錢形平次捕物控
美男番附
野村胡堂
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「親分、ウフ、可笑しなことがありましたよ、ウへ、へ、へツへツ」
ガラツ八の八五郎が、タガの弛んだ桶のやうに、こみ上げる笑を噛みしめ噛みしめ、明神下の平次の家に入つて來ました。
「冗談ぢやない、人の家へゲラゲラ笑ひ乍ら入つて來やがつて、水をブツ掛けて、酒屋の赤犬をけしかけるよ」
「怒らないで下さいよ、あつしはまた、可笑しくて可笑しくて、横つ腹の筋がキリキリするほど笑つてゐるのに、親分はまた、何んだつてそんなに機嫌が惡いんで」
「盆も正月も無え野郎にはわかるめえが、今日は十月の晦日だ、先刻から何人掛け取を斷わつたと思ふ、こいつは洒落や道樂で出來る藝ぢや無えぜ」
「相濟みません、人の氣も知らねえやうですが、借金や掛けは拂はねえことに極めて居ると、思ひの外氣の輕いもので」
「呆れた野郎だ、だから叔母さんは、お前の尻拭ひで苦勞してゐるぢやないか、その氣だから三十にもなつて、まだ嫁に來手も、婿に貰ひ手もねえ始末だ」
「でも、もう少し放つて置いて下さいよ、女房を持つと、急に人間がケチになつて、爺々むさくなつて人に意見ばかりするやうになるから──おつと、親分のことぢやありませんよ、親分は女房持ちでも、パツパと──」
「お世辭なんか止せ、お前の柄ぢやねえ、ところで何がそんなに可笑しいんだ」
「へツ、その事、その事。あつしがいつまで獨りでゐるわけも、實は其處にあるんで、へツ、へツ、へツ」
「又笑ひ出しやがる、氣色の惡い野郎だ」
「實はね、親分、このあつしが、色男番附へ載つたんだから大したものでせう」
「色男番附? そいつは何處の國の番附だ、よもや日本ぢやあるめえ」
八五郎のヌケヌケした報告に、さすがの平次も膽をつぶしました。名物の顎を二三寸切り詰めたところで、これは色男といふ人相ではありません。
「日本も日本、江戸の眞ん中、神田向柳原で、洒落れた野郎が『息子番附』といふのを拵えましたよ。表向は『息子番附』だが、内々は『美男番附』の積りでね。尤も去年は外神田の『娘番附』といふのを拵へ、瓦版にしてバラ撒いたのがありましたよ。そいつは師匠の文字花と、水茶屋のお幾が、自分達を東西の大關に据ゑる細工に、うんと金を費つてやつた仕事とわかつて、大笑ひで濟みましたが、今度は向柳原一圓の若い者が集まつて、相談の上極めた番附だから、間違ひも胡麻化しもありやしません」
「物好きなひとだな」
「今月は顏見世月で、芝居町の方も大變な景氣だから、此方でも一番素人芝居でも打つて、江戸中の娘達の人氣をさらつてやらうといふ相談で、先づ手始めに拵へたのが『息子番附』その實は『美男番附』その中から、立役も女形もきめようといふ寸法で」
「で、その番附は?」
「東、大關は佐久間町の酒屋、丹波屋の伜清次郎、西の大關は棟梁乙松の伜で辰三郎、東の大關は、米屋の下男で鶴吉──」
「番附を一々讀上げられちやたまらない、──大事なのはお前だ、三役にでも入つたといふのか」
「なアに、其處までは行きませんがね」
「前頭の何枚目といふところか」
「それ程でも無いんで」
「それぢや何んだ、年寄か勸進元か」
「飛んでもねえ、そんな爺々むさいのぢやありませんよ、正直に申上げると、呼出し奴、宜い役ですぜ──斯う半開きの扇を口に當てゝ」
「プツ、腹も立たねえな」
「最初からの申合せで、役不足は言はねえことにしてあるんで、番附に載らねえ奴だつてあるんだから、不服を言はうものなら、町内の息子附き合ひが出來なくなります」
「それで嬉しがつてゐるのは、お前の取柄だ、世の中が無事で宜い、ところで話はそれつきりか」
「その『息子番附』の兩大關が、去年の娘番附の張出大關、師匠の文字花や水茶屋のお幾ではなくて、米屋の孫娘お芳を、三つ巴になつて張り合つて居るから面白いぢやありませんか」
「そんな事は、面白くも何んともないよ」
平次はあつさり片付けてしまひましたが、これが大きな騷ぎの原因にならうとは、素より思ひもよりません。
江戸時代の閑人の間に、『見立て』とか『番附』の流行つたことは想像以上で、今日に殘る惡刷、洒落本などにその盛大さを傳へて居ります。何處の町内にも七福神見立てや忠臣藏見立てがあり、喰ふ苦勞の無い人間が集まれば、各種の番附が作られて、それが善意にも惡意にも利用され、噂話の種になつたのです。
それから幾日か經つて、まだお月樣が丸くなりきらない頃、八五郎がうさんな顏をして、明神下の平次の家を訪ねて來ました。
「變なことがありましたがね、親分」
「何が變なんだ、お前が急に出世して、息子番附の大關にでも据ゑられたといふのか」
「そんな事なら、少しも變ぢやありませんが──」
「大きく出やがつたな」
「息子番附の大關、向う柳原一番の良い男丹波屋の清次郎が、昨夜頓死しましたよ」
「頓死?」
「頓死に違ひありません、米屋の隱居藤兵衞の家の前で、倒れたつきりグウと伸びちやつたんで」
「變つた話だな、清次郎の年はいくつだ」
「たつた二十一、中氣のあたる年ぢやありませんね、──でも傷も何んにも無く、毒にやられた樣子も無いから、頓死とでも思はなきや、親達だつて諦めきれませんよ」
「まア、詳しく話して見るが宜い、どんな樣子だつたんだ」
平次は乘氣になりました。二十一の良い若い者が、ポカポカ頓死するやうな陽氣では無かつたのです。
「最初から話さなきやわかりませんがね、佐久間町の米屋の隱居藤兵衞といふのは、もう六十を越した年寄ですが、老耄して起居も不自由なので、家の者とは別に住んで居り、孫娘のお芳とお種が介抱して居ります」
「──」
「ところが、その孫娘のお芳といふのは、神田下谷きつての良いきりやうで、番附面では張出大關だが、版元に金をやつて、娘番附の大關になつた、文字花やお幾とは、比べものにならないほどの綺麗な娘です」
「で?」
「そのお芳といふのが、顏にも素姓にも似合はないお轉婆者で、講中は何人あるかわかりません。母親は義理ある仲、父親は店の忙しさで寄りつかないのを宜いことに、隱居の見舞といふことにして、若い男が入りびたりだから面白いぢやありませんか」
「ちつとも面白くないよ、さう言ふお前も、講中の一人だらうが」
「講中と言つても、あつしなんかは相手にされませんよ、遠くから吠えて見せるだけで」
「情けねえな」
「その隱居藤兵衞のところへ、酒屋の伜清次郎が見舞に行つた歸り──見舞と言つたところで、馬鹿な話をして夜を更かして、孫娘お芳の顏をマジマジと見乍ら、お月樣の傾きかけた頃腰をあげて、孫娘のお芳に見送られて表の格子を出る、──又入らつしやいね──とか何んとか愛嬌笑ひを浴びて、格子の外へ出る、近頃はもう、夜風が少し寒いから、お芳は内から雨戸を閉めて、清次郎の足音がドブ板の上に鳴つたと思ふと」
「大層卜書きが長いね」
「まア、我慢して聽いて下さいな、──戸を閉めると間もなく、丁度清次郎が身づくろひをして、シヤナリシヤナリと歩き始めた頃、ドタリグウと來た」
「何んだえ、そのドタリグウといふのは」
「人間の倒れた音で、お芳は膽をつぶして、下女のお種をお勝手から呼んで表戸をあけさせ、丁度二階から飛降りて來た、下男の猪之助──この男は米屋の搗き男ですが、病人と若い女ばかりでは物騷だといふので、親の指圖で米搗き男が交る〴〵泊りに來ることになつて居ります」
「で、三人が一緒に表へ飛出したといふのか」
「飛出す迄もありません、戸を開けると、鼻の先に、ドタリグウの正體が轉がつて居ますよ」
「?」
「抱き起して見ると、清次郎はもう人心地もなく、間もなく息が絶えてしまひました。人間は弱いやうに見えても、さう脆いものぢやない、二十一の若い男が、雷鳴に打たれたやうに、ジタバタせずに死ぬのは變だと、早速同じ町内のあつしが呼出されましたが、沈みかけた月の光で見ても、四方には人間の片らも無し、清次郎の死骸には、針の先ほどの傷も無いから、親分を呼びに來る張合も無くなつてしまひました」
「それは昨夜の事か」
「まだ死骸も酒屋の親許に引取つたまゝ、そのまゝにしてありますよ、どうしたものでせう」
「行つて見よう、どうも腑に落ちないことがある」
平次は珍らしく、自分の方から乘出す氣になりました。それほどの事件とも思はない、八五郎の方が面喰つたほどです。
最初に佐久間町の丹波屋に行つた平次は、一人息子を亡くして、悲歎にくれてゐる兩親を慰めて、兎にも角にも、伜の清次郎の死體を見せてもらひました。
まだ葬ひの仕度も出來ては居ず、佛樣も床の上に寢かしたまゝですが、ひと眼にも痛々しさが胸を打ちます。病みほうけた死骸と違つて、よく整つた顏立ち、青春の脂の乘つた、町内一番の息子が、虫のやうにコロリと死んで居るのです、端正で苦惱の跡もない表情は、兩親の悲しみを和げるどころか、反つて深刻にして行くのでせう。
身體には全く傷はありませんでした。いや、たつた一つ、後ろの首筋に、皮下出血とも思へる斑點がありますが、それも大したものではなく、皮膚の表には何んの變りも無く、倒れるはずみに、下水の何處かで打ち──やがて息が絶えた爲に、際立つての生活反能を見せなかつたのでせう。
親達は、何を訊いても、一向に埒があきません、一人息子の清次郎が、どんなに働き者で、親孝行で、良い男であつたかといふことを、くり返しくり返し聽かされるだけのことです。
外へ出ると八五郎が、
「死んだ子の可愛いゝのは無理もありやせんが、清次郎はそんな心掛の良い息子だつたとは思はれませんよ」
とブチこはしなことを言ふのです。
「何んか惡い噂でもあつたのか」
「男つ振りがよくて、如才が無くて、人間が少し薄情に出來て居ると、親の知らない罪を作りやすね」
「どんなことがあつたんだ」
「娘番附の大關と、息子番附の大關が、同じ町内に住んでゐるんだ、無事に顏ばかり眺め合つちや居ません」
「フーム、其處へ行くと、呼出し奴は無事で宜いな」
「からかはないで下さい、世の中には、大關よりも呼出し奴のあつしの方が良いといふ娘もあるんだから」
「お前の惚氣は、いづれ永日として、丹波屋の清次郎の方はどうなんだ」
「あんな箒はありやしません、町内の女の子はキヤツキヤツ言つてるが、男の子は一向面白くないんで、──先づ手始めは文字花と變な噂を立て、それからお幾に鞍替をして、今度はお芳と變つた」
「箸豆な野郎だな」
「自業自得と言つちや惡いが、町内の綺麗なのを總甞めして、無事に百までも生きちや、天道樣は無駄光りだ」
「あれツ、大層怨んで居るぢや無いか、清次郎殺しの下手人は、八五郎、お前ぢや無かつたのか」
「冗談ぢやない」
八五郎は妙にプリプリして居ります。色男番附の大關は、死んでも罪障消滅しさうもありません。
米屋の隱居藤兵衞の家は、反つて喪中のやうに鎭まり返つて居りました。此家の前で、娘と親しかつた若い男が一人死んだといふことは、あまり結構な噂の種では無かつたのです。
家はしもたや造りですが、なか〳〵の木口で、隱居が達者なころ、お茶などを嗜んで、お數寄屋作りの眞以事にもなつて居ります。尤も格子の前のドブ板までは、手が廻らなかつたと見えて、恐ろしくチグハグ、その隙間から、フト覗いた平次の眼に、妙なものが見えるのです。
「此處を搜して見たか、八」
「一と通りは見ましたが、清次郎の死骸の後ろ首に打ち身を拵へたしろものでせう」
「いや、そんな事ぢやない、此ドブ板の破れたところに、妙なものが落ちて居るんだ」
「おや、手紙ですね」
八五郎はドブ板を剥がすと、手を突つこんで、その中から何やら取出しました。天氣續きで水つ氣が無いので、幸ひ濡れても居りません。
「天地紅の結び文は洒落れて居るね、いづれお前の好きな色文か何んかだらう、開けて讀み上げて見な」
「へツ、飛んだ色つぽい勸進帳で、おや〳〵〳〵」
「どうしたんだ」
「何んにも書いてありませんよ、白い紙の天地紅を、結び文にしたのは何んの禁呪でせう、疱瘡除けのお護符かな」
「そんなものぢやあるまい、どれ、俺が預つて置く」
平次は無造作に、それを自分の懷の中に滑らせました。
格子の外から聲を掛けると、下女のお種が取次に出ました、四十前後の醜い女で、その上出戻りで子供があつて、情事よりは溜めることに一心不亂と言つた肌合です。
「昨夜のことを訊き度いが」
平次が上り框に腰をおろして、さう言ふ下から、
「あの、私から申上げますが」
とお種をおし退けるやうに顏を出したのは、見たところ、十九か二十歳の美しい娘でした、柄は大きい方、嫣然とした表情も大きく、名ある歌舞伎役者のやうな、派手な美しさです。
「お孃さんが話してくれるのは有難いが、人一人の命に拘はることだから、何事も隱さずに言つて下さいな」
平次は相手構はず念を押しました、この娘は、若さも美しさも飛越えて、性根の強かなところのあるのを、初對面の平次に感じさせたのでせう。
「でも、清次郎さんは、病氣で急に亡くなつたのでせう」
「頓死といふことになつて居るが、腑に落ちないことも少しはある」
「さうでせうか」
「清次郎は時々此家へ來るのかな」
「三日に一度、五日に一度位」
「お孃さんとそんなに懇意なのかえ」
「いえ、お祖父さんの話し相手で」
「お孃さんと、何んか約束でもあつたやうに言ふ人もあるが」
「飛んでもない、そんな事が」
お芳はにべもなく否定するのです、尤もこの輝くばかりの娘の美しさの裏には、何んの隱翳も悲みもなく、どう同情して見ても、戀人や許嫁を亡つた顏ではありません。
念のため中へ入つて、隱居の藤兵衞にも逢つて見ましたが、これはひどい老耄で、二十一歳の若い男──清次郎などの話相手になる老人ではなく、つまりは老人を慰めるといふ口實で、娘の逢引のだしに使はれて居たことでせう。
家の中も一應見せてもらひましたが、なか〳〵贅澤で數寄をこらした普請の癖に、それが又下品の凝り過ぎで、やゝ卑しくなつて居ることも特色でした。隱居と娘と下女は階下に休み、交代で泊りに來る男達は、二階の六疊に寢ることになつて居りますが、その二階もなか〳〵に捻つて居り、その頃町家に珍らしく、孟宗竹の太い柱をつけた置床に、怪し氣な山水の小幅が掛けてあります。
部屋造りの洒落れた割合に、雇人の寢具や着物などが散らばしてあり、半纒も帶も、投出したまゝ淺ましい限りです。
外へ出ると、平次は家の周圍を一と廻りしました。一軒置いてお隣は師匠の文字花の家で、その家の隣には新築の家が、半分ほど出來上がつて居り、それから先、佐久間町河岸には、お幾の住んでゐる水茶屋もあります。
この隱居所の本家、つまり藤兵衞の伜夫婦の商ひをして居る、升屋といふ米屋は表通りで奉公人の五六人も居る、なか〳〵の店でした。
八五郎に言はせると、當主菊三郎は、隱居の藤兵衞の娘の婿で、その娘──即ちお芳の母親は十年も前に死んでしまひ、後添を貰つて後に腹違ひの男の子が二人もあるので、お芳は自然兩親から遠ざかり、隱居の藤兵衞のところに、介抱といふ名で引取られて居るといふことです。
年頃になつて、輝やくばかり美しくなつたお芳が、若い男達から騷がれるやうになると、監督者の無いまゝに、自然我儘にも放埒になつて行くのは、また已むを得ないことだつたかも知れません。取締の大事な隱居は癈人で、母親は繼しい仲、父親は義理がうるさいのと稼業に忙しいので、娘の身持などを考へてやる暇も無かつたのです。
奉公人のうち、昨夜隱居所に泊つたといふ、猪之助に逢つて見ました。米の粉だらけになつた、着實さうな立派な體格の男で、
「昨夜の事を訊きに來たが──」
といふと、
「私には何んにもわかりません、宵から來て階下でお孃さんと面白さうに話して居た丹波屋の若旦那が、賑やかな暇乞をして、お孃さんに見送られて歸つた樣子で、格子が閉ると間もなく、ドブ板の上へドシンと倒れ、變な聲を出したので、階下でお孃さんとお種どんが大騷ぎになり、私も驚いて起出し、二階から飛降りるやうに、表を開けて三人一とかたまりに飛出すとあの始末で──へエ、その時はもう、清次郎さんは正氣もありませんでしたよ、氣の毒なことで」
これ丈けのことを、淀みもなく話すのです。
「お前は、お孃さんをどう思ふ」
試みに斯う訊くと、
「大きい聲ぢや言へませんが、若くて綺麗で、その上叱り手がありませんから」
と奧齒に物の挾まつたことを言ふのです。
「お前は國は何處だえ」
「越後でございますよ」
「此處へ來てから何年になる」
「もう七年になります、來年は取つて三十五になりますから、一度國へ歸り度いと思ひますが──」
「少しは金が出來たのか」
「いや、飛んでも無い、越後から來た當座、二年三年は給金も溜りましたが、江戸の水に馴れると、ろくでも無い事を覺えますから、溜つた給金も減るばかりで、へツ」
猪之助は頭を掻くのです。
猪之助と交代で隱居所に泊るといふ、鶴松にも逢つて見ましたが、これは息子番附の關脇になるといふ美男で、
「私は、なるべく逃げて、隱居家には泊らないやうにして居ります、どうも夜が遲くて翌る日の仕事に差支へるものですから」
さう言ふのは、お芳のところへ張りに來る若い男達に妨げられて、夜もおち〳〵寢らないための不滿でせう。
尤もこの男は近在のもので、升屋の遠縁にあたり、良い男のくせに堅いのが評判で、兎もすれば開き直つて人に意見などをやり度い癖があり、浮氣娘のお芳には、あまり評判は良くなかつた樣子です、外に交代で泊る小僧が一人ありますが、これは全然事件と關係があり相もありません。
「どうだ、八、もう一つ伸して、文字花とお幾に逢つて見るか」
平次はまだ諦らめきれない樣子です。
「そいつは難儀だが、序に親分に引合せて置きませうよ、あの文字花といふのは厄介な女で、向柳原中の若い男をフラフラにさせましたよ、それから掻き集めた冥加金だつて、並大抵ぢやありません」
「お前も講中の一人だらう、確かり絞られたことだらうな」
「御冗談で、あつしは逆樣に振つたつて、水つ洟も出ない方で、あべこべに文字花に貢がれた口ですよ」
「大きな事を言やがれ、出枯しの茶なんか何杯呑まされたつて、貢がれたとは言へないぜ」
「たまには豆ねぢや金平糖位は貢がれましたよ」
「それ見な、皆んな白状しやがつて」
二人は元の隱居家の裏から、師匠文字花の御神燈の下に立つて居りました。
「あら、八親分、隨分久し振りね、私の家へ入らつしやるなんて、どんな風の吹き廻しでせう」
格子につかまつて、まともに朝の陽を受けた顏が、咲き誇つた花のやうに、パツと匂ひます、二十五六の良い年増ですが、小柄で充實して、ホルモンでねり固めたやうな、魅惑と燃燒を感じさせる女です。
「今日は露拂ひだよ、錢形の親分が、お前に逢ひ度いとさ」
「まア」
文字花はさすがにたじろぎましたが、すぐに陣を立て直して、
「──どうぞ此方へ、錢形の親分さんが來て下さるなんて、まア、何んていふ良いお日柄でせう、さア、さア」
などと如才もありません。
「いや、此處で結構だよ」
「錢形の親分さんは、女ばかりの世帶ではお茶も召上らないんですつてね」
少しばかり怨ずる色が、滅法仇つぽく見える女です。
「そんなことはあるものか、事と次第では暴れ飮みをして、カンカンノウを踊つて見せるよ、今日は忙しいんだ、それ、例の良い男の清次郎の死んだことで──」
「本當にお氣の毒ねえ、良い人でしたが、少し浮氣つぽくて困つたけれど」
チクリと嚢中の針が出ます。
「師匠も大層眤懇だつたといふぢやないか」
「え、え、皆樣御存じだから隱しやしません、昔は隨分何んとか言はれましたよ、でも半歳足らずで鼬の道ぢやありませんか、何處へ行つたかと思ふと、河岸まで同じお幾のところで、脂下つて居たのもほんの二た月三月、近頃は素人衆がよくなつて、米屋の御隱居の話し相手ですとさ、あんな男に、未練も何んにもありやしません、百文の香奠だつて、出してやるものですか」
「恐ろしく見限りやがつたね、清次郎も浮ばれまいよ、ところで近頃は繁々と猪之助が來る相ぢやないか」
「三日に一度は來ますよ、鹽辛聲で唄の稽古も目當てがあつての修業でせうが、私はあんな人は嫌ひ」
「どうしたわけだ」
「ケチで強情で、自惚が強くて、賽錢惜みをするから」
文字花はぬけ〳〵と斯んな事を言ふのです。
「棟梁の伜の辰が、近頃お前のところへ來るさうぢやないか」
「あれは威勢の良い、胸のすく兄さんよ、でも、その辰さんだつて、近頃は隱居所のお芳さんに夢中なんだもの、此節の素人衆は、油斷も隙もありやしない」
平次は八五郎に目配せして、其處を立ち退きました。斯う言つた調子の女は、物馴れた平次でも、何よりの苦手です。
水茶屋、巴屋の茶汲女のお幾は、もう一段厄介な女でした。巴屋の裏の川に臨んだ母屋に寢泊りして居り、平次が行つた時は、もう晝近い陽射しなのに、まだ顏も洗はず、寢亂れた恰好のまま、寢臭くなつて出て來るのです。
「私に御用? なアに」
などと、娘番附の大關は、斑らな顏を天道樣に照らされて、見得も嗜みもありません。
昨夜のことを話して、その反能を見ましたが、
「ま、清ちやんが死んで? ま、可哀想に」
などとまだそれさへも知らずに、隋眠を貪つて居たのでせう。
それから十二三日。
月の出が漸く遲くなつたある晩のこと、眞夜中過ぎの明神下の戸を、恐ろしい勢ひで叩く者があります。
「何んだ、八野郎か、あわてゝ來やがつて」
錢形平次はその調子の亂暴さに、顏を見ないうちから、八五郎と鑑定したやうです。
ガラリと戸を開けると、
「親分」
「皆まで言ふな、──火事は何處だ、方角は?」
「佐久間町三丁目、來て下さい、清次郎と全く同じ手口でやられましたよ」
「誰が?」
「棟梁の伜の辰の野郎が、今度は間違ひもなく首筋を折られて、こはれた人形のやうに、フラフラになつて死んで居ます。ドブ板の上には、今度は師匠の文字花の自慢の櫛が落ちて居ましたが」
「よし、行かう」
平次は手つ取り早く仕度をすると、八五郎と一緒に飛出しました。
現場へ行つて見ると、路地の中は、ハミ出しさうな人だかり、それを押しわけて入ると、隱居家のドブ板の上には、若い男が一人倒れて居り、町役人や棟梁乙松の子分達の振り照す夥しい提灯の中に、檢死の役人の來るのを待つて居ります。
「錢形の親分だ」
野次は又寄つて來ます、八五郎はそれを掻きわけた中に、
「親分、伜の死にやうが、唯事ぢやありません、何んとか敵を取つて下さい、お願ひ」
と拜むのは、兼て顏見知りの、棟梁乙松の興奮しきつた顏です。
「なんか、辰兄哥を怨んで居る者の心當りでもあるのかえ、棟梁」
平次はさり氣なく訊きました。
「それが少しもわかりませんよ、尤もなまじつか、男つ振りが良いとか何んとか言はれて、此二三年は目に餘る道樂でした、師匠の文字花と一緒にしろと言つたと思ふと、半歳も經たないうちに、水茶屋の女と妙な噂を立てられ、今度は米屋のお孃さんを貰つてくれとせがんだり」
我儘一杯に育つた、色好みの伜には、親の乙松も持て餘して居た樣子です。
乙松の愚痴を聞き乍ら、平次は手早く死骸を檢めました。成程、提灯の明りの下でも、成勢の良い男つ振りで、色の淺黒い半纒姿、キリヽとした眼鼻立も江戸の町娘好みと言ふ柄です。
傷は清次郎の場合と同じく、見たところ一つもありませんが、首の後ろが青く痣になつて、首の骨をブチ折られたものか、フラ〳〵になつて居るのも凄まじいことでした。
隱居藤兵衞の孫娘と、下女のお種に訊いても、此前清次郎が死んだ時と全く同じで、宵に遊びに來て、月が出た頃歸ると言ひ出し、外へ出たところで雨戸と格子を締めると、間もなくドブ板の上に、ドシングウと言ふ代りに、今度はギヤツ、ドシンと聲が先で、音の方が後だつたといふのです。お芳と下女のお種と、二階に泊つて居た猪之助が、此前の時と同じやうに、三人一ぺんに外へ飛出すと、月下にはもう曲者の影もなく、ドブ板の上には辰が虫の息で倒れて居たといふのです。
一應も二應も其邊を搜しましたが、家は庇の下からドブ板まで一間あまり、すぐ側には天水桶があつて、その上に二階の庇があり、二階の雨戸は格子の中に嚴重に閉されて鼠一匹這ひ込む隙間もありません。
左右前後、近所の家といふ家は全部〆切つて、もぐり込める路地もなく、第一その邊に大の男の首の骨を打ち折るやうな、そんな武器は一つも無かつたのです。
「八、お前は此處で張番をして居てくれ、俺は一寸搜して來るものがある」
「何んです、親分」
「得物だよ」
平次は人波をかきわけて、路地の外へ出ると、裏から廻つて、二軒置いて先の普請場に入りました。その時はもう大體の建築は出來上つて、冬の來る前に大急ぎで壁を塗つたり造作を入れたり、職人も二三人泊り込んで居りましたが、平次が入つて來るのを見ると、野次馬の群の中から追つ驅けるやうに拔け出した男が、
「錢形の親分、何んか御用で」
と先をくゞります。
「内證で少し聽き度いことがある」
「へエ、どんな事で」
「此の普請場で、一と月──とは經たないかも知れないが、何んか無くなつたものがありやしないか」
「さう言へば、妙なものを盜られましたよ」
「何んだ?」
「土臺を据ゑる時に使つた、金梃なんで、十貫目近くもありますから、ありや盜んだところで玩具になるわけぢやなし、變な奴もあるものだと思つて居りました」
「それだツ、有難う、それでわかつたよ、人間の首を打ち折るやうな仕事は、素手では天狗でも容易ぢやあるめえが、金梃なら出來ることだ、が、待てよ」
平次はフト考込みました、金梃で人間の首を毆れば、骨も碎ける代り、皮も破れ、肉も割け、血も飛散るわけです。
平次は默々として元の隱居所へ引揚げる外は無かつたのです。
隱居所の前には、八五郎と二三人の下つ引が、野次馬を追ひ散らし乍ら待つて居りましたが、平次の顏を見ると、
「得物はわかりましたか親分」
八五郎は四方構はず張り上げるのです。
「判つたやうな、判らないやうな」
平次はそんな事を言ひ乍ら、念入りに四方を見廻して居りましたが、小型の天水桶の上へヒヨイと登ると、それを踏臺に、二階の庇の上へ、何んの苦もなく飛移りました。
目の前には立ちはだかる嚴重な格子、念のためにそれに手をかけて、搖ぶり加減に押して見ると、格子は一間の框ごと、何んの苦もなく外れるではありませんか。
その中の雨戸は、元より中から棧が落ちて居りましたが、下に居る八五郎に合圖をすると、八五郎は心得て家の中に飛込み、お芳やお種のけゞんな顏を尻目に、二階に登つて雨戸を開けました。その時、米搗き男の猪之吉の姿は見えなかつたやうですが、八五郎は素よりそんな事は氣にも留めません。
二階の雨戸を開けた八五郎と、庇の上の平次は、鼻と鼻が合ふほどに立つて居りました。
「もうわかつたよ、八」
「何がです、親分」
「金梃の行方だよ」
部屋の中に立つて、提灯を振り照し乍ら、ヂツと見て居た平次、置床の柱、逞ましい孟宗竹に眼がつくと、兩手をかけて、苦もなく外しました、中々の貫々です。
「見るが宜い」
孟宗竹の柱を逆樣にすると、中からゾロリと出たのは、成程、十貫目もあらうと思はれる鐵梃でした。
「これで毆つたんですか」
「その通りだよ」
「すると血が飛び散りますが」
「いや藁か綿を卷いたんだ、多分、着物や褞袍を何枚か卷いて──尖端の方だけで宜い、帶か紐で括つたことだらう、うけ合ひ首の骨は叩き折れるが、傷はつかない」
「成る程ね、恐ろしい企みで」
「ところで、下手人は猪之助にきまつたが、姿が見えないぢやないか」
「親分が外へ行つた時、跟いて行つたやうですよ」
「しまつた」
「何處でせう、親分」
「多分、文字花の家だらう、あの男は生れ乍らの不粹だが、江戸育ちの浮氣者の文字花に、すつかり打ち込んで居たらしい」
「行つて見ませう」
「來いツ」
平次と八五郎は、野次馬の頭の上を渡るやうにして、一軒置いて隣の文字花の家に飛込みました、が、その時はもう萬事が終つて居たのです。
「あツ」
中は血の海、文字花は自分の居間で、出刄庖丁で喉をゑぐられ、虚空を掴んで死んで居たのです。側で逃出すことも出來ず、たゞウロ〳〵と泣いて居る少女に訊くと、
「猪之さんが、お師匠樣を殺して逃げてしまひました。──猪之さんが一緒に逃げようと言つても、──お師匠樣はお前だけ勝手にお逃げ、私は人殺なんかした覺えなんか無いんだから、何處へ出たつて申開きが立つよ、人の言ふことを勝手に惡い方に取つたお前が惡いぢやないか──といふと、猪之さんは、阿魔ツ、俺をだます氣か、とお勝手から出刄庖丁を持つて來て──」
少女は思ひ出したやうに、大きい聲を立てゝ泣き出すのです。
× × ×
猪之助は板橋で召捕られ、三人殺しの罪で處刑になりました。米屋の娘お芳は、世間の惡評に居たゝまらなくなつて、近在の親類に預けられ、それで一件は落着したわけです。
その後八五郎のせがむまゝに、平次は斯う話して聽かせるのでした。
「息子番附の三役にならなくて、お前は飛んだ仕合せさ、素人が面や姿で何んとか言はれちや、出世の妨げだよ」
「──」
「何? 出世しなくても宜い? 罰の當つた野郎だ、──一件の繪解きは何んでも無いよ。文字花は浮氣者のくせに、男を皆んなお芳に取られて、御布施が段々少くなるのに氣を腐らせ、少し人間の甘い癖に、文字花に夢中になつて居る猪之助を煽動てゝ、筋書まで拵へて、二人の男を殺さしたのさ。天地紅の色文や、文字花の櫛をドブ板の上へ落して置き、月の光の中でそれを見付けさせて、腰を屈めて拾ひ上げるところを、尖端を卷いた鐵棒で、力任せに叩きつけ、首の骨を折らせたのは凄いよ。こゝを打つて下さいと言はぬばかりに首を差し伸べて居るところを、二階から庇傳ひに降りて、入口の戸袋の蔭に隱れて居た猪之助が、力任せにやるんだもの、たまつたものぢやねえ、着物を卷いた鐵棒は、音がしなく、血が出なくて、飛んだ得物だつたことだらう」
「成程ね」
「さて二人は殺したが、バレさうになつて逃出した猪之助は、文字花を一緒に伴れ出して故郷の越後へでも飛ぶ氣だつたらう。文字花に斷わられると、カツとなつて、それも殺してしまつた」
「無分別なことですね」
「女から女へ渡り歩く男や、男から男へ渡り歩く女には、飛んだ見せしめかも知れないよ──と、これは飛んだ説教になつたが」
「へツ、當て付けられてゐるやうで」
「何を、呼出し奴のくせに」
「違げえねえ」
二人はカラ〳〵と笑ふのでした。
底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房
1953(昭和28)年4月5日発行
初出:「讀切小説集」
1952(昭和27)年10月捕物祭
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年12月29日作成
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