錢形平次捕物控
死の踊り子
野村胡堂
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「八、大層ソワ〳〵してゐるぢやないか」
錢形平次は煙草盆を引寄せて、食後の一服を樂しみ乍ら、柱に凭れたまゝ、入口の障子を開けて、眞つ暗な路地ばかり眺めてゐる、八五郎に聲を掛けました。
「今撞つた鐘は、戌刻(八時)でせう」
八五郎はでつかい指を、不器用に折り乍ら、相變らず外ばかり氣にして居るのです。
「それが何うしたんだ」
「五つまでには、來なきやならないんだが」
「誰が來るんだ、借金取か、叔母さんか」
「そんな氣のきかねえ代物ぢやありませんよ」
「叔母さんまで氣のきかねえ代物にされたのか、それぢや新造か年増か、どうせ宵の口から化けて出るエテ物だらう」
平次はからかひ面でした。物騷な江戸の町を、たとへ親分平次の家で落合ふことにしたにしても、若い女の夜の出歩きは、堅氣の者でないことは、餘りにも明かです。
「ところで、今晩は姐さんの姿が見えないやうですね」
八五郎は、キナ臭い鼻の穴を、ひつそりしたお勝手の方へ向けました。其處には、どんな時でも愼ましやかに仕事をしてゐる、平次の女房お靜の、何時までも若々しい姿が見えなかつたのです。
「お袋のところへ手傳ひにやつたよ」
「へエ? 滅多に無いことですね、あの達者なお母さんが身體でも惡いんですか」
「いや、相變らず元氣で、臍繰の溜まるのばかり樂しみにして居るよ」
洗ひ張と仕立物で、樂々と暮して居るお靜の母親は、平次夫婦に、これつぽつちの迷惑を掛けるのも、いさぎよしとしない肌合の女でした。
「それぢや、父さんの年回でも?」
「いや、親父の命日は秋だよ、──實を言ふと、俺はたつた一と晩で宜いから、獨りで暮して見たくなつたのさ、たまには獨り者の昔がなつかしくなるよ」
「へエ、物好き過ぎますね」
獨り者の八五郎には、一と晩でも戀女房に別れて居たいといふ、平次の氣持はわかりません。
「久し振りに、明日の朝は飯といふものを炊いて見ようと思つて居るよ、一粒々々に芯のある飯を炊くのは、骨が折れるぜ、八」
「呆れたものだ、あつしを泊めて置いて、まさかその芯のある飯を喰はせる氣ぢやないでせうね」
「安心しろよ、お前には俺が燒いた乾物で、一杯呑ましてやるから、まだ酒が少しは殘つて居る筈だ」
平次はお勝手へ行つて、眞つ暗な中で徳利と乾物を搜して來ると、不器用な手つきで膳の上へ並べ、徳利の尻を銅壺に突つ込みました。
「ところで、八」
「へエ」
「入口ばかり氣にするなよ、──俺は近頃手相に凝つて居るんだが、酒の燗のつくまで、ちよいとお前の手相を見てやらうか」
「へエ? 妙なものに凝つたんですね、──手相を見て貰ふのは構はねえが、まさか見料を取るとは言はないでせうね」
「お前のことだから、見料位は立引くよ、先づ手を出しな、──汚ねえ手だ、地が汚れて居るから筋がよく見えねえよ、──こんな手で握られると、あの娘は膽をつぶすぜ、──あツ、唾で拭く奴があるものか、猫ぢやあるめえし」
平次は八五郎の手を握り乍ら、文句ばかり言つて居るのです。
「へツ、小言が多過ぎますね、手相の方はどうしたんで?」
「これから見るよ、──おや、おや〳〵」
「何がおや〳〵です?」
「お前は天下を取るよ、天下線といふのがある、太閤樣と同じだ」
「脅かしちやいけません、それは引つ掻きの跡ですよ、叔母の家は建付けが惡いから、無理に雨戸を開けようとして、釘で引つ掻いたんで」
「何んだつまらねえ、──天下線はぺてんか、だが、生命線は長いな、二の腕まで通つて居るぢやないか、百二三十迄は生きるぜ」
「そんなに生きては困りますよ」
「その代り智能線と運命線は無いも同樣だ」
「すると、どういふことになります」
「金と智惠には縁が無いといふことになるよ、氣の毒だが」
「そんなものは欲しかありませんよ、女の子に持てゝ、百二三十迄生きさへすれば」
「良い心掛だ、ところで今度は俺の手相を見てくれ」
平次は少し膝行つて、行燈の前に左手を出すのです。
「それ位の手相なら、あつしだつてわかりますよ、どれ」
などと、平次の手を取つた八五郎、灯り先にそれを差出させて、ハツと驚きました。平次の掌には、墨黒々と、
──そつと窓を見ろ、聲を立てるな──
と八五郎が讀めるやうに、假名で書いてあるのです。恐らく先刻乾物と酒の仕度に立つた時、お勝手で書いて來たのでせう。
八五郎は頭から冷たい水を打つ掛けられたやうな氣持でしたが、さすがに日頃のたしなみで、あわてゝ窓を振り返るやうな、そんな間拔けなことはしません。
「こいつは驚いた、惡い手相ですね、親分」
「何を言やがるんだ」
「女難、盜難、水難、火難、劍難、皆んな備はつてますよ」
「いやに備はりやがつたな」
「その上金難まであるんだから大したもので」
八五郎は緊張して來ると、益々輕口に油が乘ります。
「嘘を吐きやがれ、金難なんかあるわけはねえよ、ちよいと火鉢の引出しを開けても此通り、女房は俺の後をついて歩いて、小判小粒の落ちこぼれを掃き集めて、此處へ投り込んで置くことになつて居るんだ」
「へツ、引出しの中は四文錢が五六枚、それぢや一向ピカリと來ませんね」
「小判や小粒は、用心が惡いから、引出しの奧にあるんだよ」
平次は冗談らしく引出しの中に手を突つ込むと、次の瞬間、四文錢を一枚取つて、八五郎の頭越しに、窓を目がけてパツと投げるのです。
「あつ」
不意を打たれて、窓から覗いて居た顏は、あわてゝ引込みました。が、確かに手答へ、何處かやられたに違ひありません。
「それ、八」
「合點」
二人は裏表から飛出しましたが、曲者の姿はもう其處には見えず、庇から屋根へ飛付いて、暗の中に消え込んだ樣子です。
「恐ろしく早い野郎ぢやありませんか」
「屋根を渡つて、隣の路地へ飛降りたんだらう、追つかけても無駄だよ」
平次は諦めて居る樣子です。
「どんな人相でした、あつしはよく見る隙が無かつたんですが」
「庇にブラ下つて、窓の格子の間から覗いて居たから、暗くてよくはわからなかつたが」
「へエ?」
「四文錢は額に當つたに違ひない、極印を打つてあるから、めぐり逢へばきつとわかるよ」
「一體何を覗いて居たんでせう」
「わかるものか、それより、お前が此處で落合ふことにしたのは誰だえ、もう戌刻半(九時)過ぎになるだらうが、姿を見せないぢやないか」
「それが變ですよ」
「窓から覗いたお客樣ぢやあるまいな」
「飛んでも無い、あつしが約束したのは、ピカ〳〵するやうな良い新造で、窓から人の家を覗くやうな變なことをするものですか」
「大層肩を入れるぢやないか」
「親分も知つて居なさるでせう、近頃兩國の廣小路に小屋を掛けて、江戸中の人氣を集めて居る、娘手踊の半九郎一座の花形、お蝶とお輝」
「大層な相手だな、二人一緒か」
「いえ、お蝶の方で。何んか思案にくれた揚句、錢形の親分の智惠を借り度いから、あつしに引合はせて、口添へをしてくれといふことで」
「お前の智惠ぢや間に合はなかつたのか」
「色の諸わけか、金の工面ならあつしでも間に合ひますがね」
「呆れた野郎だ、兎も角、路地の外でも覗いて見ろ、家が知れなくて迷つて居ちや、若い娘に氣の毒だ」
「さうしませう、相手が綺麗な娘だけに、この邊にウロウロしてゐると、──待ちきれないやうで見つとも無いが」
さう言ひ乍ら、八五郎は、路地の外、御臺所町の通りの方へ出て行きましたが、表通へ出る前に、何を見付けたか、
「親分、大變ツ、早く、早く」
と、あたり構はず張り上げるのです。
「何んだ、八、御町内の衆はびつくりするぢやないか」
平次がその後を追つて飛んで行くと、兩側のお長屋からも、八五郎の聲に驚いた人達が、物好きさうに顏を出します。
「人が死んでゐるんですよ、女のやうだが眞つ暗で、何んにも見えやしません」
「よし、見張つて居ろ、灯を持つて來るから」
平次は引返さうとしましたが、兩側から飛出した人の中には、八五郎の聲に驚いて、手燭や行燈を持つてゐるのが二三人あつたので、平次が引返す迄もなく、たつた一目で、思はぬ悽慘な有樣が、痛いほど眼に燒付けられます。
「あ、お蝶だツ」
八五郎は腰を落すと、死骸に獅噛みつくやうにして抱き起しました。
「どれ」
平次も手を添へました。が、娘はもう虫の息もなく、喉笛を斬られた血さへも、娘の襟をひたして、大地に固まりかけて居るのです。
「可哀想に」
それは實に見る眼に沁みる痛々しさでした。十八になつたばかりの、色白の丸ぽちやで、笑へば大きく笑くぼの淀むのが、舞臺の上から、どんなに客を喜ばせたことでせう。
人目を忍ぶ地味な單衣、帶だけが燃えるやうで、白い皮膚と、黒ずんだ血とに妖しい對照を見せて居ります。
傷は左の首筋、頸動脈を切つたのは心得た手口で、凄いほど切れる薄刄のやうですが、其處に落散つて居るのは離れ〴〵に赤い鼻緒の下駄だけ、刄物も下手人の殘したものも、何んにも見えません。
「八、この娘が、俺のところへ來ることになつてゐるのを、誰と誰が知つて居たんだ」
「そつと私に言つただけですよ、兩國の小屋で、今日の夕方、誰も聽いた筈はありませんが」
平次はお蝶の死骸の裾の亂れなどを直し乍ら、八五郎に訊ねました。四方を一と通り調べ了つて、お係り同心と、お蝶の勤めて居る小屋の親方、半九郎の來るのを待つて居るのでした。
「お蝶はどんな用事があつて俺に逢ひ度かつたんだ」
「そいつは、あつしに言つてくれませんよ、──此處は人目が多いから、今晩戌刻前に明神下の、錢形の親分さんのところへ行つて、皆んな申上げます──といふんで」
「お前は前から知つてゐるのか」
「あの邊のことなら、酒屋のムク犬の顏まで知つて居ますよ、ましてお蝶にお輝と來ちや、何方も負けず劣らず綺麗だから、可愛らしい耳朶の下の赤い黒子まで心得て居ます」
「お前の言ふことは少し淺ましいな」
「でも、殺されちや可愛想ぢやありませんか、ゑくぼとほくろはお蝶をどんなに可愛らしく見せたことでせう」
「もう宜い、半九郎が來たやうだ」
平次は、お蝶の死骸を、愛撫するやうな眼差で、沁々と見てゐる八五郎を促して、少し遠退きました。
「飛んだことになりました、親分さん」
五十前後のよく禿げた男、愛想は好いが強かな感じのするのが、お蝶の死骸を遠眼で見て、先づ平次に一應の挨拶をするのでした。
「まア、お蝶が、あんな姿になつて、可愛想に」
後ろから飛出して、いきなりお蝶の死骸に飛付いたのは、四十二三の女、それは半九郎の女房のお竹でした。
「半九郎親方、お蝶を斯んなに怨んでる者の心當りは無いか」
平次はいきなり問題の核心に飛込みます。この時は彌次馬が路地一パイで、町役人と番太の制止位では手に了へず、現場で少しでも調べ拔いて、一擧に事件を解決しようとする平次は、挨拶拔きの冷たい事務的な態度になるのも已むを得ないことでした。
「お蝶は皆んなに可愛がられて居りました、怨んでゐる者なんか、あるわけはありません」
「小屋に泊つてゐるのか」
「いえ、私の家は左衞門河岸で、お蝶とお輝は私の家の裏の六疊に、五郎助と貫六は、隣の長屋を借りて暮して居ります」
五郎助と貫六といふのは、半九郎一座の道化で、お蝶とお輝のあでやかな手踊の間に、少しばかりの小手先の曲藝から、繋ぎの馬鹿踊り、時には木戸番もするといふ調法な若い者でした。
無人の一座で、下座の囃は親分の女房のお竹に、もう二人通ひで來る松三、お倉といふ中年の夫婦者、それが西兩國で立ち腐れになつたやうな、怪し氣な小屋を借り受け、去年の秋からモリモリ人氣が出て、今では東西兩國、幾十とも知れぬ興行物の中で、指折りの繁昌と言はれて居るのは、江戸つ子の物好きのせゐもあるにしても、踊り子のお蝶お輝の、素晴らしい美色のせゐだつたことは誰でも知つて居ります。
「お輝といふのは?」
「留守をさせて居りますが、女房をやつて連れて來させませうか。囃し方の松三夫婦が近所に居りますから、留守を頼めば出られないこともありません」
「さうしてくれ、それから、五郎助、貫六といふのは?」
「二人共若くて呑氣で、滅多に家に居付きませんが、今夜は珍らしく居るやうでした、尤も揃つて風邪を引いたとかで、早寢をして居るやうでしたが」
「序にそれも呼ぶんだ、──いや、後で左衞門河岸のお前の家まで行つて見るとしようか」
平次はどうせ、この人立ちの中で、路地で調べを了るのが無理だと思つた樣子です。
「一つお耳に入れ度いことがありますが」
女房の姿が見えなくなると、半九郎は物言ひ度さうに聲をひそめます。
「何んだえ」
「お蝶の身の上について、此間から變なことがありました」
「變なことゝいふと?」
「お蝶は今から十六年前、馬道で捨て兒になつて居たのを、荒物屋の年寄夫婦が拾つて育てました。その荒物屋の夫婦が死んだ後で、私が引取つて仕込んだ娘ですが」
「一寸待つてくれ、もう一人のお輝といふのは、どうした娘だ」
「あれは、女房の遠縁で、身性がよくわかつてをります」
「で、それから、どうした。お蝶の話を續けてくれ」
「そのお蝶の親許がわかつたのでございます。──親分さんも御存じでせう、元鳥越の呉服屋、越前屋周左衞門樣」
「知つて居るとも、大層な暮しだ相だ」
「その越前屋の旦那が、此間から度々私共の小屋へ來て、お蝶の樣子を見て居ると思ひました。御身分、御年配、さう申しちや何んですが、娘手踊なんかしげ〳〵見て居る方とも思はれません。樂屋中の評判になつて居ると、七日ばかり前、いきなり越前屋の手代の佐吉さんといふのがやつて來て、──お蝶といふ娘は、越前屋の主人の死んだ妹の娘、越前屋に取つては大事の姪に違ひない、早速引取り度いといふのです」
「──」
事件の妙な展開に、平次も默つてしまひました。
「私は頭から斷わりました、一座の働き手、十年も仕込んだお蝶を、そんな事で手離しては、私共は立ち行きません。すると、──亡くなつた馬道の荒物屋夫婦が、十六年前にお蝶を誘拐したといふ證據があり、それを又荒物屋夫婦から金で買つた私も、誘拐の同罪は免れない、──と斯ういふ言ひがかりです」
「──」
「越前屋の姪に相違ないといふ證據は、お蝶の左の耳の下にある赤い黒子で、生き證人の乳母も達者で居ることだし、何處へ訴へ出ても、勝は此方にきまつて居る。若しまた、今直ぐ、默つてお蝶を引渡してくれさへすれば、長い間の養育料として、五十兩の金を出さう、四の五の言ふなら、お上に訴へて、この半九郎を誘拐の罪に落すと、斯ういふ言ひ草です」
「お前はそれで、どうした」
「弱い稼業の悲しさで、名の通つた大町人とは、お白洲の砂利を掴んで喧嘩もなりません。仕方が無いから、此上は本人の氣持に任せる外はありません。とさう越前屋の番頭に言つたのはツイ一昨日のこと、お蝶が左衞門河岸の家を拔け出して、斯んなところまで一人でやつて來たのはそんなことを、親分さんに申上げて、良い智惠を拜借する氣ぢやなかつたでせうか」
「だが、そんな事なら、外にも相談する相手があるだらう、若い女が夜中に岡つ引のところへ來るのは變ぢやないか」
平次は一應疑つて見ましたが、さうかと言つて、外に結構な解決もありません。
やがて、半九郎の女房お竹は、もう一人の踊り娘、お輝をつれてやつて來ました。
人混みをわけて路地の中に入ると、
「ま、お蝶さんどうしたの」
舞臺で人に馴れきつて居るお輝は、多勢の監視の眼を恐れる色もなく、大地に戸板を敷いたまゝ、筵をかけて寢かされて居るお蝶の死骸に、近々と顏を持つて行くのです。
身裝はお蝶よりいくらか派手ですが、顏立は淋しく冷たい方で、お蝶の豊麗なのと比べると、同じ美人の仲間には入つても、男好きの點は格段の違ひがあります。
「今晩お蝶が家を出たのを知つて居たのか」
平次は、お輝の少し落着いた樣子を見て問ひかけました。
「知つて居ました、錢形の親分さんに逢つて、相談をして來るとか言つて、酉刻半(七時)少し過ぎでした」
「たつた一人で、夜歩きをすることがあつたのか」
「滅多にないことですけれども、左衞門河岸から明神下は遠くないし、急ぎの事だからと言つて」
「どんな急ぎの用事があつたんだ」
「元鳥越の越前屋さんが、姪だから引取ると言つて來たけれど、お蝶さんに言はせると、そんな氣がしないし、これには何んか、恐ろしい間違ひがあるに違ひない──といふんです。尤もお蝶さんはこんな稼業をイヤがつて居ましたから、越前屋へ行き度いのは山々のやうでした」
「──」
「それに、近頃は變な脅かしの手紙が來て怖いから、錢形の親分さんにお話をして、何とかきめ度いといつて居ましたが」
「脅かしの手紙?」
「私も一度見せて貰ひました、亂暴な變な字で、──越前屋がお前を姪だと言つて居るが、あれは皆んな嘘で、五十過ぎの越前屋周左衞門が、年にも耻ぢずお前に懸想して、引取つて妾にする氣だから氣を付けろ──と斯んなことが書いてありました」
「その手紙をどうした」
「皆んな燒いてしまつたやうです、ひどく氣味が惡がつて居ましたから」
「それつきりか」
「近頃の脅かしの文句はだん〳〵ひどくなつて、どうしても越前屋へ行く末なら、お前の命は無いものと思へ──とか」
「その手紙も燒いたのか」
「だつて、噛みつき相な文句でせう、持つて居るだけでも、生靈に取憑かれるやうで氣味が惡いから、お蝶さんはろくに眼も通さずに、お勝手で燒いてゐました」
「そんな脅かしの手紙が來ても、お蝶は矢張り、越前屋へ行く氣だつたのか」
「一生手踊なんかやつて、舞臺の上の耻をさらすより、越前屋へ行けば、跡取りにする約束だつたんですもの、お蝶さんの迷つたのも無理はありませんよ」
お輝の話はこれで一段落でしたが、平次にはまだ物足りないものがあります。
「お蝶にうるさく言ひ寄つた男は無かつたのか」
「ありましたとも、こんなに綺麗なんですもの」
お輝は淋しさうにお蝶の死顏を覗きました。
「近いところでは?」
「同じ小屋で稼いでゐる、五郎助と貫六、二人とも夢中でしたよ、お蝶さんは人間が利口だから、宜いかげんにあしらつて居たやうですが、でも男つ振りの良い、貫六さんの方を好きなやうでした」
「五郎助と貫六の二人は、さぞ仲が惡かつたことだらうな」
「いえ、そのくせ飛んだ仲好しで、一人がお蝶さんと出來てしまへば、どうなるかわかりませんが、どつちもモノにならないことがわかつて居るから、鞘當てをする張合も無かつたんでせう」
「その二人は、今晩どうして居るんだ」
「仲よく風邪を引いたとかで、二人共寢込んで居ますが、宵のうちから戸を締めて」
お輝の話は、それで終りました。
その間に係同心が夜中乍ら出張つて來て、檢死が濟んだのは眞夜半過ぎる頃、吊臺の用意をして、お蝶の死骸を、左衞門町の家へ運んだのは、やがて曉方近い頃でした。
「變なことがありますよ、親分」
八五郎は死骸の側に居る平次のところへやつて來ました。左衞門河岸の半九郎の家へ着いて間もなく、四方は次第に明るくなつて、初夏の曉方らしい清々しさでした。
「何が變なんだ」
「五郎助と貫六といふ、二人の道化を叩き起すと、揃ひも揃つて、鉢卷なんかして居ますよ。あんまり意氣な恰好ぢやありませんね。風邪を引いて、頭痛がするんだ相で、──玄能で毆つたつて、痛むやうな頭ぢや無いが、變ぢやありませんか、親分」
「よし〳〵、行つて見てやらう」
平次は妙に好奇心をそゝられました。八五郎に案内させて、隣の長屋へ顏を出すと、成程、二十四五のと、二十七八のと、血氣旺んの男が二人四つに疊んだ手拭で鉢卷をして、床を疊んで着換をして居るのです。
「お蝶が死んだことは聽いた筈だ、風邪位が何んだ、良い若い者が」
平次はその頭の上へ、いきなり癇癪玉を爆發させました。
「へエ、相濟みません」
貫六といふ細長くて年上のが、ピヨコリとお辭儀をしました。舞臺でお客樣へ挨拶をして居るやうで、物腰が妙に職業的で良い感じは與へません。
「二人共、お蝶を追ひ廻した講中ぢやないか、早く行つて線香でも上げて來い」
「へエ」
「鉢卷を取るんだ、大丈夫、出來のよくねえお鉢でも、それ位のことで割れる氣遣けえは無え」
「相濟みません」
肥つた若い方、五郎助は澁々乍ら、鉢卷を取りました。
「あ、傷?」
八五郎は早くも、五郎助の額の左に、少し血がにじんだ、細長い皮下出血のあるのを見付けたのです。
「その傷はどうしたんだ」
平次の手は伸びて、早くも逃げ腰の五郎助の襟髮を押へました。
「貫六と鉢合せをしたんで、へエ、何分暗かつたもので」
「鉢合せなら、お前の額にも傷があるだらう、どれ」
八五郎の手は延びて、貫六の額から、むしり取るやうに鉢卷を取りました。
「あ、成程、こつちの方が少し手重だ」
それは皮が破れて、少しは血も出た樣子、見ると、貫六の單衣の襟には、明らかに新しい血が、二三滴こぼれて居るではありませんか。
「鉢合せして、こんな傷が付きますかね、親分」
これは八五郎でも合點が行きません。
「お前達の頭には、角があるんだらうよ」
「へエ」
平次は少しばかり面白相でした。貫六の額の傷の血が、二三滴でもこぼれて居るのも變ですが、五郎助の額の傷は、細い深い溝になつて居て、鉢合せで出來たものでないことはあまりにも明かです。
「五郎助の傷は、俺が拵えたものらしいぜ、四文錢を一枚、縱にその傷に當てゝ見ろ、八」
「へエ、生憎でね、親分」
「何が?」
「小判といふものなら持つて居るが、四文錢は持つて居ませんよ、親分の袂には確かにある筈だが」
「つまらねえ事を言やがる、頼まねえよ、それ、見るが宜い」
平次は投げ錢のために、いつでも用意して居る四文錢を一枚、懷中から取出して、五郎助の恐れ入つた額に當てゝ見るのでした。
「それ見ろ、昨夜、明神下の俺の家の、窓から覗いて居たのは、お前の面だらう。酉刻(六時)少し過ぎから戌刻(八時)過ぎまで、その面が窓から動かねえから、俺と八五郎は、飛んだ馬鹿な掛け合ひ噺をして居たぢやないか」
「──」
「手輕にいきさつを白状した方が、お前の身のためだぜ、路地でお蝶が殺されたのはどう考へても酉刻半より遲くはねえ、お前はその頃俺の家の窓から覗いて居たのを、俺がよく見て居る。それから半刻も經つて、お蝶の死骸が冷たくなるまで、俺の家の窓から見張つて居るお前に、お蝶を殺す隙なんかあるわけは無え。第一、人殺しをした野郎が、便々と岡つ引の家を覗いて居るものか、お前は日本一の馬鹿で野呂間でおたん珍だが、お蝶を殺した下手人でないことだけは確かだ」
「相濟みません、親分さん、お蝶が宵に親分さんのところへ行くと知つて、私はどんな話をするかそれが聽きたさに、屋根傳ひに忍び寄つて、親分さんの家を見張つて居りました、ところが、何時まで待つてもお蝶が來ずに、親分さんに見付かつて、この通り」
五郎助は四文錢でやられた宵の傷をさすり乍ら、だらしもなくお辭儀をするのです。
「ところで今度は貫六だ、お前の額の傷はどうしたんだ」
平次の問は、もう一人の道化の方に向ひます。
「あつしは、風邪を引いたことにして、此處で留守番をして居ました。すると、お隣の家からお蝶さんが出た樣子でしたが、暫らくすると五郎助が歸つて來て、それから又暫くすると、明神下の親分さんの家の前で、お蝶さんが殺されたといふ知らせです」
「それから先は、私から申上げませう。──私はお蝶殺しの疑ひを受けさうで、死ぬほど心配して居りますと、わけを聽いた貫六が、──錢形親分の家なんか覗いて、錢を投げられるやうなヘマをやつちや、すぐ眼の前の路地の、お蝶殺しの疑ひを受けるにきまつて居る、こいつは二人共額に傷を拵へて、鉢合せをしたことにしようぢやないか、と、貫六は自分の煙管で自分の額を叩き、あんな傷まで拵へてくれました、──貫六は外へ出なかつたことは、一緒に居るこの私が證人ですから、二人共額に傷があれば、手輕に申譯が立つだらう──斯う言つた譯で」
五郎は朋輩の貫六が、自分で自分の額まで毆つた義心に感激して、思はず聲を顫はせるのです。
「呆れた痛い思ひの猿智惠だ、そんな事で人の眼を胡麻化さうと思ふのは、大變な間違ひだぜ、馬鹿々々しい」
あまりの事に、錢形平次も小言を言ふ張合もありません。
「親分、何處へ行くんです?」
「元鳥越の越前屋を覗いて見るよ」
平次の足は、明神下へ向く前に、お蝶を引受け度いと言つた、越前屋を調べて見る氣になつたのです。
「ところで、道順だから姐さんの樣子を見て行きませうか、今晩は心配して居ることでせう、明神下に殺しがあつたと聽いちや」
「いや、放つて置くが宜い、昨夜、酉刻少し過ぎかな、窓から覗いて居る五郎助の顏を見て『これは女が居ちや、足手纏ひになるかも知れない』と思つて、お靜に用事を言ひ付けて、無理にお袋のところへやつたのさ、それが、半九郎の小屋の道化と聽いちや大笑ひだ、尤もあの男は、眼がギヨロツとして、いやに凄い頭をして居るが」
「でも、姐さんは幸せですね、そんな思ひやりのある亭主を持つて」
「何を言やがる、邪魔だから追つ拂つただけのことぢやないか」
話し乍ら、二人は越前屋の暖簾をくゞつて居りました。主人の周左衞門は丁度留守、若い番頭の佐吉と一應逢つて見ましたが、これは要領が良過ぎて、一向に話を纏めさせず、仕方が無いから、新造のお千といふのに逢つて見ることにしました。
主人周左衞門は五十を遙かに越した筈なのに、内儀のお千は後添で二十四五、若くも美しくもあるが、ひどくピリ〳〵した神經の持主で、平次もさすがに扱ひ兼ねます。
「飛んだことでしたねえ、お蝶さんとやらが殺された相で、──主人の姪だなんて、ありや大嘘ですよ、姪なんかあつたかも知れませんが、それが今頃になつて見付かるわけはありません、耳の下の赤い黒子だつて、主人の外には誰も知つてる人は無し、十八になる綺麗なのを、姪といふことにして呼び込み度い下心は、私にはよくわかつて居ましたよ」
この女は嫉妬のために、常識も健康もたしなみも失つてしまつて居る樣子です。
「お内儀さん、お蝶へやつたあの手紙は、お内儀さんの手でせうな」
「えツ」
「隱しちやいけない、お蝶を脅かした手紙は、亂暴な字ではあつたが、間違ひもなく女の筆跡だ、調べて見さへすれば、すぐわかることで」
「──」
平次のカンは見事に當つたやうです。夫周左衞門の色好みを持て餘して、ひどいヒステリーになつて居る内儀は、兩國の人氣者だつた、若くて美しいお蝶を近寄らせない爲に、それ位のことはする筈です。
平次は宜い加減にして越前屋の奧から出ると、店に居る番頭小僧達に、一應當つて見ました。昨夜は誰も外に出たものが無く、大家の内儀が、人知れず宵に脱出すといふことも、當時の町家の風俗としては、想像も出來ないことです。
明神下へ歸つた平次は、朝のうちに戻つて來て、心配して待つて居る女房のお靜に迎へられ、それからぐつすり一と寢入りすると、明るいうちに一風呂浴びて、疲れ休めに一本つけさせました。
お蝶殺しの下手人のことが、一向眼鼻のつかないのが氣になりますが、物には潮時があつて、此方で騷いだところで、何んにもならないことは平次もよく知つて居ります。
暫らくすると、八五郎がやつて來ました。
「親分、寢起きの良い顏をして居ますね」
「いや、機嫌の良いのは晩酌のせゐだよ、ところで、外はもう暗くなつたか」
「まだ薄明りですが、それでも路地の外にはもう、夜鷹蕎麥の屋臺が出て居ますよ」
「その夜鷹蕎麥で思ひ出したが、昨夜はひどく暗かつたね」
「眞つ暗でしたよ、窓から顏を出した五郎助を追つかけた時、どうしても見付からなかつたでせう」
「ところで、その蕎麥屋に逢つて話して見たいことがあるよ」
平次はすぐ仕度を始めました。クル〳〵と着換へして、十手を腰に打つ込むと、氣輕に外へ。
「へエ、今晩は、お出かけですか、親分」
蕎麥屋の爺は、平次の顏を見て愛想を言つて居ります。
「妙なことを訊くがね、爺さん、昨夜の騷ぎを知つて居るだらうな」
「大變なことでしたね、よく知つて居ますよ」
「あの殺された娘が路地を入つたのは、何刻だえ」
「酉刻半そこ〳〵と思ひましたが、若い娘は足音にも彈みがあつて、よくわかりますよ」
「その後から入つた者は無いか」
「あの騷ぎが始まる一刻ばかり、路地から出た者はありますが、入つた者はありません」
「出た者?」
「お蝶さんより一と足先に路地へ入つた女の人が、お蝶さんが入ると直ぐ出たやうです」
「どんな人相だつた」
「屋臺の灯は暖簾越しで、腰から上は見えませんよ、でも、足の方はよく見えました。素足に女らしくない藁草履を穿いて、派手な女浴衣がチラ〳〵しましたから」
「外には氣のついたことは無いのか」
「女の癖に、足だけ見るとひどい外輪でしたよ」
「有難う、お蔭で良いことがわかつたよ」
平次は八五郎に眼配せして、蕎麥屋の爺に別れると、そのまゝ左衞門河岸の方へ向つたのです。
「親分、下手人は、越前屋のお内儀ぢやありませんか」
「いや、越前屋のお内儀は、宵のうちは外へ脱出せないし、どんなに暗い晩でも、お蝶に油斷させて、後ろへ廻つて喉を掻き切るわけに行かないよ」
「へエ?」
「若い娘が、一人で眞つ暗な路地の中を歩いて居るんだ、人の氣はひがすると避けて通るし、知つてる者か親しいもので無きや、自分の後ろへ廻らせはしないよ。あの傷は後ろから剃刀で存分に切つたものだ、肩へ手位はかけたことだらう、──前からやつたら、ひどい返り血を浴びる」
「成程ね、──すると下手人は?」
「血の着いた、女の浴衣──それを搜すんだ」
「何處にそんなものがあるんでせう」
「──」
默つたまゝ、平次は左衞門河岸の半九郎の家へ入ると、迷惑相な半九郎夫婦に、
「濟まねえが、少しばかり物を搜さしてくれ」
「へエ、へエ」
不承々々の半九郎に案内させて、主人半九郎、女房お竹の身の廻りの荷物を、恐ろしく丁寧に調べ始めました。
押入へ突つ込んだまゝの女房のお竹の浴衣に、少ばかり血が附いて居りましたが、それを指摘した八五郎に、平次は
「そいつは、昨夜お蝶の死骸に觸つた時附いたのだよ、血が少し固まつたとき附いて居るし、血と一緒に泥が着いて居るぢやないか──第一その浴衣は、派手な柄ぢやない」
「成程ね」
さう言はれると一言もありません。
隣の長屋に、五郎助と貫六を訪ね、その貧しい着物を徹底的に調べましたが、素より女浴衣などが入つて居る筈もなく、これも徒らに、八五郎をがつかりさせるだけです。
「これぢや仕樣がありませんね、引揚げませうか、親分」
「いや、もう一人居る筈だ」
半九郎の家へ取つて返して、お輝の荷物を調べましたが、此處にも血の着いたものなどは一つも無く、いよ〳〵歸らうと言ふ時、念のために引繰り返した、お蝶の行李の中から、べツトリ血の着いた、派手な浴衣が一枚出て來たのです。
「親分これでせう」
「それだよ、俺が搜したのは」
「お蝶は自分で自分を殺したことになりやしませんか、血のついた浴衣がお蝶の行李から出て來るなんざ──」
「何をつまらねえ、お蝶の浴衣を盜み出して、お蝶の後からつけて行き、それを追ひ拔いて、明神下の路地の中へ一足先に入つた曲者が、お蝶を殺した後で、その血の着いた浴衣を、殺されたお蝶の行李の中へ突つ込んで置けば、未來永劫知れつこは無いと思つたことだらう、下手人の淺ましさだ、細工を仕過ぎて縮尻るやうに出來て居る」
「誰です、それは」
「來い、八」
もう一度裏の長屋へ引返して見ると、中ではドタンバタンの大騷動。
「此野郎、お蝶さんを殺したとは、何んといふことだ、──錢形の親分は、もう手前の細工を見破つたぞ、逃げようつたつて逃がすものか」
太つて力のありさうな五郎助が、痩せて華奢らしく見える貫六を膝の下に引据ゑ、滅茶々々に毆つて居るところだつたのです。
× × ×
事件落着後、お蝶殺しの繪解きをせがみに來た八五郎に、
「何んにも言ふ事は無いよ、お蝶と仲のよかつた貫六が、お蝶が越前屋の妾になるのを承知の上で、もらはれて行くのが口惜しかつたのさ。五郎助が額に傷を拵へて困つて居るのを見て、自分の額に傷をつけ、俺を騙した氣で居たのは、大甘の細工だが、猿智惠の廻る野郎だよ。あの男は華奢で女物の浴衣が似合ふから、蕎麥屋の爺さんも騙されたが、藁草履と、足を内輪にするのを忘れたばつかりにバレたのさ」
平次は斯う説明してやるのでした。
底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房
1953(昭和28)年4月5日発行
初出:「講談倶樂部」
1951(昭和26)年7月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年9月1日作成
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