錢形平次捕物控
八五郎の戀人
野村胡堂




「親分、お早やう」

 飛込んで來たのは、お玉ヶ池の玉吉といふ中年者の下つ引でした。八五郎を少しけさせて、一とまはりボカしたやうな男、八五郎のんがい顏に比べると、半分位しか無い、まん圓な顏が特色的でした。

「玉吉兄哥あにいか、どうしたんだ、大層あわてゝ居るぢやないか」

 明神下の平次の家、障子の隙間からヌツと出したのは、その八五郎の長んがいあごだつたのです。

「錢形の親分は?」

 お玉ヶ池の玉吉は、氣拔けがしたやうに、ぼんやり立つて居ります。

「留守だよ、笹野さゝの樣のお供で、急の京上りだ」

 與力筆頭笹野新三郎は、公用で急に京都へ行くことになり、名指しで錢形平次をつれて行つたのは、つい二、三日前のことだつたのです。

「そいつは弱つたな、歸りは?」

「早くて一と月先、遲くなれば來月の末だとよ、その間俺の叔母は、此處へ留守番に泊り込みだから、叔母の家に厄介になつて居る俺は、日に三度店屋物てんやものを取るわけに行かねえ、口だけは此處へ預けて、向う柳原やなぎはらから通つて居る始末さ」

「弱つたなア」

「何を弱つて居るんだ、錢形の親分の留守中は、はゞかり乍ら俺は城代家老さ、困ることがあるなら遠慮なく言ふが宜い、金が欲しいなら欲しいと──」

 大きなことを言つて、八五郎はそつと懷中を押へました。その中にある大一番の紙入には、穴のあいたのが少々入つてゐるだけだつたのです。

「そんな話ぢやないよ、矢の倉で殺しがあつたんだぜ、八五郎兄哥」

「そいつは大變ぢやないか、錢形の親分程には行かないが、大概たいがいのことは俺で裁ける積りだ。さア、案内してくれ」

「さうかなア、大丈夫かなア」

 玉吉はひどく覺束ながりますが、八五郎では嫌とも言ひ兼ねて、ヒヨコヒヨコと先に立ちます。

「大丈夫かなアは心細いぜ、おい、玉吉兄哥、斯う見えたつて、錢形平次の片腕と言はれた、小判形の八五郎だ」

 胸をドンと叩きますが、くたびれた單衣の裾を端折ると、叔母が丹精してつぎを當てた、淺葱あさぎの股引がハミ出して、あまり威勢の良い恰好ではありません。

 事件のあつたのは、矢の倉の稻葉いなば屋勘十郎。

「内儀のお角が、昨夜風呂場で、障子越しに刺され、その場で息を引取つたよ」

 道々お玉ヶ池の玉吉は説明してくれました。稻葉屋勘十郎といふのは、何處から流れて來たともわからぬ浪人者で、稻葉屋に用心棒代りの居候で入り込んで居るうち、主人が死ぬとその儘ズルズルと後家のお角の婿になり、僅か四、五年の間に、日本橋から神田へかけても、指折りの良い顏になつた男でした。

「すると内儀は、金のうらみでなきア、色戀沙汰ぢやないか」

「金の怨なら、主人の勘十郎がやられる筈さ、殺された内儀は、三十八の大あばたで、色戀とは縁が遠いぜ」

「兎も角も、現場を見ての上だ」

 二人は矢の倉の稻葉屋へ着いたのは晝少し前、見廻り同心が町役人を立ち會はせて、檢死が濟んだばかりといふ時でした。

「向柳原の八五郎親分? それは御苦勞、錢形の親分は留守だつてね」

 主人の勘十郎ははなはだ無愛想でした。平次の留守を何處で聽いたか、兎も角も、八五郎風情が來たのでは、と言つた語氣が、妙に皮肉に聽えます。

 年の頃、四十二、三、面ずれも竹刀しなひだこもある立派な男で、稻葉屋の身上しんしやうのお蔭であつたにしても、僅かの間に町人達に立てられて、立派に顏のきける男になつたのも無理のないことでした。押出しも辯舌もまことに申分のない旦那衆です。

「兎も角も、見せて貰ひませう」

 八五郎は思はず肩肘かたひぢを張りました。

「あ、宜いとも、どうぞ、此方へ」

 主人勘十郎は先に立つて案内します。

 佛樣は階下の南向八疊に、近所の衆や親類の人達に護られて、しめやかに納棺を待つて居り、八五郎と玉吉の姿を見ると、人々は言ひ合はせたやうに席を開きました。

 死骸は、評判の通り四十近いみにくい女──と言つても眼鼻立が惡いのではなく、松皮疱瘡まつかわはうさうで見る影もなくなつて居り、その上横肥りのちんちくりんでまことに散々です。

 傷は後ろから肩胛骨かひがらぼねの下を一と突き、餘程狙ひ定めたものでせう。



 やがて八五郎は、主人の案内で、風呂場を見せて貰ひました。町家に内湯は珍らしかつた頃で、さすがに稻葉屋の豪勢さですが、それでも形ばかりの狹いもので、鐵砲風呂を据ゑると、あとは三尺の狹い流し、少し身體を動かすと、格子窓の油障子あぶらしやうじに背中が觸ります。

「この障子に、身體の影の映つたところを、外から一と突きにやられたものらしい、中は灯が點いて居たから、見當に間違ひは無かつた筈だ」

 勘十郎は油障子を指すのです。成程さう言へば、一箇所刀を突つ込んだらしい穴があいて、穴のあたりに、血の飛沫ひぶいてゐるのも無氣味です。

「刄物は?」

 八五郎は親分讓りの調子で訊ねました。

「無かつたよ、格子の外から突いたに相違ないから、刀は相當長いものだ、曲者はさやに納めて、悠々と引揚げたものだらう」

あかりいて居たのですね、確かに」

「間違ひもなく點いて居たよ、──最初悲鳴に驚いて飛込んだのは、ツイ隣の部屋で、家内が湯から上がつたら、直ぐ續いて入る積りで着物を脱ぎかけて居た妹で、その妹の聲で、お勝手の下女と、二階に居る私が飛んで來たのだ、私は一と足先に湯から上がつて、二階で風を入れて居るところであつたよ。下帶したおび一つで曲者を追つかけて外へ飛出すわけにも行かず、飛出したところで刄物も何んにも無し、こんな困つたことは無かつたよ」

「曲者の姿を見た人はありませんか」

「二階は一パイに開けて、私は格子窓に腰掛けて居たが、チラと人の姿を見たやうな氣がする」

「男でせうね?」

「間違ひもなく男だつたよ」

「お心當りでも」

 八五郎は押して訊ねました。主人勘十郎の言葉には、何やらふくみがあるのです。

「滿更心當りが無いわけでも無い」

「と、言ふのは?」

「私は、五年前まで、さる大藩に仕へたが、人と爭ふことがあつて浪人したのだ、その相手といふのは」

 勘十郎は言つたものかどうか、ひどく思ひ惑つて居る樣子です。

「その相手は?」

「打ち明けても差支はあるまい、阿星源之丞と言つたよ、私と同年輩で、腕の達者な大男だ」

「何方の御藩で?」

「それは訊かないでくれ──尤も阿星源之丞も、その後浪人して、江戸で細々と暮して居るといふことだが、何處に住んでゐるか、家は知らない」

「その阿星といふ浪人者が、何んの怨みで御内儀を殺したんでせう」

 いしくも八五郎は、この大切な疑ひにたどり着いたのです。

「左樣、私にも、それがわからない、が、阿星源之丞は、私と間違へて、家内を刺したのではないかな」

「へエ?」

 八五郎は驚いて、少しノツポでさへある、主人勘十郎の身體を見上げました。

「私は背が高くて、家内は背が低い、それを間違へる筈も無いやうに思ふが、段々考へると、妙なことに氣が付いた」

「へエ?」

「風呂場には灯が一つ、手燭に立てた裸蝋燭はだからふそくを、入口の敷居の内、狹い板敷に置いてある、それが家内を照すと、窓の油障子には、思ひの外大きい影法師になつて映りはしないか」

「──」

「窓の障子には隙間も穴も無かつたから、曲者は中を覗かなかつたことは確かだ。窓の油障子に映つた影法師目あてに、長いのを刀任せに刺した──としたらどうだ」

「成程ね」

 八五郎は悉く感に堪へてしまひました。何んとなく高慢なところがあつて、主人勘十郎、甚だ人づきは良くありませんが、智惠の方は、八五郎などとは比較にならぬ程たくましい樣子です。

「外に考へやうは無い、阿星源之丞といふのは、西國なまりのある大男で、髯の濃い、眼の大きい、足が少し惡く、心持びつこを引いて居る筈だ、江戸の町の人間の海の中に入つても、何時かは必ず見付かるだらう」

 成程その人相なら、すぐにもつかまり相です。

「外に怨を受けることは無かつたでせうか」

 八五郎はもう一歩踏込みました。

「それはわからない、私は金を貸すのが商賣だ、金を借りた者は、借りる時の心持を忘れて、ツイ貸し主を怨むものだ、ことに、家内はやかましかつたから、隨分人に怨を買つたかも知れぬて」

「例へば、──その心當りはありませんか」

「一々は覺えてゐない。ポン〳〵言つても大した根に持たない人間もあり、默つて居ても煮えくり返るほど怨んでゐる者が無いとも限らない」

 勘十郎の話からは、何んにも得るところはありません。



 風呂場の隣は廊下をへだてた二疊の部屋で、内儀の妹のお君といふのが、姉が風呂場から出て來るのを、此處で待つて居たことでせう。この部屋は窓も何んにも無い盲目めくら二疊で、風呂場に通ずる廊下以外には、出入する口もありません。從つて此處に居た筈の妹のお君の目を逃れて曲者が風呂場に入る工夫はなく、同時に風呂場の外から刺された、姉のお角の死は、この部屋に居たお君とは、全く關係の無いこともあきらかです。

 その二疊の横手には、廊下の板敷から二階へ登る十三段の急な梯子はしごがあり、晝でも眞暗で、馴れない者には無氣味な感じです。妹お君の悲鳴に驚いて、下帶一つの主人勘十郎が、二階から驅け降りたといふのは、あの梯子段でせう。

 梯子段の先には思ひの外廣いお勝手があり、そのお勝手の先に、下女のお直の四疊半の部屋があります。これがざつと北側の部屋割で、南側には、店と居間兼帶の佛間と、お角の死骸を置いてある八疊の客間と、それから妹のお君の部屋が並び、二階には主人夫婦の部屋とその次の間があり、兎も角も一と通りの構へです。

 八五郎は玉吉と一緒に、下の部屋々々を見廻つて、それから二階へ登つて見ました。大川まで一と眼に見渡して中々の眺めですが、金持らしい用心堅固さで、窓といふ窓には全部格子がはめてあり、その格子が取外しの出來ないやうに、一々釘で留めてあるのは念の入つたことです。その上釘は古く錆付さびついて、格子を動かした位では外れさうもなく、主人は下帶一つの姿で、海を眺め乍ら、格子の内の張出し窓で安心して凉んでゐたといふのもうなづけます。

 二階から降りると、下女のお直といふのが、お勝手にうろ〳〵して居りました。二十歳はたち前後ですが、これは念入の不器量、『く女房千人並の下女を置き』と言つた、川柳せんりうが連想させるやうに、内儀の醜くさが反影して苦笑させられます。

 その内儀が殺された時のことを、

「お君さんの聲でびつくりして風呂場へ飛んで行くと内儀おかみさんはもう虫の息でした、『苦しい』と言つたやうでしたが、それもはつきりしません、それつきり息を引取つてしまひました、旦那樣も私の後から、下帶一つで二階を降りていらつしやいましたが、もう手のつけやうも無かつたのです。下男の九郎助は使に出てまだ歸らず、私は若松町までお醫者を呼びに行きましたが」

 下女お直の話はそんなことで盡きました。

「内儀さんを怨んでる者は無かつたのか」

 八五郎はまた定石通りの頭の良くない問をくり返します。

「口やかましい人でしたけれども、氣前の良い人でしたから、別に」

 お直には見當もつかない樣子です。

「主人との仲は?」

やきもちはひどい方でした、でも、そんなに仲が惡いとも思ひません、大抵のことは、旦那の方で折れて居たやうですから」

 お直から訊き出せるのは、そんなことが全部でした。その時、

「あ、お客樣?」

 場所柄らしくないあでやかな聲がして、お勝手がクワツと明る〳〵なりました、二十歳前後と見える成熟しきつた美しい娘が、外から不意に入つて來たのです。

「内儀の妹のお君さんだよ」

 玉吉は、自分のもの見たいな、得意らしい顏で、そつと八五郎に教へました。

「お君さん、どこへ行つて來たんだ」

 八五郎は漸く陣を立て直しました。どうも綺麗過ぎて、八五郎に取つては、容易ならぬ相手です。

「あら、八五郎親分ねえ、よく知つてるわ、向柳原へお稽古に行つて、毎日親分の家の前を通つたんですもの」

 お君はうるんだやうな大きい眼を見開いて、なつかしさうに八五郎を見上げるのです。

「へエ、そいつはちつとも知らなかつたぜ」

 江戸一番のフエミニストが、身近を往來して居た、こんな綺麗な娘を知らなかつたといふのは、何んたる迂遠さでせう。

「でも、親分は、そりやえらい人なんですツてね、顏を見られるのが怖かつたわ」

「へエ、それは驚いたね」

 エライ男にされたのは有難いが、娘に怖がられて居たとわかると、八五郎此時ほど十手捕繩が怨めしかつたことはありません。

「で、私に何んか御用?」

 お君の眼が大きく瞬きました。姉の死んだといふ翌る日で、日本一の眞面目な顏ですが、その生眞面目さが、いつほぐれるかもわからない、朝顏や月見草の、張りきつたつぼみを見るやうで、たとへやうも無い魅力です。

「何處へ行つて來たんだ?」

「小網町の淺野屋あさのや──叔父さんなんです、不斷は往き來もしてゐないけれど、斯んなときは、矢張り相談しなきや」

 それは深い仔細がありさうでした。殺された内儀のお角と、その妹のお君に取つては、本當の叔父に當る淺野屋惣吉は、入婿の勘十郎と仲が惡くて、義絶同樣になつて居るけれども、姉のお角が非業の死を遂げると、殘された妹のお君は、一應は相談もして見なければならなかつたのでせう。

「叔父さんは何んと言つた」

 八五郎は、わけを一と通り聽くと、もう一と息突つ込んで見る氣になりました。

「劍もほろゝでした、叔父さんの言ふには、『たつた一人の姉に死なれたお前は可哀想だけれど、稻葉屋いなばやへは足踏みし度くない、高利の金を貸して儲けた身上しんしやうに、目でもつけると思はれちや正直な商人の耻だ、今度勘十郎でも死んだら、その時は顏を出す』と斯うですもの、取りつくしまもありません」

 お君も口惜しさうでした、何んか非常に複雜な心持に惱まされてゐる樣子です。姉と違つてスラリと背が高く、小麥色の肌はあまり白粉も紅も知らないらしく、やゝブロークンな眼鼻立ちも、表情が流動的で、反つて美しさを強調して居ります。

 この娘の持つ魅力は、燃え上る精神力の美しさとでも言ふべきものでせうか。

「ところで、昨夜のことを、詳しく聽き度いが」

「何んにも申し上げることなんかありません、私は二疊の部屋で帶を解きかけて、姉が湯からあがるのを待つて居ると、いきなり氣味の惡いうなり聲でせう、續いて姉が流しに倒れる音でした、驚いて飛んで行つた時は、もうお仕舞ひで」

「何んか言はなかつたのか」

「言つたやうでした、でも、窓越しに突かれたのでは、殺された姉にも下手人がわからなかつたかも知れません、わかつて居れば、名前位は言へた筈です」

「苦しい──と言つた相ぢやないか」

「さう言つたかも知れません、私には、『口惜くやしい』と聽えましたが」

 苦しいと口惜しい、よく似た言葉ですが、意味は大變な違ひです。

「ひどく姉を怨んでる者は無かつたのか」

「そんなものはあるわけもありません」

「姉が死ねば、この身上はどうなるのだ」

「?」

 お君は默つてしまひました。

「外に氣のついたことは無いのか」

「裏木戸は閉つて居たし、お隣は永井樣のお屋敷でせう、表に自身番もあり、まだ宵のうちで、人の往き來も多かつた筈です、姉を殺した人は、何處から入つて、何處から逃げたんでせう」

「──」

「窓の外から突いた刀は、隨分長い筈です、お武家でも無ければ、そんな長いものは持つて歩けません」

「──」

「刀を何處かへ隱してはないでせうか」

 お君の言葉は、暗示に富んだものでしたが、八五郎はそれを、漫然と聽き逃してしまひました。

 殘るのは下男の九郎助、貸金も取立て、庭もくと言つた重寶な男ですが、昨夜はたしかに赤坂へ使ひに行つて居たとわかつて、これは疑ひから除外されました。

 一通りの調べが濟んで歸らうとすると、檢死に立會つた、同心長谷部彌三郎が、老巧らうかうの目明し、村雨むらさめてつをつれて、淺野屋をのぞきました。

「八五郎、下手人の見當はついたか」

 長谷部彌三郎は、まことに心得た仁體で、この事件を八五郎に任せるのは、甚だ覺束おぼつかないとは思ひ乍ら、あから樣にそれを言つて耻を掻かせるでもあるまいと言つた調子です。

「へエ、いろ〳〵調べては見ましたが、まだ、其處までは參りません」

「平次が留守だ相だが、確かりやるが宜い」

 長谷部彌三郎は、含みのあることを言つて歸りましたが、一緒に來た村雨の鐵は、

「八兄哥あにい曲者は主人勘十郎を狙つて、間違つて内儀を殺したさうぢやないか、主人を憎んでゐるのは、小網町の惣吉さ、三代傳はる稻葉屋の大身代を、何處の馬の骨ともわからぬ勘十郎に横取りされて、稻葉屋の先々代の弟に生れた惣吉は、小網町で小商こあきなひをして居るんだ、しやくにもさはるだらうぢやないか、俺は歸りに小網町に寄つて見て、少しでも怪しいことがあれば、淺野屋惣吉と伜の惣之助を縛つて行くよ、親子で口を併せさへすれば、何方が拔け出しても、胡麻化しがつくよ、頼むぜ、おい、八兄哥」

 そんな憎いことを言つて、同心長谷部彌三郎の後を、セカセカと追つて行く村雨の鐵です。



 それから七日、八日と日が經ちました、江戸の町はすつかり夏になりきつて、上方へ行つた錢形の平次からは、京へ着いたといふ手紙が來ましたが、御用を濟ませて大阪へしたよ、歸途かへりはお伊勢詣りもし度いからといふ文面では、まだ十日や二十日はかゝりさうです。

 稻葉屋の内儀殺しは、それつきりわからず、村雨の鐵が縛つた淺野屋の父子も、不在證明アリバイがはつきりして居るので、三日目には許されて歸り、いよ〳〵主人勘十郎を怨んでゐるといふ、昔同藩の浪人者、阿星源之丞を搜すより外には無くなりましたが、この大兵たいひやうで髯が濃くて、少しびつこだといふ人間は、何處へ潜つたか、それつきり姿も見せません。

 その間、八五郎とお君は、妙に氣が合つたものか、次第に親しさを加へて、お玉ヶ池の玉吉にからかはれるやうになりました。

「八兄哥の惚れつぽいにも驚くぜ」

 位ゐのことでは、もとより八五郎驚くわけもありません。

 稻葉屋の内儀が殺されてから九日目の晝下がりでした。内儀の妹のお君が、下男の九郎助に大きな荷物を背負はせて、向柳原へ、

「當分、私を置いて下さいな、八五郎親分」

 と、轉げ込んで來たにはきもをつぶしました。八五郎の叔母が居たら、さぞうるさい事になつたでせうが、幸か不幸か叔母はあれから明神下の平次の家へ留守番に行つて居り、お君の押掛け居候に、誰も文句の言ひ手はありません。

「どうしたえ、お君さん」

 八五郎はゾクゾクし乍らも、漸く正氣を取戻しました。お君は珍らしく薄化粧うすげしやうなどして、今日はまた非凡の美しさです。

「あら、そんなにびつくりすること無いわ、押掛け嫁ぢやない、押掛け居候なの、食い扶持位は出すわ」

 お君は九郎助の背負つて來た荷物を縁側から入れさせて、自分は入口からニジリ上がるのです。

「押しけ嫁なら俺の一存できめるが、押掛け居候ぢや、叔母さんに訊かなきや」

「何を言ふの八五郎親分、──私は日本中に居る場所が無くてやつて來たんぢやないの、泊り込んで惡かつたら、せめて荷物だけ預かつて下さらない? そして、どうしても我慢が出來なかつたら、夜でも夜中でも此處へ飛んで來るわ」

「我慢の出來ないことゝ言ふと?」

「姉の亭主──あの稻葉屋の勘十郎が、姉が死んで七日も經たないうちから、私へ變なことばかりするんだもの、氣味が惡くて、あの家に居られやしない」

「あの人が?」

 八五郎も膽をつぶしました。あの尤もらしい武家あがりの勘十郎が死んだ女房の妹に、初七日も經たぬうちからからみつくとは、あまりのことに口もきけません。

「九郎助も知つて居る、訊いて見て下さい、私は蛇に見込まれた蛙のやうに、すくんでばかり居なきやならない、ね、八五郎親分、後生だから私を此處へ置いて下さいな、八五郎親分なら大丈夫、私をどうもしやしないでせうね」

 お君は、朝夕どんなに冒涜的ぼうとくてきなことをされたか、大きな眼からは思ひつめた涙が溢れて居るではありませんか。

「そいつは弱つたぜ、お君さん、おめえの身内か、親類と言つた、力になつてくれる人は無いのか」

「三代も續けて高利の金貸しをやつて居ると、大抵の親類は足が遠くなりますよ、淺野屋だつてあの通り喧嘩別れだし」

 お君は本當にやるせない姿でした。

「斯うしようぢやないか、俺は御用が多い上に、朝夕明神下の錢形の親分のところへも顏を出さなきやならない、お君さんは此處を勝手に使つても構はないが、夜だけは矢の倉の稻葉屋に歸つて、下女のお直の部屋にでも泊めて貰つたらどうだ」

「有難う、八五郎親分、さうして下されば、毎日少しづつでも私の荷物を運び出して、稻葉屋と縁を切つて、出るときの用意をしませう、──この家の用心は大丈夫でせうね」

 向柳原の路地の奧の長屋、叔母は留守で八五郎は滅多に寄りつかないところへ、大事な荷物を運び込むことは、お君に取つても少しばかりの不安が無いでもありません。

「それは大丈夫だ、此邊は貧乏人ばかりだから空巣狙あきすねらひやコソ泥は目をつけないよ、それに近所の衆が見張つて下さるから、野良猫が一匹忍び込んでも長屋中の騷ぎだ、尤も、お君さんは綺麗過ぎるから、繁々出入したら、變に思ふ人があるかも知れない」

 八五郎も漸く冗談を言ふ氣持になりました。



 お君と八五郎のまゝ事は、それから二十日ばかり續きました。お君が稻葉屋から持出して來る荷物が、次第に多くなりますが、夜だけはさすがに遠慮して、稻葉屋に歸つて下女のお直の部屋へ入つて寢るので、向柳原の叔母の二階に、氣のきかない鼠のやうに留守番をして居る、八五郎の神經をおびやかすやうなことはありません。

 でも、明神下まで行つて、晝飯にありつくのが面倒臭い時など、丁度お君が向柳原へ來合せると、八五郎のために晝の仕度をしてくれて、貧しいご飯を並んでたべることも珍らしくはありませんでした。

 それが近所の人達の眼にも留まり、妙な噂も立てられましたが、八五郎は『何んとかの二人名が高し』と言つた線に踏留ふみとゞまつて、ほくそ笑んだり、頬つぺたをつねつたり、少しはお君をからかつて見たり、薄暗くなつてから歸るのを矢の倉まで送つたり、そんな嬉しいやうなやるせない日を送つて居るのでした。

 ところが、ある晩。

 夏の夜も漸く更けた、子刻ねのこく(十二時)少し過ぎ、向柳原の八五郎の家の表戸を、メチヤメチヤに叩く者があるのです。

「八五郎親分、大變、大變なことになりました」

「誰だえ、お前は」

 八五郎が二階から首を出すと、

「稻葉屋の九郎助ですよ、早く來て下さい、旦那樣が殺されました」

「何? あの腕自慢の勘十郎が?」

 八五郎は手早く仕度をすると、九郎助と一緒に矢の倉に飛びました。

 稻葉屋には、妹のお君と下女のお直が、主人勘十郎の無慙むざんな死骸を、遠くの方から眺めて、唯ウロウロするばかり、夜中不意の出來事でまだ近所の衆も顏を出して居りません。

 外は雨あがりの月夜。

 主人勘十郎が刺されて居る梯子段の下へ、一枚引いた雨戸の隙間から月の光が射して、悽慘な有樣を青白く照して居ります。

 主人の死骸は、その梯子段の下に轉がつて居り、叩き付けたやうに崩折れて居りました。背中に突つ立つた短刀は、さして長いものではありませんが、殆んど前へ突拔ける程深く入つて居るばかりでなく、不思議なことにその短刀はつかはゞきも取拂つた全く裸の刀身だけ、こんな持ち憎いものを、こんなに深く突き立てるのは、玄能で打ち込む外はありません。

「これは大變なことぢやないか」

 しかも死骸の着て居るのは、帶ひろどけた寢卷一枚だけ、武家あがりの勘十郎が、日頃の大言にも似氣無く、俎板まないたの上のうなぎのやうにやられるのは、あまりと言へば不思議なことです。

 騷ぎの最中に、お玉ヶ池の玉吉も、村雨の鐵も駈け付けました。が、殺しの奇怪さに、互に顏を見合せるばかり、全く見當もつかない有樣。

「見てくれ、俺はもうさじを投げたよ。十手捕繩を返上して、筮竹ぜいちくでも買つて來るとしようか」

 八五郎が投げたことを言つても、玉吉も村雨の鐵も冷かす氣力もありません。

「ところで、死骸を動かさなかつたのか」

 八五郎は漸く勇氣を取戻しました。血は梯子段の直ぐ下、板が反つて、隙間だらけになつた廊下に、夥しく流れて居りますが、死骸は其處から三尺ばかり風呂場の方に動かされて、俯向になつて居るのです。

「私はお直の部屋に泊つて、いつものやうに枕を並べて寢んで居りました──夜中に恐ろしい音がしたので眼をさまし、お直と一緒に、手燭を持つて來ると、梯子段の下に義兄にいさんが仰向けに倒れて居るので、介抱する積りで起してやりましたが、その時はもう正氣も無かつたんです」

 お君は僅かに勇氣を振りしぼつたらしく、八五郎の問に答へます。

「雨戸は、開いて居たんだね」

「其處の雨戸が少し開いて居ました、多分、曲者くせものは其處から入るか逃げるかしたんでせう」

「それにしちや、雨上りの庭に、足跡も無いが」

 村雨の鐵は雨戸の外へ首を出して、よく晴れた月の光に透して居ります。照降町てりふりちやうに住んで居るから、村雨の鐵といふ綽名あだなを持つて居る中年男で、名前ほど凄味のある岡つ引きではありません。

「足跡を殘さない曲者は、隨分あるものだよ、ひさしを渡つたり、ぬかるみへ張り板を敷いたり、繩でブランコをやつたり」

 今までに隨分そんなは見て來た八五郎ですが、此處の庭は思ひ外廣く、そのいづれの手段もいけないことまでは氣が付かない樣子です。

「それにしても、背中の傷は大變だぜ、短刀にしては傷口が無暗に大きく、その上人間業では出來さうも無いほどの深さだ」

 玉吉はそんな事にこだはつて居りますが、それ以上は一寸も先へ推理が動きさうも無かつたのです。

 下男の九郎助は、お勝手の外の物置に、一と間を拵へて泊つて居りますが、曲者が來たのも逃げたのも知らず、四十男の氣の拔けた頭では、證據になるやうなことは一つも掴んで居ないのです。

 それからの八五郎のみじめさは、まことに眼も當てられません。主人勘十郎を刺した短刀は、主人勘十郎自身のものとわかりましたが、こしらへがそつくり鞘と一緒に勘十郎の用箪笥ようだんすの中から出て來たので、誰が何んの目的で、柄もはゞきも外し、裸の刀身だけ持出して、主人自身の命を斷つたか、その經路や手段はまるつきりわからなかつたのです。

 折柄平次や八五郎に目をかけてくれる、與力筆頭笹野新三郎は、平次と一緒に上方へ行つて留守、この事件を背負つて立つた形の八五郎は、三輪みのわの萬七を始め、日頃平次の手柄を心よく思はない江戸の競爭者達から、どんなに笑はれさげすまれたことでせう。



 それから三日目の晩、不意に錢形平次が歸つて來たのです。

 旅先からの片便りで、平次自身も江戸のことばかり氣にして居りましたが、笹野新三郎の供では、勝手に歸ることもならず、漸く日程を濟ませて、前觸れもなく明神下の家へ歸つて見ると、

「親分、あつしはもう、明日といふ日には、十手捕繩を返上する氣で居ましたよ」

 いきなり八五郎が、泣き出しさうな聲を出すのでした。

「番太の株の安い賣物でもあつたのかえ、それにしても、顏を見るといきなり泣き言をいふやうぢや、お前といふ人間も頼母たのもしくないぜ」

 お早やうとも、御苦勞樣とも言はない八五郎を茶かし乍らも、平次の眼には深い思ひやりが燃えるのです。

「聽いて下さいよ、親分、矢の倉の稻葉屋の内儀が殺され、それから主人の勘十郎が、不思議な殺しに遭つたいきさつ、一と月も苦勞してゐるが、あつしには見當もつきませんよ、岡つ引仲間には笑はれるし、世間からは馬鹿にされるし、あつしはもう首でもくゝるか坊主になるか、江戸を逃げ出すか、外にはありませんよ」

「泣くなよ。八」

「その中で、蔭になり日向になり、あつしを慰めてくれたのはお君さんばつかり」

「よし〳〵そんなに氣に入つたら、お君さんと添はせる工夫もあるだらう、なに、そんな大それた望は起さねえ、──氣の小さい事を言ふな、俺も長い旅から歸つたばかりの今夜だ、せめて二三日は眼玉のとろける程寢て見度えが、お前に首をくゝられても困るから、これから直ぐ矢の倉へ出かけて行つて、トコトンまで調べて見よう、幸ひまだ誰も俺が歸つたとは知るめえ、來い八」

 錢形平次はそんな男でした。草鞋わらぢも脱がず旅のほこりも拂はず、女房のお靜が汲んでくれた跣足盥せんそくたらひの水を流し目に見て、兩掛け一つを投り出すと、もう八五郎を追つ立てるやうに、宵の街を矢の倉へ急ぐのでした。

 稻葉屋は、思はぬ時の、思はぬ人の訪問に、さすがに色めき立ちましたが、内儀の妹のお君と、下女のお直と、下男の九郎助だけで、夜中の俄かの調べにも、不服を言ふ人もありません。

「八、お君さんが、刀のことを言つた相だな」

「内儀さんの殺された時、そんな事を言つて居ましたよ、でも、刀は矢張り見付からなかつたやうで、縁の下も下水の中も、井戸の中も、石疊の下も、庇の裏も念入りに見た筈だが」

「まだ見落したところがあつた筈だよ」

 平次は手燭を借りると、一寸庭へ出ましたが、間もなく長目の刀を一口ひとふり血錆ちさびのまゝ持つて來たのでした。

「何處にあつたんです、それは?」

「太い竹の節を拔いた雨樋の中にあつたのさ、そんな事だらうと思つたが」

「誰の刀でせう、それは」

「多分、主人を刺した匕首あいくちと同じことで、外から持込んだものぢやあるまいよ」

「へエ」

「まだ、面白いことがある、内儀さんが殺された時と同じやうに、手燭てしよくをつけて風呂場に置き、お前は着物を着たまゝで構はないから流しに立つて居てくれ」

 平次の言ひ付け通りに運ぶと、八五郎を風呂場に立たせたまゝ、平次はグルリと廻つて外へ出ました。

「八、宜いか」

 平次は外から聲を掛けました。

「何が宜いんです、親分、あツ、頭を突いちやいけませんよ」

「窓の障子に映つた影法師の背中を突くとあかりが下にあるからお前の頭の上を突くことになるのさ」

「すると、どういふ事になるんです?」

「下手人は、前々から、窓にもたれるやうにして立つて身體を拭く内儀の癖を見て置いて、外から間違ひの無い見當をつけて障子越しに背中を刺したのだよ、主人を殺す積りで間違つて内儀を殺したのではなく、最初から内儀を狙つて念入りに考へた仕業だよ」

「すると」

「血刀は雨樋の中に隱し、庇を渡つて二階へ這ひ上つたことだらう」

「二階へ?」

「此方へ來て見るが宜い」

 平次は八五郎を二階に導きました。後からお君とお直と、九郎助がついて來たことは言ふ迄もありません。

 二階へ上ると平次は、窓格子を丁寧に調べて居りましたが、格子が全部わくに取付けて、釘で打ちつけてあるのも構はず、その釘を一本々々調べて行く内、果して三寸ほどの逞ましい釘が、見掛けに寄らず、二本までも苦もなく拔けて、窓格子がわけも無く外れるところのあるのを發見しました。

「釘は古いのを使つてあるから、一寸見た位では穴を大きくして自由に拔けるやうに仕掛けてあることに氣がつかなかつたのだ」

 平次の言葉の了らぬうちに、

「矢張り、あの人が、姉を殺したんですね、私も、さうと思つて居ました、確かな證據が一つも無いので、八五郎親分にも申し兼ねましたが」

 お君は後ろから口惜しさうに言ふのです。



 尚ほも平次は、二階から階下へ、めるやうに丁寧に調べた上、押入を開けたり、梯子段の下を覗いたり、暫らくねばつて居りましたが、やがて、八五郎を促し立てゝ、稻葉屋から引揚げ、明神下の自分の家へ歸つて、漸くくつろいだのは、もう夜半近い頃でした。

「腹も減つたが、兎も角も、無事に歸つたお祝ひに一杯やらかし乍ら、八に少し訊いて見たいことがあるよ」

「へエ、怖いやうですね、親分」

 生温いところを一杯、先づキユーツとやり乍ら、八五郎は訊き返しました。

「叔母さんも居ることだし、皆んなでよく考へてくれ」

「──」

「八はあのお君といふ娘に、餘つ程氣があるやうだが、あれ丈けは止した方が宜いぜ」

「どうして、あの娘はいけないんです、親分の前だが」

むきにならずに、落着いて聽いてくれ、なア、八、あの稻葉屋の勘十郎を殺したのは、外ならぬお君だとしたらどうだ」

「エツ、そんな馬鹿なことが──」

 八五郎は躍起となります。

「姉の敵を討つ積りでやつたことで、お君が手を下したわけぢやないが、勘十郎を殺す仕掛けは皆んなあののカラクリだよ」

「?」

「勘十郎は武家上りで、かなり腕も出來て居る、姉の敵とはわかつて居ても、お上に訴へ出る程の證據もなく、妹のお君には、かたきを討つ腕もない。そこで勘十郎に言ひ寄られる苦しさに、八五郎のところへ、自分の持物を運び出し、何時かは逃げ出さうとしたことだらうが、フト思ひ付いたのは、勘十郎をおびき出して、殺す工夫だ」

「──」

「あの娘は利巧りかうだから、その晩仕掛けをして置いて勘十郎を呼出した。勘十郎は約束した刻限に、氣もそゞろであの暗くて急な梯子段を降りたことだらう」

「──」

「よく見るとわかるが、あの梯子段の上から二つ目には、らふが引いてあつた、あとで念入りに拭いたことだらうが、まだ跡に蝋が殘つて居る、その蝋を引いた段の土に、もう一つ段一パイになる薄板を置き、その裏板にも蝋を引いて置いたのだ、薄板には長いひもをつけて、お勝手まで引つ張つてある」

「下女のお直は若くて丈夫で寢坊だから、お君が隣のお勝手に拔け出して、仕掛けの紐を引いたことには氣がつくまい。主人の勘十郎が梯子段の二段目を踏んだ時、力任せにその紐を引くと、あの圖體の主人は、不意に足を取られるから梯子の二段目からもんどり打つて十三段目の下まで落ちたことだらう」

「──」

「梯子の下の廊下の板には大きな隙間がある、あの邊へ柄もはばきも取り拂つた、裸かの短刀を、逆樣に立てゝ置いたら、どんなことになると思ふ、どんな達人だつて、間違ひもなく芋刺いもざしぢやないか、それを仕掛けたお君は、うまく行けば姉の敵を討ち、まかり間違へば、向柳原の八五郎のところへ逃げ込む氣だつたに違ひあるまい、──俺は梯子の二段目の蝋の跡で氣が付いたが、その上の動かない證據の、蝋を塗つた薄板は、紐だけ解いて、押入の奧か物置にでも突つ込んであるだらう。利巧なやうでもお君は、根が惡人でないから、自分の智惠の逞ましいのに己惚うぬぼれて、妙なところに手落ちのあるものだ」

「──」

 八五郎はあまりの事に口もきけず、乾いた唇を噛んで默りこくつて居ります。

「お君は良い娘だが利巧過ぎてお前の嫁には不向だよ、わかつたか八」

「へエ」

「尤も俺はお君を縛る氣はねえよ、安心するが宜い。──俺が縛らなきや、あとはお前の勝手だが、此處でお君を縛らないと、三輪の親分始め江戸中の岡つ引仲間から、馬鹿にされつ放しになるが、構はねえのか」

「構ひませんとも、親分」

 八五郎は昂然として、冷たくなつた酒をガブリと呑むと、泣き笑ひにクシヤ〳〵になつた顏を振り仰ぐのです。

        ×      ×      ×

 翌る日お君は向柳原の八五郎の家から、預かつて置いた荷物を皆んな矢の倉へ運ばせました。

「さよなら、八五郎親分、お世話になつたわねエ」

 と言つてニツコリした顏が、八五郎の濡れた眼の中にかすんで行きます。

 間もなく淺野屋の伜惣之助が、お君の婿になつて稻葉屋のあとを繼ぎ、八五郎には、お君の殘して行つた、さゝやかな小道具が一つ二つ殘つただけ、それを人知れずいつくしむ八五郎の姿を、素知らぬ顏をし乍ら、平次は默つて眺めて居りました。

底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年45日発行

初出:「面白倶樂部」

   1951(昭和26)年夏季増刊

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年1230日作成

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