錢形平次捕物控
百草園の娘
野村胡堂




「親分、あつしの身體が匂やしませんか」

 ガラツ八の八五郎が、入つて來ると、いきなり妙なことを言ふのです。

 九月のよく晴れた日の夕方、植木の世話も一段落で、錢形平次ぜにがたへいじしばらくの閑日月かんじつげつを、粉煙草をせゝりながら、享樂きやうらくして居る時でした。

「さてね、お前には腋臭わきがが無かつた筈だし、感心に汗臭くもないやうだ、臭いと言へばお互ひに貧乏臭いが──」

 平次は鼻をクン〳〵させながら、んな的の外れたことを言ふのです。

「嫌になるなア、そんな小汚い話ぢやなく、もつと良い匂ひがするでせう」

 八五郎は素袷すあはせの薄寒さうな懷ろなどを叩いて見せるのでした。

「あの娘の移り香を嗅がせようといふのか、そいつは殺生せつしやうだぜ、腹の滅つて居る時は、そんなのを嗅ぐと、虫がかぶつていけねえ」

「相變らず、口が惡いなア、そんなイヤな匂ひぢやありませんよ、お種人參たねにんじん忍冬にんどう茴香うゐきやうが匂はなきやならないわけなんだが」

「どこで、そんなものをクスねて來やがつたんだ」

「人聞きの惡いことを言はないで下さいよ。香ひの良い藥草を、一つ〳〵紙に包んで、綺麗な人から貰つたんですよ、それを紙入に入れて、内懷うちふところであつためてあるんだが──」

「そんなものなら、髷節まげぶしへ縛つて、鼻の先にブラ下げて歩くとよく匂ふぜ」

「叶はねえなア」

「ところで、それをくれた綺麗な人といふのは、何處の人間だえ」

「ザラの人間と一緒にするには、勿體もつたいない位、良い女でしたよ、親分」

「眼の色變へて乘出すのは穩やかぢや無いぜ、お前に藥草の葉つぱをくれるんだから、いづれ場末の生藥屋きぐすりや後家ごけか何か」

「錢形の親分も、それは大きな見込違ひですよ、後家やおんばあぢやありやしません、ピカ〳〵するやうな新造しんざう、つく〴〵江戸は廣いと思ひましたよ、あんな良い娘が、世間の評判にもならずに、そつと隱れてゐるんだから」

「若くて眼鼻がそろつて居ると、皆んな良い女に見えるから、お前の鑑定かんていは當てにならない」

「でも、板橋の加賀樣お下屋敷しもやしき隣の御藥園の娘、お玉さんばかりは別ですよ、江戸中には隨分綺麗な娘もあるが、あんな後光ごくわうの射すやうなのはありやしません、大したものですぜ」

「そんな女は、女房や情婦いろには向かないぜ、惡いことを言はねえから、あんまり近寄らない方がいゝぜ」

「なぜです?」

「ピカ〳〵後光が射して見ねえ、まぶしくて口説くぜつもなるめえ」

 錢形平次と子分の八五郎は、斯う言つたらちも無い掛合噺かけあひばなしから、肝腎かんじんの話の筋を運んで行くのでした。

「まア、眞面目に聽いて下さいよ、親分。二三日前に、板橋の小峰凉庵こみねりやうあん先生のお藥園──百草園といふんですがね、そこから、友達傳ひに便りが來て、一度は錢形の親分に來て貰ひ度いが、いきなりさう言つてやつても、容易には來て下さるまいから、せめて一の子分の八五郎さんに瀬踏せぶみをして貰ひ度いといふ話で、瀧野川の御稻荷樣から辨天樣におまゐりする積りで、ちよいと寄道をして、覗いて來ましたがね」

 八五郎の話は漸く本題に入りました。

「で、辨天樣は板橋の百草園に引越して、お前に有難い藥草を下すつたといふ筋か」

「先をくゞつちやいけません、板橋の方は生きた辨天樣で、『ま、八五郎親分、よく來て下すつたわねエ』とにつこりした」

「とたんにお前はフラ〳〵になつた」



 その頃諸國の大名は、銘々めい〳〵の城下に御藥園を作らせ、一と通りの藥草を栽培さいばいさせたばかりでなく、兵粮丸ひやうらうぐわんなどを研究させ、萬一の場合に備へましたが、江戸はさすがに將軍家の膝元で、音羽、大塚、白山などに、宏大くわうだいなお藥園を設け、幕府は專門の本草學者に預けて、代々研究を重ねて居りました。

 ところが、この外にも、小規模ながら私設の藥園が各所に散在し、大名富豪の庇護ひごの下に、名ある本草學者などが、研究道場として、藥用の草根木皮を栽培し、珍木奇獸を集めて樂しんだ例は少くなく、百草園、菜園、百花園などの名が、はるか後まで遺つて居りました。

 板橋の百草園もその一つの例で、本草學者小峰凉庵が、加賀宰相の庇護を受けて板橋の下屋敷隣に地所を借り受け、門弟達とともに、藥草の研究に餘念も無かつたのですが、一年前園主凉庵は八十歳の高齡で他界し、後は門弟横井源太郎、打越金彌うちこしきんやの二人が、凉庵の忘れ形見でたつた一人殘された娘、──八五郎の所謂、生身いきみの辨天樣と言はれる、お玉をたすけて、園の經營を續けて居るのでした。

 今はもう、加賀宰相の物的援助があるわけではなく、百草園の藥を採つて、江戸の生藥屋に賣るのが生活で、その利分は大したものでは無くとも、三人や五人の暮しには差支なく、その上、一人殘つた娘のお玉が美し過ぎたために、二人の内弟子、横井源太郎と打越金彌の間には、勝つか負けるか、生きるか死ぬるかの執拗無殘しつあうむざんな競爭意識が生長して行くのは、どうすることも出來ない成行だつたのです。

 二人の若い男の間に挾まつて、お玉は空しく齡を取つてしまひました。その頃ではもうき遲れの二十二、非凡の美しさで、娘姿にとうも立ちませんが、はたの者に氣を揉ませることは一と通りではありません。

 中でも熱をあげたのは、横井、打越兩人の外に、近所の若い衆、若侍、數限りもありませんが、その中で、お玉を女臭いとも思はないのは、下男の爲吉といふ慾の深い中老人だけ。八方から注がれる、燃えるやうな男の眼の中に、美しいものに生れついた、誇りと恐怖と、不安と滿足とを、お玉は身に沁みて味はつたのも無理のないことでした。

 そのお玉が、近頃わけても疑惧ぎぐを感ずるやうになつたのは、誰とも知らず、百草園に對して、ひどい惡戯をするものがあり、その上お玉自身も、思ひ及ばぬ危險にさらされることが多く、その都度つど、無事には助かりましたが、女心をおびやかした疑惑の雲が、こと〴〵く晴れたわけでは無く、恐怖は後から〳〵と、應接にいとまもなく襲ひかゝるのです。

 その一つ二つの例をあげると、お玉が通つてゐるとき、いきなり百草園の築地垣ついぢがきが崩れて、危ふくその下敷になりかけ、夜、床へ入らうとすると、布團の中に、園の片隅に、金網を張つた箱に飼つてあつた筈の、たくましいまむしがとぐろを卷いてゐたり、全く容易ならぬことばかり續くのでした。

 そのうちの幾つかは偶然の出來事であつたかも知れず、殘りの幾つかは、人手で行はれた、タチの惡い惡戯いたづらだつたかも知れないのです。幸ひ忠實な内弟子の打越金彌が、何時でも、何處かで氣を配つて居るらしく、風のやうに飛んで來ては、お玉を危ふいところから助けてくれ、不安のうちにも、どうやら事無き日を過して來ました。

 ところが此處に、いけない事が起つたのです。主人筋のお玉を爭つて、日頃仇敵の思ひを抱いて居る横井源太郎と、打越金彌が、フトしたことから爭ひを生じて、庭に飛出して、お互に紙入留めに差してゐる短かい脇差を引つこ拔き、月の光りの下に斬り結んだことがありました。

 下男爲吉の注進ちうしんで、お玉が跣足はだしのまゝ飛出して見ると、二人は必死の構へで、肩で息をしながら、一間ばかり先で睨み合つて居たのです。

「あ、何んといふことをするんでせう、打越さん、横井さん、刄物を引いて」

 お玉は刀と刀の間に、身を持つて飛込みました。はぎもあらはに、少し取亂しては居りますが、二人の爭の原因になつた、この娘の美しさは、青白い月の光に強調されて、睨み合つた二人のその相手を憎む心を、燃え立たせるばかりです。

「お孃さん、退いて下さい、この場で、今直ぐ、二人のうち一人は、死なゝきやなりません」

 横井源太郎は聲を絞ります。二十八歳の逞しい男、刀法には暗くとも、青白い打越金彌を壓倒し去る氣力は充分です。

「ま、死ぬなんて、そんな事があつていゝものでせうか、どうしても止さなければ、私は自分から身を退き、此百草園を捨てゝ身を隱します、──打越さん、貴方から先に、刀を引いて下さい」

 お玉の聲が掛ると、弱氣らしい打越金彌は、それをしほに刀を引いて、二間ばかり先から相手を睨んで立つて居ります。

「兎も角も、此處で血を流すのだけは止して下さい、小峰凉庵の百草園で、門弟達が果し合ひをしたと聞いたら、世間の人は何んと言ふでせう、お願ひですから、横井さん、あなたも」

 お玉に正面から睨まれると、強氣らしい横井源太郎も嫌々ながら刀を引く外は無かつたのです。



 それから三日たないうちに、娘のお玉は用事があつて下女のお淺と共に下町へ出かけ、下男の爲吉も、何んかの使ひに出かけると、横井源太郎と打越金彌は、何の邪魔も仲裁ちうさいもなく、ムキ出しの憎惡と憎惡に燃えて、二階の一と間──百草園全部を見渡す、舊主人小峰凉庵の部屋に顏を合せてしまひました。

「打越、俺と貴公とは、永劫えいごふの世までも、並び立たないとは承知して居るであらうな」

 相手を睨み据ゑ乍ら、最初に口を切つたのは横井源太郎でした。二人共總髮そうはつ、黒木綿のあはせ、白い小倉の袴をはいて、短かいのを一本腰にきめて居りますが、人相や氣分は、對蹠的たいしよてきに違つて居ります。

 横井源太郎は赤黒く逞ましい男、目鼻立は立派ですが、激しい氣象の持主で、それに對して打越金彌は、色白で柔和にうわで、引つ込み思案で弱氣です。

「それが何うしたといふのだ」

「一度は生命と生命の爭をしなければならない、丁度今日は、お孃さんは留守」

 横井源太郎はニヤリとするのです。

「血を流してはならぬ──とお孃さんがくれ〴〵も言つたではないか」

 打越は兎もすれば逃げ腰になります。

「果し合ひする迄もないことだ、今日此場から、貴公は身を退くのだ、幸ひ長崎には貴公の歸りを待つて居るといふ兩親もあるさうではないか、俺は天涯てんがいの孤兒、何處へ行きやうも無いから、此處に踏み留まる」

 横井源太郎は勝手なことを言つて、肩肘かたひぢを張るのです。

「嫌だ」

「何を?」

「身を退き度くば、貴公が退くがいゝ、俺は嫌だ」

「では尋常に勝負をするか」

「馬鹿なこと、──血を流すなと、お孃さんがくれ〴〵も言はれた筈ぢやないか」

「──」

 二人はまた睨み合ひました。お玉といふ美しいまぼろしの消え去らぬ限り、二人はどちらも引取らうとはしないでせう。

「一人は必ず死ぬ手段がある、貴公は腹の底からその氣になれるか」

 打越金彌は、何やら思ひ付いたらしく、改めて念を押しました。

「言ふ迄もない」

 横井源太郎は言下に胸を叩くのです。

「では、暫らく待て、俺に思案がある」

 打越金彌は何を考へたか、屏風びやうぶの奧、更に重い坂戸を開けて、隣りの部屋に姿を隱しました。其處は亡くなつた小峰凉庵の實驗室で、簡單な標本へうほんや道具や、おびたゞしい藥品などが用意されてあつたのです。

 横井源太郎は取殘された形で、暫らく元の部屋に待ちました。夕陽が窓から入つて來て、秋の蠅が耳をかすめて表の方へ飛去ります。先生の忘れ形見──多寡たくわが娘一人を目的に、命がけの爭を續けて居る横井源太郎には、斯うなつては、最早悔も躊躇ちうちよもありません。それほどお玉の値打は、二人の心をとらへてしまつたのでせう。あのしたゝる愛嬌、神業としか思へない美しい目鼻立、それに薄紅色にぼかされた皮膚、──それよりも優れて居るのは、お玉の持つて居る生れつきの聰明さと、誰にでもへだてなく注ぎかける愛情で、それこそ十や二十の若い男の命をけても、少しも惜しくないほどの素晴らしい魅力だつたのです。

 お玉の好意が、少しばかり、自分に傾いて居ると思ふことが、横井源太郎を全く夢中にさせました。恐らく競爭相手の打越金彌も、同じやうなことを考へて居たのでせう。

 やゝ暫らくして、打越金彌は、白い晒木綿さらしもめんの布をかけた、手頃の膳を一つ、危なつかしい手付きで捧げて來ました。そして、窓際に置いてあつた、經机型きやうづくゑがたの小卓を、部屋の眞ん中に引寄せて、その膳を据ゑると、緊張し切つた手付きで、その上の白い布を取ります。

 下から現はれたのは、なみ〳〵と酒を注いだ、徑四寸ほどの裏梅うらうめの紋の附いた、全く同型の盃が二つ、

「この盃に覺えがあらう、──加賀宰相樣から下された、凉庵先生祕藏の品だ」

「──」

 横井源太郎は、何が何やらわからず、默つてうなづきました。

「酒は、先日の一周忌の法事の殘り、お勝手から持つて來たが、それに仔細しさいはない」

「──」

「仔細は俺と貴公の體力の違ひだ、力づくでは、この打越金彌、生れ代つて來なければ、貴公──横井源太郎に勝てさうも無い」

「──」

「勝負の明かな博奕ばくちは、やるべきものでない、そこで思ひついたのがこの酒だ」

「──」

 横井源太郎はやゝあせり氣味になりましたが、それでも默つて聽いて居ります。

「盃も酒も、見たところ何の變りも無いが、この盃の一つは唯の酒で、一方には飮んだら必ず死ぬといふ猛毒が入つて居るのだ。──貴公も知つて居るであらう、凉庵先生は先年長崎へ行かれた時、紅毛人の手から、ちんに百倍するといふ毒を求めて持つて來られた。『毒と聽くと恐ろしいが、藥が毒になることもあり、毒が變じて藥となることもある。從つて毒の研究も、本草家ほんさうかの學問の一つだ』と、凉庵先生も言はれたことを貴公も知つて居るであらう」

「──」

 横井源太郎は物々しくうなづきました、打越金彌の目論見もくろみが、次第にわかつて來るやうな氣がするのです。

「凉庵先生の祕庫を開いて、毒を取出したのは俺、一つの方の盃に入れたのも俺だ、──この二つの盃のうち、貴公はどれでも、好きな方を取つて飮むがいゝ、殘つた盃は、即座に俺が飮む、──これほど立派な果し合ひは、武家の仲間にも類はあるまい、斬り合ひは怪我で濟むこともあり、兩方共助かることもあるが、この二つの盃のうち一つは猛毒だ、それを呑んだものは必ず死ぬ」

「──」

 打越金彌の計畫の逞ましさに、横井源太郎もさすがに顏色を失ひました。此華奢きやしやで弱氣で、臆病でさへある男が、戀故に盲目になつたのかも知れません。

「二つの盃のうち、どちらに毒を入れたか、俺も全く見當はつかない、尚疑念があるなら、俺が後ろを向いて居る間に、貴公は勝手に膳を廻し、好きなのを取るがよい」

 今となつては、打越金彌の方が、遙かに大膽らしく見えました。もう一度膳の上に白い布を掛け、二、三度グル〳〵と廻して、横井源太郎の前へ、それを突きつけるのです。

「よしツ、貴公のやることを、俺が引込む法はあるまい。この毒酒の果し合ひを嫌だと言つたら、貴公はそれを面白さうにお孃さんに吹聽ふいちやうするだらう」

 横井源太郎は、經机の前にゐざり寄ると、クワツと眼を見開いて、かれたものゝ熱心さで、二つの盃を睨み据ゑました。

 朱塗の同じ盃、酒は一合近くも入るでせう、底に描いた裏梅の金蒔繪まきゑが、黄金色に盛り上つた、酒の表面まで浮いて、いづれが命とりの毒酒とも見當はつきません。が、違つたところが一つありました。横井源太郎の方に置かれた盃の中に、小さい秋の蠅が一匹、死骸になつて浮いてゐるではありませんか。毒酒の上を飛んだ蠅が、又は毒盃のへりに留つた蠅が、毒氣に中てられて、そのまゝ盃に落ちて死ぬのは考へられることで、さう言つた物の考へ方から言へば、蠅の死骸の浮いてる方が、毒酒にきまつて居るやうなものです。

 横井源太郎の手は、殆んど本能的に、蠅の浮んでゐない方の盃に伸びましたが、何の氣なしに、フト擧げた眼に、打越金彌の顏が映ると、その青白い顏に、ほんの一瞬、冷たい笑が浮んだやうに見えたのです。

「これは細工さいくだ」横井源太郎はさう考へると、急に自分の耳がガーンと鳴ります。『これに引つ掛つてなるものか」さう思つたとたん、横井源太郎の手は、蠅の浮んだ盃を取上げ、無造作に酒の上の蠅の死骸を拂ひ落して、物の見事に盃の酒を呑み干してしまひました。

 それと同時に、

「知つての通り、俺は酒が好きぢやない、同じ毒酒で死ぬにしても、酒の肴が欲しい」

 打越金彌は、半分ほど呑み殘した盃を膳の上に置くと、大きく一と息入れました。

贅澤ぜいたくを言ふな、末期まつごの水に、肴は要るまい」

 横井源太郎は、カラ〳〵と笑ひながら、立つて西陽の窓をしめました。一つはもう廻る筈の毒酒のきゝ目を試すために、自分の足許を確かめたかつたのです。幸ひ酒に毒は入つてゐなかつたらしく、氣分にも足元にも、何の變りもありません。



 八五郎が明神下の平次の家へ飛んで來たのは、その翌る日の晝前。

「とう〳〵やりましたよ、親分」

「騷々しい野郎だ、誰が何をやつたんだ」

 平次は、いつものことで、さして驚く樣子もありませんが、八五郎はそれをもどかしさうに、三和土たたきの上に地團駄ぢだんだを踏むのです。

「板橋から急の使ひで、人死があつたから是非來てくれるやうにといふことですよ」

「板橋は何處だ?」

「辨天樣ぢやねえ、──あの百草園のお孃さんの使ひで」

「少し遠いな」

「そんな事を言はずに、行つて下さいよ、その代り歸りは王子へ廻つて、扇屋であつしが──」

「と言つたところで、相變らずすつからかんだから、何が何でも、お前の心意氣に負けて、行かなきやなるまいな」

 漸く神輿みこしをあげた平次ですが、外の風に當るとはずみがついて、まだ晝をあまり廻らぬうちに、加州樣下屋敷隣の百草園に着きました。

 門と塀だけは相當ですが、中はかなり荒れて、小峰凉庵の死後、何やらモヤ〳〵した爭ひと對立の續いて居ることを物語つて居ります。玄關で大きい聲を出すと、

「あ、親分さん方、お孃さんがお待ちで」

 飛んで出たのは、下女のお淺といふ四十女でした。中へ入ると、長い廊下を半分も行かないうちに、

「ま、八五郎親分、──錢形の親分でせうね」

 迎へてくれたのは、庭の青葉を反映はんえいして、顏色は青白く沈んで居りますが、八五郎が全語彙ボキヤブラリーを動員して形容したほどあつて、これは錢形平次にも息を呑ませたきりやうです。地味な藍色あゐいろの袷、赤い帶揚が僅かに燃えますが、浮世繪から拔け出したやうな非凡の姿態ポーズで、二人の先に立つて、イソ〳〵と奧へ案内するのです。何處からともなく、匂ふ藥草の數々、縁側に落ちる、青葉の陰影を縫つて、急ぎ足に奧へ行く娘の後ろ姿、打ちのめされたやうな肩のあたりも、白い襟足も、そして、袖や裾のあふりも、平次に取つて、不思議に惱ましい痛々しさでした。

 事件といふのは、百草園の二青年のうち、年上で丈夫さうで、一本な性格を持つた横井源太郎が、今朝自分の部屋で、冷たくなつて死んで居たのを、下女のお淺が見付けて大騷ぎになり、一應手當も加へて見ましたが、息を引取つてから時がつて居るのでどうにもならず、兎も角も床を敷いて寢かして置き、八五郎へ使ひを出して、一方、葬ひの仕度も急いで居ると、お玉が自分で説明するのです。

 平次は床の側に寄つて一わたり調べて見ました。死んでゐる横井源太郎は二十八歳といふにしてはけた方で、身體も逞ましく、顏立も立派ですが、決して良い男振りではなく、胸をはだけて見ると、毒死した者の特徴ともいふべき、紫色の斑點がすさまじく、表情や身體のゆがみなどにも、激しい苦悶の色があり〳〵と殘つて居ります。

「これは毒を飮むか飮まされるかしましたね、お孃さん」

 平次は後ろにつゝましく覗いて居るお玉を顧みました。

「巣鴨の見庵樣も、さう仰しやいました。昨夜夜更けに死んだかも知れないといふことです」

「身寄りの方は?」

「横井樣は親御も兄弟も、何にもありません、この世にたつた一人ぼつちだと、平常から冗談のやうに言つて居りました」

「人にうらまれる筋は?」

「さア、それは下男の爲吉か、下女のお淺にお訊ね下さいまし」

「これだけの苦しみを家中の者が知らない筈はありません、昨夜どなたか、この人の苦しむのを、聽いた方はありませんか」

 平次は死骸の凄まじい表情、苦惱とも憤怒とも恐怖ともつかぬゆがみを見て、家中の者が誰も知らずに居たのが不思議でならなかつたのです。

 娘のお玉は、默つて頭を振ります。百草園の家は大きく、部屋も澤山あり、大抵のことは知らずに濟みさうにも思へるのですが、ツイ隣の部屋に寢てゐた筈の、打越金彌が知らずに居るといふのは、お玉に取つても一つの疑問に相違ありません、が改めてそれを言ふのは、お玉のたしなみが許さなかつたのです。

 この美しい娘の側を離れて、平次は庭にウロ〳〵して居る下男の爲吉をつかまへました。

「お前は何か知つてるだらう、包み隱しせず、皆んな言はなきや、飛んだ迷惑をするぜ」

 一番ドカンとおどかされると、爲吉は平次の前に、ペラ〳〵とやつてしまひました、五十前後の慾の深さうな、場合によつては、正直さうな男にも見えます。

「實は親分、昨日大變なことがありました」

「何が大變なんだ」

「用事が早く片付いて、陽の高いうちに歸つて來ると、横井樣と打越樣が、お孃さんのことから喧嘩をおつ始め、二つの盃のうち、一つの盃のお酒に毒を入れて、運惡く呑んだ方が死ぬ──といふ、恐ろしい果し合ひの最中でした」

「お前はそれを何處から見て居たんだ」

「聲を掛けても、二人共夢中になつて返事が無かつたので、隣の部屋まで入つて來ると、毒酒を眞ん中に、血相變へて果し合ひの眞つ最中ぢやありませんか」

「お前はそれを止めなかつたのか」

「止めたところで無駄ですよ、お互にあんなに思ひ詰めて居るんだから、どうせ何方どつちか死なゝきや納まりません」

「ひどい事を言ふぢやないか、──それで、何方が毒の入つてる酒を呑んだのだ」

「横井樣が呑んだことでせう、その證據には死んでゐるんですから」

 爲吉の答は、いかにも簡單です。ついでにお勝手に廻つて、下女のお淺に訊いて見ると、中年女らしく、達辯にまくし立てます。

「私はお孃樣のお供で、夕方戻つて參りました、その時は横井樣も打越樣もお元氣で、それから戌刻半いつゝはん(九時)近くまで見て居りましたが、お二人とも、少しも變らなかつた樣です。あの元氣な横井さんが、夜半に死ぬなんて、まるで嘘みたいぢやありませんか」

「二人はそんなに仲が惡かつたのか」

「昔から仲が惡いやうでしたが、先生が亡くなられてからは、まるで犬と猫で、──お孃樣が綺麗過ぎるんですね」

 お淺は中年の女らしく妙に覺つたことを言ふのです。

「二人の身持は?」

「どちらも遊びなんかしません、お孃樣を手に入れようと夢中だつたんですもの。──氣象は、打越さんはやさしくて、横井さんは頑固でした、打越さんは男がよくて、横井さんは少し亂暴で──」

 お淺の見る二人は、ざつと斯んなものです。



 この時平次は何を考へたか、もう一度横井源太郎の死骸を調べようと言ひ出して、庭から縁側へ、そして閉め切つてある障子をサツと開けました。

「──」

 不用意に闖入ちんにふした平次が、ハツと立ちすくんだのも無理はありません。あの打ちしをれてはゐるが、何となく冷たさうに見えた娘のお玉が、たつた一人になると、横井源太郎の死骸に取りすがつて、斷え入るばかりに泣いて居るではありませんか。

 物音に驚いて振り返つたお玉は、さすがに間が惡かつたものか、あわてゝ涙を拭くと、そつと立ち上つて、部屋の外へ滑り出さうとするのです。

「あ、お孃さん、差支さしつかへが無かつたら、もう暫らく立ち會つて下さい、私は大變なものを見落して居るやうな氣がするのです」

「ハ、ハイ」

 平次に引留められて、お玉は靜かに部屋の隅に坐りました。

「佛樣は、昨夜のまゝ、着換へをさせなかつたことでせうな」

「ハイ、そんな人手も無し、それに經帷子きやうかたびらもまだ間に合ひませんので」

「いえ、とがめるわけぢやありません。死骸の足が二本とも、マチばかまの一方に入つて居るのが變だつたんです、死んでから誰か袴を穿かせたことになりますね」

「?」

 マチ袴の一方へ二本の脚を間違つて入れることは、時々ある筈ですが、生きて居る人間なら、すぐ氣がついて穿き直す筈です。

「兎も角、死骸の着物を變へさせるといふことは、何かワケのあることでせう、──さう思ひませんか、お孃さん」

「──」

 お玉は平次の言葉を聽いて、ヒドく驚きながらも、深々とうなづいた樣です。

「それから、死骸の手首と、足首に傷のあるのはどうしたことでせう?」

 平次は先刻からそれに氣がついてゐたのですが、改めて見直すと、手首にも足首にも、ひどい摺剥すりむきがあつて、横井源太郎は死際に何か特別の状態にあつたこと、──例へば手籠てごめか何かに逢つて居たことを物語るやうでもあります。

「私にも一向見當がつきませんが」

 お玉は覺束おぼつかなく顏をあげるのでした。白粉つ氣も無い顏は、疑惧ぎぐと不安にさいなまれながらも、非凡のきよらかさと、古代の佛體に見るやうな不思議なこびを持つて居るのでした。

「毒害といふことがわかり過ぎてゐるので、口中を見なかつたが──」

 平次はさう言つて、死骸の唇を開けさせましたが、上下の齒を嚴重に噛みしめて、末期の苦惱の恐ろしさを物語ります。

「これはどうしたことだらう、八」

「何か變つたことでもあるんですか」

 八五郎は後ろから、長い顎を覗かせます。

「前齒が二本碎けてゐるよ、丈夫さうな齒だから、自分で齒を噛みしめた位のことで、斯うなるわけは無い」

「その齒の破片かけらが、下唇の中に見えるぢやありませんか」

 八五郎に言はれて見ると、死骸の下唇の中に、ほんの一分ほどであるが、二枚の齒の破片が落ちて居り、上の齒二枚が、鋸の目のやうに碎けて、しかも、唇には何の傷もなかつたのです。

「これは大變なことだ、もう一度庭を一と廻りして見よう、遠くの方に百姓道具を入れた物置小屋があるやうだが」

 平次は八五郎をうながして、もう一度庭へ出ると、其處には下男の爲吉が待つ居て、イソ〳〵と案内してくれます。五十前後の中老人と言つても、何となく丈夫さうで、勞働に馴れた筋骨は、鐵のやうにもり上つて居ります。

「親分さん」

「何だえ?」

「お二人は立派な果し合ひで、横井樣が自分から進んで毒を呑んだとすると、相手の打越樣には、罪は無いことになるでせうね」

 爲吉は妙なことを訊くのです。

「そんな事になるだらうな」

 平次の返事は冴えないものでしたが、その頃の通念つうねんから言へば、刄で斬合つても、毒酒を呑んでも、果し合ひに變りは無く、町方の御用聞の平次には、それを縛る權利は無かつたわけです。

 百草園は廣いものでした。向うの端にある小さい物置小屋は、母家おもやからは一町も離れてゐるでせう。藥草畑の中を行くと、物置小屋の中から、チラと人影、やがて赤いものがほのめくと、それは娘のお玉のあわてた姿で、平次と八五郎を避けるやうに、小屋の横手から、道を變へて母家の方へ逃げて行くのです。

 平次は默つてそれを見て居りましたが、諦めたやうに小屋へ入ると、一とわたりその中を調べました。戸板と繩切れと、おびたゞしい農具の外には、何にも目に立つものはありません。

 一應の調べが濟んで母家へ歸ると、打越金彌が寺へ行つて歸つたさうで、秋日和びよりに汗ばんだ身體を拭いて居りました。

「打越さんでせうね」

「左樣、──今寺へ行つて歸つたばかりだが」

 色白の華奢きやしやな男で、この男は力づくではたくましい横井源太郎を殺せる筈はありませんが、何となく才氣走つて、油斷のならぬ感じを與へます。

「横井さんが毒で死んだときまると、果し合ひの相手のお前さんにも、掛り合ひがある筈ですね」

 平次はう露骨に言つて見ました。

「さうかも知れない」

「暫らく何處へも出られないやうに、改めて御沙汰のあるまで待つて下さい」

「心得て居る」

 打越金彌は惡びれもしません、同僚横井源太郎の死に對して充分の覺悟はして居る樣子です。

「念のため、果し合ひに使つたといふ、毒を見せて貰ひ度いが」

「いと易いこと」

 平次のことばに應じて、打越金彌は二階の凉庵の部屋から、ギヤーマンの小さい瓶に入つた、油のやうな水藥を持つて來て見せました。

「これに味はあるでせうね」

 平次は瓶の口を拔いて、中の藥液を嗅いで居ります。

「匂ひは無いが、味はある、大層にがいといふことだが──」

 打越金彌は、その秀麗しうれいにさへ見える額に、皺を寄せて見せるのです。

「知らずに呑むやうなことは無いでせうね」

「そんな事はあるまいよ、少しでも藥のこと、本草のことなどを心得て居るものなら」

「有難う、よくわかりました、滅多めつたなところへ置いて二度と間違ひを起さないやうに」

「それは大丈夫」

 打越金彌は毒藥の瓶を受取つて元の二階へ行くのです。それに別れて、裏口を出て歸り際、平次はフト、

「お淺さんか、ちよいと聽きたいが、横井さんは金が無かつたことだらうな、──身寄も何にも無いといふ位だから」

 其處を掃除して居る下女にくと、

「お小遣にも困つて居ましたよ、お孃さんが氣をきかして差上げても、受取るやうな方では無かつたんです。それに比べると打越さんは、長崎の實家が良いさうで、時々びつくりする程お金を送つてくるやうです」

「さうか、有難う」

 平次は丁寧に言つて裏門から出ようとしてフト振り返りました、西側の二階の窓が開いて、此方を見て居るのは、お玉の白い顏に間違ひもありませんが、先刻さつきまで素顏だつたお玉が、何時の間にやら薄化粧をして、紅さへ含んでゐるのが、明るい西陽に照されて、浮出したやうにハツキリ見えるのです。

「八、この先、まだいろ〳〵の事があるかも知れない、お前は時々見廻りに來るが宜い」



 それから十日ばかり、やがて陰暦いんれきの十月も近からうといふ、秋らしい日の晝頃、

「親分、またやられましたよ、すぐ行つて見て下さい」

 八五郎が汗になつて飛込んで來たのです。

「誰が何處をやられたんだ」

「下男の爲吉ですよ。裏門の外で、土手つ腹をゑぐられて、匕首あひくちは、爲吉本人の物だから、だらしが無いぢやありませんか」

 道々八五郎は、平次の問に對して、簡單に説明してくれました。

「お前は、時々百草園を覗いて居た筈だが、外に何か氣のついたことは無いのか」

「大ありですよ」

「例へば?」

「娘のお玉さんは、ます〳〵綺麗になつて、──もつとも、あの騷があつてから、素顏の好きだつたお玉さんが、急に化粧を始めて、薄化粧に笹紅さゝべにを含むと、まるで菩薩樣見たいですよ、惡くねえ風の吹き廻しですね」

「それから」

「お孃さんと打越金彌が急に親しくなつて、下男の爲吉は金廻りがよくなつて、毎晩呑んで歩いてばかり居るやうで、昨夜も醉つ拂つて歸つたところを、後をつけて來た泥棒にやられたんでせう、持つて居た筈の懷は空つぽだし、一と突で息の根を止めた手際てぎはは、大したものでしたよ」

 そんな話のうちに、二人は板橋の百草園に着きました。土地の御用聞がやつて來て、大方の始末をした後、事件は極めて簡單に片付けられてしまひました。爲吉の死骸は、後ろから一と突き、自分の匕首でやられたもので、鞘も匕首も其場に捨てゝあり、丁度裏門の外で、仰ぐと二階の窓──いつかお玉が姿を見せたあたりがよく見えます。

「昨夜は月があつた筈だな」

「二十三夜で、遲くなつて出た筈です」

 八五郎がこたへました。平次はそれから、娘のお玉にも、打越金彌にも、下女のお淺にも逢ひましたが、取立てゝ證據になるほどのことも無く、唯、娘のお玉が八五郎が指摘した通り薄化粧などをして、美しい上にも美しくなつて居ることが、平次の眼にも異樣にうつります。

 生活の單純な爲吉には、恩もうらみもある筈は無く、これは簡單な夜盜の仕業と見て、平次も引揚げる外はありません。が、それから三日經たないうちに、此一連の事件は、到頭たうとう、最後の破局キヤタストロオフまで行きついてしまつたのです。

「た、た大變ですよ親分、板橋で、たうとう」

 三度目に八五郎が飛込んで來たのは、九月も末近いある日の朝のうちでした。

「どうした八、板橋からの御注進ごちうしんにしちや、少し早いぢやないか」

 平次は何やら待つて居る樣子です。

「百草園のことが氣になつてならないから、あの近所の知合の家へ泊つて、今朝薄暗いうちに覗いて見たんですよ」

「で?」

 八五郎の鼻のよさと熱心さは、平次に取つて嬉しいことでした。

「すると、百草園は上を下への騷ぎだ、飛込んでいて見ると、今度は、あの生つ白い打越金彌が、自分の部屋で死んで居るぢやありませんか」

「行つて見よう」

 平次は手つ取早く仕度をすると、八五郎をうながし立てゝ、一氣に板橋に飛びました。こんな時は疲れを知らぬ八五郎ほど調法てうはふな人間はありません。

 迎へてくれたのは、今は下女のお淺と共に、この廣い屋敷にたつた二人殘る、娘のお玉、どうしたことか、此間からの、丹青たんせいの薄化粧を洗ひ落し、元の生地の眞珠色の肌にかへつて、紅の無い唇は、色を失つて蒼くさへ見えるのです。

「御苦勞樣で、親分」

 靜かに案内するお玉の後ろ姿、相變らずに美しい線ですが、今日は赤い扱帶しごきさへ見せぬ淋しさです。

「──」

 打越金彌の部屋の中は、思ひの外整頓して、疊の上に崩折くづをれた死骸も、不斷着の着流しのまゝ、引き起して見ると、胸から顏へかけての凄まじい斑點、横井源太郎と同じく、南蠻物の毒による毒死に間違ひもありません。

「昨夜の樣子は?」

 平次はお玉をかへりみました。

「上機嫌で、歌などを口ずさんで居りました、部屋へ引取つたのは戌刻いつゝ半頃」

「今朝は?」

「お淺が見付けて大騷ぎになつたのでございます。でも、此通り私とお淺の二人きり、近所も身寄もなく、手のつけやうもございません」

 お玉は靜かに語るのです。

「お淺を呼んで下さい、少し訊き度いことが」

 平次に頼まれると、お玉はソワ〳〵と引込んで、代りに下女のお淺がやつて來ました。

「御用で?」

「少し訊き度い、お孃さんは近頃打越金彌さんと仲が好かつたさうだな」

「へエ、少し變だと思ひました、以前は横井樣の方に親しかつたお孃樣が、近頃お化粧なんかなすつて」

「昨夜は?」

「不思議なことに、宵からお孃さんは、打越さんと仲よくお話をしてゐらつしやいました。私は御免をかうむつて、早く休ませて頂きましたが」

「そんな事で宜い」

「へエ」

 下女のお淺が引下がると、平次はもう一度打越金彌の死體に近づきましたが、特にその口のあたりから口中を念入に調べた上、八五郎を振り返つて斯う言ふのです。

「八、俺にはもうわかつたよ、──お前にも氣がつくだらう、よく見ておくがいゝ」

 さう言はれて八五郎も、死體の口のあたりを見て居りましたが、

「男の癖に、此野郎口紅なんか附けて居ますね、死體の唇が、こんなに赤い筈はありませんよ」

「それつ切りか」

「あ、これは鬼灯ほゝづきぢやありませんか、いよ〳〵以て變な男ですね」

 八五郎は打越金彌の口の中から、大きくて赤い鬼灯を一つ──中は空つぽになつてゐるのを、指先でつまみ出しました。

「それでお仕舞ひさ、さア、歸らうか、八」

 平次はもう立上つて歸り仕度をするのです。

「下手人は親分?」

「横井源太郎の幽靈とでもして置け」

「へエ?」

 母屋おもやを出て、お勝手から裏門へかゝつた平次は、そつと二階のあたりを振りかへりました。いつもの窓から、チラリと人の影、お玉の涙ぐんだ顏だつたことは、咄嗟とつさの間に平次にはよくわかります。

        ×      ×      ×

 道々八五郎のせがむまゝに、平次はう説明してやるのです。

「横井と打越の二人の弟子は、師匠の娘お玉を爭つて、毒藥の果し合ひになつた、その時惡智慧の廻る打越は、二つの盃のうち、毒のない方に蠅の死骸を入れて置いたのだよ、盃を横井に先に取らせると、間違ひもなく、蠅の入つて居る方を避けるに違ひないと思つたのだ。蠅の入つて居る方は唯の酒で、蠅も何にも入つてゐないのが毒酒だ」

「──」

「ところが、當てが外れて、横井源太郎は蠅の入つてゐる方を呑んだ、──そんな氣の張つた時は、相手のチヨイとした眉の動きでも、稻妻いなづまのやうに此方の心に響くものだ。打越は當てが外れた、が、そんな事もあらうかと用意した打越は、毒酒を呑むと見せて、ふところに忍ばせた手拭に吸はせてしまつた」

「太え野郎ですね」

「その上、果し合ひに卑怯なことの無かつたことを見屆けさせる爲に、生き證人として、下男の爲吉を隣の部屋に隱し、そつと一仔什しじふを覗かせて置いた」

「その晩、横井が死んだのは?」

「夜半に横井をおびき出したのだよ、お玉の使ひとか何とか言つて、庭の物置におびき寄せ、打越と爲吉と二人で、横井を縛り上げ、戸板を背負はせて猿轡さるぐつわを噛ませたに違ひあるまい、横井は少し位力があつたところで、爲吉と打越の二人には叶はない」

「毒は?」

「戸板を背負せおはせて寢かした横井の口を、のみか何かで無理にコジ開け、あのギヤーマンの瓶から毒藥を横井の口中にたらし込んだに違ひあるまい、横井の前齒が二本缺けて居たのはその爲だ」

「へツ、隨分ひどい事をやつたものですね」

 爲ることの殘酷さに、八五郎もきもをつぶしました。

「死骸の前齒がくだけて居るのを見て、娘のお玉さんも氣が付いたに違ひあるまい、俺達より先に物置に飛んで行つて、昨夜使つた鑿を隱してしまつた」

「すると、あの娘は打越に氣があつて?」

「いや、打越をかばふ氣でなく、自分の手で横井の敵が討ちたかつたんだ。──娘のお玉さんは、心の中では、あの生一本で正直な横井源太郎に惚れて居たのだよ、二十二まで一人で居たのは、横井の言ひ出すのを、ヂツと待つて居た爲だらう。──どうかしたら、打越金彌が二人の間の邪魔をして居たのかも知れない、──お玉にいろ〳〵嫌がらせをやつて、丁度宜いところで自分が助け舟を出してやらうと言つた魂膽こんたんもあつたやうだ」

「下男の爲吉を殺したのは?」

「打越金彌だよ、最初は金をやつて、横井源太郎殺しを手傳はせたが、だん〳〵強請ゆすりがひどくなつたので、一と思ひに殺したのだ、殺された爲吉の匕首でやつたのはその證據しようこだ。醉つ拂つて夜更けに歸つてくる爲吉を待ち構へ、馴々なれ〳〵しく傍へ寄つて、爲吉の部屋から持出した匕首で、後からやつたに違ひあるまい」

「──」

「お玉は二階の窓から、月光つきあかりで、それも見て居たことだらう、丁度、毎日々々、すきさへあれば打越金彌に附きまとはれ、口説くどき立てられて居る折でもあり、昨夜といふ昨夜、なびくと見せて、口から口へ、──打越金彌ののぼせあがつた口へ、毒を仕込んだ鬼灯ほゝづきを含ませ、はつと思ふ間もなく、娘の唇で男の唇を封じてしまつたことだらう、金彌の唇に口紅の附いて居たのはその爲だ。──鬼灯は直ぐ死骸の口から取出せない筈は無いが、打越金彌が呑込んでしまつたかも知れず、又、嫌な男の死骸の口などへ、さはるのが氣味が惡かつたのだらう」

「へエ、怖いことですね」

 八五郎も妙に寒氣がします。

「若い女が一生懸命になると怖いよ、氣をつけろよ、お前も、うつかり娘からしやぶりかけの鬼灯なんか貰つたりすると──」

「へツ、へツ、あつしは死んで見度え」

「あんな野郎だ」

 カラ〳〵と笑ひながら、赤トンボの飛交ふ本郷通りを神田明神下へと急ぐ二人でした。

底本:「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」同光社磯部書房

   1953(昭和28)年325日発行

初出:「キング」

   1951(昭和26)年10月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2015年220日作成

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