錢形平次捕物控
金の番
野村胡堂




「世の中に、金持ほど馬鹿なものはありませんね」

「貧乏人は皆んな、そんな事を言ふよ、つまらねえ持句もちくさ」

 平次と八五郎は、相變らず空茶からちや馬糞煙草まぐそたばこで、いつものやうな掛け合ひを始めて居ります。薄ら寒い二月の、ある朝の一と刻、八五郎の人生觀が、この不思議な事件へ錢形平次を追ひやる動機でした。

「金さへ無きや、こちとらのやうに呑氣に暮せるのに、苦勞して金を拵へて、今度はその金のために、夜もおち〳〵寢られねえなんて、隨分間拔けな話ぢやありませんか」

「その間拔けは何處に住んでゐるんだ、お前の話には、妙に含みがあるが、まさか世上の金持の惡口を言ひに、俺のところへ來たわけぢやあるめえ」

「その通りですよ、親分、近頃生命を狙はれてゐさうで、氣味が惡くて叶はねえから、錢形の親分の智惠が借り度えと、あつしの叔母に頼んで來た、贅澤ぜいたくな金持があるんですが、こいつは親分の耳に入れても無駄だから、強さうな用心棒でも雇ふが宜いと、斯う言つてやりましたよ、金の番人などは、あつしだつて、御免蒙りまさア」

「待つてくれよ、八、生命が危ないといふのは容易のことぢやねえ、それに叔母さんの頼みなら、一應は聽いて見なきや惡からう」

 平次は膝を乘出しました、不精で潔癖けつぺきで、容易には金持の頼みなどを耳に入れない平次ですが、叔母さんの頼みといふと、放つても置けないやうな氣がしたのでせう。

「それに、場所が遠過ぎますよ、白金二丁目の金貸しで、足立あだち屋徳右衞門、腰が低くて如才が無くて、非道な取立てをしないから、金貸しの癖に評判の良い男ですが、夕立の後で、庭へ出て來る蝦蟇がまとそつくりの顏をしてゐる癖に、娘のお雪は恐ろしく綺麗で」

「お前の話には、不思議に綺麗な娘が出て來るが、考へやうぢや、綺麗な娘の居るところばかり嗅ぎ廻つて居るとも取れるぜ」

「冗談言つちやいけません、あつしは娘運が良いだけで」

「ところでその娘はどうしたんだ」

ねらはれてゐるのはその娘ぢやありません、蝦蟇の方で、──尤もあの綺麗な娘は養ひ娘なんだ相で、本當の親娘おやこがあんなに相好が違つちや、神樣の惡戯が過ぎまさア」

「で?」

 平次は促しました、八五郎の話は無駄が多くて、一向要領を得させないのです。

「あつしの叔母が若い時奉公して居たおたなの主人が、足立屋に金の世話になつて居る相で、並大抵でない義理があるから、錢形の親分を頼んでくれと、折入つて叔母に頼んだ相ですが、叔母はまた、あつしの言ふことなら、錢形の親分は、何んでも聽いてくれると思ひ込んで居るが、どつこいそんなわけには行かねえ、錢形の親分と來たら、無精で金持が嫌ひで、──」

「おい、お前は金持と俺のたなおろしに來たのか」

「そんな事で乘出す親分では無いから、諦めろ、その代り、このあつしが行つてやらうと、──實は昨日白金まで待つて來ましたがね」

「何んだ、お前はもう行つて來たのか」

「すると、お茶を持つて出たのが、十八九の、小柄だが、びつくりするほど良い娘でせう、主人の徳右衞門は蝦蟇なら、内儀のおたねかまきりで、あんな夫婦の中に、透き通るやうな綺麗な娘が生れる筈は無いと、歸りに角の煙草屋で訊くと、矢張り養ひ娘なんだ相で、尤も養ひ娘ではあるが親孝行で氣立がよくて大した評判ですよ」

「で、どうした」

「あれだけの身上を拵へた徳右衞門だから、三人や五人はうらみ手がありますよ」

「例へば、どんな事があつたんだ」

「よくあるで、醉つて歸つたところを、井戸へ突き落されたり、味噌汁の中に石見銀山いはみぎんざんが入つて居たり、障子の外から眞矢ほんやで射られて首筋に少しばかりだが怪我をしたり、隨分執こくやる相で」

「人に怨まれる覺えがあるなら、大概相手の見當は付くわけぢやないか」

「それが、どうも見當が付かないんだ相ですよ、若い時分は、隨分惡いこともし、無理に金も拵へたらしいが、十年前に江戸へ來てからは、田舍で溜めた大金を資本に、金貸し商賣を始め、身上もよくなつたが、人に怨まれるやうな取立てはしない、──本人ばかりで無く、近所で訊いても、皆んなさう言ひますよ、あんな呑氣なことで、足立屋は金が溜るから不思議だつてね」

「奉公人は多勢居ることだらうな」

「内儀のお種に、綺麗な娘のお雪、女中のお安、それに三年前から昔の友達だつたといふ、林三郎といふ三十七八の男が訪ねて來て、女房のお萬といふのと一緒に、番頭代りをやつて居ります、これも堅い男で、大概たいがいのことは主人の徳右衞門の代りに、さばいて居るやうです」

「それ丈けのことなら、唯のからかひかも知れないよ、惡戯は手が混んでゐるが、遊び事のやうで、何處か間が拔けてゐるぢやないか。味噌汁に石見銀山を入れたつて、誰の口に入るか、確かに解る筈もなく、障子外から眞矢ほんやを射込んで、命を取ることは六つかしからう」

「さうでせうか、親分」

「まア〳〵お前が時々覗いて見る位のことで良からうよ、幸ひ綺麗な娘もあることだし」

 平次は相變らず不精をきめて、八五郎の話には乘つてくれさうもありません。



 三四日經つたある日の夕方、八五郎は氣の無い顏をしてやつて來ました。

「暫らく見えなかつたぢやないか、新色でも出來たのかえ」

「新色つてほどぢやありませんがね、あれから白金二丁目へ三度行きましたよ、向柳原から毎日の日歸りは樂ぢやありませんが」

「それや又精の出ることだね、何んとか言つた蟇蛙がまがへるの娘──」

「蟇蛙の娘は可哀さうですよ、十八にしかならないのに、行屆いた良い娘ですよ。愛嬌があつて、目鼻立ちがキリヽとして」

「大層な肩の入れやうだね」

「──父が無理を申して濟みません、遠いところを毎日ぢやお氣の毒ですから、三日に一度は泊つて下さい、父も心丈夫でせうから──と」

「それは誰の言ひ草だえ」

「あの聲色こわいろですよ」

「そんな胴間どうま聲でやるのか」

「これはあつしの地聲で、あの娘の聲は、もつと甘くて柔かくて」

「それで泊る氣になつたのか」

「泊りやしません。娘と父親はさう言つてくれるが、母親のお種は六つかしい顏をして居るし、番頭の林三郎夫婦も、良い顏はしてくれません、岡つ引に泊られるよりは、泥棒の宿をした方が宜い──と言つたあんべえで」

「三日も通つて何を嗅ぎ出したんだ」

「それが、その一向他愛も無いんで、手を變へ品を代へ、しつこく惡戯をするが、誰の仕業とも見當はつきませんよ、兎も角も、主人の徳右衞門をつけ狙つてゐる者のあることは確かで」

「どんな事をするのだ」

「三日のうちに二度火をつけましたよ、一度は主人の部屋の外に、物置から炭俵とむしろを持つて來て」

「誰が見付けたんだ」

「女中のお安が戸締りを見に行つて、パチパチ音がするので氣が付いた相で、もう一度は風のひどい晩、まだ宵のうちですが、物置へ火をつけた者があります。小用に行つた娘のお雪さんが見付けて、これは漸く消し止めました、その時可哀想にお雪さんが、白魚を並べたやうな指に火傷やけどをしました」

「フーム」

「少し遲れたら、母家おもやまでやられるところでした。それに、主人徳右衞門の部屋は、急には内から出られないやうに、外から材木を凭せかけてあつた相で、──材木と言つたところで、大したものぢやありませんが、縁の下に轉がしてあつた一間ばかりの角材で、あれでも戸を開ける邪魔にはなりますね」

「そんな事か」

「まだありますよ、此間からチヨイチヨイ手紙を投り込むんだ相で」

「手紙は良い手掛りだな、お前が借りて來たことだらう」

「それがいけないんで、親分に見て貰はうと思つて訊くと、確か三本揃へてあつた手紙が、今朝になつて見ると、一本も見えない、惡者が搜し出した樣子も無いのに、主人の部屋の手箱の中の手紙が、どうして無くなつたものかと、父娘三人で搜したが、やつぱり見付かりません」

「家の者の仕業だな」

「手紙の文句は、唯もう『近いうちにお前の命を貰ひに行くぞ』と言つたおどかしだけで、紙はありふれた半紙八つ折、手跡は恐ろしく亂暴で、右上りのなぐり書きだつた相です」

「その筆癖ふでぐせに見覺えは無かつたのか」

「あんな亂暴な字は見たことも無いと言つて居ましたよ」

「手紙は何處へ置くんだ」

「店の格子の間から投り込んである樣子で」

「名前はあるのか」

「徳右衞門へ、一存坊いちぞんばうとある相です」

「一存坊、それは何んだえ」

「訊いても詳しいことは話してくれませんが、何んでもあの足立屋の主人徳右衞門といふのは、良くないことで金を溜めたやうですね、江戸へ來たのは十年前、その前は何處かの船着場で、拔け荷でも扱つて居たんぢやありませんか、尤も清水には長く居た樣子ですが」

「番頭の林三郎も、その仲間かな」

「どうも、さうらしい樣子です。主人の徳右衞門も番頭の林三郎には、一目も二目も置いて居る樣子で」

「すると、一存坊は何んだ」

「これは娘のお雪さんが、そつと打ち明けてくれたんですが、父親徳右衞門の歸依きえして居た修驗者に、そんな名があつたやうだといふことです、お雪さんが足立屋に貰はれて來たのは、五年前のことですが、何んでもそんな修驗者が一二度訪ねて來たことがあると言ひます」

「お雪さんといふ娘の眞實の親は?」

「これも主人徳右衞門の古い知合で、紋三郎といふ腕のいゝ彫物師ほりものし、母親は徳右衞門の從妹いとこで、お町と言つたさうです」

「すると、お雪は徳右衞門の縁續きか」

「さう言ふことになりますね、尤も父親の紋三郎も母親のお町も早く死んで、孤兒みなしごになつたので、伯父の徳右衞門に引取られた相です、綺麗で悧巧だから、お種にも可愛がられ、幸せ過ぎるほど幸せに暮して居ります」

「それだけのきりやうなら、縁談もあるだらうし、若い男からも何んとか言はれるだらう」

「縁談は降るほどあるが、隣に住んでゐるこれも彫物師で、本田左母さも次郎といふのが、お雪さんの父親の弟弟子だつた相で、何んでもお雪さんと一緒になり度いと、大變な騷ぎですよ」

「娘は何んと思つて居る」

「娘の方も嫌ひぢやない樣で──尤も左母次郎といふのは、青雲せいうんとか何んとか言ふ、彫物の戒名かいみやうのある男で──」

「彫物の戒名は變だな、雅號とか何んとか言ふんだらう」

「その號を持つた腕のいゝ男ですが、何んと言つても、まだ二十八の若造で、萬兩分限と言はれた金貸の足立屋に婿入りするわけにも行かず、ちよいと良い男の左母次郎も、近頃は腐り切つて居る樣子です」

「それ丈けではまだ誰の仕業とも見當をつけるわけに行かない。兎も角何んか因縁がありさうだから、足立屋徳右衞門の前身を洗つて、近所の衆、わけても彫物師左母次郎の樣子を見張つて居てくれ」

「白金二丁目まで、また毎日行かなきやなりませんか」

「滿更いやな仕事ぢやあるめえ、草履の切れることなんか、ケチケチするな」

「へツ、相濟みません」

 八五郎はヒヨイと顎をしやくると、でつかい彌造を二つ拵へて、春の薄陽の巷に消えて行きます。



 八五郎の『大變』が飛込んで來たのは、それから又四五日經つてからでした。

「親分、到頭やられましたよ」

 白金から神田まで飛んで來るうちに、大變が蒸發してしまつて、地味な、地味な報告だけが殘つた樣子です。

「何がやられたんだ」

「白金二丁目の足立屋徳右衞門がやられたことゝ、親分は思つたでせう、ところが大違ひ」

「女房か、それとも娘がやられたのか、お前の意氣込みがおだやか過ぎるから、その綺麗な娘のお雪さんぢやあるめえ」

「圖星ですよ、親分、られたのは、番頭の林三郎」

「フーム」

「驚くでせう、あの無口で人柄で、手堅いので評判の番頭が、人に殺される筈は無いと思ふと、こいつは全くの人違ひとわかりましたよ」

「それは氣の毒だな、でも人違ひとわかつた位なら、下手人の目星はついたらう」

「それがわからないから不思議で、主人徳右衞門と間違へられて殺されたことは確かですが」

「それはどういふわけだ」

「此間から、執こく主人徳右衞門が狙はれ、何處か怪我をしたことは、詳しく話しましたね」

「そんな話だつたな」

「ところが主人徳右衞門は、用事があつて下總しもふさに出かけ、林三郎は留守をして居たんです」

「用事といふのは」

「旗本の何んとか言ふ殿樣に、かなりの金を貸して居るが、一向拂つてくれないので、下總の知行所へその取立やら掛け合ひに行つて二た晩泊つて、今日は歸つて來る筈で、これは間違ひもなく留守ですよ。物見遊山と違つて用事が用事だから、旅へ出るんだつて、近所の人にも内證で、誰にも吹聽ふいちやうなんかしません、家の者には堅く口留めしてある筈で」

「で?」

「番頭の林三郎は、三人の留守中は──時々こんな事があるんだ相で、──主人の部屋の金の番をし、内儀のお種さんは、他の部屋で寢ることになつて居ります。こちとらと違つて、足立屋の金は大したものだ。土藏が無いから、主人の部屋の疊をいだ床下に、頑丈な穴藏を拵へて、千兩箱が五つも六つも隱してある」

「それを取られたのか」

「それに氣が付かなかつたか、金は奪られやしません、無くなつたのは番頭林三郎の財布だが、女房のお種に言はせると、五兩とは入つて居なかつたといふから、物盜りが目當てなら、大外れですね」

「兎も角行つて見よう、お前の話だけぢや見當が付かない」

「今から行つちや、夜になりますよ」

「夜にならうが朝にならうが、斯んな事は延ばすわけに行かない、それともお前はくたびれたか」

「冗談でせう、くたびれるなんて言葉は、あつしの國ぢや通用しませんよ」

「それぢや」

 二人は勢ひよく歩き出しました。八五郎などは今日だけでも、神田と白金の間を三度目、疲れを知らない戰鬪は、全くこの男の唯一の武器だつたのです。



 白金二丁目の足立屋は、大きい構へではあるが、思ひの外人の目に立たない、愼しみ深い家でした。萬兩分限ぶげんと言はれる大分限のくせに、塗籠ぬりこめ一つ作らず、『佐渡の土は燒けないから』と漏らしたといふ、主人徳右衞門の不敵さは、町内の噂になつて居ります。

「おや、錢形の親分」

 八五郎と一緒に來た平次を、錢形と鑑定したのもさすがです。主人徳右衞門に逢つて見て、この男は一種の肌合と、不思議な性格を持つて居さうなことを平次は感じました。それは、顏は蝦蟇がまに似てゐると言ふ八五郎の言葉通り、いかにも太々しい感じの、みにくい五十男ですが、その樣子にも顏にも似ぬ、柔かい人づきで、卑屈でない程度の腰の低さや、わざとらしいほどの丁寧な言葉遣ひが、反つてこの男の一つの貫祿になると言つた、容易ならぬものを感じさせるのです。

「御主人でせうな、下總とかへ行つて居たと聞いたが」

 平次が訊ねると、

「一昨日、下總へ參りましたが、取立ての方が思はしくなかつたので、成田樣へお詣りに廻ると、丁度御町内の講中の方に逢つて、一と晩御一緒に泊つてしまひ、先刻一緒に歸つたばかりでございます」

 さう言へば、もう暗くなつて居るのに、旅の裝束もほぐさず、草鞋わらぢを脱いただけの姿で平次を迎へて居るのです。

「それは〳〵」

「いや、全く驚きましたよ、たつた二た晩留守の間に、斯んなことにならうとは、殺された番頭の林三郎は、長い間の知合で、名古屋から清水へ、一緒に仕事をして居りました、それが私の身代りに殺されようとは──」

 徳右衞門の聲はさすがに曇ります。

「御主人の身代りに殺されたといふわけですね、矢張りさう思ひますか」

「それに間違ひはございません、私は此間から、妙なものに狙はれて居るやうで、下總へ旅に出るのでも、家の者の外は誰にも知らせないやうに、夜逃げでもするやうな恰好で、コソコソと出かけました、尤も歸りは多勢の方と一緒になりましたが」

「兎も角、現場を見せて貰ひませう」

「晝の内に御檢死が濟んだ相で、片付けては居りますが」

 主人は林三郎の殺された、主人の部屋といふのに案内してくれました。その時、八五郎に一應言傳ことづてをした、土地の御用聞二本榎の房吉と言ふのも立ち會ひましたが、これは中年者でも錢形平次とは貫祿が違つて居るので、丁寧に挨拶して、平次の探索振りを見て居ります。

 部屋の中には、内儀のお種や、殺された林三郎の女房のお萬、その他近所の衆が二三人居りましたが、遠慮して引下りました。八疊の平凡な部屋で、死骸は隅の方に寄せてありますが、寢卷のまゝ、後ろから心の臟を一と突きされたらしく、見事な手際です。

「大變な血だつた相ですが、晝のうちに部屋も清め、床も變へさせた相で」

 主人はさう言つて後ろを振り向くと、成程徳右衞門とは全く對蹠的な、よく痩せた内儀のお種は、カマキリのやうな首をかしげて合槌を打つて居ります。

「何んか物音はしなかつたのですね」

「此部屋は少し離れて居りますから、主人が留守の晩は、少し位の音では私共にはわかりません、尤も夜中の子刻こゝのつ(十二時)少し前に、妙な聲がしたので、お萬さんが驅けつけ、林三郎どんが殺されて居るのを見付け、大騷動になりました。その後から私と娘が飛んで來ると、その後から下女のお安も驅けつけて、取りあへず、お隣の左母次郎さんに來て貰ひ、それから房吉親分のところへ人をやりましたが」

 内儀のお種は説明してくれます。その間に平次は、死骸の側に寄つて、念入りに調べて居りますが、年の頃三十七八、小柄で良い男で、身體は逞ましい方、なか〳〵精悍せいかんな感じがして、容易に泥棒なんかにやられさうな男ではありません。

「部屋の入口は開いて居たことだらうな」

「いえ、入口の障子は締つて居りました」

「曲者の忍び込んだ場所は?」

「窓の戸が少し開いて居りました。格子が無いので、不用心だからと、さるをおろした上に、心張しんばりまであるのですが、それが、見えなくなつて居ります」

「すると、番頭の林三郎どんが、曲者を引入れたことになるが──」

「主人と違つて、林三郎どんは呑氣ですから、心張棒などは見えないまゝに忘れてしまつたことと思ひます」

 内儀の説明は、あり相なことです。金持の主人は、締りを嚴重の上にも嚴重にするでせうが、柄は小さくとも、氣の強いらしい奉公人の林三郎は、棧がおりて居る上に、心張棒などは意味が無いと思つたことでせう。

 平次は窓のところに近づいて、あちこちを調べて居りました。フト敷居のところを見ると、

「おい、八、來て見るが宜い、面白いものがあるぜ」

「何んです、親分」

 八五郎を呼んで見せるのでした。敷居の上、棧の下りる穴に、節分の豆が一つ詰つて、上から降りる棧の邪魔をして居るのです。

「これぢや、唯戸を閉めただけではさるがきかないことになるだらう」

「成程ね、豆粒一つは、面白い考へですね」

「さて、御主人」

「へエ、へエ」

 主人徳右衞門は、内儀をかきのけて進みました。

「御主人が此間からおびやかされて居る樣子だが、御主人を怨む者の心當りはありませんか」

 平次は改めて訊ねました。

「へエ、こんな商賣をして居りますから、私は氣がつかなくても、何處かに怨んでる者が無いとは限りませんが」

「脅かしの手紙の來た一存坊とかいふのは?」

「清水の修驗者でございました。修驗者のくせに、仕事の好きな男で、いろ〳〵世話もし、世話にもなりましたが、怨まれる節は無い筈で、──それに、一存坊は二三年前に死んでしまつたといふことを、府中から來た人に聽いたことがあります」

「それから、もう一つ、これは迷惑なことかも知れないな、此部屋に隱してあるといふ、金の箱とやらを一と眼見せて貰ひ度いが」

「それはもう、親分に見て頂く分には、それにこんな事があつては、何時までも此處へ置くわけには參りません。金は今晩にも外の場所へ移すことになつて居りますから」

 主人徳右衞門は、眼顏で人を遠ざけると、八五郎に手傳はせて、部屋の一方の隅の疊を一枚剥がしました。その下は三尺四方ほどの頑丈な床になつて居り、それを剥ぐと、中は小さい穴藏で、栗材らしい嚴重な箱になつて居り、箱の中に千兩箱が五つ、行儀よく積んであるのです。

「なるほど、手をつけた樣子も無いな」

「私を殺すのが目當で、金を盜る氣は無かつたのぢや御座いませんか」

 主人は先を潜つてそんな事を言ふのです。

「千兩箱のふたは開けられるでせうな」

「釘付けになつて居るわけぢやございません、お目にかけませう」

 徳右衞門は栗材で圍つた狹い穴藏の中に入つて、積んである千兩箱の蓋を取つて見せました。釘を拔いて棧留さんどめにしたものらしく、わけも無く開けられますが、中には山吹色の小判が一パイ、主人はその上側のところをザク〳〵とすくひあげて見せて、次から次へと、五つの千兩箱を開けるのです。



 主人徳右衞門の後ろに、チラチラして居るのは、殺された林三郎の女房で、お萬といふ一寸良い年増、その上から光つて居るのは、八五郎の言ふ、透き通るやうな十八娘のお雪でせう。

 先づ最初にお萬を呼んで、

「夫の林三郎に、怨を持つて居る者は無かつたか」

 と訊くと、

「そんなものがある筈も御座いません」

 と、頑固ぐわんこに首を振るのです。

「此家へ來る前には、お前達は何處に居たんだ」

「夫は清水に居つた相です、十年も前から、──旦那樣とは、昔から仕事を一緒にした相で、──え、船の仕事です。江戸へ來ると直ぐ店に入れて頂いて」

「お前が一緒になつたのは?」

「丁度四年前です」

「一存坊といふのを知らないか」

「話には聽いて居ります。嘘吐きで、酒呑みで、厄介な人だつたと言ひますが、二三年前に死んだといふ話をきゝました、生きて居ると五十近い人でせう」

「女とのうるさい話は無かつたのか」

 林三郎の男つ振りが氣になります。

「さア、──よく騷がれた人ですが」

 お萬は、あまりその事に觸れ度くない樣子です。

昨夜ゆうべお前は何處に寢て居たんだ」

「私は金の番なんか、怖くていやですからズツと離れた、店の裏の部屋で下女のお安と一緒に休んで居りました」

 お萬はなか〳〵の良い年増ですが、人間はあまり賢こくないらしく、何を訊いてもハキ〳〵はしません。

 それに比べると、養女のお雪は非凡なところがあります。何より美しいうちに、確り味と鋭い才氣があつて、たつた十八といふのに、八五郎などは、太刀打の出來さうも無い、すぐれた娘でした。

「お孃さん、生れは何處だえ」

「清水で生れました」

「江戸へ來たのは?」

「五年前で」

「兩親は、──父親は紋三郎さんとか言つたね」

「父親はその前の年人手にかゝつて殺されました」

「殺された?」

「堅氣の職人でしたが、誰とも知れぬ者の手に掛つて、清水の町で殺されました」

「それは氣の毒な、──下手人はわからなかつたのか」

「ウヤムヤになつてしまひました。母はそれを苦にやんで、翌る年亡くなり、私は今の父に引取られて、江戸へ參りました」

「さうか、そんな事だつたのか」

 平次も何んか意外の事を聽かされたやうな氣がしましたが、六年も七年も前に、東海道清水港で起つたことは江戸の平次にわかる筈もありません。

「お孃さんは、お隣の彫物師の左母さも次郎と親しい相だが──」

「──」

 平次が突つ込んで訊くと、お雪はさすがに眞赤になつて俯向うつむきます。

「何んか約束でもしたのかな」

「でも、父が、許してくれません」

 二人の心持は、八五郎が考へたよりも、遙かに接近して居さうです。

 下女のお安は四十前後の房州者で、これはニヤニヤした女ですが、よく仕事をする外には特色が無く、平次の問に對しても、

「旦那樣も内儀さんも、よく出來た人達で申分のないお家です。林三郎さんは氣の強い上に移り氣で、お萬さんはそれに負けずよく妬きました。お雪さんは利巧なお孃さんですが、氣の毒なことに、お隣の左母次郎さんとの仲を割かれて、──」

 と相當よくしやべります。

「それから、外に氣づいたことは無いか」

「林三郎さんが、お孃さんに氣があるやうで、變な素振りをすると、お萬さんが大變ですよ。十八に三十八では年が違ひ過ぎますが、番頭さんは良い男の氣でゐるから、そんな事は考へなかつたでせうね」

 これはなか〳〵突つ込んだ話です。

「左母次郎といふのは、どんな男だえ」

「良い人ですよ、彫物の腕は良いさうですが、堅氣の職人で、この人も、二三年前に清水からやつて來て、お隣に住んで居ります。お孃さんとは、子供の時からの知合だ相で」

「それでは、お孃さんと左母次郎は、逢引あひびき位はするだらう」

「そんなことも、時々あるやうですが、でも、旦那樣に見つかると大變ですからね」

「主人が留守にすれば、二人は大びらに逢引をするのか」

「飛んでも無い、内儀さんだつて、默つては居りませんよ、一昨日の晩も面白いことがありました」

「一人で面白がつちや罪だぜ、何をやつたんだ」

「お萬さんの燒餅ですよ、お孃さんは、旦那樣がお留守なので、そつと自分の部屋から出て、廊下傳ひに奧へ行かうとすると、お萬さんがそれを見付けて、御亭主の林三郎さんのところへ忍んで行くと思つたか、廊下で組討をする騷ぎなんですもの」

「で、どうなつた、お仕舞ひは?」

「内儀さんが飛んで來て引分けましたよ、良い年増のくせに、お萬さんと來たら、大變なんです。御亭主の林三郎さんが、お孃さんの顏を三度も見たといつては、引つ掻く勢ですから。お孃さんは、左母次郎さんと約束があつて、そつと庭へ出ようとして居るにきまつて居るぢやありませんか、逢引の時開けるのは、音のしない雨戸なんですもの」

 此間にも、お安は面白さうに笑ふのです。四十年配の老孃らうぢやうの好奇心は果てしもありません。



 隣の男左母次郎といふのは、二十七八の良い男で、腕は優れて居ると言ひますが、いかにも貧乏臭い一人暮しでした。

「左母次郎さん、打ち明けてもらひ度いが、お前さんはお孃さんと深い約束をして居るやうだね」

 平次はいつに無く無遠慮に突つ込みます。足立屋のへいの外、小さい路地をへだてたたつた二た間の家で、小綺麗には住んで居りますが、調度らしい物は一つもありません。

「へエ、さう言はれると一言もありませんが、何しろ萬兩分限の金貸しと、貧乏な彫物師ぢや、話になりません」

 左母次郎は頭を掻くのです。

「足立屋の徳右衞門とは、清水に居るときからの知合か」

「親は知つて居りましたが、口もきいたことはありません、相手は大人で、私はまだ子供、怖い人だと思つて居りました」

「お雪さんとは?」

「近所で心安くして居りました。あの人の父親が私の兄弟子で、でもお氣の毒なことに、お雪さんがまだ子供の頃、人手に掛つて亡くなりましたが、下手人はたうとうあがらなかつたやうです。それから母親にもわかれ、一人になつて困つて居ると、足立屋の徳右衞門さんがそれを聞いて江戸へ呼寄せました」

「お前さんもそれを慕つて來たわけだね」

「へエ」

 左母次郎は又子供つぽく頭を掻くのです。

「ところで、お前さんは昨夜と一昨日をとゝひの晩は家に居たことだらうな」

「いえ、一昨日の晩は家に居りましたが、昨日は江の島へ行つて、日歸りも出來ず、島で泊つて今朝歸つて參りました」

「何んの用事で?」

「お雪さんに頼まれたんです。去年の二月、江の島の辨天べんてん樣へお詣りに行つたとき、願をかけたんだ相で、今ではその願が叶つたから、丁度一年目の巳の日の今日、私の代りに願ほどきに行つてくれと、斯う申しますし、あまり急なことでしたが、その願といふのは、私にも係り合ひのあることで、喜んで行つて參りました。──今日戻つて見ると、足立屋さんはあの騷ぎで」

「お孃さんは、父親の徳右衞門が、誰かに怨まれて、此間から脅かされて居ることを、仲の良いお前さんにも相談したことだらうな」

「いえ、そんな事は、下女のお安さんに聽きましたが、私を心配さしちや惡いと思つたか、お雪さんの口からは聽いたこともありません」

「もう一つ訊くが、一昨日の晩、お孃さんと逢引の約束があつたことだらうな、──主人の徳右衞門も留守だし」

「いえ、そんな事はありませんでした。尤も──本當のこと申上げると、私の方からは庭まで忍んで行きましたが、お萬さんが何んか大聲でわめき立てるので驚いて戻つてしまひました」

 左母次郎の話はこれで終りました。

 平次がこれだけの人に逢つて居るうちに、八五郎は相變らず近所の噂を手一杯にかき集めて來ました。

「親分、妙なことばかりですよ」

「何が妙なんだ」

 八五郎の鼻はキナ臭さうです。

「第一に、足立屋は何んで暮して居るんでせう」

「金貸しぢやないか、これほど結構な商賣はあるまい」

「ところが、金は貸してゐるが、ろくに利息も取らず、少々元金を倒されても、大したうるさい事も言はない相ですよ」

「それぢや評判がよからう」

「評判が善いの何んのつて、大した人氣ですね。その上、なか〳〵良くほどこしもする相で、あつしも金があつたら、あの眞似をやつて見たいと思ひましたよ」

「まア、あきらめた方が宜からう」

「内儀さんは少しうるさいが、先づ〳〵無難で、番頭の林三郎は評判の惡い男でしたよ、金のことには鷹揚だが、横柄で意地が惡くて、四十近いくせに女漁りがひどくて、つれ合ひのお萬といふ女がまた、燒餅の申し子──」

「燒餅の申し子てえ奴があるかい」

うるさいのうるさく無いの、毎日の喧嘩だつた相ですよ。それを默つて、同じ屋根の下に飼つて置く、主人の徳右衞門は、餘つ程腹の太い人間でなきや、追ひ出せない義理があるに違ひねえと」

「肝腎のお孃さんはどうだ、評判は良いのか」

「綺麗なことは滅法めつぽふだが、利口過ぎて氣の知れない娘だといふ話で」

「そんな事で宜からう、俺はもう歸るぜ、八」

「林三郎殺しの下手人の方はどうなるんです」

「それよりもつと大事なことがあり相だよ、都合によれば、お前に清水港まで行つて貰ふかも知れない」



 それから半月、三月になつて、江戸中滿開の花で明るくなつた頃、清水港へ行つた八五郎が、陽焦けのした顏のまゝ、明神下の錢形平次の家へ草鞋を解いたのです。

「御苦勞々々々、少し長くかゝるから、毎日待つて居たよ、──叔母さんに顏を見せたのか、此間から心配して、三度も訪ねて來たが、八の野郎は呑氣だから、序にお伊勢樣へでもお詣りに行つたんぢやあるまいかつて」

「飛んでもねえ、これで一パイ〳〵ですよ。江戸へ入ると、向柳原の叔母の家へ行く前に、兎も角、親分に話し度いと思つて、眞つ直ぐに飛んで來ましたが」

「それは有難かつたな、まア、足を洗つてゆつくりするが宜い。後で一とつ風呂浴びて、一杯引つかけるとして、先づその土産話みやげばなしだ」

 平次がお勝手へ聲をかけると、お靜が飛んで出て、何かと世話を燒いてくれます。さて八五郎の話といふのは、

「驚いたことばかりですよ親分。あの足立屋徳右衞門といふ男は、拔け荷も扱かひ、小泥棒もした樣子で、一存坊といふ惡修驗者や、堅氣の番頭になつてしまつて居た林三郎などは皆その手下で、お雪の父親の、彫物師の紋三郎は、その仲間では無かつたやうですが、女房の縁につながる間柄で、徳右衞門と往來ゆきゝはして居たことでせう」

「一存坊といふのは死んだのか」

「それも三年前人に殺されたといふことです。惡者同志の仲間割れらしく、下手人なんかあがりやしません」

「すると一存坊の脅かしの手紙は僞物だな」

「彫物師の紋三郎も、人に殺されたが、これは徳右衞門が江戸へ行つてからで、その女房が一年位後で死んでしまひ、孤兒みなしごのお雪は徳右衞門に引取られた──これは親分も御存じで、私が清水へ行つてわかつたのは、紋三郎の女房のお町は、娘のお雪そつくりで、それは〳〵綺麗な女だつた相です。亭主の紋三郎が殺されたのは、いづれ女出入りでせう、仲をよくして居た林三郎が一番怪しいと言はれた相ですが、證據が無いのでどうすることも出來ず、そのころ林三郎も清水には居なくなつたといふことでした」

「外には」

「まア、そんな事ですね」

「足立屋徳右衞門が、十年前に清水を出るときはどんな樣子だつた」

すつからかんで、女房と二人夜逃げ同樣に江戸へ出た相です」

「フーム、面白いな、──此方の方でも、下總へ手を延して調べて見たが、徳右衞門が下總に知行所のある旗本に金を貸してゐるといふのは、どうも嘘らしいよ、そんな旗本は下總に無いし、徳右衞門が時々訪ねて行く家は、矢張り惡の仲間の親分らしいんだよ」

「すると、どうなります、親分」

「十年前に、遠州灘で海賊に斬り込まれ、五千兩の御用金を奪られた船のあつたことを、御奉行所で調べてもらつたんだ、極印ごくいん入りの五千兩の金は、うつかり隱せないが、千兩箱の中へなら、極印入りでも隱せる、千兩箱の中に小判を隱す、──うまい事を考へたものだな」

「何んのことです、それは」

「足立屋の疊の下に隱して置いた、五千兩の小判を見せられた時のことをお前は覺えて居るだらう」

「へエ、へエ、一生忘れやしません」

「徳右衞門は千兩箱を五つとも開けて、上側をザクザクすくひ上げて見せたらう。あの小判が、皆んな後藤ごとうの書き判(花押くわあふ)のある表側だつたことをお前は知つて居るか」

「へエ、そんな事は氣がつきませんでした。五千兩の小判を眼の前に突きつけられて、眼をまはしてしまつたんで」

「千兩箱の小判が、皆んな表の方を出して居るといふことはあるまい、裏側には極印ごくいんがあるから、丁寧に一枚づつ表側を上にして並べ、俺が見て居る前でザクザクとやつたんだ、裏側の極印を見せない手品だ」

「成程ね」

「お前は一と休みして居るが宜い、俺は今から飛んで行つて手配をする、此上は一刻もぐづ〳〵しちや居られない」

「冗談ぢやない、あつしも行きますよ」

 平次に負けずに、旅の疲れも忘れて八五郎は飛出すのです。

        ×      ×      ×

 これは大變な大捕物でしたが、八丁堀から與力笹野新三郎が出役、十二人の組子が夜中に足立屋をおそつて、主人徳右衞門を始め、女房のお種、それに新に入つた番頭手代などを捕へ、嚴重なお調べの上、一味五人、處刑されて落着しました。

 それから間もなく、

「徳右衞門は處刑おしおきになりましたが、あの養ひ娘のお雪はどうなりました。それから番頭の林三郎は誰が殺したんです」

 八五郎はそつと訊くのです。

「お雪は左母次郎と一緒に、上方へでも逃げたことだらうよ、番頭の林三郎を殺した下手人は、わからず仕舞ひさ」

「へエ?」

「徳右衞門でなく、左母次郎でなく、お萬でないとなると、下手人は一體誰だと思ふ?」

「わかりませんね」

「あの娘のお雪だよ」

「冗談ぢやありませんよ、あの綺麗な娘が」

「だから殺せたのだよ」

「へエ?」

 平次の謎のやうな言葉に八五郎はキヨトンとなつて居ります。

「お雪の父親の紋三郎を殺したのは、林三郎の仕業だよ、お雪は多分母親からそれを聽いて居たのだらう。林三郎が徳右衞門の番頭になつて入ると、三年の間機會をりを待つたのだ」

「へエ」

「前の晩、金の番をして居る林三郎のところへ忍んで行つたところを、折惡しく燒餅のひどい林三郎の女房のお萬に見付けられて、大變な騷ぎになつた。そこで、翌る日は、林三郎殺しの疑ひを受けさうな左母次郎を江の島へ追ひやり、晝のうちから心張棒を隱し、窓の戸の敷居のさるの落ちる穴に豆を入れて置いて、夜中にそつと忍び込んだのだ」

「あの娘がねエ」

「あのお雪といふ娘は、大變な氣象者きしやうものだよ。夜中に獨り寢の四十男──本人は日本一の色男の氣でゐる林三郎のところへ、窓から若い娘が忍び込んだら、どうなる事と思ふ、眼をさました林三耶は驚くどころか、──多分大喜びで抱へ込んだことだらうが、お雪の手には匕首あひくちがあつたから、抱き込まれたまんま、左の背後うしろ肩胛骨かひがらぼねの下を力任せにグザと突いた」

「驚きましたね、どうも」

「あの娘の智惠の廻ることは容易のものぢやないよ、狙はれて居るのは、父親の徳右衞門と見せかけ、林三郎が殺されたのも、人違ひでやられたと、誰にでも思はせたのだ。それから、一存坊と書いた、父親あての脅かしの手紙、あれはお雪の手違ひだつた。一存坊が仲間割れで、養父徳右衞門か林三郎に三年前に殺されたと知らないからの細工さいくで、三本の手紙を徳右衞門の手箱から盜んだのは後で證據になると面倒なので、お雪が自分で盜んで燒き捨てたのだらう。どんなに上手に僞筆ぎひつを使つても若い娘の書いた字はすぐわかる」

「へ、驚きましたね」

「あの娘は決して惡人では無いだらうが、底の知れない怖い女だよ、──兎も角、妙なことから十年前の大泥棒が捕まつて、御用金も戻つたが、お前には飛んだ骨を折らせたね」

底本:「錢形平次捕物全集第三卷 五月人形」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年420日発行

   1953(昭和28)年620日再版発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1952(昭和27)年2月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年91日作成

2017年34日修正

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