。
「お前はお榮に頼まれてこの土藏を、二度ばかり開けたさうだな」
「ハイ」
「そのカギを誰かに貸した覺えはないか」
「そんなことはいたしません。もつとも使つた後でお榮さんが見えなかつたので、お内儀さんにお返ししようと思つて、居間の机の上においた事はございます。それもたつた二度だけで」
お夏はシカと言ひ切ります。赤毛のキリヽとした顏立ちですが、何處か清潔で賢こさうで、美しくはないにしても何んとなく心ひかるゝ娘です。そのお夏が歸ると、その後ろ姿を見送つて、
「お前さんに訊けばわかるだらうが、此家は帳場で、どんな印肉を使つてゐるんだ」
平次は房吉に問ひかけました。
「黒でございます。商賣が商賣で使ひやうが荒い上に炭の粉も埃も入りますから色ものゝ印肉は使はれません」
房吉の答は當り前過ぎます。そのころ朱色の印肉などは、身分の者か、畫家、書家などでなければ滅多に使はず、大方の町人百姓は黒か青の印肉で間に合はせたものです。
「青い印肉は使はないのか」
「奧で使つてをりますが、これは主人だけの使ひ用で」
「何處に置いてあるんだ?」
「主人の居間の、硯箱の中に入つてゐる筈で、もつとも、使はうと思へば、誰でも使へないこともありません」
房吉の答には含みがあります。
「斯んなことを申上げて宜いのか惡いのか、私も思案に餘りましたが──」
房吉は何やらモヂモヂしてゐるのです。
「何か知つてゐるなら言つてしまつた方が宜いぜ、後でお前が隱してゐたとわかると、面倒なことになるから」
八五郎は一とかどのことを言ひました。不斷聽きなれた言葉でせう。
「さういはれると、私も立ち場に困りますが、何分」
房吉はひどく困惑した樣子です。
「お前から聽いたことにしなきや良からう」
八五郎は追及の手をゆるめません。
「實は、變なことがあるので御座いますよ」
「變なこと?」
平次も乘出しました。
「若旦那の吉之助さんが、毎晩、皆んな寢鎭まつた頃、座敷牢から脱出して、お夏と一緒に、納戸で逢引したり、井戸端で身體を洗つたり、庭をブラブラ歩いてゐることもあるやうですが──」
房吉は言ひ憎さうですが、八五郎にせがまれて、到頭これ丈けのことを言つてしまひました。
「それは、本當か」
「本當のことかもわかりません、一年も土の牢に入つてゐる若旦那の吉之助が、なんとなく身綺麗で元氣で、その上、お夏といふ娘とも、親し過ぎるやうですから──」
お品はさすがに、女らしい細かい直感で、平次の冷たい觀察や推理を飛躍します。
「成程そんなこともあり相だ」
平次は八五郎とお品を誘つて、母屋の座敷牢に行つて、吉之助と逢つて見ようと思ひましたが、フト、氣が變つたらしく、
「八、父親が殺されたといふのに總領の吉之助を、土の牢に入れて置くといふ法はあるまい、早速出してやつて、身扮を改めて、喪主をつとめさせるやうに、内儀と番頭へさう言つてやれ、──文句を言ふ奴があつたら、俺が話をつけてやる。親の死目に逢はせる爲には、傳馬町の大牢からさへ科人を出してやるのがお上のお情けだ」
「へエー」
八五郎は飛んで行きましたが、暫らくして戻つて來て、
「吉之助は大泣きに泣いてゐましたよ、お夏からでも聽いたんでせう、──親不孝はしたかも知れませんが、あの男に親は殺せませんね」
さう、わかつたやうな事を言ふのです。
「さア、此間に座敷牢を調べるんだ。あの中に何んかあるに違ひない」
平次はお品と一緒に、座敷牢に入つて行きます。
座敷牢の中は、陰慘で不氣味でしたが、思ひの外綺麗で、吉之助の生活は、決して自墮落な自棄なもので無かつたことがよくわかります。恐らく、忠實で利巧なお夏が、陰に陽に勵ましてくれたのでせう。
「お品さん、この中に鍵があるだらうと思ふが、何處に隱してゐるだらう」
平次は暗い座敷牢の中を、一と通り見廻しました。吉之助が夜な〳〵こゝを脱出してゐたとすれば、お夏が青い印肉で型を取り、錺屋に頼んで、もう一つの鍵を造らせたに違ひなく、その鍵は身につけて出た筈はないので、座敷牢の中に隱してゐなければなりません。
「こんなところではないでせうか」
お品が別に物を考へる樣子もなく、爪立ちしてヒヨイと手を伸ばすと、牢格子の上、丁度海老錠のおろしてあるあたりの長押の凹みに何んの巧みもなく、大きい鐵の鍵が載せてあつたのです。
「それだ──さがし物は女にかぎるよ」
平次もついからかつて見る氣になりました。
「まア、兄さん」
「ところで──これで何も彼もおしまひにしたいが──吉之助に逢つてきけば、わかるに違ひない」
さう言ひながら、平次にはまだ何やら腑に落ちないものがありさうです。
「親分、座敷牢のカギと土藏のカギが同じものなら、下手人はその合カギを造らせた伜の吉之助にきまつたやうなものぢやありませんか。一年も土の牢に入れられるとどんな孝行息子だつて、氣が變になりますぜ」
八五郎は飛込んで、總領の吉之助を縛りかねまじき氣組です。
「八さん、お待ちなさいよ、吉之助が親殺しの下手人なら、もつと念入りにカギを隱しておきますよ」
お品はあわてゝ留めました。
「兎も角も、吉之助に逢つて、この鍵を突きつけて見よう」
平次は二人をなだめて、みんなのゐる方に引返したのです。
主人半左衞門の死體は、土藏から母屋に移され、清められて入棺を待つてをります。親類や、近所の衆がそれを遠卷にして、内儀のお紺は濕つぽく佛の飾りの世話を燒き、お夏は心配さうに縁側から覗いてをります。
父親半左衞門の死骸の前には、身扮を改めた吉之助が、崩折れたやうに坐つて、頭もあげ兼ねた樣子でした。父の死骸の前に引据ゑられた親不孝者の典型的な姿です。
「親分、ちよいと」
八五郎が庭から呼んでをります。
「何んだ八」
「石原の子分衆が、鍵をこしらへた錺屋を搜し當てた相ですよ──それも二軒あつたといふから念入りぢやありませんか。青い印肉の型でこしらへたのが一軒、新粉の型でこしらへたのが一軒」
八五郎は四方構はず怒鳴るのです。
「お品さん、八の話を聽いて下さい。僞鍵が二つあれば、下手人はもうわかる筈だ。わかつたら、構はないから、石原の子分衆に縛らせて下さい。飛んでもない惡賢こい奴だから、油斷をしないやうに」
平次は四方を憚り乍ら、お品にさゝやくのでした。
「錢形の兄さんは?」
「俺は曲者を見張つてゐる」
「よく、わかります、それぢや」
お品はそつと座を外すと、八五郎と一緒に外の方へ行つてしまひました。
後に殘つた平次、主人半左衞門の死骸の前にゐざり寄つて、吉之助と肩を並べ、靜かに默祷してをります。
内儀のお紺はその間に佛樣の前を飾りました。甥の房吉と、番頭の文六が、机を運んだり、水や線香を持つて來たり、忙しく世話を燒いてをります。
「吉之助さん」
平次は靜かに聲を掛けました。
「ハ、ハイ」
「氣の毒だつたな、こんなことになつて」
「親父はさぞ口惜しかつたことでせう。私の心掛けが惡かつたばかりに──でも」
「でも?」
「一年もの間、あの座敷牢で辛棒したお蔭で、私はすつかり心持ちを入れ換へました。これからは心掛けをよくして、親孝行の眞似事でもしようといふ矢先に──」
吉之助は子供のやうに咽び泣くのです。
「隨分人を怨んで、自棄になつてゐたお前が、どうしてそんな氣になつたんだ」
「あの娘のお蔭でございました」
「あの娘?」
「名僧智識のお説教でも、私の曲つた性根は直りさうもありませんでしたが──」
吉之助はさういつて、チラと縁側の方を見やるのです、そこには心配さうに、お夏が立つてゐるのでした。
「そんな心掛のよいお夏が、どうして、鍵の型をとつて、座敷牢の合鍵などをこしらへたんだ」
平次は到頭いふべきことをいつてしまつたのです。
「惡いことかも知れませんが、私が改心したといつたところで、兩親は容易に信用してくれず、それに、いつまでも土の牢にゐると、私は身體を惡くして、病人になりさうでした。そこで、お夏に頼んで、決して自分勝手には外へでないし、人目に觸れるやうなことをしないからと、堅く約束をして鍵を造らせました」
「その合鍵はもう一つあつたはずだ、お前は氣がつかないか」
「私のは、格子の上の長押に置いてあります、もう一つあるとは、全く初耳で」
吉之助は顏をあげるのです、散々泣きくたびれて、心の緊張も解けた樣子です。
お品は子分達に圍まれて、物置の前に立つてをりました。
「ね、お品さん、あつし達は本所を受持つて、三人で手わけをして緑町から中の郷、松倉町と搜して龜澤町へ歸つて來ると、何んのこつた、お膝元の龜澤町に、青い印肉の型で、海老錠の合カギをこしらへたといふ、錺富といふ正直者がゐるぢやありませんか」
「頼み手は?」
「若い娘──錺富は此家のお夏さんと見當をつけてゐたやうで『鍵を無くして、主人に申譯が無いから』と合鍵を造らせた相で」
子分の一人が説明するのです。
「もう一つは?」
「あつしの方は、いきなり深川へ行つて見ましたよ。どうせ合鍵でもこしらへようといふ奴は、近所の錺屋に頼むはずは無からうと、林町、森下町、菊川町と搜し、芳太郎といふ筋のよくないので評判の錺屋に入つて聞くと、始めは何んにもいひませんでしたが、十手を見せて脅かした末、たうとう白状させましたよ。何んでも十日ばかり前、しん粉でこしらへた海老錠の鍵の型を持つて來て、いきなり一兩の小判を投り出し、この合鍵をこしらへてくれといつた相で」
「相手の人相はわかつてゐるのか」
「人相も名前もわかりません。作り聲の鼻聲で、おまけにほゝ冠りをしてゐた相で」
「?」
「でも錺芳は太てえ野郎ですから、矢張り眼がきゝますね、その男は色の白い立派な男だつたが、フト見ると、ほゝ冠りの下から見える首筋が眞つ黒だつた──と」
「もうわかつたよ、──下手人は氣が付いたかも知れない、八方に手を廻して逃道を塞いでくれ」
お品はキビキビと事をはこびます。
「誰です、下手人は?」
八五郎は後から來て、お品の前に鼻面を出します。
「行つて見ませう、八さん、どうせ、私では手におへるはずもない」
お品は平次への義理で、この曲者を八五郎に縛らせる氣でせう。
「さア」
二人は元の母家へ入つて行くと狹い戸口から疾風の如く飛出した曲者、あつと思ふ間もなく八五郎を突き飛ばし、續くお品に、猛獸のやうにノシかゝるのです。
お品も一とたまりもなく倒れましたが、その手は無意識に働いて曲者の裾をひしと掴んだ。
「邪魔だツ」
振り返つた曲者の手には、何時の間に拔いたか、匕首が光つてをりました。
「危いツ」
それが動けばお品は一とたまりもなくやられたことでせう、が、早くも追つて出た平次の手から、久し振りの投げ錢が飛んだのです。
二つ、三つ、宙を切つて飛ぶ寛永通寶の波形錢は、匕首の拳を叩き、鼻を打ち、左の瞼をかすめてハツとたじろぐ曲者。
「野郎ツ」
誰やら、縁側から飛降りて、その曲者にガブリと組付いたのです。
そのひまにお品は辛くも立ち直つて、曲者の匕首からのがれました。そしてつぎの瞬間にはもう、八五郎も飛び起き、平次も馳けつけて、三方から曲者を押へてしまつたのです。
「お品さん、子分衆が居るだらう、繩を、早く」
この期に臨んでも平次は、この手柄をお品のものにして、父親の石原の利助の面目が立てさせてやりたかつたのです。
石原の子分達が、二、三人馳け寄つて、曲者に繩をかけました。
「野郎ツ、面ア見せろ」
それは、言ふ迄もなく、甥の房吉の、憎惡と失望に歪んだ、顏だつたのです。
「有難う、お前さんのお蔭で、お品さんが怪我をしなくて濟んだ」
平次がさう言つて、肩を叩いたのは、座敷牢から出してやつて服裝を改めさした、總領の吉之助の照れ臭い顏でした。
「へえ、さう言はれると、面目次第もありませんが、この野郎は私に取つては親と弟の仇だつたわけで」
その親の仇を討つた吉之助は小さくなつてをります。
その中で、一番立場の變なのは内儀のお紺でした。房吉は實の伜吉三郎を殺し、夫半左衞門を殺した相手に違ひありませんが、その房吉は實は半左衞門の身寄ではなく、内儀自身の甥で、然も、内儀には繼しい仲の、總領吉之助を座敷牢に入れさせたのも、思ひ合せると、大部分は房吉の細工で、内儀のお紺はそれに踊らされたに過ぎないやうな氣がするのです。
「サア、歸らうか、八」
平次は後のことはお品の手柄にして、この騷ぎの中から身を退かうとするのでした。
「へエ、あとは大丈夫でせうか」
「石原の子分衆に任せて置け」
龜澤町の往來へ出ると、日本晴れの五月の爽やかさです。
「あの、親分さん」
振り返ると、下女のお夏が、耻かしさうに二三間追つかけて來ました。
「何だえ、用事は?」
「有難うございました。親分さん、若旦那を助けていたゞいて、本當に何とお禮を申上げて宜いやら」
お夏は、うれしさで一杯のやうです。
「一つだけ訊いて置き度い」
平次は呼び留めました。
「どんなことでせう、親分さん」
「ほかでもない。房吉は、何んだつて手代の磯松を殺す氣になつたんだらう」
「私にも心當りはございません。でも、あの人は執こい人で、隨分私を困らせて居りました」
「磯松は、お前と掛り合ひは無かつた筈だが──」
この娘が、若旦那の吉之助と親しくして居たことは、平次もよく知つて居ります。
「磯松どんは、若旦那のことを心配して、私と内證で打合せたり、相談ごとなどをして居りました。それが氣に入らなかつたかも知れません」
「フーム、そんなこともあるだらうな」
「それに、磯松どんは、正直で氣の小さい人で、房吉どんの惡いことを、いろ〳〵意見などをして居たやうです」
「例へば?」
「さア、よくはわかりませんが」
お夏は巧みに逃げてしまひました。この娘は、人の惡口などを言ひ度くなかつたのでせう。
「へツ、おもつたより良い娘ですね」
家へ引つ返して行く、赤つ毛の下女の後ろ姿を見て、八五郎は目を細くして居ります。
「綺麗ではないけれど、良い娘だな、悧巧で、親切で」
平次もそれには賛成した樣子です。土の牢の中で一年も世話になつて居たら、こんな娘が、本當に好くなつて行くでせう。
× × ×
事件が落着してから、八五郎にせがまれて、平次はかう説明してやりました。
「大概のことはお前にもわかるだらう。房吉は最初にお夏をつけ廻したが、モノにならないので、ひがんで磯松を殺し、それから吉三郎を殺し、主人の半左衞門を殺し、總領の吉之助と仲の惡い叔母のお紺を抱き込んで、加納屋を横領しようとしたのさ。俺は石原のお品さんの家へ投げ込んだ脅かしの手紙が房吉の筆跡だつたので、最初は曲者は房吉ではあるまいと思つたが、自分の字をわざと自分で透き寫したとわかつて、あの細工の細かいには驚いたよ」
「惡い野郎ですね」
「お夏が三日前に書いた手紙を手に入れて、吉三郎をおびき出して殺したのも細工過ぎるよ。その上お夏が机の上に置いた鍵から、新粉で型を取つて合鍵を拵へ、土藏に忍び込んで主人までも殺してしまつた」
「それでわかりましたが、もう一つ猫の子が──」
「土牢から猫の飛出したのをお前は氣にして居るんだらう」
「へエ」
「あれは吉之助とお夏の間の文使ひさ、可愛らしいぢやないか」
平次は全部の繪解きをすませて、そればかりは面白さうに笑ふのでした。
底本:「錢形平次捕物全集第四卷 からくり屋敷」同光社磯部書房
1953(昭和28)年5月10日発行
初出:「神戸新聞 北陸夕刊」
1951(昭和26)年
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年6月9日作成
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