錢形平次捕物控
綾の鼓
野村胡堂




「親分の前だが、女日照ひでりの國には、いろんな怪物えてものがゐるんですね」

 八五郎がまた、親分の平次のところへ、世上の噂を持込んで來ました。江戸八百八町にバラかれてゐる下つ引や手先から集まつた資料が、八五郎の口から、少しばかり誇張されたり潤色じゆんしよくされたり、面白可笑しく編輯されて、平次の耳へ傳わつて來るのです。

「女旱魃ひでりの國てえのは何處だえ、──まさか傳馬町の大牢ぢやあるめえな」

 平次は相手欲しさうでした。外は空つ風、こよみの上は春でも梅の花までがかじかみさうな、薄曇の寒い日です。

 神田明神下の平次の家も、この二三日は御用が暇な上懷中ふところまでが霜枯しもがれで、外へ出て見る張合もありません。煙草の五匁玉をあらかた吸ひ盡くして、出がらしの茶ばかり呑んでゐるところへ、八五郎のガラツ八が、秩父おろしと一緒に飛込んで來て、女護が島の住人見たいな、高慢なことを言ふのです。

「そんなイヤなところぢやありませんよ、場所は大川端町、あの邊では顏のきいた、名取屋なとりや三七郎といふのを親分御存じでせう」

「大層な男だといふが、金儲けはうまい相だな」

「その名取屋三七郎は、名古屋山三ほどの良い男の氣でゐるから大したもので」

自惚うぬぼれは罪がなくて宜いよ」

「ところでその内儀おかみさんのお縫も惡くねえ女だが、妾のお鮒と來た日にや、品川沖まで魚が取れなくなるといふきりやうだ」

「妙なたとへだな」

「あんまり綺麗だから、お天氣の良い日はピカ〳〵して、その照り返しで大川の魚は皆んな逃げる」

「馬鹿なことを言え」

「魚が逃げる位だから、人間の男だつて、利口なのは寄り付かない。名取屋三七郎の家の兩隣には、三軒長屋が二た棟あるが、不思議なことに皆んな男世帶だ、──三七郎の妾のお鮒が綺麗なんで、女といふ女は住みつかないんだ相ですよ」

「お前の話は相變らず馬鹿々々しいな」

「まア、聽いて下さいよ、話はこれから面白くなるんで」

「フーム」

「三軒長屋が二つ、その一つは北の方にあつて、按摩あんまの年寄夫婦が一と組と、浪人波多野虎記とらきと、小博奕こばくちを渡世にしてゐる、勇吉といふ若いのが住んでゐる、按摩の女房の婆さんなんか女のうちに入らない」

「──」

「南隣の三軒長屋には、馬鹿の猪之助と、漁師の申松さるまつが住んで居て、中の一軒は空家だ、その空家にはお化けが出るといふ噂があつて、この一年借り手が無い、──昔々、一人者の婆さんが、臍繰へそくりを五貫六百ばかり殘して死んだ相だから、多分それに思ひが殘つてゐるだらうといふことで──」

「恐ろしくケチなお化けだな」

「ところで、この三軒長屋二た棟に住んでゐる、六人の住人のうち、按摩夫婦の二人の外は、皆んな名取屋三七郎の妾のお鮒に夢中なんだから面白いぢやありませんか」

「そんな話は、ちつとも面白くは無いよ、馬鹿々々しい」

「錢形の親分に面白がらせようなんて、そんな娑婆しやばつ氣はありませんよ、當人同士は妾のお鮒に聲でも掛けて貰はう、せめて一と眼振り向いて見られようと、そりや夢中なんで」

「そんなのが四人も五人も大川端に集まるんだから江戸は廣いなア」

「先づ第一番に白痴ばかの猪之助──この男は取つて二十九の良い若い者だが、釘が一本足りないばかりに、まともな仕事が出來ねえ。一昨年お袋に死なれてからは、うじの湧きさうな一人ぐらしですが、季節が來ると南瓜かぼちやだつて茄子なすだつて花が咲く、何時の間にやら三七郎の妾のお鮒に思ひをかけ、裏の物干臺の上へ登つて、朝から夕方まで三七郎の家を見張つてゐる」

「寒からう──話の樣子では」

「三軒長屋最合もやひの物干臺だから、眞ん中の空家の横手に附いてゐる。東陽ひがしびが半日當るだけだ、寒いの寒くねえのつて──」

「風邪を引かねえのか」

「馬鹿は風邪を引きませんよ」

「道理で」

「感心しちやいけません、あつしも心を入れ替へて、精々風邪でも引かうかと思つてゐるところで」

「恐ろしく氣が廻るな」

 平次も苦笑ひしました。馬のやうに丈夫な八五郎は、二日醉をやる位が精々で、附き合ひで風邪などを引く柄ではありません。

「尤も、お鮒がチヨイチヨイ氣を引くからいけないんで、──飼ひ鶯を軒下のきしたに出して、一日に幾度となくそれを見に、障子を開けて縁側へ出る、それ丈けなら宜いが、鶯をあやし乍ら、向うの物干臺のあたりを見てニツコリする」

「──」

「白痴の猪之助は、日雇取ひようとりに出るのも忘れて、夜が明けてから日が暮れるまで、裏の物干臺に立つて、板塀越しに、お隣の三七郎の家を眺めて居ますよ」

「この寒空に」

「雨や雪の日は、小鳥を家の中へ取込みますが、猪之助にはそのけじめがわからねえ、小鳥は縁側に居なくたつて、自分が物干から眺めてゐさへすれば、念力でもつて、お鮒が顏を出すに違ひない──と、う思ひ込んでゐるやうで」

「哀れだな」

「良い女は罪が深いね、お寺の油を三合盜まなくたつて、あれぢや來世はろくなことがねえ」

「三世相見たいな事を言ふな、──話はそれつきりか」

「これから面白くなるんで」

「厄介だな、早くサワリどころをブチまけなよ」

 平次も少し乘氣になりました、八五郎の話の馬鹿々々しさが、妙に人をひき付けます。



「さて二人目は、同じ三軒長屋の大川寄に住んでゐる、漁師れふしの申松爺さんだ、五十二で赤銅しやくどう色で、生れ乍らの獨り者で──」

「生れたては、誰だつて獨り者だよ」

「その男やもめも五十二年續くとこふを經てたゝりをなす」

「言ふことが調子外れだな、お前だつて三十まで獨り者だ、まご〳〵すると劫を經るぜ」

あつしのことはいづれ相談に來ますがね──大川端三軒長屋の申松と來ちや、網仲間に言はせると、投網とあみの名人だ相ですが、これが三七郎の妾に夢中で、自分の獲つた魚のうち、目立つて良いのがあると、それを『御新さんへ』と必ず三七郎の家へ持込むんだ相ですよ、親分へとも内儀おかみさんへとも言はないところが、正直で宜いぢやありませんか」

「それを三七郎は默つて貰つてゐるのか」

 人から物を貰ふことの嫌ひな平次は、フト氣になりました。

「三七郎は子分共や町内の衆の、出入事の度に物を貰ひつけてゐるから、申松爺さん精一杯のお使ひ物もとも思はない、──あ、爺さん又持つて來たか──などと、良い心持になつて、大概ひとりで食べる」

「──」

「申松爺さんそれとは知らないから、念佛をとなへたり、魚の頭を撫でたり、心のたけをかき口説くどき乍ら、お鮒樣に獻上する氣で、大一番の獲物を持つて來るから可愛らしいぢやありませんか」

「氣の毒だな」

「ね、親分でもさう思ふでせう。申松爺さん三度に一度はお鮒の顏を見て、せめて『有難う』とか何んとか、親切な言葉でも掛けて貰はうかと、何十遍、何百遍となく足を運ぶが、お勝手口で受取るのは、三度が三度下女のお富で、お鮒は容易のことでは姿を見せない、申松爺さんしよんぼりお勝手口に立つて暫らくは泣き出しさうな顏をして居るさうですよ」

「──」

「大川端から八丁堀は近いでせう、──その話を聽いた時、他の用事で八丁堀に廻り、組屋敷で笹野の旦那(與力筆頭笹野新三郎)にお目にかゝつて申上げると、そいつは、謠ひの『綾の鼓』そつくりだと仰しやるんです」

「フーム」

 市井の物識りも『綾の鼓』は知らない樣子です。

「昔々の大昔、筑前の國の皇居の庭掃き爺さんが、尊い女御にようごを見て一世一代の戀をした。女御はこれを聽こし召されて、世にも不愍なことに覺召され、庭のほとりの桂の木に鼓をかけさせられ、老人にそれを打たせ、その鼓の音が皇居へ聽こえたら、女御のお姿がもう一度、老人の前へ現はれるだらうと教へた」

「──」

「老人は、精魂限り鼓を打つた、が少しも鳴らない、鼓を張つたのは皮ではなく綾だ、いくら叩いたつて鳴る筈は無い、老人は夜となく晝となく、鼓を打つて打つて、打ち續けたが、可哀想にたうとう鳴らない鼓をうらんで桂の池に身を投げて死んでしまつた、──後に老人の怨みが亡靈になつて、女御を苦しめるといふお話だ、──どうです、親分、良い女は罪を作りますね」

 八五郎はすつかり感に堪へます。

「ところで、お鮒に惚れ手はまだ二三人あつたぢやないか」

「ありますよ、浪人波多野虎記に、やくざの勇吉」

「それも綾の鼓の口か」

「二人は大丈夫で、お鮒の方から口説かせる氣でゐますよ、け合ひ八九十までは長生きする手合で」

「三七郎がそれを默つて居るのが不思議ぢやないか」

「面白がつて居ますよ、多勢の者が騷ぐほど嬉しいやうで、手飼の猫の子が、うんと鼠を捕るのをけしかけて居るやうなもので」

「厄介な好みだな」

「でも、あの樣子ぢや、一度はきつと大變な騷ぎをおつ始めますね」

 八五郎は年寄臭いことを言ふのです。



 この大變な騷ぎが、思ひの外早くやつて來ました。

「親分、たうとうやつて來ましたよ」

 八五郎がいやに落着いてその報告を持つて來たのは、二月も殘り少くなつて、すつかり春めかしくなつた或日の朝でした。

「いやに落着いてるぢやないか、いつもの大變をけしかけねえのか」

「此間お話した、大川端の女日照りの國の騷ぎだから、驚く張合もありませんや」

「?」

「斯うなるのは、わかりきつて居たんだ、きりやう自慢で、男をおもちやにした女が、無事に年を取つた日にや、世の中が面白過ぎて、阿彌陀樣あみださまの罰が當りさうで」

「お前の言ふことは薩張りわからねえよ、阿彌陀樣がどうしたんだ」

「あの綾の鼓のお鮒が、やられたんですよ」

「お鮒──名取屋三七郎の妾だね」

「それも、罰の當つた話で、鹿か兎のやうに鐵砲で撃たれて」

「鐵砲──冗談ぢや無い、御府内で鐵砲を撃つた奴があるのか」

「間違ひもなく鐵砲傷ですよ、胸を撃ち拔かれて、グウとも言はずに死んだやうで」

「行つて見よう、江戸の眞ん中で、鐵砲の人殺しがあつちや、あとがうるさい」

 平次は手早く仕度をすると、腹の減つてゐるらしい八五郎をうながし立てゝ、神田から大川端へ飛びます。

 名取屋へ着いた時は、豊海橋とよみばしから三ノ橋まで、野次馬で一パイ、土地の下つ引が二三人、必死となつてその好奇心でハチ切れさうになつた野次馬を追つ拂つて居ります。

「この中で一人でも煙硝臭えんせうくさい奴が居れば、間違ひもなく下手人だ、鐵砲は近くから撃つたに違ひ無いんだから、たつた一人も歸つちやならねえ」

 八五郎は人波を掻きわけ乍ら、生得しやうとくの大きな聲でわめき散らすと、さしもに執拗しつあうな野次馬も、嗅ぎわけられる恐ろしさから逃れようとしたか、一人減り、二人歸り、人垣は後ろの方からゾロゾロと崩れて行くのでした。

 後に殘るのは、名取屋の者と、近所の衆だけ、これは逃げるにも逃げられず、成行を天に任せたやうな顏で、マジマジと平次の一行を迎へます。

「錢形の親分、飛んだことでお手數をかけますが──」

 三七郎は四十七八、ちよいと良い男で、ボスらしい尊大さと、それを巧みに押し隱す愛嬌との持主でした。

「お氣の毒だつたね、兎も角も一應調べなきや」

「さあ〳〵どうぞ」

 三七郎が自分で先に立つて案内して行きます。よく磨き拔かれた格子造りの二階家、その二階の南側、障子を閉めきつた中の六疊で、お鮒は何處からともなく飛んで來た鐵砲の玉に撃たれて死んだといふのです。

 騷ぎは昨夜の宵のうちで、部屋の血も一應は清めてありますが、何も彼もまだ其儘で、お鮒の死骸は、部屋の隅に寢かしたまゝ、その枕元の供へ物も、まだ取揃とりそろはぬまゝです。

 部屋は、家相應に木口も立派、飾りもケバ〳〵しいほど──下品乍ら──整つて居りますが、障子の下から三分の一ほどのところに、ポツリと一つ、穴のあいてるのが氣になります。

「これは、本當は女房の部屋で、お鮒は不斷下に居るのだが、昨夜何んかの都合で二階へやつて來たところをやられたものでせう。──私はまだ下で女房と話をし乍ら、一杯やつて居ましたよ、──丁度酉刻半むつはん(七時)頃かな、鐵砲の音とは氣がつかなかつたが、恐ろしく大きな音がしたので、不思議に思つて居ると、間もなくもう一度音がしたので、初めて鐵砲と氣がつきましたよ、その音と一緒に──二階で女の悲鳴がするので、驚いて飛んで來て見ると、──」

 三七郎はゴクリと固唾を呑むのです。

「鐵砲の音は二度聞いたに間違ひあるまいな」

 平次は疑ひを挾みました。

「それは間違ひない、女房もさう言つて居る、確かに恐ろしい音を續け樣では無かつたが、少し間を置いて二度聞いたと──」

 三七郎が振り返ると、お酎の死骸の裾の方に居る四十二三の中年女は、愼ましくうなづきます。地味な小紋、武家の内儀のやうな上品さ、これが大川端の顏役、名取屋の三七郎の女房とは、どうしても受取れない端正さでした。

「この障子の穴は?」

「外から鐵砲の玉が飛込んだ穴でせう」

「小し低いやうだが」

 平次は立つて障子の穴をしらべましたが、並の女の人の胸の高さよりは、どうしても五寸は低いやうです。

 ついでに其處に寢かしてあるお鮒の死骸を調べて見ましたが、その凄まじさは、物馴れた平次も、思はず顏を反けたほどでした。血潮の汚れは拭き清めてあつたにしても、生前美しかつただけに『死』は一切のこび虚飾きよしよくとをかなぐり捨てさせ、血の氣を失つた顏は寧ろ蒼黒く引ゆがみ、あからさまな惡相が、斷末魔の苦惱にかき立てられて、見る者を思はずゾツとさせるのです。

 彈丸たまは障子の穴に關係なく間違ひもなく心の臟を打つて、その中に留つたことでせう、背中へは打ち貫きませんが、胸から懷中へ浴びた血はひどかつたらしく、着換へさせたあはせを見て、平次も眉をひそめたほどでした。

「怨みを含む者の仕業でせうが、私には一向思ひ當りません、こんな稼業はして居るが、あつしは敵をこしらへることが大嫌ひで、何處にも女房や召仕をうかゞふやうな相手は無し、少しも心當りは無いのだが──」

 三七郎は心得難い顏でした。

「でも、お鮒さんは、隨分近所の男から騷がれてゐたといふことだが──」

 平次はチクリとやつてのけました。

「そんなこともあつたでせうが、近所の衆と言へば、少し足りないのと、年寄と、──そんな人達ばかりですから」

 三七郎は、白痴ばかや老漁師をあまり齒牙にはかけて居ない樣子です。尤もお鮒が殺されたのは南側の部屋で、障子に鐵砲の玉の穴があいて居るのですから、北側の三軒長屋の住人、按摩夫婦や浪人者や小博奕打は關係が無ささうです。

 その六疊の後ろは廊下で左に店へ通ふ梯子はしごと右に茶の間からお勝手に通ずる梯子とがあり、北窓を開けると、其處から浪人波多野虎記の家と按摩夫婦の家がよく見えます。

 もう一度部屋へ引返した平次は、今度は南側の縁から眺めて見ました。春の陽にけたやうに、大川がユラユラと流れて、眼を轉ずると、丁度眼の下に三軒長屋の中央の空家の物干が見えて、その左右の長屋、白痴の猪之助と、漁師の申松の家は、北側の雨戸も開けず、ひつそりかんと鎭まり返つて居るのでした。



「親分」

 何處からか、ヒヨツクリ出て來たのは、八五郎のに落ちない顏でした。主人夫婦が下へ降りた後です。

「何んだ、八、暫らく見えなかつたぢやないか」

「家中の者に當つて、それから北側の三軒長屋を廻つて來ましたよ、南側の三軒長屋は、こいつは鐵砲の玉の飛んで來た方角だから、親分に任せた方が宜いと思つてね」

「恐ろしく義理堅いんだな」

「こんな事を聽き込みましたよ、此家に居る子分の銀三といふ男は、昨夜御新さんが殺された時、──鐵砲は二つ鳴つたといふ人もあるが、俺は一つしか鳴らないと思ふ──とね、そんな事があるでせうか、これが山か何んかなら、一つ鳴つたのを、山彦やまびこか何んかで、二つに聞くこともあるでせうが──」

「川にだつて木精こだまがあるよ、此邊で鐵砲を撃つて見ねえ、大川の向うの深川の町並へ響いて、暫らくして山彦が戻つてくるから、──その代り後のが先のよりうんと小さい筈だ」

「それから下女のお富にも逢つて見ましたが、この女はお妾が殺されて溜飮りういんをさげてゐますよ。四十過ぎの女といふものは、氣持のわからないものですね、──尤もお富も一寸良い大年増だから、もう少し若きや、お妾と張り合つて見る氣になつたかも知れませんがね」

「その下女は、何んと言つてるんだ」

「鐵砲の音は、たしかに二度聞いたに違ひ無い──と、それも最初のは小さくて、二度目の方が大きかつた。お勝手で聞いたから間違ひは無い──といふんで」

「銀三は?」

「店で聽いたんだ相で」

「外には」

「三軒の長屋は、按摩夫婦は二つだといふし、浪人は晩酌で少し醉つてゐたが、三つ聞いたやうな氣がするといふから面白いぢやありませんか、小博奕打の勇吉は昨日から家に居なかつた相で」

「面白くなつて來さうだな、オや、これは何んだ」

 平次は床柱の根──楓樹もみぢの良い木の底部の方が、ガクリと缺き取られたやうになり、新しい傷跡が白々となつて居るのに氣が付いたのです。

「子供の惡戯にしちや念が入り過ぎますね、──それにもう一つ、北側の唐紙に、少し血が飛沫しぶいてるのはどうしたわけでせう」

「苦しくなつて藻掻もがいたのかな」

「それにしても人の胸位の高さですね、クルリと振り返つて、立ち身のまゝもがいたことになりますが」

 家の中を一とわたり見盡して、庭に出た平次は、直ぐ子分の銀三の、忙しく立ち働いてゐるのをつかまへて、

「銀三兄哥あにいと言つたね」

「へエ、あつしのことで、親分」

 それは三十前後の、キリヽとした男でした。あまり良い男とは言へないまでも、色が淺黒くて、小柄で、眼が大きくて、啖呵たんかが切れさうで、多血質で、先づ申分の無い氣のきいた若い者です。

「この家に長く居るのか」

「ほんの半歳位で」

「お鮒さんをどう思ふ」

「親分の思ひものだが、全く良い女でしたよ、あれが手一杯に働けるところに居ると、一生のうちに良い身上しんしやうを六つ七つ潰しますね」

 親分の妾にして置くのは勿體ないと言つた傍若無人ばうじやくむじんの言葉です。

「ところで、昨夜鐵砲の音を二つ聞いたといふ者と、一つしか聞かないといふ者と、三つも聞いたといふ者と三通りあるが、一體どれが本當なんだ」

「親分がさう言ふから、皆んな物眞似をして居るだけで、本當のところは一つですよ、嘘だと思ふなら内儀さんを物蔭に呼んで、そつと訊いて御覽なさい」

 子分の銀三は思ひも寄らぬことを言ふのです。

 下女のお富は、八五郎が言つたやうに、もう少し若かつたらと思ふ中年女ですが、これは、問ひ詰められると、

「鐵砲の音は一つだつたかも知れません、何分私はお仕舞で忙しかつたので」

 とアヤフヤに逃げるのでした。お鮒の身持のことを訊くと、

「死んだから言ふわけぢやありませんが、あの女が六十七十まで生きて居ちや、世の中に神佛を信心する者がなくなりますよ、お隣の猪之助さんや申松さんは、本當に氣の毒なやうで、──男つてどうして、あんな浮氣つぽい女が好きなんでせう」

 などと、堅實な自分を辯護するのでした。

 その間に平次は八五郎をやつて、そつと内儀のお縫を物蔭に誘ひ出させ、氣の置けない調子で訊かせると、

「鐵砲は矢張り一つしか鳴りません。先刻さつき二つ鳴つたと言つたことは、どうぞ問ひ詰めないで下さい、──私はこしらへ事を言ふ外は無いのですから」

 とまことに消えも入り度い風情ふぜいでした。

 平次はそれから眞つ直ぐに、南側の三軒長屋に廻つたことは言ふ迄もありません。

 白痴ばかの猪之助の家は名取屋の店と並んだやうになつて、獨り者の猪之助は、取殘されでもした樣な恰好で、ぼんやり外を眺めて居りました。

「猪之、──どうした? 何をぼんやりして居るんだ」

 いきなり入つて行つた八五郎は、その背中を一つ喰はせました。

「あ、吃驚するぢや無いか、いきなり人の家へ入つて來て」

「惡かつたな、勘辨しねえ、──お隣のお鮒さんが死んだといふに、猪之兄哥がさうして居ちや、濟むまいぜ」

「それは、本當でせうか。親分、お鮒さんは、殺される筈は無いと思ふんだが」

「何を言ふんだ、──お隣だもの、おくやみの一つも言つて、死顏を見て來るが宜い」

「そんな事が出來るでせうか、親分」

 八五郎に激勵されると、本當にそんな氣になつたものか、猪之助はフラフラと立上がりました。名取屋へ乘込んで行つて一と眼お鮒の死に顏に逢つて來る氣になつたのでせう。

 立ち上がると、肩も膝も拔けたツンツルテンの裾、風邪は引かないかも知れませんが、こんなのを着てゐちや、腹が冷えて叶はないだらうと思はれるのです。

 人別では二十九になつて居る相ですが、知識年齡のせゐか、顏もせい〴〵二十二三にしか見えず、少々ほこりつぽくはあるが、眼鼻立の立派なのも哀れです。

 其處を宜い加減にして出かけようとすると、土間の隅で、平次は異樣なものを見付けました。

「八、こいつは何んだと思ふ」

 二寸ほどの、やゝ平べつたい粘土ねんど細工の饅頭まんぢうを二つ合せたやうなもので、二つの中程にはやゝ大きい豆粒ほどの半圓の穴がそれ〴〵に凹みをこしらへて居り、二つ合せると、その中で眞圓の鑄型のやうなものが出來ることがわかつたのです。

 眞ん中の眞圓の凹みに通ふために、一隅に細い道が付いて居り、何が何やら平次には少しもわかりません。



 お隣の空家を置いて、その次は大川に臨んだ漁師申松さるまつの家で、狹い庭に商賣道具の投網などを干してありますが、當の申松は陽が高いといふに薄暗い家の中に垂込たれこんで、膝つ小僧の中に首を突込み、昏々こん〳〵として眠つて居る姿です。

「爺さん、どうしたえ」

 八五郎は上り框から大きな聲を掛けました。

「あ、親分さん、──名取屋の御新さんは到頭殺されてしまひましたよ」

 振り仰いだ申松の顏は濡れて居りました。

「それを誰から聽いたんだ」

「昨夜のうちに、お富さんが教へてくれました。──宵に二つ續けて鳴つた鐵砲が變だと思つて居りましたが」

「たしかに二つ續けて鳴つたのかえ」

「間違ひはありません、それに音がすると、プーンと煙硝えんせうの匂ひがして來ました。これは他の匂ひと間違へつこはありませんから」

とつさんは隣だからよく知つてゐたことゝ思ふが、殺されたお鮒をうんと怨んでゐた男は誰だえ」

「男は皆んなあの人に夢中でしたよ、御新さんを怨んでる者は、町内の女達ばかりで」

 申松の答は奇拔でしたが、五十二歳の申松が氣狂ひのやうにされてゐたのですから、町内の男が皆んな講中かうぢうだつたことに何んの間違ひもありません。

「一軒置いて隣の猪之助も、お鮒に夢中だつた一人かえ」

「あの男が一番夢中でしたよ、仕事もろくに手につかない樣子で、朝から夕方まで、空家の物干に登つてお隣の階下したの部屋を見て居ました。──お鮒さんが髮を結つてる、お鮒さんが着換へをして居る──と一々私にも教へてくれましたが」

「毎日見とれて居ることを、お鮒の方でも知つて居たのか」

「知らない筈はありません、──それどころか、見られるのを面白がつて、時々はからかひ面でニツコリ笑つて見せたり、三七親分にふざけるところを見せたり、隨分殺生をしたやうで」

 申松はそれを以ての外の事にして言ふのです、赤銅色に陽に焦けた顏は、眞つ赤に興奮して、

 狂信者が偶像冒涜者ばうとくしやを呪ふやうな、一種の氣違ひ染みた熱心さに燃えるのです。

「でも、あの猪之助といふ男は、少し足りないんぢやないのか」

「飛んでもない、世間ではあの男のことを馬鹿のやうに言ひますが、仕事が嫌ひで、調子が少しあまいだけで、あれは決して馬鹿ぢやありませんよ、現に何んか細工物でもさせると、五日でも十日でも同じ仕事に喰ひついて、ろくに飯も食はうとしません、──私はあんな一生懸命な人間ほど恐ろしいものは無いと思ひます、一たんうと思ひ込んだら、何をやり出すかわかりません」

 申松は舌を振るつて述べ立てるのでした。恐らく猪之助は、今の所謂單一狂モノマニヤで、智能は少し低いにしても、決して世の人の言ふ馬鹿ではなく、寧ろ思ひ詰めると、異常な仕事もやり兼ねない人間だつたかもわかりません。

「外に、お鮒に夢中だつた者は」

「波多野虎記樣も、やくざの勇吉も氣はないことは無いでせうが、鐵砲で殺すほどは怨んでるわけはありません」

「子分の銀三は」

「氣の良い男で、──内々は何んと思つて居るか知れませんが、御新造さんの言ふことはどんな無理でも聽いて居る樣子です」

内儀おかみさんのお縫さんは?」

 平次は最後の問を出しました。

「よく出來た方です、──家柄も育ちも立派な人だ相で、持參金もしつかりあり、好きで三七郎親分と一緒になつたといふことですが、今では三七郎親分は顏もよくなり、金も出來て、隨分道樂もするやうですが、あの内儀さんには、一目も二目も置いて居るといふことです。もう四十を越して、皺が目立つ年になりましたが、若い時は隨分綺麗だつたと、昔のことを知つてゐる人は申して居ります」

 申松の話はかなりよく行屆きます。猪之助のことをいろ〳〵言つてゐる癖に、申松も名取屋のことは念入に觀察して居るので、奉公人達とは又違つた、細かい事を知つて居るのでせう。

 外へ出ると、あわて者の八五郎は、入口までかけて干してゐる、投網とあみに首を突つ込みました。

「おや、大きなイルカが捕れたぜ」

 平次はからかひ乍ら、八五郎の髷節まげぶしから網を外してやりましたが、フト氣がついた樣子で、

「おや、とつさん、この投網が、ひどく損じて居るぢやないか、まだ新しいやうだが、網石の鉛が隨分少くなつて居るが」

 平次は投網の裾をあげて、おもりの鉛の不足したのを勘定して居ります。

「へエ、困つたことで、──それは水の底で取れたんぢやなくて、人に盜まれたものですよ、子供達がベイ獨樂ごまか何んかに使ふのに、一つづつ盜つて行くんでせう」

 申松はブリ〳〵言つて居りますが、この鉛の沈子おもりの紛失が、平次には全く違つた事を教へてゐる樣子です。

「この長屋中に、鐵砲か煙硝のことを知つて居る者は無いのか」

「漁や網のことなら、私もよく知つて居りますが──」

「鐵砲鍛冶とか、花火屋とか」

「ありましたよ、親分さん、──死んだ御新造(お鮒)さんですがね、元は二本差ぢやないが、さるお大名の鐵砲足輕で、お扶持ふちを頂いて、火藥庫の番人などをして居たといふことでした、本人は──唯の町人の子ぢやないつて自慢したいところだが、鐵砲足輕の娘ぢやねえ──などと笑つて居ましたよ」

「有難う、いろ〳〵面白い話を聽いたよ、──ところでとつさんも、いつまでも獨りで居ちやろくなことは無からう、氣に入つた婆さんでも見付けて、一緒になつたらどうだ」

「五十二ですよ、私は、親分さん」

「五十二だつて六十二だつて宜いぢやないか、──その氣なら、良いのを搜してやるぜ」

 平次の言葉は決して冷かしとは聞えませんでした。五十二になる童貞は、二十二になる若い男よりも、良き半身ベターハーフが必要なことを、つく〴〵覺らされたのです。



 北側の三軒長屋に、按摩夫婦と、浪人波多野虎記と、やくざの勇吉の家を訪ねましたが、これは名取屋の北窓と相對してゐるので、思ひの外人と人との交渉が少く、按摩夫婦がお鮒のことを決して良く言はなかつたこと、波多野虎記が、

「何時かは殺される女さ。あのお鮒といふのは隨分綺麗ではあつたが、腹の底に毒があつて、氣の許せない女であつたよ。私も變な氣を起したこともあるが、人の妾ぢやどうもならない、諦らめてよかつたよ」

 斯んなことをヌケ〳〵と言ふ中年者の浪人です。

 やくざの勇吉は、自分の家に居ないことの方が多く、現に昨日も友達多勢と川崎へお詣りに行つてまだ歸らず、家も開けつ放しで、その氣樂さが徹底して居ります。

「どうしたものでせう、親分、あつしには見當もつかなくなりましたが──」

 八五郎は此邊でもう投げてしまひました。

「段々わかつて來るぢやないか、──もう一度猪之助のところを當つて見よう」

 平次はひどく興奮して居ります、ゴールが近くなつた證據でせう。

 白痴の猪之助は、もう晝も近いといふのに、雨戸を閉めて寢て居りました。

「おい、起きろ〳〵」

 八五郎が叩くと、

「へエ、今開けますが」

 ノソリと起きた猪之助を、

「サア、此野郎、皆んなわかつてしまつたぞ、白状しろ、お鮒を鐵砲で撃ち殺したのはお前だらう──證據しようこは皆んな揃つたぞ」

 平次は飛付いて、その胸倉を掴みました。

「あ、違ふ、私ぢや無い」

「何を言やがる、お前の外に、隣の空家の物干から、鐵砲を打ち込むものがあるものか」

「あ、痛い」

「八、うして居るうちに、隣の空家を搜してくれ、此野郎は先刻さつきから空家の方ばかり氣にして居る樣子だ」

「へエ、あの家なら、煙草三服の間に天井裏まで搜して見せますよ」

 八五郎は飛んで行きましたが、間もなく勝鬨かちどきをあげて歸つて來たのです。

「どうした、八」

「押入の中に、こんなものがありましたよ、花火筒の孫見てえなのが」

 八五郎が持つて來たのは、長さ二尺、太さ親指ほどの、節を拔いた竹で、その上を嚴重に紙を卷いて糊附けにし、更に太い凧糸ほどの紐で、念入に捲き込んだ品だつたのです。

 鼻の先へ持つてくると、プーンと煙硝えんせうが臭ひます、尚ほも念入に見ると、竹筒はそれ程嚴重に卷いて居るのに割れが來て居り、元の方には小さい木の栓と臺が取付けてあり、その端つこに穴を開けて、怪し氣な火皿が出來て居るのです。

「こいつは鐵砲ぢやないか、八」

「そんなもので人が殺せますかね、親分」

「殺せるとも、──眞田幸村は張拔き筒で、大阪城の天守閣をフツ飛ばしたといふぢやないか、煙硝が少くて、的が近いものなら、これでも結構役に立つぜ」

 後年大鹽平八郎は、同じ紙製の張拔き筒で大阪に反亂を起し、維新當時は木製の大砲で、官賊兩軍が戰つた例もあります。

 空家で見付けた竹製の鐵砲は、思ひの外精巧せいかうで、素人の細工としては、先づ最上のものでした。

「サア、こんなものを何處から出した、誰が拵へた」

 平次が締め上げると、猪之物はわけも無く白状してしまひます。

「言ふよ、言ひますよ、──俺がこしらへたんだ」

「嘘をつきやがれ、お前の手際でこれが出來るものか」

「お鮒さんが、教へてくれたんだ、──急所々々は手傳つてくれたんだ」

「何? お鮒が?」

 平次もそれは餘りにも豫想外でした。

「あの人は鐵砲足輕の娘で、こんなことをよく知つて居たんだ、──煙硝だつて、あの人に教はつて、俺がこさへたんだぜ」

 鐵砲足輕の娘が、見やう見眞似で、竹の鐵砲も作り、硝石せうせき硫黄いわうと木炭末を混合して、幼稚な火藥も作れる筈ですが、その鐵砲と火藥で、自分を撃たせたのは、意味のないことです。

「お鮒はお前に差圖さしづをした? それで自分を撃たせたのか」

「空家の物干から見ると、二階の障子に、女の影が映つたんだ、──それがお鮒さんと知らないから、觀世撚くわんぜよりの口火で、狙ひ定めて撃つたんだ、それが、それが──」

 猪之助は手放しで泣くのです。

「するとお前は、内儀さんのお縫を撃つ積りだつたのか」

「うん」

「──」

 平次も斯んなに驚いたことはありません、お鮒は本妻のお縫を殺して、その後釜あとがまに直らうとしたが、お縫は武家の出で、氣性も腕も確りして居るので、お鮒などの手に合はず、白痴の猪之助が、死ぬ程自分に惚れて居るのを利用し、竹製の鐵砲や煙硝の作り方までも教へて、何時もは二階の部屋に居る筈の内儀のお縫を、隣長屋の物干から撃つて殺させようとしたのでせう。まさに、人をのろはゞ穴二つのことわざ通り、お縫を狙つた猪之助の鐵砲が、たま〳〵用事で二階に行つた自分を狙つたとは、何んといふ皮肉さでせう。

「でも、障子は締めきつてあつた筈だ、どうして狙ひを定めたのだ」

 平次には、それが殘る一つの不思議です。

「影法師を狙つたよ、胸のあたりを、間違へなかつた筈だ」

 この單一狂モノマニアは、教はるまゝ、器用に竹の鐵砲を作り、弱い乍らも煙硝までこしらへて居るのに、障子の中の人を狙ふのに、影法師に狙ひを定め、──間違ひは無かつた筈だ──と信じて居るのです。

「親分、不思議ですね、影法師を狙つて人が殺せるものでせうか」

 八五郎はフトこの男の推理の缺點に氣がつきました。

「その通りさ、影法師を狙つて、玉が當るわけは無い、お鮒を殺した者は他にあるに違えねえ。その男を誰かに任せて、もう一度やり直しだ」



 丁度やつて來た下つ引に猪之助を任せて、平次と八五郎はもう一度名取屋に取つて返しました。

「すると北側の三軒長屋の者でせうか」

 と八五郎。

「イヤ、北側の長屋からは、名取屋の南側二階に居る者は撃てないよ」

「すると、名取屋の家の者?」

「主人三七郎と、内儀おかみのお縫は茶の間に居た、──二人は下手人ではない。下女のお富はお鮒と仲が惡いが、お勝手に居た筈だから、茶の間を通らずには二階へ行けない」

「すると?」

「もう一人の奴だ、──お鮒が猪之助に、竹で鐵砲を拵へることゝ、煙硝えんせうの合せ方を教へるのを、そつと盜み聽きして、同じ物をこさへた奴があるに違えねえ、その野郎が猪之助が物干場から二階を狙つてゐるのを見て、そつと店から二階の廊下に出、猪之助の狙ひが外れて、驚いて部屋から逃出して來るお鮒を、廊下の方からつたのだ」

「鐵砲の音は二つ聽えたわけ」

「その通りだ」

「その野郎は、死んだお鮒を部屋の眞ん中へ運び入れた。──猪之助が撃つた鐵砲玉は、勢が弱いから、ヒヨロヒヨロと床の間のかへでの柱に當つて、少しばかりめり込んだのを、刄物で楓の柱をけづつて掘り出したんだらう、それはその晩のうちに人知れずやつたことだらうが、廊下の方の唐紙に飛沫ひぶいた血だけはどうすることも出來なかつた」

「その下手人は誰です」

 八五郎は意氣込みました、もうわかりきつて居るやうな氣がします。

「鐵砲の音を一つしか聞かないと言つた人間だ」

「内儀のお縫?」

「あれは、下手人をかばつたのだ、二つ聞いたと言つて置いて、後で一つと言ひ直した、あの女は恐ろしく利口だ、あの時もう、下手人を見破つたのだ」

「すると、あの野郎?」

「さうだ、店に一人で居た、子分の銀三だよ」

 八五郎はそれを聞くと、名取屋に飛込んでしまひました。激しい爭ひは瞬時にして了つて、八五郎の手にこの下手人は捉まつてしまつたのです。

        ×      ×      ×

 相變らず、八五郎のために、平次は斯う話してやりました。下手人の銀三は處刑され、白痴ばかの猪之助は行方不知しれずになつて、大分經つた後のことです。

「お鮒は銀三を一度は講中かうぢうの一人にして居たことだらう、近頃本妻のお縫殺しに夢中になつて居るお鮒が、自分のことを振り向いても見てくれないので、銀三はフトお鮒を殺す氣になつたことだらう」

「猪之助の家の土間で拾つた、土で拵へた鑄型いがたはありや何んです」

「鐵砲の玉を鑄拔いぬく型だよ、あれに鑄掛の使ふ小鍋で熔した鉛を流し込み、やすりでこぼこを直すのだ、獵師はさうして鐵砲の玉を拵へるといふことだ」

「鉛は何處で手に入れたんでせう?」

「申松の投網のおもりを盜つたのさ、──硝石せうせき硫黄いわうは生藥屋で賣つて居るが、素人の拵へる火藥は、弱いから本當の鐵砲には使はれないよ」

「銀三の拵へた鐵砲は?」

「大川が鼻の先を流れてゐるよ」

「成程ね」

「だが、惡いのはお鮒さ、綺麗であつたことだらうが、きりやう自慢が昂じて、本妻の命を狙つたのは大變なことだ」

「可哀想なのは申松で」

「綾のつゞみだよ、──尤も桂の池に身を投げる代りに、達者な花嫁婆さんを見付けた相だが──」

 平次は面白さうに笑ふのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年45日発行

初出:「講談倶樂部」

   1951(昭和26)年2月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年914日作成

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