錢形平次捕物控
轉婆娘
野村胡堂




「八、その十手を見せびらかすのを止してくれないか」

「へエ、斯うやりや宜いんでせう。人に見せないやうに」

 親分の平次に言はれて、ガラツ八の八五郎はあわてゝ後ろ腰に差した十手を引つこ拔くと、少々衣紋えもんの崩れた旅疲れの懷中にねぢ込むのです。

だらしがねえなア、ふさが思はせ振りにハミ出して居る上に、十手の小尻が脇の下に突つ張つて居るぢやないか」

「へエ、まだいけませんかね」

「此處は江戸の眞ん中ぢやねえ、武州忍ぶしうをし、阿部豊後守樣十萬石の御城下だ、そんな風をして、後生大事に懷中を押へて歩くと、請合うけあひ牛蒡ごばう泥棒と間違へられる」

「冗談でせう、いかに武藏の國だつて、房の附いた牛蒡なんてものは、ありやしませんよ」

 平次と八五郎は、郊外の秋色を愛で乍ら──といふと洒落しやれて聞えますが、實は川越在の名主、庄司忠兵衞の餘儀ない頼みで、十五里の道を、ブラリブラリと二日がゝりで、町から三里ばかり、赤トンボとイナゴに迎へられ乍ら、どうやらのあるうちに、目的の家に着いたのです。

 迎へてくれたのは、主人の忠兵衞五十二三、分別者で評判の良い中老人ですが、田舍名主らしく何んとなく權高なところがあります。でも、事件は獨り娘の生命にかゝはることで、さすがに見識も見得もかなぐり捨て、

「や、錢形の親分、待つて居ましたよ、遠いところを、飛んだ無理を言つて──」

 などと如才じよさいもありません。

 足を洗つて奧へ通されると、内儀のおぬひが待ち構へて、お茶よ、お菓子よとあわたゞしいことです。

「それより、先づ、お孃さんが、姿を隱したといふ一らつを承りませう。なアに、疲れたと言つてもたつた十五里の道を、二日で歩いた遊山旅で、時候が良いから、ろくに汗も掻きやしません。この野郎がイキの惡い金魚見たいに、口をパク〳〵させてゐるのは、少し腹が減つてるだけのことで」

 八五郎の表情を讀んで、平次は遠慮のないことを言ふと、

「それは氣が付かなかつた、陽の暮れるのを待つて一杯つけ乍らと思つて居たが、それぢや兎も角も」

 主人の忠兵衞が指圖さしづすると、内儀のお縫がお勝手へ飛んで行つて、何が無くとも冷飯にあぶさかな、手輕な食事になつてしまひました。

 その間、耳と口が一緒に働いて、名主の娘お吉が行方不知ゆくへしれずになつた事件が、父親忠兵衞と、母親お縫の口から、細かに説明されて行くのです。

 娘のお吉は親の口から保證する通り、ひなに稀なる美しいきりやうでした、年は十九、厄が明けたら、隣村の大地主の總領に、嫁入りさせることになつてゐる矢先、神隱しに逢つたやうに、フと姿を隱してしまつたのです。

 それは數へて丁度十日前のこと、鎭守ちんじゆ樣の裏に、小屋掛をしてゐる芝居の見物に行き、下女のお松と二人、芝居がはねて木戸を出たことまではわかつて居るが、その時木戸に溢れた人波にへだてられて、姿を見失つたまゝ、お吉はその晩も、その翌る日も、そして十日待つても歸らなかつたのです。

「私はあらゆる手を盡しました、知合ひから親類、隣村までも手を伸ばした末、村の若い衆を頼んで、山狩りまでして見ましたが、お吉はそれつきり見付かりません。それは丁度九月の十三夜で、亥刻よつ過ぎの月は、晝のやうに明るく、芝居歸りの人が田圃一パイ歩いて居りましたが、いかに田舍の夜更けと申しても、若い娘一人、手輕に姿を隱せる道理はなく、神隱しに逢つたか、誘拐かどはかされたか、全く途方にくれてしまひました」

 主人の忠兵衞は言ふのです。あらゆる手を盡した末、フト思ひ付いたのは、江戸で今高名な御用聞、錢形平次親分に來て貰つて、娘の行方を搜す工夫は無いものかといふことだつたのです。

 幸ひ與力笹野權三郎は、忍藩の重役某の縁者で、それを辿たどつて配下の御用聞錢形平次を動かし、暫らく平次を保養させることにして、遙々はる〴〵川越の田舍まで出張らせることに段取を拵へたのでした。

 若い娘の行方不明といつたことは、何時でも、何處の國にもあることで、その大部分は男を拵へて道行をするか、惡者に誘はれて、遠國に賣られるか、大抵はきまつた筋ですが、庄司忠兵衞のお吉の場合は、その紋切型もんきりがたとは、大分事情が違つて居さうです。第一、何處で誰に訊いても、お吉は身持の良い娘で、男との關係は絶對に無かつたといふこと──これは自尊心の高い美しい娘によくある型で、親のひいき目ばかりでは無ささうです。

 それに隣村の地主の總領とは、親と親との間で取極めた縁談であつたにしても、相手が評判の良い息子であり、お吉もその縁談は滿更でもなく、下女のお松などに言はせると、内々は大乘氣であつたといふことで、富裕ふゆうな名主の娘が、その縁談の纒まつたばかりのところを、惡者の甘言などに乘つて、遠國に突つ走るといふことは、先づあり得ないことゝ言はなければなりません。



 母親のお縫は、たゞもうに返つて、

「どうぞ、親分さん、あのを搜して下さい、伜は江戸へ修業に出て、もう三年も家へ歸らず、私はあの娘ばかりが頼りでございます、嫁入前に萬一のことがありましたら、私はもう──」

 四十女らしいしたゝかさをかなぐり捨てゝ、たゞひた泣きに泣くのです。

 念のため、當夜娘と一緒だつたといふ、下女のお松に會つて見ましたが、これは不きりやうで健康な二十五六の女で、江戸で考へた下女とは縁が遠く、どちらかと言へば、小作女と言つた感じです。

「お孃樣は、芝居は好きではなく、最初は私がおすゝめして、やうやく見物に參りましたが、二度目には御自分から、もう一度行かう──と言つて、あの晩、御仕舞の濟むのを待ち兼ねて出かけましたゞよ」

 芝居は三日續けて興行して、あとは十日休むと言つた、極めて呑氣なもので、お吉が行方不明ゆくへふめいになつた晩から、昨晩まで休んで居たが、今晩から又三日、違つた外題げだいで興行し、十月になると、小屋を疊んで、暖かい地方へ行くことになつて居るのでした。

「──あの晩、芝居嫌ひなお孃さんが、不思議に夢中になつて、まるで熱に浮かされたやうに、小磯扇次こいそせんじ所作しよさを見て居りました」

「何んだえ、その小磯扇次といふのは」

明石あかし村右衞門一座の二枚目で、藝は大したものぢや無いと、男のかたは言ふけれど、女の私共から言ふと、本當に、大した良い男でごぜえますよ」

「で?」

「芝居が濟むと、大入の客は我れ先にと木戸へ突つかけました、私はその人混みを掻きわけて、どうやら外へ出ましたが、振り返つて見ると、後ろからついて來た筈の、お孃さんの姿が見えないぢやありませんか、私はびつくりして小屋の中へ引返しましたが、其處にはもう、誰も居ず、下足番の種吉が一人で掃除さうぢをして居りましたが、それに訊くと、お孃さんの姿なんか見掛けないと、──劍もほろゝの挨拶ぢやありませんか、片輪者の癖に、小癪こしやくにさはる男ですが、文句のいひやうもありません」

「その下足番種吉とか言ふのは、怪しい素振りは無かつたのか」

「ケロリとして居ましたよ、尤も、跛者びつこ眇目めつかちのくせに、一と頃はお孃さんに夢中になつて、隙見をしたり附き纒つたり、うるさい男でしたが、お孃樣の御縁談がきまつてからは、打つて變つて空々しいほど遠退いて居ましたよ」

「土地の者か」

「村境に住んで、草鞋わらぢも作れば小用も足す、芝居や軍談が掛かれば木戸番にも雇はれ、女にも金にも縁の無い野郎で、──」

 お松の舌はなか〳〵に辛辣しんらつです。

「お孃さんは、確かに男との掛かり合ひは無かつたといふのだな」

「それは確かでごぜえます、江戸にも無からうと言はれたきりやうで、氣位が高かつたゐせでせう、いろ〳〵縁談もあり、日文ひぶみを附けたり、毎晩通つた人もありますが、まるで相手にしなかつたことは、三年越しお側に居る私がよく知つて居ります」

「例へば、どんな男が」

「忍の御藩中から、立派なお武家が二人、村では太左衞門どんの伜太十、森藏の弟の竹松、皆んな目の變るほどの取のぼせやうでしたが」

 お松が遠慮もなくブチまけるのを、

「それは錢形の親分、一應も二應も調べましたよ、忍の御藩中の方々は、いづれも御身分の方、村の若い衆も、あの晩は神妙に家に居たとわかつて、疑ひは消えてしまひました、お松の言ふことを、一々お取上げ下すつては困りますよ」

 主人の忠兵衞はあわてゝ打ち消すのです。



 芝居小屋は鎭守ちんじゆの森の後ろ、北向の薄寒さうな空地に、くひを打ち、板を張り、足りないところは、葭簾よしずと古い幕をめぐらして、どうやら恰好だけはつけて居りました。

 五六本の煮締めたやうな幟、鬼灯提灯ほうづきちようちんが十ばかり、泥繪の具の看板を掲げて、例の木戸番の種吉が、鹽辛聲を張りあげて居ります。

 中に入ると、見物はバラリと五十人ばかり、草の上に荒筵あらむしろを敷き、その上に茣蓙ござを敷いて、下足は銘々持ち、芝居は何やら物々しく展開して居り、見物は固唾を呑んでそれに陶醉して居る樣子です。

 座頭ざがしらの明石村右衞門は、四十過ぎの立ち役で、これはなか〳〵の達者、女形をやまの大磯虎三郎は、名前に似ず不景氣な役者ですが、二枚目の小磯扇次といふ、白塗の若侍は、なるほど、お松に聽いた非凡の美男で、無暗矢鱈にニツコリ愛嬌笑ひを浮べて、豊かな顏をほころばせる田舍役者らしいイヤな癖はありますが、鼻筋の通つた、眼の凉しい、そして口許に言ふに言はれぬ愛嬌をたゝへた、世にも珍らしい美男です。恐らく名ある色子の末で、江戸にも居られなくなつて、田舍を廻つて歩く、敗殘の色男でゞもあるでせう。

 平次と八五郎は、いとも靜かに芝居の終るのを待ちました。どんなに變裝をしたところで、百姓衆の中に交る二人が、目につかない筈は無いので、物蔭に隱れるやうにして、どうやら舞臺と客席を見張るのが精一杯です。

「八、お前は役者衆の落つく先を突き留めてくれ、ことに二枚目の小磯扇次に目を離すな」

「親分は?」

「俺は、こゝに少し用事がある」

 平次は八五郎を樂屋へ追ひやると、暫らく幕の陰に隱れて樣子を見て居りました。最後の客が、まだ二三人殘つて居るうちから、跛足びつこの木戸番が、もう二人の若い男と一緒に客席へ降りて、土間に敷いた薄縁と筵を剥ぎ、その跡をざつといて、彼方此方の灯を消し廻ります。

「若い衆」

 平次は木戸番の種吉の後ろから聲を掛けました。二人の若い男はもう歸つた樣子です。

「誰だえ」

 振り返つた種吉は、平次の樣子を見て、片目を光らせます。

「少し訊き度いことがあるんだ、あの晩のことを、隱さずに話してくれ、名主のお孃さんが、この木戸から、何處へ姿を隱したんだ」

「親分さんですかえ、お見それ申しました、──そのことなら、もう何度も話しましたが、正直のところ、私は何んにも知りませんよ、お客が皆んな出てしまつた後は、あつし掃除さうぢをしましたが、人間のかけら猫一匹居なかつたやうで、へエ──」

 白ばつくれた顏には、何やら小意地の惡い冷笑があります。

「ところで、お前は名主のお孃さんに想ひを掛けて、あの家を覗いたり、付け廻したり、變な素振りをして居たといふ噂を聞いたが、それは本當か」

 平次は相手の容易ならぬを見て、ズバリと突つ込みました。

「飛んでもない、貧乏人の此のあつしが名主樣のお孃樣に」

「それは世間並の言ひ草だよ、戀に上下のへだてなしと言つてるぢやないか」

 平次もツイ洒落れたことを言ふ氣になりました、が、これはまた、隔てがあり過ぎます。跛足で眇目めつかちで、自分の身體一つしか持つてないこの男が、名主の祕藏娘に懸想けさうするとは、物事が少しどうかして居ります。

「そんな馬鹿なことが親分」

「證人はうんとあるぜ、先づあの家の下女のお松でも呼んで來て、お前と突き合せて見ようか」

「──」

「どうだ種吉」

 平次の手には、何時の間にやら、十手が握られて居たのです。種吉の返答如何では、隨分此處で繩を打つて、一と責め當つて見ると言つた氣構へです。

「申しますよ、親分、いかにも私は馬鹿でございました。──こんな片輪者のくせに、身分の隔ても忘れて、あのお孃さんに夢中になつたこともございます」

「それ見るが宜い、俺は此處に乘込んで來るまでに、お前の事を調べ拔いて來た積りだ、お前はあの晩この小屋から一と足も外へ出なかつたし、あの騷ぎで、到頭此處へ泊つたことまで突き留めたから、お孃樣を誘拐かどはかした曲者を、お前だとは思つて居ない。だが、お前は何んか知つてゐる筈だ。尤も折があればお前もお孃さんを誘拐す氣になつたかも知れない」

「冗談ぢやありませんよ、親分、──あつしは隨分、命がけでお孃さんを想つたこともあり、下女のお松に、あつしに取つては一と身上ほどの金を掴ませて、そつとお孃さんに逢はせて貰つたこともあります──が」

「それは本當か種吉」

「嘘だと思つたら、あの女に訊いて下さい、私は死ぬほどの想ひで、お孃さんのところに忍んだこともありますが、それが、親分」

「──」

「あのお孃さんと言ふのは、恐ろしく取すまして居るくせに、日本一の轉婆娘でした、私を一日一と晩おもちやにして、散々はぢを掻かせた上、ポイと放り出してしまつたんです。私は犬か猿のやうに、あらゆる馬鹿な耻つ掻きなことをして、お孃さんの機嫌を取結びました──それを一々言へといふんですか、親分──」

「例へば?」

「私の口からは申されません、たつた一つ、私を散々おもちやにし、私が氣の遠くなつたところで投り出されたんです、──私は口惜しいと思ひました、が、あの神樣のやうな可愛らしいお孃さんの顏を見ると、打ち殺してもやり度い口惜しさが、氷のやうに解けて了ふのです。──そのうちにお孃樣の縁談がきまつて、隣村の大地主の嫁になるとわかり、私は何も彼もあきらめるより外は無いとわかりました。今更此私が、お孃さんの寢間に忍んで、一と晩一緒に明したことがあると言つたところで、誰が本當にしてくれるものでせう、相手は名主樣の祕藏娘で、近在に聞えた小町娘、この私は、私は、此通り──」

 棧敷さじきに唯一つ殘つた灯の下で、木戸番の種吉はポロポロと涙をこぼすのです。

 種吉の口吻から察すると、お吉は名主の娘ではあつたにしても、健康で奔放な本能を持つた田舍娘で、種吉といふ手頃の玩具を見付けると、出戻りで摺れつ枯しで、手のつけやうの無い情慾を持つたお松にそゝのかされ、惡夢のやうな一夜を經驗したことでせう。

「それから?」

「お孃さんはそれつきり私に逢つてくれません、無理に後をつけたりすると、『馬鹿ツ、耻つ掻き、お前は何んといふ獸物けだものだらう』と下女のお松に野良犬のやうに追つ拂はれます。それからは私も、つく〴〵身の程を知つて、出來るだけお孃さんの傍へは寄らないことにしました。ツンとして振り向いてもくれないお孃さんの樣子を見ると、私は全く取付く島も無かつたんです」



 平次は種吉に別れて、村に一つしか無い諸國商人宿、武藏屋へ向ひました。其處に明石村右衞門始め、一座の役者囃子方、道具方まで十何人が泊つて居るのです。

「おや、親分」

 迎へてくれたのは、これから歸らうとしてゐる八五郎の顏です。

「どうした八?」

「此處まで一座の者をつけて來ましたが、少しの油斷で、二枚目の小磯扇次の姿を見失ひましたよ」

「何んといふことだ」

 平次は舌打をしましたが、今更どうすることも出來ません。

 入つて内儀おかみに訊くと、

「皆んな懷中は苦しさうですよ、浮氣な後家さんや娘達に騷がれる小磯扇次さんだけは別ですがね」

「小磯扇次といふ役者は、そんなに人氣があるのか」

「芝居は下手つ糞ですが、めんが良いので、大變な騷ぎですよ。あんな乞食芝居は一日も早く村から追つ拂はなきや、村中の女は氣違ひにされるつて──年寄は大小言おほこゞとですよ」

「その小磯扇次へ、名主のお孃さんが夢中になつて居るといふ話は聞かなかつたか」

「別にそんな事も聞きませんが、名主のお孃さんが綺麗だといふ話を聞いて、小磯扇次さんが、そいつをモノにしなきや、男の耻だなんて冗談を言つて居ました」

「ところで、その小磯扇次は今夜芝居の歸り、姿を隱したやうだが、時々斯んな事があるのか」

「近頃は毎晩ですよ、何んでも、藝道修業に心願の筋があつて、お籠りするんだと言つて、大きな辨當を拵へさせて──信心といふものは、腹の減る仕事ですつてね、ウフ」

 内儀は面白さうに笑ふのです。

「八、どうも面白くねえことばかりだ、もう一度働いてくれるか」

 武藏屋を出ると平次は、八五郎をかへりみました。

「どこへでも飛んで行きますよ、親分」

 晝のうちに六七里の道を歩いたことも忘れて、八五郎は地團駄踏みます。

「よし、その氣でやつてくれ、今夜中に片付けなきや魔が射しさうだ」

 其處からもう一度鎭守の森の芝居小屋へ引返した平次、途中で名主の家へ立寄つて、提灯を二つ借りると、八五郎と手分けして、木戸と樂屋口から、パツと飛込みましたが、中には小道具や衣裳いしやうの見張りで、泊り込んでゐる濱吉といふ、年寄の囃子方が一人居るだけ、小磯扇次も、名主の娘お吉も、木戸番の種吉も姿を見せません。

「誰も居ないのか」

「へエ、あつし一人きりで」

「扇次は來なかつたか」

「芝居がはねると宿へ引揚げました、夜中に來ることなんかありません」

「木戸番の種吉は?」

「親分方が歸ると、すぐその後から歸りました、妙にソワソワして居りましたが」

 これだけの問答をすませると、平次は芝居小屋を出て、暫らく森の闇の中を歩いて居りましたが、

「わかつたやうな氣がするよ、八」

「何處です、親分」

「斯う來て見るが宜い」

 先に立つた平次は、鎭守の森をグルリと一と廻りすると拜殿から登つて、頑丈な格子に手を掛けました。

しまりは無い」

 ズイと入ると、中は埃だらけの疊が十五六枚、祭壇のあたりには何の變化もありませんが、その後ろの方に廻ると、いろ〳〵の祭具が積み重ねてあり、片隅に引寄せられた大長持が一とさを、傍に寄つて見ると、

「あツ血」

 外から輪鍵をかけて、眞上の隙間から眞つ直ぐに突つ立てた大太刀が一本、鍔際つばぎはまで呑まれて、斑々たる血汐が、長持の方から流れ出して居るではありませんか。

「矢張りこんな事だつたのか」

 急がしく長持の蓋を拂ふと、中には若い男と女、男は背中から深々と刺されてこと切れ、女は滿身に血汐ちしほを浴びて居りますが、息だけは通つて居る樣子です。

「男は役者の小磯扇次だが──女は」

「名主の娘だよ、騷ぐな、八」

「人を呼んで來ませうか」

「いや、誰にも聽かせ度くない、──水を汲んで來い、社の前に井戸があつたやうだ」

 八五郎が飛んで行つて、水を汲んで來るうち、平次は長持の中から娘を引出し、兎にも角にも取亂した姿だけを改めさせました。

 それから暫らく、息を吹返した娘を引つ擔いで名主の家へ辿りついた平次と八五郎が、どんな歡迎を受けたかは言ふ迄もありません。

「御主人、折入つて申上げ度い」

 娘が正氣に還ると平次は父親の忠兵衞を別室に呼びました。

「お蔭で、娘は助かりました、このお禮はどんな事でも言つて下さい、忠兵衞命にかけても──」

「いや、そんなお禮なんかは要りません、あつしは貧乏だから江戸へ歸る路用だけ、五六百文あれば澤山で──」

「そんな事では、親分」

「いや、もう、それで結構、ところで、お孃さんには、何んにも訊かない方が宜いと思ひます──若くて綺麗で、少しばかり物好きな娘には、こんな事はあるでせうよ、兎も角も、下女のお松だけは明日にでもひまをやつた方が宜い、あれは正直さうに見えるが、質のよくない女だ」

「へエ」

「それから、お孃さんは神隱しに逢つて、今晩無事に戻つたといふ事にして下さい、そして、近いうちに、身體が直つたら、嫁入りの話を急いで、來年と言はず、年内、いや來月にでも祝言させるんですね」

「それはもう」

「鎭守樣の社の奧、長持の中で小磯扇次といふ役者が殺されてゐる。長持には鍵が掛つて居る、あれは小磯扇次の惡業をいましめた神罰だと思つて下さい、刄物は奉納の大太刀、夢々疑ひはありません」

「へエ、そんな事が」

 と言つたところで、事を荒立てる愚かしさを、忠兵衞もよく知つて居ります。

 一と晩ゆつくり休んで、あくる日はもう、平次は眠さうな八五郎を促して、江戸への歸り路に上りました。主人夫婦は名殘を惜んで、少なからぬ御禮の金を差出しましたが、平次はそのうちから、小粒一枚を貰つただけ、門を出て振り返ると、二階の障子が細目に開いて、誰やらが覗いて居る樣子です。

「親分、お孃さんが見て居ますよ」

「八、馬鹿だなア、振り向くな、あんな娘に本當に惚れられると、八五郎でも困るぜ」

 平次は朝霧あさぎりを分けるやうに、サツと足を早めます。

「一體、長持へ刀を打ち込んだのは誰でせう、親分」

「わかつて居るぢやないか、木戸番の種吉さ」

「へエ」

「種吉を縛らないのが不足だといふのか、──あの男は、片輪で貧乏でも、若い男に違ひあるまい、若い男が、若い女に惚れて惡いといふ御布令おふれは出たとでも言ふのか」

「?」

「呼び込んでからかつてなぐさんで、散々耻を掻かせて放り出したのは、下女のお松の惡い洒落しやれだつたにしても、お孃さんのお吉の惡戯も過ぎたよ。それつきり放り出して、相手にしてくれないのは、小癪にさはつてたまらないから、一座の二枚目で、生れ乍らの女たらし、小磯扇次に頼んでさそひ出させ──」

「どうして誘ひ出したんです」

「小磯扇次は揚幕あげまくの蔭から顏を出して、浮氣心のお吉を誘つたのさ、その時種吉は土間を掃除して居たから知らない筈は無い」

「成程ね」

「後ろの社につれ込んで、長持の中の祭具を取出してそこに忍ばせ、外から鍵をかけて置いて、夜な〳〵辨當持で逢ひに出たことだらう、隨分不氣味な逢引あひびきだが、お吉は生れ乍ら轉婆娘で、そんな事が面白くて〳〵たまらなかつたことだらう。芝居の興行がお仕舞になれば、二人は手に手を取つて逃出す氣だつたかも知れない」

「──」

「最初はお孃さんに思ひ知らせるため、隣村の地主の息子に嫁入りする前に、ケチをつける氣で小磯扇次をけしかけた木戸番の種吉は、二人が大變な遊びをオツ始めて、りも困りもする樣子の無いのを見て、憎くてたまらなくなつた。後からそつとつけて行つて、長持の輪鍵わかぎをかけてしまひ、二人を封じ込んで置いて、奉納の大太刀で、ズブリとやつた」

「惡い野郎ですね、何んだつて、その下手人を逃したんです」

「逃したわけぢやない、昨夜のうちに逃げてしまつたのだよ、いづれは何處かで年貢ねんぐを納めるだらう」

「呆れたもんで」

 秋日和、ホカ〳〵する中を赤とんぼに追はれて、二人は江戸へ歸つて行くのです。

底本:「錢形平次捕物全集第三卷 五月人形」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年420日発行

   1953(昭和28)年620日再版発行

初出:「實話と讀物」

   1951(昭和26)年11月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年102日作成

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