断腸亭日乗
断腸亭日記巻之三大正八年歳次己未
永井荷風
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正月元旦。曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサン三日月形
のパンを食し、昨夜読残の疑雨集をよむ。余帰朝後十余年、毎朝焼麺麭と咖琲とを朝飯の代りにせしが、去歳家を売り旅亭に在りし時、珈琲なきを以て、銀座の三浦屋より仏蘭西製のシヨコラムニヱーを取りよせ、蓐中にてこれを啜りしに、其味何となく仏蘭西に在りし時のことを思出さしめたり。仏蘭西人は起出でざる中、寝床にてシヨコラとクロワッサンとを食す。(余クロワッサンは尾張町ヴイヱナカッフヱーといふ米人の店にて購ふ。)読書午に至る。桜木の女中二人朝湯の帰り、門口より何ぞ御用はなきやと声かけて過ぎたり。自働車を命じ、雑司ヶ谷墓参に赴かむとせしが、正月のことゝて自働車出払ひ、人力車も遠路をいとひ多忙と称して来らず。風吹出で寒くなりしかば遂に墓参を止む。夕刻麻布森下町の灸師来りて療治をなす。大雨降り出し南風烈しく、蒸暑き夜となりぬ。八時頃夕餉をなさむとて桜木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻に新春の曲を弾ずるものあり。梅吉莭付せしものなりと云。余この夜故なきに憂愁禁じがたし。王次回が排レ愁剰有二聴歌処一。到得レ聴レ歌又涙零。の一詩を低唱して、三更家に帰る。風雨一過、星斗森然たり。
正月二日。曇りてさむし。午頃起出で表通の銭湯に入る。午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。夕刻灸師来る。夜半八重福春着裾模様のまゝにて来り宿す。余始めて此妓を見たりし時には、唯おとなしやかなる女とのみ、別に心づくところもなかりしが、此夜燈下につく〴〵その風姿を見るに、眼尻口元どこともなく当年の翁家富枩に似たる処あり。撫肩にて弱〻しく見ゆる処凄艶寧富松にまさりたり。早朝八重福帰りし後、枕上頻に旧事を追懐す。睡より覚むれば日既に高し。
正月三日。快晴稍暖なり。午後雑司谷に徃き先考の墓を拝す。去月売宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蝋梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。
正月四日。八重福との情交日を追ふに従つてます〳〵濃なり。多年孤独の身辺、俄に春の来れる心地す。
正月五日。寒甚し。終日草訣辨疑をうつす。
正月六日。櫓下の妓家増田屋の女房、妓八重福と、浜町の小常磐に飲む。夜桜木にて哥沢芝きぬに逢ひ梅ごよみを語る。此日暖なり。
正月七日。林檎麺麭其他食料品を購はむとて、夕刻銀座に徃く。三十間堀河岸通の夕照甚佳なり。
正月八日。竹田屋西鶴の作と言伝る色里三世帯を持来る。春陽堂主人の請ふにまかせ、自ら断膓亭尺牘を編む。八重福吾家に来り宿すること、正月二日以後毎夜となる。
正月九日。昼前梅吉方にて清心三味線けいこす。午後尺牘を編纂すること前日の如し。此日本年に入りて始めて雨ふる。増田家女房明治屋ビスケツト持参。
正月十日。雨ふる。
正月十一日。日暮雨霽る。風暖なり。独風月堂にて晩餐をなす。たま〳〵梅吉夫妻の来るに逢ふ。市村座筆屋幸兵衛の出語に徃くところなりといふ。枕上グールモンの小説シキスチンをよむ。
正月十二日。くもりて蒸暑し。咳嗽甚し。午後病臥。グールモンの小説をよむ。夜草訣辨疑を写す。
正月十三日。大石君来診。夜竹田屋病を問ひ来る。風烈しく寒気甚し。
正月十四日。久来君来訪。桜木に徃きて晩餐を倶にす。
正月十五日。風邪未痊えず。
正月十六日。桜木の老婆を招ぎ、妓八重福を落籍し、養女の名義になしたき由相談す。余既に余命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず。家はもとより冨めるにはあらねど、亦全く無一物といふにもあらざる故、去歳辯護士何某を訪ひ、遺産処分の事について問ふ処ありしに、戸主死亡後、相続人なき時は親族の中血縁戸主に最近きもの家督をつぐ事となる。若し強ひて之を避けむと欲するなれば、生前に養子か養女を定め置くより外に道なしとの事なり。妓八重福幸に親兄弟なく、性質も至極温和のやうなれば、わが病を介抱せしむるには適当ならむと、数日前よりその相談に取かゝりしなり。桜木の老媼窃に女の身元をさぐりしに、思ひもかけぬ喰せ物にて、養女どころか、唯藝者として世話するもいかゞと思はるゝ程の女なりといふ。人は見かけによらぬものと一笑して、此の一件はそのまゝ秘密になしたり。
正月十七日。晴れて暖なり。宮薗千春を訪ひしに病気にて稽古なし。
正月十八日。春日にて昼餉を食す。晩間三笑庵河東莭語初に招れゐたりしかど、微恙あれば行かず。早く床に入りて読書す。
正月十九日。井川氏の書に接す。三田文学十周年紀念号寄稿の事につきてなり。
正月二十日。新冨町の妓八郎薗八莭けいこしたしとて相談に来る。
正月廿二日。妓八郎を伴ひ市村座に行きしが、見物の中に差合ひのものあり、茶屋より直に引返し、春日に至り晩餐をなして家に帰る。この日風なく暖なり。
正月廿四日。くもりて寒し。雪もよひの空なり。午後三十間堀の深雪にて八郎に逢ふ。
正月廿五日。沢木梢、井川滋の二子来訪。
正月廿六日。寒気日に〳〵加はる。路地裏の佗住居、ガスストーブの設けとてもなければ、朝目覚めて後も蓐中にて麺麭とシヨコラとを食し、其儘に起出でず、午頃まで読書するなり。此日全集第三巻に当つべき旧著冷笑を校訂す。
正月廿七日。浜町の袋物屋平野屋を呼び、所持の烟草入のつくろひをなさしむ。
正月廿八日。あめりか物語印刷校正摺到着。
正月廿九日。鎧橋角内海電話屋より電話を購ふ。余は元来家に電話あることを好まざれど、独居不便甚しく、且又女中の気のきゝたるもの無き故、将来は下女も雇はざるつもりにて、遊蕩の金を割きて電話を買ひしなり。肴屋八百屋など日々の用事も、電話にて自ら辨じなば、下女など召使ふには及ばざるべし。兎に角日本現代の生活にては西洋風の独身生活は甚不便にて行ひがたし。
正月三十日。東仲通を歩み、古着屋丸八にて帯地並にいつぞやあつらへ置きたる表装用きれ地を購ふ。
正月卅一日。朝まだきより雪降る。砂の如くこまかなり。
二月朔。千春病痊えたる由にて薗八莭けいこ始まる。お半をならふ。哥沢莭家元芝金姉妹も薗八のけいこに来れり。妓八郎この日弟子入して鳥辺山三味線けいこす。
二月二日。采女町河岸通の小玉亭に薗八節師匠宮薗千春を招ぐ。小玉亭は櫓下にて踊の上手といはれたる妓小玉の営むところ。去年十一月頃に開店せし由なり。
二月三日。暁方雪また降る。褥中旧著冷笑を校訂す。
二月四日。節分なり。妓八郎と桜木に徃き追儺の豆まきをなす。午後温暖蒸すが如し。夜に至り寒気俄に甚しく、深更烈風吹起り路地の陋屋を揺かす。眠ること能はず。
二月五日。空晴れて風歇まず。朝電話局の工夫来り電話機を設置す。
二月七日。春陽堂主人来り余が拙句を木板摺にして販売したしと請ふ。辞すれども聴かざれば揮毫左の如し。
暫の顔にも似たり飾海老
夏芝居役者にまけぬ浴衣哉
八文字ふむか金魚のおよぎぶり
日当の鄰りうらやむ冬至哉
おとなりの一中莭や敷松葉
二月八日。東仲通を歩み、矢沢の店に立寄りしが別に買ふべきものもなし。此の通は十年来歩み馴れて、今は両側の古着屋道具屋の店の者、余が面を見知りて挨拶するものもある程なり。家に帰るに全集校正摺おびたゝしく到着しゐたれば、加朱夜半に至る。
二月九日。正午の頃より小雪ちら〳〵と降出し次第に烈しく、夕方には歩み難き程つもりたり。
二月十六日。夜八重次来る。
二月十七日。晴れて暖なり。八郎にすゝめられ倶に市村座に徃く。播磨屋兄弟のお園六助大出来。菊五郎の高時天狗舞不出来にて見るに堪えず。二階食堂にて図らず小山内君に会ふ。帰途八郎と春日に飲む。
二月十八日。有楽座に徃き赤阪藝者さらひを観る。此夜雨。
二月十九日。風なくて暖なり。酒井好古堂兼て誂へ置きたる国周の錦画開化三十六会席を持来る。
二月廿四日。清元会。帰途雨に逢ふ。清元会の夜多くは雨なり。築地の待合桐屋に飲む。浮世絵商諏訪の世話する女の近頃開業せし家なり。
二月廿五日。三田文学会数寄屋橋外笹屋に開かる。風ありしが寒気甚しからず。帰途久米氏と銀座を歩み、平岡君の病を問ふ。
二月廿六日。暖気四月の如し。
二月廿七日。市川猿之助訪ひ来りて近日欧米漫遊の途に上るべしとて、旅装の用意其他万端の事を問ふ。たま〳〵櫓下の妓千代菊、八郎の二人、清元けいこの帰りがけなりとて訪ひ来り。猿之助の在るを見て大に喜び、談笑俄に興を添ふ。
二月廿八日。三十間堀春日にて猿之助千代菊八郎等と晩餐を倶にす。春風日を追ふに従つていよ〳〵暖なり。されど路地の陋屋梅花の消息を知るによしなし。
三月朔。春暖にして古綿衣も重たき心地するほどなり。窗を開くに表通の下駄の音夏近き心地す。此日兜町仲買片岡商店に依頼し置きたる株券王子製紙会社壱百株。猪苗代水電会社壱百株を買ふ。盖し余丁町売宅の金を以てす。
三月三日。朝鮮国王崩御の由。三味線鳴物御停止なり。但し市中芝居は休まずと云ふ噂もあり。
三月四日。千代菊来る。窃に猿之助に逢はむとてなり。
三月五日。明治座稽古に招がる。久振にて松莚子に逢ふ。古渡り紅地広東縞の羽織。結城お召かと思はるゝ小袖に紅縞唐桟の下着を重ねたり。由分なき渋いこのみなり。
三月九日。明治座初日なれど徴恙あり、徃かず。
三月十日。くもりて風さむし。朝鮮人盛に独立運動をなし、民族自治の主旨を実行せむとすと云ふ。
三月十一日。病よからず。妓八郎来りて看護す。この妓亭主持なるにも係らず、近鄰の藝者家の忰ともわけありとの噂あり。折々余が陋屋に来りて泊ることもあるなり。梅吉はじめ皆〻後難あらむ事を慮り噂とり〴〵なりといふ。容貌は美しからず、小づくりの撫肩にて、何となく草双紙などに見る滛婦らしき心地する女なり。
三月十三日。風さむし。黒田湖山書を寄す。
三月十四日。竹田屋芳幾の錦絵両国八景といふものを持参す。明治初年に於ける旗亭妓女の風俗資料、追々あつまり来れり。夜大雨車軸の如し。
三月十五日。藝苑叢書本寒檠璅綴下巻出づ。終日之を読む。
三月十六日。黒田湖山来訪。三十間堀春日に赴きて倶に晩餐をなす。
三月十七日。松居松葉市川猿之助両氏の渡欧を東京駅停車塲に送る。帰途諏訪商店に立寄り浮世絵を見る。狂歌古本二三冊を獲て帰る。
三月十八日。春日麗朗。午後神田三才社を訪ふ。
三月十九日。夜清元梅吉に誘れ瓢家追善素人芝居を歌舞伎座に観る。
三月二十日。彼岸なれど六阿弥陀詣に出かくる元気もなし。
三月廿一日。空どんよりと掻曇りて蒸暑く、烈風終日砂塵を飛ばす。何とはなく吉原に大火でもありさうな心地する日なり。
三月廿二日。春の日うらゝかに晴渡りて表通下駄の音俄に稠し。日本橋倶楽部にて清元一枝会下ざらひあり。
三月廿三日。夜日本橋倶楽部にて清元一枝会温習会あり。権八上の段を語る。初更微雨須臾にして晴る。大川端雨後春夜の眺望方に一刻千金の趣あり。
三月廿四日。細雨霏〻たり。午後電車に乗り外濠の春色を見る。柳眼既に青く雨中の草色一段にこまやかなり。
三月廿五日。市中処々の桜花既に開くといふ。
三月廿六日。築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ。
三月廿七日。昨日より風さむし。家を出でず。夜雨ふる。
三月廿八日。正午雨霽る。妓八郎を伴ひ墨堤を歩む。桜花既に点々として開くを見る。百花園に憩ひ楽焼に句を書す。園中雨後の草色染るが如し。入金亭に至り蜆汁にて夕餉を食す。床の間に渡辺省亭筆蜆の画幅をかけたり。筆致清洒是真に似たり。余この旗亭に一酌せしは明治四十二年の春唖〻子及び浜町の私娼おとしと共に、秋葉の有馬温泉に遊びし帰途なりき。指を屈すれば早くも十一年を経たり。入金の内儀客の来るを見れば誰彼の別なくそら〴〵しく世辞を言ふこと昔年に異らず。其の元気寧羨むべし。夕餉終りし頃風吹き出であたり物寂しくなりたれば自働車を倩ひて帰る。
三月廿九日。寒風電線を鳴らす。置炬燵してピヱールロチの新著 Quelques Aspects du Vertige mondiale を読む。戦時の随筆小品を集めたるものなり。
三月三十日。築地本願寺の桜花を観る。此寺は堂宇新しく境内に樹木少く市内の寺院の中最風致に乏しきものなれば、余は近巷に来り住むと雖、一たびも杖を曳きしことなし。此の日桜花の咲乱るゝあり、境内の光景平日に比すれば幾分の画趣を添へ得たり。
三月卅一日。清元会なり。有楽座に徃く。
四月朔。夜竹田屋の主人歌麻呂の春本寐乱髪といふものを持ち来る。
四月二日。晩間松莚子細君を伴うて来り訪はる。銀座風月堂に至り晩餐の馳走に与かる。
四月三日。花開いて風卻て寒し。歌舞伎座初日なり。松莚君の修善寺物語を看る。
四月四日。夜寒からず。漫歩佃の渡し場に至り河口の夜景を観る。
四月五日。西村渚山人来訪。その編輯する所の雑誌解放に寄稿を請はる。
四月六日。日は高くして猶起出るに懶し。朝の中褥中に在りて読書す。感興年と共に衰へ、創作の意気今は全く消磨したり。読書の興も亦従つて倦みがちなり。新聞紙の記事によりて世間の事を推察するに、天下の人心日に日に兇悪となり富貴を羨み革命の乱を好むものゝ如し。余此際に当りて一身多病、何等のなす所もなく、唯先人の遺産を浪費し暖衣飽食空しく歳月を送るのみ。胸中時として甚安ぜざるところあり。然れどもこゝに幕末乱世の際、江戸の浮世絵師戯作者輩のなせし所を見るに、彼等は兵馬倥傯の際といへども平然として泰平の世に在るが如く、或は滑稽諷刺の戯作を試みる者あり。或は滛猥の図画を制作する者あり。其の態度今日より之を見れば頗驚歎に値すべきものあり。狂斎の諷刺画、芳幾の春画、魯文の著作、黙阿弥の狂言の如き能く之を証して余りあり。余は何が故に徒に憂悶するや。須く江戸戯作者の顰に傚ふ可きなり。
四月七日。春宵漸く漫歩によし。八丁堀の講釈塲を過るに典山英昌等の看板を見る。木戸銭を払うて入る。偶然吉井勇君の在るに逢ふ。奇遇と謂ふ可し。此夕典山得意の小夜衣草紙をよむ。
四月八日。いつもの如く早朝三味線の撥ふところにして梅吉方へけいこに徃く。道すがら電車通にて一人の躄悠然として竹杖にて其の乗りたる車を押行くを見る。恰も小舟に棹さすが如し。近年街上にてかくの如き乞食を見ること稀なれば、わけもなく物珍しき心地したり。後に心づけは此の日は灌仏にて乞食多く本願寺門前に集り来る時なり。
四月九日。堀口大学ブラヂル国よりシヤールゲランの詩集 L'Homme Interieur 一巻を贈来らる。多謝〻〻。午後市村座に赴き梅吉等清元連中出語の保名を聞く。踊は菊五郎なり。
四月十日。あめりか物語印刷校正に忙殺せらる。
四月十二日。夜清元梅吉細君を伴ひて訪来る。
四月十三日。午後坂井清君来談。夜夕餉をなさむとて銀座通に出でゝ見るに、花見帰りの男女雑遝せり。
四月十四日。冨士見町に飲み賤妓を携へて九段社頭の夜桜を観る。
四月十五日。黒田湖山濃州養老に在り。句を寄せて曰く、啼く鳥をのぞく木の間やおそさくら。
四月十七日。午後散策。日䕃町通を過ぎて芝公園を歩む。桜花落尽して満山の新緑滴るが如し。帰途歌舞伎座木戸前を過るに、花暖簾の色も褪せ路傍に植付し桜も若芽となれり。都門の春は既に尽きぬ。
四月十八日。歯痛。久米秀治来談。
四月十九日。八丁堀を歩みて夜肆を見る。この辺建具屋簾屋など多し。小夜ふけし裏町に簾を編む機杼の響のいそがしく聞ゆるさま、春去りて夏ちかくなりたる心地更に深く、山の手の屋敷町にては味ひがきき趣なり。狂歌一首吟じて見たしと、薄暗き河岸通を歩みつゞけしが遂に成らずして止む。狂歌と浄瑠璃の述作ほどむづかしきものはなし。
四月二十日。好く晴れたる日曜日なり。午前謡曲大全をよむ。
四月廿一日。風冷なり。
四月廿二日。朝まだき新冨町の雛妓三四人押掛け来り、電話にて汁粉を命じ食ひ且つ唄ふ。雛妓等先頃より余が寓居をよき遊び場所となし、折々稽古本抱えて闖入し来り、余の睡を驚すなり。櫓下車宿和田屋の曳子は余が寓居をば遊藝師匠の住居と思ひゐるとのことなり。午近く空俄にかきくもりて風雨襲来る。半時ばかりにして晴る。夕刻梅吉夫婦妓八郎等と銀座風月堂に晩餐をなす。
四月廿三日。市川猿之助布哇より書を寄す。同地の邦字新聞に余が築地移居の事文藝風聞録に記載せられたりとて、其の記事を切㧞き封入したり。
四月廿四日。某新聞の記者某なる者、先日来屡来りて、笠森阿仙建碑の事を説き、碑文を草せよといふ。本年六月は浮世絵師鈴木春信百五十年忌に当るを以て、谷中の某寺に碑を立て法会を行ひたしとの事なれど、徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず。
四月廿七日。清元梅吉新に清元香風会なるものをつくり、此の夕代地河岸の旗亭稲垣にて披露の初会を開く。
四月廿八日。路地を出でたる表通蕎麦屋の軒に藤の花今を盛りとさき匂ひたり。余旧廬を去りてより花を見ること稀なれば、徃き来の折〻覚えず歩を停めて打眺るなり。
四月廿九日。有楽座に常磐津文字兵衛のさらひあり。適平岡松山の二画伯に会ふ。
五月三日。理髪舗庄司方にて偶然平岡画伯に会ふ。伊豆山温泉に徃く由なり。
五月四日。座右に在りし狂歌集表帋の綴糸切れたるをつくらふ。たま〳〵思起せば八重次四谷荒木町にかくれ住みし頃、絵本虫撰山復山など綴直し呉れたり。むかし思へば何事も夢なり。
五月五日。端午の佳節なれど特に記すべきことなし。
五月六日。近頃雇入れたる老婆急病にて去る。再び自炊をなす。
五月七日。自炊の不便に堪えず夕餉をなさむとて三十間堀春日に徃く。
五月九日。奠都五十年祭にて市中雑遝甚しと云ふ。
五月十日。去年の夏も初袷きる頃には身一つのさびしさ堪えがたき事ありしが、今年もまたわけもなく心淋しく三味線ひく気も出ぬほどなり。妓八郎来りしかば倶に風月堂に行き一壜の葡萄酒に憂愁を掃ふ。帰途独り歌舞伎座を立見す。松莚子が北向虎蔵懲役場改心の幕なり。この頃折〻脚本に筆とりて見たきやうなる心地す。若し筆を執ることを得なば幸なり。
五月十一日。烈風砂塵を巻く。窓の雨戸をしめしに家の内蒸暑くして居る可からず。灯ともし頃幸にして雨を得たり。
五月十二日。野間五造翁に招かれ帝国劇塲に徃き、梅蘭芳の酔楊妃を聴く。華国の戯曲は余の久しく聴かむと欲せしものなり。今夕たま〳〵之をきくに、我邦現時の演劇に比すれば遥に藝術的品致を備へ、気局雄大なることまさに大陸的なりといふべし。余は大に感動したり。感動とは何をか謂ふや。余は日本現代の文化に対して常に激烈なる嫌悪を感ずるの余り、今更の如く支那及び西欧の文物に対して景仰の情禁じかたきを知ることなり。是今日新に感じたることにはあらず。外国の優れたる藝術に対すれば必この感慨なきを得ざるなり。然れども日本現代の帝都に居住し、無事に晩年を送り得る所以のものは、唯不真面目なる江戸時代の藝術あるが為のみ。川柳狂歌春画三味線の如きは寔に他の民族に見るべからざる一種不可思議の藝術ならずや。無事平穏に日本に居住せむと欲すれば、是非にも此等の藝術に一縷の慰籍を求めざる可からず。
五月十三日。半隂半晴。市中到る処新緑賞すべし。
五月十四日。歌舞伎座に宗十郎羽左衛門の関の扉を観る。拙劣寧憫むべし。
五月十五日。曇りて風冷なり。春陽堂より全集第二巻ふらんす物語の校正摺を送来る。午後巌谷四緑君来訪。木曜会諸子の近况を語る。
五月十六日。日本橋の加賀屋にて薗八節さらひあり。余鳥辺山を語る。宮川曼魚は夕霧をかたる。
五月十七日。毎日全集の校正にいそがはし。
五月十八日。旧友今村次七君金沢より上京。路地裏の寓居に来訪せらる。今村氏の家は銭屋五兵衛とは遠き縁つゞきの由。金沢市外の海岸なる街道筋に一株の古松あり。徃昔銭屋の一族処刑せられし時、五兵衛の三男要蔵といへるもの湖水埋立の名前人なりしかば、罪最重く、この街道にて磔刑に処せられたり。其の頃には松多かりしが次第に枯死し、今はわづかに一株を残すのみ。人〻これを銭屋の松と称へ、金沢名所の一つとはなれり。今村君こゝに石碑を建て、古枩の名の由来を刻して後世に伝へたしと、こま〴〵語り出されたる後、余に古松の命名と碑文の撰とを需めらる。余はその任に堪えざれば辞したり。
五月十九日。巴家八重次藝者をやめ踊師匠となりし由文通あり。
五月廿一日。雨ふる。
五月廿二日。雨ふりて寒し。腹痛あり。鉄砲洲波除稲荷の祭礼なり。
五月廿三日。代地河岸稲垣亭にて清元香風会さらひあり。帰途旅籠町なる旧廬の門前を過ぐ。表付変りて待合になりゐたり。瓦町電車通に出で夜肆を看る。繁華雑沓の光景四年前日夜目にせし所に異ならず。余その頃には病未甚しからず、旦暮近巷を散歩し、孜々として雑誌文明を編輯したり。去年築地に移り住みてより筆全く動かず。悲しむべきなり。
五月廿四日。風邪ひきしにや頭痛みて心地すぐれず。夕暮窗に倚りて路地を見下すに、向側なる待合妾宅などの新樹に雀の声さわがしく、家毎に掛けたる窓の簾も猶塵によごれず、初夏の光景いぶせき路地裏にてもおのづから清新の趣あり。病身この景物に対すれば卻て一層の悲愁を催す。燈下勉強して旧稾を校訂す。盖全集の第五巻を編纂せむがためなり。
五月廿五日。新聞紙連日支那人排日運動の事を報ず。要するに吾政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の獘害卻て国威を失墜せしめ遂に邦家を危くするに至らずむば幸なり。
五月廿七日。清元会にて平岡松山の二子に逢ふ。
五月廿八日。神田一ツ橋通三才社に行く。
五月廿九日。終日旧稿を添刪す。夕刻雑誌改造主筆山本氏来訪。
五月三十日。昨朝八時多年召使ひたる老婆しん病死せし旨その家より知らせあり。この老婆武州柴又辺の農家に生れたる由。余が家小石川に在りし頃出入の按摩久斎といふものゝ妻なりしが、幾ばくもなく夫に死別れ、諸処へ奉公に出で、僅なる給金にて姑と子供一人とを養ひゐたる心掛け大に感ずべきものなり。明治二十八九年頃余が家一番町に移りし時より来りてはたらきぬ。爾来二十余年の星霜を経たり。去年の冬大久保の家を売払ひし折、余は其の請ふがまゝに暇をつかはすつもりの処、代るものなかりし為築地路地裏の家まで召連れ来りしが、去月の半頃眼を病みたれば一時暇をやりて養生させたり。其後今日まで一度びも消息なき故不思議の事と思ひゐたりしに、突然悲報に接したり。年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものは此の老婆ならむかなど、日頃窃に思ひゐたりしに人の寿命ほど測りがたきはなし。
五月三十一日 新月鎌の如し。明石町の海岸を歩む。
六月朔。風また冷なり。岡村柹紅氏来訪。
六月三日。昨日柹紅子の依頼に応じ、玄文社新演藝観劇合評会のため帝国劇塲に赴き、梅幸が合邦が辻を看る。
六月四日。久しく雨なかりしが夕方より風雨おそひ来る。路地裏の夜は宵の中より寂寞として犬の声三味線の音も聞えず、点滴の樋より溢れ落る響のみ滝の如し。燈下旧稾を整理す。
六月五日。未梅雨に入らざるに烟雨空濛たり。玄文社合評会歌舞伎座見物。この日より単衣を着る。
六月六日。夕刻より日本橋若松家にて玄文社合評会あり。隂雲天を閉さして雨ふらず。溽暑甚し。
六月七日。笹川臨風氏に招かれ大川端の錦水に飲む。浮世絵商両三人も招がれて来れり。鈴木春信百五十年忌法会執行についての相談なり。
六月九日。築地波除神社此日より三日間祭礼なり。
六月十日。一昨日錦水にて臨風子にすゝめられ、余儀なく笠森お仙碑文起草の事を約したれば、左の如き拙文を草して郵送す。
笠森阿仙碑文
女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとゞめて百五十有余年、嬌名今に高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年夏六月滅法鰹のうめい頃荷風小史識。
六月十一日。昨日より梅雨に入りしといふ。夕刻より雷鳴轟轟たり。
六月十四日。気温六十八度に下る。帝国劇場の久米宇野両氏来る。
六月十五日。鶴賀若太夫方へ入門。新内莭蘭蝶のけいこをなす。近頃清元莭の藝人奢侈僣上の沙汰折〻耳にするにより追〻清元はやめにするつもりなり。猿之助英国より絵端書を送り来る。
六月十七日。明治座にて名題下若手俳優の稽古芝居を看る。小山内平岡の二子に逢ひ、帰途銀座の風月堂に晩餐をなす。
六月十八日。也有が鶉衣をよむ。
六月十九日。くもりて風涼し。午後浅草公園を歩む。観音堂後の銘酒屋楊弓店悉く取払ひとなり、その跡は目下路普請最中にて以前の面影全くなし。吉原の娼妓遣手婆に伴はれ公園内を遊歩するもの多し。暫く見ぬ間に変り行く世の中のさま、驚くの外はなし。
六月廿一日。全集第二巻校正終了。
六月廿二日。銀座通にて画人岡野栄氏に逢ふ。
六月廿四日。快晴追〻暑気に向ふ。
六月廿五日。平岡画伯を花月に訪ふ。款語夜半に及ぶ。
六月廿六日。雨ふる。全集第三巻の原稿を春陽堂使の者に渡す。
六月廿七日。晴天。夜清元会にて図らず葵山子に逢ふ。三十間堀深雪亭に飲む。
六月廿九日。清元梅吉弟子藝者のさらひ一枝会。有楽座に開催。不入にて何となく物さびしき心地したり。近年遊藝の師匠清元長唄何にかぎらず芝居小屋を借りてさらひを催すこと流行せり。されど師匠も弟子も技藝は更に進歩せず、寧退歩の傾あり。思ふに当世の妓三味線をまなぶは藝が好きといふわけにはあらず、唯公開の塲所に出で名を售りたきが為なるべし。文士は雑誌に名を掲けむが為に筆を執り、藝者は何の事やら訳もわからず唯絃を鳴す。藝道の廃頽嘆くもおろかなり。
七月朔。独逸降伏平和条約調印紀念の祭日なりとやら。工塲銀行皆業を休みたり。路地裏も家毎に国旗を出したり。日比谷辺にて頻に花火を打揚る響聞ゆ。路地の人々皆家を空しくして遊びに出掛けしものと覚しく、四鄰昼の中よりいつに似ず静にて、涼風の簾を動す音のみ耳立ちて聞ゆ。終日糊を煮て押入の壁を貼りつゝ祭の夜とでも題すべき小品文の腹案をなす。明治廿三年頃憲法発布祭日の追憶より、近くは韓国合併の祝日、また御大典の夜の賑など思出るがまゝに之を書きつゞらば、余なる一個の逸民と時代一般との対照もおのづから隠約の間に現し来ることを得べし。
七月四日。終日雨ふりて歇まず。
七月五日。雨歇みて俄に暑し。黄梅の時莭既に過ぎたるが如し。近鄰いづこも洗濯にいそがはしく、水汲みては流す音止む時なく、安石鹸の悪臭あたりに漲りわたりて胸わろし。
七月六日。再び雨ふる。歯痛甚しく終夜眠ること能はず。
七月七日。春陽堂より全集第二巻印税を送来る。金六百七拾五円なり。夜新冨座に徃き岡本綺堂君作雨夜の曲を観る。
七月八日。雨歇しが風甚冷かなり。窗を閉ぢて露伴先生の幽情記を読む。
七月九日。浅草寺四万六千日の賽日なれど珍しく空晴れて風涼し。午後三菱銀行に赴く。車の上にて凉しき夏といひ、又暖き冬といふが如き、唯何ともつかず快き日の追憶を書綴らば、好箇の小品文をなし得べしと、思ひを凝しぬ。夜日本橋若松屋にて玄文社観劇合評会あり。
七月十二日。小山内君来訪。国民文藝会脚本執筆の事を依嘱せらる。夜銀座通草市にて花月楼主人に逢ひぷらんたん亭に小酌す。
七月十三日。風烈しく寒冷暮秋の如し。気候順調ならねど本年は幸にして腹痛なし。されど老婆しん死去してより日常のこと不便殆忍びがたし。銀座風月堂に赴き晩餐をなす。
七月十九日。雷鳴り驟雨来る。両国河開中止となりし由。
七月二十日。暑さきびしくなりぬ。屋根上の物干台に出で涼を取る。一目に見下す路地裏のむさくろしさ、いつもながら日本人の生活、何等の秩序もなく懶惰不潔なることを知らしむ。世人は頻に日本現代の生活の危機に瀕する事を力説すれども、此の如き実况を窺見れば、市民の生活は依然として何のしだらもなく唯醜陋なるに過ぎず個人の覚醒せざる事は封建時代のむかしと異るところなきが如し。
七月廿一日。浅草代地河岸稲垣にて清元香風会さらひあり。楼上より百本杭を望む水上の景、甚よし。妓両三人と桟橋につなぎたる伝馬舩に席を移して飲む。温習会終るを俟ち、余は櫓下の妓千代菊等と車にて木挽町の小玉亭に徃く。野間翁は雛妓若千代等の一群を自働舩に載せ、水路築地の海岸をめぐりて同じく小玉亭に来り、晩餐をなす。
七月廿二日 花月主人平岡氏、田中訥言の画幅を多く蔵せらるゝと聞き、徃きて観る。
七月廿三日。有楽座に人形芝居を観る。大坂文楽一座のものなり。大阪の傀儡劇は今日江戸時代の演劇浄瑠璃凡て頽廃せむとする時、更に其の珍重すべきを知る。此夕観たりしお俊の人形の顔髪の形は鳥居清長の版画に見る婦女に髣髴たり。盖し天明寛政頃の古き形を取りしもの歟。桜丸腹切の塲に見る松王丸の人形は春章の錦絵を想ひ起さしめたり。
七月廿四日。風ありて暑気稍忍びやすし。陋屋曝書の余地なければ屋上の物干台に曝す。
七月廿五日。全集第三巻校正摺この日より始まる。
七月廿六日。炎熱甚しく歯痛む。
七月廿八日。再び有楽座に浄瑠璃人形を聴く。偶然宮薗千春に逢ふ。帰途驟雨、涼風炎暑を洗去る。
七月廿九日。横井博士の大日本能書伝をよむ。
七月三十日。両三日空くもりて溽暑甚しく大雨降り来りては忽ち歇む。降りてはやみ歇みてはまた降る事明治四十三年秋都下洪水の時によく似たり。
七月卅一日。玄文社劇評家懇談会日本橋の若松屋に開かる。此夜有楽座人形芝居の事を岡鬼太郎君に問ひしに、近頃は人形も看るに足らず。雁次郎の仕草を人形に移して看客の意を迎ふるなど言語道断の事屡なり。且又この度有楽座に来りしは京都の人形なりと言はれぬ。此夜幸に雨なかりしが空模様いよ〳〵穏ならず、風また腥し。都下の諸新聞活版職工賃銭値上運動のため当分休刊の由。伊原君のはなしなり。
八月一日。驟雨歇まず。玄文社合評会の為菊五郎の牡丹燈籠を帝国劇塲に看る。初日の事とて幕合長くハネは十二時を過ぎて一時に近し。雨中池田大伍子と傘を連ねて帰る。
八月二日。新冨座に文楽座人形芝居を看る。偶然岡田画伯に会ふ。
八月三日。玄文社合評会なり。席上にて初て右田寅彦氏に逢ふ。
八月四日。谷崎潤一郎氏来訪。其著近代情癡集の序詞を需めらる。雨漸く晴れしが風吹き出で夜に入りあらし模様となる。
八月五日。隂雲散じて快晴の天気となる。凉風秋を報ず。午後散策。山の手の電車に乗り図らず大久保旧宅のほとりを過ぐ。感慨限りなし。
八月六日。丸の内に用事あり。途次日比谷公園の樹䕃に憩ふ。
八月七日。半輪の月佳なり。明石町溝渠の景北寿が浮絵を見るが如し。
八月八日。谷崎君新著近代情癡集の序を草して郵送す。
八月九日。重ねて新富座に人形を看る。図らず場内にて八重次に逢ふ。夜、月佳し。
八月十日。晩涼水の如し。明石町佃の渡場に徃きて月を観る。
八月十一日。今宵も月明かにして、涼風吹きて絶えず。東京の夏は路地裏に在りても涼味此の如し。避暑地の旅館に徃きて金つかふ人の気が知れぬなり。
八月十二日。日ざかりは華氏九十八度ほどの暑さなれど、夕方より風涼し。新冨座人形三ノ替合邦と酒屋を看る。今夜月またよし。
八月十三日。唐人説薈に載せられし楽府雑録を読む。
八月十四日。終日大雨炎暑を洗ふ。
八月十五日。風冷なり。心地すぐれず。午後春陽堂の人来りて全集第二巻再版の検印を請ふ。
八月十六日。腹痛あり。袷羽織着たきほどの寒さなり。病躯不順の天気に会ふや、意気忽銷沈し憂愁限りなし。
八月十七日。寒冷前日にまさる。烟雨終日空濛たり。唐人説薈を読む。
八月十九日。風邪、腹痛去らず。
八月廿一日。大石国手を訪ひ調薬を請ふ。
八月廿二日。風月堂にて偶然小宮豊隆氏に会ふ。
八月廿三日。鄰家待合の庭に蝉の啼くを聞く。
八月廿六日。暑気再来。全集第三巻校正。風邪未癒えず。
八月廿九日。熱あり。
九月朔。露国革命前帝室歌劇部の伶人、この日より十五日間帝国劇塲にてオペラを演奏する由聞きゐたれば、久米君にたのみて切符を購ひ置きたり。この夜の演奏は伊太利亜歌劇アイダなり。余は日本の劇場にて、且はかゝる炎暑の夕、オペラを聴き得べしとは曾て予想せざりし所なり。欧洲の大乱は実に意外の上にも意外の結果を齎し来れるものと謂ふ可し。余は此夜の混乱せる感想をこゝに記すこと能はず。
九月二日。此夕はトラヰヤタの演奏あり。炎暑九月に入りて卻て熾なり。劇塲内は恰温室に在るが如し。徃年紐育又里昴の劇塲にて屡この曲を聴きたる時、深夜雪を踏んで下宿に帰りし事を追想すれば、何とはなく別種の曲を聴く思ひあり。
九月三日。フオーストを聴く。残暑ます〳〵甚し。
九月四日。カルメンを聴く。帰途松山画伯とぷらんたんに飲む。
九月五日。ボリスゴトノフの演奏あり。秋暑甚しき為身体大に疲労す。
九月六日。終日困臥す。
九月七日。電話にて大石国手の来診を請ひしが、遂に来らず。
九月八日。月佳し。旧暦七月の望なるべし。
九月九日。夜、雨あり。九月に入りて始めての雨なり。
九月十日。風邪癒えず。
九月十一日。大石国手来診。終日雨ふる。
九月十二日。雨歇まず。残暑去つて秋冷忽病骨を侵す。この夜蚊帳を除く。
九月十三日。秋雨瀟〻。四鄰寂寞。病臥によし。
九月十四日。雨晴れて残暑復来る。病苦甚し。
九月十五日。帝国劇塲に徃き再びボリスゴトノフを聴く。
九月十六日。風雨甚し。陋屋震動して眠り難し。路地裏の佗住居にも飽き果てたり。外遊の思禁ずべからず。
九月十八日。薄暮木曜会に徃き諸子に会うて契濶を陳ぶ。旧雨一夕の閑談、百年の憂苦を慰め得たるの思あり。
九月十九日。雑誌花月廃刊以来、一時音信なかりし唖〻子、突然来り訪はる。湖山人毎夕新聞社を去りたる由。
九月二十日。微恙あり、心欝〻として楽しまず。たま〳〵旧妓八重次近鄰の旗亭に招がれたりとて、わが陋屋の格子先を過ぐるに遇ふ。
九月二十一日。俄国亡命の歌劇団、この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり。此日晩間有楽座に清元会あるを知りしが徃かず。
九月廿二日。後の彼岸といへばわけもなく裏淋しき心地せらる。此日空好く晴れ残暑猶盛なり。裏屋根の物干よりさし込む日の光、眩しきこと夏の如し。曾て大久保の村居に在りし時、今日のやうなる残暑の昼過ぎ、鳳仙花、葉雞頭の種を縁側に曝したりし事ども、何となく思ひ返されて悲しさ限りなし。折から窓の外に町の子の打騒ぐ声、何事かと立出でゝ見るに、迷犬の自働車にひかれたるを、子供等群れあつまりて撲ちさいなむなり。余は町の悪太郎と巡査の髭面とを見る時、一日も早く家を棄てゝ外国に徃きたしと思ふなり。
九月廿三日。芝白金三光町日限地蔵尊の境内に、頃合ひの売家ありと人の来りて告げ〻れば、午後に赴き見たり。庭の後は生垣一重にて墓地につゞきたるさま、静にて趣なきにあらねど、門前貧民窟に接せし故其儘になしたり。現在の寓居はもとより一時の仮越しなれば、此の頃はほと〳〵四鄰の湫隘なるに堪へやらぬ心地す。軍馬の徃来大久保の如くに烈しからずして、而も樹木多き山の手に居を卜したきものなり。帰途芝公園瓢箪池の茶亭に憩ふ。秋の日早くも傾き、やがて黄昏の微光樹間にたゞよふさま言はむ方なし。曾て大久保の家に在りし頃には、市中の公園は徒に嫌悪の情を催さしむるのみなりしが、今はいさゝかなる樹木も之を望めば忽清涼の思をなさしむ。悔恨禁じ難しといへど又つら〳〵思返へせば、孤独の身の果如何ともすべからず。我が放恣の生涯も四十歳に及びて全く行詰りしが如し。携へ来りしレニヱーが詩集「時間の鏡」を読みつゝ茶を喫す。公園を出れば既に夜なり。銀座風月堂にて独酌晩餐を食し、三田文学会に赴く。与謝野寛氏と久振りにて巴里漫遊のむかしを談ず。
九月廿四日。俄国歌劇一座最終の演奏あり。パリアツチ及カワレリヤルスチカナの二曲なり。劇場を出で、久米松山の二氏と平岡君が采女町の画室を訪ふ。倶に精養軒にて晩餐をなす。食堂には仏国の軍服つけたる男、露西亜人とも見ゆる女四五人、各自の卓に坐するを見る。余は彼等の談話するさまを見るにつけて遊意殆ど禁ずべからず。翻つて今日衰病の身、果して昔年の如く放浪の生活をなし得べきや否や。之を思へば泫然として涙なきを得ざるなり。
九月廿五日。雨ふりて夜寒し。家に在りてセルの単衣を着る。
九月廿六日。秋晴の好き日なれど空しく家に留まる。夜松莚子の自由劇塲試演を観る。
九月廿七日。秋晴の空雲翳なし。高輪南町に手頃の売家ありと聞き、徃きて見る。楽天居の門外を過ぎたれば契濶を陳べむと立寄りしが、主人は不在なり。猿町より二本榎を歩みて帰る。
九月廿八日。午後神田三才社に徃く。途次駿河台に松莚子を訪ふ。夕刻自由劇塲出勤の頃まで款語す。
九月廿九日。東京建物会社〻員某来り、小石川金冨町に七十坪程の売地ありと告ぐ。秋の日早くも傾きかけしが、社員に導かれて赴き見たり。金冨町は余が生れし処なれば、若し都合よくば買ひ受け、一廬を結び、終焉の地になしたき心あり。金剛寺阪を上り、余が呱呱の声を揚けたる赤子橋の角を曲り行けば、売地は田尻博士の屋敷と裏合せになりし処にて、鄰家は思案外史石橋先生の居邸なり。傾きたる門を入るに、家の雨戸は破れ、壁落ち、畳は朽ちたり。庭には雑草生茂りて歩む可からず。片隅に一株の柿の木あり。其の実の少しく色づきしさま人の来るを待つが如く、靴ぬぎ石のほとりに野菊と秋海棠の一二輪咲き残りたる風情更に哀れなり。門を出で近巷の模様を問はむと石橋先生を訪ふ。玄関先にて立話をなし辞して帰りぬ。余は先生の俄に老ひたまひし姿を見て、また多少の感なきを得ざりき。此の日目にするもの平生に異り、一ツとして人の心を動かさざるは無し。晩秋薄暮の天、幽暗なること夢のやうなりし故なるべし。
九月三十日。玄文社歌舞伎座にて観劇。狂言は桐一葉なり。此日雨ふる。
十月朔。
十月二日。驟雨あり。玄文社合評会。
十月三日。好く晴れたり。大川端を歩む。
十月四日。秋隂漫歩に適す。丸の内を歩み、神田仏蘭西書院に至り小説二三巻を購ふ。
十月五日。秋雨降りしきりて風次第に加はる。新寒肌に沁む。満城の風雨重陽を過るの感あり。
十月六日。秋隂夢の如し。石橋先生を訪ひ、其鄰家譲受の事につき地主へ直接問合せの事を中止す。価格思はしからざればなり。帰途伝通院境内の大黒天に賽す。堂内の賓頭廬尊者を見るに片目かけ損じて涎掛も破れたり。堂宇の床板も朽ちたる処あり。瓦落ちて鳩も少くなりたり。余が少年の頃この大黒天には参詣するもの多く、堂内奉納の額其の他さま〴〵の供物賑かなりし事を思返せば、今日荒廃のさま久しく見るに忍びざる心地して門を出つ。安藤阪を下り牛天神の石級を登り、樹䕃に少憩す。
十月七日。秋霖霏〻。岡鬼太郎来訪。来月松莚子歌舞伎座へ出勤につき、新作の脚本を需めらる。病来意気銷沈筆を秉るに堪へざれば辞したり。
十月八日。仲秋の月よし。明石町海岸を歩む。去年の仲秋は九月十九日にて同じく晴れたり。両年つゞいて良夜に逢ふ。珍らしきことなり。
〔欄外朱書〕仲ハ中ニ改可シ
十月九日。小春の空晴渡りぬ。陋屋の蟄居に堪えず歩みて目黒不動の祠に詣づ。惣門のほとりの掛茶屋に憩ひて境内を眺むるに、山門の彼方一帯の丘岡は日かげになりて、老樹の頂き一際暗し。夕日は掛茶屋の横手なる雑木林の間に低くかゝりて、鋭く斜に山門前の平地を照したり。雑木林の彼方より遥に普請場の物音聞ゆ。近郊の開け行くさまを思ひやりては、滝の落る音も今は寂しからず。大国家の方よりは藝者の三味線も聞え出しぬ。此の地も角筈十二社境内の如く俗化すること遠きにあらざるべし。掛茶屋を去らむとする時、不図見れば、この家の女房とおぼしく年は二十二三、丸髷に赤き手柄をかけ、銘仙の鯉口半纒を着たる姿、垢㧞して醜からず。余は何とはなく柳浪先生が傑作の小説骨ぬすみ、もつれ糸などの人物叙景を想ひ起したたり。帰途羅漢寺を訪ひ、道をいそぐに、十六夜の月千代ヶ崎の丘阜より昇るを見る。路傍の草むらには虫の声盛なり。
十月十日。昨日の郊行に日和下駄書き著したる頃の興をおぼえたれば、今日も亦晴天を幸に、有楽町より山の手線の電車に乗る。品川に近づく頃一天俄に暗く、雷鳴驟雨三伏の時莭に似たり。雨の晴るゝを待たむとて其儘車中に坐するに、忽ち新宿を後にして遂に上野の停車場に至る。已むことを得ず車を下り雨を山王台の茶亭に避く。日は暮れむとして不忍池の敗荷蕭々として晩風に鳴るを聞く。寂寥愛すべし。昏黒家に帰る。余病を得てより三四年郊外を歩まず。此日電車沿線の開けたるを見て一驚を喫したり。小工塲と貸家との秩序なく入り乱れて建てられたる光景、其の醜陋寧市中の場末よりも甚し。日本人は遂に都市を建設する能力なきものゝ如し。上野公園の老杉古松の枯れ行くさま予想以上なり。夕餉の後旧著日和下駄その他を校訂す。深更雨歇みて月皎々たり。
十月十一日。正午大石国手を中洲河岸の病院に訪ふ。国手在らず。空しく帰宅す。晡時また家を出で、日比谷公園を歩み、樹下の榻に憩ひミルボオが短篇小説集ピープドシードルを読む。夜、全集第三巻校正の後、旧著を添削して深更に至る。十七夜の月斜に窗を照らす。
十月十二日。朝、神田末広町竹田屋の手代藝苑叢書を持参す。午後一睡の後、日比谷公園の樹間に読書す。晩秋の斜陽黄葉に映ず。
十月十三日。下谷の姪光代絵葉書を寄せ、女学校紀念会の催しに来らむ事を請ふ。幼きものゝ文章ほど人を感動せしむるものはなし。驟雨の霽るゝを待ち、浅草七軒町の女学校に赴く。溝店祖師堂に近きところなり。校内にて下谷の貞二郎大久保の母上に逢ふ。感慨窮なし。此れにつけても憎むべきはかの威三郎の態度なり。されど今は何事も言はざるに如かず。午後家に帰りて机に対す。築地に引移りてより筆持つ心になりしは今日がはじめてなれば嬉しさ言ふばかりなし。
十月十五日。薄暮愛宕山に登る。眼下の市街人家の屋根次第に暗くなりて、日の暮れ行くさま、久しく之を望めば自ら一種の情調あり。李商隠が夕陽無レ限好。只是近二黄昏一といひしも斯くの如き思ひにや。山上のホテルにて晩餐をなさむと欲せしに、仏蘭西航空団へ貸切となり臨時の客を謝して入れず。已むことを得ず銀座に至り、風月堂に飲む。枕上ヱストニヱーの小説 L'Emprinte を読む。
十月十六日。唖々子と三十間堀富貴亭に飯して、木曜会俳席に赴く。数年前富貴亭はわづか一円にて抹茶まで出せしに、今は一人前四円となれり。此夜露重く風冷なり。
十月十七日。天気快晴。終日校正並に執筆。薄暮合引橋河岸通を歩み、銀座に出で食料品を購ひ帰る。
十月十八日。小春の好天気打つゞきぬ。今年程雨少き年は稀なるべし。毎日薄暮水上の景を見むとて明石町の海岸通を歩む。
十月十九日。晴。
十月二十日。晴。
十月廿一日。ロツチの著 Turquie Agonisante を読む。欧洲基督教諸国の土耳古に対する侵畧主義の非なるを痛歎したるものなり。午後中洲病院に徃く。
十月廿二日。晴。小品文花火を脱稾したれば浄写す。全集第三巻印刷摺の校正漸く終了に近し。
十月廿三日。木曜会席上にて交趾人黄調なるものと語る。黄調は能く仏蘭西語を解す。多年易の八卦より算数の新法を研究し、又各国語発音聞取り書の法を案出し、此の二術を伝播せむがため来朝せしなりといふ。帰途秋霖霏々たり。
十月廿四日。小川町角仏蘭西書院に至りヱストニヱーの小説二三巻を購ふ。招魂社の祭礼を看て帰る。
十月廿五日。唖〻子来る。雨中銀座のカツフヱーに飲む。
十月廿六日。書肆文久社の主人来訪。
十月廿七日。暖気初夏に似たり。街頭の楊柳猶青し。唖々子と共に牛込の旗亭桃川に飲む。庭上虫猶啼く。
十月廿八日。夜三田文学会笹屋に開かる。帰途尾張町街上にて岡村柿紅子に会ひ清新軒に飲む。
十月廿九日。大掃除なり。塵埃を日比谷図書館に避く。山茶花既に散り、八手漸く花をつくるを見る。大久保旧宅の庭園を思出して愁然たり。
十月三十日。仏蘭西書院に赴き、帝国劇場に立寄りしに偶然新帰朝の松葉子に逢ふ。
十一月朔。赤坂氷川町の売家を見る。其の途次氷川神社の境内を過ぐ。喬木欝蒼たること芝山内また上野などにまさりたり。市中今尚かくの如き幽邃の地を存するは意外の喜びなり。夕刻家に帰るに慈君の書信あり。去年の此頃は人をも世をも恨みつくして、先人の旧居を去り寧溝壑に填せむことを希ひしに、いつとはなく徃時のなつかしく思返さるゝ折から、慈君のたよりを得て感動する事浅からず。返書をしたゝめ秋雨街頭のポストに投ず。終夜雨声淋鈴たり。
十一月二日。夕刻人形町通にて図らず牛込の妓菊五郎に逢ふ。近頃葭町に住替へしたりといふ。夜木曜会〻員後藤春樹氏来り、某地方の新聞紙へ掲載すべき小説の草稾を需めて已まず。
十一月三日。下谷七軒町女学校の運動会を観る。
十一月五日。曇りて蒸暑し。午後麻布辺散歩。帝国劇塲に立寄る。是夜初酉なり。
十一月六日。十三夜なりといふ。
十一月八日。麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。帰宅後ノワイユ夫人の小説「新しき望み」といふものを読む。
十一月九日。春陽堂先日来頻に新著の出版を請ふ。されど築地移居の後筆硯に親しまず。幸にして浮世絵に関する旧稾あるを思出し、取りまとめて江戸藝術論と題し、之を与ふ。午後四谷に徃き、曾て家に召使ひたるお房を訪ふ。
十一月十日。正午に近き頃母上来り訪はる。路地の陋屋一碗の粗茶をすゝむる事さへ難ければ、風月堂に案内して昼餐を倶にす。
十一月十一日。雨ふる。母上の許に昨日約束せし精養軒の食麺麭を送届けたり。
十一月十二日。重て麻布市兵衛町の貸地を検察す。帰途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到処に好し。日暮風漸く寒し。
十一月十三日。市兵衛町崖上の地所を借る事に决す。建物会社〻員永井喜平を招ぎ、其手続万事を依頼せり。来春を俟ち一廬を結びて隠棲せんと欲す。夜木曜会運座に徃く。
十一月十四日。去年の日記を見るに大久保宅地売払の約束をなせしは十一月十三日なり。今年同月同日に地所借受の証書を交替す。不思議といふべし。夕刻唖〻子来る。
十一月十五日。威三郎不在と聞き、西大久保に赴き慈顔を拝す。鷲津牧師も亦来る。始て一家団欒の楽を得たり。
十一月十七日。曇りて暖なり。ノアイユ夫人の小説「玉の顔」を通読す。此の閨秀詩人の詩篇は先年愛誦して措かざりしもの。今日其小説一二巻を取りて読むに詩に及ばざること遠し。
十一月十八日。雨。街路沼の如く歩むべからず。王次回の律詩中に秋霖纔過市成レ渠。泥履声中掩二戸居一。といへるがあり。盖実景なり。
十一月十九日。暖風再び雨。
十一月二十日。晴。有楽座にて細川風谷追悼会開かる。葵山子に逢ふ。
十一月廿一日。寒雨終日止まず。夕刻食事をなさむとて尾張町を過ぐ。偶然大彦老人に逢ふ。健勝旧の如し。
十一月廿二日。竹田屋来談。
十一月廿三日。銀座義昌堂にて支那水仙を購ひ、午後母上を訪ふ。庭前の楓葉錦の如し。母上居室の床の間に剥製になせし白き猫を見る。是母上の年久しく飼ひたまひし駒とよぶ牡猫なること、耳のほとりの黒き斑にて、問はねど明かなり。八年前妓八重次わが書斎に出入りせし頃、津ノ守阪髪結の家より児猫を貰来りしを、母上駒と名づけて愛で育てられけり。爾来家に鼠なく、駒はよく其務を尽して恩に報ひたりしに、妓は去つて還らず、徒に人をして人情の軽薄畜生よりも甚しき事を知らしめたるのみ。此夜母上駒の老衰して死なむとする時のさまを委しく語りたまひぬ。ピヱールロチが「死と悲しみの巻」に老猫の死するさまを写せし一篇も思合されて、悲しみ更に深し。
十一月廿四日。寒雨夜に入りて纔に歇む。三田文学茶話会に赴き水上瀧太郎君に逢ふ。帰途久米氏と平岡画伯の病を問ふ。猿之助小夜子来る。
十一月廿五日。北風吹きすさみて俄に寒くなりぬ。
十一月廿六日。松莚子に招がれて東仲通の末広に飲む。河原崎権十郎、川尻清潭、瀬戸英一の三子亦来る。帰途清潭子に誘はれて信楽新道の東家といふ待合に至りて更に飲む。川崎屋座談に巧みにて、先年吉原萬華楼に登りし時、深夜廊下にて嫖客に斬られたる娼妓を見、厠に逃込みしことを語る。清潭子も亦舩長と怪猫との話をなし、一座の妓を戦慄せしめ手を拍つて喜ぶ。夜半を過ぎて家に帰る。
十一月廿七日。晴れて暖なり。正午中洲病院に徃く。宿痾大によしといふ。夜木曜会に徃く。新月海上に泛びたる高輪の夜景、徃昔の名所絵に似たり。
十一月廿八日。寒雨歇まず。燈下臙脂を煮て原稾用罫紙を摺る。
十二月朔。南部秀太郎三田文学用件にて来談。
十二月二日。新冨座を見る。盖玄文社合評会のためなり。
十二月三日。母上を案内して帝国劇塲を看る。
十二月四日。午後玄文社合評会。つゞいて綺堂松葉両子帰朝祝賀の宴。共に日本橋若松家に開かる。半月空に泛び淡烟蒼茫として街を罩めたるさま春夜の如し。
十二月五日。松莚子の家に招がれ、大彦翁莚升等と午餐を倶にす。南向の小庭に雁来紅の一二本霜にたゞれて立ちすくみたるさま風趣あり。冬枯の秋草を愛する松莚子の風流欣慕すべし。
十二月六日。寒雨霏〻。風月堂に徃き夕餉をなす。老婆おしん世を去つてより余が家遂に良婢を得ず。毎宵風月堂にて晩飯をなすやうになりぬ。葡萄酒の盃片手にしつゝ携帯の書冊を卓上に開き見るや、曾て外遊の時朝夕三度の食を街頭のカツフヱーにてとゞのへたりし頃のこと思返されて、寂しさに堪えざることあり。昨日購ひたる Laurent Vineul といふ作家の「身のあやまち」を読む。独身の哲学者を主人公となしたるものにて、篇中の事件徃〻身にしみ〴〵と感ぜらるゝ所あり。学者病中下女の不人情なるを憤るあたりの叙事、最も切実の感あり。今日余の憂を慰るもの女にあらず、三味線にあらず、唯仏蘭西の文藝あるのみ。
十二月七日。全集第三巻校正終了。
十二月八日。晴れて風暖なり。風月堂にていつもの如く晩餐をなし酔歩蹣跚出雲橋を渡る。明日天に在り。両岸の楼台影を倒にして水上に浮ぶ。精養軒食料品売場にて明朝の食麺麭を購ふに、焼き立とおぼしく、携ふる手を暖むる事懐炉の如し。采女橋を渡り水に沿うて歩めば月中溝渠の景いよ〳〵好し。波除神社の角より本願寺裏の川づたひに路地の家に帰る。明月屋根の間より斜に窗を照したり。留守中箱崎町の大工銀次郎麻布普請の絵図面を持参す。
十二月九日。晴れて寒し。
十二月十日。晡下唖〻子来訪。尾張町清新軒に飲む。此夜唖〻子珍しく泥酔せず、新井白石の事蹟を脚本に仕組むべしといふ。
十二月十一日。生田葵山高輪の楽天居にて新婚の披露をなす。帰途野圃沖舟木舟唖々等と金杉橋頭の一酒舗に飲む。電車なくなりし故余は人力車を倩ふ。諸子は何処に行きしや。そは明朝に至るを俟つて品川湾頭に飛ぶ白鴎に問ふ可し
十二月十二日。国民劇場なるもの余が旧作煙三幕を上場する由。この夜有楽座に徃き其の稽古を見る。偶然綺堂米斎の両君に逢ふ。
十二月十三日。朝来微雪雨を交ゆ。夜国民劇塲を観る。
十二月十四日。微恙あり。
十二月十五日。微恙あり。午後永井喜平麻布借地の事につき来談。
十二月十六日。風邪未癒えず。寒気日に日に加はる。
十二月十七日。市川猿之助来る。春陽堂の林氏全集第三巻出版届を持来りて署名捺印を請ふ。
十二月十八日。女優花田偉子来り余が旧作上演の謝礼三拾円三越切手を贈らる。
十二月十九日。晴れて寒し。薄暮所用の途次車にて土手三番町を過ぐ。市ヶ谷の高台を望み見たる夕陽の景甚佳なり。
十二月二十日。風月堂にて偶然菊五郎夫妻に逢ふ。菊五郎余に逢ふ毎に新作の脚本を求む。厚意は謝する所なれど、今日の劇塲は既に藝術を云〻する処にあらず。余脚本の腹案なきにあらねど筆持つ心なし。
十二月廿三日。鳩居堂店頭にて図らず森先生に謁す。背広の洋服に古きマントオをまとひ、口髭半白くなられたり。
十二月廿四日。唖〻子来る。半日清新軒の炉辺に飲む。夜半雨。
十二月廿五日。晴れて暖なり。
十二月廿六日。松莚子細君同伴にて来り訪はる。来春明治座にて岡君新作の小猿七之助を演ずるにつき、其の着附仕草などの参考にせんとて、余が所蔵の人情本春画の類を見に来られしなり。此夜前日に比して又更に暖なり。
十二月廿七日。午下中洲病院を訪ふ。菖蒲河岸より大川の面を望むに、暖なる冬日照りわたり、徃来の荷舩には舵のあたりに松飾り立てしものもあり。岸につなぎし舩には舩頭の子供凧をあげて遊べるさま、北斎が両岸一覧の図を見るが如し。夕刻春陽堂店員全集第三巻製本持参。
十二月廿九日。風暖なり。吾妻橋を渡り、石原番場の河岸を歩む。
十二月三十日。快晴。温暖春の如し。
十二月卅一日。晴天。午後市中大晦日の景况を見むとて漫歩神田仏蘭西書院に赴き、フロオベル全集中尺牘漫筆の類数巻を購ふ。風月堂にて晩餐をなし銀座通の雑沓を過ぎて家に帰る。枕上コレツト・ウヰリイの小説レトレート、サンチマンタルを繙読して覚えず暁に至る。突然格子戸を引明けむとするものあり。起出でゝ見るに郵便脚夫の年賀状一束を投入れて去れるなり。表通には下駄の音猶歇まず。酔漢の歌ひつゝ行く声も聞ゆ。
底本:「荷風全集 第二十一巻」岩波書店
1993(平成5)年6月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:米田
校正:小林繁雄
2012年8月7日作成
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