冬の庭
室生犀星
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冬になると庭を眺める時がすくない。霜で荒れた土の上に箒をあてるといふわけにゆかないから、秋晩くに手入れを充分にして置かなければならない。この手入れさへ怠らなかつたら冬ぢゆうそのままにして置いてもよい。木の葉なぞも綺麗に掃き取つておけば、乱れるといふことはない。冬の庭の味ひの深いのは何といつても霜で荒れた土がむくみ出し、それが下ほど凍えて、上の方が灰のやうに乾いてゐる工合である。苔は苔のままむくみ上つてゐるところに、何とも言へぬ深い寂しみが蔵はれてゐて、踏んで見るとざつくりと土が沈む。乾いた灰ばんだ何処か蒼みのある土が耐らなく寂しい。掘り出しものの朝鮮の焼きもののやうな色と粉とから成り立つてゐるからである。
冬は庭木の根元を見ると、静かな気もちを感じさせる。灰ばんだ土へしつかりと埋め込まれて森乎としながら、死んでゐるやうな穏かさをもつてゐるからである。庭を愛するひとびとよ、枝や葉を見ないで根元が土から三四寸離れたところを見たまへ。さういふ庭木の見かたもあることを心づいたら、わたくしの言ふことはないのである。
冬は四季を通じての庭のはらわたを見せるときである、庭の持主の心づかひが此の季節にすつかり表はれ、春夏秋の手入れや心配りの程が解るやうである。春夏秋の怠りもまた冬になると露れるのである。池水がよごれて居れば氷が美しく見えない。木の掃除が行きとどいてゐなければ枯葉を乱すおそれがある。
何と言つても冬の庭は厳格と品とをもたなければならぬ。どれだけ厳格であつてもよい、むしろ厳格すぎて優しいところができれば、冬の庭としての全幅を含んでゐるやうである。冬の庭は障子硝子から一と目眺めたきり、それ以上眺めることがすくないものであるから、その瞬間に何かが視覚を打たなければならない。冬は寒いから庭のありさまも温かくしなければならぬといふのは俗説である。どこまでも深く鋭い方がよい。徒らな松の吊縄、藁のかげ法師、植木の巻藁などはよくよく考へてから、その位置を作らなければならぬ。烏瓜の実の朱い色が凍み亘りその色が黒ずんでゆく、しまひに吊柿のやうな色になり干乾びて種が鳴るやうになる。そこで初めて烏瓜の美しさが感じられるやうに、冬の庭も四季の終りに豁然として美事な眺めに就かなければならぬのである。
雪は冬の庭に永く眠つてゐるほど寂寞である。雪がきたらそのままによごさずに置くのである。雪に触つたところが一と処でもあれば、その睡り深い姿を掻き起す。寂寞が乱れてはならない。消える時もひとりで斑に美しく消えるにまかせるやうにする。手洗ひや、つくばひに張る氷も雪とともに厳格以上の厳格さをもつてゐる。冬の庭の要を鏡のやうに磨き立てるものでなければならぬ。
冬の庭木としては別に特別なものはないが、梅擬の実の朱いのが冬深く風荒んでくるころに、ぼろぼろ零れるのはいいものである。南天の騒々しさにくらべると仲々澄んだ感じである。これは零れ落ちるときが最もよい。下草でも茎の強いもので実や穂になつたものは、そのまま冬も刈らずに置くと却つて風雅なものである。石蕗の花も枯れたまま置くと侘びた姿で春まで残つてゐる。砥草などは北風にさらされる方の茎の色が茜色に焼け、さかんな水気を吸ひ上げ尖端を蕭條と枯らしてゐるなど冬の色である。砥草はまとめて植ゑるよりも斑に七八本づつ乱して置く方がいいことを冬に入つてから知つた。
枸杞の実の斑に残つたのは、その朱い実を見つめてゐるだけでも、悲しくなる或る種類の愛情をもつてゐるものである。八ツ手の花は品はないが朝霜の中では清冽な一脈の気焔を上げてゐる。黒ずんでくるころは仲々美しい。
山茶花は白いほど品がよく淡紅はよくない。蕾のころか零れ散るころかがわたくしの心に叶うてゐる。枇杷や茶の花は枯淡以上のもので、枇杷になると花ではなく、古い陶画の一部を剥ぎ取つたやうに思へる。茶の花の方がいくらか枇杷よりか優しくあでやかだ。珊たる蕾の姿は霰や餅米のやうに小粒で美しい、どこか庭のすみの方に二三株、目立たぬほどに植ゑて置く心がけを侑めるくらゐで、ぢみな花である。しかしその実に至つては天来の寂しみをもつて、割れて口を開けその根元に種をこぼす、母のこころをもつてゐる懐しいものである。わたくしはよく椿の実を枝にたづねたものであるが、茶の花は根元の土の上を捜ねる方が、早く種が見つかりさうである。全く茶の実は枝にはなく土の上にこぼれてゐるからである。
わたくしはこのごろ松竹梅といふ三点樹を昔の人がさう言ひならしてゐる言葉に感心してゐる。松竹梅といふと古い言草であるが、松といひ竹といひ又梅といふは樹の中の三兄妹であつて、三樹交契のいみじさ美しさは喞々としてわたくしの心に何かを囁いてくるのだ。木の世界の王さまでなければならぬ。実際この三樹交契を以つて庭を作るとしたら最早何ものも要らない。昔から此の木々をもつてめでたいものの標本とした。その故深い意味が意味ばかりでなく、心までさう感じさせて来たのは恥かしながらわたくしに取つては最近のことである。あまりに目に触れすぎたため此の三樹交契が日本人の性分をこまかに織り出してゐたことさへ忘れてゐた程であつた。芭蕉の俳風も眼を閉ぢて思へばこれらの三樹交契の幽韻の内にもあるやうである。もつと進んで考へると此の交契の奥深くに吾らの祖先が一幅を圧して坐つてゐたことも思はれるのである。
松のその風籟の音に秀でてゐるは言ふまでもないが、一群の清韻は遥に天に向つて何ものかを奏でてゐるやうである。葉も枝もよいがその音を取らねばならぬ。西行、芭蕉の道であらう。竹はすぐな心を表はしてゐるやうで陳腐であるが左う考へる方が、無理がないやうである。かれは寂しいが喜んでゐるやうな木である。絶えず愉快な表情の中に、流れるやうな寂しさをもつてゐる。そして雨とか雪とかになほ一層その奥の手をみがき出してゐるやうである。
梅に至つては匂ひであらう。
庭は隅の方から作つてゆく。一つの隅を作り終へたら、又次ぎの隈の一部から畳んでゆくのである。そして三方或ひは四方から作りあげてゆくうちに、庭の中心がひとりでに出来あがるのだ。庭のまん中から作つて行つたら滅多にかたがつくことがない。魚を料理るにまん中から庖丁を入れることは、料理ることを知らない人のすることである。腹や頭から庖丁を入れねばならぬ。それと同じやうに隅から作りあげ、ひとりでに中心を残して行つたら、そこで中心をぎゆつと縮めるやうな心で、最後に帳〆をするのであるが、この一点の仕上げの行き方で、庭を活かすとも殺すともできるのである。
底本:「花の名随筆12 十二月の花」作品社
1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
底本の親本:「室生犀星全集 第三巻」新潮社
1966(昭和41)年2月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年1月30日作成
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