錢形平次捕物控
處女神聖
野村胡堂




 本郷妻戀町つまごひちやうの娘横丁、──この邊に良い娘が多いから土地の若い衆が斯んな名で呼びましたが、何時の間にやら痴漢ちかんが横行して、若い娘の御難が多く、娘受難横丁と言ふべきを省略して娘横丁と、其儘の名で呼び慣はしました。

 其路地の眞ん中に、血だらけの男が一人、大の字になつて引つくり返つて居たのです。見付けたのは毎朝聖堂に通ふ、儒生じゆせいの吾妻屋丹三郎、若旦那崩れで、身體が弱くて、足が惡く、その上落ぶれ町人で、まともには聖堂に通ふわけに行かず、散歩かた〴〵門外から遙かに孔子こうしの像を拜んで涙を流して歸つて來るといつた、世にも氣の毒な純情青年でした。

「わツ、人殺しツ」

 若旦那丹三郎は完全に尻持をきました。青表紙あをべうしの化物のやうな瓢箪息子へうたんむすこが、毛むくじやらの大肌脱ぎに、取亂した獰猛だうまうな男が、首筋を刺されてフン反り返つて死んで居るのを見て、膽をつぶしたのは、まことに當然のことだつたのです。

 若旦那丹三郎の通るのを合圖に、表戸を開ける習慣になつて居る路地内ろぢうちの人達は、驚いて飛んで來ました。

「若旦那どうしました」

 抱き起したのは日雇取ひやうとり寅吉とらきちでした。

「あれだよ、あれ──」

 若旦那が指す方を見ると、へいの袖に半分隱れて、熊の子のやうな無氣味な死骸が、血だらけになつて横たはつて居るのです。

「あ、銀之助ぢやないか」

「ま、あんな人間でも、死ぬのかねえ」

 寅吉の女房のお辰は妙なことに感心して居ります。

 それは全く死にさうも無い人間でした。横着で、物慾がさかんで、生活力が強大で、その上力があつて、女漁をんなあさりに一生を賭けたやうな、手のつけやうのないやくざ男だつたのです。

 その銀之助が、首筋を深々と刺されて、虫のやうに死んで居るのです。その首筋には、少し長目の、匕首あひくちが突つ立つて居りました。獵師などが山狩の時持つて行くやつ、重くて物凄くて、ゐのしゝなどを一と突きする道具、これで頸動脈けいどうみやくをやられては、獰猛極まる銀之助も、一とたまりも無かつたでせう。

 何時の間にやら長屋は總出になりました。入口の大きな構へは地主の鶴屋利右衞門、五十二三の脂ぎつた男で、女房のお歌は名前は優しいがひどい病身で籠つたきり、その次は仕立屋の後家お米と、娘のお春の女世帶、お春は十八の可愛いゝ盛り、それと相對して古道具屋と稱する實は屑屋の伊三松いさまつ、その妹のお吉は、十九の年盛りで、お春の豊滿さと對蹠的に、これは痩ぎすの美しい娘振りでした。

 その奧が殺されたやくざの銀之助の家と、日雇取の寅吉お辰夫婦の家が相對し、路地の行止りが右は狩島右門かりしまうもんの浪宅と、左は若旦那吾妻屋丹三郎の隱宅が向ひ合つて居りました。狩島右門は貧乏な浪人者で四十前後、丹三郎の住んで居るのは、昔吾妻屋が盛んだつた頃の寮で、構へだけは堂々として居りますが、家も庭も荒れ果てゝ、丹三郎たつた一人、鼠に引かれさうに住んで居ります。

 この騷ぎが明神下の錢形平次の耳へ、四半刻經たないうちに入りました。昨夜平次と一緒に八丁堀ちやうぼり組屋敷へ行つて、遲くなつて此處へ泊り込んだ八五郎は、

「それ言はないこつちやない、あの娘横丁は、何んか始まらなきア宜いがと心配して居ましたよ」

 などと、犬つころのやうに先に立つて驅け出すのです。

「前々から、何んか變なことでもあつたのか」

 平次に世上の噂に於ける限りは、八五郎に教はることが多かつたのです。

「ありましたとも、一昨年をとゝしの秋、お春の姉のおえいといふ娘が、何が氣に入らないか、お茶の水に飛込んで死にましたよ、その時お榮は十九、妹のお春より又一と際立まさつたきりやうで、母親のお米の歎きは大變でした」

「何が氣に入らないか──は變な臺詞せりふだね」

「朝の味噌汁が氣に入らない──といつた手輕なものぢや無かつたやうで、それから若旦那の丹三郎は益々ボーツとしたやうで」

「二人は許婚いひなづけでゞもあつたのか」

「その歳の冬──おえいの厄があけるのを待つて、節分過ぎには一緒になる筈だつたと言ふから、無理もありませんね」

「それから」

「話はそれつきりですよ、でも、あの路地は娘横丁と言はれる位で、綺麗な娘が三人も揃つてゐるから、妙に魔がさすんですね」

 そんな無駄を言つてゐるうちに、二人は妻戀町の現場──銀之助殺しの路地に着いて居りました。



「これはひどいな」

 平次が驚いたのも無理のないことでした。十月になつたばかりで、その晩遲くては月も無かつた筈ですが、銀之助の死骸は殆んどはだかも同樣で、僅かに腰のあたりにあはせを卷きつけて居るだけ、毛だらけの胸も腕も股もあらはに、松の古木のやうな首筋へ、例の直ぐ刄の物凄い匕首が、やゝはすに突つ立てられ、全身蘇芳すはうを浴びたやうになつて死んで居るのです。

「大した手際ぢやありませんか、こんな熊のやうな男を、一と太刀で仕留めるなんて」

 八五郎は冒涜的なことを言つて感心して居ります、それほど銀之助の死骸は動物的に見えたのでせう。

「昨夜何んにも物音を聞かなかつたのかえ」

 平次はお立會ひの衆を見廻しました。

「何んにも聽きやしませんよ」

 口を出したのは、日雇取寅吉の女房お辰でした。長屋一番の金棒曳かなぼうひきです。

「遲く歸つたのは?」

「サア、伊三松さんか知ら?」

 斯んな時は口うるさいのも飛んだ役に立ちます。

「へエ、私は遲かつたに違げえありませんが、──それは遲くなる丈けの用事があつたんですよ、芝の方で、大きい世帶仕舞があつて、仲間の者が寄つて品物をつたんです、──好きで遲くなつたわけぢやありませんよ」

 古道具屋の伊三松は躍起やつきとなつて抗議するのです。三十五六の不景氣な男で、これが美しいお吉の兄とはどうしても思へません。

「時刻は?」

子刻こゝのつ(十二時)近かつたと思ひます」

「それぢやこの死骸はあつた筈だが──」

怖々こは〴〵飛んで歸つたので、氣が付かなかつたことでせう」

 さう言へばさう取れないこともありません。死骸のあつたのは伊三松の家の先で、銀之助の家の方へ近く、明るくさへあれば、若旦那丹三郎の家の二階からでも、眼の下に見えるあたりです。

 兎も角も、皆んなに手傳はせて、死骸は銀之助自身の家へ運び入れました。家といふよりは、巣といふに近く、その汚なさ亂雜さは一と通りではありません。

 そんな事をして居るところへ、

「變なことがありますが、親分」

 八五郎はキナ臭い鼻を持つて來るのでした。

「何んだえ、變なことゝいふのは?」

「この邊に魚屋さかなやは無いでせう」

「知れたことを言へ、妻戀町の七軒長屋に、魚屋も酒屋もあるわけはねえよ」

「ところが、下水に生血なまちが流れて居るんです」

「何んだと、何處だ、それは?」

 平次は飛出しました。が、勢ひこんで驅け出す迄もなく、血は銀之助の家と、お隣の伊三松の家の堺に、僅かに流れて居る、細い下水をひたして居るのでした。

「親分、此處ですよ」

 路地の奧と入口に共同井戸はあるのですが、血の流れて居るのは、その井戸端ではなくて、伊三松の家のお勝手からチヨロチヨロと落ちる水が、下水に溜つてそれは魚屋がまぐろおろした時ほどの色になつて居るのでした。

「入つて見よう、八」

 勝手の障子をガラリと開けると、すぐ臺所、

「あれエ」

 流しにしやがんで、せつせと袷を流つて居たらしい妹のお吉が、思はず悲鳴をあげて立ち上がりました。立つたはずみに手に持つた袷からは、ダラダラと桃色の水が、娘の白い足をひたすのでした。

「お吉──と言つたな、──その袷は大變な血ぢやないか、隱さずに言へツ」

 平次の聲はツイ荒くなりました。華奢立きやしやだちなお吉は、暫らくは眞つ蒼になつて、答へる言葉もなく、ワサワナ顫へて居ります。

「──」

 暫らく重つ苦しい沈默、八五郎は氣が揉める樣子で、そつと平次の袂を引きます。

「怖がることは無い、お前が銀之助を殺したと思つてるわけぢや無い、隱さずに皆んな言ひさへすれば宜いのだよ」

 平次は物柔かに言ひ直しました。咄嗟の驚きで、ツイ娘心を驚かし過ぎたことに氣が付いたのです。

「あの、私は怖かつたんです、兄さんは歸らないし、お隣の銀之助さんが、醉つ拂つてやつて來て、イヤらしい事ばかり言ふんですもの」

「それからどうした」

 娘の口は漸くほぐれました。

「たうとう家を飛出しました、お隣の狩島樣のところへ行かうか、大きな聲をだして、お春さんのお母さんを呼ばうかと思ひましたが──大きな聲を出したら、殺すつて言ふんですもの」

「──」

「兄さんが歸つて來さへすればと、路地の外へ出ようとすると、苦もなく引戻されて──私はもうどうなるかと思ひました、あの人に抱きすくめられて、息もつけないんですもの」

「で?」

 娘はおど〳〵し乍らも、思ひ定めた樣子でよく話します。

「私は本當に死ぬかと思ひました、──と何處からか、あかりが射して來たやうでした。あの人は驚いてそれを振り返ると、それつきり私は何んにも知りません。四方あたりは急に眞暗になつて、あの人はウーンと言つて倒れると、私を抱きしめてゐた腕がゆるんで、私の身體は大地へ滑り落ちました」

「──」

「家へ歸つて見ると、肩から胸へかけて大變な血でした、大急ぎで着換して、血の附いた袷を押入に突つ込むと、兄さんが何んにも知らずに歸つて來たんです。──私は血の附いた袷を洗ふすきもなくて困つて居ると、皆んな丁度外へ出てしまつたので──」

 娘の話はこれで終つたのです。何も彼も言つてしまつて、ホツとしたのでせう。蒼白い顏に漸く血が上つて、娘らしさが生々と眼にも頬にも輝やきます。

「銀之助を刺した相手の見當位はつくだらう」

 平次は此生證人をたぐる外はありません。

「それはわからないんです、眞つ暗で」

「男か、女か、若いか年寄か、大きいか小さいか、どんな闇でも見當位はつくと思ふが」

「でも、私は一生懸命でした。殺されさうな氣持だつたんですもの」

 處女心をとめごころの頼りなさ、平次は齒痒はがゆくなるばかりです。



 これ丈けのことでお吉を縛るわけにも行かず、平次は諦め兼ねた心持で外へ出ました。

「ね、親分、あの娘は銀之助に手籠てごめにされるところだつたんですね。それを助ける積りで、あの匕首で頸筋を刺したんでせう」

 八五郎が追つ驅けてお吉のために辯じます。

「それはわかつて居るが、あの手際は女、子供ぢやねえ、一ト突きで命を取つて居るが、あれだけの腕の冴えた人間が、刄物を置いて行つたのはどういふわけだ」

あわてたんぢやありませんか」

「そんな甘い人間ぢやないよ、兎も角も外へ出て、長屋中の人達に逢つて見よう」

 其處には全く雜多な人間が平次を待つて居りました。第一番は、

「錢形の親分、飛んだお手數だね、どうも此路地は物騷で叶はないんだ、銀之助も良くねえ男だが、それを又殺す奴があるんだから、上には上だ」

 それは鶴屋利右衞門でした。地主で内々は高利の金も廻して居ると言はれる五十男、脂ぎつて光澤つやの良い頭、大きく胡坐あぐらをかいた鼻、あごが張つて、背が低くて、あまり感じの良い男ではありませんが、如才がなくて、人付きがよくて、金儲けには拔目が無ささうです。

「拙者は狩島右門、厄介な事だな、平次どの」

 などと、謹ましく挨拶するのは、四十がらみの浪人者でした。武藝も學問も一と通りときゝましたが、人間が頑固なので、主取りする意志もなく、内儀のお徳さん娘のおいうさんといふのと三人暮し、近所の子に手習などを教へて、貧しい乍ら氣樂に過して居ります。内儀は三十五六、娘は十六、可愛らしいといふだけで何んの特色もありません。

「死骸を最初に見付けたのは、お前だ相だね」

 平次は人々の後ろの方に居る、二十三四の若旦那型の男に聲をかけました。曾ては日本橋の表通りに、大きな金物屋を開いて居た吾妻屋の若旦那で、父親の道樂で家が潰れ、續いて兩親に死に別れてからは、僅かばかりの遺産をまとめて、曾ての寮だつた妻戀町の家に引籠り、雜學を樂みに、頼り少い日を送つて居る男だつたのです。

 二十三といふにしては、少しけて、青白い品の良い顏、足が惡いので、歩くのが如何にも骨が折れさう、

「へエ、私が先に見付けました、毎朝早く聖堂へ參りますので──いえ、大學頭だいがくのかみ樣のお講義などは聽けるわけがございません、此處から聖堂迄は私のやうな足の惡い者には、滅多に人にも逢はず、丁度良い朝の腹ごなしでそれからは御門前から孔子樣の御像のあるあたりを拜んで歸ります、毎朝缺かしたことはございません」

「──」

「今朝も家を出て、伊三松さんの家の前まで來ると、銀之助さんが血だらけになつて死んで居ります。いや、その無氣味なことゝ申したら」

 若旦那丹三郎は、重い口でよく話しますが、その時のことを思ひ出したか、暫らく絶句して固唾かたづを呑みました。

「不斷銀之助に怨みを持つて居る者は無かつたのか」

「皆んな嫌がつて居りましたが、これぞと申して」

 特に銀之助を憎むといふ人間も無かつたのでせう。

「尤も、拙者は別だ、あの男は一度はこらしてやらうと思つて居たが──」

 狩島右門は口を挾むのです。その時はもう丹三郎は人ごみの後ろへ退きました。

「それは又どういふわけで?」

「拙者の娘──十六になつたばかりの娘へまで變な素振りをするのぢや、言語に絶した男で──」

 その浪人は、一應穩和らしく見えますが、性根に頑固なところがあつて、誰も構ひ手が無ければ、銀之助をどうかしようと思つて居たことは確かでせう。

「それは、さぞお腹立ちで──」

 平次も斯う言ふより外にありません。

「親分、もう一人、お米さんといふのがありますよ、女後家で、仕立物で世過ぎをして居りますが、──お春の母親ですよ」

 八五郎に言はれると、後ろの方から、そつとお辭儀をした、人柄な後家がありました。大きい娘のお榮は、若旦那丹三郎の許婚でしたが、一昨年夏水死し、妹のお春は丁度十八で、お吉と並んでこの娘横丁の大關に据ゑられる美しさでした。

「お前の家は、一番近かつた筈だが」

 平次はフトそんな事に氣がつきました。伊三松が留守だとすると、死骸のあつた場所から一番近くに住んでゐるのは、お米お春の母娘おやこでなければなりません。

「何んにも存じません、──尤も子刻こゝのつ少し前に、何んか音はして居りましたが、相變らず銀之助親方が、醉つ拂つて歸つて來たことゝ思ひ、少し位のことは取り合はないことにして居ります。うつかり戸なんか開けると、はひり込んで來て何をするかわかりません」

 お米は斯う言ふのです。母娘二人の世帶などは、全く銀之助に取つては申分ないゑさだつたことでせう。

 こんな事にして、もう一度銀之助の死骸を置いてあるところへ歸らうとすると、

「あ、まだ、あつしと女房が居りますが、何んか訊くことはありませんか、錢形の親分」

 などと日雇取ひやうとりの寅吉は絡みつきます。四十五六の、酒燒けのした男で、女房のお辰にお尻のあたりを突つかれて、しやしやり出た樣子です。



 銀之助の家へ、平次も八五郎も、路地内の住人の誰彼もゾロゾロと入りました、物好きといふよりは、此人達の無關心がさせるわざでせう。

 尤も、少しは物の道理のわかり相な狩島右門と、鶴屋利右衞門は、そのまゝ自分の家へ引揚げた樣子です。

「八、あの匕首あひくちを知らないか」

 平次は死骸を置いた、ぼろ〳〵の布團のあたりを搜して居ります。

「知りませんよ」

「先刻お前は何處へ置いたんだ」

「死骸の枕元でしたよ、手拭に、クルクルと包んで」

「變だぜ、おい、八」

 平次は一生懸命その邊を掻き廻しましたが、匕首はおろ小刀こがたな一梃出て來ません。

 事件は急に險惡な一面を、平次の目の前に展開したのです。

「どうしたのでせうね、──匕首を卷いた手拭ごと無いのは變ぢやありませんか」

「匕首だけは持つて歩けないよ、──ところで、八」

「へエ?」

「下手人は此路地の中に居るといふことがわかつたわけだ、此處へ入つたのは路地内の人だけだらう」

「?」

「俺とお前が、外へ出ていろ〳〵の人と話して居るうちに、銀之助の家へ滑り込んで、匕首を盜み出した者があるに違げえねえ」

「それが下手人げしゆにんといふわけですね」

「路地の外へは、誰も出た樣子は無い、大急ぎで七軒の家搜しをして見よう」

 平次と八五郎の打ち合せは、ひどく小さい聲でしたが、それでもその物々しい素振りがすべての人の不安を掻き立てたものか、一人減り二人減り、平次や八五郎と共に、路地内に殘つたのは、若旦那の丹三郎たつた一人といふ心細い有樣でした。

「それぢや始めますよ、親分」

 八五郎は早くも、左側の表店おもてみせを構へて居る地主の鶴屋利右衞門の家へ乘込みました。

「おや、親分方、さア、どうぞ」

 などといふ利右衞門をいゝ加減にあしらつて、それでも家の中をザツと見せて貰ひました。大して大きくありませんが、離屋付の恐ろしく贅澤な構へで、木口きぐちや調度の良さは、さすが物馴れた平次の眼をも驚かします。

 併し、押入、箪笥たんす、天井裏から落しの中まで、ザツと眼を通しましたが、何んにも變つたことは無く、血染の匕首などを隱して居る樣子もありません。

 一番平次の注目を惹いたのは、女房お歌といふ、中年女の病態でした。どんな病氣か知りませんが、ほとんど癈人はいじんと言つてよく、床に就いたつきりで、何を訊ねても、はつきりした答はありません。

 鶴屋の向うは、お吉の兄すなはち古道具屋の伊三松の家でした。表店には相違ありませんが、屑屋の少し體の良い古道具屋で、うなぎの寢床のやうな長い店には役に立たない物や、片輪な品物ばかりを集め、まことに慘憺たる有樣です、赤鰯あかいわしのやうな脇差や、槍の穗も轉がつて居りますが、血だらけな匕首などは無く、平次も手を空しくして此處を引上げる外はありません。

 その隣は銀之助の家で、此處は見ずです。

 その向うは後家のお米の家と、日雇取の寅吉の家ですが、此處は洗ひ出したやうな貧乏で、目に立つものはありません。

 一番奧は若旦那丹三郎の家を左に、浪人狩島右門の家は右に、立並んで通せん坊をして居ります。狩島右門の家は思つたより貧乏臭く、娘お有の十六になる可愛らしさを滿喫まんきつしたのが、せめても八五郎の役得でした。

「飛んだお邪魔を」

「いや、いや、何んの、疑念の殘らないやうに、よく見て貰つた方が良い」

 などと主人の狩島右門如才もありません。

 その隣の若旦那丹三郎の家は、此家搜しの打ち留めでした。丹三郎に迎へられて入つて見ると、大家たいけすゑには相違ありませんが、殘る昔のおもかげは、その構への立派な高い屋臺だけ、淺ましいことに、ろくな家具も無いといふみじめな有樣だつたのです。

 沒落ぼつらく一歩手前──といふそれは感じでした、學問好きで働きの無い丹三郎は、何も彼も賣り盡して、明日の當ても無い一日々々を暮して居たのでせう。

「ハ、庭も惡くないな──少し荒れてゐるが」

「それにしちや、冬圍ひが少し早過ぎやしませんか、あの松や青桐が、人の背丈から下を圍つて居ますね」

「あんな冬圍ひは無いよ、──どれ」

 思ひの外大きい庭でした。平次は鼻緒はなをの切れ相な下駄を引摺つて行くと、松と青桐の幹五尺ほど下にわらがこひをしてあり、一寸剥がして見ましたが、其處は誰の惡戯か、滅茶々々に皮を剥がして幹も傷だらけにさいなんで居るのです。

「これはどうしたことです、若旦那」

「店が盛んだつた頃、小僧達が代る〴〵此寮へ泊りに來て、劍術ごつこか何んかで、散々庭の立樹をいぢめたんですよ、藁ででも圍つてやらなきや、此冬は保つまいと植木屋が言ふんで──」

 若旦那丹三郎は、首筋を掻き〳〵極り惡さうに言ふのです。自分もその惡戯をやつた一人だつたかもわかりません。それにしては傷がさして古くないのが、妙に平次には氣にかゝる樣子でした。

「匕首なんか何處にもありませんね、親分」

「引揚げようか、八」

「下手人はどうするんです、親分」

「容易にわかるまいよ」

 こんな氣樂なことを言つて、平次は引揚げて行くのでした。



「八、大變な縮尻しくじりをやつたよ」

「何んです、親分」

 それは明神下の平次の家へ歸つてからのことでした。

「匕首の隱し場所がわかつたんだ」

「何處です、親分」

「俺達が見ないところさ」

「?」

「銀之助の家だよ、多分佛樣を寢かした床の下だらう」

「あつ、成程、一とつ走り行つて見ませうか」

「止せ〳〵無駄だよ、恐ろしく氣の廻る曲者だ、今頃まで放つて置くものか、俺達の姿が見えなくなると、もつと安心なところへ移したに違ひあるまいな」

「でせうか」

 八五郎はひどく氣を揉みますが、平次はもう、それを追及しようともしません。

 それつきり平次は、妻戀町つまごひちやうへ足を向けようともしなかつたのです。八五郎が氣を揉んで、時々その話をすると、

「それ程心配なら、お前が行つて時々樣子を見るが宜い」

 その程度の關心を示すだけでした。

 七、八日經つた或日、

「變なことがありますよ」

「何んだえ、變なこと──てのは、向柳原の叔母さんが言つて居たぜ、──八の野郎が近頃妻戀町へばかり行くやうですが、あの邊にきつねなんか棲んぢや居ませんか──てね」

「變な狐なんか居ませんよ、十六から十九まで、粒選りの娘が住んで居るだけぢやありませんか」

「それがどうして變なんだ」

「あの三人娘の一人お吉坊──先日銀之助に手籠にされ損ねた」

「それが?」

「若旦那丹三郎と急に親しくなつたから變ぢやありませんか」

「少しも變ぢやないよ、若い男と若い女だ」

「ところが、若旦那は、死んだ許婚のお榮の妹の、お春坊が可愛くて仕樣が無い樣子だから、いよ〳〵以て變ぢやありませんか」

「男と女だもの、好かれもし嫌はれもするだらうよ、そいつを一々變がつちや、際限もない話ぢやないか」

「もう一つ、たまらねえ變な話があるんで」

「よく〳〵變な事が好きだと見えるなお前は」

「地主の鶴屋利右衞門、親分も散々中てられたでせう、あの脂ぎつた、慇懃いんぎん無禮野郎には?」

「それがどうした?」

「五十二ですぜ、この男は、金があつて女房が病身で、娘横丁の路地内は、あの男の支配のやうなものだが」

「──」

「浪人者の狩島右門の娘、十六になるお有さんに眼をつけて、支度金五十兩出すから、奉公に出してくれとは、ほざくもほざいたり」

「狩島さんは何んと言つた」

「腹を立てゝ、おつ取り刀で乘込みましたよ、──武士に向つて何んたる無禮、尋常に勝負をしろ、萬一お前が勝つたら娘はノシをつけて唯進ぜる──と」

「威勢が良いな、──が、武士がそんなにめられる世の中になつたのかい」

「鶴屋の利右衞門平あやまりに謝つて歸つて貰つたが、その後が惡い」

「何んだ、今度は」

「お米──あの仕立物の後家ですよ、この娘のお春に眼をつけた、金を三兩とか貸してある相ですが、利に利をつけて、三十兩耳を揃へて返すか、お春を妾奉公めかけぼうこうによこすか──と、これははつきりしてるでせう」

「呆れた親爺だな」

「金があつて脂ぎつてゐて、人を人臭いとも思はないんだから手のつけやうは無いでせう」

「それつきりの話か」

「それつきりぢや木戸錢が取れませんや」

「何んだ、まだあるのか」

「話はこれからが面白いんで、──後家のお米さん、八方工面をしたが、元々足りなくて借りた金だ、三十兩は愚か、三兩も纒まらない──それをフトした事から聽込んだ若旦那の丹三郎が、殘つた道具をバツタに拂つて、漸く二兩纒めて貸してやつたと聽いちや涙の種ぢやありませんか」

「フーム」

「仕方が無いから、家主五人組から町役人まで相談したが、鶴屋のにらみが怖いから、誰も口をきいてくれる者もなく、いよ〳〵今夜といふ今夜、あのお春坊のポチヤポチヤしたのが人身御供ごくうに上ることに決つたと聽いたら、親分だつてチツトは腹の蟲がチクチク言ふでせう、あつしなんかはもう腹が立つて腹が立つて」

「今夜か」

「こんな事なら、半歳も前に無盡へ入つて居るんだつたと──」

「口惜しがつても、お互貧乏人ぢや、ゴマメの齒ぎしりだ」

「ところが、大した事になりましたよ、今朝になつて鶴屋の窓から手紙を投り込んだのがあるんで」

「その手紙は?」

「持つて來ましたよ、これですがね」

 八五郎は煙草入の中から煙草の粉だらけになつた一枚の手紙を取出しました。

「恐ろしく下手な字だな」

「だから、あつしにも讀めましたよ、──今夜、お春坊を人身御供にあげるなら、お前の家を燒き拂つてやる──とね」

おどかしだらう」

「何んとも言へませんよ、銀之助が殺されたのはお吉を手籠にしかけたからでせう、あれからまだ十日とは經つちや居ませんよ」

「──」

 平次は默つて腕をこまぬきました。



 その晩、後家のお米の娘お春は、涙に送られて、お隣の鶴屋利右衞門のところに送り込まれたのです。

 さうなる前、御近所で第一の口利き、浪人狩島右門に縋つて見ましたが、狩島右門は鶴屋利右衞門に對して、ひどく顏を立てゝゐる癖に、武家らしい潔癖さで、人の内事に干渉することを好まず、『氣の毒だが』といふ申譯付きで、丁寧に斷つて來ました。貧乏な町人の娘が、金持の町人の妾になるのを、さして不道徳なことゝ思はないのが、この節の人の教養で、そんな事に干渉しないのを以て、明哲めいてつ保身の術としたのでせう。

 母娘は泣く〳〵鶴屋の門口で別れました。娘は脂ぎつた利右衞門のねやはべるために、門を入り、母はたつた一人の我家に悄然として歸る外は無かつたのです。

 鶴屋利右衞門は、雇婆さんに夕餉ゆふげの仕度をさせ、灘の生一本の鏡を拔いて、この花嫁を待つたのです。

「お春ちやんか、──來てくれたか、よし〳〵、可愛がつてやるぞ」

 などと赤い顏をした利右衞門が、離屋の二階にこの第二號の花嫁、──お榮の妹の、世にも素晴らしい娘の手を曳いて登りました。それから半刻あまり、猫が鼠を玩具にするやうに、酒にたゞれた半老人の脂ぎつたのが、お春の初々しさ、美しさを滿喫して、飽くことも知らずに眺め盡したことでせう。

 いざお床入りといふ時でした。どこにどう潜んで居た火龍くわりうか、鶴屋の離屋を取卷いて、四方からパツと焔が燃え上がつたのです。

 長屋中の者が驚いて驅けつけた時は、離屋は最早手のつけやうの無い火の海でした。が、燒き殺された筈の鶴屋利右衞門と、今宵の新嫁のお春は豫て用意したものか、何時の間にか離屋を脱け出して、母屋の縁側から燃えさかる離屋の焔を眺めて立つて居たのです。

 その横の方には錢形平次と八五郎、

「親分、お蔭で助かりましたよ、隨分用心した積りだつたが、何處からあんな火の細工をしたことか」

 鶴屋利右衞門は、平次を顧みました。この時集まつて來た町の火消し人足は、三人五人龍吐水りうどすゐなどを持出して、焔の離屋に立ち向ひましたが、あまりの火勢に驚いて、母家に火の移らないやうにするのが精一杯です。

「畜生ツ、逃げたか」

 不意に焔の中に聲がありました。見ると燒け落ちさうになつて居る離屋の二階、焔に包まれて、あの足の惡い若旦那丹三郎が立つて居るのです。

「あ、丹三郎」

「お春の姉のお榮は、俺と言ひ交した仲だ、それが人になぐさまれて、お茶の水に身を投げて死んだ、──私に濟まないと思ひ込んだのだ」

「丹三郎、降りて來い」

 平次は聲を絞りました。

「いや、降りない──私はお榮をなぐさんだのは、銀之助の仕業だと思つた、だから此間銀之助がお吉を手籠めにしようとした時、銀之助を刺してお吉を助けた」

 皆々固唾かたづを呑みました。焔の叫びの中に、若旦那丹三郎の聲が肺腑を絞つて、凛々と響くのです。

「──ところが、お榮を死なせたのは、銀之助では無かつた、──お榮としたしかつたお吉が、それを私に教へてくれたのだ──お榮をなぐさんで、死なしてしまつたのは、外では無い、その、其處に居る利右衞門だ」

「いや違ふ」

 利右衞門はせめてもと言つた顏で、抗議を申込みましたが、その聲は甚だ弱々しく、焔の中に絶叫する丹三郎に聽えさうもありません。

「その利右衞門は、今度またお榮の妹のお春までも、僅かの餌で人身御供に上げようとして居る。勘辨出來ないことだ。どんな事をしても、娘の清らかさは、そんな野郎には汚させられない。お吉もお春も、女の一生を賭けて、これから連れ添ふ男を探すのだ──私はもう此世に望みは無い、費ふものは費ひ果し、やる物はやつてしまつた」

「丹三郎、死んではならぬぞ」

 平次はもう一度焔の中へ聲を掛けました。

「いや、錢形の親分には濟まないが、私には私の流儀がある、この通り、お榮の敵は討たなきや──もう火が私の頬も足もこがし始めた──もう火が」

 若旦那丹三郎の手が焔の中に擧りました。と見るや、あの直刄すぐばの匕首が火の中をサツと飛んで、縁側で呆然と見て居る鶴屋利右衞門の喉笛のどぶえへグサと突つ立つたのです。

        ×      ×      ×

 火事は離屋を燒いただけで濟み、濕つた灰の中から、若旦那丹三郎の死骸が掘り出されたことは言ふ迄もありません。

 鶴屋利右衞門は、丹三郎の投げ飛ばした匕首に首筋をはれて死に、事件は一夜にして片付いてしまひました。

 歸る途はもう曉方、薄明りの中で、

「親分、あれを知つて居たんでせう」

 八五郎はうさん臭い自分の鼻などをはじくのです。

「知つて居たよ、銀之助は、丹三郎の二階から投げた匕首でやられたのさ、その證據は、丹三郎の家の庭の樹にあるよ、あの樹のみきは背丈から下は皆んな傷だらけだ、それを隱すためにわらを卷いて居たらう、丹三郎は銀之助をお榮の敵と思ひ込み、敵を討たうと思つて居たが、まともに向つてはとても勝てさうもないから、立樹に匕首を投つて二年間投げ太刀を稽古したのだ」

「へエ、根氣の良いことですね」

「それから匕首を銀之助の死骸の枕元から隱したのも丹三郎の仕業さ、あの時路地に顏を見せないのは丹三郎一人だつたと後で氣が付いたんだ」

「それをどうして縛らなかつたんです」

「縛る氣になれなかつたよ、俺でも隨分あれ位のことはやり兼ねないからな、──尤もお榮を死なせたのは銀之助でなくて利右衞門と知つて、利右衞門を殺す氣になつた時は、一應邪魔した、十手捕繩とりなはの手前だ」

「──」

「でも、二度目の投げ太刀までは止めなかつたよ」

「匕首を投げるのが親分には判つて居たんでせう」

「まアね」

 平次は返事を濁しました。

 斯うして錢形平次は、又重大な縮尻しゆくじりを重ねたのです。でも、寢もやらずに待つて居るに違ひない女房のお靜の事を考へると、なか〳〵と心の温まるものを感じないわけにはゆきませんでした。

「サア、急がうぜ、八、温かい味噌汁みそしるにありつけるだらう」

底本:「錢形平次捕物全集第三卷 五月人形」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年420日発行

   1953(昭和28)年620日再版発行

初出:「讀物と講談」

   1951(昭和26)年10月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年102日作成

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