錢形平次捕物控
華魁崩れ
野村胡堂




うらやましい野郎があるもんですね、親分」

 夏の夜の縁先、危い縁臺を持ち出して、を叩き乍ら、八五郎は斯んなことを言ふのです。

「お前でも人を羨ましがることがあるのか、淺ましくなりやがつたな」

 錢形平次は呑氣な心持ちで相手になつて居ります。八五郎が急に慾が出て、かどの地面が欲しくなる氣遣ひは無いと、多寡をくゝつてゐる樣子です。

「相手は駒形の伊三郎の野郎ですがね」

「取り拔け無盡が當つたのか、それとも伊三郎はちよいと良い男だから、大屋の小町娘にでも思ひ付かれたとでもいふのか」

 平次は相變らず氣が無ささうです。秋近い蚊は、三春駒みはるこまのやうに達者で、此邊は水にも藪にも縁があるせゐか、叩いても叩いてもやつて來るのです。

「そんな世間並の話なんか、羨ましくも何んともありませんよ、伊三郎の野郎のところへ、馴染なじみの女郎が無事にねんが明けて、轉げ込んで來た相で、巴屋の友鶴てんで、二十七だと振れ込んでますが、請合三つ位はサバを讀んでますね」

「そんなのが、羨ましいのか、お前は? 小皺が寄るまで苦海に勤めて、長い間に身受けの相手もなく、貧乏な岡つ引のところへ轉げ込む女郎は、一體どんな代物だと思ふ」

「さうは言つても、結納も祝言も拔きの、小風呂敷一つで飛込んで來る女房なんてものは、手輕で結構ぢやありませんか。小格子の小便臭い女でも、女郎には變りは無え、へツ」

「お前はそんな氣でゐるのか、折角良い娘を見付けて、世話をしてやらうと思つて居るのに、年明けの皺の寄つた女郎なんか羨ましがるやうぢや、附き合ひ度くねえよ」

「相濟みません、野郎もとうが立つて縁遠くなると、淺ましくもなりますよ。どう生れ變つても、中屋貫三郎が請出したやうな、入山形に二つの星の、金覆輪きんぷくりん華魁おいらんこちとらの相手にはなりやしません。口惜しいけれど、八方に四つ手をおろして、ダボハゼのやうな年明きを待つ氣になるぢやありませんか」

「情けねえ野郎だ、同じ女房を持つなら、三井鴻池の娘でも狙つちやどうだ、望みは大きい方が宜いぜ」

「中屋貫三郎の請出した誰袖たがそで華魁なんかは豪勢ですぜ、千兩箱を杉なりに積んで請け出し、廓内なかから馬喰町四丁目まで、八文字を踏んで乘込んだ」

「嘘をつきやがれ」

「その引祝がまた大變で、廓内の藝人を總仕舞にして、町々の山車だしが出た」

「宜い可減にしろ、冗談ぢやない」

 八五郎の話は、出鱈目と誇張に充ち滿ちたものですが、調子の馬鹿々々しさに、聽いてゐる平次も腹は立てられません。

「見せたかつたな、親分。誰袖華魁が馬喰町の中屋に乘込んだ時は、その見物の人だかりで、淺草御門の近所へ夜店が出た」

「また嘘になる、話も程々にして置け」

「親分はまた、女の噂となると、氣が無さ過ぎますよ。たまには交際つきあいだと思つて、江戸一番の華魁の噂でも聽いて下さいよ。親分のやうに、そつぽを向いたまゝ煙草を吸つて居たんぢや、話す張合も無くなるぢやありませんか、──尤も、お勝手にはお靜姐さんが、カタコトと愼ましい音を立てゝ居るけれど」

「それが餘計だよ。お靜にはかゝはりの無いことだ。斯うなりや俺も覺悟をきめてお前の話の相手になつてやらう。華魁の話でも蔭間かげまの話でも、夜が明けるまで續けてくれ。明神下の藪つ蚊は飛んだゑさにあり付いて、大喜びだとよ」

「へツ、情けねえことになりやがつたな、蚊燻かいぶしでもおごつて下さいよ。今年はまた陽氣のせゐか、自棄に蚊が多い」

「華魁の話が、蚊の話になつたやうだ。それならどんなに話にはずみが付いても、懷が痛まなくて良い」

「懷の痛まないことは、華魁の話の方も御同樣で、何しろ誰袖華魁が馬喰町の中尾に乘込んだところから見始めて、元服して御新造のお袖と改め、内證ないしよの取り廻し、客と物貰ひとの處置振り、おさいの切り盛り、何から何まで覗くやうに見て木戸を一文も拂はないから、大したものでせう」

「呆れてものが言へねえよ、お前といふ人間は」

「尤も、誰袖華魁たがそでおいらんの見物がうるさいから、時々は覗いてくれるやうにと、中屋から頼まれましたがね。馬喰町から向柳原は川一つ越せば直ぐだから、何んかあつたら、飛んで來て下さいねと、誰袖華魁ぢやねえ、引拔いて中尾の内儀のお袖さんに頼まれましたよ」

「それで毎日、十手を突つ張らかして、中屋の店先へ出かけたんだらう」

「毎日は行きやしません。三日に一度、五日に一度──何にしろ、あれ位の華魁になると、隨分罪も作つてるでせう。誰がどんな時、寢首を掻きに來るか、馴染帳なじみちやうを見た位ぢや見當もつきません」

 八五郎の話は馬鹿々々しく發展します。



「聽いて下さいよ親分」

 江戸の遊女崇拜すうはいが、此處まで宗教的になつて來ると、八五郎一人が異端者であるわけもありません。

「有難く聽聞してゐるよ──地獄極樂の口説くぜつよりは面白さうだ」

「その誰袖華魁といふのは、一頃廓内なかで鳴らしましたよ。昔の高尾、揚卷も、あれほどではあるまいといふ全盛で、誰袖が引いたら、二丁町は闇になるだらうと言はれた位」

「相變らず法螺ほらが多いな」

 平次はまだ茶かして居りました。

「何しろ、誰袖華魁と來た日には、品がよくて綺麗で愛嬌があつて、取廻しが上手で、申分なく出來てゐる上、元が武家の出だ相で、お行儀がよくて學があつて、シイシイカンカンとやらの心得がある」

「何んだいその和蘭おらんだの輕燒見たいなのは?」

「菓子ぢやありません。それ、言ふでせう、茶の湯生け花歌ヘエケエの親類見てえな」

詩歌管絃しいかくわんげん琴棋きんき書畫だらう──、そんな六つかしいことも出來るのか」

「唐天竺の都々逸どゞいつも心得て居るし、笛も吹けば琴も彈くんですつて」

「それで、質も置けば、飯も炊くと來れば大したものだ。お前の嫁にもなる」

「質兩替は中屋の稼業で、置く方ぢやなくて受ける方で」

「成る程ね」

「その誰袖華魁が中屋の北の方に直ると、中屋の主人をおだてゝ、立ちどころに講中が三つ四つと出來た」

「何んだえ、講中といふのは」

「唄のケエに俳諧のケエ、茶の湯のケエと、それ〴〵取卷きが出來た」

「お前は何んのケエへ入つた」

「そんな氣障きざなものには附き合ひませんよ。ぎよくも揚代も無しの、眉を落した華魁の顏を、マジマジ見るケエなんか、憚り乍らこちとらの好みには合ひやしません」

「大層な見識だな。ところで、その取卷には、どんなのが居る」

野幇間のだいこのノラクラ俳諧師はいかいしと、金だけはフンダンに持つて居る、日當りの惡い若旦那と、は持てゞ女を口説かうと言ふ、量見違ひの浪人者とそんなのが音頭取りで」

「それで、お前の話もおしまひか。いづれにしても、コチトラには縁の無い話だ、お前の相手には矢張りお勘子かんこが良いぜ、歌も詠まず、茶も立てず、狼連も居なきやお綺麗でも無い」

「心細い話ですね、──尤も、親分の前だが、ズブの素人にも、磨き拔いたやうな良いのがありますよ」

「お勘子よりも良いのか」

「からかつちやいけません。世間は廣いや、吉原の水をくゞらなくたつて、あんな結構な娘があるんだから、獨り者は樂しみで」

「お前に來てくれさうな娘か」

「飛んでも無い、中屋の亡くなつた内儀の娘で、姉の方は二十三、妹は十九、姉のお柳は後添の誰袖華魁より、歳がたつた二つ下、出戻りですが利巧者で愛嬌者で、これも、茶の湯生花、歌ヘエケエ、何一つ出ないものは無いと言はれるけれど、たしなみの良い素人娘は、そんな手數のかゝる道樂を看板にしねえから、あまり世間の噂には上りません。それから妹のおふぢは、透き通るやうな娘で、笑ふとそりや可愛らしい顏になる、あんなのは多分臟腑ざうふの代りにゼンマイが入つて居て、竹田人形のやうに、カラクリで動くんぢやないかと思ひますがね」

「そんな馬鹿なことはあるものか」

 平次は笑つてしまひました、が、中屋を包む空氣には、何んとなく世間並でないものがあるやうな氣がするのです。



「親分、大變なことになりましたよ」

 八五郎の大變が飛んで來たのは、それから四五日、夏も漸く終わりに近づいた、ある晴れた日の朝でした。

 尤も、この日の八五郎の大變は、全くの大變でした。馬喰町三丁目、中屋貫三郎の女房、言ふまでもなく、曾て才色粂備で吉原三千の遊女に君臨した、誰袖華魁が、昨夜主人貫三郎の留守の内に、何者とも知れぬ曲者にくびり殺され、二十五の若さで、痛々しくも死んでゐたといふのです。

「中屋からは近い私の家へ知らせて來ましたが、兎も角、近所の下つ引をやつて置いて、あつしは親分の迎ひに來ましたよ、唯の女が死んだのと違つて、こいつは──」

「唯の女──つて奴があるか。女郎上りが有難きや、お前一人で行つて見るが宜い。昔の貧乏臭い情夫いろが、まだ其邊にウロ〳〵して居るかも知れねえ」

 平次はツイ、ポン〳〵やつてしまひました。地者を輕蔑けいべつする癖が、當時の若い男のたしなみ見たいなもので、八五郎一人の罪では無かつたのですが、遊女崇拜の淺ましさが、妙にかんにさはるのです。

「さう言はないで、親分、馬喰町中を探したつて、そんな野郎は居ませんよ。お願ひだから、神輿をあげて下さいよ」

 などと、拜み倒してつれ出してしまひました。八五郎から見ると、遊女誰袖を殺すやうな奴は、天下を狙ふ曲者見たいな、兇惡無殘な相手らしく思へるのです。

 馬喰町の中屋は、質屋で油屋で、兩替も兼ねて居るといふ、慾張つた町人でした。土地では數代にわたる家柄で、暖簾のれんの信用も一と通りでなく、代々蓄積した富も、容易ならぬものがあるでせう。

 當代の主人貫三郎は、もう五十過ぎの中老人ですが、四十過ぎてからの道樂者で、若い者と違つて、身上しんしやうを危くするほどのことは無かつたでせうが、自分一代に増やした物は、自分一代に費つても構はぬと言つた、不思議な個人主義の信奉者であり、少しは遊藝雜俳などにも通じて居たので、この七つ下りの病ひは、なか〳〵止みさうもありませんでした。

 名妓誰袖を請出うけだして、宿の妻に直した當座は、少しばかり愼しんで居るやうでしたが、此春あたりから、又も昔の病ひが出たらしく、附き合ひとか義理とかいふ名前で、家をあけることが多くなり、既に吉原には誰袖に代る、新しい女が出來てゐると言つた、通人達の噂も滿更嘘では無かつたでせう。

 その晩も主人は附き合ひとやらで吉原へ行つた留守、内儀が殺されたといふ急の使で、平次と前後して馬喰町の家へ歸りました。

 家は古風で、堂々として、表掛りは平次もよく知つて居ります。何んとなく此界隈を睥睨へいげいして居る感じですが、今朝はさすがあわただしく、人の出入が、町の人達の好奇と苛立いらだたしさをかき立てて居ります。

「あゝ平次親分」

 洒落者らしい主人の貫三郎は、朝からの晴着で、それでも間が惡さうに平次を迎へました。いかにも如才の無ささうな、月代さかやきの光澤の良い年輩です。

 案内されたのは、別棟に建てゝ、廊下で繋いだ奧の六疊でした。狹い場所を巧みに利用した、手の混んだ泉石、その次の四疊半は茶室で、商賣用の藏の庇の下になり、路地を隔てゝ、母家の横手は、殺された内儀には繼しい仲の、姉お柳の部屋になつて居ります。

 部屋に入つて見ると、恐しく贅澤な夜の物の上に、誰袖のお袖は寢崩れたやうに、俯向になつて死んで居るのでした。

蚊帳かやは吊つて無いね」

「──」

 平次は後ろを振り向くと、主人の貫三郎と一緒に來た、六十近い老人がうなづいて居ります。それは番頭の萬七といふのだと、後で聽きました。蒼黒く痩せた老人ですが、道樂者の主人貫三郎に代つて、商賣の方にはなか〳〵の働き者です。

「佛樣に手をつけなかつたのか」

「御檢死が濟むまでは、そつとして置いた方が宜いと思ひまして、何分、冷たくなつて居て、どんなに手を盡したところで、無駄だと思ひましたので」

「成程」

「尤も、あんまり痛々しいので、首を締めてあつた手拭だけは解いて、少しばかり着物を直しましたが──」

「誰がそんな事をやつたんだ」

「男手や、若いお孃さん方には出來ないことで、下女のお菊を呼んでやらせました。今朝これを見付けたのもお菊で」

「その手拭といふのは」

「その枕元に置いてあるのが──」

「成程」

 平次はそれを取上げました。

「親分、それは縮緬ちりめんぢやありませんか」

 八五郎が口を出します。

「踊の手拭だらう、それぢや顏は拭けないよ、──ところで、その手拭を、どんな具合に首に卷きつけて居たか、お前さんは見た筈だから、元の通りにしてくれないか」

「へエ、それは」

「氣味が惡いんだらうな、宜いや、ま、八、お前がやつてくれ。絞め殺すわけぢやねえ、しりごみすることがあるものか」

「良い心持ぢやありませんね、あれが玉屋で全盛を謳はれた、誰袖華魁だと思ふと」

「馬鹿、折目やしわを伸しちや何んにもならねえ、結び目が知り度いんだ、後ろか前か、横か、膝結びか、──」

「手拭は濡れて居ますよ。外側は乾いて居るが、折目の中はグツシヨリで、──まさか、死骸が汗を掻いたわけぢやないでせうね」

「何をつまらねえ──成程、後ろ結びの頑固な男結びか、と、解いちやいけない、下女のお菊を呼んで來てくれ」

「へエ、へエ、暫らくお待ちを」

 番頭の萬七はお勝手の方へヨチヨチと飛んで行きましたが、やがて、三十五六のこの家ではたつた一人の例外になつて居る、恐しく不きりやうな女を連れて來ました。

「何んか御用でごぜえますかね」

 れた手を拭き〳〵、達者さうな女です。

「内儀の死骸から手拭を解いた時の樣子を聽き度い、結び目は此通りになつて居たのか」

「へエ、そつくり此通りで、人殺し野郎がやり直したやうでごぜえますだよ」

「八」

 平次はそつと八五郎のひぢを突きました。危ふく八五郎は死骸の前で笑ひ出しさうにしたのです。



 平次は主人の貫三郎と番頭の萬七を母屋の方へ追ひやつて、八五郎と二人だけになると、内儀のお袖の死骸を中にして、お菊と相對しました。この中年女は、何んかいろ〳〵のことを知つて居さうでならなかつたのです。

内儀おかみの死んで居るのを、一番先に見付けたのはお前だつてね」

 平次の問は定石通りに運びます。

「へエ私が見付けましたゞよ」

「どんな具合だつた、出來るだけ詳しく話してくれ」

「いつものやうに、雨戸を開けて上げようと思つて來ると、蚊帳かやが吊つてねえから」

「待つてくれ、蚊帳が吊つてあるか、吊つて無いか、縁側から、障子越しにわかるのか」

「解るわけは無えだ、──内儀さんが、いつも雨戸を開けた時、部屋の隅の障子を、少しばかりすかしてくれと言ふから、そつと開けて見ると蚊帳が無くて、床の上にお内儀さんがおつ俯して居るでねえか。その上首を絞められて居るから、思はず大きい聲を出すと、大きいお孃さんと、番頭さんが飛んで來ましたゞよ」

「部屋の障子は確かに締つて居たことだらうな」

「間違ひは無いだよ、それから」

「何んか變つたことがあつたのか」

「枕元の水差しが引つくり返つて、布團の端から疊の上へかけて、ひどく濡れて居たゞよ」

「内儀さんは、夜中に水を呑むのか」

「お酒も煙草もお好きだから、夜中に喉もかわくべえ」

「お内儀さんは、寢る時念入りに化粧をするだらうな」

「江戸の綺麗な女は皆んな寢化粧をするだよ」

 お菊は不きりやう者らしい悟つたことを言ふのです。さう言はれるまでもなく、死骸の顏は綺麗に化粧をしてあり、首のあたり、手拭の跡だけ、寢白粉の剥げて居るのも淺ましく目立ちました。

「昨夜、内儀さんが床へ入つたのは?」

「旦那樣がお留守の晩は、いつでも早いだよ。昨夜も酉刻半むつはん(七時)頃このお部屋へ引込んで、少し氣分が惡いから、誰も來ないやうに、蚊帳も私が吊るからと言ふから、私は雨戸を締めただけで、お勝手の方へ行つてしまひましたゞ」

「それつ切り、誰も此處へは來なかつたわけだな」

「人殺し野郎だけは來たわけだよ」

「あ、成る程、お前は良い御用聞になれるぜ。錢形の親分をやり込めたりして」

 八五郎はまた、餘計なことを言つて平次に睨まれます。

「内儀のことで、何んか、氣のついたことは無いか」

 平次は改めて訊ねました、この下女は錢形をやり込めて見度くなるほどの、妙な智慧の持主で、その上決して口の重くないことを見て取つたのです。

「さう言つて居ましたゞよ──私は近いうちに殺されるかも知れない──つて」

「お内儀さんがさう言つたのか、お前に?」

 平次はひどくをひかれた樣子です。

「二度も三度もくり返して言ひましたゞよ、玉の輿に乘る氣で來たけれど、これでは命が危ないつて」

「二人のお孃さん達と仲が惡かつたのか」

「そんなことはありましねえ、心の中ではなんと思つて居たか知らねえけんど、見かけは仲の良い母娘おやこでね」

「フーム」

「お内儀さんも利巧な人だけれど、お孃さんは、それにも増した考へ深い人だから」

「家の者はそれ丈けか」

「手代の美代吉どんがあるだ」

「それは?」

「若い癖に働き者で、この上もなく固い男だから、私などはどんなに機嫌を取つても、年中ニコリともしてくれねえ」

 お菊はそれが不平でたまらない樣子です。

「ところで、内儀さんを殺した、この手拭は誰の持物だ」

「サア」

 お菊は返事を澁りました。

「唯の手拭ぢやない、縮緬ちりめんの手拭だ。これは顏を洗ふ時や、風呂で背中を流す時使ふ手拭ぢや無い」

「──」

「お前が言はなきや、他の者に訊くまでのことだ」

 平次の聲は少し嚴しくなりました。

「それぢや言ひますだ、誰にも私が教へたと言はないで下せえよ」

「あ、それは大丈夫だ」

「大きいお孃さんの手拭だよ、踊を踊る人は他に無えから」

「フーム」

 平次もツイ唸つてしまひました。



「八、お前はどう思ふ?」

 平次は膝とも談合と言つた心持で、八五郎に問ひかけました。

「達者な下女ですね。手代の美代吉に氣があることゝ、小金をめて居ることは確かですが、下手人にしちや、少し汚なづくりですね。あんなのに殺されちや華魁おいらんが浮ばれねえ」

「誰も下女のことを訊いてやしないよ、下手人の見當は付いたか、それを訊いて居るんだ」

「まるつ切り見當もつきませんね、もう少し當つて見なきや」

「それぢやお前は、御近所の噂を精一杯にかき集めてくれ、その間に俺は二人の娘と手代の美代吉に逢つて見るから」

「へエ」

「おや、血を吸つた蚊が居るぢや無いか」

 平次は立ち上つて、部屋の隅、置床の上のあたりを覗いて居りましたが、懷紙を取出して壁の隅に追ひ込んで捕へると、蚊はつぶれて、べつとり紙に血が附きます。

「死骸を刺した蚊ですね、一と晩此處に轉がつて居たんだから」

「いや、蚊は人間の死骸を刺さないよ。さうかと言つて、生きて居る人間が、こんなに血を吸はれるのに、默つて叩きも追ひもせずに居る筈も無いわけだな」

「すると?」

 八五郎は尤もらしく首をひねりましたが、この謎は簡單に解けさうもありません。

「蚊帳を吊らずに寢て居たのは可怪いよ。尤も、まだ寢卷と着換へたわけぢやないが、──起きて眼を開いて居る者を、誰が一體後から締めたんだらう」

「元が元だから、忍んで來た男があつたとしたら、どうでせう」

「それは噂をかき集めたらすぐわかるだらう、が?」

「何んです、親分」

「後ろへ廻つて縮緬の手拭で締められるのを、默つて居るだらうか、──得物は澤山あるのに、何んだつて縮緬の手拭なんかを持出したんだ」

「──」

「その上、手拭が濡れて居たのはどういふわけだ」

「解けないやうに、締め殺してから、結び目を濡らして逃げたんぢやありませんか。縮緬の手拭ぢや、すぐ解けさうですね。手拭がほどけて、生きかへつて騷がれちや大變ですからね」

「そんなことがあるかも知れない。それにしても、少し變だよ、──第一手拭が濡れ過ぎて居る──朝までかわかずに居た位だから」

「さうですね」

 八五郎の鼻の下は、また長くなるだけです。

「兎も角も、少しいろんな人に當つて見よう、お前はそとだ、──序に二人の娘を呼んでくれ、一人づつが宜い」

 八五郎が出て行くと、平次は、布團の崩れ、内儀の身だしなみ、部屋のよく片付けてある樣子などを見て居りましたが、やがて暫くすると、縁側に影が射して、二十二三のこれは非凡な感じのする女が入つて來ました。姉娘のお柳といふことは、一と眼でわかります。

「──」

 何やら口のうちで挨拶するのを受取つて、

「お柳さんですね」

 平次は靜かに迎へました。

「何んか、御用で」

「内儀のお袖さんは、此通り殺されて居るんだが、お前さんは、どう思ひなさる」

「さア」

 お柳は返事に困つた樣子です。少し色の淺黒い、眼鼻立の確りした、美しいといふよりは、いかにも聰明らしい女です。

「お前さんとは生さぬ仲だが、不斷どんな具合でした」

「年頃が似て居りますから、母娘といふ氣はしませんでしたが、でも、よく出來た方でした」

いさかひなどは?」

「そんなことは御座いません」

「讀み書きから、遊藝まで、よく出來た人だつたと聽きましたが」

「え、それはもう」

 お柳の言葉には、何んとなく氣の乘らない響きがあります。

「夜分は何處に休むんです、お孃さん」

「私は一人で中庭の向うの部屋に休みます。妹は淋しがりやで、お勝手の近いところへ、お菊と同じ部屋に休みますが、私は一人で居るのが好きで」

戸締とじまりは?」

「お菊と美代吉がいたします。今朝は何處も戸締りに變りは無かつた相で」

「すると下手人は家の者といふことになりますね」

「さういふことになるでせうか」

 お柳の調子は至つて穩やかですが、ひどく神經を苛立いらだたせた樣子です。

「立入つたことを訊きますが、近頃繁々と出入する男はありませんか」

「隨分いろ〳〵の人がいらつしやいます」

「例へば?」

「──」

 それにはお柳の返事がありません。毛の多い、豊滿な肉躰で、何處かに押し隱したなまめかしさがあり、眼の配り、さゝやかな微笑、身のこなし、言葉の匂ひなどから、容易ならぬ聰明さを感じさせる女でした。

 續いて呼んだ妹娘のお藤は、色白で可愛らしくて、聰明といふよりは、上品さですぐれて居ります。

「お孃さん、亡くなつた内儀さんとは、仲が良かつたことだらうな」

「はい」

 言葉少なに、おど〳〵し乍ら、お藤はうなづきました。

「昨夜は?」

「あの人は早く部屋へ籠りますから」

 母とは言はずに、あの人といふのが妙に耳立ちます。

「姉さんのお柳さんに、近頃縁談でも無かつたでせうか」

「いえ、姉はもう、嫁の務めは懲々こり〳〵したと言つて居りました」

「姉さんが先の嫁入先から戻つたわけは?」

「おしうとめさんとうまく行かなかつた相です」

 これだけの事を、お藤に言はせるのは、大變な骨折でした。



「親分、いろんなことがわかりましたよ」

 八五郎は近所の噂をかき集めて戻つて來ました。

「お前の鼻には叶はないよ、俺の方は何んの收穫みいりも無い」

 平次は苦笑をし乍ら、縁側の端つこに八五郎を招きます。

「第一、手代の美代吉が飛んだ良い男で、此家の婿になることをたくらみ、姉娘のお柳を三年越口説き廻した相ですが、お柳はそれを相手にもせず、他所よそへ嫁に入つてしまつたが、あんまり賢こ過ぎて姑と折合がつかず、去年の春不縁になつて里に戻つて居ることは親分も御存じですね」

「そんな事があつた相だな」

「あの姉娘のお柳といふのは、大變な利口者で、何をやつても、誰袖華魁たがそでおいらんの内儀が叶はなかつた相ですよ」

「フーム」

「何しろお柳と來ては、一とかどの女學者で、四書五經がチヤンチヤラ可笑しく、唐天竺の都々逸どどいつに節をつけて、寢言に讀み上げる──」

「お前の言ふことは一々變だよ」

「茶の湯生花歌ヘエケエ何んでも出來ないと言ふことは無いから、吉原一番の學者の誰袖華魁も全く齒が立たなかつた」

「で?」

 女郎の藝事を誇大に言ひ觸らされたのは、恐らく、宣傳の爲であつたらしく、現に、川柳にも『琴棋きんき書畫並べてばかり知りんせん』とか『黒助くろすけへ代句だらけの繪馬をあげ』とか、その頃の洒落者しやれものは、飛んだところで偶像破壞をやつて居ります。名媛名妓のエラかつた話や學問文藝の逸話も、十中八九は後世の拵へ事で無ければ、幇間たいこ持のやうな當時の俳諧師や繪描きの代筆代作だつたなどは想像されます。

 玉屋の誰袖華魁が、仕込の良い大家の娘ほどの藝も學も無かつたところで、何んの不思議もなく、平次は大方それを察しても居た樣子です。

「話はそれつ切りか」

「ところが、姉娘のお柳に嫌はれ乍ら、中屋から飛出すことも出來なかつた手代の美代吉は、主人の後添になつて來た、華魁の誰袖を見て、すつかりフラ〳〵になつてしまつた」

「變なことだな」

「固い一方で通つた男、三十五まで獨り者で暮したお店者たなものが、金覆輪きんぷくりんのお職華魁と、生れて始めて口をきいたんだから、フラ〳〵になつたのも無理はありませんよ。あつしのやうに華魁摺れがして居ると、少し出來の良い菊人形ほどにも思はないが」

「相變らずお前の言ふことは亂暴だな」

「兎も角も、まゆを落して、花の影のやうに、フンワリと動く内儀を見てそつと溜息を吐いたり、涙ぐんだり、手紙ばかり書いたり、その手紙は皆んな噛み碎いたり、揉みくちやにして捨てたのが、うつかり風に吹かれて飛んだのを、拾つて見た奴があるんだから面白いでせう」

「本人は面白くないよ」

「いくら女郎上りでも、今は主人の内儀でせう、それに命がけで惚れるなんて不心得な奴は、面白がつたつて構ひませんよ」

「で?」

「誰が見たつて、内儀のお袖殺しの下手人は、この手代の美代吉でせう、──尤も私は最初はあの繼娘まゝむすめのお柳かと思ひましたが」

「お柳ではあるまいよ、僞の證據も言ひ逃れも拵へちや居ないし、樣子がいかにも平氣だ、手拭がお柳のとわかつても、大して驚いた樣子も無い、餘程大膽不敵な女で無きや、先から先のよく見えるかしこい女だ」

「ね、さうでせう」

「それに、内儀のお袖が、蚊帳も吊らずに、たつた一人で居るところへ、不斷からあまり仲の好くない繼娘のお柳が入つて行つて、後ろから自分の手拭を卷きつけて、締め殺すといふ圖は考へられないぢやないか」

「すると、下手人は矢張り手代の美代吉でせう、親分」

「さう言ふことになるかな」

「ところが、その美代吉は、昨夜此家に居なかつたんですよ」

「?」

「町内の衆と大山樣へお詣りに行つて、今朝遲く、皆んなと一緒に戻つて來ましたよ。道了樣の御利益で、危なく首が繋がつたわけで」

「それは間違ひあるまいな」

「同ぎやうが七八人居るんですから、宿から脱出せるわけはありません」

「よし〳〵解つた、話はそれつ切りだね」

「まだありますよ、華魁誰袖──内儀のお袖さんが、あの通り青白くて細いのは、死んだせゐばかりぢやなくて、あの女は前々からむつかしい病氣があつたんですつてね」

「フーム」

請出うけだされて中屋へ入つたのは去年の秋、亭主の貫三郎が、浮氣を始めるのは、少し早過ぎると思つたら、これにはワケがあつたんですね、道樂の味を覺えたものは、五十になつても神妙にはして居ませんね」

「今日はひどくさとつたことばかり言ふぢやないか。ところで、お前は、その美代吉に逢つたのか」

「いえ、まだ逢つたわけぢやありません」

「ぢや、此處へ呼んでくれ、ところで、他に内儀と親しい男は居なかつたのか」

「ありますよ、元は誰袖華魁だ。客あつかひの名人で、一度逢つたものはきつと裏を返す、此家へ入つてからも、何んかの遊藝や用事にことよせて、狼共が寄つて來た相ですが、だん〳〵華魁の學や藝は大したもので無いとわかつて、次第に足が遠退いた上、主人の貫三郎が浮氣を始めたので、内儀の方でも身を愼んで、近頃は神妙に暮して居た相です。尤も、派手で浮氣つぽい暮しをして來た女が、そんな心持が何時まで續くか、怪しいものでせうがね、──尤も死んでしまへば、何も彼もそれつ切りで」

 八五郎なか〳〵よく氣が廻ります。



「お前は今朝歸つた相だな」

「へエ」

 平次の前に小さくなつたのは、手代の美代吉でした。三十五にしては少し若造りで、色の白い、華奢きやしやな男、斯んな肉の薄い眼の大きい男に、飛んだ激情家のあることを、平次の經驗が教へてくれます。

「お前が居なくて飛んだ仕合せだつたよ。危なく首が飛ぶところさ」

 八五郎がまた餘計なことを言ふのです。

「冗談ぢやない、私がどうしてお内儀さんを」

 美代吉の顏はサツと變ります。

「まア、勘辨してくれ、八が言ひ過ぎたやうだ。ところで、お前は、お柳さんが嫁に行く前、一生懸命追ひまはして居た相だが」

「へエ、私も若かつたもので、そんな氣になつたこともありますが、あの人は氣が強くて利口で、私などにははなも引つかけてくれませんよ」

「内儀さんは?」

「其處へ行くとお内儀さんは親切な人でした。お氣の毒なことに、あんなことになつて」

「お前には下手人の見當はつくか」

「私にわかりやしませんが、兎も角、お内儀さんと一番仲の惡かつた人に訊くことですね」

「それは誰だ」

「隱すまでもありません。お孃さんのお柳さん、──あの方は何んか御存じでせう、親分の口から訊いて見て下さい」

「お前はお柳さんが怪しいといふのか」

「そんなわけぢやありません」

 美代吉はこれ以上のことは、何んにも言ひませんでした。あとは身の上話で、美代吉は中屋の遠縁に當ること、三十五まで奉公して居るのは、商賣の手違ひで若い時持つた家をつぶし、兩親も兄弟も無く、三十近くなつてから、中屋の店の手傳ひに入つて、今日に及んだといふことで盡きます。

 唯、この男の激しさから、平次は何やら不安なものを感じましたが、別に取り立てゝ言ふほどのことも無く、その日は暮れてしまひ、平次は八五郎を誘つて明神下の自分の家へ引あげました。

「親分、まだ下手人はわからないので?」

 不足らしく言ふ八五郎に、

「大方わかつた積りだが、もう少し考へて見ようと思つて引揚げたよ。どうせ逃げも隱れもする相手ぢやないから」

「逃げも隱れもしない、それは誰です、親分」

「まだ、お前には言ひ度くないよ」

「さう言へば、手代の美代吉もそんな事を言つて居ましたよ。夕方、お孃さんのお柳を物蔭に呼んで、──私は下手人を知つて居る、それが聽き度ければ、今夜正子刻こゝのつ(十二時)内儀の部屋の裏、あの土藏のひさしの下へ來てくれ──と」

「それは本當か」

「本當ですとも、此耳で聽いたんですもの」

「お柳は何んと言つた」

「默つてうなづいたやうでした」

「面白くないことがあり相だ。お前御苦勞だが、これから直ぐ出かけてくれないか」

「へエ?」

「中屋へ潜り込んで、その土藏の庇の下で待つて居るんだ。美代吉とお柳が何を話すか、それが聽き度い」

「やつて見ませう」

 八五郎は一杯呑むのを遠慮して、晩飯だけ詰め込むと、馬喰町ばくろちやうの中屋へ、少し早いのを承知で出かけました。

        ×      ×      ×

 その晩子刻こゝのつの鐘は鳴りました。秋口らしくもないムン〳〵した夜で、月も何んにも無く、僅かに母家の明りが漏れて、その邊の樣子がわかるだけです。

「美代吉どん、何んの用?」

 闇から出たのは、姿の美しいお柳でした。手代風情にこんなところへ呼出された不愉快さを押し隱して、寸毫すんがうも引け目を感じない、やゝ嚴しい聲です。

「お孃さん、皆んなに聽かれ度くなかつたんです、耳」

 美代吉はお柳の方へ近づくと、

「其處では言へないの」

「でも大事のことですから」

 フト美代吉の身體が寄ると見ると、白いものが、矢庭にお柳の首に掛けられました。

「ウム」

「覺えたかツ」

 美代吉の手が、お柳の首を、手拭で締めて居るのでした。

「野郎ツ、何をしやがるツ」

 其處へ飛出したのは、言ふ迄もなく、先刻から蚊に刺され乍ら待機して居た八五郎です。

「あツ、畜生ツ」

 美代吉の手をぎやくに取つてねぢあげると、お柳はからくも喉の手拭を外しました。

「ま、なんて人、私を殺す氣」

 はしたなく悲鳴もあげずに、お柳は自分の喉のあたりをさすつて居ります。

「八、もう宜い、その野郎をつれて來い、皆んな母屋で待つて居る筈だ」

 續いて闇から出て、八五郎の肩を叩いたのは、これも外ならぬ錢形の平次でした。

 やゝ暫らく經つて、母屋の廣間に、家中の皆んなを集めた平次は美代吉を八五郎に護らせて、斯う言ふのでした。

「飛んだことでした。あつしが晝のうちに皆んな話して置けばよかつたが、まさか斯んな事にならうとも思はず、默つて歸つて、危いことになるところでしたよ」

「──」

「實は、このお内儀さん殺しには、下手人が無いのですよ」

「──」

 あまりの事に、皆んなは顏を見合せました。

「お内儀さんは、いろ〳〵のことで死に度くなつたが、唯死んではつまらないと思ひ、一番憎いと思ふ人に、下手人の疑をかけようと思つたのです。お氣の毒だが、お内儀さんの一番憎かつたのは、何をやつても自分より上手で、齒の立たなかつたお孃さん──お柳さんでした」

「まア」

「で、に刺されるのも忘れて、死ぬ仕度をしたのはその爲。蚊帳を吊らないのが變だと、私は最初に思ひました。次には、首を締めたのはお孃さんの縮緬の手拭だと聽いてもう一つ變だと思つた。三つ目の疑は、その手拭が濡れて居たことでした。人間は自分の手で自分の首を締めては死ねるものでは無い、これは誰でも知つてることです。高いところから首を吊るなら別だが、手で首を締めると、氣がポーツとした時手をゆるめるから、どうしても死なずに生き還る、これは柔術やはらの先生かお醫者に訊けばわかることだ」

「──」

「そこでお内儀は、手拭で自分の首を力一杯縛り、後ろの方へ男結びに固く結んだ上、枕元の水差しの水を、その手拭にかけた。──縮緬ちりめんは濡れると縮むから、力一杯締め、固く結んだ上、水をかけると締つて容易と解けない、水差しが引くり返つて、疊も床も濡れて居たのは、自分の首を締めて、後の始末が出來なかつた爲だ」

 平次の解説の鮮やかさ、あまりの事に一座の者は顏を見合せるばかりです。

「美代吉はそれを知らずに、お柳さんが仲の惡い繼母を殺したと思ひ、前々からのお柳さんへのうらみが重つて、お内儀の仇討をする氣になつた。飛んだことだが。これが、表沙汰になると、輕いお處刑しおきぢや濟まない、──お柳さんさへその氣なら、何處か姿の見えないところへ逃げて貰ふことだね」

「親分」

 美代吉は泣き出しました。お柳はそれを遠く見て默つてうなづいて居ります。

「それぢや、皆さん」

 平次は呆氣に取られて居る人達を後ろに、八五郎を促して立ち上るのです。夜の街を明神下へ辿り乍ら、

「變なことでしたね、親分」

 八五郎が言ひかけると、

「飛んだ買ひかぶられた誰袖たがそで華魁が可哀想さ。尤も、自分で儲けた金なら、どんな浮氣をしても構はないと思つて居る、主人貫三郎も氣の毒だが」

「でもあの妹娘のお藤は良い娘でしたね、姉のお柳は學者過ぎたが」

 八五郎は相變らずそんな事ばかり考へて居るのです。

底本:「錢形平次捕物全集第四卷 からくり屋敷」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年510日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1952(昭和27)年9月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

※副題は底本では、「華魁おいらん崩れ」となっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年816日作成

2017年34日修正

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