錢形平次捕物控
槍と焔
野村胡堂
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「親分、良い陽氣ですね」
ガラツ八の八五郎が、鼻の頭から襟へかけての汗を、肩に掛けた手拭の端つこで拭きながら、枝折戸を足で開けて、ノツソリと日南に立ちはだかるのでした。
「陽氣の良いのはオレのせゐぢやないよ、頼むから少し退いてくれ。草花の芽が一パイに天道樣に温ためられてゐるんだ」
平次は縁側に並べた小鉢の前から、忌々しく八五郎を追ひやるのです。
「へツ、宜い氣なもんだ、結構な御用聞が、三文植木なんかに凝つて──」
「何んだと、八、何んか言つたやうだな」
「何、此方のことで、──良い陽氣で、江戸の町は一ぺんに花が咲いたやうですよ、少し外へ出て見ませんか。春ともなれば、斯う不思議に人間の雌が綺麗になる」
「何を言やがる、『春ともなれば』も氣障だが、『人間の雌』は聽き捨てにならねえ臺詞だ」
「全くその通りだから嬉しくなるでせう。人間の雄は暮も正月も大した變りは無いが、雌の方は、新造も年増も三割方綺麗になるから不思議ぢやありませんか。親分の三文植木だつて、花も咲くわけで──」
「呆れて物が言へねえよ、何時までも其處に突つ立つて、憎い口を叩いて居ると、頭から汲み置きの水をブツかけるよ」
「そいつは御免を蒙りませう。逆上のさがるのは有難いが、その代り一張羅は代無しだ、それより少し歩きませうよ、親分。甲羅を干し乍ら、新造を眺めたり、鰻の匂ひを嗅いだり、犬をからかつたり」
「いよ〳〵お前といふ人間は長生きをするやうに出來て居るよ、──ところで、何處へ俺を誘ひ出さうといふ魂膽なんだ」
平次はもう、八五郎の目論見を見拔いて居たのです。斯んな馬鹿なことを言ひ乍ら、兎角出不精になり勝の平次を誘ひ出して、繩張り外で叡智を働かせようといふのでせう。
「エライ、圖星ですよ、親分。新造も年増も、お天氣も鰻の匂ひも皆んな親分を誘ひ出す餌だ」
「俺とダボハゼと間違へてやがる」
「兎も角も出かけませうよ、良い陽氣で、新造で年増で、鰻でダボハゼでせう。こんな時家にばかり引つ込んで居ると、お尻に茸が生えて、女房が増長する──あツいけねえ、お靜姐さん默つてお勝手で聽いてるんですね、人が惡い」
「あれ、八さん」
お靜は驚いてお勝手から顏を出しました。存在をはつきりさして置かないと、この男は何を言ひ出すかわかりません。
「場所は本所相生町二丁目ですがね」
「其處に氣のきいた鰻屋でもあるのか」
「あれ、まだ鰻に取つつかれて居ますね。あつしの話は同じ長物でも、鰻ぢやなくて槍ですよ。九尺柄笹穗皆朱の槍、見事な道具でさ──それを場所もあらうに、雪隱へブツリと突つ立てた」
「氣味が惡いな、一體それは何んの話なんだ」
平次も少し本氣になりました。八五郎の話術は、ひどくとぼけて居る癖に、妙に人の注意を捕へる骨を知つて居たのです。
「石原の利助親分のところのお品さんが、先刻向柳原のあつしの家へ飛んで來て、相手は相生町の阿波屋だから、雪隱へ槍を突つ込まれて、ひどい怪我をしたのも放つて置けないし、さうかと言つて、親分の利助は足腰立たず、子分衆にも頼りになる者が無い、お願ひだから錢形の親分を引つ張つて來て下さい、イヤだと言つたら首つ玉へ繩でもつけて──」
「嘘だらう、お品さんはそんな荒つぽいことを言ふものか」
「首つ玉へ繩はあつしの作ですが、兎も角、親父の利助一生の大事だからと、あの氣性者のお品さんが、涙を浮べて頼んで行きましたよ。──相生町の阿波屋といふのは、御入府以來から竪川通りの大名主で、今では雜穀問屋だが、間違ひがあれば矢張りお上へ屆出なきやならないんですつてね」
石原利助は曾て平次と張合つた顏の古い御用聞でしたが、中氣になつて身體の自由がきかず、出戻りの娘お品が、二十五の年増盛りを、子分衆を引廻して十手捕繩を守り續け、娘御用聞とか何んとか言はれる、本所名物の一つにされてゐるのでした。
「お品さんはまた、何んだつて此處へ來て頼まないんだ」
「何んと言つても、親分と面と向つちや、頼み憎いんでせうよ。其處へ行くとあつしなんか人間が直だから、金を貸せと言へばハイ、情夫になつてくれと言へばハイ」
「馬鹿野郎、誰がお前にそんな事を頼むものか」
無駄を言ひ乍らも平次は、手輕に支度を調へて、柳原土手の白い蝶々を追ひ乍ら、兩國を渡つて相生町にかゝつたことは言ふまでもありません。
相生町二丁目の阿波屋榮之助の家といふのは、雜穀問屋には相違ありませんが、何百年續いた町名主で、何んとかいふ苗字まで許されて居り、竪川に臨んで、一町内を睥睨する宏大な構へでした。
「錢形の親分、待つてましたよ」
店先に迎へてくれたのは、利助の子分の多美治、三十前後の、利助の片腕と言はれた男です。後ろからそつと顏を出して居るのは、よく肥つた圓々とした中年男、
「御苦勞樣でございます。私は店の取締をして居ります、總吉と申すもので」
一番番頭の總吉、利に慧いのを看板にしてゐるやうな、非凡の愛嬌者でした。
他にもう一人、平次に目禮だけして、店の隅つこにコソコソと引込んだのは、若い手代の新吉で、神經質らしい二十歳位の男、斯んなのは思ひ詰めると、飛んでもない事もやり兼ねない人柄かもわかりません。
平次は番頭總吉の導くまゝ、奧へ〳〵と進みました。ひどく古めかしく、贅澤と儉素が背中合せに住んでゐるやうな家です。
縁側の盡きるところで、右手の障子を開けると、問題の主人の部屋、これは思ひの外明るい八疊で、主人榮之助は、繃帶だらけの半身を脱出すやうに、これも絹づくめの贅澤な夜の物に横になつて居ります。
「錢形の親分ですが」
「あ、御苦勞々々々」
番頭に取次がせて、主人榮之助は少しばかり顎をしやくりました。
「こちらは御新造樣で」
枕元に居る三十五六の女は、今氣が付いたといふやうに、あわてゝ身體を斜に引いて、
「ま、ま、飛んだお騷がせをして」
よく脂の乘つた、豊かな感じのする、美しい女、言ふまでもなく妾から成上つた二度目の内儀です。
その後ろから、そつとお辭儀をするのは、十五六の、それはほんの小娘で、内儀のお淺のつれ娘、お君といふのだと後で聞きました。母親に似ぬ華奢立ち、可愛らしくはあるが淋しさうです。
「飛んだ災難だつた相で」
平次は主人榮之助の裾の方から、床へ近く膝行り寄りました。
「自分の家の雪隱へも入れないやうぢや、私もやり切れない。どんなことをしても、此曲者を搜して下さい」
榮之助は取つて四十と聽きましたが、年よりは老けた青黒い男で、分別者らしい眼の鋭どさ、戰鬪力を思はせる四角な顎など、初對面の平次にも好い印象は與へませんが、斯んなのが所謂「苦み走つた」と言はれる、中年者の良い男の部類に入るのでせう。
「どんな樣子でした、前後のことを少し詳しく──」
「昨夜の戌刻半(九時)頃でしたよ。いつものことで、寢る前に雪隱へ入つて、いざ出ようといふ時、障子紙を貼つた荒い格子の外から、九尺柄の手槍でブツリとやられましたよ、もう少し左へ來ると、間違ひなく喉笛をやられるところ」
その時の不氣味さを思ひ出したか、榮之助は言ひかけて固唾を呑みました。
「槍は何處のものです」
「阿波屋の先々代から傳はる道具で、不斷は鞘をかけたまゝ、土藏の梁に掛けて置きますが」
「すると?」
「癪にさはるが、曲者は家の者ですよ」
「土藏の槍は何時から無くなつたか、氣が付きませんか」
「何しろ暗い土藏の中ですから、其處までは──」
眼が屆かなかつたのは當然でせう。
「家の方といふと、此外には?」
「下男の辨次と、下女のお信と、──二人共若いが、よく身許もわかつて居ります」
「外には」
「庭先の離屋に、私の養父の先代榮左衞門と、先の女房のお島が住んで居ります」
「?」
「それは、八年前からの中氣で、身動きも出來ない老人ですよ。下の世話までさせては、奉公人達へ氣の毒だし、祖先から傳はつた由緒ある家も汚し度くないと、今から丁度五年前、私共の留めるのも聽かず、自分から進んで離屋へ入りました」
「先の御内儀は?」
「お島と言つて家付の娘ですが、病氣があつて子供の出來る望みも無いと申して、自分から言ひ出して、今此處に居るお淺といふ妾を家に入れ、私の世話を一切任せて、自分は父親の介抱をするのだと、離屋へ一緒に入つてしまひました」
主人榮之助の説明は、一と通り筋は通りますが、其處に何やら不自然なものがあり相です。
「すると、御主人を怨んでるのは誰でせう」
「それがどうも心當りが無いのです。奉公人の手當は良い上にも良くしてあるし、父親と先の女房も私を怨む筋は無いし」
主人はそれ以上には物を考へ度くない樣子です。
もう一度番頭の總吉に案内されて、主人榮之助の刺されたといふ雪隱を見せて貰ひました。
これは床の間の後ろにある上便所ではなくて、奉公人以外の家中の者が使つて居る、納戸の後ろの便所で、中は廣々と大小二つに別れて居り、その間に二本燈心の行燈を掛けて、人間が立ち上がると、横手の壁に大きな影法師が映るやうになつて居ります。
外に面した方は荒い格子に紙を貼つて、僅かに寒い風を防いで居るだけ、その中程より少し下寄のところに、槍で突いた紙の破れがあつて、飛沫いた血が、赤黒くこびり附いて居るのも無氣味なことでした。
「此處へ主人が入つたことは、外からわかるかな」
平次はフトそんな疑を持つたのです。格子に紙が貼つてあるのですから、外に居る曲者には、誰が雪隱へ入つたか、一寸わかり憎い筈です。
「へエ、でも、主人は毎晩戌刻半頃、お休みの前に入ることにきまつて居ります。それに、入ると直ぐに大きな空咳をしますので、名乘をあげて居るやうなもので」
番頭の總吉はフト自分の言葉の可笑しさに苦笑して、唇を噛みました。
「この家に槍を使へる人は居ないのかな」
「いえ、町人のことですから、槍繰の方ばかりで、──尤も先代の主人榮左衞門樣は、苗字帶刀を許されて居る家の惣領だからといふので、子供の時一二年ヤツトウの稽古をさせられたさうですが」
「──」
「その先代の御主人樣は、中氣で足腰が立たないのですから、お話になりません」
「兎も角も、その御隱居──先代の御主人に一應逢ひ度いが」
「御案内いたしませう、此方へ──」
庭下駄を突つかけて、離屋までには五六間ありましたが、その間に物置の袖が出て居たり、生け垣が邪魔をしたり、なか〳〵の厄介な道です。
「主人が刺された時、大きな聲でも出したことだらうな」
「へエ、びつくりいたしました。私は店から、お信はお勝手から、あとは銘々の部屋から驅けつけましたが」
「元の主人は?」
「あのお身體で動けやしません。騷ぎの後で直ぐ離屋を覗きましたが、前の御新造のお島さんは留守で、有明の行燈を灯けつ放しのまゝ、御隱居の榮衞門樣は、向う向きに布團を被つて、スヤスヤと眠つてお出でのやうでした」
「あとの人達は?」
「銘々見張つて居たわけぢやございません。私は店に居りましたし、下女はお勝手に、御新造とお孃樣はそれ〴〵のお部屋に、新助は店の隣りに、辨次は夜遊びに出て居たやうで、翌る日の朝になつて、フラリと歸つて參りましたが」
そんな事を言ひ乍ら、三人は離屋の入口に立つて居りました。離屋と言つても、元は物置か何んかでせう。一と通り纒つては居りますが、木口も建具もひどく粗末で、これが阿波屋の隱居榮左衞門の老病を養ふ場所とは思へません。
離屋の障子を開けると、プンと匂ふのは、長患ひの病人特有のイヤな臭氣です。絹物には相違ないが、ひどく汚れた布團を引被つて、向うを向いた寢姿は、埃染みた禿頭です。
「御隱居樣、錢形の親分さんですが」
番頭の總吉がさう言ふと、
「あ、さうか、今日はひどく身體がだるくて、寢返りも打てないが──」
榮左衞門は如何にもおつくふさうです。
傍に介抱してゐるのは、一と掴みほどしかない四十二三の汚點だらけな女、恐らく長い間の病氣が、この女から若さと健康と、夫の愛とを奪ひ去つたのでせう。一と眼で癆症と見える蒼黒い皮膚や、頬のあたりの猩紅熱から來るらしい紅潮、皺枯れて彈力を失つた聲などは、寢てゐる中風病みの父榮左衞門よりも哀れな存在です。
「昨夜は松井町に縁付いて居る妹のところに子供が生れましたので、身動きの出來ない父親のことも心配でしたが、夕飯を濟ませてから、辨次の供で松井町に參り、たうとう泊つて參りましたが、今朝歸つて來ると斯んな騷ぎで──」
「それから辨次はどうしました」
「賭け事が好きですから、いづれ近所の賭場へでも入り込んだことでせう」
元の新造、お島の説明はこれで全部といつても宜いでせう、平次は追つかけていろ〳〵の事を訊ねましたが、何を訊いても埒があかず、
「何んか氣に入らないことか、腹の立つことは無いのかな──斯うして居て」
平次は番頭總吉の外した隙を見て、一寸お島の氣を引いて見ました。
「飛んでもない、私は毎日々々、阿彌陀樣にお禮を申上げて居ります。私共親子が、惡病に取つかれたのも、前世の宿業とでも申しませう、野山に骨を埋めても、少しも怨むところはございません。──それを、假にも親となり、配偶となつたればこそ、いやな顏もせず、何んの不自由もさせずに、斯う安穩に養つてくれます。──喃、お父さん」
お島は合掌し乍ら、そつと病床の父親を顧みました。床の中で、ボロ片れのやうに小さくなつて居た父親──榮左衞門は、向うを向いたまゝ、かすかにうなづいたやうでもありますが、それは平次にも確としたことは言へなかつたのです。
此上粘つたところで、何を聽き出せさうも無いとわかると、平次は八五郎を目顏で誘つて、土藏の前に居る總吉の方に歩みを移しました。
「その槍は?」
「物騷で叶ひませんから、元のところへ仕舞ひ込まうと思ひました。でも、親分にお目に掛けなきや」
總吉は血を拭いて清めた槍──九尺柄皆朱の笹穗の槍を、倉の戸の前で持扱かつて居ります。
「成程、結構な道具だが、久しく手を入れないと見えて、ひどい錆だ、これで突かれちや──」
「磔刑をされるやうなもので」
平次が憚かつて言はなかつたことを、八五郎はヌケヌケと言つて退けるほどの膽力がありました。
「ところで、親分さん、これは内證のことですが──」
番頭の總吉は、四方を見廻して、斯んなことを言ふのです。
「何んだえ、番頭さん」
「これはまだ、誰にも言はないことですが、この槍について、私は不思議なことを存じて居ります」
總吉は聲を潛めるのでした。
「不思議なことゝいふと何んだえ、まさかその槍が祟るとか何んとかいふ子供騙しのやうな話ぢやあるまいな」
「飛んでもない、そんな事を言つたところで、信用して下さる親分ぢや無いでせう」
「といふと?」
「この槍は十日も前から藏の中から持出して、物置の藁の蔭へ立てかけてありました」
總吉の調子は、物々しく小さくなります。
「誰がそんな事をしたんだ」
「私が言つたといふことは内證にして置いて下さい。──實は辨次の奴で」
「下男だつたな。槍を持出して、何をやつたんだ」
「物置の土臺下に、鼬が巣を作つて居る樣子で、時々親子の鼬がチヨロチヨロ顏を出すんで、折を狙つてそれを突くんだと言つて居ました。鼬は棒位で突つついたんぢや驚きませんから、旦那へ内證で、そつと眞槍を持ち出した樣子でした。尤も、鼬を槍で突かうなんて無理な量見で、何時まで經つても折が無いから、槍は物置の藁の蔭へ隱して置いたんでせう」
總吉の説明は委曲を盡しますが、それ丈け辨次に對して惡意を含んでゐる樣子です。
相生町の物置は藁の一と山を積んでゐるのは不思議なやうですが、その頃は本所も奧へ入ると田圃續きで、龜戸はまだ村であり、四つ目には村名主が頑張つて居た頃のことで、雜穀を扱ふ阿波屋が、物置に藁を積んで居たことに何の不思議もありません。
「この野郎ですよ、親分」
八五郎は一人の男の襟髮を掴んで引立てゝ來るのでした。
「痛え、痛え、ひどいことをするぢやありませんか、あつしは何んにも知りやしませんよ、親分」
八五郎に引立てられてバタバタやつて居るのは、三十前後の達者さうな男、むくつけき中にも、何んとなく小意氣なところがあつて、庭男や下男には勿體ないやうですが、これが、槍を持出したといふ、辨次といふ男でせう。
「手荒なことをするな、八」
「でも、この野郎が、藏から槍を持出したんでせう、鼬の代りに主人の喉笛を狙つただけで」
「違ひますよ。槍を持出したのはあつしだが、旦那を突いたのはあつしぢやありません」
「三兩や五兩の給金ぢや足りさうも無い面だぞ、野郎ツ」
八五郎はもう此男を下手人にきめて居る樣子です。
「槍はそつと持出したのか」
「なアに、皆んな知つて居ますよ、番頭さんだつて新助どんだつて、あつしが鼬と一と立ち廻りやるのを面白がつて見て居た位で。──第一、そんな錆槍なんか持出したつて、旦那は叱るものですか、嫌な顏をするのは、御先祖の幽靈に取付かれてゐらつしやる、御隱居さん位のもんで」
辨次は斯う言つて、偶像破壞者に共通した、太々しい表情を見せるのです。
「よし〳〵、下手人はその男ぢやあるまいよ、八」
「どうして、此男ぢやないんです、親分」
「辨次がその槍を持出したことは、家中の者が皆んな知つて居るといふぢやないか、雪隱の窓へ槍を突つ込むのも、その男のやりさうな事ぢやねえ」
「さうですよ、親分、あつしは隨分氣の短い方だが、雪隱で人を刺すなんて、そんな臭い事はやりやしません」
辨次は調子に乘つて勢がよくなります。
「お前の生れは何處だ」
「千住で」
「本所へ流れて來たのか」
「女道樂が過ぎて勘當になり、親類の者が口をきいて、此家へ預けられました。三年辛棒して下男を勤めたら、親父に詫をして、家へ歸してやる約束で──へエ、家は百姓で」
「なるほど、鼬には怨があつても、阿波屋榮之助には怨があり相もないな」
平次も苦笑ひしました。この男は雪隱の窓へ槍を突つ込むよりは、主人の寢首を掻く方を選びさうです。
平次は八五郎と一緒に、尚ほも總吉に案内させて、家の外廻りを一巡しました。石原の子分の多美治は、調べを平次に任せて、安心して店に頑張つて居ります。
家の外には、何んの變つたところも無く、戸締りも嚴重で、曲者の紛れ込んだ樣子もありません。夕方お島が出た後は、下女のお信が裏口を締めて居り、店から奧へかけては、主人の榮之助が、念入に見廻つたといふことです。
店構へは大きく廣く、裏には二た棟の土藏があり、部屋も二つ並んで居りますが、塀が高く、忍び返しが物々しく、外からは忍び込む工夫もありません。
その上、珍らしく春の天氣續きで、人間の足跡などは何處にも無く、唯ところ〴〵に、小さい深い穴が、棒でも立てたやうに、物置から母屋へ、縁側沿ひに雪隱の裏へと續いて居るのは不思議ですが、これも辨次が鼬退治で武勇を振つたときの、見得を切つた名殘と見られないこともないのです。
「おや〳〵、洗濯物を取落したのかな」
八五郎は物干竿の下のあたりに引摺つた、着物の跡を指摘しました。
「お信のやつがそゝつかしいからですよ」
總吉は答へました。さう思つて見ると、成程物置の裏の井戸端に、大きい盥に漬けたまゝ、泥の附いた、薄汚い布子のあるのを、平次はしやがみ込んで見て居ります。
斯んなことで、大した收獲もなく、もう一度主人榮之助に逢ひ、仇つぽい新造のお淺に送られて、相生町の通り、川岸つぷちを囘向院の方へたどりました。
「此邊に良い醫者は無いのかな」
平次は送つて來た多美治に訊ねました。
「一丁目の瀧先生は、橋向うまで名の通つた人ですが」
「それは良いあんべえだ」
平次は八五郎と多美治を外に待たせて、瀧宏庵先生に面會を求めました。
「何? 平次? 錢形の親分か、珍らしいな、どんな用事だ」
などと、氣さくな宏庵先生は、藥臭い書齋へ平次を招じます。十徳を着た白髯の老人で、醫者といふよりは、本草家か儒者見たいな感じのする人です。
「先生は、阿波屋の御隱居榮左衞門さんを御存じでせうな」
平次は單刀直入に問題を提出します。
「あ、知つてるとも、私の患者ぢや」
「あの御隱居は、本當に身動きも出來ないほどの病人でせうか」
「八年越しの中風だ、身動きもむつかしからうよ、尤も近頃あの容體に少し腑に落ちないことはあるが」
「と仰しやると」
平次は反問しました。
「中風の病人によくあることだが、あの御隱居は二度目の當り返しを恐れて、手足を動かさうとも起上らうともしない、相變らず死人のやうに寢たつきりだ」
今の言葉でいふ「高血壓恐怖症」です。この氣の弱さのために、幾人の老人が自分で自分の病氣を作つて居ることでせう。
「すると、あの御隱居は、動き出して、十間も歩いて、人を殺すやうなことはないでせうか」
「そんなことが出來れば、八年もの長い間、養子に辛く當られ乍ら、齒を喰ひしばつて寢て居ることはあるまいよ」
「有難うございました、それでよくわかりました。もう一つ、元の御内儀のお島さんの容體は?」
「あれも輕くない病人だ。そのためにあの通り乾し固められたやうに小さくなつてしまつたが、年を取つて居るし、體が固まつて居るから、無理さへしなければ一生保つだらう。──お島さんに人殺しは出來るかつて? 冗談ぢやない、あの人は阿彌陀樣のやうな人だ、飛んでもない」
宏庵先生は、ブルン〳〵と頑固らしく掌を振るのでした。
「サア、大變、親分」
八五郎の大變が飛込んで來たのは、その翌日の晝過ぎでした。
「何をあわてるんだ、節分の豆まきで、大變だと鬼は追つ拂つた筈ぢやないか」
「へエツ、その大變が又やつて來ましたよ。相生町の阿波屋の元の内儀、あの阿彌陀樣のやうだと言はれてゐるお島さんが、縛られて行きましたぜ」
「何んだと、誰が、そんなことをしたんだ、まさか石原の子分衆ぢやあるまいな」
平次はそればかり恐れて居た樣子です。
「三輪の萬七親分ですよ」
「フーム」
「業腹ぢやありませんか、相生町は石原の利助親分の息のかゝつたところで、錢形の親分だつて、頼まれでもしなきや乘出す場所ぢやありませんぜ」
「よし〳〵、放つて置け、御用聞や手先に繩張りがあるわけはねえ」
「でも、癪にさはるぢやありませんか。若し萬一、あのお島さんがどうかしたら、病氣の父親を誰が世話をします」
「成程そいつは厄介だな、あの隱居の世話をする人が無いのか」
「妾のお淺の連れ娘の何んとかいふのが、飛んだ心掛の良い娘で、最初のうちは世話をして來た相ですが、母親のお淺がやかましく言つて、離屋へやらないので、下女のお信に頼んで、見てやつて居るといふことです」
「お島さんの妹──隱居の二番目娘が、松井町に縁付いて居る筈ぢやないか」
「生憎お産をしたばかり」
「それは氣の毒なことだな、三輪の親分はまた、何んだつて元の内儀のお島さんを縛つたんだ」
「阿波屋の主人を殺すほど怨んで居る者は、家中には元の配偶のお島さんの外には無いといふのですよ」
「死ぬ程人を怨んでも、仇を返せない者もあるし、變な眼で見られたといふ丈けでも、相手を殺し度くなる人間もあるよ」
平次は覺つたことを言ふのです。
「ところが、あのお島さんには、疑はれるやうなことが、うんとありましたよ」
「どんなことだ」
「その晩、松井町の妹の家へ泊つた筈のお島さんが、宵のうちに、相生町へ引つ返して居ますよ」
「?」
「松井町の妹は、姉のお島はあの晩松井町の私の家へ泊つて、一と足も外へ出ないと言ひ張つて居ますが、困つたことに、松井町から相生町は、女の足でもそんなに遠いところではなし、それに──」
「それにどうした?」
「松井町の近所の衆が、お島さんが宵のうちに歸つて行つたのを、二人も三人も見て居ますよ。──因果なことに、一昨日の晩は月は良かつたでせう」
「フーム」
「三輪の親分は、鬼の首でも取つた氣で、松井町の奉公人を締め上げると、親身の妹の外は、一とたまりも無く、皆んなペラ〳〵としやべつてしまひましたよ。それによると、お島さんが、父親のことが心配になると言つて、宵のうちに一度歸つたのは本當ださうで」
「一度歸つた?」
「半刻もたゝないうちに、又松井町に戻つた相です。相生町の家の門は嚴重に締つて居るし、もう寢鎭まつて居るのを起すのも氣の毒だから、そのまゝ戻つて來たといつたとか」
「戻つたのを見た人もあるのか」
「そいつは誰も見なかつた相で」
「多分松井町へお島さんを送つて行つた、辨次はどうしたんだ」
「四つ目の賭場にもぐり込んで、すつてん〳〵に剥かれた上、足まで投げ出して、つまみ出されたのは夜があけてからで」
「成程」
平次は深々と考込んでしまひました。
「ね、親分、三輪の親分の鼻を明かせる工夫はないでせうか、あつしはあの親分が味噌をつけて、鬼が臍を擽ぐられるやうに、ニヤ〳〵照れかくしの苦笑ひをし乍ら、退散して行く顏が見たくて仕樣が無い」
「馬鹿野郎」
「へエ、何んか氣にさはつたんで? 親分」
「お前の言ふことは一々氣にさはるよ。──内儀のお島さんは放つちや置けねえが、三輪の親分の面當てに仕事をするのは俺は嫌だよ」
「へツ、鬼臍は氣に入りませんかね、それぢや、あの汚點だらけの蟲つ喰ひのお内儀さんを助けるとして」
「惡い口だなお前は、あれでも昔は本所小町とか何んとか言はれて、良い娘だつたといふぜ、女は惡い亭主を持つと、身體まで滅茶々々にされる」
「それを助けてやつて下さいよ、親分」
「お島さんを助けてやる位のことなら、何んでも無いぢやないか」
「それが、そのあつしの智慧ぢやうまく行かないんで」
「お係りは?」
「同心の久保山喜十郎樣」
「久保山樣ならよくおわかりになる、お前が行つて、斯う申上げるが宜い」
「へエ」
「あの晩阿波屋は店も裏口も、木戸も嚴重に締つて居て、外からは入れなかつた筈だ。主人は刺される前に戸締りを見廻つて居るから、これは間違ひないことだ」
「成程ね」
「元の内儀のお島さんは父親を案じて歸つて來ても、聲を掛けるのも戸を叩くのも遠慮して、そのまゝ松井町に戻つた筈だ。若い男なら塀を乘越す工夫があるかも知れないが、あの病身のお島さんぢやそれは出來ない」
「へエ、へエ、良い辯解ですね」
「まだあるよ。──槍で人を突くなどといふことは、心得のないものに出來ることでは無い。主人榮之助の傷を見てもわかるが、あの槍は捻つて突いてある、──素人はカツとなると、匕首か出羽庖丁位を振り舞はすのが精一杯で、九尺柄の槍を捻つて突くなどといふ、落付いた藝當は出來るものぢやない。もう一つ」
「まだあるんですか、親分」
「あの内儀は病身で萎びて、一と掴ほどしか無い、背の高さは精々四尺六七寸かな」
「そんなものでせうね」
「雪隱の窓の外から、槍を眞つ直ぐに突つ込んで居るが、踏臺も何んにも無かつたし、北向の柔かい土の上には、そんな跡も無かつた、どうしても五尺五六寸の人間が頭の上あたりでためて突いたのだ」
「もう澤山ですよ、親分、それ丈け言へば久保山喜十郎樣膽をつぶしますよ」
八五郎は手綱を切つた荒駒のやうに飛出すのです。
「調子に乘つて、三輪の親分に恥を掻かせちやならねえ、宜いか、八」
平次の聲はその後から追つかけます。
阿波屋の主人榮之助が、雪隱で襲はれてから七日目、元の内儀のお島は、松井町の妹のところへ、赤ん坊の七夜の祝ひに呼ばれて行きました。
病身のお島は、近いところではあるが、暗くなつてから歸るのは大儀だらうと、妹が氣をきかして泊めることになり、奧の一と間へ寢かしたのはまだ宵のうち。
その夜曉方近い丑刻半(三時)過ぎになつて、相生町の阿波屋では、今度は自火を出して、一瞬のうちに、母屋全部を綺麗に燒いてしまひ、主人榮之助、妾お淺が煙に卷かれて燒け死に、娘のお君は僅かに、命から〴〵誰かの手で、焔の中から救ひ出されました。
燒け跡の灰を掻いてゐると、その中から、もう一人の死骸が出て來ました。それが何んと、隱居の榮左衞門だつたことは、どんなに人々を驚かしたことでせう。
曉方になつて驅け付けた、元の内儀のお島は、暫らくは茫然として、氣拔けのやうな顏をして居りましたが、やがて父親の死骸に取りすがつて、身も浮くばかりに泣いたのは無理もないことです。
だが、併し、朝になつて驅けつけた三輪の萬七が、お神樂の清吉を松井町に走らせて、昨夜もお島が、夜半に拔け出したといふ證據をかき集め、意地になつて今夜もお島を火付け人殺しの曲者として縛つてしまつたのです。
八五郎の二度目の大變が、明神下の平次の家を驚かしたことは言ふまでもありません。
「待てよ、八、隱居の榮左衞門が、母屋に這ひ込んで、火に燒かれて死んで居たといふのに、娘のお島の火付けはをかしいぢやないか」
「そんな事はあつしにわかるものですか、兎も角も、三輪の親分が、お島さんを持つて行つたんですから、何んとかしてやつて下さいよ。夜中に拔け出したには違ひあるまいが、お島さんが松井町の妹の家を脱け出したのはまだ亥刻前(十時)で、火事は曉方近い丑刻半(三時)ですよ」
「わかつたよ、俺へ喰つてかゝつたところで、どうにもならないぢやないか。──その昨夜も松井町の妹の家を拔け出したお島さんは、松井町へ歸つたのは何時頃だえ」
「本人は一刻もかゝらなかつたと言つて居ますから、子刻前には松井町に戻つたことでせうが、歸る姿を誰も見た者が無いから、言ひわけが立ちませんよ」
「よし〳〵直ぐ行つて見よう。お掛りの久保山樣は、何處にいらつしやる?」
「兩國の番所に引場げた筈で」
「それぢや一と走り」
平次は又八五郎と一緒に飛出しました。
相生町の阿波屋の燒跡へ行つて見ると、まだブス〳〵燻つて居りますが、屋敷内が廣いのと、二た戸前の土藏と、隱居の離屋などが殘つて居るので、三人の燒死體を取敢へず隱居所に納め、近所の衆や親類の者が集まつて、しめやかに香などを炷いて居ります。
「あ、錢形の親分」
席を讓つて、コソコソ庭へ引揚げる人達の間を、平次は八五郎を從へて離屋に入りました。三つ並んだ死體は、此上もなく無慙な姿ですが、平次は不氣味さも構はず、恐ろしく念入りに調べて居ります。
「八、變だとは思はないか」
平次は顏を擧げました。
「何んです親分?」
「家中の者は皆んな無事なのに、達者な主人の榮之助と、妾のお淺だけが燒け死んだのは、どういふわけだ」
「へエ、煙に卷かれたんでせう」
「隱居の榮左衞門は、自分で火の中へ飛込んで死んだのかも知れないが──」
死骸は三人共燒け死んだに間違ひなく、一つの傷も無い上、鼻や口には、したゝかに灰が入つて居るのです。
もう一度燒け跡へ取つて返した平次は、濕つた材木を掻きわけて、念入に調べて居りましたが、
「八、矢張り仕掛はあつたのだ、これだよ」
八五郎を顧みて、燒け材木や灰の中から、半ば燒けて性を失つては居るが、明かに逞ましい細引や、手頃の麻繩と見られるのを、幾本も〳〵搜し出しました。
「何んです、それは親分?」
「主人と妾のお淺の寢て居る部屋の外は、縁側も廊下も一パイにこれが張り渡してあつたのだ、高いのも、低いのもあつたことだらう、部屋の入口のも、廊下の端のもあつたに違ひない」
「──」
「丑刻半といふ時刻に、火事と聞いて飛起きた主人と妾は、眠ぼけ眼でこれに足を取られて、手もなく轉げたことだらう、起き出して逃げると、前にも、その前にも罠があつた。二人は起きつ轉びつして居る内に、煙に卷かれて死んでしまつたのだ。どうかしたら、面喰つて方角がわからなくなつたかも知れず、曲物が物の蔭に隱れて、出口をさがす二人を、火の方へ突き飛ばしたかも知れない」
「誰ですそれは? お島ぢやないでせう」
八五郎は膽を潰しました。燒跡から麻繩を搜したのは、早く火消しの手が廻つて、燃え切らないうちに水を冠つたせゐでもありますが、それにしても平次の考へも非凡なら、曲者の智慧も容易ではありません。
平次は殘つて居る鳶の者や、奉公人達に訊ねて、昨夜──あの火事を發見した間際まで、店の戸も裏の木戸も、内から嚴重に閉つて居たことを確かめ、更に火事を拵へたのは、物置に積んであつた藁を持出して、奧の主人の寢室の前後に積んで火を放つたものとわかりました。その上平次は、隱居の住んで居た離室を調べて、
「わかつたよ、八」
思はず膝を叩くのです。
「何がわかつたんです、親分」
「離屋の入口の戸に、外から鍵が掛つて居たのだ、それを内から押してはじき飛ばして居るぢやないか」
「え?」
「南側の雨戸も、外から心張か何んかで締めて居たことだらう、あとは格子をはめた窓だ」
「?」
平次は奉公人達に確かめましたが、今朝見ると、離屋の南側の雨戸は、外から心張をかつて居たといふ、平次の推理に間違ひもありません。
「お島さんは、──此前雪隱へ槍を突つ込んで、養子の榮之助を殺さうとしたのは、中風で寢てゐる筈の父親の仕業と知つて、今夜も妹のところへ行くので、心配して外から離屋を閉めて行つたのだよ──父親の榮左衞門はそれと知つて、曉方になつて、鍵をおろされたまゝ、内から押してハジキ飛ばしたのだらう」
「すると下手人は?」
「二度とも、中風病みの隱居榮左衞門だよ、八年前から中風で寢込んだが、それを良いことにして、女房のお島──榮左衞門には掛け替への無い娘だ──それを放り出して妾を入れ、家をそつくり横領して、養父の榮左衞門を、物置のやうなところに放り込んでしまつた養子の榮之助が憎かつたのだ」
「──」
「隱居の榮左衞門はさぞ口惜しかつたことだらう、幸ひ中風の方は少しづつ良くなつて、近頃は物につかまるか這ふかして、少しづつは歩けるやうになつたが、榮左衞門は深い考へがあつて、それを誰にも知らせなかつた、尤も娘のお島は氣が付いて居たことだらう」
「へエ」
「辨次が槍を持出して物置に置くと、昔取つた杵柄で、それを杖にして雪隱の外に忍び寄り、頭の上に構へてズブリと突いた、──土の上に小さい穴のあつたのは槍を杖に突いて行つた爲だ」
「成程ね」
「娘のお島は、父親の心持を知つて、心配でたまらないから松井町から相生町に戻つて見たが、締りが嚴重で入れなかつた。──昨夜もそつとやつて來たが、二度目は時刻が早過ぎて何んの事もなく、安心して歸つたところへ、曉方になつて父親が仕事を始めた」
「──」
「身動きも出來ぬと見せかけた中風病みが、少し癒つては居ても、あれ丈の事をするのは大變な骨折だつたことだらうが、憎い口惜しいでやつてのけたに違ひあるまい」
「でも、親分、雪隱へ槍を突込まれた騷ぎの時、番頭の總吉は直ぐ離屋を覗いたが、御隱居は向う向きになつて、スヤ〳〵と眠つて居たと言ひましたよ」
「それは隱居の計略だよ、急に離屋へは戻れないと知つて居るから、座布團か何んか入れて布團を脹らませ、枕のところへ藥鑵でも置けば、總吉はあわてゝ居るから、隱居の寢姿だと思ふよ、さうして置いて、這ふやうにして歸れば宜いのだ。──翌日はお島が盥の中へ、泥のついた着物を浸けて置いたのは、前の晩父親が庭を這つた證據を隱すためさ」
「あ、成程」
「もう一つ、養ひ娘のお君を煙の中から助け出したのは、隱居の榮左衞門さ、その期に臨んでも、自分に親切にしてくれた、お君を殺す氣になれなかつたのだらう」
「それで何も彼もわかりました、一と走り兩國の番所へ飛んで行つて、お島さんを貰つて來ますよ」
「待ちなよ、八、向うから、久保山樣が此方へ來られたぢやないか」
× × ×
話は至つて簡單に埒があきました。お島を許して貰つて、改めてお君に引合せると、二人は大方の事情を察したものか、暫らくは手を取合つて泣いて居ります。
「これでうまく行くだらうよ、二人は仇同志のやうだが、腹の中では母娘のやうに親しいところがある、──阿波屋の燒跡へ草を生やしちやならねえ」
平次は久保山喜十郎に挨拶すると、後の事を石原の子分衆に頼んで、八五郎と一緒に明神下へ引揚げます。妙に淋しいやうな花やかなやうな、或日の春の夕暮でした。
底本:「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」同光社磯部書房
1953(昭和28)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1951(昭和26)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年2月20日作成
2017年3月4日修正
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