錢形平次捕物控
茶汲み四人娘
野村胡堂
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「親分、あつしは百まで生きるときめましたよ」
八五郎はまた、途方もない話を持ち込んで來るのです。江戸はもう眞夏、祭太鼓の遠音が聞えて、心太にも浴衣にも馴染んだ、六月の初めのある朝のことでした。
「きめなくつたつて、お前の人相なら、百二三十迄は生きるよ、──何んだつてまた、そんな慾張つたことを考へたんだ」
平次は讀みさしの物の本を、疊の上に屋形に置いて、さてと、煙草盆を引寄せました。からかひ乍らも、相手が欲しくて仕樣がない樣子です。
「この世の中には、良い女が多過ぎますよ、百まで生きてゐたつて、こいつは見厭はしないだらうと思ひますがね」
「妙なことを感じちやつたんだね、何處の國にまた、お前が死ぬのが嫌になるやうな女が居るんだ」
「兩國の美人不二屋ですよ、親分も人の話で聽いたことがあるでせう」
「あ、知つてるよ、綺麗なのが多勢居るんだつてね、兩國の水茶屋が、まるで吉原の張見世のやうだといふ話ぢやないか」
「噂に聽いただけで、親分はまだ見たことは無いでせう、十手冥利に、たまにはお詣りして置くものですよ」
「あれ、おれに意見をする氣かえ」
「意見もし度くなりますよ、あの店へ入ると、八方から美人照りがして、凡そ男の子なら皆カーツとなりますぜ」
「凡そと來たね、お前の學は、益々磨きがかゝるやうだ、第一美人照りなんて文句は、俺はまだ聽いたことも無い」
「騙されたと思つて、不二屋の暖簾をくゞつて御覽なさいよ、茶汲み女はお北にお瀧にお皆にお浪、揃ひも揃つて、後光が射すほどの綺麗首だ、その上お内儀のお留が大年増のくせに、斯う面長でツンとしてやけに綺麗だ」
八五郎は仕方話になるのです。
「その中のお職は誰だえ」
「お職も番新もありやしません。年上はお北の二十一、年下はお浪の十六で、お瀧の二十歳とお皆の十九が中軸、皆んなピカ〳〵して居ますよ、丸ぽちや瓜實顏、色の白いの、愛嬌のあるの、それから」
「眼の三つあるの、耳まで口の割けたの──は無いのか」
「交ぜつ返しちやいけません、──一度覗いて見ませうよ、姐さんには内證で」
「止さうよ、そんなピカ〳〵するのばかり見ちや虫の毒だ」
「實は、是非錢形の親分をつれて來るやうに──と、お内儀さんに拜まれたんですよ」
「なんだ、そんな事か、何時からお前は水茶屋の客引になつたんだ」
「客引ぢやありません。あんまり綺麗なのを揃へたせゐでせう、魔が差したんですね」
「魔が?」
「仲間の妬みか、振られ男の惡戯か知りませんが、一番年上──と言うても二十一といふ女盛りで、脂の乘り切つたお北が、昨夜、湯の歸り、柳原土手で髮を切られたとしたらどうです?」
「どうするものか、茶汲み女の色出入は、こちとらの知つたことぢやあるめえ」
「でも可哀想ぢやありませんか、二十一の女盛り、滅法綺麗なのを柳原土手の闇の中に押へ、濡れ手拭を口に押し込んで、女の命の髮の毛を、チヨキン〳〵とやらかすのはヒド過ぎやしませんか」
「鋏でやつたのか」
「多い毛ですから、一といきには切れませんよ、話の樣子では、お北は暫らく眼を廻して居たやうで、女入道にされたも知らずに、さぞイビキでもかいて居たことでせう」
「馬鹿だなア、醉拂ひぢやあるめえし、目を廻してイビキをかく奴があるものか、──で、曲者の見當でもついたのか」
「荒つぽい癖に、妙に柔かい手ざはりだつたと言ひますよ、いづれ惚れた奴かなんかの、涙乍らの仕業でせうよ、色出入となるとお門多いことだから、當のお北にも見當は付きやしません」
「面白さうだな」
「當人に取つちや、少しも面白かありませんよ、頭に手拭を卷いて、布團を被つて、氣が遠くなるほど泣いて居ますよ、──それよりも腹を立てたのはお内儀のお留で、大金で抱へた娘を、一と思ひに坊主にされちや、當分は店へも出せない、生揃ふまで飼つて置くと、大變な入費で、といやもう、當り散らしてばかり居るさうで」
「ところで、お前は誰に頼まれて、此處へやつて來たんだ」
「お内儀が口惜しがつて、あつしの胸倉を掴むし、お北は泣いて拜むぢやありませんか、勝氣のお内儀は──女の命と言はれる髮なんかチヨン切る野郎は、磔刑柱を背負はせるか、火焙りにでもしてやらなきや、虫が癒えねえといふ言ひ草だ」
「お前はそれを手輕に請け合つたのか」
「ドンと胸を叩きましたよ、綺麗なのに、泣かれたり口説かれたりした日にや、引込むわけに行きません」
江戸一番のフエミニストは、助六見たいな氣になつて居るのです。
「呆れた野郎だ、お北の親類筋を一つ〳〵洗つて見る氣か」
「飛んでもない、あつしは先づ江戸中の鬘屋を當つて見ますよ、ふくら脛まで屆くと言はれたお北自慢の生き毛を、唯捨てちや勿體ないから、いづれ金にしたことだらうと思ひますが」
八五郎は分別顏の顎を撫でました。
「お北に未練のある野郎なら、生き形見の積りで温めて居るよ」
「さうでせうか」
八五郎の百まで生き度い話は、この邊がお仕舞ひでした。錢形平次が御輿をあげて、髮切り詮索に女護の島へ行つてくれさうも無いとわかると、大して落膽した風もなく、ヒヨイとお辭儀をすると、もう彌造なんか拵へて鼻唄をそゝり乍ら歸つて行く八五郎です。
それから大分日が經ちました。八五郎もそれつきりお北の髮切りの話はせず、平次も忙しい御用に紛れてすつかり忘れてしまつた頃、
「親分、矢張りお北の毛を搜し當てましたよ」
八五郎は思ひも寄らぬ報告を持つて來たのです。
「何んだ、あの話か、切られた毛が見付かつたところで、元のお北の頭へ生やすわけにも行くめえ」
「仰せの通りですがね、暇にあかして、神田、下谷、淺草のかもじ屋を搜して歩くと、ツイ眼と鼻の岩井町に、お北の毛に違ひないかもじがありましたよ。少し青く見える位の眞つ黒な毛で、かもじ屋が切つた毛を持込まれて、買入れたのが丁度お北がひどい目に逢つた翌る日、そのかもじを借りて行つて、お北の毛と比べて見ると、確かに同じものぢやありませんか」
自分の豫想が當つたので、八五郎は悉く好い心持さうです。
「賣つた奴はすぐわかるだらう」
「逃げも隱れもしませんよ、新し橋の袂で右や左とやつて居る、物貰ひの申松」
「あのゐざりの乞食が、お北の色男だつたのか、いや、人は見掛けに寄らない──」
「御冗談で、申松は唯拾つただけ、お北坊の毛は、ざつと一ヶ所を束ねたまゝ、申松が毎日陣を布く橋の袂、ちよいと人目につかぬところに、捨てゝあつたといふから變ぢやありませんか」
「はてね?」
「及ばぬ戀男が相手なら、女の毛をモロに切つたのを、肌身につけて温めるに違ひないと、親分は言つたでせう」
「言つたよ」
「ところが、切つた毛は、橋の袂に捨てゝあつた、申松の野郎がそれを拾つてかもじ屋に賣つた──これは一體どういふことになりませう」
「わからないな、今考へてゐるところだ」
「すると、矢張り不二屋の商賣敵か、お北の人氣を妬んだ者の仕業ぢやありませんか」
「そんな事もあるだらうよ、ところで、お北はどうしてゐるんだ」
平次は話題を變へました。
「思ひの外の元氣ですよ、髮を切られた時は、二三日腐つて居ましたが、今更どうにもならないので、手拭を姐さん冠りにして店へ出ると、これが又大變な人氣を呼んで、兩國へ行つたほどの人は、皆んな不二屋を覗くから、まるで押すな〳〵の騷ぎですね」
「はてね」
「江戸つ子の物見高いにも驚くが、お北の人氣も大したものですね、色白でツンとしたお北が、白い手拭を姐さん冠りにして、赤い片襷でお茶を汲んでくれる圖なんてものは、お色氣がこぼれるやうで、全くたまりませんよ、──へツ」
「馬鹿野郎、涎を拭け」
「涎ぢやありませんよ、あんまり話に彈みがついて、こいつは汗なんで」
八五郎は平手でツルリと長んがい顎を撫でました。
「ところで、同じ茶汲女の中に、お北とひどく仲の惡いのは居ないのか」
「居ませんよ、皆んな仲好しで」
「綺麗過ぎるほどの女が、四人も五人も居るんだぜ、それが皆んな仲が好いといふのは、八五郎の前だが、神武以來の不思議だ」
「ところが、姉妹みたいに仲好しなんで、──姉妹だつて、たまには喧嘩もするでせうが、あの四人と來ちや全く變り種ですね」
「?」
「敗けず劣らず綺麗だから、さぞ互に張合ふことだらうと思ふと大違ひで、皆んな自分が一番綺麗だと思ひ込んでゐるし、同じやうに男の客からチヤホヤされるから、仲間喧嘩をする暇も無いことでせうよ。あれが籠の鳥の御殿女中か何んかだと、表向は『入らせられませう』か何んかで取濟まして居ても、はたにろくな男の切れ端も居ないから、互に牙を磨ぎ合つて、意地惡の限りをやることでせうが、茶屋娘といふものは、其處は思ひの外呑氣ですね」
「そんなものかな、女護が島のことゝなると俺には見當もつかないよ」
「尤も、不二屋にもたつた一人、念入りに見つともない女が居ますがね」
「誰だえ、それは」
「下女のお臍」
「お臍?」
「本名はお伊曾といふんだ相で、深川生れの交りつ氣の無い辰巳の娘ですが、四人の茶汲女が綺麗なせゐか、その不きりやうさといふものは、丸ぽちやには違えねえが、色が黒くて、鼻が天井を向いて、眉がへの字で、眼尻が下つて、おちよぼ口だが、小夜具の袖ほど唇が厚い、ゑくぼもあるにはあるが、拳固がモロに入るほどのでつかいゑくぼを考へて見て下さい、まア言つて見れば、お酉樣で賣れ殘つた、おかめの面に、煤で化粧をして、油で揚げたやうな」
「身體は」
「十八貫はあるでせうね、どしり〳〵と歩くと、門並棚の上の物が落ちる」
「嘘をつきやがれ」
「兎も角、大した女ですよ、それで年は十九、恥かし盛り、不二屋の住居は店のすぐ側の吉川町だから、家から物を運んだり、土竈の下を焚きつけたり、掃除をしたり、買物をしたり、あんな働き者は無いと、お内儀のお留は、眼を細くして喜んでゐますよ」
「他には」
「不二屋の亭主の岩吉は四十そこ〳〵、若い時分は腕の良い野師で、男つ振りが好いのでいろんな噂を拵へた相ですが、今ぢや年寄猫のやうに音なしくなつて、水茶屋の方は女房のお留に任せ、長い着物を着て、ブラ〳〵遊んで居ますよ。女房のお留は、良い年増のくせに、稼業のこととなると、恐ろしく達者で」
「お北に男はあつたのか」
「お北は張りに來る男も數ある中に、浪人本田劍之助とは、格別懇ろなやうで」
八五郎のこれ丈の説明からは、何んにも掴めません。尤も水茶屋の女が髮を切られたと言つたやうな、江戸の町に毎日起りつゝある、些やかな事件の前には、八五郎が騷ぐほど、平次が乘氣にならなかつたのも無理のないことでした。
それから三日ばかり經つと、事件は急ピツチに進展してしまひました。
「大變ツ」
八五郎がやつて來たのは、梅雨模樣の鬱陶しい日、掛け聲だけは大袈裟ですが、一向大變らしい樣子もなく、にじり上がつてお先煙草を五六服、
「何が大變だ、お北が髮を切られ序に、無常を觀じて尼寺にでも入つたのか」
「てへ、さう來ると手入らずに綺麗な比丘尼が出來るが、今度は一番若いお浪が、可哀想に髮を切られましたよ」
「又湯の歸りか」
「お北が髮を切られてからは、お内儀が物騷がつて娘達を一人ぢや町内の湯屋にもやりません。今度は一人殘つて薄暗いところで店仕舞をして居るのを、後ろから忍び寄つて首を締め、氣を喪つたところで髮をチヨキン〳〵とやつたやうで、──氣の付いた時は店は眞つ暗で、髮をちよん切られて居たから、お浪坊暫らくは手放しで泣いたといふことですよ、續け樣に若い女の子の毛なんか切つて、殺生な曲者ぢやありませんか」
八五郎はまさに忿懣やる方なき姿でした。
「そいつは當人の身になつたら、さぞ口惜しいことだらうが、俺はまだ外の用事で手が離せねえ、丁度手頃な仕事だから、お前一人の手で、髮切り野郎を擧げ、美人不二屋の娘達に、存分に有難がれる氣を起しちやどうだ」
「へツ、それも滿更ぢやありませんね」
八五郎は本當に滿更でもない樣子でした。だが、この水茶屋の一些事が、江戸中の評判になる程の騷ぎにならうとは、思ひも寄りません。
「親分、いよ〳〵本當の大變になりましたぜ」
三度目に八五郎がやつて來たのは、それから二日目、少し眼の色が變つて居ります。
「何んだ、又髮切りでもあつたのか」
「口惜しいが、當りましたよ、今度はお北の妹分お瀧がやられましたよ」
「湯屋か店仕舞か」
「男に呼出されて、土手へフラ〳〵と出かけたところを、お浪のやられた術で首を絞められ、目を廻して居るうちに、鋏で毛を切られてしまひました」
「男といふのは誰だ」
「お藏前喜次郎、札差の若い衆で、人間はだらしが無いが、ちよいと良い男ですよ。尤も昨夜喜次郎は江戸に居なかつたことは確かで、札旦那の用事で二三日前から用人と一緒に千葉の知行所に出かけ、まだ歸つて來ません」
「すると誰か喜次郎とお瀧の間を知つて居る者が、お瀧を誘ひ出したのか」
「二人の仲の合圖を、店中で知らない者はありません。それをやられると、此間からの騷ぎで、夜は一人で外へ出ないことにしてゐるのが、ツイ夢中になつて、逢引の場所に飛出したのでせう。坊主にされてからぢや、泣いても悔んでも追付きませんよ」
「髮切り騷ぎへ俺が飛出しちや〳〵あわてたやうで見つともない、何んか含みがあり相で氣になるが、もう少し樣子を見てくれ」
「へエ、そんなものですかね」
八五郎は甚だ不服さうですが、平次が自重して動かないので、どうすることも出來ません。
「ところで、水茶屋の方は繁昌して居るのか」
「美い女が三人坊主にされたんだから、江戸中の評判ですよ、毎日お客が押すな〳〵で」
「呆れた物好きだな、主人夫婦はどうしてゐるんだ」
「商賣には飛んだ仕合せだが、世間體が惡いので腐つて居ますよ。尤も亭主の岩吉は名前は頑固だが飛んだ色師で、店中の娘と門並變な噂を立てられたりしますが、お茶汲みを皆んな坊主にされちや困るでせう」
「お内儀は?」
「良い年増だが、身體が弱いので、近頃は氣疲れのせゐか、店へも滅多に顏を出さずに、家に寢て居る時の方が多い相です」
「切つた毛は、二人目から後は見付からないのか」
「それが不思議なんで、かもじ屋にも、橋の袂にもありませんよ」
平次は默つて考込んでしまひました。その腰の重さうなのを見ると、八五郎も諦らめて歸つて行く外はありません。
それから又二三日、江戸の町も本格的の夏になつて、六月の日射しが、朝からジリ〳〵照りつける中を、八五郎の「大變」が汗と埃の渦を卷いて飛んで來たのです。
「何んだ、八、四人目の比丘尼が出來たのか」
平次も少しあわてました。多寡が髮切りだから、八五郎の手柄にさせようと、横着をきめて居ると、どうも御注進の樣子は、唯事では無さゝうです。
「そんなことぢやありませんよ、今度といふ今度は、親分が乘り出して下さらなきや」
「何がどうしたんだ」
「無事に殘つて居たお皆が、不二屋の店先に、絞め殺されて、髮の毛を輪にしてブラ下げられて居るのを、朝の買ひ出しの者が見付けて、大變な騷ぎになりましたよ」
「よしツ、行つて見よう、そいつはお前に任せちや置けない」
平次はいよ〳〵飛出す氣になつたのも當然でした。三人の娘を坊主にした上、最後の一人を、殺してブラ下げるといふのは、いかにも執拗で無恥で横着です。
明神下を出たのは卯刻半そこ〳〵、新し橋に行つたのは、辰刻(八時)でしたが、橋の袂には、もう、ゐざりの申松が、筵の上に陣を敷いて、右や左のをやつて居ります。
それを見ると、平次はフト足を淀ませました。
「おい、大層精が出るぢやないか」
「へエ、へエ、有難うございます、お蔭で助かります」
申松はピヨコ〳〵と職業的なお辭儀をしました。まだ四十そこ〳〵でせうが、陽に焦けて眞つ黒な顏は、思ひの外目鼻立も惡くはなく、額には人の目につく赤い痣があり、虫喰ひ頭は藁しべで結ひ上げて、朝のせゐかひどくは土埃も被つては居りません、身扮も乞食にしては見られる方、右足を昆布卷にして、身近には二本の杖を置き、空つぽの飯桶の前に這摺り廻りさへしなければ、橋の袂の住人とは思へない男です。
「今朝は妙に人出が多いので、土手の下で朝寢をして居ては、商賣冥利が盡きます、へエ」
「商賣冥利は宜いな、ところで、不二屋の騷ぎはお前も聽いたことだらう、何んか變つたこと、氣のついたことは無かつたか」
「別に氣のついたことも御座いませんが」
「最初の髮の毛は、お前が拾つた相ぢやないか」
「へエ、橋の袂の草の中に落ちてゐるのを、翌る朝拾ひました、不二屋のお北さんのと知つたら、そつと温めて置くんでしたが、惜しいことをしましたよ」
「つまらねえことを言やがる、──ところで、お前は、不二屋の四人のお茶汲みのうち、誰が一番綺麗だと思ふ」
平次は呑氣な問答を始めました。その不二屋へ、お皆殺しの調べに行かうといふ矢先、新し橋で乞食との問答は少しのんびりし過ぎます。
「みんな綺麗ですが、そのうちでも綺麗なのは、最初に髮を切られたお北さんと、昨夜殺されたといふ、お皆さんでせうね、尤も私は、それよりも、年は取つて居るが、お内儀のお留さんの方が綺麗だと思ひますが、へエ」
「その五人の女が、此邊で逢引でもするんだらう、お瀧は現に、此土手で髮を切られて居るが」
「よく見掛けますよ、尤も、土手で逢引するのは、お北さんと本田とかいふ浪人者、それから喜次郎さんとお瀧さん位のものですが」
土手の住人は思ひの外いろ〳〵の事を知つて居さうです。尤も土手を逢引の場所にして居る戀人達も、乞食が土手下の蒲鉾小屋から見張つて居るとは氣が付かず、此處に重大な盲點があつたわけです。
「それぢや、お北とお瀧が髮を切られたのを、お前は知つて居る筈ぢや無いか。お瀧の時は暗かつたかも知れないが、お北のやられた時は、お月樣がよかつた筈だぜ」
「へエ、さう仰しやられると、見たやうな氣もいたしますが」
「誰だえ、それは」
「──」
「男か、女か」
「私が顏を出すと、バタ〳〵と逃げてしまひました。何んでも、若い女のやうに思ひましたが」
ゐざりの申松は、思ひも寄らぬ事を言ふのです。が、それ以上はもう引出せさうもありません。其處を離れると平次は、
「八、忘れないうちに言つて置くが、お前は不二屋の茶汲女四人と、お内儀のお留と、下女のお伊曾の身許親許、男出入、殘らず洗つてくれ、下つ引を五六人狩り出してやるんだ。それからお前は、三人の女が髮を切られた晩と、お皆の殺された昨夜の、人の動きを念入に調べるのだ。油斷があつちやならねえよ。ゐざりの申松は、曲者は若い女だといふが、あまり當てにしない方が宜い。男姿になる女もあり、女姿に化ける男もある」
「へエ?」
そんな事を言ひ乍ら、土地の下つ引が、町役人と一緒に堅めて居る、不二屋の店へ入つて行きました。
殺されたお皆は、店先から取おろして、磨き拔いた釜の前──土竈の側に寢かされたまゝにしてありました。十九といふにしては、やゝ柄の大きい、豊滿な感じのする美女で、これが半裸體の姿に剥かれ、多い毛を稚兒髷のやうな輸にして、店先の大釘にブラ下げられた不氣味さは、想像に餘りあります。
噂は早くも八方に擴がつたらしく、店先は野次馬の黒山、追つても叱つても、脅かしても容易に散らず、お仕舞には、手桶を持出して、水をブツかける騷ぎでした。
見付けたのは、八百屋の若い者で、車を曳いて三河町へ行く途中、不二屋の店先にブラ下がつて居る、美人の取亂した死骸を見て、膽をつぶした話を、
「いやもう、驚いたの驚かねえの──」
と繰り返して居ります。
主人の岩吉は、店の奧から恐る〳〵顏を出しました。四十といふにしては若く、何んとなく強かな感じのする男ですが、噂の通り良い男で、何處か慇懃無禮なところがあります。若い頃いろいろの稼業に揉まれて、調子が柔かい癖に、腹の中で人を見くびるところがあるからでせう。
「お騷がせをしまして、相濟みません。私もこんな事が續いては、商賣にもさはりますので、閉口して居りますが」
などと、如才はありません。その後ろから、青い顏を出したのは、女房のお留でせう、確り者といふ話は聽いて居りますが、女のやり手によくある、ヒステリツクな感じの女で、あまり好ましくはありませんが、申松が言ふ通り、拔群の美しい年増、美人不二屋の主婦らしい貫祿は充分です。尤もお皆の死骸を見てひどく脅えたらしく、夫の背後にかくれて、言葉少なに應待するだけです。
「四人の女共は二階に一緒に休んで居ります。八疊一間ですから、誰が夜中に出たかもよくわかります。昨夜もお皆の外の三人は部屋に揃つて居た相です。夜中にお皆が小用に起きたやうで、雨戸を開けて手でも洗つたのでせう、それつきり二階へは歸らなかつたと言ひます」
「お前達夫婦は?」
「階下の六疊に休んで居りました。──何處へも出る筈はございません」
「外には?」
「下女のお伊曾が、お勝手の側の三疊に寢て居りますが、これは今朝まで何んにも知らなかつた相で」
これ丈けの話からは、何んの手掛りも引出せないのです。
店に續いて住居の方へ行つて見ると、お皆を除く三人の茶汲み女、──お北、お瀧、お浪は、青い顏をして、何やらヒソヒソと話して居りました。三人共白い手拭で頭を包んで居る樣子が、フト平次の笑ひを誘ひますが、苦い顏をして、僅かにコミ上げて來る笑ひを噛みしめます。
「フウ、馬鹿に色つぽいぜ、三人揃つて手拭を冠つた樣子は」
後ろから遠慮もなく張上げる八五郎を、平次は、
「默つて居ろ、馬鹿野郎。若い娘が髮を切られたんだ、面白がつちや濟むまいぜ」
「へエ」
平次はたしなめて置いて續けるのです。
「昨夜は三人共揃つて居たと言つたね。お瀧とお浪とお北が髮を切られた晩も、間違ひもなく、あとの三人は揃つて居たのか」
「それは間違ひもありません。お北さんが髮を切られた晩は、あとの三人は一足遲れてお湯から出て、一緒に歸つたし」
お瀧はそれに應へました。續いてお浪が店で髮を切られた時は、あとの三人は住居の方で一緒に晩の御飯を喰べて居たし、お瀧のやられた時は、あとの三人は「あれ、お瀧さんは又誘ひ出されるのかえ」と噂し乍ら、二階で寢て居たといふのです。
「昨夜は?」
「それも間違ひはありません。お皆さんが小用に行つたのは知つて居ますが、皆んな若くて眠いんですもの、歸つて來ないのを氣にもせずに、朝まで寢込んでしまひました。朝になつても、店の方で騷ぎが始まるまで、誰もお皆さんのことなんか忘れて居たんですもの」
これはお北の説明です。斯う話し乍らよく見ると、美人不二屋の四人の評判娘は、全く粒も揃つて居り、一と通り綺麗とも言へるでせうが、最初に髮を切られたお北と、殺されたお皆の外には大したことは無く、職業的な媚と、紅白粉で胡麻化した美しさで、平次には寧ろ嫌惡を感じさせる方が多かつたのです。
その問答が濟むと、家の中をザツと見せて貰つて、最後に下女のお伊曾に逢つて見ました。お勝手の側の汚い三疊で、其處で木綿物の清らかなのを着たお伊曾に逢つた時、平次はこの醜い女から、異樣な美しいものを見て取つたのです。
四人の茶汲女は、美しくはあつたでせうが、少し邪惡で淫蕩的で、人殺しの騷ぎの後で、朝の化粧をする暇もないところを見ると、寧ろ不潔でさへありましたが、この醜いので評判のお伊曾には、その汚ならしさや、淫らなところが毛程もなく、醜い乍らも、清潔に整つて居るのでした。
四人の茶汲み女のうち、生き殘つた三人は、起きぬけの姿を見ると、脂臭く汗臭く白粉臭く、川柳の所謂青大將の匂ひのする、切見世の女のやうな感じですが、薄暗い三疊に居る下女のお伊曾は、新しい單衣の紺の匂ひと、健康な處女の持つ、香はしい雰圍氣しか感じさせないのです。
下つた眼尻、天井を向いた鼻、セピア色の皮膚、厚い唇、よく肥つた頬などから、平次は娘の健康と魅力を、可愛らしさをさへ見て取つて、何んか異樣な氣持になります。
「私は何んにも存じません。でも、髮を切つたのも、お皆さんを殺したのも、お茶汲さん達でないことは確かです。あんな明けつ放しで、あんなに仲が良いんですもの」
お伊曾から聽出せるのはこれが全部です。
「親分、變なことになりました」
八五郎が明神下へその「變な事」を持つて來たのは、翌る日の夕刻でした。東兩國の不二屋に起つた事件、三人の娘の毛を切つて、お皆を殺した下手人はまだわからず、散々調べ盡した上、平次は一應引揚げて、この後のやり方を考へて居るところでした。
「何が變なんだ、もう髮を切る相手もあるめえ、それとも下女のお伊曾でもやられたのか」
「そのお伊曾が縛られましたよ」
「何?」
「お神樂の清吉の野郎が、三人の茶汲み女の髮を切つたり、一番綺麗なお皆を殺したのは、見つともないお伊曾の妬み心に違ひないといふんです」
「そんな馬鹿なことが」
「でも、あの家で、人に知られず、夜中にソツと拔け出せるのは、お勝手の側の三疊に一人で寢て居る、お伊曾の外には無い筈だといふんです」
「一應理窟はあるが、そんな馬鹿な事があるものか。お伊曾は見つとも無い女だが、飛んだ心掛けの良い娘だよ。それほどの惡事を企らむなら、何んとか自分に疑の出來ない細工をする筈だ。お北が髮を切られてから、お皆が殺されるまでには一ヶ月も日が經つて居るんだぜ」
「へエ、そんなものですかね」
「きりやうさへ惡くなきや、俺はあの娘をお前の嫁に世話しようと思つて居た位だ」
「へエ、そいつは早手廻しだ。いづれ親類會議でも開いてからお返事するとしませうよ」
「何を言やがる。向柳原の叔母さんの外には、身寄も親類も無いぢやないか」
「兎も角、もう少し待つて下さいよ。──ところで、あの新し橋の物貰ひの申松が、何んか大事なことを知つて居るらしいんです。散々持つて廻つた末、明日の朝、間違ひもなく話してくれることになつて居るんですが」
「明日の朝は氣になるぢやないか。何んだつて、今日直ぐ話させなかつたんだ」
「あの乞食は喰へないから、今晩一と晩伏せて置いて、強請か何んかの種にする氣ぢやありませんか。あのゐざりだつて、細工物にきまつて居ますよ。夕立が降ると、杖を擔いで驅け出す口で、近所の者は皆さう言つて居ますよ。あの左の足の昆布卷を解いたら、思ひの外の丈夫なあんよが出るに違ひない、──と」
「兎も角も氣になるよ。行つて見ようか、八」
その時はもう暗くなりかけて居りました。が、平次は何を考へたか、少しの躊躇もなく新し橋に向つたのです。
が、ゐざりの申松は、何處へ行つたか姿もなく、土手下の形ばかりの蒲鉾小屋にも、夕方から戻つた樣子はありません。
「だが、八、良い序だ。一應此處を調べて行かうぢやないか」
平次は用意して來た提灯に灯を入れると、申松の蒲鉾小屋の屋搜しを始めました。
「へツ、結構な仕事ぢやありませんね。あつしも乞食の家の屋搜しをしようとは思ひませんでしたよ。死んだ親父が知つたら、さぞ涙を流すことでせう」
「何をつまらねえ、お菰と言つても、お前や俺よりは、ぐつと工面が宜いぜ。ボロがやけに重いと思つたら、中には金が隱してあるぢやないか」
「へエ、太え野郎ですね」
「なに、眼の色を變へるほどの金ぢやねえよ。チユウ〳〵タコカイと勘定して、三貫と二百四十文さ」
「おや、鋏がありますよ、親分」
「どれ、──大きい鋏だ。これなら娘の毛位樂に切れるぜ」
「シツ、人が來たやうで」
「灯を消せ」
二人は灯を吹き消して、草叢に息を殺しました。
と、大した用心をする樣子もなく、ノソリとやつて來た大男。
「御用だツ」
八五郎が飛付いて、土手の上にねぢ伏せるのと、平次が早附木に火を移して、提灯に灯を入れるのと一緒でした。
「あ、お前は申松」
組み伏せられたのは、まさにゐざりの申松の、泣き出しさうな顏だつたのです。
「どうするんです、親分。私は何も縛られるやうな事をした覺えはありません」
「何を言やがる。ゐざりで通つて居るお前が、二本の足で達者に歩いてゐるぢやないか」
八五郎は襟髮を掴んで二つ三つ小突きました。
「あ、痛え、あれは渡世ですよ、痛え」
「渡世が大事なら、足を二三本折つて、眞物のゐざりにしてやらうか」
「親分、勘辨して下さいよ。私は──」
「ところが、この鋏の因縁を聽かなきや、勘辨出來ないことになつたんだ」
平次は蒲鉾小屋から見付けた、大きな鋏を、申松の鼻の先に突きつけました。
「あ、それですかえ、それなら何んでもありやしません。お北さんが髮を切られた時、其處へ落ちて居たのを拾つただけで」
「その髮を切つたのはお前だらう」
「飛んでもない、私は切つた毛を見付けて賣つただけで」
「では、切つた人間を知つて居るに違ひない。それを言はなきや──」
平次が決然として立ち上がると、申松は苦もなく、
「申しますよ、皆んな申上げてしまひます。──實はお北さんの髮を切つたのは、若い女と申上げたのは嘘で、本當は大の男、それも思ひも寄らない人間で」
「それは誰だ」
「不二屋の亭主、お北さんの主人の岩吉親分でございますよ」
「本當か」
平次は念を押しました。
「現に今晩も、不二屋の家へ行つて、岩吉親分を呼出し、わけを言つて、二兩の口留料を貰つて來たばかりで──この通り」
「この野郎」
癪にはさはりますが、話の眞實性は疑ひやうもありません。申松は懷中から二兩の小判を出して見せるのです。
「八」
「合點」
二人は不二屋へ飛んだことは言ふ迄もありません。
不二屋の亭主岩吉は、其晩のうちに擧げられましたが、お北の髮を切つたのは、自分の仕業に違ひないが、あとは知らない、──お浪とお瀧の髮を切つたのも、お皆を殺したのも、自分ではないと言ひ張るのです。
水茶屋の主人が、看板にして居る雇女の髮を切るといふのは、隨分馬鹿氣た話ですが、女房に内證でお北を口説き落し、内々脂下つて居るところを、横合から浪人者本田劍之助に奪られ、内證事で表沙汰にもならず、さうかと言つて大金のかゝつた雇女を追ひ出す氣にもなれず、生え揃ふまで思ひ知らせてやらうと、女房にも隱して鋏を持出し、お湯の歸りのお北を襲つて髮を切つたといふのです。
お浪、お瀧の髮を切つた時も、お皆が殺された時も、女房のお留が側に居たことがわかつて、岩吉の言ひ分は兎も角も通りました。そして、お神樂の清吉の縛つた下女のお伊曾が許されて間もなく、散々叱られた上、家へ歸されたのは、平次に取つては珍らしい見込違ひだつたのです。
「この上は、どういふ事になりませう、親分」
平次の縮尻は、八五郎の縮尻でありました。
鬱陶しい日は續きました。世界は六月から七月になつて、不二屋の騷ぎもこれきりになるかと思つた頃、事件は思ひも寄らぬ破局へ乘り上げてしまつたのです。
新し橋の袂に居る、ゐざりの申松が水死人になつて、兩國の橋桁に引つ掛つて居たと、土地の下つ引が知らせて來たのは、七月になつて間もなく、
「それ、行け」
平次と八五郎が飛んで行つたことは言ふまでもありません。
兩國橋の袂に引揚げられた申松の死骸を見せられて、平次も一ぺんに膽をつぶしてしまひました。
「八、これが申松かえ」
身扮が綺麗で、小商人の番頭か何んかのやうに整つて居るばかりでなく、左右の足には少しの不揃ひはあるが、昆布卷のボロを取つてしまつて、ゐざりでも何んでもなく、それに色こそ黒けれ、髮を剃つて髷まで直した顏容ちも、決して滿更ではなかつたのです。
「驚きましたね、これが申松とどうしてわかつたんで?」
町役人や見張りの下つ引に訊くと、
「額に赤い痣がありますよ」
「成程ね、──ところで、八、こいつは水死ぢや無いぜ。腹も脹つて居ないし、身體の何處にも水死人らしいところは無い。そのくせ、口の中と胸を見ると、毒を呑んだ證據がうんとある。──石見銀山か何んかだらう、此野郎の巣を見よう」
平次は早くも死體から毒殺の特徴を掴むと、新し橋の袂に引返しました。
「何をやらかすんで」
「もう一度屋搜しだよ、この前は搜しやうが足りなかつたんだ」
蒲鉾小屋の屋搜しは、ものゝ小半刻もかゝりません。その結果平次は、小屋の外の石の下から、小判で十兩の金と、それを入れた緋呉絽の贅澤な金入を一つ見付けたのです。
平次は更に根氣よく搜して、土手の上まで行くと、その頃よくあつた空いたまゝの柳原土手の茶店の一つに、女の細紐が落ちて居り、その茶店の裏には、湯呑が一つと徳利が一本と、少しばかりの甞めものが捨てゝあるのを見付けたのです。
「八、その湯呑と徳利に、石見銀山か何んか附いて居るだらう、──あ、嗅ぐのは構はないが甞めちやいけない。それから、俺は近所の醫者へ行つてそれを鑑定してもらつて來る間、お前は金入と細紐を持つて行つて、不二屋の女達のうち、誰のものか──本人に訊いちやまづいな、下女のお伊曾に訊いて見るが宜い」
「承知しました」
「誰のものとわかつても、お伊曾に口留めして、そつと此處へ歸つて來い。荒立てちやならねえよ」
「へエ」
八五郎と平次は二た手に別れました。が、間もなく此處へ落合つた時、平次の持つて行つた徳利と湯呑には間違ひもなく石見銀山鼠捕り藥がこてと入つて居り、八五郎の持つて行つた赤い金入と細紐は、下女のお伊曾の證言で、間違ひもなく、不二屋の内儀のお留の持物とわかつたのです。
「それツ」
二人は不二屋へ飛込みました。が、その時はもう、内儀のお留は姿もなく、手拭を姐さん冠りにした三人の美女は、良い男の主人岩吉と、狐につまゝれたやうな顏をして居るのでした。
× × ×
不二屋の内儀お留の死骸は間もなく大川から上りました。そしてこの不思議な事件はうやむやのうちに葬られ、三人の茶汲み女はそれ〴〵親許に歸され、色男の岩吉は江戸拂ひになつてしまひました。
一件落着の後、繪解きをせがむ八五郎のために、平次は斯う語るのです。
「惡いのは亭主の岩吉さ。茶汲み女を片つぱしから口説き落して、際限も無い放埒だから、女房のお留は燒餅で氣が變になつたのだよ。最初、お北の髮を切つたのは、間違ひもなく主人の岩吉だ。それが少しも知れないばかりでなく、髮の毛を拾つてかもじ屋に賣つたゐざりの申松には、誰も疑を向ける者もなかつた」
「──」
「内儀のお留だけは、大方のことを察したに違ひない『けどること女房神の如くなり』といふ川柳があるぜ。ところが、お北は髮を切られても、人氣が少しも落ちず、店の商賣にも變りは無かつた。そこでお留は、浮氣な亭主への見せしめに、茶汲み女のだらしの無いのに腹を立てゝ、皆んな坊主にしようと企んだ」
「成程ね」
「幸ひゐざりの申松は、ゐざりでも何んでも無く、足腰が達者な上、お北の毛を賣つても人に疑はれなかつた。そこでお留は、申松を抱き込んで、金をやつてお浪とお瀧の髮を切らせた。土手へ誘ひ出させたり、店の暗がりで首を締めたり、申松はわけも無くそれをやり遂げたが、お皆のときは、少し力が入り過ぎて、落ちてしまつたのだよ。生き還らせようと一應は骨を折つたことだらうが、死に切つたものはどうにもならない。仕方が無いから、店の方へ引つ擔いで行つて、人眼をごま化すために店先にブラ下げたことだらう」
「へエ、ひどい事をしやがる」
「そこ迄はよかつたが、申松は僞ゐざりで達者な男だから、お留を脅かして金を貰ふだけでは我慢が出來ず、乞食のくせに、良い年増のお留に思ひをかけ、間がな隙がな口説き廻したに違ひあるまい」
「──」
「自業自得とは言ひ乍ら、ゐざりの乞食に附け廻されたお留はどうなつた事と思ふ。到頭我慢が出來なくなつて、申松の言ひなりに空茶店で逢引することにし、祝言の杯とか何んとか言つて、申松の呑む酒に石見銀山を入れたに違ひあるまい」
「恐ろしいことですね」
「申松は死んだ。それを土手から轉がし落して、知らん顏をして居たが、お前が緋呉絽の金入と細紐を持つて行つて、下女のお伊曾と話して居るのを訊いて、お留は極り惡さと濟まなさで、死ぬ氣になつたことだらう」
「さう聽くと可哀想ですね」
「惡いのは色男氣取りの岩吉さ。──ところで、お伊曾は飛んだ良い娘だぜ。どうだ、八」
「いづれ親類會議の上で──」
八五郎はまだ嫁を貰ふ氣は無い樣子です。
底本:「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」同光社磯部書房
1953(昭和28)年3月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1951(昭和26)年7月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年3月8日作成
2017年3月4日修正
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