仏法僧鳥
斎藤茂吉
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大正十四年八月四日の朝奈良の宿を立って紀伊の国高野山に向った。吉野川を渡り、それから乗合自動車に乗ったころは、これまでの疲れが幾らか休まるような気持でもあった。これまでの疲れというのは、比叡山で連日『歌』の修行をし、心身へとへとになったのをいうのである。
乗合自動車を乗り棄てると、O先生と私とは駕籠に乗り、T君とM君とは徒歩でのぼった。そうして、途中で驟雨が沛然として降って来たとき駕籠夫は慌てて駕籠に合羽をかけたりした。駕籠夫は長い間の習練で、無理をするというようなことがないので、駕籠はいつも徒歩の人に追越された。徒歩の人々は何か山のことなどを話しながら上って行くのが聞こえる。それをば合羽かむった駕籠の中に聞いていては、時たま眠くなったりするのも何だかゆとりが有っていい。
駕籠は途中の茶屋で休んだ時、O先生も私も駕籠からおりて、そこで茶を飲みながら景色を見て居た。茶屋は断崖に迫って建っているので、深い谿間と、その谿間を越えて向うの山巒を一目に見ることが出来る。谿間は暗緑の森で埋まり、それがむくむくと盛上っているように見える。白雲が忙しそうに其間を去来して一種無常の観相をば附加える。しばらく景色を見ていた皆は、高野山の好い山であるということに直ぐ気がついた。徒歩の二人はもう元気づいて、駕籠の立つのを待たずにのぼって行った。
併し、女人堂を過ぎて平地になった時には、そこに平凡な田舎村が現出せられた。駕籠のおろされた宿坊は、避暑地の下宿屋のようであった。
小売店で、高野山一覧を買い、直接に鯖を焼くにおいを嗅ぎながら、裏通りにまわって、山下という小料理店にも這入って見た。お雪という女中さんが先ず来て、それから入りかわり立ちかわり愛想をいいに女中さんが来た。
『院化はんも時たま来なはります』
こういう言葉をそこそこにO先生をはじめ山下を出た。私等はこの日霊宝館を訪ねる予定であったが、まだ雨が止まぬので此処に一休するつもりで来て、雨の霽れるのを待たずに此処を出たのである。併し女中さんが二人で私等を霊宝館まで送って来た。霊宝館の廊下から振返ると、二人の女中さんは前の小売店の所で何か話込んでいるのが見えた。霊宝館では、絵だの木像だのいろいろの物を観たが絵には模写もあり本物もあった。薄暗いところで仏像などを観ていると眠くて眠くて堪らないこともあった。これは先刻麦酒を飲んだためである。
それから私等は、杉の樹立の下の諸大名の墓所を通って奥の院の方までまいった。案内の小童は極く無造作に大小高下の墳塋をば説明して呉れた。
『左手向う木の根一本は泉州岸和田岡部美濃守』
『この右手の三本は多田満仲公です。当山石碑の立はじまり』
『左手うえの鳥居三本は出羽国米沢上杉公。その上手に見えてあるのは当山の蛇柳です』
『右手鳥居なかの一本は奥州仙台伊達政宗公。赤いおたまやは井伊かもんの守』こういうことを幕無しに云って除けた。
『太閤様が朝鮮征伐のとき、敵味方戦死者位牌の代りとして島津ひょうごの守よしひろ公より建てられた』という石碑の面には、為高麗国在陣之間敵味方鬨死軍兵皆令入仏道也という文字が彫つけてあった。そういうところを通りぬけ、玉川に掛っている無明の橋を渡って、奥の院にまいり、先祖代々の霊のために、さかんに然える護摩の火に一燈を献じた。これは自身の諸悪業をたやすためでもある。それから裏の方にまわって、夕景に宿坊に帰った。
その夜、奥の院に仏法僧鳥の啼くのを聴きに行った。夕食を済まし、小さい提灯を借りて今日の午後に往反したところを辿って行った。この仏法僧鳥は高野山に啼く霊鳥で、運好くば聴ける、後生の好くない者は聴けぬ。それであるから、可なり長く高野に籠ったものでも、ついに仏法僧鳥を聴かずに下山する者の方が多い。文人の書いた紀行などを読んでも、この鳥を満足に聴いて筆をおろしたものは尠いのであった。
私等は奥の院の裏手に廻り、提灯を消して暗闇に腰をおろした。其処は暗黒であるが、その向うに大きな唐銅の鼎があって、蝋燭が幾本となくともっている。奥の院の夜は寂しくとも、信心ぶかい者の夜詣りが断えぬので、燈火の断えるようなことは無い。また夜籠りする人々もいると見え、私等の居る側に茣蓙などが置いてある。私等は初めは小声でいろいろ雑談を始めたが、時が段々経つに従って口数が減って行き、そこに横になってまどろむものもあった。
『こう開化して来ては三宝鳥も何もあったものじゃないでしょう』
『第一、電車の音や、乗合自動車の音だけでも奴等にとっては大威嚇でしょう』
『それに、何処かの旅団か何かの飛行機でもこの山の上を飛ぶことはあるでしょう』
『いよいよ末法ですかね』
『それに山上講演のマルキシズムと、先刻の女中の、院化はんも来なはるとで攻め立てられては三宝鳥も駄目ですよ』
『山はこれでも可なり深いらしいですがね。どれ、小便でもして来るかな』
『もっと奥の方でなさいよ。ここだって霊場ですから』
『承知しました』
杉と檜と鬱蒼として繁って、真昼でも木下闇を作っているらしいところに行き、柵のところで小用を足した。そのへんにも幾つか祠があり、種々の神仏が祭ってあるらしいが、夜だからよくは分からない。老木の梢には時々木兎と蝙蝠が啼いて、あとはしんとして何の音もしない。
それから小一時間も過ぎてまた小用を足しに来た。小用を足しながら聴くともなく聴くと、向って右手の山奥に当って、実に幽かな物声がする。私は、『はてな』と思った。声は、cha ─ cha というように、二声に詰まって聞こえるかと思うと、cha ─ cha ─ cha と三声のこともある。それが、遙かで幽かであるけれども、聴いているうちにだんだん近寄るようにも思える。それから二ついるようにも思える。私は木曾に一晩宿ったとき、夜ふけて一度この鳥のこえを聴いたことがあるので、その時にはもう仏法僧鳥と極めてしまっていた。
『O先生、いよいよ啼きだしました。T君もM君も来ませんか』
四人は杉の木の根方の処に蹲跼み、樹にもたれ、柵の処に体をおしつけてその声を聞いている。声は、木曾で聴いたのよりも、どうも澄んで朗かである。私は心中秘かに、少し美し過ぎるように思って聴いていたが、その時に既に心中に疑惑が根ざしていた。併し声は蔑るべからずいい声である。その澄んで切実な響は、昼啼く鳥などに求めることの出来ない夜鳥の特色を持っていた。
そのうち、声は段々近寄って来た。
そうして聴くと鳥はまさしく二つ居て、互いに啼いているのである。鳥は可なり高い樹の梢で啼くらしいが、少くとも五六町を隔てている。私等は約一時間その声を聴いた。
『どうも有難い。ようございましたね』
O先生はこう云われた。四人は踵を返した。
『これで愈々、後生も悪くはないようなものだ』などと云い云い、石段を下りて無明の橋のへんに差しかかった頃であった。
『どうですか。木曾のと同じですか』こう突然T君に私がたずねた。
『いや実は僕もさっきから少し美し過ぎると思って聴いていたんだが』こう答えた。その間にくどい思慮をめぐらすというようなことも無かった。
『そうでしょう。あれは怪しいですよ。ひょっとすると人工かも知れませんよ。ひどい奴だ』
こうT君が笑いながら云った。
『Tさんは鋭いからねえ。あれはどうも本物だと思われる。やっぱり疑わない方が好いんですよ』こうO先生は云われた。
『いや、私ひとつ見破って見せます』T君も今度は少しく気色ばんでいた。
四人はもう一度奥の院のかげに行った。鳥は相変らず啼いているが、先程よりももっと近くなって来ている。その声は澄明で、鉱物音を交え、林間に反響しているところなどは、或は人工的のもののような気もするが、よくよく聴くと、何か生物の声帯の処をしぼるような肉声を交えている。私は折角運好くて聴いた仏法僧鳥であるからなるべく本物にした方が具合が好い。強いてそうしようとするのであるが、矢張り心中に邪魔をするものがあっていずれとも決定しかねて二たび踵を返した。T君は途々にも、あれくらいの声は練習さえすれば人工でも出来る。それに高い月給を払い一家相伝の技術として稽古させているのかも知れないなどという説をも建てた。そこでO先生を除くほかは、若い浄土宗門の僧侶であるM君も、それから私も、あの仏法僧鳥の声は人工の声だという説に傾きながら帰路についた。時は十時半を過ぎていた。
その途中で一人の青年に会った。その青年は矢張り比叡山上で私等と一しょに歌の修行をし、会の散じてから単独で高野に来、今やはり仏法僧鳥を聴きに奥の院に行く途中なのであった。
『今しきりに啼いているところだから、非常にいい都合だ。ただ君に頼むがね、何時ごろ迄啼き続けているか面倒だが確かめて呉れませんか。僕等はKという宿坊にいるから明日の朝一寸知らして呉れたまえ』
こうT君が青年に頼み、何か期するところがあるような面持で歩いた。その時にはもういつのまにか大きな月が出て、高野の満山を照らして居り、空気が澄んでいるので光が如何にも美しく、悪どく忙しくせっぱつまった現世でも、やはり身に沁みるところがあった。私等はそれでも提灯をつけたまま到頭宿坊に帰って来、何か発見でもした様な気分で一夜ねむった。
翌朝T君は、起きると直ぐ高野山の地図を買って来て調べていた。貧しい朝食をすまして横になっていると、そこにゆうべの青年が報告にきた。青年はゆうべ奥の院に行った時には、鳥の声はしきりにして居ったそうである。それが十一時半になるとぴたりと止んで、午前一時まで二たび啼くのを待っていたが、到頭啼かずにしまったというのである。
この報告は、T君の説を確かめるのに非常に有力であった。それのみではない。T君の調べた地図に拠ると、ゆうべ鳥の啼いた方向にはそう深い森林が無い。寧ろ浅山と謂って好い。それから、そこを通ずる道路がありそこに一二軒の人家がある。
『どうです。声の発源点は此処ですよ』
こう云ってT君は大きな手の指で、その人家のところを圧しつけたりした。青年は最初は何の事だか分からず、怪訝の顔をしていたが、仏法僧鳥の声の人工説だということを知って、『実に惜しい』という顔をありありとした。茲に於て私等の三人と一人の青年とを加えて四人は人工説に傾いてしまった。
けれども、O先生はこの説を是認されなかった。『それは、Tさんの説のように人工かも知れない。けれども人工であったとしても、数百年間この事を他へ漏らさない一山の人々は偉いんです。やっぱり本物の鳥と思ってきくんですね。それが空海の徳でしょう。正岡子規先生ではないが、弘法をうずめし山に風は吹けどとこしえに照す法のともしび。ですよ』こう云われるのであった。
私等は雨の晴れ間を大門のところの丘の上に上って、遙か向うに山が無限に重なるのを見たとき、それから其処のところから淡路島が夢のようになって横わっているのを見たときには、高野山上をどうしても捨てがたかった。または金堂の中にいて轟く雷鳴を聞きながら、空海四十二歳の座像を見ていたときなどは、寂しい心持になってこの山上を愛著したのである。
併し或堂内で、畳の上にあがって杉戸の絵を見ていると小坊主に咎められた。そこにあたかも西洋人夫婦を案内して来た僧がいて仏壇の内陣の方までも見せている。『あれはどうしたのだ』という。『あれは寄附をしたのです』と答える。『馬鹿いえ。僕らも寄附はして居るんだぞ』と云う。斯かる問答は如何にもまずい表出の運動であった。けれどもこの機縁も仏法僧鳥人工説に一つの支持を与えたのである。
私等はこういうような経験をして高野山をくだった。そして和歌の浦まで来たが、もう海水浴も過ぎた頃なので旨い魚を直ぐ食わせるところも見当らず、逝春に和歌の浦にて追い付きたりという句境にも遠いので、其処に夕がたまでいてO先生と別れ三人は那智の方に行く汽船に乗ったのであった。
それから丸一年が過ぎた。私等は去年やったような歌の修行の集まりをば武州三峰山上で開いた。然るに三峰山頂には仏法僧鳥がしきりに啼いた。もう日が暮れかかると啼く。月明の夜などには三つも四つも競って啼いた。その声は如何にも清澄で高野山上で聴いたのよりももっともっと美しかった。それから三峰では直ぐ頭の上で啼くので、しぼるような肉声も明瞭であり、人工説などの成立つ余裕も何もなかった。T君も私もしばらく苦笑して居らねばならなかった。ただ私等はおもう存分仏法僧鳥のこえを聴き、数日してO先生が山の上にのぼって来られたとき、T君も私もO先生のまえに降伏してしまった。
私の写生文はこれでしまいであるが、約めて一言とすることが出来る。どうも高野山上の仏法僧鳥のこえは、あれは人工ではなかった。あれを人工だと疑い、それを立証しようとした学説には手落があって、結局その学説は負けた。けれどもこういうことが云えるだろう。ああいう夜鳥は早晩高野山上から跡を絶つかも知れない。そうして玩具の仏法僧鳥をばあそこの店で売る時が来るかも知れんとこういうのである。
底本:「日本の名随筆2 鳥」作品社
1983(昭和58)年4月25日第1刷発行
1985(昭和60)年6月25日第3刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉全集 第五巻」岩波書店
1973(昭和48)年11月
初出:「時事新報」
1928(昭和3)年1月4日、5日
入力:川山隆
校正:noriko saito
2013年10月6日作成
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