錢形平次捕物控
五月人形
野村胡堂




「親分、世間はたうとう五月の節句せつくとなりましたね」

 八五郎が感慨無量の聲を出すのです。

「世間と來たね、お前のところは、五月節句が素通りすることになつたのか」

 平次は退屈さうでした。この十日ばかりは小泥棒と夫婦喧嘩位しか無く、平次の見張つて居る明神樣の氏子うぢこは申す迄もなく、江戸の下町一帶は、まことに平穩無事な日が續いて居りました。

あつしも男の子でせう、それに間違ひもなく獨り者だ。鯉幟や五月人形の贅は言はないが、せめては柏餅かしはもち位にありつけないものかと朝つから二三軒、男の子のありさうなところを當つて見ましたが──」

さもしい野郎だなア、生憎おれのところもお祝するほどの男の子は無えが、謎を掛けられて、季節の物を喰はせねえほどのしみつたれぢやねえ。おい、お靜、表の餅屋へ行つて、柏餅を總仕舞にしてな、へそ欠伸あくびするほど八の野郎に喰はせてやるが宜い」

 平次はお勝手に居るお靜に聲をかけました。

「じよ、冗談ぢやありませんよ、そんな人の惡い謎々なんか掛けるもんですか、あつしだつて、柏餅を買ふお鳥目てうもく位はありますがな、大の男が餅屋の店先に突つ立つて頬張るのも色氣が無さ過ぎると思つて、ツイ獨り者らしい愚痴ぐちを言つたんですよ」

「喰ひ氣ばかりかと思つたら、色氣もあるんだな、お前は。ま、安心しねえ、お靜は氣が小さいから、柏餅を一兩と買つて來る氣遣けえはねえ」

 平次は前掛を帶に挾んで路地の外へ驅け出して行く、お靜の後ろ姿を見乍ら、太平樂を言つて居ります。

「ところでね、親分、近頃變なことがあるんだが」

「また變なことがあるのか」

「五月人形にうらみがあるのか、方々に人形荒しがあるんですよ」

「人形荒しといふのは聽いたことがない話だな」

「いづれ、男の子に死なれて、氣が變になつた者の仕業でせうね」

 八五郎はそれでもローズものゝ叡智えいちを働かせたりしました。

「何處と何處だ?」

「大傳馬町の木綿問屋の伊勢屋、村松町の大黒屋、本町二丁目の呉服屋で田島屋、──皆んな金のあり餘る大だなで、──そんな事は内證にして置き度いでせうが、人形荒しなどは珍らしいから、若い奉公人の口からすぐ漏れて、半日經たないうちに、あつしの耳へ入りますよ」

「で、盜まれた物は無いのか」

「何んにも盜まれなかつたやうで」

「フーム」

「金太郎の腹掛をむしつたり、鐘馗しようき樣の首を拔いたり、散々の惡戯ですが、物を盜つた樣子はありませんね」

「縁起物の人形をこはすのは、太々しいやり方ぢやないか」

 平次は苦々しがります。さう言つた性の惡い仕事は、妙にかんにさはるのでせう。

あつしの聽いたのは三軒ですが、外にもあるかも知れません、少し調べて見ませうか」

「無駄だらうよ、何處の親も隱したがるだらうから」

「でも」

「それより、その人形を買つたのは何處で、細工は誰か、一應訊いて見てくれ。金持だけがやられたのなら、いづれ細工の良いものだらう、──わけがわかれば、其邊ぢやないかな」

「そんな事ならわけはありませんよ、ちよつと行つて來ませうか」

「待ちなよ、柏餅が來たぢやないか。お茶が入るだらう──おや〳〵これで總仕舞か、たつた九つ、しみつ垂れた餅屋だなア」

 平次は柏餅の數をあごで讀みます。

「これ丈けありや澤山ですよ」

 八五郎はさすがにモヂモヂして居ります。

「柏餅が總仕舞でなくて、巾着きんちやくの中味が總仕舞になつたんだらう」

「お前さん」

 お茶を持つて來たお靜は、平次の惡謔あくぎやくに當てられて敷居際に立ち淀みます。

 柏餅で腹を拵へた八五郎は、すぐ樣出動しましたが、半日經たないうち、詳しく言へば五月五日の暮れないうちに明神下の平次の家に戻つて來ました。

「親分、五月人形の作人さくにんは直ぐわかりましたよ」

 相變らず突つ立つて物を言ふ八五郎です。

「まア坐れ」

「へエ、ところでね、親分。面白いことがありましたよ」

「何が面白いんだ」

「あれから十軒店けんだなのお人形屋と、人形を荒された三軒の家と、人形作りの東洲齋榮吉とうしうさいえいきちといふ男の家を歩いて見ると、呆れ返つたことに、何處でも茶受に柏餅が出るぢやありませんか、いやもう、柏の葉つぱの匂ひを嗅いでもムツと來るほどで」

「氣樂な野郎だ、それでお前の調べは皆んなか」

「飛んでも無い、調べは調べですよ、──親分が言つた通り、人形を荒された三軒とも名題の大だなで、人形も立派でしたよ。ところが三軒の人形がいかにも似てゐるから、それを買つたといふ十軒店の人形屋へ行つて訊いて見ると、作人は直ぐわかりました。東洲齋榮吉といふ鎌倉町の人形師で──」

「名前は知つてるよ、名人だ相だな」

「訪ねて見ると、五十がらみの野暮な親爺で、伜を奉公に出して居るとかで、弟子が三人とやもめ暮し」

「フーム、その弟子は」

「三人共留守でしたよ。五月五日はこちとらの藪入りだから、若いものゝことだし、兩國か淺草へでも行つてるでせう。尤も内弟子は一人だけで、倉松くらまつとかいふ相です」

「その男の拵へた人形がこはされたといふことを本人は知つて居るのか」

「知つて居ましたよ、『あれは私が念入りに拵へた三組の五月人形で、外には、あんなに手の混んだ細工はありません』と言つて居ましたが」

「その人形を滅茶々々にこはされるわけがあるのか、作人の東洲齋には、心當りがあるだらうと思ふが」

「それも突つ込んで訊いて見ました。でも、本人の東洲齋には、どうも心當りが無いんだ相で、──多分私の腕を憎んでゐる、人形師仲間の仕業でせう──と職人らしい自慢をして居ましたが」

「それは變だな」

「何が變です親分」

「念入りに拵へた、三組の人形の買はれた先を知つて居て、そこだけ狙つて荒したのは變ぢやないか、──これは決してまぐれ當りや、出鱈目でたらめな見當ぢやないよ」

「そんなものでせうか」

 平次は一應の疑ひを挾んだだけでした。これが思ひも寄らぬ大事件にならうとは夢にも思ひません。



 八五郎が飛んで來たのはその翌る日、五月六日の、初夏らしいすが〳〵しい朝でした。

「又何んか、大變を仕入れて來たらしいぜ、氣をつけろ、格子は開けて置いたが、茶碗か煙草盆位は蹴飛ばされるから」

 路地を入つて來た八五郎は、長火鉢の前の平次からは見通し。

「親分」

「おつと、何があつたんだ、まるで大變が暴風雨しけを喰つたやうな顏だ」

「鎌倉町から一と飛びに驅けて來ましたよ。錢形の親分のお膝元の殺しだ、すぐ御輿みこしをあげて下さい、──あ、喉がかわく」

「勝手に手桶へ首を突つ込め、誰が殺されたんだ」

「人形師の東洲齋、絞め殺されて居るのを、遊び呆けて、今朝ぼんやり歸つて來た、内弟子の倉松が見付けて大騷ぎをして居るところへ、丁度昨日の續きを訊く氣で、あつしが行つて鉢合せをしましたよ」

「よしツ、行つて見よう、どうやら深いワケがありさうだ」

 平次は手早く仕度を整へると、女房のお靜の切火を浴び乍ら、八五郎を促して鎌倉町に向ひました。

 薫風くんぷうに素袷の袂を吹かせて、江戸の風物は一番嬉しいときですが、仕事となると、町々の青葉にも、山時鳥やまほとゝぎすにもこだはつては居られません。

「この家ですよ、親分」

 お稻荷樣の鳥居の裏、八五郎はザワ〳〵してゐる、小さい家を指します。

「おや、錢形の親分だ」

 顏見知りらしいのが言ふと、近所の衆が、あわてゝ立上がりました。後に殘つたのは若い男が二人だけ。

「私は此家の伜の香之助と申します、──御苦勞樣で」

 青白いが、二十五六の良い男が、先づ挨拶しました。

「お前は、此家に居なかつたのか」

「へエ、本町二丁目の田島屋に奉公して居りますので、親父が死んで居るといふ、急の知らせで驅けつけました。まさか殺されて居ようとは」

 香之助の聲は濡れます。お店者たなものらしい洗煉された若者ですが、いかにも華奢で氣が弱さうです。

「お前は?」

 平次はその側に居る、三十近いこれは頑固な身體を持つた、醜男ぶをとこに話しかけました。

「倉松と申します、東洲齋の内弟子で」

「昨夜は?」

「三月の三日と五月の五日は休むことになつて居ります。たまの骨休めですから、師匠に留守番をして頂いて、へ、へツ」

「何處へ行つたのだ」

 平次は死骸の前でケラケラ笑つて居るこの男の不謹愼さをとがめるやうに、きびしく追及しました。

槇町まきちやうで一と晩過しました。相手をしたのは、お千代といふ、へツ〳〵、飛んだ良い女で──」

「馬鹿ツ」

 八五郎はたうとうたまり兼ねた樣子でキメつけます。親方が殺された晩、江戸で一番下等な賣女を相手にした惚氣のろけを、死骸の隣りでヌケヌケ言ひ出しさうにするのです。

「ところで佛樣は?」

 平次は八五郎を眼顏で押へて、早速仕事に取りかゝります。

「此方に、そつとしてありますが」

 伜の香之助は、壁隣の六疊に案内しました。其部屋は主人の居間らしく、少しばかり調度が置いてあり、部屋の眞ん中に、座布團が二枚、その座布團を滅茶々々にしわにして、主人の東洲齋榮吉は絞め殺されてゐるのです。

 絞め殺されて居るのは、その顏のほんの少しの特徴で、平次にはよくわかります。が、その死骸の側には、繩も細引もなく、死骸の首には紐の跡もありません。

「これはどうしたことでせう? 親分、顏はむくんで、眼玉が飛出してるし、唇に傷があるところは、間違ひもなく絞め殺されたのだが──」

 八五郎は小首を傾げました。

「唇の傷は猿轡さるぐつわのせゐだが、紐の跡が無くて喉佛がやられてるのは、柔術やはらの絞め手だ」

「へエ?」

 八五郎は膽をつぶしました。

「見ろ、身體はあざだらけで、ところ〴〵に火ぶくれがある。お前でも見當はつくだらう」

 平次は丁寧に死骸を調べ乍ら、全身にひどい皮下出血のあることや、手足に火傷やけどのあるのを指摘しました。

「何が何やら、少しもわかりませんね」

「死骸は羽織を着て居るが、羽織の紐が取れて居るだらう、──この通り飛んでもない方にはふり出してあるが」

 平次は部屋の隅から、つくねるやうにしてあつた二本の紐を持つて來ました。

「それをどうしたんでせう?」

「手は後ろ手にさして、右左の親指を二本並べて縛つたのさ。さうすれば、羽織の紐一本で、大の男が動けなくなる」

「あとの一本は?」

「それで足の指を並べて、縛つたに違ひあるまい。その上猿轡を噛ませれば、どんな拷問がうもんにかけても、グウとも言へない筈だ」

「拷問ですか、親分」

「身體中の傷と火傷は、さう思ふ外はあるまいよ。ことに火傷は、煙管でやつたものらしい」

「ひどい事をしたものですね」

「最初は、向ひ合つて坐つて、穩かに話をして來たことだらうな、話がつかなくなつて、相手は東洲齋を手籠てごめにし──聲を出させない爲に、當て身位は喰はせたかも知れない、水落の急所が少しやられて居る、──それから猿轡で、手足を縛つて、拷問に取りかゝつたのだ」

「へエ?」

「どうしても東洲齋は口を割らないから、喉笛を締めた。最初は殺す氣が無かつたのかも知れないが、腹立ち紛れに力が入つて、到頭落ちてしまつた、──その上惡いことには、いろ〳〵手を盡しても生き返らなかつたらしい」

「見て居たやうですね、親分」

 平次の推理のよく行屆くのに驚いたのは、八五郎だけではなく、伜の香之助も、内弟子の倉松も、その後ろから覗く顏の、どれもが膽をつぶして居ります。

「すると、誰が斯んな事をやつたんでせう、親分」

「そいつは、これから調べる外はあるまいよ。兎も角も、五月人形がくさい」

「へエ──」

「香之助さん、──今の話は聽いたことだらうな」

「へエ」

 伜の香之助は、つまゝれたやうな顏を擧げました。

「お前の父親へ、誰が斯んな事をしたか、見當位はつくだらうな」

 平次は自信に滿ちた調子で、伜の香之助に訊ねました。

「それが、一向私にはわかりませんが」

「?」

「私は不器用で人形師になれ相もなく、親父も愛想をつかして、今から八年前、親父の仕事の上の金主でもあり、呑み友達でもあつた、田島屋の先代の徳右衞門さんにお願ひして、掛りうどのやうな奉公人のやうな、店中の者にうらやまれる樂な奉公をさして頂き、それから引續いて、今の御主人の厄介になつて居ります。時々は親の家へも參りますが、毎日側に居るわけでも御座いませんので、近頃は親父が、どんな人と仲よくして居るか、どんな人に怨まれてゐるか、まるで見當もつきません」

 香之助の言ふのは尤もでした。人形師を嫌つて、商人になつた子には、名人氣質かたぎの東洲齋が、大した親しみを持たず、そのため、立ち入つた話をしなかつたといふのもうなづけます。

 東洲齋といふのは、全くの江戸の職人で、きかん氣らしい中老人ですが、身體はまことに貧弱で、これなら、相手はそんなに力や腕がなくとも、取つて押へて拷問にかけられないことはありません。

「お前にはわからないのか、東洲齋は日頃どんな人と懇意で、どんな人と仲が惡かつたんだ」

 平次は内弟子の倉松に話しかけました。比丘尼びくに買ひの惚氣を言ふ三十男ですから、あまり賢こさうではありませんが、この男が飛んだ器用者で、師匠の東洲齋は、自分の伜の香之助よりも當てにして居た、と、これは後で聽いたことです。

「へエ、誰と言つて、──田島屋さんの先代の徳右衞門さんとは、仲が良かつたやうで、人樣に怨を受けるやうな人ぢやありませんが、仕事が上手で金に綺麗だつたので、仲間からは邪魔にされて居りました」

 倉松の言ふことは、これが精一杯です。

「昨夜お前は、一度も此家へは戻らなかつたのか」

「へエ、槇町のお千代に訊いて下さればわかりますが、あの阿魔あまが噛り附いて離さなかつたんで」

「──」

 八五郎はムカ〳〵するらしく、窓の外へべツとつばを吐きました。

 通ひの弟子二人は、この時驅けつけて來ました。昨日の今日で、すつかり朝寢をして居るところへ、これも急の使ひであわてゝ飛んで來た樣子です。鶴次郎と今朝松けさまつといふ、十八に十七の若もの、二人共元服したばかりの、これは何を訊いても埒があきません。

 平次と八五郎は、ひとわたり近所の噂も集めて見ましたが、東洲齋には、殺されるほどの敵がある筈は無く、少し頑固ではあつたが、江戸つ兒らしい氣前の良い中老人で、誰とでもすぐ仲よしになれたといふことでした。

 昨夜は客があつたらしく、珍らしく大きい聲で話をするのが聞えたが、間もなくバタリと止んで、今朝死體が發見されて驚いたといふだけのことです。

 たつた一人、町湯へ行つた歸り、派手な羽織を着て、この暖かいのに、お高組頭巾こそづきんを冠つた女が、東洲齋の家へ入つたのを見たといふ人がありました。

「それは間違ひがありません。今時あんな羽織を着るのは辰巳たつみの藝者衆でなきや女藝人でせうよ。背の高い、──顏は見ませんが、そりや良い樣子でした」

 それは東洲齋の家の裏に住む女房でした。時刻は亥刻よつ(十時)少し過ぎ、それ以上のことは何んにもわかりません。



 平次はそれから、人形をこはされた家といふのを三軒、順々に廻つて見ましたが、どちらも、五月になつて、藏から五月人形を取出し、子供のために飾つてからの出來事で、夕ぐれ時のドサクサに紛れ、曲者は人形を飾つてある部屋に忍び込み、手當り次第に荒したといふだけで、何んの證據も殘さず、盜られた物も無いので、全くつかまへどころもありません。

 だが、それから二日、事件は思はぬところに發展しました。人形を荒された、三軒のうちの一つ、本町二丁目の呉服屋、田島屋徳之助のうちで、主人の徳之助と、その義理の母親──つまり先代徳右衞門の女房で女隱居のお今、毒を盛られて、主人は若くて元氣なだけに助かり、年を取つて、日頃身體の弱かつた、母親のお今は、到頭死んでしまつたといふ事件でした。

「たうとうやりやがつたな」

 田島屋からの使ひで、平次は飛んで行きました。日本橋の目貫めぬきの場所で、繁昌して居る田島屋の店、無氣味な人殺し騷ぎなどがあらうとは想像もつかない堂々たるものですが、主人の徳之助は、漸く命だけは取止めて、

「錢形の親分、飛んでも無い惡戯をされました。人形荒しは兎も角、命まで狙はれちや叶ひません。どうか、下手人をつかまへて、思ひ知らせてやつて下さい」

 青い顏を擧げて、平次に頼むのです。

 三十を四つ五つ越した立派な男前で、先代が死んで二年になりますが、今ではもう、大町人の跡取の貫祿は充分、商賣仲間からも立てられて居ります。

 精悍せいかんな感じのする、良い男ではありますが、身體は小さい方、身の廻り調度もなか〳〵整つてをり、江戸の通人の一人として、近頃メキキメと評判の高くなつた男前です。

「どんな樣子でした」

「私が代つて申上げませう」

 介抱してゐたのは、内儀のお光で、これは二十五六、脂の乘つた、非凡の美しさですが、大町人の配偶つれあひとしては少し意氣過ぎ、前身に唯ならぬものを匂はせます。

「どうぞ」

 平次は靜かに促しました。

「私はお袖さんと一緒に──これは主人の妹分の田島屋の娘でございます──祝事があつて親類へ參り、暗くなつて戻りました。その間に主人は一人で晩酌をやつて夕食を濟ました相で、何かその中に惡いものが入つて居たのでせう、間もなく苦しみ出しました。すると、暫く經つてから隱居所の母親も、同じやうに苦しみ出し、町内の本道ほんだう賢齋けんさい先生に來て頂いて、精一杯のことをいたしましたが、主人は漸く助かり、日頃身體の弱い母親は──」

 お光は聲を落すのです。

「毒は何に入つて居たのか、わかりませんかえ」

「先生の仰つしやる事は、石見銀山猫いらずらしいといふことで、晩酌のときたべた、雲丹うにの鹽辛がいけなかつたやうで御座います」

「それは?」

「賢齋先生は調べて見ると仰しやつて、持つて歸りました。主人はまたあれが大の好物で」

「御隱居さんも雲丹にやられたので?」

「いえ、隱居は雲丹が大嫌ひで、これは田樂でんがくの味噌がいけなかつたと申します」

「すると、御主人と御隱居と、別々に毒を盛られたことになるわけで」

「そんな事になりませうか」

 お光もさう言はれると、甚だ覺束おぼつかない返事になります。

「親分、變な細工をする下手人ぢやありませんか」

 八五郎はキナ臭い顏をして見せます。

「行き屆き過ぎるな。兎も角も、御隱居の方を見よう」

 平次は立上がると、お光は番頭の庄兵衞を呼んで案内をさせました。五十年配の頑固さうな男、手燭を持つて先に立ちます。

「大變なことだな、番頭さん」

「へエ、私も膽をつぶしました。私共奉公人は、お勝手で一緒に食べましたが、これは一人も間違ひはございません」

「そんな惡い事をする人間が、家の中に居るのか」

「飛んでもない、主人や御隱居樣を怨む者なんか、ある筈も御座いません」

「お勝手は誰がするのだ」

「下女のお仲が一人で引受けて居ります。尤も忙しい時は、お孃さんや、御隱居さんが手傳ひますやうで」

「お内儀さんは?」

「へエ、まア、お嫌ひのやうで」

 この家の空氣は、番頭の言葉尻にもうかゞへます。

 隱居所は廊下續きの、離屋になつた六疊と三疊で、母屋の豪勢さに似ず、これは思ひの外に簡素です。

「錢形の親分さんで」

 番頭が囁やくと、死骸の上に泣き伏して居たらしい娘は、ハツと顏を擧げました。二十歳そこそこの、これは初夏の花のやうな、さわやかな美しい娘ですが、可愛さうにひどく足が惡く、そのため縁が遠い──とあとでわかりました。

 娘は涙に濡れた顏を、無造作に袂で拭いて、部屋の隅に行膝ゐざり寄りました。外から歸つたばかりの、晴着らしい赤い帶、頬が涙に濡れて、ちひさめの顏が、本當に花のやうに匂ひさうです。

 母親のお今は五十といふにしては、ひどく老けて居りました。髮も半分は白く、苦勞を刻んだ皺の深さも、この大家の隱居らしくはありません。

 死骸は娘の手で一應清めてある樣子ですが騷ぎに紛れたか、線香一本、水一つ供へず、あまり傍へ寄りつく者も無ささうです。平次の馴れた眼で見ると、間違ひもなく毒死で、前後の樣子を聽くと、砒石ひせきの中毒といふことがわかります。

「下手人に心當りはありませんか、お孃さん?」

「──」

 お袖は、斯う訊かれても、默つて首を振るばかりです。泣きじやくりの間から、止めどもなく流るゝ涙を、せんすべもなく拭くのが精一杯です。

「お母さんを、うらんでる者があつたでせう、ね」

「──」

「確りして下さい、お孃さん。お母さんの敵は、お孃さんでなきや、見付からない」

「でも、私には何んにもわかりません、──母は、父が死んでからは、時々、死に度い、死に度いと言つて居ました」

「これほどの大家の御隱居で、死に度いといふのは變ぢやありませんか」

「サア」

 それは年寄の口癖とも言ふべきでせうか。

「今日は何處へ行つたんです、お孃さん」

「番町の親類へ、──店が忙しくて徳之助さんは行けなかつたので、お光さんと私が參りました」

「お母さんは?」

「まだ五十そこ〳〵ですけれども、身體が丈夫でないので、外へは出掛けません」

 お袖は悲歎のうちにも、これ丈けは話しましたが、日頃口數の少い娘らしく、平次もこれ以上のことは、この娘からは引出せさうもありません。



 番頭の庄兵衞は口の重さうな五十男で、商賣の道には賢いかも知れませんが、調べの相手には骨が折れさうです。

「本當のことを言つてくれ。この家には、いろ〳〵厄介ないきさつがありさうぢやないか」

 隣の三疊に引入れて、斯う訊くと、

「へエ、そんなことも御座いませんが」

 一向に反響が無いのです。

「お前さんは此家に何年奉公して居るんだ」

「三十五年になりますが、尤も一度暖簾のれんをわけて頂いて、山の手で同じ商賣を始めましたが、商賣がうまく行かない上に、女房に死なれて、又このお店に戻り、取締りをいたして居ります」

「それは何時のことだ」

「先代の旦那樣がまだお達者な頃で──十年にもなりませうか」

「その先代の主人は何時頃亡くなつた」

「二年前でございます」

「今の主人は?」

「四年前から此家に入られました。お生れは武家方で、──御孃樣のお袖さまがまだ若かつたので、縁組は後のことにして唯御養子といふことで、この家へ入りましたが、それから三年後で」

「待つてくれ、すると今の主人の徳之助は、あのお袖さんの婿むこになる筈だつたのか」

「へエ、そんな事だつたかと思ひますが、先代の旦那樣が亡くなつた時は、もう今の御主人はお内儀さんも子供もありましたやうで、四十九日が濟むと、あのお光さまを、坊つちやんと一緒にこの家へ入れ、親類方や御近所、町内の重立つた方へも御披露ごひろういたしました」

「皆んな、それで默つて居たのか」

「口をきくやうな近い御親類もございません。それに、お孃樣はあの身體で、至つて内氣ですから、御自分で進んで身を引いたやうな有樣で、へエ、へエ」

 番頭の庄兵衞も、今の主人の仕打には、餘程腹が立つたらしく、平次の問ひに對して、最初の愼しみ深さとは違つて、隨分と思ひきつたことを言ふのでした。

「番頭さんも、隨分腹を据ゑ兼ねた樣子ぢやないか、三十五年も奉公して居て、何んにも言はなかつたのか」

「何んと申しても私は奉公人で、彼れ是れ申す筋合ではございません、──尤も近いうちに私もお暇を頂いて、もう一度小さい店でも持ち度いと思つて居りますが」

 庄兵衞が、御用聞の平次の前で、斯う遠慮の無いことを言つたのも、理由のあることでした。

「ところで、この家の養子にした、徳之助の身許を、番頭のお前が知らないといふのは變ぢやないか」

「存じては居りますが」

「言ひ度くないと言ふのか」

「そんなわけぢや御座いません、──七八年前田島屋は御上の御用を勤めて居りました、──御呉服所と申して、後藤縫殿助ぬひのすけ樣の御支配で、孫店まごだなでは御座いましたが、見識のあつた店でございます」

「フ?」

「その頃、少しの手違ひで、御呉服所を御免の上、重いおとがめもある筈のところを、係御役人の若手で、利け者の酒田萬右衞門樣が取なし、御自分の手落にして身を引かれたのでそのまゝ大したたゝりも無く濟みました」

「──」

「その酒田萬右衞門樣が、田島屋に養子に入られて今の旦那樣となつた、田島屋徳之助樣でございます」

「成程、それでよくわかつたよ」

「そんなわけで、御武家上りの御主人と、腹からの町人の私どもは、どうもしつくり參りません。いづれこの騷ぎが濟んで、代りの番頭が見付かりさへすれば、私は身を引くことにいたして居ります」

「ところで、その主人の徳之助と、隱居のお今さんを殺す氣になるのは誰だらう」

「さア、そこまではわかりませんが」

 番頭の庄兵衞は小首をかしげますが、何やら思ひ當ることがありさうです。

「大事なことだ、隱しだてをせずに、打ちあけてくれ。お前には三十五年ごしの恩人と言つて宜い女隱居の敵ぢやないか」

「へエ、それに相違ございません。御當家には十四の年から、海山の御恩で、私は御隱居樣がお嫁に來られた時から存じて居ります。──まことに良い方でございました」

「それ、その通りだ、──その御隱居と、一番仲の惡かつたのは誰だえ」

「娘の婿になる筈だつた、今の旦那樣を横取りした、御新造のお光さんとは、うまく行かなかつたやうで」

「尤もなことだな」

「お孃さんのお袖さんは、あの通りの内氣な方で、それにお足の惡い引け目もあるためか、御新造さんとは表向き仲の良い方でございますが──若い女同士といふものは、また格別で」

「主人の徳之助さんの氣に入りは──奉公人のうちで」

「さア」

 武家出の主人徳之助が、店中の嫌はれ者であつたことが、庄兵衞の苦澁な顏によく現はれます。

「それぢや、主人と仲の良くなかつたのは誰だえ」

「私などは、ひどくけむたがられた方で、──尤も、手代の香之助なども、暇を取り度がつて居りましたが、あれはお孃樣に氣があるので、我慢をして居たやうで」

「香之助といふと、人形師東洲齋の伜か」

「左樣でございます。東洲齋も可哀想さうなことをしました、あれはまことに厄介な頑固者でしたが、御當家の先代の、徳右衞門樣とは無二の間柄で、酒だ、だ、花だ、雪だと言つては呼び出して居りました」

「東洲齋と今の主人の徳之助とはどうだ」

「先代からの引繼ぎで、一と通りのお附き合はいたしましたが」

 武家の出と、腹からの江戸の職人とは、矢張りそりの合はないものがあつたのでせう。

「その香之助は居るのか」

「まだ、鎌倉町の自分の家に居ります。父親が死んだ跡始末でせう。尤もお店からは近いので、毎日一度や二度は參ります。今晩の騷ぎを聽いて、驅けつけて來ましたが、先程鎌倉町へ戻つたやうでございます」

 番頭の庄兵衞、無口らしく頑固らしい外貌やうすに似ず、思ひきつていろ〳〵のことを打合けてくれましたが、恐らくこれは、新主人に對する、日頃の鬱憤を漏らしたものでせう。



 お勝手に廻つて、下女のお仲を呼出して見ました。新造のお光は、主人の介抱に忙しく、近所の衆や親類達は、店で雜用に追はれて、幸ひ此方のことにはあまり氣を取られて居ない樣子です。

 お仲は三十前後の働き者らしい女ですが、出戻りで、男を諦らめた風體が、いかにも御粗末です。

「三度の物は、お前一人で拵へるのか」

「へエ、先頃までもう一人居りましたが、この三月の出代りから、私一人になつてしまひました。尤も掃除は小僧たちが手傳つてくれますし、お勝手も、御隱居さんとお孃さんが、半分は手傳つて下さいます」

「御新造は?」

「へエツ、へツ、飯の炊き方も知らないのが御自慢で、その代り藝事は大したものだ相ですよ。昔は御留守居や御用商人を相手に、金の降るやうな盛り場で鳴らした相ですから、──尤も、その又大昔は、米の一升買ひから、味噌漉みそこしをさげて、おからまで買つた樣子ですが」

 この女が、思ひの外口が惡さうです。主人徳之助夫婦の、奉公人に對する日頃の當りやうが思ひやられます。

「今晩の仕度の時も、御隱居が手傳つてくれたのか」

「いつものことですから、氣にもしませんでした。お膳立てから、煮物、燒物の世話まで」

「それから」

「私が、旦那樣のお膳を運んで行くと、御隱居樣は、御自分のお膳を、離れに持つていらつしやいました。それからお勝手で私共が揃つて御飯にして、ザワザワして居りますと、急に奧の騷ぎで──」

「御隱居の──?」

「いえ、急に旦那樣が苦しみ出して、大變で、──早く、早く醫者、醫者を──と怒鳴ると、家中の者が皆んな旦那樣の部屋へ飛込み、その中で小僧の宗吉が、庭から跣足はだしで飛出して、町内の賢齋樣のところへお迎へに行きましたが、生憎御病家先へ行かれてお留守だつた相で、半刻近くも待たされました。でも、旦那樣は武家育ちで斯んな事には心得があつた相で、食べ物を無理に吐いたやうで、旦那樣だけは助かりました」

「待つてくれ、その間御隱居はどうして居たんだ」

「旦那樣が苦しみ出した時、家中皆んな旦那樣のお部屋へ驅けつけました。その人數の中に御隱居樣のお顏も見えたやうですが」

「それは本當か、間違ひ無いだらうな」

「間違ひありません。家中でおつむの白いのは御隱居樣だけですから」

「すると、その後で御隱居は苦しみ出したのだな」

「左樣でございます。暫らく經つてから、離屋の方で人の苦しむ聲がするので、行つて見ると──」

「その時御孃さんは?」

「御新造さんと一緒に、それから暫らくして戻つて來られました。お孃樣が歸つた時は、御隱居さまはもう」

「いけなかつたのか」

「本當にお氣の毒でした」

「ところで、主人の徳之助は、この家に養子に入つたのは、お孃さんと夫婦になる筈だつたといふが、そのいきさつお前は知つて居るのか」

「店中で──いえ、町内で知らないものはありやしません。でも、旦那樣が此家へ入る前から、御新造ごしんざうとは他人で無かつた相ですし、二人の間には、子供まであつたといふ位ですから、先代の旦那樣が亡くなるのを待ち兼ねて、今の御新造樣が入つて來たのは、當り前のことぢやありませんか」

 お仲はその頃の女のやうに、諦らめたことを言ふのです。

「お孃さんは、それを何んとも思はないのか」

「でも、お孃さんは、内氣で、お身體も惡いし、──近頃では手代の香之助さんの方が良いやうです」

「成程な」

 さう聽くと、平次自身も救はれたやうな氣になるのでした。

「まだ一つ訊き度いことがある、五月五日の晩、誰も外へ出たものは無かつたか」

「出た者は一人も無かつた筈です。でも若い人達は時々夜遊びに出かけますから、時々はそつと脱出ぬけだすやうで、私共にはよくわかりません」

 さう言はれるとそれ丈けのことです。

 あとは小僧達に一通り當つて見ましたが、大した收獲もなく、それ位で見切りをつけて、夜半前に平次は引き揚げてしまひました。

 そして、町内の本道賢齋けんさい老のところを訪ね、

「田島屋の主人と女隱居に盛つた毒のことを伺ひますが」

 と訊ねると、

「あれは矢張り砒石ひせきであつたよ。砒石には味も匂ひも無いから、うんと盛られても氣がつくまい、──多分石見銀山かな」

 斯んな事を言ふのです。

「主人も隨分呑まされたでせうが」

「よくあれで助かつたよ、しんが丈夫な爲だらう。雲丹うにの外に、汁にまでまぶし込んであつたが」

「御隱居の方は」

「これは田樂だ、──女隱居は雲丹などを召上がらないことを承知だらうな、──氣の毒なことに、これは手遲れで助からなかつたが」

 賢齋の話には何んの含みもありません。



 翌る日平次は一石いつこく橋の後藤縫殿助の手代を訪ねて、五年前の田島屋の始末を訊ねました。

「錢形の親分では、隱しもなるまい。實は言ひ度くないことだが、田島屋は賄賂まひなひを贈つたことがお上の耳に入り、一時は御呉服所御免の上、重いとがにもなるべきであつたが、係り役人の一人、酒田萬右衞門と申す方が取なしてくれ、御呉服所御免だけの輕いおとがめで濟んだ、──その代り半歳經たぬうちに、小役人の酒田萬右衞門が、兩刀を捨てゝ田島屋の養子になり、名も徳之助と改めたよ。世の中は至極調法に出來たもので」

 手代は苦笑ひをして居ります。

「その賄賂を受けたお役人はどうなりました」

 平次は重ねて訊きました。

「小坂善兵衞と言つてな、至つて小心で、清簾せいれんの人と思はれて居たが、魔がさしたといふものであらうか、尤も、騷ぎがまだ落着する前に、人に斬られて死んでしまつたよ」

「へエ」

「下手人は到頭わからず仕舞ひ、多分仲間の役人であらうといふ噂であつたが、町方の探索が入らなければ、武家方の内輪揉めは、反つてわからぬものでな、ウヤムヤに葬られてしまひ、御内儀と子供達は、氣の毒なことに行方不明になつたやうだ」

「左樣で、──よくわかりました」

 平次は丁寧に禮を述べて引取りましたが、この事件の奧の奧は、容易ならぬものといふ暗示だけは受けました。

 それから十日、

「わツ、親分、また大變なことになりましたよ」

 本町あたりに下つ引を配置して、眼を離さないやうに頼んで置いた八五郎が、夜明けと一緒に飛込んで來ました。

「田島屋に何んかあつたのか」

「その通り、今度は内儀が──いやあの御新造と言はせて居る色年増のお光が、夜半に小用へ行つたところを、窓格子越しに首筋を刺され、今朝になつて息を引取りましたよ」

「時刻は?」

子刻こゝのつ前だつた相で、大騷ぎをして居る最中、子刻(十二時)の鐘が鳴つたと、これは手代の香之助の話です」

「よし、一緒に來い」

 平次は兎も角も現場へ飛込んだことは言ふ迄もありません。

 本町二丁目の田島屋は、重なる不氣味な事件に、近所の衆も脅えたものか、あまり寄りつく者もなく、恐ろしい緊張をはらんだ靜けさで、白々と朝陽に照されて居りました。

「あ、錢形の親分、たうとうお光がやられたよ、何んとかして下手人を」

 主人の徳之助は、精悍な顏を硬張らせて、平次を迎へるのです。

「お氣の毒でしたね、兎も角も、御本人に」

 案内されたのは、いつか來たことのある奧の一と間、内儀のお光の死骸は、そのまゝ床の上に持込まれて、血の氣を失つて横になつて居りました。柄の大きい、色つぽい女でしたが、死んで見ると思ひの外で、血を失つた顏色などは、青白くゆがんで醜くゝさへあります。

 傷は喉を横から一と突き、恐らく精一杯の業らしく、曲者は刄物も其儘放り出して行つたといふことですが、それが田島屋の箪笥たんすの中にあつた、曾て主人の徳之助が、酒田萬右衞門と言つた時代の差料だつたとは皮肉です。

「昨夜、夜半よなかに、──滅多にそんな事は無いのですが、小用に起きた家内が、階下したから大變な聲を出すので、驚いて飛んで行つて見ると、手洗場てうづばの中でこの有樣だ」

あかりは?」

「月があるので、手燭は持つて行かなかつた」

「寢卷は? 襦袢じゆばんか何んか?」

「長襦袢の上へ、少し冷え〴〵するやうだからと、私のどてらを羽織つて行つたが」

「いつも夜半に小用に起きることは無いと言ひましたね」

「そんな事は滅多に無かつた。私は身體が何うかして居るのか、小用が近い方で、夜も一度や二度は起きるが、家内は滅多に起きたことも無いのに」

 主人徳之助は口惜しがるのです。

 念のため、便所を見せてもらひましたが、これは大町人の家によくある、なか〳〵贅澤に出來たかみ便所で、一應洗ひ清めたと言つても、中はまだ慘憺たるものです。

 格子は紙をつてありますが、一ヶ所破れて居て、其處から刀を突つ込んだものでせう。こんな大家で、便所の格子の紙の破れを、知らない筈は無いのですから、恐らくその日の晝か、早くとも前の日あたり、曲者が準備行爲として紙を破つたものらしく、破れも不自然で大きく、中へ入つた人の丁度首のあたりを破つて置いたのも、ワケがあり相です。

 庭下駄を履いて外へ出た平次は、二度びつくりしました。

「便所の外に足跡がありませんね」

 八五郎でもそれに氣付いて居ります。

「その上箒目はうきめまで入つて居る」

「手が屆いたことですね、さやは何處にあつたでせう」

「庭の中に捨てゝありましたよ」

 番頭の庄兵衞が教へてくれました。

「今朝、誰が庭から裏の方へ掃いたのだ」

 平次は誰へともなく訊きました。

「この騷ぎの中で、庭なんか掃いた者はありません」

 それは番頭の庄兵衞です。

「それでは、昨夜のうちに、月明りで掃いたのかな、──今朝早く、内儀が息を引取る騷ぎのときかも知れぬて」

 と平次は獨り言をいつて居ります。

「下手人の見當はつきますか、親分」

「傷は下から突き上げて居る。背の低い者の仕業さ」

「足跡がありや」

「それを見せ度くなかつたのだらう、──昨夜子刻時分に、外へ出た者は無いか、一人々々當つて見てくれ。それから、今朝庭を掃いて居たものか、物置の傍から箒を持出した者は無かつたか」

「やつて見ませう」

 平次と八五郎は手を廻して、家中の者の昨夜の動きを當つて見ましたが、それ〴〵立派過ぎるほどの不在證明アリバイを持つて居て、手のつけやうがありません。

 番頭の庄兵衞は二人の小僧と一緒に店二階に寢て居り、手代の香之助は、その奧の三疊で、番頭と小僧達の頭の前を通らなければ、階下へ降りる工夫はありません。

 娘のお袖は、母親の女隱居が死んだ後、ひどく淋しがつて、下女のお仲を自分の隣の三疊に寢かして居るので、これもお仲を何んとかしなければ、その部屋を通つて、ソツと外へ出ることは六つかしく、いや、一つ、窓の戸を開けて、庭へ飛降りるすべはありますが、足の惡いお袖には、その輕業は先づ六つかしく、さう調べて來ると、あの時外へ廻つて内儀のお光を殺せるのは、現在の夫の徳之助以外には無いといふことになります。

 徳之助は放埒な男ではあつたにしても、まだ充分に惚れ拔いて居る女房、しかも四つになる徳三郎といふ子まである女房を、そんな細工までして殺す筈は無いと思はなければなりません。

「すると親分、下手人は無くなりますね。まさか鎌鼬かまいたちでも」

「馬鹿なことを云へ、鎌鼬が刀を置いて行くものか」

 一應八五郎は笑ひましたが、平次もこの下手人は見當がつかないのか、散々調べた後、默つて引揚げる外は無かつたのです。



 それからまた十日、五月も末になつて、夜は眞つ暗になつた頃のことです。平次は八五郎に言ひ含めて、絶えず田島屋の四方を警戒させて居りましたが、女房の初七日が濟むか濟まないのに、もう遊び始めた徳之助の噂をきくと、胸が惡くなつて、あのあたりに行つて見る氣さへ無くなつた樣子です。

 ところが、ある朝、八五郎の何度目かの大變が鐵砲玉のやうに飛込んで來ました。

「親分、たうとう」

「田島屋の主人が死んだんだらう」

 先を潜られて、八五郎は暫らく二の句がつげません。

「そ、それを知つて居るんですか、親分」

「そんな事だらうと思つたよ。本町からでも驅けて來なきや、まだ朝のうちだ、お前のやうな達者な人間がさう汗を掻く筈は無い」

「殺生ですぜ、親分、さうとわかつて居るなら、なぜ早く──」

「ま、待てよ八、俺も今まで、其處まではと、氣をゆるしては居たんだ。お前の汗だらけの顏を見ると、しまつた、田島の主人がやられる番だつた──と氣が付いたのさ」

「冗談ぢやない、あつしは又親分が器用なうらなひをするのかと思ひましたよ、──兎も角、あの達者な武家上りの主人が、醉覺よひざめの水を呑みに、夜遊びの歸り井戸を覗いて、落つこつて死んだらしいんで」

「いや、過ちぢやあるまいよ」

 平次は八五郎と一緒に、もう一度本町二丁目まで驅けて行きました。

 重ね〴〵の不祥事で、田島屋の者はさすがにおびえきつてしまひ、大きい聲で物を言ふ人間もなく、あちこちに首をあつめて、ヒソヒソと話して居りますが、八五郎を先に立てゝ平次がやつて來たのを見ると、

「あ、親分さん方度々御苦勞樣で」

 番頭の庄兵衞は、くすぐつたいやうな、鬱陶しい顏をするのです。

「斯んなことになりやしないかと思つたが、俺が見張つて居ても、何うしやうも無かつたよ。何は兎もあれ、佛樣は」

「今朝井戸から引きあげて、奧に寢かしてあります」

「どれ〳〵」

 番頭に案内されて、奧の主人の部屋に通りました。濡れた着物だけは脱がせて、乾いたものに換へさせて居りますが、髮の毛はグシヨグシヨで、精悍な額から頬へきずだらけ、手足の爪まで剥がして、二た眼と見られぬ凄まじい形相です。

「多分這ひ上がらうとなすつたことでせう。この通りのお氣の毒な有樣で」

 這ひ上がらうとしたが、ひどく醉つてしまつて、手足も自由にはならなかつたのでせう。その死顏にも、恐ろしい苦惱がコビリ附いて、まことに恐ろしい斷末魔が思ひやられます。

「主人は近頃、夜の外出は多かつた相ぢや無いか」

「お若い上に、御新造が亡くなつて、淋しかつたことでせう。さすがに泊ることはありませんでしたが、毎晩のやうに、ひどく醉つてお歸りでした」

「時刻は?」

亥刻よつ(十時)から子刻こゝのつ(十二時)になることも珍らしくは無かつたやうで」

「昨夜は、井戸へ落ちた時、音位は立てたことだらうが」

「何んにも存じません。井戸は裏の方で、私共は表の店二階に休んで居りますから、それに武藝御自慢の主人は、井戸へ落ちたところで、キヤツともスウとも、悲鳴はあげなかつたことゝ思ひます」

「井戸は深いのか」

「あの邊の井戸にしては、珍らしく、深い方で、水もよくて近所から貰ひに來るほどで御座います」

「主人は泳ぎの方は」

「武藝一と通りは心得て居るが、母親が大事にし過ぎて、水泳だけはやらなかつたと、笑ひ乍ら話したことが御座います」

「井戸へ落ちたら、泳ぎを知らない主人が、人の助け位は呼んだことゝ思ふが──」

「近頃はお勝手の隣に休んで居た女中のお仲も、離屋の方に休んで居りますので」

「では、井戸へ行つて見ようか」

 平次と八五郎は、お勝手から廻つて井戸へ行つて見ました。町家によくある、手頃の釣瓶つるべ井戸ですが、水は深くても、井戸そのものが淺いので、釣瓶は井戸側の外に引上げてあり、二間ほど下はもう水肌で、主人が散々中で動いたらしく、水はひどく濁つて、不氣味にさへ見えます。

 井戸側は眞新らしく、成程これに落込んだら、獨りで這ひ上がるのは六つかしいでせう。聲を立てゝも聽きとれないとすれば、泥醉した大の男も、死ぬより外はありません。

ふたは無いのか」

「へエ、坊つちやんが危いので、蓋もあります。用の無い時は蓋をするやうにと堅く申しつけて置きますが、若い者達はよく忘れますので、それに主人がお歸りになつた時、よく釣瓶から醉覺の水を呑みますやうで、夕方蓋をして置いても、朝は蓋を投り出されて居ることもあります」

「昨夜は」

「蓋をいたしましたが、今朝は蓋が拂つてありました。この通り」

「井戸端の向う側に、蓋は横に置いてありますよ」

 八五郎が持つて來てくれた井戸の蓋を、平次は受取つて念入りに陽に透しりたり、ほこりを吹いたりして居ります。

「今朝、主人の死骸を見付けたのは誰だ」

「下女のお仲でございます。水を汲みに來て死骸が浮いてるのでびつくりしたさうで」

「ところで、昨夜、その時分外へ出たものは無かつたのかな」

「さア、大抵家の中に揃つて居たやうですが、手代の香之助どんは、鎌倉町の家へ夕方から行つて泊りました」

 それを聽くと平次は、チラリと八五郎の方を振り向きました。心得た八五郎は、鎌倉町の東洲齋の住んだ家へ飛んで行つたことは言ふまでもありません。

 それから平次は二人の小僧や女中にも逢つて見ましたが、主人は毎晩ひどく醉つて歸ることと、裏の井戸で、釣瓶つるべから醉覺の水を呑むことは誰でも知つて居り、過つて井戸に落ちて溺れたといふことも、一人も疑ふものは無かつたのです。

 だが、平次は考へました、武藝自慢の主人が、醉つて井戸へ落ちたといふのも他愛がなく、これだけの井戸に落ちて散々もがいたらしい主人の聲を立てないといふのも變です。

 間もなく八五郎が戻つて來ました。

「親分、あの手代の香之助の野郎ですよ」

「何? 香之助は鎌倉町の家には居なかつたと言ふのか」

「宵に來た相ですが、亥刻よつ頃出かけて、暫らく經つてからまた鎌倉町へ歸り、夜があけてから、本町の店へ行つたさうです」

「さうか、そんな事だらうと思つたよ。此處へつれて來い」

「合點」

 八五郎は飛んで行くと、おど〳〵した香之助の襟首えりくびをつかんで井戸端へ引摺つて來ました。

「おい此野郎、お前が下手人の證據を見せてやる。井戸へ來て覗いて見ろ」

「あ、私は、何んにも知りません、昨夜は」

「その昨夜鎌倉町の家を一とき(二時間)もあけた相ぢや無いか。その間何處へ行つた。それを言はなきや、手前が主殺しの下手人だ」

 八五郎の糞力くそぢからに引摺られて、井戸端の流しに崩折れた香之助は、男が良いだけに、まことにみじめな有樣です。

「サア、親分、此野郎を縛つたものでせうね」

「待て〳〵、一言だけ訊き度い。お前の父親東洲齋を殺したのは、お前の主人の田島屋徳之助に相違あるまいな」

 平次の言葉は豫想外でした。

「その通りです、親分。私の親父は、田島屋の大旦那、──先代の徳右衞門樣から預つた、大事な書類を持つて居りました。養子の徳之助に若しも不都合なことがあつたら、それを上役人に見せてくれと頼まれて居たのです」

「フ、フ」

「親父はそれを身近に置いては危ないと思ひ、五月人形の中に隱してしまひました。これを默つて居れば宜いのに、醉つた時ツイ人に漏したらしく、主人の徳之助は、その時こしらへた三組の五月人形を、賣つた先に忍び込んで、一つ〳〵滅茶々々にこはしました。そのうちの一組は此處にあります。それもこはしたことは申す迄もありません──私にもそれがよく解つて居ります。でも、たうとう書類が見付からなかつたので」

「判つて居る。徳之助は女房のお光の着物を羽織り、お高僧頭巾まで冠つて鎌倉町へ行き、五月五日は皆んな留守と知つて、東洲齋を責めたのだ。うつかり首を絞め過ぎて、お前の父の東洲齋は死んでしまつた」

「その通りです、親分。もう何んにも申上げることはありません。さア、どうぞ」

 香之助は自分の手を後ろに廻すのです。

「待つて下さい。徳之助を殺したのは、香之助どんではありません」

 娘のお袖が、不自由な足で井戸端まで飛んで來ました。

「お孃さん、本人が白状するんだから」

 それを押へる八五郎に、

「いえ、香之助どんは、昨夜亥刻よつから子刻こゝのつまで、離屋の私の部屋に居りました」

「下女のお仲は?」

ひるつかれで何んにも知らなかつた樣子です。嘘だと思つたら、來て見て下さい。香之助どんは、いつも私の部屋へ窓から入るのですから、──」

 平次と八五郎が、娘お袖の導くまゝについて行くと、その言葉の通り、離屋の窓下は、男下駄の足跡で一パイ。

「もう宜い、もう宜い。その男を縛るまでもあるまい。主人の徳之助は、矢張り醉覺の水を呑み過ぎて死んだのさ」

「でも、親分」

「それより俺は見たいものがある。番頭さん、こはされたといふ、五月人形を見せて貰はうか」

「へエ、へエ」

 番頭の庄兵衞は、土藏から大きな箱を二つ三つ、お勝手に運ばせました。その中には、鐘馗やら、金太郎やら、武内宿禰たけのうちのすくねやら、メチヤメチヤにこはされた五月人形が一パイ。

「東洲齋が書類を五月人形に隱したといふが、何處に賣られて行くかわからぬ人形に隱す筈は無い」

「──」

「田島屋からあつらへられた、この一と組の人形に隱してあるに違ひあるまい」

 と言つたものゝ、斯うこはされた人形では、も早調べやうもありません。

「八、なたを借りて來てくれ。誰も氣のつかない、隱せさうも無いところに隱してあるに違ひない。きん太郎の腹掛や、武内樣のよろひぢやないよ」

「?」

まさかりだ、八、その刄と刄の間を割つて見てくれ」

「あつ、これだ」

 それは實に見事でした。無疵の大鉞の中程になたを入れて、一氣に割ると、中から半紙二三枚に書いた密書が一通。

「どれ〳〵」

 平次は默讀してそれを懷に入れると、皆んなの顏を靜かに眺めて、

「それぢや、後を氣をつけろよ。東洲齋を殺したのは、此家の主人の徳之助で、その徳之助は醉つ拂つて井戸へ落ちて死んだのだ」

「隱居を殺したのは?」

 八五郎は不足らしい顏で振り仰ぎました。

「食物の中へ、鼠か何んかゞ毒を落したんだらう。それぢや、仲よく暮すんだぜ」

 平次はもう後も見ずに引揚げるのです。

        ×      ×      ×

 暫らく經つて、香之助とお袖が女夫めをとになり、田島屋の後は無事に立ちました。その頃八五郎が、

「あの一件は腑に落ちない事ばかりだ。繪解きをして下さいよ」

 とせがむと、平次は、

「何んでもありやしないよ。徳之助は惡い野郎で、賄賂まひなひを取つて田島屋の先代徳右衞門を罪に陷れ、それを救つたことにして恩を賣り、同役を殺して口を塞いだ上、田島屋の養子になつて乘込んだのさ。田島屋の先代徳右衞門は、薄々それを知つたが、荒立てると自分も唯では濟まぬ。そこで徳之助の惡事を細々と書き遺し、日頃懇意にして居た東洲齋に頼んだことから、此の騷ぎが始まつたのだ」

「隱居を殺したのは」

「隱居が自分でやつたのさ。娘に疑ひをきせない爲に、娘の留守に徳之助に毒を盛り、それが利いたと知ると、自分も同じ毒を呑んだ。徳之助は助かつたが、隱居の方が反つて死んだ。娘のお袖は、たまり兼ねて、徳之助が手洗所へ行つたところを刺す積りで、間違つて背が高くて男のどてらを羽織つたお光を刺した。月があつても夜だから。でもあの娘が、あの窓からよく出入りしたよ」

「窓の下をいたのは」

「香之助の細工さ。娘の仕業と知つて、それを助けてやる爲に朝早く足跡を掃いた。──その事から思ひ付いて、徳之助が井戸で殺された時は、娘の方が窓の下に男下駄で足跡を拵へて香之助を助けた」

「へエ」

「でも、香之助が、主人の徳之助を井戸に突き落して殺したことに間違ひは無いよ。井戸の蓋には重いものを載せた跡や、泥が附いて居たし、もう一つ、──窓の外の男下駄の足跡は、左の方がひどく深くて、右の方が淺かつた。間違ひもなくびつこのお袖のつけたものだ」

「あ、成程」

「でも、あの二人を縛る氣にはなれなかつたよ。惡いのは徳之助さ」

 平次は相變らず、縛ることの嫌ひな男でした。

底本:「錢形平次捕物全集第三卷 五月人形」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年420日発行

   1953(昭和28)年620日再版発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1952(昭和27)年4月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年91日作成

2017年34日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。