錢形平次捕物控
美しき鎌いたち
野村胡堂




「いやもう、驚いたの驚かねえの」

 八五郎がやつて來たのは、彼岸ひがん過ぎのある日の夕方、相變らず明神下の路地一パイに張り上げて、走りのニユースを響かせるのでした。

「何を騷ぐんだ、ドブ板の蔭から、でつかい蚯蚓みゝずでも這ひ出したといふのか」

 平次は晝寢の枕にしてゐた、三世相大雜書を押し退けると、無精煙草の煙管を取上げます。

「そんな間拔けな大變ぢやありませんよ、いきなり頭の上から、綺麗な新造が降つて來たらどうします、親分は?」

「へエ、不思議な天氣だね、三世相にも今年は新造や年増が降るとは書いてなかつたが」

「兩國の輕業かるわざ小屋ですよ、綱渡り太夫、此間から江戸中の人氣をぎらせてゐたつばめ太夫といふ、若くて綺麗なのが蜀紅しよくかう錦の肩衣かたぎぬで、いきなり天井から落ちて來て、あつしに噛り付いたとしたらどんなものです」

「怪我は無かつたのか」

「腰のあたりを打つて目を廻しましたがね、幸ひ命に別條は無いさうですが、その時は全く驚きました」

「まるでくめの仙人の逆を行つたやうなものだ。下で口をあいて眺めてゐる、八五郎の男つ振りに氣を取られて、思はず綱を踏み外したといふか」

「冗談ぢやない、綱が切れてゐたんですよ、三間以上も高い綱の上から落ちて、死ななかつたのは不思議な位のもので──」

「綱が切れてゐた? 綱渡りの綱は滅多に切れるものぢやねえが」

 平次は此事件から、早くも何やら腑に落ちないものを見出したのです。

樂屋がくやの天井の、綱の結び目に、刄物が入つてゐたんだから、切れても不思議はありませんよ」

「誰がそんなことをしたんだ」

「そいつがわかれば、其場で縛つて來ましたがね、皆んな神妙な顏をしてゐるから、疑ひの持つて行きやうがありません。ことに座頭の天童太郎の女房お崎などは、大金の掛つた大事の太夫に、そんな惡戯いたづらをするのは放つちや置けない、此場で縛つてくれたら、三枚におろして、酢味噌で食はうと言つた勢ひでしたよ」

「そんな時は、一番荒つぽい事を言ふ奴が一番怪しいものだ、天童太郎の女房は何處に居たんだ」

「あつしもそれは氣がつきましたが、詮索せんさくする迄もなく、表看板の下で、囃子の三味線を彈いてゐたんだから、疑ひやうはありません」

「厄介なことがあり相だな、人一人の命に拘はることだから、放つても置けまい、行つて見ようか、八」

「そいつは有難え、親分が行つて下さればあのが喜びますよ」

 平次が氣輕に腰をあげてくれたので、八五郎は犬つころのやうに先に立つて驅け出しました。



 東西兩國その頃の賑はひは、今日の樣子からは想像も出來ません。見世物と輕業と、水茶屋と、そして大道商人と、隙間もなく押し並んだ中に、江戸の有閑人いうかんじんと、道草の小僧と、そして田舍から出て來た人達が、浮かれ心と好奇心の動くまゝに、人波を作つて、東から西へ、西から東へと流れるのでした。

 天童太郎の輕業は、その中では半永久的な小屋掛けで、座頭ざがしらの天童太郎の藝達者と、娘太夫つばめの美しさで、暫らくは人氣の中心になり、一日何杯かの客を鮨詰すしづめにしましたが、その日の晝過ぎ、つばめ太夫が傷ついて、客の目當てを失つたために、陽のあるうちから木戸を閉めて、沸き立ち返るやうな兩國の賑ひの中に、寂然として靜まり返つて居りました。

 裏へ廻つて戸を叩くと、

「へエ、どなた」

 まだ外は薄明るいのに、少し迷惑さうに中から開けてくれたのは、一座の彌太八、口上も言へば前藝もやる、貧乏臭いが重寶な三十男です。

「錢形の親分だよ、つばめが落ちたのを調べに來て下すつたんだ」

 八が恩に着せます。

「つい裏に親方の家があります、此處はあつしと久兵衞だけで」

 その久兵衞といふのは鹽辛聲しをからごゑの木戸番で、二十五六の眞つ黒な男、煮締めて燻して、鹽を利かせたやうな顏を、小柄な彌太八の後から、見越入道見たいに、ヌツと出します。

 彌太八に案内されて行くと、小屋と背中合せになつた、二軒長屋の一つが、座頭の天童太郎夫婦と囃子方で下女も兼ねて居るお幾の住んでゐる家、壁隣りの家は、娘太夫のつばめとその母親のお高と、つばめの弟の與吉の三人が住んでゐる家、母親のお高は樂屋の雜用をやつて居る三十七八の女ですが、昔は天童太郎の師匠で、此一座を背負つて立つた、元の座頭久米くめせん八の女房で、女の曲藝師としてその美しさを鳴らしましたが、亭主の仙八の死んだ後は、進んで樂屋の雜用を引うけ、近頃ぐん〳〵人氣の出て來た、娘のつばめ太夫の後見をして居るといふことでした。

 平次は先づ二軒長屋の右の方、お高つばめ母娘おやこの家を訪ねました。いそ〳〵と迎へてくれたお高は、娘の怪我にすつかり面喰つたものか、氣も心も轉倒して、唯ウロウロと埒もあきません。

 家はたつた二た間、その奧に娘のつばめが休んで居りました。打身の煉膏藥ねりかうやくの匂ひが、プンとして、首から足まで、半身を繃帶で卷かれた娘の樣子は淺ましい限りですが、それにもかゝはらず此傷ついた娘からは、言ひやうもない痛々しい艶めかしさと、汚され踏みにじられた高雅なものを感じさせるのです。

 年は十八、まだ初々うひ〳〵しさの殘る、下つ張れの可愛らしさも、全身の痛みに歪んで見えますが、背はやゝ高い方、白粉は襟に殘つて、口紅の消えた唇は、蒼く見えるのも氣の毒でした。

「どうだ、氣分は?」

 平次はそつと娘に遠くから聲をかけました。夕明りが障子に殘つて、二本燈心の行燈が薄暗く見える中に、娘はからくも顏をねぢ向けて、臆病らしく瞬くのです。

「錢形の親分さんだよ、お前──」

 母親のお高は娘の寢返りを手傳ひながら耳に口を寄せてさゝやくのでした。三十七八と言つても世帶の疲れで老けては見えますが、この娘の母親らしく、昔はさぞと思はせるきりやう──貧苦も奪ひきれない底光りのする美しさが殘つて、妙に心を打つものがあります。

「お蔭樣で」

 娘つばめの口は僅かに動いたやうです。

「幸ひ身體が鍛へてあるので、大した怪我は無かつた──とお醫者樣も申します」

 母親のお高が代つて説明してくれました。

「それは宜かつたね、──ところで、綱が切られて居た相ぢやないか、誰が、そんなひどいことを」

「いえ、彈みでございます、長い間使つた麻繩で、いたんでゐたのでございませう」

 母親のお高は眞劍に、娘の怪我を過失にしてしまひ度い樣子です。

「誰か、お前を怨んで居る者は無かつたのかな」

「飛んでもない。娘を怨む者なんか、まだこんな子供ですもの」

 母親は、娘の繃帶だらけの首を抱き上げて、頬摺ほゝずりでもし度いやうな樣子で、平次の疑ひに抗議するのでした。

 かういつた母親の口から、何んにも引出せさうも無いことは、平次にもよくわかります。

「八、隣の天童太郎のところへ行つて見ようか」

 平次は締めてしまひました。

「大事にするが宜い、打撲傷うちみは後が大事だといふから」

 そんな事を言つて、外へ踏出した平次は、薄暗くなつた外で指をくはへてぼんやり立つて居る八つか九つの男の子に逢ひました。

「この子は?」

「つばめの弟の與吉ですよ、九つだ相で、身體は相當ですが、智惠は少し遲い方で」

 八五郎がズケズケ斯んな事を言ふのを、少年與吉は大して氣にする樣子もなく、指をくはへたまゝ、默つて二人を見詰めて居ります。顏立は姉や母親に似て、惡くない子柄ですが、釘が一本足りないらしく、何處となく締りの無いのも氣の毒です。



 天童太郎は晩酌ばんしやくを始めてゐた樣子でしたが、盃をはふるやうに、あわたゞしく迎へてくれました。

「錢形の親分さん、飛んだ御手數をかけます、誰かのろくでもない惡戯でせうが、なアに大したことぢやございません」

 そんなことを言ひ乍ら、手を取るやうに平次と八五郎を迎へ入れます。壁隣の二軒長屋と言つても、此方は建増して部屋の數も多く、調度も立派で、何んとなく豊かに見えるのも、勢力からも金からも見離された、先代の座頭、久米の仙八と、今を人氣の上り坂に居る、今の座頭天童太郎との、榮枯えいこの違ひを見せつけられるやうで、まことに異な心持になります。

「まア、親分さん方、何が無くとも、一つ召し上つて下さい、急のことで支度もありませんが」

 女房のお崎は、あわてゝ新しい膳を出したり、盃を並べて、銅壺にさはつて見たり、一人で氣を揉んで居る樣子です。

 亭主の天童太郎は四十前後の立派な男で、背は低い方ですが、顏立ちも精悍で、筋骨のたくましさは、さすがに多年のきたへを思はせます。

「構はないでくれ、少し話を訊くだけのことだから」

「でも、まア、一つ召上つてから──本當に何んといふ惡い奴でせう、あんなひどい惡戯なんかして、つばめは人氣が大變ですから、いづれそれを妬む者の仕業でせうが」

 さう言ふお崎は四十二三、亭主の天童太郎を差し措いてまくし立てるのです。

 よく脂の來つた、中年の女らしい作り愛嬌、奔流のやうな多辯、悉く相手を辟易へきえきさせますが、本人はそれが得意で、自分のやうな才女で人氣者は、廣い江戸にも澤山は無いだらうと思ひ込んでゐる樣子です。

「ま、待つてくれ、妬むと言つたところで、一座には外に女藝人も無い樣子だ──外から小屋の中へ潜り込んで、樂屋の天井裏の、綱を切る隙でもあるといふのか」

 平次は兎も角この女の饒舌にブレーキをかけました。

「飛んでもない、木戸から樂屋へは、人目が多くて來られません。裏口はお高さんがつばめの弟の與吉と一緒に頑張つて居る筈で」

 天童太郎はあわてゝ口をれます。

「すると、一座の者の仕業といふことになるが」

「それが、どうしても思ひ當らないのです。お幾は女房と一緒に囃子方をやつて居りましたし、久兵衞は木戸口を動かない筈ですし、彌太八は、舞臺の隅で何んか口上を言つて居りました」

「親方は?」

あつしは木戸の上の、丁度綱を切られた方とはあべこべの揚幕からそれを見て居りました。つばめが綱を渡り切つて舞臺に降りると、今度は私が綱の上へ出て、物眞似の道化をやることになつて居りました」

「──」

「で、切つかけを待つて居たのです。囃子が變ると私の出番で」

 平次は此の説明を聽きながら、何やら考へ込んで居ります。

「つばめはあのきりやうだから、さぞ若い男から騷がれることだらうな」

「それが不思議で、──十八と言へば、もう一人前の娘盛りなのに、あのばかりは一向取合ふ樣子もございません。小屋の客の中にも、あの娘を目當てに、毎日々々見える人も三人や五人でなく、手紙をくれたり、物を屆けたりする男もありますが、あの娘と來ては振り向いて見ようともしません」

 女房のお崎が代つて、また饒舌り始めました。全く留めども無い舌の動きです。

「一座の中では?」

「人氣ものでございますよ、でも男氣と言つては、口上の彌太八と、木戸番の久兵衞だけで」

「その二人のうち、特につばめに氣のある男が居るだらう」

「若い久兵衞は道樂者だうらくもので、小娘などには目もくれませんが、口上の彌太八は、つばめに夢中なやうで、尤も夢中だと言つても、もう三十ですから、無法なことをする筈もなく、それに、あの時は丁度舞臺で口上を言つて居りました、綱を切る隙なんか無かつた筈で」

 お崎の話を聽いて居ると、小屋の外にも内にも、綱の切り手は無くなります。



 小屋の方は、樂屋の隅の薄暗い四疊半に、小道具と雜居して、口上の彌太八と、木戸番の久兵衞がとぐろを卷いて、寢るでも起きるでも無くゴロゴロして居りました。

「お前達は、毎晩此處に寢て居るのか」

 平次が入つて行くと、あわてゝ飛起きて、

「へエ、親分、今晩は、──あつしだつて金さへありや、斯んなところにくすぶつて居たくはありませんが、前借だらけで、近頃は親方も良い顏をしてくれませんから」

 と打ちあけた事を言ふのは、道樂者らしい木戸番の久兵衞でした。

「お前はよく遊ぶさうだが、彌太八はどうだ」

「此野郎はつばめに夢中で、小博奕こばくちの味一つ知らないといふ變り者ですよ。何をするかと思ふと、火鉢の灰をならして、火箸ひばしで、つばめ、つばめ、つばめと假名文字の千文字を書いて、ホーツと溜息をつくんで」

「止せ、止さないか、馬鹿々々しい」

 彌太八はあわてゝ久兵衞の口を塞ぎさうにしましたが、相手は年こそ若いが、横着で人が惡くて、そんな事では口を塞ぎません。

「皆さんに申上げた方が宜いよ、手前が下手人でない證據のやうなものぢやないか、綱の切れたのは、舞臺の眞上の樂屋裏だが、その時お前は、綱の上のつばめに見とれ乍ら、口上をとちつて居たぢやないか」

「好い加減にしろよ、親分がびつくりするぢやないか」

 彌太八は困じ果てゝ、照れ臭く顏などを撫で廻すのです。

「そんなわけで、つばめに怪我をさせたのは、あつしや彌太八ぢやございませんよ、親分やおかみさんだつて、金箱の娘太夫を殺す氣になるわけは無いし、あとはつばめの母親と、弟の與吉でせう」

 久兵衞は、なほも達辯に辯じ立てるのです。

「すると、下手人は無いことになるぢやないか、──誰が一體綱を切つたんだ」

 平次も釣られるともなく、斯んなことを言ふ外はありません。

「この小屋には、惡い因縁いんねんが附き纏つてゐるんですよ、あつしはそれが氣になつてならないから、折があつたら飛出して外へ行かうと思ふんだが、さう思つた時は何時も空つ尻で、動きがとれません」

「惡い因縁とは何んだえ」

 平次は訊き返しました。

「宜いつてことよ、袖なんか引張らなくたつて、錢形の親分が見透さずにおくものか」

「ね、親分、この小屋で、綱渡りの綱の切れたのは、これが二度目なんですよ」

「なる程」

「惡い因縁ぢやありませんか」

「──」

「最初の災難は今から三年前、前の座頭の、久米の仙八親分が、──これは綱渡りの名人でしたが──綱の眞上から落ちて、腦天なうてんを打つて即座に死んでしまひました」

「矢張り綱を切られたのか」

「いえ、その時は鼠の惡戯とわかりましたよ」

「鼠?」

「綱の根元に、油が浸みて居たのを、鼠が噛つたんですね。その時の小屋は鼠の巣見たいでしたよ」

「そんなことで綱が切れるのかな」

「鼠だけのせゐぢやないかもわかりませんが其處まではこちとらの眼が屆きませんよ、それつきりウヤムヤになつてしまひましたが」

 久兵衞の話には、妙な含みがありますが、三年前のことでは、平次も調べやうがありません。

「此小屋では、毎日道具を調べないのか」

「三年前の事があつてから、念入りに調べることになつては居ますよ、今朝もあつしが調べたときは、何んの變りも無かつたのですから、つばめが綱にかゝる前に、誰かゞあんなひどい事をしたんでせうね」

 久兵衞は獨りで引受けて饒舌しやべり立てますが、彌太八は默りこくつてそれを聽くだけ、異議を挾む樣子も無いところを見ると、それは恐らく全部が全部まで本當のことだつたかもわかりません。



 平次は彌太八と久兵衞を案内に、小屋の中を隈なく見せて貰ひました。夜になりきつてひどく不便ではありますが、八五郎と久兵衞の持つた手燭てしよくが、案外隅々までも照して、晝では氣のつかないところまで、注意が屆くといふ便利もあります。

 つばめが綱から落ちた時の、一座の者の位置を、一つ〳〵確かめて行きましたが、すべての人の部署は明瞭で、樂屋裏の天井に這ひ上つて、綱の元を切る者などは、どう考へてもありやう筈はなかつたのです。

 つばめの母親は裏口に頑張つて居り、これは娘の生命にかゝはるやうな人間を其處から通さなかつたことは、あまりにも明かです。天童太郎は切られた綱の反對側に居り、あとは全部土間を埋めた觀客の眼にさらされて居たのですから、そつと拔け出して、樂屋裏の綱に細工をする隙などは無い筈です。

 平次はこれ丈けのことを確かめると、危い梯子を昇つて、樂屋裏の天井、綱を切られた場所に行つて見ました。さすがに、空中いろ〳〵の藝當もするので、はりや柱は思ひの外丈夫に、その大柱から梁にかけて結んだ、綱の根元も確かりして居ります。

 その根元スレスレに、張りきつたところを切つたらしく、綱の切り殘しが五寸ほど、少し段々が付いて下つて居るところを見ると、あまり良い手際とも言へません。

 それにしても、此處から張り渡した古い幕にかくれて、舞臺も客席も綱の行方も見えず、曲者は囃子の音樂に耳をすまして、綱を渡る人間の居る場所を、感で定めて綱を切つたことでせう。

「刄物は何んです、親分」

「張りきつた綱だ、何んでも切れるよ」

「でも、これだけの綱を切るのは余つ程の手際ですね」

「いや、そんなことはあるまいよ、ちよいと、そのあかりを貸してくれ」

 平次は八五郎の問に答へ乍ら、手燭を受取つて、しきりに四方を物色して居ましたが、目隱めかくしの幕の蔭に手をやると、丁度自分の腰ほどの高さの羽目板の隙間から、何やら引出して灯にすかして居ります。

菜切庖丁なつきりばうちやうですね」

「これが得物さ、びては居るが、張りきつた綱なら切れるよ」

「誰がそんなことをしたんでせう」

「騷ぐな、大方見當は付いた積りだ」

「へエ?」

 平次は八五郎を促して梯子を降りると、其處で待つてゐる彌太八に、何やら囁いてサツサツと外へ出るのです。

「もう歸るんですか、親分」

「まだ寢るには早からう、歸つて一杯やらうよ」

 兩國から明神下へ着いたのは戌刻いつゝ半(九時)頃、八五郎を相手に一本あけたところへ、

「今晩は、御免下さい」

 恐る〳〵訪づれたのは、天童一座の口上言ひ、彌太八の打ち沈んだ姿だつたのです。

「ヤア入れ、一杯やつて居るところだ、お前も附き合ひ乍ら、ゆつくり話さうぢやないか」

 彌太八は恐る〳〵入つて來て平次と八五郎の呑んでゐる後に、かめの子のやうに首を縮めました。

「お前は何んか知つてゐる筈だ、──いや、お前は何んか、俺に言ふことがある筈だ。十手捕繩はしまひ込んで、唯の平次になつて、一杯呑み乍ら、お前の話を聽かうぢやないか」

 平次は彌太八に盃を差して、二つ三つ立て續けにつぎ乍ら、斯う話しかけます。木戸番の久兵衞の饒舌に比べて、彌太八の極端な無口と、その考へ込んで居る眼の色が、平次の腑に落ちなかつたのでせう。

「親分、私は、つく〴〵恐ろしいと思ひました」

「何が恐ろしいんだ」

「今日樂屋裏の天井に潜り込んで、あの綱を切つたのは、三年前に同じ綱から落ちて死んだ、久米の仙八親方の幽靈に違ひありません」

「何を言ふんだ、馬鹿々々しい、久米の仙八の幽靈が、自分の娘のつばめを殺さうとしたといふのか」

「それに違ひないから、私は不思議でたまりません。あの時、舞臺の隅に居た私が、フト上を見ると、揚幕あげまくの陰から、梯子を登つて行くのが、間違ひもなく死んだ仙八親方、──チラリと見えた柄が、仙八親方が死ぬ時着て居た赤いしまの入つた青いはかまで、間違ひの無い品でございました。變なことがあるものだと思ふと、間もなく綱渡りが始まつて、それからあの騷ぎです」

「──」

「忘れもしない九月二十八日の今日は、仙八親方の三年目の命日で、私は思はずゾツとしましたよ。尤も考へて見ると、仙八親方が迷つて出るのも、無理のないことで──」

「何が無理がないと言ふのだ、お前はもう少しいろんな事を知つてるだらう。皆んな言つてしまはないと、今後は仙八の幽靈がお前に祟るかも知れないぜ」

「冗談言つちやいけません、私は何んにも怨まれる覺えはありません、怨まれゝば、今の座頭の天童太郎親方の方で」



 彌太八は平次の説き落しのうまさに引摺ひきずられて、たうとう大變なことを打ちあけてしまつたのです。一つは久米の仙八の幽靈に脅かされて、それを言はずに居られない心持になつて居たのでせう。

 その話によれば、今から丁度三年前、同じ九月二十八日の夕刻、道化姿で綱渡りをして居る先代の座頭久米の仙八が、綱が切れて土間の眞ん中に落ちて死んだのは、どうも鼠のせゐらしく無いといふのです。

 いやそれどころでは無く、その頃一座の花形で、仙八と人氣を爭つて居た、天童太郎に相違ないといふ、根強いうたがひを長い間持つて居たといふのです。その疑の根據といふのは、かなり確實なもので、仙八が綱から落ちたとき、其場に居なかつたのは天童太郎だけで、それも樂屋の天井から梯子傳ひに降りて來る姿を、彌太八がこの眼で見たといふのです。

 鼠に噛られたと見せた綱の切口は、切出しで細工したもので、一氣に鋭い刄物で切らなかつたところにずるさがあり、當時は誰も天童太郎の仕業と知らなかつたのも無理のないことでした。

 天童太郎が親方の仙八を殺した原因は、一座を自分のものにし度い野心と、もう一つはその頃若くもあり、非常に美しくもあつた、つばめの母親お高に言ひ寄つてひどく彈かれた怨みで、その頃はお高は、三十四、五の大年増乍ら、まだ十四、五の可愛い盛りの娘つばめを相手に空中の曲藝を演じ、女輕業師として、大した人氣であつたといふことは、彌太八の説明で平次や八五郎も思ひ出しました。

 夫仙八の死後、お高は花やかな舞臺から退いて、あの通りのきたない作りになり、專ら娘つばめの成長を樂しみに、裏木戸番で滿足して居るのは、貞女振りでした。一つは天童太郎にいどまれるのが、いかにも煩はしかつた爲でせう。

 天童太郎はその後一座を自分のものにしましたが、仙八の未亡人のお高ばかりは、どうしても儘にならず、その後一年經つて今の女房──おしやべりで三味線の達者なお崎を迎へ、今日に至つたといふのが、彌太八の説明のあらましでした。

「それを、どうしてお前はお高に話したのだ」

 平次はいきなり彌太八に問ひかけました。

「へツ」

「隱すな、亭主の仙八を殺したのは、天童太郎に間違ひない、證據はこれ〳〵とお前は本當に話したに違ひあるまい」

「相濟みません、──ツイ一昨日の晩でした、私とつばめと仲よく話して居るところを、母親のお高さんに見つけられ、散々油をしぼられた上、お前は亭主の仙八を、誰が殺したか、知つてるに違ひない、それを言はなきや、この先、たつた一と言も娘のつばめに口をきいて貰ひ度くない、と言はれて、ツイ、三年の間私の胸一つにしまひ込んで置いた疑ひの數々を打ち開けてしまひました」

「フーム、それは大變なことだ、今日は、仙八の三年目の祥月しやうつき命日だと言つたな」

「お高さんもそれをくり返して言つて居ました」

「ところで、お前が此處へ來る迄に、變つたことは無かつたか」

「何んにもありません、久兵衞の野郎は、急に小遣が出來たと言つて、吉原なかへ冷かしに出かけた樣ですが──そのお小遣は、お高さんから借りた樣子でした」

「つばめの容體は」

「もう大丈夫だといふことで」

「親方の天童太郎のところでは、おかみのお崎さんは、女猩々めしやう〴〵とも言はれる位で、すつかり醉つ拂つて管を卷いて居りましたし」

「お幾とか言つた、下女代りの女は?」

「見えなかつたやうです、──さう〳〵、それから珍らしい事に白痴はくちの與吉が、何んか手紙か何んかを持つて、壁隣の天童太郎親方のところへ行く樣子でした」

「それは容易ならぬことだ、行つて見よう、八」

「何處へ行くんです」

 まご〳〵する八五郎を引立てるやうに、平次と彌太八は、もう一度兩國へ引つ返しました。九月二十八日、夜はうるしのやうに眞つ暗で、町も大方は寢鎭まりました。



 小屋は空つぽ、彌太八の部屋に入つて、手燭を用意すると、平次は樂屋を一とわたり見て廻りましたが、其處には何んの變りもありません。

「さア、見當がつかなくなつたぞ」

 舞臺にも別條は無く、其處から客席へおりて、丁度眞ん中頃へ來た時、

「あツ、これだ」

 眼の早い八五郎は思はず大きい聲を出しました。土間に板を置いて、薄べりを敷いただけの客席、その丁度中ほどに、座頭の天童太郎は、喉笛のどぶゑを刺されて、血の海の中に死んで居るではありませんか。

 素袷すあはせに、忍びの泥棒がん燈を持つて居りますが、短かい蝋燭らふそくは、投出された時消えたらしく、外には證據になるべきものは一つもありません。

「眞上から肩口へかけて喉笛を刺して居る不思議な手際だ」

 平次も舌を卷いて居ります。死骸は冷くなりかけて、少くとも半刻以上は經つたらしく、最早命の呼び戻しやうもありません、

「こんな達者な男を、誰が殺したんでせう」

 八五郎は膽ばかりつぶして居ります。客席の眞ん中、あたりは廣々として、身を隱す場所も無いのですから、余程腕の出來る、天童太郎より遙かに背の高い者が、馴々しく寄つて不意に上からやつたと見る外はありません。

「あれは何んだ」

 平次は頭の上を仰ぎました。

「ブランコですよ、つばめの藝當の一つで、あれに飛付いてはなわざをやるんです」

 ブランコは、低いのから高いの、幾段にも下つて居りますが、天童太郎の死骸の眞上、地上からざつと九尺ほどのところに、一番低いのがブラ下つて居ります。その上に飛付いて、いろ〳〵の藝當をやるつばめは、すぐ下で口を開いて見て居るお客樣達には、一つの魅力だつたに違ひありません。

 それを見ると平次は、

「八、もう歸らうよ、町役人に知らせて、明日の朝でも檢視をするんだね」

 興味を失つたやうに死骸を見捨てゝ、さつさと外へ出るのです。

「親分、下手人げしゆにんは?」

「知るものか、鎌いたちか何んかだらう」

「へエ?」

 八五郎もその後について行く外はありません。

 裏の二軒長屋のうち、天童太郎の家を覗くと、おかみのお崎は疊の上に引つくり返つて大いびきを掻いて居り、下女のお幾はそれを介抱しようともせず、自分の部屋へ入つて寢てしまつた樣子です。

 隣のお高の家では、まだ何やら話聲が聽えます。障子の隙間から覗くと、つばめが眼を覺した樣子で、その枕元まくらもとに寢もやらずに介抱して居る美しい母親のお高は、娘に水などを呑ませて居るのが、靜か乍ら、何んとも言へない哀れな風情でした。弟の與吉──あの少し足りない少年は、隣の部屋で夢でも見て居ることでせう。

 その窓をそつと離れた平次は其處までついて來た彌太八に、かう言ふのです。

「それぢや俺は歸るよ、あとは土地の役人が宜しいやうにしてくれるだらう──お前はお高とつばめの面倒を見てやるが宜い」

        ×      ×      ×

 それから幾月か經ちました。

 輕業師かるわざし天童の死は、それつきり誰の仕業ともわからず、女房のお崎は、寄邊を失つて退散し、その年の暮近くなつた頃この一座は怪我の癒つたつばめ太夫の名で花々しくふたを開けました。

 一座の顏觸れに、つばめ太夫の母親のお高が、三年目の歸り新參で、少しもおとろへぬ美しさと若さと藝達者を見せてくれたことは、どんなに人氣を引立てたかわかりません。それに彌太八も久兵衞もお幾も昔の通りで正月の景氣のよさが思ひやられます。

 その噂をきいて、

「一體あの綱を切つたり、天童太郎を殺したりしたのは誰なんです、親分、鎌いたちなんかぢや胡麻化されませんよ、あつしは」

 と、一生懸命に詰め寄る八五郎に對して、平次はかう説明してやりました。

「つばめの綱を切つた人間は、どうしてもわからなかつた筈だよ──たつた一人、氣のつかない人間があつたのだ」

 平次は全部の人間の配置を細かに説明してから、その時すべての人のおちいつた盲點を指摘するのです。

「誰です、それは?」

白痴はくちの與吉だよ、──子供だし、智惠の遲い方だから、皆も氣がつかなかつたのだ、尤も細工をして、與吉に綱を切らせたのは母親のお高だが」

「娘の乘つて居る綱を?」

「天童太郎が、あのすぐ後で道化姿で綱渡りをする筈だつたのさ、それを與吉は、母親に言ひ含められた囃子を聞き違へ、まだ姉のつばめが乘つて居るうちに、綱を切つてしまつたのだ」

「へエ?」

「お高が彌太八にいろ〳〵の事を聽かされたのは前の晩だ、お高は死んだ亭主の仙八の敵を、伜の與吉に討たせる積りで細工をしたのだよ。仙八のはかまをはかせたのは、その爲だつたに違ひない。彌太八はそれをチラリと見て幽靈と思ひ込んだのも無理のないことだ」

「?」

「綱は張り切つて居たから菜切庖丁なつきりばうちやうでも切れた。その菜切庖丁が錆だらけなのは、女世帶の刄物の證據だ、菜切庖丁を磨いでくれる人も無いからだ。それから庖丁を隱せる場所がいくらもあるのに、丁度子供の肩のあたり、羽目へ挾んであつたのは、智惠の廻らない與吉のしたことに違ひあるまい」

「へエ、すると、天童太郎を殺したのは?」

「お高は自分の手違ひとは言ひながら、娘が怪我したのまで口惜しくて仕樣がなかつた。その晩、仙八の三年忌の夜のあけぬうちに片付ける積りで、久兵衞に小遣こづかひをやつて外に出し、お崎が醉つ拂つたのを見すまして、與吉を使つて天童太郎をおびき出した。天童太郎は三年前の戀が成就すると思つて、ワク〳〵し乍ら小屋へ行つたことだらう、人目につくとうるさいから、舞臺で使ふ小道具の泥棒がん燈を持つて行つた」

「どうして、刺したのでせう、不思議な傷でしたね」

「先に小屋へ入つて待つて居たお高は、昔の舞臺姿の肉襦袢にくじゆばん一つで、あのブランコに飛つき、膝でブラ下つて逆樣になつて居たことだらう、匕首あひくちか何んか持つて居た手が、九尺の高さから、下へ差しかゝつた天童太郎の首筋に丁度屆く」

「そこで傷が、上から下へ──喉笛から肩口へ刺したわけですね」

「その通りさ、天童太郎の泥棒がん燈は足元しか見えないから、此美しい鎌いたちが天井からブラ下つて、自分の首を狙つて居ることは氣がつかなかつたことだらう」

「成程ね」

「わかつたか、八」

「恐ろしい女ですね」

「でも、自分の長屋へ歸つて怪我をした娘を、夜つぴて介抱かうはうして居る靜かな姿を見ると、俺は縛る氣が無くなつたよ──余計なことを言ふなよ、あの輕業小屋の人氣にかゝはることがあつちや氣の毒だ」

 平次はこんな氣の弱いことを言ふのです。

底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年45日発行

初出:「サンデー毎日」

   1951(昭和26)年9月新秋号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年1212日作成

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