母の手毬歌
柳田国男
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この書を外国に在る人々に呈す
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皆さんは村に入って、うちに静かに暮らしているような時間は無くなったけれども、その代りには今までまるで知らずにいた色々の珍らしいことを、見たり聞いたりする場合は多くなってきた。村には前々からの生活ぶりをよく覚えていて、親切に話をしてくれる人があるものである。そういう話の中には、いつまでも役に立ち、また、永く楽しみになるものが多い。注意して聴いてかえり、年をとった人々、また弟や妹たちにも御土産にしなければならない。その一つのお手本として、わたしがもう六十何年ものあいだ、忘れずにいたことを一つ書いて見よう。
このごろの田舎のお正月は、もうどういうふうに変っているか知らぬが、十年前までは女の子の初春のあそびには、羽根羽子板と手毬とがあった。この二つは、自分の手とからだとが思うように動くことを知る、初めての機会であるゆえに、たいていの子どもには嬉しくて止められず、大きくなってからも正月が来るたびに、いつも思い出すたのしい遊びであった。ゴム毬のゴムがなくなってしまった淋しさ、それを南洋の人々から、わざわざ送りとどけてもらったよろこびなどは、今でも忘れずにいる人がきっと多いことと思う。ところでその、ゴムというものの日本にあらわれたのは、明治の世の中もやや後になってからのことで、田舎ではみなさんのおかあさまぐらいの人までが、小さいころにはまだお正月に、木綿糸を巻いてこしらえた手毬を突いていたのである。白い木綿糸を、まんまるに巻きあげ、その上をカガルといって、紅、青、黄、紫のあざやかな色の糸で、花や菱形のうつくしい形に飾ったので、そのうつくしさを女の児が愛していたために、ゴム毬になってからのちも、なおしばらくのあいだは、そのゴム毬の上をもとの糸かがりの通りに、いろどって塗ったものが流行していた。木綿糸の手毬も作って店で売っていたけれども、そういうのは中味が綿ばかりで、糸は少ししか巻いてないので、つぶれやすくもあり、またちっとも弾まなかった。女の児たちが自分で作った手毬は、できるかぎり巻きつける木綿糸を多くし、その芯にはごく少しの綿をまるくして入れ、またよくはずむようにといって、竜の髭のみどり色の実をつつんだり、蜆貝に小さな石などをつつみ入れて、かすかな音のするのを喜んだりしていた。手毬に巻く木綿糸などは、もちろん長いものを使うのではなかった。そのころはまだ、家々で木綿機を織っていたので、その織糸の端の方の、もうどうしても布に織れない部分、ふつうにキリシネともハタシの糸ともいって、三、四寸は切ってのけるものをもらい集めて、それを一本ずつ丹念につないだものであった。一つの毬を巻きあげるにも、なかなか時間がかかった。母や祖母はその子のよろこぶ顔が見たさに、よその家のキリシネまでも無心をしてあるいたり、また手伝ったり指図をしたりして、どこの家でも正月がくるまでに、二つか三つかの新らしい手毬ができていた。夜もこの新らしい手毬を枕もとにおいて、もういくつ寝るとお正月と、指折りかぞえていた子どもは多かったのである。
手毬がこのように美しいものになったのは、木綿機が家々で織られるようになってから後のことである。木綿というものの我邦に知られたのは、相応に古いころからのことであったようだが、木わたという作物を、諸処方々の田畠にうえ、それから綿を取り糸を紡いで、だれでも木綿の着物を着るようになったのは、江戸時代も中頃から後のことで、それ以前には、冬も麻布の衣服を着るのがふつうであった。麻糸はさらして真白にすることがむつかしく、また、木綿のように紅や青のあざやかな色には染まらなかった上に、これで織った布が長くもつので、そうたびたびは機は立てなかった。そればかりか、この糸は木綿のようにふっくりとはしていないから、手毬に巻き掛けても今のゴム毬のようには、ついてよく弾まなかったのである。そのためでもあったろうか、ちょうどこの木綿糸を手毬に利用することが始まったころから、だんだんと手毬のあそびが変ってきた。近いころの手毬はつくといって、板の間とか土の上とかに打ちつけて、はね揚ってくるのをまた打つという、いくらか間の早い遊戯になって、それを上手につづけてつくおもしろさがまた一段と加わってきたのである。
浮世又平の浮世絵などを見ても、もうあの時代から女の子が膝を突いて、手毬をつくところが描いてあるが、これはそのころには、まだ珍らしい遊びだったのであろう。麻の機糸の切れはしをつなぎ合わせて、手毬に巻いていたということは、何の本にも書いてないようだが、木綿糸の多くなる以前には、それをしなかったら手毬はないはずであり、またそれがあったゆえに、木綿糸の手毬も、だんだんに流行することになったものと思う。つまりは糸を巻く手毬は新らしいものではないけれども、それが木綿の糸にかわったために、きゅうに手毬というものは珍らしく、また女の子のあそびが以前にくらべて、ずっとおもしろいものになったことだけは争えないのである。
これは『民謡覚書』という本の中に、くわしく書いておいたから、大きくなってから読んでごらんなさい。われわれの持ち伝えている手毬歌のなかには、気をつけて見ると二通りの種類がある。その一つは、やや間の早いつき毬の歌で、
とか、または
とかいうような、歌の言葉からもそれとわかるものがある。今ひとつのほうは揚げ毬といって、空に向かって、二つまたは三つの手毬を投げあげて、手に受けてはまた揚げるという動作をくり返すあそびで、このほうは毬の高低によって、歌の節を長くも短かくもするのがまたおもしろく、これならば弾まぬ手毬でも遊ぶことができた。わたしなどの小さかったころには、もうこの二通りの遊び方はともに行なわれていたけれども、わたしの母などの楽しんで歌ったのは、主としてこの高く揚げるほうの手毬歌であった。
わたしの母は、今いきていると百六歳ほどになるのだが、もう五十年も前になくなってしまった。男の子ばかりが八人もあって、それを育てるのに大へんな苦労をして、朝から夜までじっとしている時がないくらい、用の多いからだであったのに、おまけに人の世話をすることがすきで、よくたのまれては若い者に意見をしたり、家庭のごたごたの仲裁をしてみたり、とかくりくつめいた話が多く、どちらかというと女らしいところの少ない人であったが、それでいてふしぎに手毬だけを無上に愛していた。うちには女の子はひとりもないのに、あまった木綿糸さえ見ればきっと自分で手毬をかがって、よその小娘にもやれば、またうちにも置いたので、わたしたちの玩具箱には、いつも二つも三つもごろごろしていた。そうして、わたしたちがたまたまついて見たりしていると、そばへ寄ってきて正月でない時にも、自分で上手にあそんで見せてくれた。しかし母のはいつでも揚げ毬のほうであった。そうして、その歌が村の女の子たちの歌っているのとは、大分にちがっていた。それをなんべんも聴いているうちに、わざは真似ることができなかったが、歌だけはわたしも大よそ覚えてしまったのである。
明治の御代のなかごろに、大和田建樹さんという国文の先生が、日本全国の手毬歌を集めて、大きな本にして出されたことがある。その時にはもう母はいなかったのだが、わたしはこの書物を読んで見るたびに、母を思い出してなつかしかった。そうしていつか一度は「母の手毬歌」というような文章を書いて見たいものと思っていた。母がうたっていた手毬歌は三通りほどあったが、その中の二つ、
というのと、
という歌とは、文句は少しずつかわっていても、日本の東にも西にもあった。しかし、もう一つの「鎌倉の椿」というのだけは、その大和田氏の『歌謡類聚』の中にも、またほかの色々の本にも、そっくり同じというものがまだ出ていない。それがわたしには非常に興味深く、今でも感ぜずにはいられないのである。
母は自分でも娘のころというものが、大へんみじかかったといって歎いていた。そうであったろうと思うことは、たしか十四の年に兄ふたりと、つづいて母親とをうしなって急に家がさびしくなり、父と小さな妹とを世話しつつ、貧しい家計を立てていた。二十歳でわたしの家の人になるまえに、わずか一年ほど藩の大きな武家へ見習奉公に出て、朋輩も多かったということだから、そこの正月のあそびで学んだのかも知れぬが、多分はそれよりもずっとまえ、まだ十いくつの幸福な小娘だったころに、こういう手毬歌にむちゅうになっていたことがあるのであろう。ともかくも歌の言葉があまりに古風なものだから、何処でもそれを知っていた女たちは皆いなくなって、近年の採集にはもれたものと思われる。
長い歌だから、少しずつ切って説明をして見よう。片仮名をもちいた部分は特に言葉を長くのばして歌うところである。揚げ手毬を高く揚げるたびに、文句にも力を入れて時間を合わせるので、それが女の子たちにはこの上もなくおもしろかったのである。
あれ見ィやれむゥこう見ィやれ
六まい屏風にすゥごろく
すごろォくに五ォばん負けて
二ィ度と打つまいかァまくら
鎌くゥらにまァいるみィちで
つゥばき一本見ィつけた
屏風とか双六盤とかは、もとは京鎌倉の家々だけに在るもので、ひさしく名はきいて見たことのないという女や子どもが多かった。それが少しずつ田舎へも入ってきた始めには、このような珍らしい、だれでも見たがるものは他にはなかった。それで手毬の唄には、さいしょに傍にいる者がこういうことをいって、手毬を揚げる者の眼を、ふと手毬から離れさせて、受けそこなわせようとした、たわむれの言葉であった。それが後にはいつとなく自分でも、そういってこの遊びをするようになったものらしい。わたしなどの若いころまでは、村に入ってくる遊芸人の群れのなかに、品玉と称して、三つの手毬を高く投げ揚げて、それをたくみに受けて見せる者があった。それにはかならずひょうげ役というのが脇にいて、色々おかしいことをいって、その芸をしくじらせようとしたものであったが、それがこういう女の子の歌にも、伝わっていたものと思われる。とにかくに今ものこっている全国の手毬歌には、これと同じように「あれ見やれ」とか「向う通るは」とかいう文句をもってはじまり、毬の落ちてくるのを見つめている子の注意を、ほかへ向けさせるようにしたものが多いのである。もとはそういう歌をそばの子供たちがうたって、囃したりはぐらかそうとしたりしたらしいのだが、それにはまた、双六とか六枚屏風とかいうような、珍らしいものの名を出すのがおかしかったものと思われる。古いころの双六は今ある一枚刷りの道中双六などとはちがって、碁や将棋と同じような盤の上の競技であった。そうしてその遊びをすることを打つといっていた。打つという言葉があるので、大よそこの手毬歌のはじまった時代の、そう新らしいものでないことがわかって来るのである。
双六の遊びには、昔の人たちは女でもことのほか熱中したもので、絵にも文学にもそういうことはよく出ている。二度と打つまい鎌倉というのは、少しく意味がはっきりしないようだが、この歌は全部を二句ずつに切って、そのおわりの言葉をつぎの句の始めに、くり返すようにしているから、これもそのつぎの鎌倉という語を、引きあげて前のほうへつけたまでであろう。
其つゥばきだァてのつゥばき
御寺へもォててそォだてた
日が照ェればすゥずみどォころ
あァめが降ゥればやめどころ
にわか雨をさけて、軒の下や大木の蔭に、立ちよって晴間を待つことを、昔の人たちはヤメルといっていた。田舎では今でもそういうかも知れぬが、もう標準語ではヨケルとか何とかいうようになっているから、この言葉は古いのである。ダテというのは質素の反対で、今ならば「ぜいたくな」とでもいうところ、すなわち雨が降っても日が照っても、この椿は土地の人たちのように、ほかに出てあるくことはできないというので、椿の花のうつくしいのを、いつのまにか人のように取扱っているのである。お寺はもと戦国時代といったころには、よく身分のある人の娘や小さな子の、しばらくあずけられて居るところであった。寺の庭は広々として掃除がよくとどき、珍らしい花や植木なども多かったので、椿を人にたとえたということはまだ心づかなくても、これだけを聴いても子どもには興味があった。ただこの歌は二句ずつで話がつぎつぎと移りかわり、切れぎれの小さな絵をならべたようになっているので、つづき話を好む今日の人たちには、少しばかり勝手がちがうかも知れない。
古いころの文芸のなかには、こういう形のものがまだ色々あった。連歌というものなどは殊にこれとよく似ている。あるいはこの手毬歌なども、さいしょはもっと長く、もっと連歌というものに近かったのではないかと思うが、母とわたしの覚えていたものでは、この歌はもうこれで切り上げてしまって、そのあとにまるで縁のない、つぎのような歌がつづいているのであった。
そのあァめに降りこめらァれて
お茶もいやいや煙草もいやいや
しょんがいなァ、しょんがいな
しょんがい婆ァばさん
こォとし九ゥ十九でくゥまァのへ
よォめりしょとおォしやる……
このしょんがい婆さんというあたりから、手毬の手はきゅうに早くなり、歌の調子もまるで変ってくるので、もとは明らかにべつべつのものだった歌を、二つつなぎ合わせたということがわかる。そうして後の方の歌は、ずっとおどけていて、子どもでも歌いながら笑うところであった。ションガイナは今のみなさんの「しょうが無いな」と同じ意味の言葉で、もう今から三百年もまえの流行唄の囃しの文句であった。宮城県などでは、伊達政宗にはじまったという「さんさしぐれか」という歌にもこの囃しがついている。九州のほうでは長崎県の島々にも、また鹿児島県で開聞岳を詠じたという「雲の帯してなよなよと」という歌にもこの囃しがあり、さらに南へ行って沖繩県の八重山群島などにも、しょんがいをもっておわる哀れな別れの歌があった。海上の交通が進んだために、一つの節がこれだけ広く弘まったことはもちろんであるが、なお一方にはまた、ここに出てくる「しょんがい婆々さん」というような、やや滑稽なことをいう老女なども、この歌を職業にして地方をあるきまわっていたので、こういう手毬歌が女の子たちのあいだにも、行なわれることになったのかと思う。時代からいうと、鎌倉へ参る路にというのよりは、また少しばかり後のことだったろうと思われる。
しィらが(白髪)三ィすじにたァけェながかァけて
おォくば(奥歯)二ィまいべェにかねつゥけて
こォれでよォいかとお爺ィさんに問ォえば
そォれでよォいよい嫁入しよとらァくじゃ
やァまをとォおればいィばらがとォめる
かァわをとォおれば船頭さんがとォめる……
とあって、そのあとまだ十句ほどつづいたように思うが、わたしはもう忘れてしまっている。
手毬の上手だった母のような人たちは、そんな長い手毬歌がおわっても、まだ手毬は消えずにいるので、歌を止めるか初めへもどることはせずに、それへ勝手にまたべつの歌を、くっつけて歌ったものと思われる。そのためにいっそう歌の心持が、脇で聴く者にはわかりにくくなってしまったのである。
このおわりに近い文句のなかで、ラクジャという言葉には説明がいるかも知れない。わたしなどの生まれた兵庫県の中部では、もとは東京で「することが出来る」、「してもよい」または「さしつかえない」といい、または東北各地で「するによい」という言葉のかわりに、シヨウトラクジャといったものである。他の地方にもまったく無いというほどではないが、わたしの故郷ではいくぶんかこれを使いすぎていた。しかしこの言葉などは、たしかに後になってできたもので、初めてこの手毬歌の生まれたころには、またちがった言い方をしていたものと思う。事によるとまだ小娘であった私の母や、その友だち仲間などがそう言い始めたくらいがもとであるかもしれぬ。一句一句の感じはよくわかっているものだから、歌の言葉がちっとでも古くさくなると、子どもはこうしてだんだん歌いやすいように改作してきたのかと思う。
近ごろの童謡や童詩とはちがって、手毬歌には見たこともないような遠くの土地を歌ったものがある。もともと空想の美しさを楽しもうとする歌なのだから、京都でも江戸でも、また大阪でも、そこの住人よりは、むしろまだ来て見たことのない村里の子どものほうが、色々と取りはやし、または少なくとも聴いて忘れずにいてくれたのである。もしも鎌倉が近いころまでのような、淋しいただの田舎になっていたならば、このような手毬歌は生まれようはずがない。だからこの歌のできたころには、まだこの土地が繁昌していて、あるいは今よりももっと花やかな、都についでの文化の一中心であったことが考えられる。文部省から出ている『俚謡集』という本の中には、たしか伊豆半島の物搗歌として、鎌倉を詠じた民謡が三つ四つ出ており、つぎのようなおどけたものもその中にはまじっている。
鎌倉では女がないとて
猿に夜麦をつゥかせる
猿が三びき、手杵が三本
どォれも緞子の前掛で
しかし、伊豆ならば頼朝の覇府にちかく、また北条氏ともふかい関係があった。そこに昔なつかしい鎌倉の歌が、大事に保存せられていたとしてもふしぎはない。珍らしいと思うのはその鎌倉から、百数十里も西にへだたった、中国地方のある田舎に、いつの間にかこんな歌がはいっていて、しかもその歌のこしらえかたが、伊豆の物搗歌などとも似通うていることである。京都をはじめとし、京と鎌倉との中間地帯にも、おなじ歌はまだ一つも採集せられていないが、東京のしゅういの村々のなかには、この「鎌倉の椿」の歌の断片と見るべきものが、まだ二つ三つはのこり伝わっていた。しかもおたがいにまったくそれを知らず、ただ偶然にわたしが母の歌を記憶していたのだけれども、気がついて見ると一国の文化は、わたしたちの知らぬまに国じゅうに行き通うていたのであった。皆さんもこれから注意ぶかく、だんだんと見たり聞いたりしたことを積みたくわえて行かれるならば、国の昔の交通の跡を明らかにし、昔の人の心持をよく理解し、またそれを一生涯、おぼえていることもらくなのである。
東京のもとのまわりには西南のはしに千駄ガ谷、北に片よって千駄木という町があって、ともに聞きなれぬ地名だから人が注意している。千駄ガ谷はもと郊外の農村だった。古い地誌にはここは広い野で、萱が千駄も苅れるところから、千駄萱といったのが村の名のおこりであろうと書いてある。一駄というのは駄馬一頭に背負わせるほどの荷物のことだから、萱はかるいといっても二十貫いじょうはある。それが千駄も苅れたとすれば、大へんな広い野にちがいないが、武蔵・相模の高原にかけて、それくらいの野は今でもまだ残っている。べつに地名にするほどの珍らしい事実ではなかった。千駄木のほうもその通りで、もとは一軒の家ですら、年に三駄五駄の木を焚いていたのだから、薪山としてはむしろちっぽけなものであった。
何かこういう地名の生まれるような原因が、ほかにあったのではないかと考えて見ると、日本全国を通じて、いちどに千駄の萱または木を、焚かねばならぬ場合がたった一つだけあった。それは夏の初め、農作にもっとも水の必要なころに、雨がちっとも降らぬと百姓がよわってしまって、いろいろ雨乞いの祈祷をする。その最後のものが千駄焚きだったのである。通例はこの火は山の頂上のいちばん天に近いところに行って焚くので、それで雲焼きとも雲焙りともいう地方もあるのだが、東京の近くはたれも知る通り、一日あるいて行っても尖った山がない。それゆえに何処かやや広々とした野を見つけて、人がそこに寄って来てこの大きな火を焚いたものとおもわれる。山の上であっては見に行くことも容易でないが、こういう平地ならば老人も女もゆき、幼い児童もまた連れて行ってもらわれたことであろう。そうして有名になって、その野が世に知られ、のちのち開墾せられて村になってからも、べつに新らしい村名を附けるにおよばなかったであろう。ただ近ごろは東京都の中などに、そういう雨乞いをする村がほとんとないので、どうだろうかと疑う人があるかもしれぬが、以前ごくふつうであった風習で、今はもうなくなったものは、この他にもいくつかある。ことに燃料がだんだん足りなくなると、このような事はせずとも、ほかにも方法があると思うようになるのはあたりまえで、今はしないということは昔もなかったという証拠にはならぬのである。
この本を読む人は、ほうぼうの土地で生まれた人、そうでなくとも父や母が、遠くの田舎で育ったという人が多かろうと思うから、この風習がけっして一部の地方ばかりのものでないことを明らかにすべく、こんどは成るだけ多くの実例をあげておくことにしよう。
まず名称のほうからいうと、これは千駄焚き、またはセンダキというところが、もっとも多い。しかし名まえだけではなく、じっさいにも木なり萱なりを千把は焚くので、労力だけとしても容易なことでない。それだから、七日や十日の雨無しには、もっとかんたんな別の方法で雨乞いをするが、それらがどうしても効果なく、いわゆる百計つきたという時になって、思い切ってこの手段に出るのである。田植や夏物の栽培にたいして、雨がどのくらい大事なものであったかは、こういう雨乞いの方法の何十種というほどもあるのを見てもわかる。二十三夜待などとやや似ていたのは、立待といって氏神さまの社の前に、氏子が何人か交替して立ちどおしに立っていて、そのあいだ鉦を鳴らしつづけること、これは静岡県西部の海近くなどにもある。あるいはまた川の頼待としょうして、谷の流れの上に棚をかけて、その上で神を祭り、または念仏を唱えることもあって、これは土佐の山村にも行なわれている。雨乞いに鉦を打ち太鼓を鳴らし、それにつれて雨乞踊をもよおすなどは常の例で、そのなかでも変っているのは紀州の岩代という村などでは、昔は大きな蟹をとらえて踊山という山の峰にのぼり、その蟹を中において大いにおどり、それからまたその蟹を持出して海上はるかの沖の、大きな岩の上におくと、かならず雨が降ったといってもいる。
あるいは宮や寺の宝物になっている古い仮面をかり、釣鐘をおろし、また路傍の石地蔵のもっとも霊験のあるというのを、繩でぐるぐる巻きにしたりして、川の淵などの定まった場所へしずめると雨が降るというのも多かった。山口県の北の海岸部には、蛇籠の祈祷といって、蛇を竹籠のなかに入れて、水の底にしずめるという方法もあった。もっと気味のわるい方法としては、ふだんは見ることもない牛や馬の首をきったのを、ある神聖なる滝の滝壺へしずめに行くというなども、わたしの子どものころまではあった。これらは汚ないことのお嫌いな水の神を怒らせて、大いに暴れていただくという趣意らしく、もちろん日本に昔からあったまじないではない。そのほか硯洗いといって家々から硯を出させ、それを一日に洗ってしまうもの、または百桝洗いといって桝を数多くあつめてきて、水の神の祭ってある池で洗うというものもあったが、雨が人間の力では自由に降らすことのできぬものであるゆえに、こうでもしたならばという試みがいろいろと考えられ、それがまた偶然に、たしかに効目があるという経験にもなっていたのである。
千駄焚きは、いよいよそういういろいろの手段がみな無効におわり、もはやしんぼうができないというときになって、村が大きな決意をもって取りかかる方法となっていたが、燃料がまだゆたかで、また人の手にもあまりがあった時代には、あるいはもっと手がるに、そういうくわだてをしたかも知れない。近いころまで、それがまだ残っていたのは、東北では岩手県の遠野地方などは千駄木、西のほうでは長崎県の下五島久賀島、佐賀県では厳木の山村、大分県でも玖珠郡の村々などにこの雨乞いがあり、それをセンダキというのもあるが、これらは千駄木ではなく「千焚き」であったかもしれない。数は千というほど多くても、もう束がずっと小さく、したがってまたこれを千把焚き、もしくは千ばえ焚きというところが多いのである。
長門の見島という島などは、畠ばかりの島だから、麦稈を千把、岡の上へもって行って焚き、これを千焚きといっている。佐渡の島などは薪を千把、山の頂上で燃やす雨乞いがあって、それを千把焚きといっていた。信州は山国でも、もう薪の少なくなった地方の一つだが、それでも各郡にこの千駄焚きという語はのこっていて、じっさいはただほうぼうの家から、松の枝などを持ちより、大きな火を山の上で焚くだけである。千駄というような莫大な萱や木を、集めて焚いたのは遠い昔のことで、今ではただ藁や篠雑木などの松明を多く背負って、山に登ってゆくのが通例のようになり、また炬火だから夜にはいると、とちゅうからでも火を点して、行列をつくって頂上に到着すると、その残りのものを一ところに集めて、焚いてかえるのが雨乞いになってしまった。わたしなどの故郷では、夏のなかばの真暗な晩に、この炬火の長い行列をながめるのは、虫送りとともに美しい見ものであった。あの二つのちがうのは、虫送りは田の中だけを廻って早くかえってくるが、雨乞いのほうはだんだんに高くへ登り、また隣の村々の火も遠くから見える。たのしみは長かったかわりに、虫送りのように、毎年ひんぴんとは実行せられなかった。そうしておこりは一つにちがいないのだが、これはもう千焚きとも千把焚きとも、わたしの村ではいわぬようになっていたのである。昔の千駄焚きの壮観にくらべると、いくら美しくとも、これは事が小さく、思い切った手段ともいえないのであるが、しかも土地の人々は、このために祈願の力が弱くなったとは思わず、ついこのごろまで必死の場合には、この方法によるほかはないと考えていたのは、わたしには深い理由があることと思われる。それを一言でいうならば、村の総員が心をあわせて、ぜひとも雨を得ようと協力することは、燃料の分量とは関係なく、昔も今も同じことだったからである。
これについて思い合わされる一つの事実は、以前は越後では好いおしめりをもとめるために、田植のはじめ苗代のおわりころに、農やすみの日が何日かあった。早朝に氏神さまにおまいりして、しばらくすわっているくらいがその日の勤めであって、なにも積極的に働く用はなかったらしいのだが、それでもなお、この日業を休まずに、常の仕事をしている者はひじょうに憎まれた。そういうことをする者が一人でもあると、夕立雲がおこり雷が鳴り出しても、その村だけは降らずにすぎて行くともいって、憎むというよりもむしろ怖れた。ただの噂話だったかも知れぬが、そういう不心得な者の家には、村の若い衆たちがやってきて、屋根の萱をひきはいだものだそうな。雨が降らずともよいのなら、この家に屋根は無用だろうといったともいうが、じつはこのあたりの農家はユイ組としょうして、村人の協力をもって屋根を葺いていたから、そういうことも言えるのであった。雇われて働く人々にとっては、休みは一つの権利だったか知らぬが、自分の身をつかっている独立の農民には、それがまた大きな義務でもあったのである。少し手のたりないよく稼ぐ夫婦者などは、休みたいのは人とかわらぬが、ここでもひと区切りはかを行かせておくと、あとがつごうが好いのだがと思うことがしばしばあった。それで人の目をしのんで働いていることもあり、またそれを見つけて憎みおびやかす者もあったのである。
すなわち方式はのちにいろいろと変ってきたけれども、雨乞いもまた一つの臨時の祭りだったのである。村によってはこの日村の神社に参集し、または一夜を拝殿のなかに明かすところもまだ多い。それを神職または重だった氏子にまかせた場合でも、なお一同はめいめいの家に引きこもって、つつしみの日を送らなければならなかったので、この日に常の仕事をしてはならぬというのも、古来の物忌みの一つの形であったことが明らかである。沖繩の島には、ハブという毒蛇がもとは多く、そのなかで金ハブ銀ハブというのはことにおそろしかったのに、島の人はそれを神さまのお使のように思っていた。どういう人がこのハブに咬まれるかと聴いて見ると、主としてウマツリ(お祭)の日に休まず働いていた者が、咬まれるというのは意外な話である。神様はただそう多数の人が合同して祷るならば、助けてやらずばなるまいとおぼしめしただけでなく、その合同に加担せぬ者を、お怒りなされるとまで信じていた人があるのである。そうしてそれがまた、古くからのお約束でもあったかと思う。一族一村の住民のなかに、一人でもちがった感じをいだき、すべきことをせぬ者があるとすると、たったそれだけのためにも公共の願い事が、かなわぬ場合があるかも知れぬと、古風な人々は気にしたのであった。もちろんそのためには最初から、人心の一致を望まれぬような、小さな祈願の祭りは計画することはできなかったので、それで日本の神さまはいたっておおまかな、公けの大事にしか関与なされなかったのである。多数の人々がともどもに熱心になって願うことを、援助なされるのがわれわれの神さまであった。少なくとも古い人たちはそう信じていた。
しかし皆さんは、まだそういうことを考えて見る役ではない。ただ遠からずこれを決定する人となったときのために、今のうちからもっと多くの事実を、覚えておく必要があるだけである。それがおもしろくもなんともない事柄だったら、おぼえているのもご苦労なわけであるが、村ではこういうことが珍らしくまた新らしいものであり、村にはいっていると見まい聞くまいとしても、気がつかずにいられぬことばかりなのである。そうしてまたこういうことをよく理解するのが、土地に住む人々と、心をひとつにする途なのだから、まことに好い機会だと思ってよいのである。
村の祭りに一人の例外もなく協力し得るということは、もう大分ひさしい前から望みがたいことになっている。今日は氏神氏子の範囲がひろげられ、その地に生まれた者はみな、氏神の子と呼ばれているけれども、なお家々のお嫁さんいがいにも、よそで生まれた人が数多くはいって住んでおり、それが何年住めば氏子になるというきまりもなく、また皆さんのように今に還ってしまうことのわかっている人もたくさんいる。人の願いごとがみな一致するということも、またそう多くの人が一致して願い望むようなことも、だんだんと少なくなってきた。それで第二段の私たちの努力としては、そういうなかでもできるかぎり多くの人数を協力させること、さらにまた、わたしなどのように、遠くに住んでいる、めったにそんな祈願に出あわなくても、なお村の人の心持だけはよく解っているという者を、これもできるだけ多くすることが考えられるのである。
この二つの中の第一のほうは、しいて引っぱりこんでも、じつはねうちが少ない。これに反して、後のほうは、わたしたちの注意によりまた理解によって、まだまだうんと進めることができそうなのである。非常時になるとはじめて顕われるような女の人たちの心掛けのように、今まで知りようのなかったものは是非がないが、何によらず田舎の事といえば、ただむつかしくて、説明のしようもないようにきめていた人が多かったのは不注意な話である。
だから、皆さんは先ず最初に敬神ということは、たとえばどういうことをいうのかを注意して見るとよい。これは皇室をはじめ奉り、下々としても大事なことで、これをどうだってよいと思っている者はあり得ない。ところが文字のほうから物を学ぶ人たちは、これをただ神のお社を敬うことだとばかり思って、お社いがいの祭りは振り向いて見ようとしないのみか、氏子がめいめいの神さまを拝む心持が、どのようにあるかをさえも考えようとはしない。敬神という言葉は大昔から、いろいろの書いたものに用いられているが、それを見くらべてもはっきりとわかるように、神を敬うのはもとはありがたいと思うから、また多くの者がありがたがっていることをよく知っているからであった。そうしてこのありがたいは、ただの感謝とはちがうのである。そのはじめの心持は、ありがたいという言葉がしめす通り、ほかにはまったくあり得ないもの、人間の思慮のおよばぬところということであった。それを数千年間の経験だけによって、知ってよく覚えているのが信心というものであった。自分ではもう信心をすることのできぬ者があっても、これはいたしかたがない。ただ人の信心をかろんじたり、または何でもないことのように思って、深い奥底のあることを認めようとせぬだけはあやまっている。
人が多くの同志者と共に、同じ祭りをつかえまつる心づよさは、今では田舎の住人ばかりがよく知っていて、都会ではだんだんとわからなくなりかけている。田舎では土地にただ一つの神のお社の祭典に、不熱心な者のあるのをきらうのみでなく、どうしてもその統一が保ちがたいと感じはじめると、べつに少数の仲間だけで申しあわせて、庚申甲子等のいろいろの講、あるいは二十三夜講のようなものを組織し、また継続して、その講中だけは一人も脱け落ちず、我人おなじ心に信心をやしなって行こうとしているのである。都会もそのひつようは田舎よりは大きいのだから、以前はこの講がことに盛んだったのだが、何分各人の願い望みがまちまちであるために、今では名ばかりのこって、一年に一どの物詣りにつき合うだけ、またはほうぼうから集まってくるのみで、あの人はいったいどんな心願があるのだろうかと、たがいに知らぬ者が、ただおりおり顔を合わせることになっている。その結果としては祈願がますます小さく、またはなはだしく公けでない、身勝手なものになってしまったのである。
そうしてその以前の痕跡だけは、まだかすかに残っているのである。たとえば町でも年一どの大祭の日だけは、軒なみにそろいの提灯を入口へ下げさせる。これは雨乞いの岳登りに、百炬火、千束柴を持って出たのと同じものにちがいないのだが、今では美観が主になって、何のわけもわからずに、ただ祭りの景気だの、お祭り気分だのという人ばかり多い。昔も平重盛が千の燈籠をともさせて、燈籠の大臣と呼ばれたという話のように、一人の資力によってたくさんの人を使い、何か自分だけの心願のために、数の燈火を神にあげるというところもあるが、もとはこれも土地土地の協同であった。肥前五島の小値賀島の千燈籠などは、これもまた一部落の雨乞いのためであって、今は子どもが主になって岡の上で大きな火を焚き、あとでそれを松明にうつして下ってくるのであった。各戸が協力し、またどういうことが願わしいのかを、はっきりと胸に持っているのでなければ、この大がかりな願望もじつはただの慰みにすぎぬのであったが、それまで考えている者は、はたして町にもあるかどうか、よっぽど不確かなものになっている。
それからまた東京の附近などにも、つい近ごろまでは千本幟というものがあった。半紙を八つほどに剪ったのを糊で竹のくしに貼りつけ、それに拝みに行く神さまの名と月日などを書いて、参詣路の左右に刺すもので、ひと目でその神の信者の多いことがわかり、いわゆる景気のよいものではあるが、その代りには祭りの幟とは似ても似つかない、そまつな簡略な紙の小幟ばかりであった。これも現在は平重盛の千燈籠のように、ただひとりの者が、なにか願掛けをするときに、そういう約束を神さまにむかってする者が多くなっているようだが、村々のほうでは、もとは千度参りと称して、たくさんの人が言いあわせて、新たなる大きい祈願をする時だけ立てたもので、千人がそろうということはむつかしくとも、できるだけは一村各家から総出をして、一どに一本ずつ持ってきて立てるのが本意であった。時とわずかな費用とさえかければ、一人でならば何時だってこういう事はできる。ただそれが神さまのおぼしめしにもかなうと思ったのは、言わばやや勘定ずくな、いやしい、また新らしい迷信だったことは否めないのである。
幟は夏の初め秋のなかば、村にはいって行く者の気づかずにはいられない、もっともさわやかなこころよい印象をあたえるよい見ものであるが、これを祭りの日に立てるようになったおこりは、まだ考えて見た人がないらしい。わたしの意見では、さいしょ一つの高い木の柱を立てる習慣があって、夜はそのてっぺんで火をともし、昼はまた目じるしの白い布をつけたのが、のちのちあの大きな二幅三幅の竪旗となり、その布の上に天下太平だの、国土安全だのの文字を書くことになってから、それがよく読めるように、片がわに乳をつけ綱をとおし、ついにいま見る形になったものと思われる。近ごろはそとに出た人の家の前などに、何本となく立てる風習もはじまったが、もともとは定まった場所に、一本または二本ならんで立つのがきまりで、たぶんは神前の幣串とおなじく、これを中心に祭る人々のこころを、統一せしめるのが趣意であったのである。それを千本幟のように数ばかり多く、ちょうど千駄焚きが炬火にかわったごとく、めいめいべつべつに持つものにしたことが、すでに変遷であった。まして一人の手でこのようなことをするのは、ただ外観のためとしか思われない。それをお喜びなされるのは、昔からの神とはいうことができない。人の心の集合と統一とが、こんなものからはほとんと期し得られぬからである。
ところが田舎のほうには、これよりもひとつ前に、日幟さんといって、ただ一本の大きな幟を、多くの村人が集まってきて、一日のうちに作って立てるならわしがあった。伯耆の大山の麓の村里などでは、その日は正月下旬のある一日、または秋の収穫がすんでからのちに、一日のうちに木棉綿から糸を引き、機にこしらえて織りあげたものを、ただちに村はずれの路傍にもって行って幟に立てた。それは容易なことではないためだろうか、近年は糸だけは前もってしたくし、機ごしらえからはじめる村もあり、または綿布までよそで買いととのえて置いて、幟に縫うことからはじめる村さえできたということである。佐賀県の綾部八幡というお社には、もとは六月十五日、今は七月のおなじ日に、旗上げ旗下しという神事がある。古来十三歳になる女の子をひとりきめて、一日のうちにその旗の麻を織って旗に仕あげさせ、これを日旗と呼んでいた。十三歳の者でなくとも、ひとりの娘の子にはそれはむつかしい事であった。ゆえに物なれた老女が世話をやき、今ではまた老女にたのんで織ってもらうようにもなっている。この旗は、ふつうの幟よりも小さいものらしいが、それにしてもこの一日仕事に参与する者は、とてもひとりの老女だけではすむまいと思う。越後の七ふしぎの一つなる弘智法印の寺などでも、毎年四月八日の御衣がえという日に、もとは海べ七浦の姥子たち、おのおの一つかみずつの苧を持ちよって、一日のうちに紡み績ぎ織り縫って、法印の像に着せ申したのを、日中機といったということが、二百何十年かまえの『行脚文集』に見えている。今ではもうやめているかも知れぬが、これなどもおこりだけはこの日幟さんと同じものであった。
この協同はだんだんと形をかえて、今ではひとりの願いごとを助けるような習わしになろうとしている。たとえば同じ日中機でも、壱岐の島でそういうのは、ある家の幼児の乳呑歯が下のほうから生えずに上から生えるのを、よくないことと恐れ、これには七機一反の着物を着せるか、またはこの日中機を織って着せなければならぬといっている。七機一反はむつかしい言葉だが、七ヵ所の機で織った布をもらいあつめ、それを継ぎあわせて着物に縫うことで、これをまたナナトコギレともいい、そういう着物を着せて子どもが丈夫にそだつという地方に多く、それとおなじにまた七軒もらいとしょうして、七戸の家から米をすこしずつもらってきて、粥に炊いて食べると、夏負をせぬとも、あるいは病いがなおるともいい、あるいは七雑炊といって、正月七日の午前、七つになる児をつれて七軒をまわり、この日の雑炊を少しずつ乞い受けて食べさせると、丈夫な児になると信じて、今でもそうしているところが多い。七つはただ好い数というまでで、つまりはこうして多くの力を集めることが、本人の身の上にたのもしい効果をおよぼすということを経験して、村に住む人たちが久しいあいだ、たがいに助け合っていた点は皆にている。その七機一反のかわりになるのだから、日中機のほうもまた多くの親しい女たちが集まって、綜たり織ったり縫ったりすることを、手つだっていたにちがいないのである。
九州でも宮崎県の西南部、霧島山麓の村々などでは、こういう場合に織って着せる布を、ヒゲノノと呼んでいる。これも近所の女たちがよってきて、一日のうちに機にかけて織って縫って、その児に着せたのち、それを藁人形に着せたまま川に流したりする。ヒゲノノというのは日返り布、すなわち一日のうちに織って縫って着せて、流してしまうからそういうのかもしれぬが、壱岐から遠くない五島の島々が、日返り機というのなどは、流すということはなくて、やはり一日のうちに織って縫って着せる。そうして逆歯の生えるみどり児の全部でなく、丙午の年に生まれた児にそうするといい、または赤ん坊が夜なきをしてこまるときにも、この日返り機を織って着せる村があった。最初はかならずしも一つの場合にかぎらず、なにか気になるようなことのあるさいは、こういう着物を着せて神をおがませたのではないかと思う。
これらはいずれもぜひ一日のうちに、こしらえ上げねばならぬものではないのだから、むしろ衆人の力を集めているという点に、なにかわたしたちの、もう忘れた大きな意味があったのである。今日では人はそう毎日たのめないから、一日で片づけようとするのだと解する者も多かろうが、屋根も一日で葺き、味噌も一日で仕込むのみならず、蚊帳などもかならず一日で縫ってしまうべきものと、きめている家が京大阪にもある。香川県のある村では、お産の前に死んだ若い婦人のために、洗いざらしという五、六尺の布切れを、路のそばの地蔵さんの前などに張っておいて、通行の人に水をそそぎかけてもらうことは、ほかの地方も同じであるが、この布をまた一夜機としょうして、朝から糸を繰り機に立てて織ることにしている。鹿児島県南海の奄美大島では、十三歳になる女の子には十三袴といって、叔母さんから赤い腰巻をやることになっている。これも全国どこにもあることだが、この島のは特に一日のうちに織って染めて縫ってやることになっていた。すなわち、その叔母さんも一人だけではできぬことなのである。
旗や幟について、なお二つ三つのかわった話をわたしは知っている。一つは鳥取県のある山村だけで聴いたことだが、蓆旗といって五月の節供のまえの晩、子どもが欲しいのに産まれないという家の前に、若者連中がこっそりとやってきて、きまった方式のとおりに蓆の旗を立てるときっと子どもができる。その家の者が知っていてはききめがない。その方式というのは、まずこの家より上のほうに男の児をもった家の屋の棟に繩をゆわえつけ、つぎにその繩を氏神さんの社に引き、さらに子どものほしい家の外庭まで引いてきて、蓆旗を立てた竿のさきにむすびつないでおくのである。繩がとちゅうで地についたり、切れたりしていてはいけない。またこの法によって男の子の生まれた家からは、繩を引いてこぬという。繩と蓆はあとでこの家がもらい受けるというが、ともかくも相応の長い繩がいるであろうのに、それを当人たちには知らせずに、ひそかに用意をするというのは大きな好意であり、それをまた、氏神社につなぐというのも、信心の一つのあらわれであった。村に丈夫な男の子の増加することは、神さまばかりか村民にも望ましいことで、いぜんには東北地方で年切りという行事のように、果樹をたたいて千なれ万なれと、唱えごとをしていた正月十五日の晩、同時に若い嫁たちのお尻を、産めうめといって、打つまじないもあったというが、今ではもうたのまれもせぬのに、そんな事までする者は村にもおらぬであろう。しかし村がまだ淋しく弱かったころには、時をちがえてたがいにこういう助け合いをするまでに、村の人たちの団結心はつよかったのである。
それからもう一つ、信州の南部から美濃のほうにかけて、つい近いころまで、送り旗というおもしろい風習があった。これは旗とはいうが幟のことらしく、人がある遠くのお社を信仰して、幟を一つさしあげたいが参詣に行かれぬという場合に、それを作りあげて何里かは自分で持ちはこび、路のかたわらに立てかけてもどってくる。そうすると通行人のなかから、荷物はなくて信心の志のある者が、二里でも三里でもお社の方角へ送って行くのである。その協力がつもりつもって、しまいには志したところまでとどいたというのは、たれがしたとも知れないだけに、まことにゆかしい我邦の美風であった。あるいはまた地蔵送りといって、石の地蔵を造って、この方法で遠くへはこぶことが、一時はやったという話もある。これなどは荷馬車が多くなった時代に、主として馬方が篤志ではこんだということで、これにもやはり行くさきが書いてあるのを、読める人がもう多くなったお蔭であった。わたしなども今から二十年ほどまえに、奈良の二月堂に献上するという青竹の束が、あの交通の多い街道の片脇に、いくらもころがしてあるのを見たことがある。川すじや海の上では材木に大きく伊勢木と書いて、山から流したものがよく浮いている。あるいは酒樽に奉納住吉大明神、または金毘羅大権現宝前と書いたのを、海で船頭がひろい上げることもある。いずれも自ら行けない信心者が、おなじ志の者の多いことを信じて、だれともなしにたのみを掛けるので、人とともどもに神を祭ることを、大きな力と思っていた社会でないと、じっさいは思い切ってやれぬことであった。
この協同の信心ということは、もとは村かぎりの小さい氏神の社において生まれ、後においおいと国の大神の、たがいに知らぬ信徒のあいだにも拡がったものと思うのだが、それにしては、その本元の村や大字において、やや結合のゆるみ始めたのが、少し早過ぎるように思われるのは残念である。しかし、そうなった原因には、同情しなければならぬ点がいくつもある。その一つは、村で産土とも、また氏神ともいうお社がきゅうに大きくなってきて、これをお祭り申す人員が増加し、なかまがいくぶんか雑駁になったことである。それはかならずしも明治の御代のおわりに近く、政府の手で行なわれた神社合祀によって、始まったことではない。がんらい産土というのはもとどころ(本居)、自分の生まれた土地というだけの意味であって、そこには氏ごとに、一族ごとに、それぞれのちがった氏神を祭っていたのを、故郷が一つで共に出て働いておりながら、めいめいその本居の神がちがうのはこまるという考えがおこって、だんだんとこれを一つにするほうへ進んできたものらしい。村にとどまっている人々の中でも、隣の氏神祭りは、人数が多くて、にぎわしく楽しそうなのに、こちらは集まる者がすくなくて心ぼそいという感じがして、時によっては合同してもう一つあらたに御社を建てた。たとえば近くに有力な寺などがあって、そこに祭っている鎮守の神の祭りに、住民が参加することになったなどはそれであり、また外からきた人に勧められて、とおくの尊とい大神をお迎え申したのもそれであった。しかしそういうことはしなくとも、村はおのずから産土さまとして共同に祭ってもよい大きな氏神が一つあったのである。我邦では、どんな小さな部落でも、大ていは三つ五つの氏が連合して住んでいる。そうしてたがいに縁組をして、血のつながりは、かえって一門よりも濃くなったものが多い。こういう人たちが相談をして、村にただ一つの大きな神社を維持しようということになったのだから、話はまとまりやすかったはずである。書いたものにはなっていなくとも、この歴史はまだ記憶する者がある。いくつかある氏々の氏神の中でも、いちばん家数が多く、またしっかりとした人のいる氏の神さまを立てて、そこを中心の神社とし、一同がそこで同じ日に祭りをすることになっているのがふつうのようで、もとよりそのためにほかの氏々の神を廃したのではなく、みんなその場処に集めたものと解していたのではあろうが、こうなってくるとそれぞれの氏族の、慣例や利害の差がすこしずつ現われて、古来定まった常の祭りのほかは、おりおりは一同の一致することのできぬ場合が生ずることをまぬかれなかったのである。
氏を同じくする一族の結合を、今日ではマキという地方が多いが、そのマキの内でも、気持のちがうことはまったく無いとは言えないが、その総本家の権能はひじょうに古くからのもので、これに楯突くことは世間からも許さないが、多くの氏々の連合にはそういう中心の力がよわい。それを統一するためにまわり神主、または宮座頭屋というかたい約束がむすばれ、あるいは世襲神職の家筋というものが定められたのであるが、これがまた二つとも、あたらしい時代になって取りつづけて行かれない事情があらわれた。外からきて一時寄留する人の多いためでなく、村のなかでも大分まえから、この点については少しこまっていたのである。
わたしたちのいう個人祈願、一人かぎりの願いごとを神さまに申しあげることが、日本の神道にもはじまってきたのはこの結果であった。仏法のほうでも国家のため、または少なくとも一つの郷土のために、祈願をするのがふるい教えであったのだが、中古以来そのほうはすたれてしまって、ただ誰かのために何事かを祷るものばかり多くなっていた。それを朝晩見なれているのだから、神のお社に向かって一人願いをするのも、格別あやしいこととは思わなかったけれども、これは我邦の昔の世にはないことであり、おそらくは神さまにも御意外なことであったろう。神仏のさかい目というものが、このためにいよいよはっきりとしなくなった。村では毎日のように参詣をしにくる人、そうでなくとも月の三日は、かかさず社頭を拝する人と、例祭の日のほかは一ぺんも顔を出さず、または祭りにすらいそがしいと出てこぬ者があるようになり、家々としても老人か主婦かが代表して、一人はかならず参っている家と、まったく知らぬ顔をしているのとができて、神信心の差等が日に増しいちじるしくなってきた。そういう冷淡な人と仲間になって、祭りをいとなんでも心願がかなうだろうかと、あやぶむ者の多くなったのも自然である。そこで一村のなかにもまた特に敬神の念の深い者ばかりの、共同ということがはじまってきた。神社が合祀せられ氏子が多くなると、そういう小さい団体はかずを増して、たがいに相手の心持が通ぜず、思いおもいなことをするようになったのである。
信心という言葉の意味が、これにともなってだんだんと変ってきて、のちにはかえって迷いの多い者、大小さまざまの村の外の神々にも、または神にも仏にも、そちこち、わずかずつ祈願をかけてあるくような者を、信心深い人ということになったのは、考えて見るとへんな話である。もちろんそういう人は外からは笑われる。そうして神信心という言葉までが、そのためにかるがるしく見られるようになったのは悲しいことであった。しかし村には決してそういう新らしい信心者ばかりがいるわけでない。今でもまだ人のもっとも大きな災厄危難をすくってくださるのは先祖代々いつの世からとも知れず、お祭りもうしている村の神さまよりほかにはないということを、信じてうたがわぬ者は半数以上で、それあるがために、国に大きな事件のあるさいにも、なお国民は向うところを失わずにいられたのである。神のご威力とおぼしめしとを信ずるのは、理論ではなくして経験であった。親々がみずから体験して、それを最愛の子や孫に語りついだものがよく記憶せられ、その方式のとおりに今も祭りをしてさえいれば、いつでも、わたしたちは安心していることができる。これに反して少しでも、以前の条件とはちがっていることに気がつくと、口には出さずともそれが不安の種になって、何かその代りになる補充になるものを探し出そうとする。小さな色々の堂や祠、またはあたらしい講や教団の現われたのもまったくそのためであった。
たった一軒の家のうれいや悩みでも、それが村人のひとりであるかぎり、けっして神さまは打ち棄てて置かれなかったことは、まえに紹介しておいた蓆旗の繩を、氏神社から子の欲しい家へ、引いてきているのを見てもわかり、または逆歯の生えた幼児のために、村の人が集まって日中機を織るのを見てもかんがえられる。こういう信心のもっとも明らかにあらわれているのは、村で大事な氏子が大病にかかって命のあやういときに、多くの人が出て祈願をする千度参り、または数参り、度参りともいうものであるが、これなども最初はもっとひろく、村に何事か大きな憂い事がある場合、ことに五月六月におしめりがなくて、田が植えられなくて苦しむときなどのほうが多かった。女や子どもまでを加えても、村では千人という人はなかなかそろわない。たぶんはめいめいが二度も三度も、かえってはまたお参りに行くので、千というのは精確でなくとも、じっさいは千度よりも多く、一日の内に神さまの前に出て、口々に同じ言葉を申しあげて、神さまを動かそうとしたことと思う。わたしたちが見てさえ感動せずにはいられないのは、漁船が沖へ出ているのに暴風雨が起こって、船がつぎの日までも帰ってこぬ場合などに、母とか妻とか姉妹とか小さな児童などがあつまって、この千度参りをするありさまである。隠岐島の海士村などでは、この日の祈願にさきだって、浜の小石を千個だけひろいよせて、めいめいがそれを一つずつ手に持って、お参りしては拝殿に置いてくるそうである。人がこれだけ一心になると、たとえば船がよその港ににげこみ、または嵐と入れちがって無事に帰ってきたとすれば、それを千度参りの力だと思い、また神さまのお助けと信ぜずにはいられなかったはずである。
そうしてこの浜の小石というのは、本来はただの数取りではなかったのである。すなわち海の潮をもって、まず身と心を潔くしてから、祈りを神に申すという意味があった。海から遠くはなれた山奥の村々でも、雨乞いその他の切なる願いがある場合に、やはり川の流れにひたって一つずつ小石をひろい、それを手に持ってぬれたままで参ることが多い。それを千度垢離とも千願垢離ともいうのは、多くの人がくわわり、また数多く参るからでもあろうが、もとは瀬垢離であったと見えて、これをまたセンゴリという村も少なくない。三河の山村ではこういうさいに、七ヵ所で水を浴びるので七瀬垢離といい、遠州の気多川すじではまた五十瀬百瀬などといって、だんだん上流のほうへ場所を変えて、水垢離を取ってお参りをする者もあるということである。垢離を取るというのは妙な言葉で、どうしてこんな文字を書くのか、まだはっきりとしていないが、ともかくも以前は神を拝する人々が、いずれも全身に水を浴びてから、はじめて神前に近づくのがふつうであった。今でも古いお社のそばには御手洗川が流れており、またそれをもっとも簡略にしたのが、多くの社頭に見られる銅や石の手水鉢である。近ごろではここで手を洗わぬ人さえ多くなり、いわゆる垢離もいっぱんに手がるになってしまったが、なお特別の切なる祈願だけには、真冬でもこれをしている人があるのである。
村々の年をとった女の人たちが、わが子わが夫の安否を気づかうのあまり、ふたたび昔の本式の潔斎をしている者は、近いころは非常に多くなっていたようであるが、土地の住民が集まってきて、同じ神さまに共同の祈願をするために、千垢離をとる場合はだいたいに少なくなった。そうしてふしぎにただ一つだけが、まだほうぼうに残っている。それはある一軒の家に重い病人がある場合で、これには身内や出入の者だけでなく、組合または部落総体から、一戸一人ずつがでて千度詣りをする風習が、しばしばこの千垢離をともなっているのである。これを見舞参りというところもあるのを見れば、今では半分は世の中の義理、前には自分の家も同じようにして助けられたとか、いつかは此方もそうした世話になるのだからとか、村の附合いということが根になっているのだろうが、これが氏神の御心にかなって、危篤な病人を恢復させる力になるという事を信じていなかったら、単なる社交だけでは、これまでの協力をなしあう者はなかったろうと思う。つまりは願い事があまりにむつかしく、個人の智恵や技術だけでは成就の望みがないと思う場合でも、これがただ一つの家だけの私の利益ではなくして、村人多数のともに切望するところでありますということを明らかにすれば、それならば助けて見ようというおぼし召しが神にもあって、お蔭を被ることが多いということを、久しくわたしたちの祖先は経験していたのである。村に住む者が吉凶禍福、常にたがいに助け合わねばならぬという考えかたが、たまたまその信仰と結びついたものとわたしは思う。この千度参りを村の人にしてもらって、危ない命を取りとめたという者の話なども、注意しておれば折り折りは聞くことができる。土地によっては千度参りの人たちは、社の前に立って大きな鬨の声をあげる。それが病人の枕もとまで聴こえてくることもしばしばある。あるいは参詣の人たちが垢離を取った姿のままで、帰りにどやどやとその家に寄って行くこともある。こういう声を聴くと、たとえようもなく心丈夫になり、また元気がつくものだそうである。あるいはこういうところにも共同の祈願の隠れたる効果があるのかもしれない。
ところがこの千度参りの人の数というものは、じっさいはだんだんに少なくなってきている。ことに交際のかぎられた都会の人々などはお百度はただ一人で踏むものと思い、なんべんも同じところへ行くことを、お百度を踏むという諺さえある。大きなお社の鳥居の脇にはお百度石という石が立っていて、手に数取りの紙縒や竹の串をもって、脇目も振らずにそこと社殿とのあいだを、往き返りする人を毎度見かける。これも病人のためか、または遠いところにいる旅人のための、切なる願い事であることは同じなのだが、今ではそれがもう純然たる個人祈願になってしまっているのである。
一つの神さまのお社へ、百度二百度のお参りをする代りに、つづけて数多くの宮を巡ってあるくという風も、大分前からはじまっている。ちかごろではこれもきゅうに盛んになったが、以前も春と秋の時候のよいころに、または田植のあとの休み日などに、仲間を何人もこしらえて百社参り、千社参りをするのも神信心のうちに算えられていた。京都は大きな神社の数多い土地であり、朝廷でもなにか事があると、一時に全国諸社の奉幣を遊ばすので、なにか一つの社だけに願掛けをすることが、他をおろそかにするように感じられたのであろう。この風習の起こりは都方であった。最初はもっぱら祈願のためだったかも知れぬが、こうして季節をえらみ休日を待ち、または好い同行をさそい合わせるようになると、半分は遠足やハイキングに近い。江戸ではもう二百年近くも前から天愚孔平という人がやり出して、千社札ということがはじまった。これなどはただ自分の名をいろいろと小札に印刷して、それをできるだけ多くの堂宮の戸や柱にはってあるくだけで、刷毛のついた継竿などを用意して、手のとどかぬような高いところにはり付けるのを手柄にしていた。その札が今でも思いがけず、とおい村里のお社の軒にも見られるのは、まだそういうことをする人が少しはあるのである。それにくらべると近ごろの千社参りなどは、大ていは外にいる者のためであって、ただじっとしては居りにくいような心持から、そうしてあるく者が多いように思われるけれども、これまでなんの縁も親しみもなかった他処のお社に、そう数多く願いをかけて見たところで、それが集まって一つの大きなお助けになるとまで考えることもできず、むしろ念力の分散に帰することはわかっているはずで、言わばただ一つのまじないだから試みにそうしてみる、みんながするのを見れば効果があるのかも知れないというような、淡いかすかな望みから出たもので、これもたがいに祈願のすじをよく理解した、よい協力者の得られなくなったためだとすれば、同情しまた深く考えて見ねばならぬことである。
人が独りの力ではどうすることもできぬことでも、多数の志を集めるならば何とかなるということを、千人針というものはよくみとめている。しかしそこには人間以上の高くすぐれたお力があって、われわれの願いに応じてくださるという信頼はないのだから、これもなおまじないの一種でしかない。日本人のかつてしっかりと持っていた信心は、けっしてそんなものではなかった。一つの願い事が公けのものであり、村を同じくしてともに住む者の、ひとしく願わしいものであるときまると、たった一人の村民を活かせておきたい、またはたった一人の赤子を増加したいというような小さな願望にも加担して、その一軒の家を助けて、というよりもむしろそれに代って、協同の祈祷に熱中したのであった。それ等とくらべると何千万倍とも知れないほどの大きな願い事は、今やわたしたちの心の中に燃えあがっているのである。そうしてその願いの筋には、各人寸分の差異もない。それを一つにまとめて貫徹させる意気ごみだけが、欠けていつまでも備わらずにいるわけはないと思う。
岡山県の各郡などでは、村々の氏神社で行うこの協同の祈願祭を、総参りといい、またせい参り、せい祈祷ともいっている。このセイももとは千垢離などの千だったかも知れぬが、今いる人たちは皆いきおいのセイと心得て、勢参り勢祈祷と、字にも書いている。これはもっともなことだから私たちもそういう言葉を使おうとおもう。勢祈祷も近ごろは病人などのためばかりだから、だんだんと人数が少なくなっているが、この大きな総国の祈願を機会として、できるならあるだけの人が参加し得るような、かんたんな式を設けたいものである。ふつうの勢参りでは、まず神前にうやうやしく拝をしてのちに、帰りに一同がウヮーと高い声をあげる。これを鬨の声ともまた総の声ともいった。他の府県の千度詣りにもこれはよくあることで、あるいはエイエイと力のこもった大声を出すので、これをエイエイ祝詞という土地もある。もとは年越しその他の定例の祭りにも、氏子が集まってこの総の声、またはエイエイ祝詞をあげるお社があったそうである。古いむつかしい文章で、祭りの目的をくわしく申しのべる必要は少しもない。神さまは赤子の初宮参りの日から、もう氏子をごぞんじであって、それが心に何を願っているかもよく知っていられるものと、昔からわたしたちは教えられていたのである。ただ必要なことは諸人の熱意が満ちあふれ、しかもみな揃いであることを明らかにすることであった。それが明らかになると祈る人々みずからに、神は聴き受けたまうべしという信仰が生じたのである。この必要は多数の国民の必要である。少しでも人の熱意を冷しさますようなことは、如何なる立場にある者でも、ともどもにこれを慎まなければならない。
都会で育った人たちは物わかりが早く、思いやりのある人が多いのだが、周囲がいそがしくて、ゆっくりと話をして聴かせる者がすくないので、なにも考えずに大きくなるというようなこともないとは言えない。こんどはちがった土地で年を迎えて、見ること聞くことが皆あたらしく珍らしく、それだけにまたこちらもよく注意をするので、かえってきてからの話の種はどっさりできることと思う。そういう中でもためになりまた楽しみになるものを、ついうっかりと聴き流してしまわぬように、わたしなどが若いころから聴きためて、だんだんと深い意味のわかってきたいろいろの昔話のなかで、親棄山というかわった話を一つして見よう。
親棄山とはけしからぬ話、聴くも耳のけがれと思う人もあろうが、これはそういう驚くような話題をだして、まず聴く者の注意をひき寄せようとする手だてであって、じっさいは人に孝行をすすめる話なのである。人によってはまた棄老国ともいうが、この名称は外国からきている。昔々、いつのころとも知れない遠い昔、そうしてまた何処にあるかもはっきりしない、ある一つの国に、親が六十歳になると、山へ棄ててこなければならぬという、とんでもない習わしがあった。それが一人のよい子ども、もしくは心のやさしい者の行いによって、もう永久にそんな事をする者がないようになったという話、その話し方がまた変っていておもしろいのであった。
この話は日本全国にといってもよいほど、ひろくほうぼうの土地に行われていた。もとはおそらくは誰でも一度、大きくなるまでにはかならず聴いたものと思うが、今日はもう知らぬ子が多い。そればかりか地方によりまた家によって、その話し方がよほどちがっていて、一人で二通りの話を知っている者はまずないから、ここと他処とではどういう風にちがうかということに、気がつかずにいるのがふつうである。わたしはよほど久しい前から採集を重ねているので、大よそはその土地土地の変化を語ることができる。それがこれからの人にも、好い参考になるだろうと思うのである。
話を親棄山ということは同じで、事がらのかなりはっきりとちがっているのが、私のしっているだけでも四種はある。そうしてその二つは、明らかに外国から採用したもの、他の二つはたぶん我邦に、よほど古いころからあったものである。試みいたれか話の好きな老人にたずねてごらんなさい。事によるとまだ私も知らぬような、また別な珍らしいのを覚えているかも知れない。それからまた次にわたしのいう話を二つ以上、つなぎ合わせて一つにしているかも知れない。どうしてそういうようになるかということも話してみたいが、その前にざっとその四通りの話をくらべて見よう。
第一種の話というのは、ある男が六十になった親を畚とか簣とかに入れて、小さい息子に片棒をかつがせて、山の奥へ棄てに行く。やがて簣も棒もそこに置いてかえってこようとすると、その孫が父にむかって、これは家へ持ってかえりましょう。今にまたいることが有るからといった。それを聴いた男はああそうだったと心づき、親を棄てることを止めて、またつれてもどったというので、この話はよほど古いころから、支那で有名な話だったということで、いろいろの本にも絵にも彫刻にもなっている。本によってはその孫の子が、わざとこういうことを言いだして、父の不孝の行いを諫めたのだから、孝行者の手本だといっているが、それならば父についてわざわざ山奥まで出かけるまえに、そう言ってもよさそうに思われる。日本の話では、少年がただむじゃきにそんな事を言い出したので、父がびっくりしてなるほどそうだったと思い、善心に立ちかえって棄ててかえるのを止めたと話すものが多いが、いずれにしたところで、これはいささか感心しない利己主義であった。東北地方に行われる一つの例では、その息子が父にむかって、わたしにはとてもそんな事はできぬと言って泣いたので、それに感動してふたたび老人を、つれもどることになったという風に話しているものもあるが、ともかくも孫の少年の言葉によって、親を山に棄てるというような悪い行いを、止めたという点まではどれも皆同じである。
第二種の話し方は、これよりも今すこしこみ入っていて興味がある。むかしむかしある国の王が、年寄りはいらぬものだから皆棄ててしまえという命令を出して、それにそむいた者は厳罰を受けることになっていたさいに、一人の孝行者がどうしても棄てることができず、親を床の下とか土手の陰とかにかくして置いて、そっと毎日の食物をはこんで養っていた。そのうちに敵の国から、こちらの人の智恵をためそうと思って、むつかしい問題を出してきた。これに答えぬと恥でもあり、また賢こい人がないと知って、攻めてこられるにちがいないので、誰かこの難題を解く者があったら、望みしだいの褒美をくださるということになった。親をかくしていた孝行なせがれがその話を親にすると、そんな事はなんでもない。こうすればよいのだとかんたんに教えてくれた。それを王さまのところへ申し出て、賞与の代りには親を棄てなかった罪をゆるしてくださいというと、王もはじめて老人は賢こいものだということに心づき、かつは息子のやさしい心掛けにかんしんして、約束の褒美をあたえると共に、さっそくそんなまちがった命令を取消したという話で、これも我邦へは支那からはいってきたらしいが、もとの起こりは印度であり、『雑宝蔵経』という仏法の経文のなかに、出ているということまで今日ではもうわかっている。
しかし、この話の日本にきたのも古いことで、人によってはこれをこの国であったことのように思っている者もあるくらいに、今なおほうぼうの農村において語り伝えられている。年を取った人たちには深い智恵があって、それに教えてもらえば敵の国のあなどりを防ぎ、またはたくさんの賞与を受けることもできる。だから大事にしなければならぬ、棄てたりなんかするのは損だというのは、考えて見ると誠にいやな話で、とても日本人などのもっともだとは思えないりくつであるが、それとは関係なしに、この昔話のおもしろかったのは、話のなかに出てくるいくつかの試験問題というのが、いずれもちょっと聴けば不可能のようで、よく聴いてみればなるほどそうだなと思うような、智恵の練習になるものばかりだったからで、親を棄てるなんていうことがあるのかと思う子どもたちでも、このほうには耳をかたむけずにはいられなかったのである。村で昔話のじょうずと言われる老人などが、おどけまじりにこの話をして、だから年よりは大事にせねばならぬということだなどと、気がるに笑っていたようすが目に見えるような気がする。
そこで一体どういう種類のめずらしい難問題が、老人の力でなくてはとくことができなかったと語り伝えられていたかということを、少しくわしく話して見ると、日本ではそれが七つほどあって、どれもこれも相応にひろくそちこちに行われている。この七つのうち、五つはすくなくとも外国からはいってきたものであった。ただし我邦では印度のように、敵の国がこちらの智恵をためしにくるなどということはないので、それをごくかんたんに殿さまの懸賞で、これができた者には一万両の御褒美などというように、翻訳しているのが多いのである。
いちばん有名なのは七曲の玉の緒、一名を蟻通しという話、これは今から千年も昔、紀貫之の時代よりも前の事とさえ言われている。大きな玉に穴がとおっていて、その穴がなかで七つも曲っている。これへ緒をつらぬいて見せてくださいという敵方の望みである。これにはだれもよい考えがなく、なんと返事をしてものかと困っていると、老人がそれを聴いてそんな事はなんでもない。蜜を一方の口の穴に塗っておき、蟻の足に絹糸をゆわえて、こっちの穴から入れてやれば、蜜の香に引かれてきっといっぽうへ抜けて出る。その糸をだんだん太くすればよいと教えてくれた。このためにもちろん親を棄てずにいた罪はゆるされたのみか、のちに神にまつって、蟻通明神というのがそれだということになっている。その話は古い書物に書いてあるばかりでなく、今も国民の口から耳へ、切れ間もなく語りつがれているが、村々の子供には玉というもの、それに七曲りの穴を通したものなどということは考えにくいので、信州の南のほうではこれを法螺の貝に緒を通すといい、加賀の江沼郡などでは栄螺の殻の底に穴をあけて、蟻をはわせて見よと、いったことにもなっている。そうしてこの話をかんしんして聴く者は、大ていはそれがそのように遠い昔から、日本にあった話だということを知らずにいるのである。
それから次には木の本末、および親子馬という話があって、二つともに八百何十年もまえの、『今昔物語』という本に出ている。なにか珍らしい三尺ばかりの木の棒の、同じ太さにけずったものを持ってきて、これはどちらが先のほうで、どちらが根元かあてて見てくださいと、言ってこられたので困ってしまった。孝行な息子がそっとかくしていた父にたずねてみると、それは何でもない。水に流して見てやや沈むほう、または川下になるほうがその木の根もとだと教えてくれた。また毛色のよく似た同じくらいの馬を二匹ひいてきて、これは親子ですがどちらが親ですかきめて下さいといった。これも年寄りの智恵によって、秣をあたえて見て、まず食べるほうが子馬の大きくなったのであり、それを見ていてゆっくり後から食べにかかるのが親だと教えられ、その通りにして見たら果してすぐにわかった。動物でも親の愛情は深いものだということを、この老人が知っていたのである。
それから是とやや似た問題で、二つの蛇を持ってきて雌雄をくべつして見よといったこと、これは印度でできたという『雑宝蔵経』にも出ている。すべすべとして絹の敷物のうえに、二ひきの蛇をのせて見ると、さわいではいまわるほうが雄蛇であり、じっと静かにしているのは雌蛇ということを知っていたので、これもかんたんに答えることができた。今一つは大きな象を引ぱってきて、この象の重さは何千貫かという問いで、これも相応な難題だが、支那の古い本に出ている。日本では象の重さといっても子どもには考えにくいので、それをでっかい牡牛という話にしている。支那のほうでは賢こい子どもがあって、それを考え出したことになっているのだが、我邦ではやはり親を棄てていた時代に、棄てることを悲しんでかくして置いた老いた父の智恵ということになっている。船を水に浮かべてその上にこの牛をのせ、どこまで沈んだかをしるして置いて、あとでその印のところまで数多い石を積み、その重さを加え算すれば、わけなく牛の目方がわかるというのである。今の子どもならそうむつかしい問題でもないか知らぬが、以前はそれを聴いてなるほどそうだったと思う者が多かったらしいのである。
この以外にもう二つ、老人のおかげで答えられたという難題があって、これだけは日本で昔話をする人たちが、思いついた趣向だったように思われる。その一つは灰繩千束を献上せよ、今ひとつは「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」を持ってこい。どちらもただ人を困らせるだけの命令であって、どうしてそのような無理をいったのかと思うようであるが、もともとこれは「殿さまの難題」という別の話のなかにあったものを、借りてきてここに使っていたので、つまりは外国から持ってきた話の種では、じゅうぶんに日本の子どもを楽しませることができないから、だれかが取りかえてこれを年寄りの考え深かった例にもちいたものと思う。灰で繩をなうということはできる事でない。どうしたらよかろうかと思案投首をしているのを見て、繩を千束ないあげてから、それをそっくり焼いて灰にして、献上すればよいじゃないかと、注意してくれたのがその父であった。それでは崩れてしまうと思ったものが、塩水によく浸してから焼くようにと教えたという話しかたもある。「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」などは何処にもない。さてさて困ったと困り抜いていると、それもなんでもない事だと小さい太鼓の革をはがして、その中へたくさんの蜂を入れ、鋲を打ちなおしてむりな殿さまのところへ持参させた。最後にその蜂がぶんぶんと飛び出して、殿さまや家来を螫したので、もうこらえてくれとあやまった、などという笑いの結末にもなっている。
少し長たらしかったが、これまでが親棄山の第二種の話であって、日本にも流行し、また少しずつの作りかえもあったとは言いながら、本来は支那または印度にはじまった昔話である。老人はかんがえ深く、またいろいろの好い経験も積みたくわえていて、なんか困ったことがあると助けてくれる。それだから大切にしなければならぬと言うのでは、親孝行もなんだかかんじょうずくになって、われわれの心持とは、一致しない。これがただおもしろいから外国から採用したものであったのは、むしろそうなくてはならぬことのように思われる。
しかし、こういった外国の昔話が、千年も八百年もまえに、もう我邦の人たちに覚えられていたということは、こちらにもそれと半分以上似かようたものがあったためだと見ることはできないであろうか。果樹や花の木の新種というものは、実をもいで来て播いて生やすよりは、台木を見つけてそれに接穂をするほうが早く成長する。そしてその台木には大ていは同種の木が用いられる。親棄山の昔話にも、そういう台木になるものが前々から、日本にはすでにあったのではなかろうか、わたしは今それを考えているのである。
そう思って気をつけていると、この二通りの話し方いがいに、日本にまたべつの親棄山があり、和歌で有名になっている信州更級の姨捨山なども、その一つの残りの形であるような気がする。姨捨山の話も中世の書物に多くあらわれ、ことには『大和物語』という本にあるのが、よく人に知られている。この文学のなかでは、棄てられた人が親ではなくて、伯母だったということになっている。これはたぶん母親を山へ棄てたというのを、あんまりな話と思ってかえたのかも知れぬが、小さい時に母をうしなって、親代りにそだててくれた伯母だったというから、おだやかでないことは同じである。古い日本語ではウバは姥と書き、母でもだれでも尊敬すべき婦人は皆ウバであった。母をウバまたはウマ・アッパなどという言葉が、田舎にはまだ行われている。京都だけには母をウバと呼ぶ習わしが早くからなかったので、これを伯母を棄てた話にあらためることが容易だったらしいのである。そうしてこの話は和歌を愛した人々のあいだでは、よほど以前から話しかたが大分ちがっていて、本を読む人の数が多くなるとともに、こればかりがひろく知られることになったものかと思う。そのもとの形かと見られる話が、まださいわいに田舎には今でものこっている。それとくらべて見ると新旧のちがいがよくわかり、本に出ているからそれが最初からの話だったと、言うことのできない証拠にもなるのである。
このことをあまり強くいうと議論になり、みなさんの読み物にはむかないから、ここにはただざっと姨捨山とよく似た話が、今でも東北地方にはあるということを述べて、どこまで似ているかを考えて見ることにしよう。前にあげておいた二通りの親棄山、すなわち孫の言葉と老人の智恵才覚と、二つの外国できの昔話とちがっている点が、こちらの二つの話、すなわち姨捨山と親棄山とではたがいによく似ている。たとえば親が六十になると棄てなければならぬという、法律があったということはこちらでは言わない。それから今一つは男は心がやさしく、いつでも孝養したいと思うのだけれども、その女房がはなはだよくない女で、年寄りをうるさがって棄ててしまいなさいと始終すすめる。あまりいろいろというので男もついに負けて、姥をだまして山へつれて行くことになる。この二つの点は外国からきた二種の話にはなく、こちらの話では二つとも同じである。ただ『大和物語』などに書いてあるのは、その晩はちょうど好い月夜で、じっと山を眺めていると悲しくなった。それで男は、
という一首の歌を詠んで、またふたたび老女をむかえに行ったということになっていて、その後どうしたかをくわしくは語っていないのに、いっぽうの奥羽地方などに行われている話は、その悪い女房が罰せられたという点がちがうのである。これは日本ばかりにかぎらぬことだが、昔話には舌切雀のおもい葛籠の婆のように、または花咲爺のとなりの慾深爺のように、善人がしあわせをしたという話には、かならず悪い人が悪い報いを受けたということがついている。たぶんは聴く者にはっきりとひびくように、また話を長くおもしろくするために、裏と表と両面から、ていねいに説く習わしがあったのであろう。そうしてこの民間の親棄山においても、やはり棄てられた老女のふしぎな幸福を語るために、こんなありそうにもない悪い女房を、引っぱってくる必要があったものかと思う。
この話は今のところ、わたしの知っているのが五つか六つあるが、土地によって話し方がすこしずつちがっている。しかしだいたいは皆おなじ結果で、老母は常日ごろ心掛けのよい人だったゆえに、山の神さまのめぐみを受け、またはふしぎの幸運によって、思うことのなんでもかなう打出小槌という宝物を手に入れる。それで地をたたいて、まず食べ物や着物を打ち出し、つぎに自分が若くまた美しくなり、それからその山中を大きな町にして、りっぱな家をその中央に出現させて、店を開いたともいえば、酒屋になったともいっている。悪い女房はその噂を聴いて、うらやましくてたまらなかった。それでこんどは男にたのんで、自分を山のなかに棄てさせたが、あてにしていた宝物は手に入らず、ひどい難儀をして死んでしまったという話で、もちろんわが心なぐさめかねつというような、あわれな三十一文字などは残ってもいないのであった。
古いころの昔話には、和歌をともなうものが、このほかにもいくつかあった。なかには歌だけが前からあって、それを説明するために話を取ってつけたものもある。姨捨山などはその方であろうという人もあるが、大ていの場合には話をする人が、作ったものと見てよいようである。もともと実際にそういうことがあったわけでなく、いずれだれかがこしらえて、語りはじめたものであろうから、歌もその時からできていたとも考えられようが、それにしては少しばかり合点のゆかぬのは、同じ一つの話がほうぼうの土地にあって、あるところでは歌がつき、またあるところでは歌なしにその話をしている。ことに外国に似たような話のある場合などは、言葉がちがうから歌までは持ってくることができない。それでわたしなどは昔話の聴き手、すなわち人の話すのを聴いて心をうごかした者が、後におぼえていてつぎの人に伝えるさいに、新たに歌だけをつけ添えることが、しばしばあったものと想像しているのである。その一つの好い例として、ちょうど第四種の親棄山、これも我邦に古くからあったもう一つの話を紹介して見よう。それがまたわたしの最初からの目的でもあったのである。
その第四の昔話というのは、前の三つのどれよりも、かんたんでまた古風であった。あまりかんたんなためにこの頃では、後先におまけのついたものが多い。どうして親を棄てることになったか、もとは明らかになっていなかったらしいのを、このごろでは外国風の棄老国にならって、そういう法令が出ていたようにいう話もまれでないが、それではこの話の感動は少しうすくなるのである。最初はただ何かよくよくの理由があって、どうしても親を山の奥へ送って行くことになり、親もしょうちの上で子の背に負われ、山にはいって行ったという話だったかと思われる。老人の智恵という話が多くは父親であるに反して、このほうは母親だったというのがふつうである。その母が子の背に負われていて、路々左右の木の小枝を折ってゆく。または草をまるめて棄てて行ったとも、あるいはけしの種子を少しずつ播いたともいうところがある。どうしてそのようなことをなさるかと息子がたずねると、おまえがかえって行くのに路に迷わぬように、栞をして置いてやるのだと答えたので、親の慈愛に深く感動してしまって、何がなんであろうとも、この親を山にはのこして置けないと、ふたたびその場からつれてもどって以前にもまさる孝行をしたという、いたってみじかい話だったようである。けしの種子を撒いて行くという話の、まちがいであったことはだれにでもわかる。そんなものを撒いて置いても、息子のかえり路の役には立たぬからで、これはお銀小銀というようなまたべつの昔話で、妹が春になってから、けしの花の咲く路をたどって、姉をたずねてくるようにこの種子を蒔くという話をつぎ合わせたもので、もとからの話ではなかったのである。
それよりも現代行われている各地の話には、この後へもってきて木の本末や親子馬、または灰繩千束などをつけたしたものが多く、そのためにまた負われたのを父親とし、その親が詠んだという和歌までを取りかえているものがある。こんどは日本の南の端の一例をあげてみると、鹿児島県の甑島などでは、その父が息子の背に負われて木の小枝をおって栞とし、わけを問われるとこういう歌を詠んだ。
それで同行していた孫がその歌に感動して、父を説きつけて祖父をつれもどったという点は、第一種の畚をもってかえろうといった話であり、それから家にかくして置くうちに祖父の智恵によって、蛇の雌雄と木の本末とを見わけよという敵国の難題をといた第二種の話とを、継ぎたしているのである。話としては外国から輸入したもののほうが、あたらしくまた珍らしいのだから、それが流行したのはやむを得ないが、そういう中にもなお昔からの、もっともかんたんな話と和歌とが、遠い島々にはまだ痕跡をとどめていたのである。
大体からいうと、昔話はだんだんと興味深くなり、笑って聴くようなものが多くなってきている。おもしろいと思って聴く者がふえてきたかわりには、心からこれに感じいって、一生わすれずにまた次の代の若い人たちへ、話しておこうとするような者はすくなくなって行くように思う。甑島の老人が詠んだという道すがらの歌なども、古く伝わっているのはもっとよい歌であった。そうして女の歌であり、また涙をこぼして感動した母親の歌でもあった。
これをまた「我が身を分けて」と言い伝えている人もあるが、それでは力がずっと弱くなる。身をかき分けてという歌言葉は、母の口ずからでないと出てこない言葉であった。わたしの想像するところでは、はじめて和歌を添えてこの昔話をしたひとは、ある一人の母であった。若いころは心のやさしい娘であって、かつてしみじみとこの昔話を聴いて、一生のあいだおぼえていたのである。それを年とってから娘たちに、またはかわいい孫たちにして聴かせる時に、思わず知らずこういう歌が心に浮かんで、それを山に棄てられにゆく老女の作のようにして、高い声を出して歌ったので、じっと聴いていた若い女たちも、親のありがたさをじんと胸にひびかせて、おそらくは皆涙ぐんだことだろうと思う。わたしは母にわかれてからもう五十年にもなるが、それでもこの歌を聴くと思い出して、いつも孝行の足りなかったことを悔み歎かずにはいられない。
マハツブってなんだろう。そういう人はきっと多いと思うが、それを承知の上でわたしはこの話をする。めずらしい名まえは一ぺん聴くと、いつまでも覚えているものだからである。
マハツブはまたマノハチブともいう人がある。奥羽地方もずっと北のほうで、子どもたちのよく知っている一種の植物に、そういう名のものがある。本名はイガホオズキ、またオニホオズキともいうそうで、皆もよく知っている酸漿とともに、茄子科に属する草なのである。日本では北から南のはしまで、どこに行っても見られる野生の草だというが、自分などはまだこのおかしい昔話を聴いていなかったので、見たことはあるだろうが実はもう覚えていない。それでこんどはまず皆さんのために、マハツブの話をして見ようと思うのである。
その前に一つ考えておきたいことは、このごろの酸漿は人が栽培して売りにくるので、実も大きく色も美しく、遊びかたもだんだんとかわって、名は近くても毬酸漿という草の実と、あんまりよくは似ていない二種のものになった。しかし丹波酸漿を畠で作り出したのは後のことで、店や縁日で売るようになったのは、都会でもそう古くからではないのである。以前の村々の少女たちは、酸漿もやはり野や路ばたに生えているのを、採って遊戯にもちいたのであった。酸漿の遊びかたはあのよく熟した実をもんで、ネヤマノネホズキという芯を抜き出し、袋にしてかんで鳴らすことがその一つで、これは多分ずっと前からもあったろうが、丹波酸漿の口にいっぱいになるようなのが出てから、この遊びがことにおもしろく、ほかのあそびかたは忘れてしまうようになった。千成酸漿だけはまだ採ってくる児もあるが、ただの毬酸漿などはかえりみる者がなくなったのである。
それからなお一つ、毬酸漿では遊べない古い遊びかたがあった。それはこの二種の酸漿のもっともいちじるしいちがいからきているもので、昔の子どもにはまた注意せずにはいられぬことであった。ふつうの酸漿の他のものとかわっている点は、うてなが実の成熟につれてだんだんと伸びてきて、しまいには繋がって袋のように縫い合わされ、そっくりあの紅い実をつつんでしまって、蠅や小蜂に吸い枯らされることを防ぐことである。毬酸漿のうてなも茄子などと同じに、実とともにだんだんと大きくなっては行くが、それが中途で止まって、実のぜんたいをおおい隠すまでにはならない。酸漿だけは完全な袋になってしまうから、永く木につけておくと袋の表皮がはげ、繊維だけが蚊帳のようにのこって、紅い提灯だといって持って遊ぶことができたけれども、毬酸漿のほうにはそういう遊びがない。イガホオズキまたは鬼酸漿という名まえは、茎に刺毛があるところからつけられたのだが、それよりも小さい天然観察者たちには、この点がもっと注意を引いていたのである。そうしてマハツブという東北の方言なども、あるいはこういう点にもとづくものではないかと、わたしは想像している。少なくともわれわれの一つの昔話だけは、たれが始めたものか、この点を説明しているのである。
そこでいよいよマハツブの話になるが、昔の昔の大昔、酸漿とマハツブとは姉と妹、二人の同胞であったという。この二人が相談をして、めいめい一枚の麻のきものをこしらえようということにきめ、苧の糸を績みはじめた。苧糸を績むということは、もう見たことも聴いたこともない子どもが多くなっているが、麻の皮をはいで蒸して乾してよくさらして、白くきれいな部分だけを、爪の先で細かくわって、つないで撚りをあたえて一すじの糸にして行くことで、蚕のはく糸の細いものを五つ七つと合わせて行くのとは、仕事がまるで反対になっている。それで同じひとつかみの麻の苧でも、細くさけば糸が長く、したがって長い布が織れるが、下手にあらあらしく太く取ってしまうと、地の厚い布はできても寸尺は足りなくなるのである。木綿が日本にふきゅうするまでは、麻布を着ぬ日本人は一人もなく、苧を績み布を織らぬ女も皆無にちかかった。それでこういう事柄はみな常識となって、わざわざ言い教える人もなく、今となってはかえってこのめずらしい昔話の心持を、わかりにくいものにしているのである。
話は土地によって少しずつちがっているようだから、これからもまだ数多く、たずね集めて見るひつようがある。青森県の東の端八戸市の附近の村里では、こんな話になっている。二人の女兄弟が苧を績んで着物を織ったが、姉さんのほうはたんねんな辛抱づよい気質で、できるだけ糸をほそくして、じゅうぶんな布を織りあげたから、とっぷりと頭から爪さきまで、身をつつむような着物を縫いあげることができた。ところが妹はせっかちで仕事があらいので、苧糸が太過ぎて一反の布になるだけは取れず、それで衣装をしたてたら腰までしかなくて、丸いおしりが丸出しになってしまった。その姉というのが今の酸漿であり、妹はマハツブとなって今でもお尻を出しているという。
マハツブとホオズキとどこがちがうかを、小さいころから見て知っている娘たちは、はじめてこの話を聴いてぷっと吹き出し、またはおなかの皮の痛くなるほど、笑いこけぬ者はなかったことと思う。睡いさかりの人たちは独りではとても夜なべはできない。そのためばかりとも言えないが、冬の夜長になると五、六人以上、じゅんまわりに朋輩の家にあつまってきて、いろいろ話などをしながらにぎやかに苧を績んだ。夜がふけて睡気のさすようになると、たれか年上の者がおかしい昔話をしだして、みんなを笑わせようとしたこともふつうであった。しかし、この話の本来の目的は、ただ苧績み宿の睡気をおい払うためだけではなかったかもしれぬ。少なくとも結果において、もっと大きな役に立っていたのである。まさかマハツブのようならんぼうな苧の績みかたはせぬまでも、常から糸が太いと小言をいわれ、また自分でも気にしていた女ならば、この話をただ笑ってばかりは聴かれず、なにか気がとがめて自分が笑われてでもいるように感じ、むりにも忍耐して糸のわりようを細かくしようとしたことであろうし、また細い糸を引くことのできる娘ならば、いよいよ安心して友だちにおくれぬように、日ごろの熟練に磨きをかけるようにしたことと思う。
この一つの笑い話が、そう古くからあったものでないことは、その話の中からもうかがうことができる。麻布の糸の細さ太さは、以前はこれほど大きな問題ではなかったのである。麻は農家がめいめいの畠に栽培し、入用があれば多く作るから、さまで原料の節約をするにはおよばず、いっぽう働く人たちの衣類としては、むしろ太い糸で厚々と、丈夫に織りあげる必要もあったくらいで、ただ朝廷への貢ぎもの、または領主への年々の献上品だけが、上布といって、精巧な布でなければならなかったのだが、その分量はぜんたいの上からいうと知れたもので、これには一人か二人の特に技術のすぐれた者を、雇うて織らせてもよかったのである。ところが中央の文化がすすんでから、優良な麻布を織りだすので名高くなった土地がほうぼうにできて、これを租税の代りにまたは商品として、有利な生産をするふうがはじまり、紡織の手わざはまずそういった地方において、おいおいと発達してきたのである。冬はやわらかな絹織物や真綿をもちいる人たちが多くなって、麻布が主として夏のものとなると、もちろん糸の細いかるい布がよろこばれ、ついにこのごろ見る蝉の羽のようなものばかりが、麻の上布だと思われるようになったのである。しかし奥羽地方の人たちは、つい近ごろまで冬も麻を着ていた。そうしてかれらの手織りには、そんな薄い布は入用がなかった。それよりも地のよくつんだ丈夫向きの、ちっとやそっとの荒仕事では、すぐに糸が片寄ってしまわぬようなのを賞美したのだが、それでも女の子は聴いて知っているので、やはり糸の細く目方のかるいのを、織り出すことを手柄とするようになって、今いったマハツブの笑い話などが、生まれてくることにもなったのである。
秋田・岩手二県の境、鹿角のある村に行われている話などは、これから考えると今少し古いものかも知れぬが、衣服の好みがもう変ってきたので、話が少しばかりわかりにくくなっている。これも酸漿とマハツブとは、姉と妹か友だちかであったようだが、二人が日を切ってめいめいの着物を織り上げることになった時に、酸漿はどんなでもよいからと大いそぎで仕上げたゆえに、今でもあの通りがさがさとした目の荒い着物だが、ともかく全身をつつむことができた。これに反していっぽうの毬酸漿は、あまり念入りにていねいに、こしらえようとしたので時間が足らず、着物はぴったりと身にあっていても、長さが短くてお尻が出ているというような話になっている。これでは双方どちらもおかしくていやだから、どうすればよかろうかと娘たちは考えたことであろうが、酸漿のごとくぶくぶくした、地の透くような布を織る気になれず、やはりマハツブのごとくひきしまった布を、精出して織ってお尻の出ぬように、手ばやく仕上げるのがよいということになったろうと思う。すなわちこのほうの話は上手下手というかわりに、努力と勤勉とをすすめる教訓に、もちいられていたらしいのである。
昔は機織りが全国の女性の仕事であったように、これとよくにた昔話も、ひろく日本のすみずみに行われていた。マハツブの話というのは、あるいは東北地方だけにしかないのかも知れぬが、この鹿角の例ともっとも近くて、さらに今一段とおかしいものが、ここからもっとも遠くへだたった九州のほうにも、二つまでもう採集せられているのである。その一つは長崎県下、壱岐島のある村に行われていたもの、自分はかりにこれをカセ掛け蚯蚓と呼ぶことにしている。カセという言葉も、今日でははや説明が必要になった。カセは布を織る経糸を束ねたもので、その糸を桛枠というやや大ぶりな枠にとってから、染めたり色を合わせたり綜たりするので、糸のかんじょうにつごうのよいように、長さのちゃんときまった大きい輪になっていた。それを枠からはずしてのち、曲げて捻って紺屋などにも持って行くのだが、以前は機を織る女がそのままで首に掛けていることもあったらしく、それが大きな蚯蚓の首に白い輪のあるものと似ているので、こんな笑い話もそちこちに伝わったのである。
むかしむかし、二人の女が近いところに住んで、二人ともよく布を織っていた。その一人は仕事が早くあらく、今いっぽうの女は念入りなかわりにおそかった。市の日がきたのに、こちらはまだ機にもかからず、となりの女は糸の太い、目の荒い布を織りあげて、もうそれを着物にして市へ着て出かけた。こちらは間にあわぬので、白い桛糸を頸にかけ、大きな甕にはいって夫の背に負われ、市の見物に出かけた。その途でとなりの女のあたらしい着物であるくのを見かけ、くやしいものだから甕の中から悪口をいう。その問答を島の言葉でこういうふうにいったと『壱岐島昔話集』には出ている。
といっぽうがいうと、相手も負けてはおらずに、
と笑いかえした。女房を負うていた亭主は、この口いさかいを聴いてはずかしくてたまらぬので、その甕を土の上にほうり出すと、甕は割れて桛を頸にかけたはだかの女房がころげ出したが、多勢に見られるのがつらくて、土のなかにもぐりこみ、とうとうこの蚯蚓になったという話である。だれが考えだした話かは知らぬが、機にねっしんだった昔の世の娘たちには、このくらいおかしい話もちょっと類がなく、頸に白い輪のある大きな蚯蚓を見るたびに、いつでも思い出して、つぎつぎと小さい女の子に、話して聴かせたことと思う。
しかしこの昔話だけでは、仕事がめんみつで、ただ手のおそいという女が、かわいそうな気もするが、いっぽうのいわゆる糸太とても、けっして同情せられていたわけでもないのである。だから大分県の山間の村などでは、これがまたよっぽどちがって、蟇と蚯蚓との前の生の話ともなっているのである。
むかしむかし、バックン(蟇)と蚯蚓は友だちであった。二人の女は相談をして、めいめい着物をこしらえようということになった。蚯蚓はほそい糸でなるだけ美しいきものを作りたいというし、蟇のほうは「わしゃもう大けな糸でん、早く作ろう」といった。それであらい布の着物だが、蟇のほうのは大そう早くでき、蚯蚓はあんまり細い糸で織ろうとしたので、もつれてしまって手が付けられぬようになって、いつまでもあの通り、かせを頸にかけたまんまでいる。そうして蟇の方の着物はまにあったというばかりで、今でもあんなにきたないなりをしているのだといっている。
布を織る女の技芸は、工場や大機械のもちいられるようになる前も、永い間にはだんだんと改良せられていた。わたしはくわしくその歴史を皆さんに語ることはできぬが、沖繩県などの遠い島々に行って見ると、今でもまだカセというものを作らずに、小さな糸巻からすぐに機糸を綜ている女が多い。糸を染めてから機にかけるということは、縞が流行し木綿がさかんに織られるようになってから後の事だったと思われる。頸に女が白い桛糸をかけてあるくなどということは、今から考えるとみょうな風俗のようだが、あれでも桛枠の新たにはじまった当座には、そうしてあるくことも一つの見えであり、また一つの楽しみでもあったので、それでこのような笑い話が、新たにかれらのあいだにもてはやされたのではないだろうか。
もしもそうだったとすると、今一つ、やはり同じころの若い娘たちのあいだに、おかしくおもしろい話が生まれていたのであった。これは目的が直接にこの技芸を奨励するものではないが、それでも比較的人のよく知っている昔話だから、このついでにざっとそれも話しておきたい。以前は若い人たちの教育に、昔話というものがなかなかよく働いていた。それを知るのにはちょうどよい例だからである。
その話はわれわれのあいだでは、雀孝行という名で知られている。むかしむかし雀と燕、または雀と啄木鳥とは、姉と妹であった。あるいはそのいっぽうを鴎といい、南の島では魚狗だともいうが、かたいっぽうはかならず雀ときまっている。この二人の母親が病気をして、もう危ないという通知がきたときに、二人の女はちょうどお化粧をしていた、という話が地方には多い。燕・啄木鳥または魚狗はおしゃれだから、色とりどりの着物や帯を出して、どれにしようかなどと考えているうちに、おくれてしまって親の死目に会えなかった。雀だけはちょうどお歯黒をつけかけていたところで、知らせを受けてすぐに飛んで行ったから、間にあって母をよろこばせることができた。今でも雀の頬っぺたに黒いもののついているのは、そのお歯黒のよごれだが、孝行の徳によって一生のあいだ、米を食べて暮らすことができるのにはんして、燕はおめかしをして家にかえるのがおそくなった罰に、土や虫を食って口をしぶくしているといい、啄木鳥も衣裳だけは美しいが、一日木をつついているので夜になると、くちばしが病めるといって啼く、などというようなおかしい話が多く、もとは大ていの子どもはいちどはこの話を聴いたものであった。
ところが娘が嫁になり母になるころに歯黒めをする風習は、五十年ほど前からなくなって、まだそういう事を聴いていない人があり、あの雀の頬の黒い斑が、銕漿のよごれだという話をしても、笑いたくならぬ者がだんだんと多くなってきた。しかもこの銕漿づけの風習は、京・江戸・大阪をはじめ、大ていの土地の良い家庭には行われていたのだけれども、それでも日本全国を見渡すと、まだすみずみには最初から、そういうことを知らぬ女たちがいくらも住んでいて、この雀のほっぺたの黒いわけなどは、それらの土地でも通用しないのであった。
しかしお歯黒というものをつけることを知らない土地にも、やっぱり雀孝行の昔話はあった。そうして姉妹二人の小鳥が、ちょうどお化粧をしていたときにというかわりに、その二人も酸漿とマハツブとのように、めいめいの着物を織ろうとしていたという話になっているのである。たぶんはこのほうが一つ前のもので、のちに歯黒の風習がひろく流行してきてから、それが珍らしいのでこの点だけを、話しかえることにしたのだと思う。そうにちがいないとまでは言えないが、ともかく自分の今知っている三つの実例をならべて、この話をおわることにしよう。
その一つは鹿児島県の南の島、奄美大島で採集せられたもの、雀と啄木鳥との姉妹は奉公に出ていて、家に年とった親をのこしていた。ふたりが相談して飛白を織って着ようと、そのしたくをしていると、親の大病を知らせてきた。啄木鳥はその絣のきものを織りあげて着てかえろうといい、雀はまだ染めない桛糸を頸にかけたままで飛んでかえった。そのために雀だけは親の死目にあってよろこばれ、啄木鳥はとうとう間にあわなかったので、今でも飛白の好い着物は着ているが、いつも枯木をつついて食べ物を見つけるのに苦労をしなければならぬ。雀は孝行を神にめでられて、自由に米が食べられるのだが、そのかわりには頸に桛糸をかけたままで、いまでも雀の首のまわりは白いのだという。
これとだいたい同じ話が、奄美大島のとなりの喜界島という島にもあった。ただしここでは啄木鳥の代りに、いっぽうを魚狗だったといっている。魚狗の羽には飛白がないので、ただ糸を染めてきれいな着物をこしらえるためにおそくなり、雀ばかりが染めない桛糸をかけて、いそいで飛びかえったから、今でも首のまわりが白いのだと言われている。
それからこの二つの島からずっとはなれた、瀬戸内海の志々島という島にもおなじ昔話があるが、ここでは不孝な姉のほうを鴎だったといっている。鴎は器量よしだから、髪をなでつけたり化粧をしたりしてから、ゆっくりしてかえったので親の生前にあうことが出来ず、その罰で今も日に三どずつ生水を吐いて、ひもじい思いをしているが、雀は機ごしらえをしていた苧桛を首にかけたまま、いそいで飛んできたという話になっている。志々島の若い女たちは、お歯黒というものをむろん知っていたのだが、まだあのほっぺたの黒い斑が、お歯黒のよごれだという話を聴いていなかったので、なお以前の桛掛雀の話をもち伝えているものかと思われる。男は海に出るので島の女たちは、畠の耕作を一手にひき受けるのみでなく、なお、おりおり浜の手つだいもしなければならぬのだが、そういう間にも少しの時を見つけては、苧桛を頸にかけて布機のしたくをしたのであった。町に出てきて反物を買いもとめたり、または仕立屋に縫ってもらうなどということは、こういう昔話に笑い興じた娘たちの、夢にも予想し得ないことであった。それで雀であろうが蚯蚓であろうが、すべてこの世の女性はみな布の糸を桛にして、首にかけてあるいたという話が通用したのである。今日はそれにはんして、大ていの女の人の着物は、お金をはらって買うものとなってしまった。それだからこういう昔話にも、説明がいるようになったのである。つまりは世の中が変ったのである。
今から十七、八年まえに、我邦にきていたフランスの全権大使、ポウル・クロウデルという人は名のきこえた詩人であった。この人が国へかえろうとするにさきだって、日本を詠じた一篇の詩をつくって、世に公けにした。その文句はもうだれも覚えておらぬだろうが、各節のおわりの一行に、
という言葉のあったのを、どういう意味であろうかと、あの当時のひとはひょうばんにしたものである。
のちになって考えて見ると、それはべつにむつかしい謎ではなかったようである。東京は大正十二年九月の大震災にあって、目ぬきの大通りの町屋は、ほとんとみな焼けくずれて、その跡へはまるで以前のものとはちがった、屋根の平たい堂々たる、ビルというものが建ちならぼうとしていた。すなわち三角はもう飛んでしまったのである。帝都以外の大きな都会でも、家を建てなおす場合には、たいていはこの形をまねて、屋上に庭園があり、運動場のあるような家をつくることができないと、建築家でないように思う者が多くなった。高いところなどにのぼって見ると、町の形がまるでかわって、日本にいるような感じがしなくなりかけていた。それをクロウデルが惜しいことだと思ったのである。
しかし日本の屋根の三角は、けっしてまだ飛び去ってしまってはいない。田舎はもちろんのこと、大きな都会でも、あたらしい平屋根が目につき出したというだけで、われわれの住んでいる家は、たいていは三角にとがったままでいる。ただその三角の形が、だんだんにかわり、またそのちがった三角が、ひどく入りまじって、おそろいではなくなった。それがやっぱり古い美しさの消えて行くすがたとして、惜しいといえば惜しいのである。美しいとみにくいとは、そうかんたんには、わたしたちではきめられないが、それよりもさきに知っておいてよいのは、どうしてこのように日本の屋根の形が、だんだん変って行くのかということ、およびこれからもなお変って入りまじって行くだろうかどうかということであろう。
汽車の窓から見ていれば、だれにでもすぐわかるように、屋根の三角の角度はゆくさきざきでかわっているが、それはたいていは屋根を葺く材料のちがいにともなうもので、同じ草屋根でも土地によって、すこしは傾斜がちがうけれども、そのちがいは、じつはわずかなものなので、それが板屋根となると、三角のとがりがきゅうに目に見えてかわってくるのである。中央線でいうならば、山梨県は小仏のトンネルからはじまり、向うは日野春と富士見の二つの停車場のなかほどでおわるのだが、見て行くうちに屋根の形がいつの間にかまるでかわってしまう。それというのが東のはんぶんは萱で葺いた家ばかりであり、西から西北へかけて長野県に近づくにつれて、板屋根がおいおいと多くなってくるからである。小仏から笹子のトンネルまでのあいだは、甲州では郡内という名をもって知られている。郡内の萱屋は、山からこちらの東京都西部の民家とは、だいぶん形がちがっていて、横に長い家はだんだんすくなく、二階のある高い家が多くなっているが、それでも三角の角度だけは、両方がおおよそ同じくらいである。これにはんして釜無川の岸にちかい信州境いの農家は、枌板をもって葺くものだから、東の郡内やそのつづきにくらべると、屋根がずっと扁たくなっているのである。同じ日本の屋根にも、このいちじるしい形の差のあることは、山梨県だけをとおって見ても、注意する人にはすぐわかるのである。
そうしてまた、この理由ほど、かんたんなものはそうほかにはない。板屋根を葺くのは枌板といって、もとは杉だの檜だのの柾目のよくとおったふとい材木を、鉈のような刃物でそぎわったうすい板であった。これを釘で打ちつけるとひびがはいりやすく、またそこから腐りやすかったので、板屋根には釘をつかうことを非常にきらった。その代りには、たくさん重ねた枌板のうえを、枝のある木でおさえたり、または石をのせたりして、その板の風に吹きとばされることを防がなければならなかったのである。屋根の斜面を急にして、あの三角をとがらせておくと、石や材木がすべり落ちるかもしれない。それで板屋根だけはどうしても、できるだけ平たくする必要があったのである。
これとは反対に、萱で葺く屋根のほうは、あまり平べったくしておくと雨の水がよく流れず、萱の茎のあいだに湿気をもって、やわらかくなり、また早くくさって、葺きかえをしなければならなくなるので、どこの地方に行っても、葺くのにさしつかえのないかぎりは、なるだけあの三角を尖らせようとしている。それがこの二つの種類の屋根の形が、だれにも気がつくほど、はっきりとちがっている理由である。
そこでわたしたちの、つぎに知りたいと思うことはこの萱屋根と板葺きの屋根と、二つの葺きかたは二つとも、昔から日本にあったものか、ただしはどちらかが後からはじまって、他のいっぽうの前からあったものを、変えあらためたのかということであるが、それをまだはっきりと答えられるまでに、日本の屋根の歴史は明らかにはなっていないけれども、まずよっぽど古いころ、今から一千年も千五百年もまえに、もう両方ともあったということは言える。そうしてどちらもだんだんに変ってきたという中でも、板葺きのほうは少しずつ後へさがり、萱葺きはつい近ごろまで、数も多くなり、また技術も進んでいた、ということが言えるようである。
どうしてまた、そうなったのであろうか。その理由も皆さんがすこし考えて見ればわかる。一言でいうならば、うすく割って屋根葺き板にするような、大きな素性の良い木材が、おいおいにとぼしくなってきたからである。日本はめずらしく山によい木の多い国であったが、国が栄え、人の数がふえるにつれて、家具にも家の柱や梁にも、使い途がますます増加してきて、りっぱな木をそいで屋根などに葺くことが、なんだかもったいないように考えられはじめた。それで山間の樹木の多い村々までが、大きなものはみな世間へ送り出すようにして、自分たちの屋根葺きには、なるだけ小さいので間に合わせるようになった。以前の枌板の大きな型のものはなくなって、寸法のごくみじかいこけら板というものを、たくさん用いることになったのである。コケラというのは魚などの鱗のことであったらしい。これも上手に重ねて葺けば、なかなか見ごとな屋根ができたが、それには、遠くから専門の職人をたのんでこなければならぬ。ゆえにたいていはかんたんな葺き方になり、毎年毎年損じたこけら板だけをさしかえて、多くの小石を載せておさえておき、またはとんとん葺きなどと称して、かまわず釘で打ちつけるような、そまつな葺き方もはじまったのである。
屋根を葺く材料の種類は、我邦では思いのほか数多いのだが、だいたいに今でもこれを二つにわかつことができる。その一つは板葺き一派の三角のゆるい扁たいもので、ささ板やこけら板で葺いたのから、檜はだ、杉皮の屋根まであり、現在さかんに建っている瓦葺きもその中にふくめてよい。いっぽうはまた萱屋根だけでなく、藁やその他の植物で葺いたものがいろいろあって、それはいずれもみな三角がうんと尖っている。北陸地方へ行くと、前のほうを総称してシュク屋というが、この名はもと、宿駅の家ということで、街道往還の左右の家だけは、なるべくこういう屋根ばかりを、葺かせることにしたのである。これに対して、他のいっぽうの総称は、草屋根またはクズ屋というところが多い。草屋根はもと萱で葺くのがおもであったからかも知れぬが、クズ屋というのはどういう意味であろうか。わたしの想像では、やはりありあわせの屑物を利用したということで、さいしょはただ臨時の小屋、または貧しい人たちの住居だけに、こういう屋根を葺いていたものとおもう。愛知県の日間賀島などでは、もとは大小をとわず、すべての草屋根をイホリといっていた。すなわち秋の田の苅穂のいほも同じで、かりの建物ばかりに萱や藁、その他の不用品をつかっていたので、こんな名が今ものこっているのかと思う。
ところがこの草屋根の葺きかたは、中世からこのかたひじょうに進歩した。よその民族の田舎家とくらべても、または素人の仮小屋などとくらべて見てもすぐにわかるが、日本の萱葺きには、たいへんな手のかかった見ごとなものがすくなくない。専門の職工には、技術のすぐれた者が多く、鋏とか、槌とか、こて板とか、その他いろいろの道具の使い方をかんがえ出して、二尺三尺の厚さにはしを切りそろえ、あの美しい屋根の形をつくりだしたのは、空中の彫刻といってもよく、これとくらべあわせると、板葺きはむしろ単調に見える。
東京都下でも多摩川上流の山村、千葉茨城二県の沼沢地方、または奥羽や越後の一部などにも、りっぱな作品がいくつとなくのこっている。建物の大きさからいっても、住心地の上からいっても、また保存年限の長さから見ても、こういうのは、もうけっして苅穂のいほではない。屑屋どころか材料にえらい費用がかかっている。つまりわたしたち日本人は、あの小さなぼやぼやとした草小屋から、だんだんと工夫をかさねて、色といいまた形といい、今までまるで見られなかった美しいものを築きあげて、それを全国にふきゅうさせたのであって、だれの力ということがたずね難く、また毎日見なれてしまったゆえに、これをあたりまえのように思う者ばかり多くなったが、人が集まって大きな事業をなしとげ、かつ生活を改良したという点から見れば、これもまた民族の一つの記念、一種のピラミッドであったと言うことができる。
しかも大震災のような、意外の激変もなく、また西洋文化の影響もなくて、ただ眼の前のなんでもない原因から、この草屋根の三角も、やがて飛び去ろうとしているのである。みなさんが親になり、祖父母になるころには、もう日本の子どもたちは、絵や写真で見るか、または山奥へでも入って見ぬ限り、この見ごとな大きなくず屋というものは、眺めることがむつかしくなるであろう。物がなくなってしまえば説明もよくはできず、また説明をもとめる者もすくないかもしれぬ。それだから今のうちに、もっと注意をはらい、またわたしのするような話を聴いておくひつようがあるのである。
どうして草屋根の、あの三角は飛ぼうとしているか。これもすこし考えて見ればわかることで、つまりは材料の萱がもうないのである。萱にはいくつかの種類があるが、まず東京でいう薄尾花のことで、郊外のわたしの家の狭い庭でも、お月見に插すくらいなら、栽えなくとも自然に生える。しかしそれを苅りあつめて一軒の屋根を葺くには、萱野というものが近くになければならぬ。大きな家ならば、五年三年の前から心がけて苅りためておくか、また遠くへ人をやって、えらい入費をかけて集めてこなければならぬ。厚く丈夫に葺いた萱屋根は、三十年以上はもち、たくみに插萱をすれば、五十年は葺きかえをせずともよいと言われている。その代りには、さあ葺くべしとなると、ちっとやそっとの萱野では追い付かぬのであった。それで本家とか旧家とかいうような、もっとも念入りの葺きかたをしていた家から、最初にこれをやめて瓦屋になろうとしている。
もう少し小さい家々では、この草屋根をつづけて行くために、ユイという団結をつくっていた。ユイは土地によって萱講とも、また萱無尽ともいう者があるが、その目的はできるだけ少ない萱野から、組じゅうの屋根の萱を得ようというにあった。屋根は天気を見さだめて一日のうちに葺くから、手伝いもいるし、繩や竹も集めねばならぬが、それだけならば傭いも買いもすることができる。萱ばかりはなんとしても、ユイの共同によるのほかはなかったのである。
ユイのじっさいを今すこしくわしく言って見ると、たとえばここに三町歩とか四町歩とか、ちょうどふつうの家の屋根が二戸葺けるだけの、萱の生える共有地があるとする。それを家々から勝手にでて苅るならば、一戸はさておき半分の用にもたらぬほどの萱も、持ってくることができぬであろう。よく葺いた萱屋根は、大よそ三十年ぐらいはもつとすれば、順番をこしらえて、ある家はいくぶんか早めに、またある家はなんとかして少し長くしんぼうすると、五十軒以上の農家が、たったこれだけの萱野によって、つぎつぎに屋根を葺いて行くことができるのみか、仲間が助け合って、五十束七十束と苅りあつめてくれて、苅り時をおくらすしんぱいもないのである。萱が野山にいくらでもあった時代にも、こういう助け合いはひつようであったが、萱野が狭くなってくると、いよいよこのユイを親密にしなければならぬわけである。
村についた共有の萱野というものは、広くなる場合などはひとつもなく、狭められる原因はいくつもあった。第一に土地がはんじょうして、働く人が多く、食べる人が多くなれば、だれしもこういう野原をひらいて、なんか作ったらという気になる。ことに瓦で屋根を葺いた家が、何軒でも新築せられるようになると、萱野などはなにかもっとよい利用の途がありそうなものだという考えが起こりやすく、以前の手近なところの萱野はなくなって、だんだんとべんりの悪い、遠い山の上などに苅りに行かねばならぬことになる。家をぜひとも萱葺きにしておりたい人は、自分の持地のなかに生やして置けばよいのだが、それをすることは大へんな地面の費えだから、やはり多くの仲間のユイによって、材料を集めてくるひつようがあり、そういう希望者が少なくなれば、たとえ自分ひとりはどのように萱屋根をつづけたくとも、しまいに断念するのほかはないのである。
村に生まれて萱葺きの家にそだった者は、年を取ると、みょうにこの住心地の恋しくなるものである。ことに都会のさわがしい音につかれて、なんとかして今一ど、しずかな葺屋の雨の音をきいて睡りたいと、思っている人はぞんがいに多く、げんにわたしなどもその一人であった。ところが今から三十年まえ、まだ東京の郊外が武蔵野であったころに、今の多摩墓地のすこし東のほうに、たった一軒だけこの萱葺きの家を新築した人があった。そのじぶんには、まだ武蔵野は薄だらけであったが、つぎの葺きかえの時のことを考えたものか、この家では周囲を広々とかこいこんで、いちめんに萱を生やしていた。おもしろい考えだなと思って、散歩のついでにはおりおり通って見たが、どうも長くは住みつづけていなかったようである。このようなことをすれば、出入りに不便で、さびしくてしかたがなく、第一に火の用心がわるい。地面が安ければあそばせて置いてもよいようなものだが、いくら萱野でも、管理にはやはり手数をようする。春はいちどか二度火を入れなければならぬし、秋はまたすっかり苅り取ってしまわねばならぬ。それをおこたると古株はすぐ弱って、ほかの地へ出店を出してしまうからで、いつでも葺き萱を得られるようにするには、やはりユイの協力は欠くべからざるものであった。むりに一人でこういう家を維持しようとする者は、金にこまらぬ人のなかにはまだあるかも知らぬが、それらはびっくりするような高い価を、以前は無代であった萱のためにはらっている。ふつうの農家ではとてもそのまねはできない。だから今日でもまだまったくなくなってはいないというだけで、萱野はもう一つのおごりになりかけている。それを以前のままになお持ちつづけてこられたのは、一つは改革のそうたやすくないためと、今ひとつは我邦に発達した、ユイという団結のおかげであった。
日本の畠作農業の進歩、ことに稲いがいの穀物の栽培は、二百年このかた、ひじょうにさかんになってきている。萱の生産地のせばまり、または遠くなったことも、けっして近年にはいってはじまったことでない。ただそれが屋根の三角の角度を、こんなに扁たくしたのは新らしいことで、手みじかにいうと、瓦がわたしたちの手にはいりやすくなった結果なのである。
瓦をもって屋根を葺く習わしは古いが、もとはその利用者がかぎられていた。寺を瓦葺きといった言葉が伊勢神宮にもあって、宮殿や神のお社でさえも、さいしょは瓦をつかってはいなかった。それがおいおいと広く行われるようになってからも、ふつうの人民には許さなかった地方は多く、たとえ許されても、人はそういう目に立つことはしなかった。それが明治の維新を境いにして、だれが瓦で屋根を葺いても、すこしもかまわぬことになったのである。土のなかから出てくる古代の瓦にくらべると、堅さも重さも、また大きさも、ともに大ちがいな安物ではあるけれども、安いだけに人がもとめるに手がるであり、これを遠くへはこぶことは、損じやすくて不便であったゆえに、かえって村々に小さな瓦を焼く竈が数多くできて、いっそうそのふきゅうを早くした。わたしなどの若いころには、どの地方へ旅行して見ても、瓦を焼くけむりの見られないところはなかった。燃料はたいてい松の枯枝で、土はそこいらの粘土を持ってきて、水でこねて型にとった。瓦の型などもこのさいに大いにかわり、雌瓦雄瓦を一つにした、浪型のものばかり多くなったようである。瓦屋根の葺き方もおどろくほどかんたんになった。もとは板屋の上に土をうんとのせて、それを瓦で覆うようにしていたので、その重みがかかり、よっぽど丈夫な柱やつかをもって支えなければならず、したがって屋根の三角もとくべつの形でなければならなかったが、のちには材木を倹約して、むしろこのようなかるい瓦をよろこび、土もあんまり使わずに、そっとのせて置くようになって、屋根の形は板葺きとひじょうに近くなった。そうして握り拳でたたいて、何枚わったというような瓦なのだから、火事にあっても、また寒さに凍ってもすぐくだけて、火の用心にはあまりならなかった。そうしてまだ昔の瓦屋のじぶんの安全感だけが、のこっているらしいのは少々あぶない。
火事の話もみなさんのためになるのだが、直接に三角とは関係がないからあとまわしにして、ここにはまず草屋根の角度が、すこしずつ変ってきたことを話して見よう。萱野の萱がだんだんと足りなくなってきて、木材ももう少ないのだから、ふたたび板葺きにもどることもできず、瓦はまだそう容易には手にはいらぬという時代には、ふつうの日本人はいろいろと、ほかの材料をかわりに使う工夫をした。青森県の十三潟のような、広いあさい沼のほとりに住む村々では、細い一種の蘆を苅ってきて、葉をむしり棄ててそれで屋根を葺いている。栃木県の西部のように、麻を多くつくる地方では、その麻稈をもって葺く風習がはじまった。その以外にも、ごく細い篠竹、紙を製するところでは楮の小枝、養蚕のさかんな土地で桑の枝、または笹の葉で葺いている例もわたしは知っているが、そういうのは全国いっぱんということができないであろう。これに対して藁屋すなわち藁葺きの家というのは、今やすでにどの府県に行っても、見られぬところはないというまでに広がっている。そうしてこの藁屋の三角は、また少しばかり萱葺きとちがわずにいられなかったのである。
藁屋という言葉は、古くから我邦にあった。
世の中はとてもかくてもありぬべし
みやも藁屋も限りなければ
こういう歌もわたしたちは記憶している。しかしそれだからいまのような藁葺きが、昔もあったろうと思うのはあやまりである。昔の藁屋は仮小屋で、それにいつまでも住んでいなければならぬのは、よっぽど貧しい人だけであった。その点は、さいしょの藁葺きでも同じだったかもしれぬが、これがいったん発達して、専門のよい職工が出て国々をまわってあるき、ついに今見るような大きなみごとな草屋根を、たくさんにのこして置いてくれた後に、こんどは材料の萱の不足ということがはじまって、何かかわりのものを使わねばならぬようになり、あらためてその技術をあらたな藁葺きに伝授したのである。昔ふうな藁の仮葺きは、今もまだそちこちに見られるが、それとこの新らしい藁屋とのちがいは、誰の目にもはっきりとしている。皆さんはただ注意して見ればよいのである。
新旧二つの相異は、いろいろとあるが、一番よくわかるのは葺き草の方向である。今でも年々あらたにする屋敷神の祠、または山小屋や積み物の雨覆いなどは、たいていは藁の穂先のほうを外へ出すことにしている。あの秋の田の苅穂のいほなども、多分はこれと同じかったろう。これをまた苫葺きとも呼ぶのは、舟の苫などもこの葺き方だったからで、田舎ではまた逆さ藁ともいって、ふつうの住居にはきらってこうは葺かず、ちょうどその反対に根本のほうを軒先に向けて、はしをきれいに鋏で剪りそろえている。それから今一つ、ひと目で気のつくちがいは三角の頂点、すなわち屋棟の葺き合わせかたが、近ごろの藁屋ではひじょうに複雑になっている。もとはかんたんに四方から葺きあげて中央にまとめ、上へ一束の藁をひろげてのせてもよく、またはしまいの藁を折り曲げても置いたか知らぬが、こんな事では長くはもっていない。それでどうすれば、ここから雨や雪が入ってこぬようになるか、これには永い間、家を建てる者がみな苦心したかと思われる。いろいろの考案が萱葺きの盛んだったころから、この点については試みられている。たとえば竹や木をわたした上に土をのせ、その土が流れてしまわぬように、根の強い植物をうえたのが関東地方には多く、東北のほうではまた野芝を土とともに切ってきて、屋の棟にかぶせて置くものがあって、ときどきはそこに百合の花が咲き、または小松などの生えているのを見かける。あるいは箱棟といって、舟の形をした木をさかさに伏せ、もしくは瓦をもってこの部分だけをつつんだものもあるが、日本全国を通じてもっとも多いのは、やはり萱とか藁とかの同じ材料と、多量の竹木とを利用して、横に枕のように棟の上をおおうたもので、いちいちくわしくは話していることができぬが、これにも土地によっての幾つもの種類がある。写真にとってくらべて見てもおもしろい。だいたいにここは風あたりが強くてそんじやすく、またそうたびたびは登って行きにくいところだから、もっとも念入りに丈夫に、かつ遠くから見た目も好ましいように、作りあげようとした努力がよく現われている。屋根屋という専門の職人の、腕をふるう領域はますます多くなり、これまで久しい間農民の持ちつたえた技術は、これと反比例に、おいおいと隠れてしまったのである。
家も食べ物や衣類と同じように、以前は皆めいめいの手製であった。国の文化が大いに栄えてからのちも、都の宮殿とか、神のお社とか城とか寺とかには、遠国の職人をよび寄せて働かせたが、それは全体からいうとわずかなことで、その他の建築はみな土地かぎり、結でたすけ合い、また手伝いにきて、なんとか安楽に住めるようなものを作りあげていたのである。大工を番匠というのは徴用工という意味であった。壁をぬる人をシャカン(左官)というのは、その補佐役ということであった。それで地方によっては屋根葺きのことを、左官と呼ぶところもあるわけである。その番匠と左官とが、たくさんの弟子を取り、大きな工事ならば皆出てはたらき、ご用がすんでしまって手があまると、それぞれ縁故のある土地にかえって、おいおいにふつうの人の家も造ることになったのだが、それでも飛騨の白川のような辺鄙な土地では、たった一人の大工がきて棟上げまですむと、あとは村の人にまかせてかえったそうである。土佐の山村でも、隅葺きさんというただ一人の屋根葺き職を頼み、隅のむつかしい仕事だけを引受けてもらうことにしていた。だから土地土地の昔からの葺き方などが、しだいに改良せられつつも、なお久しく残り伝わることができたのである。
専門の職人には職人気質といって、なるたけ手の込んだ見ごとなものを作りたいという念がつよい。それからまた腕に自信があるので、土地の者の経験をかるく見ようとするかたむきもあった。そうして思わぬ失敗をした場合もないとはいわれぬのである。そのおかしい一つの例をあげるならば、萱葺き藁葺きの家には、もとは板天井というものがなかった。家にはいると屋根裏の見えるものが多く、そうでなくともツシという竹や木の棒をわたしただけの二階で、風が吹く日には、すき間からごみが落ちてきた。板をびっしりと張ったほうが見たところもよいので、大工にすすめられると、たいていは板天井をつけることにしたが、草屋根のためには、これは損なことだった。こういう家では、よほど大きな破風の窓を開いて風通しをつけないと、家のなかのしめった空気が上に滞って、屋根のいたみが早いだけでなく、炉の煙をじかにあてて燻して、防腐をすることもできなくなる。もっとこまったことには、天井は鼠の牧場となり、猫をたびたび征伐につかわさぬかぎり、鼠算といってたちまち繁殖してしまう。それをまた狙って青大将という蛇がそとから入ってくるのだが、この蛇は屋通しという別名もあるくらいで、しばしば屋根の萱や藁のわずかなすき間から出入りして、飛んでもない大きな穴を明けるのであった。そうして草屋根の保存年限が、三十年のものなら二十何年しかもたなくすることを、板天井を張る大工たちには、気づかぬ者もあり、または気にしない者もあったのである。
草屋根が次の葺きかえまで、何十何年ほど持つかということは、労力のうえから見ても農家には重要なことであった。それに入用な人の手は、ユイによってたやすく得られるにしても、耕作のあい間にそれだけの労力を、村としては余分に出さねばならず、保存の年限がみじかくなればユイは小さくなり、したがって一人がたくさんに出て働くことになるからである。萱野の萱がたりなければ、いくらでも藁を代りに使えばよいと、いうことのできなかった理由もそこにある。藁のなかでは小麦稈のよくすぐったのがいちばん萱に近かったが、それでもいっぽうの三分の一も持たない。大麦や裸麦は藁のたけもみじかく、且つぶよぶよしているのでもっと早く腐れる。稲の藁は、日本でこれほどいろいろの役に立つものはないのだが、屋根葺き材料だけにはまったく向かない。しかしこういう不適当な代用品でも、萱が手にはいらぬときまれば使って見るほかはない。幸いなことには、農業には藁類の堆肥がひつようであって、三種の麦稈などは、苅った年のものを積み肥にするよりも、さんざんに雨に打たせ煙にいぶして、もろくくだけやすくなったもののほうがよかった。そこで農家では鼻の穴をまっ黒にして、八年十年というみじかい期間に、たびたび屋根をおろしては葺きかえたのである。こうなってくるとむろん人の手がたりない。家の者やごくしたしい人は働かずにはいられないが、その他の労力は外からくる者を雇ってくる。関東地方では茨城県の筑波とか、遠くは福島県の会津地方のような、田畠がすくないか、または秋の農作のはやく片づく村から、群れをなしてその屋根葺き職の者が出てきて、大よそけんとうをつけ、または前の年からやくそくをして、今年葺きかえる家々を廻っていた。すなわち彼らもまた農民の片商売なのだが、数をかけているのでかんたんな技術をおぼえ、また道具をそろえていて、ふつうの人よりは仕事がはやく、手ぎわもよく葺きあげたのである。ただそのためにユイという一つの労働組織はくずれたのみならず、わたしのいう手製建築法の、さいごの部分までがほろび去ったのはやむを得なかった。
伊豆の八丈島などでは、屋根葺きおわりの日の祝宴をニイトメ祝いといっているが、これが縫いとめであることはもう気づかぬ人が多くなった。むかしは草屋根も菅笠などとおなじく、葺くことを縫うといっていたのである。屋根の三角の斜面には、まず何十本もの木竹をくくりつけて、それをヌイボクといった。それから竿のさきに穴のあいたものへ繩をとおして、助手が下からさし出すのを、上にいる葺き手が取りあげて、それをもって萱藁を縫いぼくにむすびつけるのが、ちょうど着物を縫うのと同じだった。それでその長い竿を針といい、今でも沖繩などではこの助手の役を針刺しとよんでいる。爺は屋根にあがり婆は下から針をさしたということは、昔話ではまだ語られているが、今日の屋根屋は葺藁をふかく積みかさね、要所要所を手持ちの繩でくくるだけで、もう一針ずつはこんで行くような悠長なことはしない。
屋根の三角は萱葺きが藁にかわってから、自然にすこしずつとがって来ぬわけには行かない。わたしの生まれた家なども小麦の稈をもちいて、かなりじょうずに葺いてあったが、その角度は関東の古い大きな萱屋とくらべると、気づかずにいられぬほどの鋭角であった。全国をくらべてみると、佐賀県の北海岸地方から、壱岐その他の島々が、ことにとがっているように思うが、ここはあるいは大麦の稈を、つかっているのではないかと思う。斜面が急になれば棟も高く、のぼって葺くのは不便が多いのだけれども、すこしでも長くその屋根をもたせようとするには、こうして雨水を早く流し、藁のあいだに湿気をふくませぬようにすることが必要であった。島では全体にとがった屋根が多いようである。鹿児島県南方の島々などは、萱をまだ葺くものもあるかと思うのに、家が小さなわりに高くとがり、その上に、屋敷に小屋のかずが多いので、高くから見るとかわった印象を受ける。これもわたしは雨が多く湿気が強いから、こうして水を切るひつようが一層大きいのかと思っている。今後建築の材料が一変してしまわぬ以上、この三角などはなかなか飛んで行ってしまわぬであろう。
あるいはまた屋根の角度はあまりかえないで、材料の加減で保存をよくしようとする試みも、職業屋根葺きになってから、いろいろと実行せられるようになった。たとえば、南に面したよくかわく側は小麦藁、日陰になるほうは萱とか、丁の字形の屋根の谷になる部分には木や瓦を当てるとか、場所によって使うものをちがえ、または始めから材料を混合して、萱は半分三分の一というのもあり、または上葺きを萱にして、下の厚みは藁その他のものでつけるというようなものもある。むろんこういう巧者なことは素人にはできない。職人はまた腕前をしめすべく、棟や軒の端の切りそろえに、蘆とか篠竹とかの切り口を、順序よくならべて見せている。関東東部の田舎をあるく人は、すこし気をつけていれば、この例がよく見られる。
石川県の東部を汽車で通ると、笹の葉をたくさん葺きこんだくず屋が大分ある。これなどもただ材料の不足をおぎなうためだけでなく、こうすればいくぶんか屋根のもちが良いのであろう。奈良県の東半分から京都府の一部へかけての、屋根の葺きかたには特色がある。これは稲藁を材料に使ったほとんとただ一つの例で、遠くからながめた白っぽい色もかわっているし、家の形もめずらしく、三角がかなり急であるが、これなどは萱の欠乏をおぎなう目的で、はじまったものではなさそうで、下にじゅうぶんな萱を葺いた上に、うすく稲藁が覆うてあるのだから、美観を主としたもののように思われる。屋根の形も四方葺きでなく、切妻と称して前後は壁になったものが多い。こういう形の家がかず多くあつまって、建っていた時代の風景は美しかったにちがいないが、今日はもはやさまざまのものが入りまじって、何かただわたしたちの理解を困難にしているようにしか見えない。
都会も最初のうちは、屋根の形や葺きかたがおそろいであったらしいことは、火事にあわないいくつかの小さな町の、家並みを見ても大よそは想像し得られる。それが、あとからあとからと人がはいってきて、今のように大きな市街になると、とても統一は取れなくなってしまうのである。そういう中でも、土蔵造りという瓦葺きなどは新らしいもので、大きな商人の多量の財貨をかかえた者でないと、必要もなく、また持ちこたえることができない。しかし火災に対して少しでも安全なのは、このほかにはなく、ことに市民の半分は借家人であったために、家は焼けるものと始めからきめてしまって、火事があると身のまわりの物を持って、さっさとにげて立退くさんだんばかりしていた。これが東京などの大都会に、大火の多かった原因の一つで、そうしてまた屋根の三角が、いよいよ不揃いなものになる種でもあった。
東京はその地勢からいうと、木がすくなく萱や葦が周囲に多く、自然にまかせて置けば草屋根の大きなものが、幾らでも立ちつづくべき御城下であった。『慶長見聞集』という本を読んで見ると、今から三百四十年ほど前の、慶長六年霜月二日、江戸丸焼けという大火があったのち、幕府は命令をだして草葺きをあらためさせ、新築はなるべく板屋根にするようにと指図した。火事の用心に板葺きというのはおかしいが、その板の上には蠣の殻を多くのせて、火の子の燃えつくのを防がせることにしたのであった。蠣殻はこの海岸の一帯に多く産し、瓦はまだふつうの人が利用するまでに、普及していなかったからである。この際に大通りの本町二丁目に、滝山弥次兵衛という金持があって、家を新築するのに町に面した屋根だけを瓦で葺き、棟から裏のほうは板葺きにした。それがめずらしいといって遠くから見物に来る人が多く、半瓦の弥次兵衛という綽名がつけられて、大評判であったという逸話も伝わっている。
皆さんが多分おどろかれるだろうと思うのは、この慶長の大火事のころまでは、江戸の市中には棟の高い大きな家が多く、そのてっぺんには鳶だの鷺だの、また鸛の鳥だのの、巣をくったのが見られたということである。板葺きの三角は平たいから、どんなに大きくてもそう棟が高くならない。またこの時分は二階屋というものも少なかった。だからそういう鳥の巣のあったのは、萱屋根の上に棟押えの木を組んでのせたもので、現在奥多摩の山村などにある農家よりも、今一かさ偉大なものが、昔の東京市内には立っていたので、それがこの大火に焼けて、もうふたたび造られなくなったのである。しかし萱ぶき藁ぶきの家が、これを限りに全くなくなったのではないこともちろんである。現にこの時から百二十年の後、享保十二年の大火事の翌年にも、藁葺きの新築は禁止するというお触れがでており、そのまた次の年には、なるべく下地総塗りの家作、すなわち今いう土蔵造りを建てよという命令も発せられた。それにつけくわえて、「但し土留め迄に蠣殻さし置き候分は勝手次第」とあるから、屋根はまだ瓦ではなく、ただ板の上に土をのせて、火の用心にしていたのである。『塵塚談』という書物は、ちょうどこれから少し後に生まれた老人の、若いころの見聞をしるしたものだが、これには目抜きの大通りだけでなく、山の手端ばしの武家町家ともに、こけら葺きに蠣殻をのせた屋根がふつうだったと出ているから、ところどころには、まだ小さな藁屋だけはのこっていたのである。
蠣の貝殻をのせた板屋根は、海近くの村へあそびに行って、見たことがあるという人は多かろう。あんなみすぼらしいものはないと、わたしなどは思っているのだが、それがこの東京都の、もっとも本式な屋根であった時代も一度はあり、さらにその一つ前には、これすらめずらしかった時代さえあるのである。やはり江戸の初期にできた『老人雑話』という本には、「昔は江戸中に蠣殻葺き四、五軒のみ。近年は大方蠣殻葺きに成り、これも火の用心よろし」とある。萱藁で葺いたり、板ばかりをのせたりした家よりは、なるほど燃えつきかたが少しはおそいかも知れぬが、あんまり安心のできないことは、これから後にもおそろしい大火が、何十回もあったのを見てもわかる。それで最後には瓦ならよかろう、または瓦に限るということになったことと思うが、これとても屋根にたくさんの土を置いて、それが雨の水に流れぬように、すきまなく覆いをするならよいが、それにはまた、じゅうぶんな重みを支えるように、今よりも何倍か丈夫な木柱を使うひつようがあった。ところが材木は遠くから持ちはこぶので、成るだけ倹約するために屋根の上を軽くし、ついに今日のような見たところばかりの、屋上制限というものがなり立ったのである。あるいは板屋根の上に土や土留めをのせるということが、はじめから無理だったのかも知れない。蠣殻はさいしょこの附近に多く取れたというだけでなく、石のちっともない地方だから、これも藁葺きと同様に、その代りに用いはじめたものらしく、石よりはかるくて都合のよいこともあったが、石にはもと防火の目的はなく、ただ屋根板の風に吹き飛ばされるのを、押えようというだけの趣意であって、火事にはむしろこの石のおちてくるのがあぶなく、早くにげ出すひつようさえあった。それで近頃はただの丸石をころがしておく代りに、うすくて幅広い、よく剥げる石のある地方では、これを採ってきて、いちめんに敷きつめ、又は柾板にまじえて直接に屋根を葺いているものも多くなったのである。わたしたち日本人の生活は、かんがえて見ると、毎日の改良であった。以前これは便利だつごうがよいといって採用した技術で、そのままいつまでも使っていられるものは少ない。また最初の通りだと思っていて、知らぬ間に中味のちがってきてしまったものも多い。ことに住宅などはまだその改良の半途であり、敵の空襲というような、前にはかんがえて置くことのできなかった危険と不安とが、大きいのから小さいのまで、いくつもあるということがよく判ってきたのである。新たにこれに応ずる改良を、しなければならぬ人は皆さんである。どこに親たちの苦心した点があるかを知ると共に、べつにまたどの部分がまだ十分でなかったかを、見きわめるだけの目と判断とを自ら養うように心がけなければならない。
そこでもう一つだけ古い書物を引いて見ると、これは今からわずか九十年ほど前に、大阪から出てきて江戸を見た人の『皇都午睡』という本のなかに、こういうことが書いてある。江戸は年々歳々の御触出しあるがゆえに、通り筋と間筋は大方瓦葺きとなったが、はしばしにはたたき屋根が多い。風吹きに屋根板の散らぬように、細い竹を伏せて手ごろの石か瓦のわれをのせて置くとある。すなわち蠣の殻はもう使っていないので、たたき屋根というのは、釘をもって板を打ちつけた屋根のことである。それからまた、中くらいの場所は表側だけ瓦葺きで、いわゆる半瓦の家はめずらしくなく、まして場末には瓦一枚もつかわぬ家ばかりであったが、わずか四、五年をへだてて二度目に下って見ると、もう瓦葺きがよほど多くなっていたから、のちには京大阪の市中と同様になるであろうともいっている。すなわち上方の二つの大都会では、この時もう瓦屋根がふつうになっていたのである。
しかし、火事は江戸の花などといって、とくに江戸のほうに多かったのはそのためでもなかったらしい。あれから瓦葺きが急激に増加してきたけれども、なお明治のなかば過ぎまでは、二千三千というような大きな延焼が、毎年のようにつづいていた。一つには丘陵のあいだが狭くて風の道がとおり、また冬分の風がつよいからとも言われていたが、それが近年になってから、回数はもとと同じでも、焼ける家かずがめっきりと少なくなったのは、まったく消防の技術の進みといってよい。その技術というなかには、隊の組織や報知機関の完備、機械の精巧さとか、消火栓の配置とか、道路のとりひろげとか、なおいろいろの要件がふくまれているが、屋根の葺きかたや諸材料の改良が、その一つにかぞえられるかどうかはまだ疑問である。ただ、戦国時代の城下の町のように、民家は焼けるもの、火がくれば家財をかかえて、逃げればよいものというような考えかたがだんだんと消えて、ここは一国の大切な都だ、これを美しくし、また安全な場所にしよう、焼いてはあいすまぬという共同の念慮が、日増しに強くなってきているということだけは、想像することができるのである。ただし、そのためには、災害が目の前にせまってから、これとひっしに闘うというだけではまだ足りない。どうすれば日本の国土に相応し、風景と調和し、無事の日にはこころよい住心地と、たのしい安全感とをあたえるような住宅の群れを作りあげて、いよいよわたしたちの愛惜の念を、深くかつ切なるものにし得るかを考えなければならぬ。こういう大きな任務が、これから成長してゆく若い国民にゆだねられている。それはむつかしいことだ、できない望みだということは、まだ皆さんは言い切ることができない。何となれば皆さんは今まで、ちっとも屋根の歴史というものを調べたことがないからである。今まで知らなかったことを少しでも多く知って、それを友だちと共にかんがえて見ることが必要である。雨のよく降る日本では、三角は恐らく飛んでしまわないであろう。ただその三角をどういうふうに組みたてたら、いちばん安全であり、また見た目にも美しいかを、きめてくれる人を我邦は待っているのである。
この戦争のはじまる前、二食主義といって、お昼の食事をしない人が、東京などにはかなり多くいた。一体に朝が農村よりはずっとおそいので、仕事に取りかかって程もなく、やっと身がはいる頃にもう十二時になる。そこでまた一時間ばかりも、息を抜くのが何だか惜しい。消化のためにはもしがまんができるなら、あいだを長くするほうがよいというのが、主たる理由のようであったが、なおその以外にも昔の日本人は、朝と夕の二度の食事ですませていた、これを三度にしたのは新らしい習慣だから、もう一ぺん古い方式にもどったほうがよいという、歴史を重んずる考えも働いていたかと思う。歴史がわたしたちの将来の生活をきめて行く上に、大きな参考になることは疑って見るまでもない。ただその知識はじゅうぶんに精確なものでないと、何かの折にはまよいが起こって、うごかない判断の根拠にはならぬのである。われわれの知っておきたいことは、できるかぎり歴史の全体でありたい。すなわち昔は朝晩の二度だけしか、食事をしなかったというのが、ほんとうであるかどうかをたしかめるだけでなく、そんならまた如何なる理由と事情とで、このごろのように三度三度の食事といい、二度しか食べない子どもを欠食児童などというまでに、それがふつうの習わしになってしまったか、この点もあやまりなく答えられるような、歴史を学ばなければならぬ。そういうことまでを説明した書物は、まだ出ていないようであり、仮にこういうわけだろうと言った人があったところで、たしかだと思うことができなければ役には立たぬ。しかし皆さんがなるほどそれは大切な歴史だ、どうかしてその点を明らかにして後に、これから二食にしてもよいか悪いかを、決したいものだと思うようになれば、今にかならずその答えは出てくるであろう。どうしても判らぬというほどの、秘密な事件でもないからである。私たちが知っておりたいと思わなかったばかりに、まだ知らずにいる事柄は、食事の問題以外にもいくらもある。さあ入用だという時になって、あわててたずねまわってもそう急にはわからない。
だから若い人々は、これから必要がおこるであろうと思う歴史を、今のうちにおぼえて置こうとしているのであるが、それを片端からみな覚えるというわけには行かない。何か機会があって、これはおもしろいと思ったことから、つぎへつぎへと注意して見るのがよい。興味をもって見たり聴いたりしたことは、そんなに骨を折らずとも、いつまでも覚えておられるものだからである。食事の習慣が皆さんのと非常にちがった村々に、しばらく住んでいるということは一つの機会である。わたしがこういう話をしなくとも、気のつくことはきっと多い。ただ他の土地ではどうかということだけを、つけ加えて一ぺん話して見るのである。
お昼を食べない家は、現在はもうなくなっている。わざわざ朝晩の二食にしようときめた人でも、家の者をのこらずその流儀にさせることは、ちょっとできそうにもない。それほどにも一日三食ということが、今ではもうあたりまえになっているのである。しかし気をつけて見ると、そのお昼の食べかたというのが、土地により人によりまた仕事の種類によって、思いのほかまちまちになっているようである。家に入って畳の上に坐って、お膳を出して朝飯夕飯と同じに、食事をする者は上流の家、または都会に住む人のところでも、決して全部とはいわれぬのである。かず多くの農村漁村はいうにおよばず、町の人たちにも外へ出て食べる者はひじょうに多い。食堂とか飲食店とかのできたのはもちろん近い世のことで、その前はみな家から食事を持ってきて、仕事場の片わきでお昼を食べるのが、今とても働く人たちのふつうの習いである。そうして以前の日本人の仕事は、屋外のものがもっとも多く、日中も家にいて膳で食事のできるような人は、男はもとより女や年寄りにも、ほんのわずかな数だけであった。お昼と朝晩の食事とのちがいは、ちょっと考えて見てもいくつかある。第一に家族が順序よく一列にならんで、同じ時刻に同じ物を分けて食べるということがない。次には食事の器物が、持ってあるくようにできたもので、家で食べる時とまったく別であり、同時にまた分量も前からきまっていて、なんでも勝手に食べてよいという品かずがはなはだ少ない。べんとうという言葉はいつごろからあるか、またどういうわけでこんな名をつけたか、わたしなどにはまだわからないが、田舎ではこれをモチビルという人が多い。一つの飯櫃や鍋の物を、みんなして共々に食べるのでなく、前からめいめいに分けあたえられて、一人一人が自由に食べるという点は、なるほど餅とよく似ている。餅をモチというのも多分はこれと同じく、「持つ」という語から出たものであろう。
だから三度の食事というなかでも、昼飯だけはよほど形がちがっているので、それが三度ともほぼ同じことになったのは、朝から晩まで家にいられる職業、たとえば小売商の自分で店番する者、または仕立屋などのように家で仕事をする者が、多くなってから後のことである。村にもこのごろはそういう人ができてきたが、もとは市街地だけにしかないことであった。お昼を包んで家のそとへ持って出て、べつべつに食べるのも食事のうちに入れるとすると、昔は二食であったということがよっぽど疑わしい。たしかにそうだったとは、今はまだいうことができないのである。
そればかりではなく、現代は食事が三度になったということも、国の全体からいうと事実にはんする。お昼と朝晩とのようにまるでちがった食べかた、場所も仲間も分量も器物も、共に変っているものも皆食事だとすれば、村では三度ではなく四度か五度、まれには六度以上も食べている家があるのである。中華民国をはじめ、アジアの南方の国々はどうなっているか、くらべて見たいと思ってまだできずにいるが、少なくとも日本の歴史においては、この二通りの食事は最初からべつべつのものであった。これから後もやはりわけて考えるほうがつごうがよいと思う。そうしてこの家の外で食べる分をべつにすると、以前はたしかに二食であり、近ごろはまたいろいろの新らしい理由から、三食の人がしだいに多くなって行こうとしているのである。
朝と夕との本式の食事を、古い日本語ではケといっていたらしい。今でも朝げ夕げという名を使う人がすこしはあり、また神さまにさし上げるお膳は、朝みけ夕みけと昔から敬語をそえてとなえている。お昼の食事も昼げということになったのは、なんか特別に日中にこのお膳をこしらえる場合だけに、限ったことだったろうと、わたしは思っているが、のちのち外へ持って行くべんとうまでも、昼げだと思う人が多くなってきて、そのケという語の意味が、はっきりとせぬようになったのである。最初の起こりは膳椀のような、きまった食器がケであって、それで食べる食事だけを、朝け夕けといったらしいことは、
という有名な古歌からも想像し得られるが、いっぽうにはまた家庭生活、日常生活のこともケといっているから、あるいはかえってこちらがさきかも知れない。近畿地方の一部、または中部地方のそちこちに、飯時をケドキという言葉がある。岐阜県の南のほうなどでは、このケドキにたいして、そとでする食事をお茶時といってくべつしている。
めし時という言葉は東京などでもよく使うが、これもケドキと同様に、家のなかでの食事のことであった。田の畔にこしかけて黄粉握飯などを食べている人に、路をたずねたりするときには、よくわたしたちも飯時に失礼などというが、これは誤りでないまでも一種のたわむれで、むこうでも大ていにっこりとする。メシは本来「きこしめす」また「めしあがる」のメスから出た語であって、ちょうど「賜わる」から出たタベルに相対する敬語であった。今はクウという語が失敬になって、そのかわりにひろく用いられているが、もとは目上の人に向かっていったものですなわちお給仕をする者のある食事がメシであった。戸外の労働にともなう午食が午餐でなく、したがってメシと呼ばるべきものでなかったことは明らかである。この心持からいって見ると、一日五度も六度もある農民の食事は、これを飯時またケドキと、そうでないものとの二つに分けることができるので、お茶時という名は古いものでなくとも、今ならば他の一方をそう呼ぶのがもっとも適している。
このお茶時が以前の世にくらべると、おいおいと回数も多くなり、また欠くべからざるものになってきたことはまずたしかである。最初のケドキすなわち朝飯と晩飯との時刻は、朝日の豊さか昇りと夕日のくだち、日の出と日の入りとを本式としていたことは、神をお祭り申す祝詞というものの中に、そういう文句のあるのを見てもわかる。しかし、これではその中間が約十二時間で、なにも食べずにはとてもしんぼうができなかったろうと、今の人の心持では、そう思わずにはいられないようであるが、これにはまたわたしたちの忘れかけている一つのことがあった。それは体質のちがいと言おうよりも、むしろ今と昔との習慣の差であったかも知らぬ。以前は一度にうんと物を食っておいて、そのあと一日も二日も食わずにいられる人、またはながい間飲まず食わずに、平気でいられる人がずいぶんと多かったのである。近世になってからでも、血気さかんな壮年の中には、まれにそういう男があって、溜食と称して、これも武芸の一つのように、評判にもすればじまんにもしていた。じっさいまた戦国の時代には、急な使いに遠くへやられるとか、もしくは敵の中にひそみかくれているとか、この特技のひつような場合が毎度あった。こんどの大戦でもおそらく経験したことであろうが、なにか食わぬとすぐに弱ってしまうようなのは、活躍する者にとってかなり不便だということが、昔は一般の常識であったゆえに、この溜食のできる人は重んぜられ、またわざわざその練習をする者も、少しずつはあったのである。もっともこれによって食料の倹約などはできず、したがってまた栄養の低下ということもなかった。こんなことのできる人は、むしろ大ていは大食いであった。
人が生命をつなぎ養って行くための食物と、人のよろこび楽しみを深くするための食物と、二つははじめから二通りのものであったかと、わたしなどは考えている。これがなくては活きていられぬことは、そうほう少しも甲乙がないにしても、一方はとにかくに毎日の事であるにたいして、こちらは日が定まり季節があり、またその食べかたやこしらえかたに、一つ一つの特徴があった。だいたいに時と手数のかかっためずらしい食べ物が後のほうに多く、それゆえにまたこれをかわり物とも、品がわりともいっているところがある。家にいてみんなといっしょに食べることもあるけれども、この品がわりは家からそと、仮小屋や幕の内または青空の下で、賞翫する場合のほうが昔から多く、それはまたわたしたちの親々の、なにか変った仕事をする日でもあった。いちばんよく知られているのは神を祭る日、正月と盆と彼岸、その他節供といって一年のうちに何回か、業を休んで祝う日にも品がわりができた。こういう日の食物は、まず神々に供え、先祖の霊にすすめ、それと同じ物をわれも人も、ともどもに食べるから、ことに楽しかったのである。それから家々としては婚礼の夜やお産のとき、または年祝いといって老人の長命を祝う日、いっぽうにはまた人が亡くなって野辺送りをする後先から、しだいに月日がたって月忌年忌の祭りをする日まで、身うち知合いの人々のあつまってくるようなさいには、今でもかならずただの朝飯夕飯とちがった物を調理して、食べさせなければならぬものとなっている。
しかしそういう場合が、まだこの以外にもいろいろあったことは、もう心づいた人が多いかもしれない。一年の間にやっと一度か二度、もしくは今一段と稀々にしかおこらぬ事件で、人がそのために全力をふるい、精魂をつくして働かねばならぬようなさいにも、やはりふだんとはまったくちがった食べ物を用意し、かつできるならば酒もそえて、日ごろは一座で食事をすることもないような人たちと共々に、あらたまった気持でしかも楽しく食べていたのである。かぞえあげて見るとそういう機会は多かった。戦いも昔からその一つで、いそがしくなれば食事どころではなかったろうが、出陣の始めの日とか凱旋のよろこびの日とか、そうでなくても明日は決戦という前の晩とかには、たいていの場合この食べ物が出た。慰労にも前祝いにも、常の通りの膳立てでは、とても引きしまった晴れの感じにはなり切れなかったのである。日本の食事の習慣が、戦国時代と呼ばれている室町期のおわりの頃、諸国に小さな戦争の非常に多かった百年ほどの間に、目に見えて大きく変化した理由は、まったく戦時の食べかたの常とちがっていたためであった。
戦とくらべると事はずっと小さいが、人が家々から出て大きな働きをするという点で、よく似ているものには狩倉があった。これにも働く人々の意気込みを統一し、仕事にたいする熱意をたかめるために、やはり品がわりの食い物がしたくせられた。宮とかご殿とかの建築や船造りのために、山に木材を採りにはいるときもその一つ、それから木を運びきりけずって、いよいよ船のかわら(底材)をすえ、または新築の棟木をあげる日なども、一同があつまってこの食事をする。屋根葺きのグシをつつむ日も、もとは同様に大切な日であった。それとは反対にその家が火災水災にあい、多くのそとの人がきて働いてくれた時にも、成功不成功にかかわらず、やはり焚出しの握飯と酒とがでた。今では罹災者に給与するもののように考えられているが、本来はこの特別の労働が、かならず特別の食物を以てねぎらうべきものであったことは、葬式の時などとも変りはないのである。
つぎに今一つ殊に大切なものは、旅行の人々にたいする給食であった。宿屋は今でも宿泊者をお客といって、人を招いたときと同じような饗応をするが、そういう設備のまったくなかった時代でも、えらい人の一行がある土地を通過するということは、附近の住民にとっては大へんなさわぎであった。中世の記録を見ればいくらでも実例が出ているが、京都から奈良へというほどの一日路の旅でも、前以て通知があって、昼の用意をする者がある。駄餉とも雑餉ともこれをいって、飯は屯食という握飯で、汁は添わなかったようであるが、そのかわりにはいろいろのご馳走が櫃や長持で持ちはこばれ、上下何十人の者が路傍の森の蔭などで、草にむしろを敷いてゆっくりとこれを食べ、馬や車牛までが結構な秣にありついたのであった。あの時代の有力者はそれを一種の見えにして、常からそういう奉仕をする者を、ゆく先々に見つけて置いて、じゅうぶんな手当てをしたのであるが、そういう縁故をもたぬ貧乏な旅人には、旅は誠にういものつらいものであった。昼飯をカレイというのは枯れた飯、すなわち干飯を持って歩いたからである。ふつうは清水のそばで水をかけて食べたのだが、涙がその上にこぼれて干飯がやわらかになったと、『伊勢物語』という本には書いてある。何日も何日も、そういうものを食べてゆく旅は苦しかったろうが、それでもこの食べ物が品がわりの一つであったことは、他のすべての場合と変りはないのである。つまり旅行というものは戦や狩や建築工事などと同様に、家で朝晩に食べているものと、すっかりことなった方式をもって、食事をしなければならぬ人生の一部なのであった。
家の内と外の食事、すなわち親子兄弟水入らずで、気楽に食べてしまう毎日の飯と、なにか事ある時だけにあつまって、神さまや貴人の前で、またはよそからきた人々と共に、はり切った気持で食べる物とは、品が当然にかわるばかりか、これを調製する女たちの心づかいもちがい、またその材料の出どころもべつであった。朝け夕けの常の飯料は、ふつうにはげびつまたは糧米櫃、すなわち今いう米櫃の中に入れてあって、それにはざっと二合半入りの、大きな木の椀を添えて置いて、頭かずに合わせてそれではかり出した。すなわち一日一人の扶持米を、五合と立てた計算のもとである。これにたいして屋外の食事には、前日から籾を搗くことが多く、飯を炊くにしてもこれだけは白米で、他のいっぽうの常食のいろいろ雑穀をまぜ合わせたものとは別であった。そういう中でも田植の日の飯米などは、かたい家では早くから精げて俵にして、用意して置くものが今でもある。またはその中へ正月の三方折敷の米を、かならずくわえて炊ぐという風習ものこっている。こういう事実を知りぬいている人々は、だれでもあらたまった気持になって、これを味わわずにはいられなかった。ことにいさましい労働の後であったゆえに、なにがなくてもこの田植の日の、厚朴葉飯や黄粉握飯ほど、うまいと思ったのはなかったと、村から出た人はいつまでも話の種にしている。
毎年くりかえされる農耕の作業のなかで、こういう屋外の食事をともなうものは、土地によって範囲が定まっておらず、夏中打ちつづくところもあり、わずかしかないところもあるようだが、如何なる場合にも田植前後だけは、これはかならず欠くべからざるものとなっている。そうなっている理由はいくつもあるが、手みじかにいうならば、田植は重要な労働であると共に、また一つの祭典でもあったからである。若い男女はこの日はみな新しい仕事着で、たすきや白手ぬぐいの泥になるのもかまわず、朝は早天から田におりて、日の出にはもう田植唄をうたっていた。その唄の章句はかず多くつたわっているが、これにはみな田の神を田にむかえて、その神徳をたたえその御恵みにたよるということを、はっきり述べている。お昼も近くなると一人の若い娘が、この日の食べ物を頭にのせてはこんできた。中国地方ではこれをオナリド、関東から東北一帯では昼間持ちといっている。オナリドは煮焚き調理をする人ということであり、昼間はすなわちお昼の食べ物をそういうのだが、それも田植唄のなかでは長者のまな娘、どの早乙女よりも美しく化粧し着かざって、いろいろの好い食べ物を持ってくるのが待遠だというふうに歌われている。以前はたぶんその人に御田の神の祭りを、奉仕する役目を持たせていたのである。そういう日の昼の食べ物が、そまつないい加減なものであろうはずはない。ことに田植にはユイ組といって、ある地方では近隣のしたしい家々、またある土地では嫁婿の縁家さきなどがいい合わせて、たがいにきて助けてできるだけみじかい日数に、きそうて広い田を栽えおわろうとしていたのである。そういう人たちをよろこび勇ませ、ただ仕事の労苦をわすれしめるだけでなく、その上になお生産の前途にたいして、あかるい希望をいだかせようとするのが、この日の食事の本来の目的であった。その起こりはよっぽど古く、事によったら他のいろいろの祝いごとよりも、前からあったかも知れぬのである。
日本のもっとも古い書物の中にも女が田人に食べ物を持って行くという話がのせられている。またそういう婦人になにかふしぎな事があって、神に崇めまたは塚に祀ったという伝説は、今でもおりおり田舎にはのこっている。田植の日にお昼を田のへりで食べるという慣習の、昔からあったという証拠は、もうならべる必要もないほど多いのである。わたしの皆さんに話して見ようとするのは、それが今日の三度の食事、または一日に六度も食べるしきたりと、どういうつながりを持っているかということで、これだけは知っておくと、きっとなにかの役に立つ時がくると思う。食物をもっとも楽しくまたもっとも有効に食べるには、何回にわけ、どう割り振るのがよいかということは、これからもかならず問題になり、そうしてそれをきめる人は皆さんだからである。
三つほど大きな変遷が、近世になって始まったことにまず心づかれる。その一つはこの臨時の食物が甘くおいしく、かつだんだんと珍らしいものに移ってきたことである。第二にはそういう臨時の食物を食べる日が、しだいにかず多くなったこと、第三にはまた一日のうちにも、その回数が一度以上、二度も三度もくり返されるようになったことである。この三つの変遷のなかで、一は原因が他にもあったようであるが、二と三とはもっぱら田植の日の影響であったと見えて、農業以外にはぜひともそうしなければならぬというきまりがない。それでこのほうを先に見てしまってから、最後に皆さんとも関係の深い、甘い物の話をすることにしよう。
田植のあとさきには、同じように骨の折れる大きな仕事がいろいろある。二毛作といって田にも麦を作るようになると、稲の苅り跡は冬にはいるまえに、馬などを使ってさっさと起こしてしまうが、以前は春になりやっと田の氷がとけるのを待って、若い男が総出で一つ一つ去年の苅株を堀りかえして行く。これが春田打ちで、まず一年の農事のはじめであった。それから苗代のこしらえがすぐにつづき、籾種をまいてしまった日にも小さい祭りがあり、種籾のあまりを焼米にして、袋に入れてもらって子どもらはよろこんで噛んでいる。そのつぎは池浚え溝なおし、田にかかる水の路をよく通して、土がだんだんとやわらかくなると、あらくれという大きな土の塊をくだき、水が漏れないように田の畔を塗りかためて、それへ大豆などを蒔くしたくをして置くのである。いよいよ田植となって代掻きえぶりすり、苗もその日の朝取るのがふつうだったが、いそがしい日には、前日の日暮れに取って置くようになった。植えみて・さのぼりなどという祝いの日が休みで、そのわずかな期間がすぎると、ほどなく田の草取りがはじまって、それがまた三番草四番草まで続くのである。田植を農民の重要な祭りだと気づかなくなって、昼間の食事をこの日だけに、かぎるわけがないと考え出したのは当然であろう。それで家々の男女のあつまって働く日は、ユイ組の助け合いはない場合にも、やはり大田植の日と似たような、臨時の食物をもってねぎらう風習が、だんだんと拡張して行ったのである。
ちょうどそれは日の永い汗の出る季節でもあったゆえに、たびたび少しずつの休憩をしないと、かえって力一杯の働きができなかった。多くの若い者を使っていた農家では、線香一本のたつあいだなどという、おかしいほどみじかい時間の昼寝をさえ規則にしていた。卯月八日(旧四月八日)の花の日にはじまり、八月一日の八朔をおわりとして、毎日それだけの昼寝を、働くひとたちの権利のように思っている地方は今でも多く、ヒノツジという言葉が日の頂上、すなわち日盛りの意味だったのをわすれて、昼寝をヒノツリといい、八朔の日をヒノツリの取上げという人さえあった。田圃が広々と開かれて好い樹蔭がなくなると、家が近ければ日の辻にはかえってきて、昼間の食事だけは家でする風習も生じたのである。この休憩の時間をきっぱりと切りあげて、はやく人の手をそろえるためには、ここでもわずかな食物をしたくして、食べて立たせるようにする必要があった。それでひるねの前とそのあとの眼さましと、午後は二度まで小昼間を出すところもできたのだが、それはいずれも人をつかう家の考案で、最初の趣旨からはやや遠いものであった。
ひるまがもとは日中というだけの意味であったのを、いつかその中間の食物の名にしたのは、今わたしたちのつかうヒルという言葉も同じことであるが、これだけはまだ久しいあいだ、朝飯夕食のような家のなかでのきまりの食事にはなっていなかった。そのことはこれから言おうとするコビル・コビルマが、今でも屋外の臨時の食事であるのを見てもわかる。コビルマは疑いなく「ひるま」の小さいものという意味だろうが、現在この名のおこなわれているのは、中国・四国と九州との端のほうだけで、その他の広い区域にはコビルというものがもっとも多い。東北地方の一部、紀州や北陸の二、三の土地で、これをコビリといっているのは、たぶん昼飯を「ひるいい」という古語ののこっていたためと思うが、その由来がすでに不明になって、信州ではコビレ・オコビレ、富山県ではコブレまたはコバレ、能登半島ではコベリといっている者もある。全国を見わたすと、大体は午後の休みに食べるのがこのコビルで、午前のはナカマ・オナカイリ、またはアサコビリなどの名で呼ぶ土地が多いが、中にはそうほう共にコビリで、これをヒルマデコビリとヒルカラコビリとに、言いわけている大分県のような例もあり、稀にはまた午前のだけがコビルで、午後のをわざわざヒルコビリ、もしくはユウコビリといっているところもある。土地によってややまちまちになっているのは、時をことにして始まったためかと思う。岐阜県の北部山間などでは、六月農事のもっともいそがしい時、午後に二度まで出る小昼の二回目を、オトコビルと呼ぶ名もある。そうかと思うと秋田県の雄物川すじから、津軽地方までのかなり広い区域で、ただ田植の日の豆の粉握飯、または強飯のような食べ物だけを、コビリノママという例もあるのである。
こういう序でないと、もう皆さんが聴くこともあるまいと思うから話して置くが、まだこの以外にいくつかの変った名前がある。たとえば東京の周囲の村里から、北は福島・宮城の二県まで、西は甲州と信州の一部、東海道すじは愛知県の東部にかけて、コビルという名はなくてその代りにコジュウハン、またはオコジョだのオコジだのという語が行われている。これを小中飯という漢字をあてる人もあるが、じっさいは昼飯またはヒルイイを、しゃれてチュウハンと言い出してから後の名である。そうしてこれにもまた午後の小昼をそういうところと、午前のものだけをコジュウハンというところとができているのである。
次になお一つ、中国地方は鳥取・島根、また広島などの各県に、夏の農作のはげしいころ、三度のほかに出る食事をハシマという名称がある。これは箸間と書き、箸で食べる食事のあいだのものだから、そういうのだと説明してくれる人もあるが、これはこじつけで、じっさいは昼間のマと同じく、ただ中間の食事というに過ぎぬことは、村によっては小をつけてコバシマ、又はコバサマという人のあるのを見ても知れる。ハサマはすなわち物と物との中間のこと、今いう間食をアイダグイ、またはハサグイというのと元は一つである。これも春の彼岸から秋の彼岸まで、毎日出るというところと、盆の十三日のハシマを以ておわるというところと、田植のあいだだけしか出さぬというのとがあり、時刻も午後が多いが午前のをハシマという例もある。もっとめずらしいのは、後にいう茶の子と同様に、早朝のかんたんな食事をそういっている村もあることである。しかしこの最後のものだけは思いちがいと言ってよい。つまりはハシマやコバサマが、中間の食事ということだったのを忘れて、かんたんな食物なら皆ハシマと、考えるようになってから後のことなのである。
日本の北の端、岩手県の九戸郡ではコワエコというのが、午前の九時ごろと午後の三時ごろ、仕事の一ぷく休みに取る食べ物のことであった。これに対して九州の一部、たとえば佐賀県の三養基郡などでは、おなじ小昼の食事をヤーノメシ(あいの飯)ともいっている。国の両方に遠くはなれてはいるが、この二つはともにあいだの食事ということで、名をつけた起こりはハシマやコバサマもかわるところはなかったのである。ひるまのマも最初のうちは朝夕二つのケの中間ということだったのが、いつか毎日の三度の食事の一つになってくると、もうその他の小さな間食を、マということはできなくなって、べつにアイとかハサマとかいうような、意味は同じで音のちがった言葉を、用いるひつようが生じたものと思われる。
間食という二つの漢字は、古く奈良時代のおわりごろに、書かれた本の中にもすでに使っている。日本の最初の口言葉では、それを何といったのか明らかでないが、少なくとも今のようにカンショクという人はもとはなく、ケンズイと字音で呼んだのが古いことであった。食をシーまたはスイーと読むのは呉音というもので、仏教を学んだ人はみな呉音をつかっていた。たぶんは大きな寺などに行って働いた人々が、おぼえてきてはやらせたものであろう。近畿地方の各府県の住民は、今でも小昼間や小バサマというかわりに、このケンズイという語を用いている。そうしてもうその語がどういうところからはじまったかを忘れているのである。間炊と書いてあいだに炊く飯だからという者があり、または粥を出すからケンズイのスイは吸うことだと思っている者もあり、または硯水などというとんでもない字を書いて、昔咸陽宮で冬の日、硯の水が凍った時に、酒をそそいでその水をとかしたので、それから酒を硯水というなどと、ありもしない故事を引用した者もある。しかし中央部の多くの例でもわかるように、ケンズイに酒を出す場合はむしろすくなく、ただの飯の残りを出すこともあれば麦のお粥もあり、土地によってはまた厚朴の葉でつつんだ強飯や、餅饅頭の類だけを、そういっているところもある。そうしてこれも小昼のように、午後を主として午前のを朝ケンズイ・四つケンズイといったり、あるいはまた一方を七つケンズイといったりしている。
このケンズイという言葉を、知っている区域はかなり広いが、端々ではその意味が少しちがってきたことは、これも秋田県などのコビリ飯と似ている。新潟県の一部のように、小豆餡の饅頭というような念の入った品がわりだけをケンズイというのは、年に一度か二度のとくべつ労働の日らしく、中国地方の西北海岸や、九州の南部から島々にかけて、ケンズイというのは親類からの見舞品で、主として大病人のあるときとか、家の普請に大工職人のはいっているときとかに、手つだいの気持で酒や米、または重詰めの肴を贈ってくることであった。もとは家々の間食もみなケンズイだったのが、のちのちこういう見舞品に力を入れる風習が起こって、なにか特別のものと見るようになったことは、今でもわざわざ家建てケンズイなどといっている地方があるのを見てもわかる。建築に専門の職人をたのみはじめてから、きゅうに間食が大層なご馳走になってきたのである。東京などの大工たちも、建て前・棟上げの日に酒肴が出て、それをケンズイということはよくおぼえている。ただもうそれをまちがえて、ケズリという者が多くなっているだけである。
こういう職人たちに給与する間食を、現在はお茶というのがふつうになった。村ではこれと今までの小昼や小ジュウハンと、べつべつに見ている人もまだ多いが、農家にもおいおい年季の奉公人がすくなく、日雇いの働き手を入れるようになると、食べさせる物も一つになり、したがって名まえもちがえる必要がなくなる。関東地方でも、千葉県などではコジャという言葉がひろくもちいられ、中国地方も隠岐島などは、田植の日の午前の小バサマを小茶、午後に昼寝をして起きて食べるのを、立ち小茶ともいっている。広島県の漁村などには、夕食に近い間食を、孫茶という言葉もある。もちろん小茶よりも小さいものという洒落であった。京阪周囲の村々でも、ケンズイという名はもう知らぬ人ができて、市街地同様にお茶という語がよく通じ、前茶・朝お茶・四つ茶というのが午前の茶のこと、八つ茶・七つ茶・二番茶などというのが午後のである。もう知っているひとは多いだろうが、四つ・八つ・七つはむかしの時のかぞえかたであった。七つというのはおおよそ午後四時、八つはその前の午後二時ごろ、そうして子どもたちのオヤツという語のもとであった。
お茶をかんたんな食事の意味につかうことは、西洋もよく似ている。人を働かせる日の間食にはかぎらず、本膳を出さぬほどの手がるな饗応を、お茶というところは田舎には多く、ことに九州などでは婚礼の前後にもお茶、また仏事の日にもお茶といって人をまねいている。このお茶にはむろん酒が出る肴が出る。しかし名称の起こりはやはり茶を飲んだからであった。茶は鎌倉時代の始めごろに、えらい禅宗の僧が支那から持ってかえり、九州では肥前の背振山、それから都近くの栂尾や宇治に栽えたということになっているが、この説の半分はまちがっている。輸入をしなくとも我邦の中央山脈には、東は東京のまわりの山々から、西は九州の南のはしまで、いたるところに自然と生えていて、焼畑を止めるとまっさきに芽を吹くのは茶の木であった。ただ隣邦のようにこの葉を煎じて飲むということを、もとは知らなかっただけである。茶には十徳があると、禅宗の人たちはいうが、農民にとってはその半分はありがたくないことだ、というような話も古い書物に出ている。少なくともこのおかげにあたたかい飲み物ができ、口のよろこびが一つ加わったので、今でも茶人以上に茶を多く飲むのは、じっさいは農村に働く人たちである。この流行の大きな力となっているのは、何といってもこの飲み物が、何かかんか食べる物もそえずに出なかったことであろう。最初は茶塩気といって梅干か漬物、まれには小匙一ぱいの塩ということもあり、そうでなくとも腹を太くするほどの多量の物はともなわずに、ただかんたんに一時の口さびしさをまぎらし得るということが、おそらくは茶の人望の基であった。みじかい休憩の回数がそのために多くなり、一方にはまた何の仕事もせず、腹もへらない人たちまでが、たいくつだといっては盛んにお茶を飲むようになった。そうしているうちに、砂糖という曲者が、いよいよ姿を現わしてきたのである。
いちばん大きな変動を受けたのが子どもたちであるが、それもずっと後のできごとであった。砂糖が日本にはいってきたのは、四百年近くも前の話だけれども、始めのうちはただ名を聴いたばかりの珍物で、都会に住む人々、それもよっぽど良い暮らしの家でないと手に入らなかった。しかしそのころを一つの境として、甘いという味がおいおいと普及することになったのは、やはりお茶というものの影響であろう。子どもはただ味をおぼえたら忘れぬというだけで、自分でさがし出すことはできないのに、砂糖以外のいろいろの甘味が、つぎからつぎと日本の食べ物に加わってきているのである。
茶を飲む風習が農家にはいってから後に、はじまったろうと思う食べ物はいくつかある。一つ例をあげるとオケジャまたはウケジャというもの、全国諸処にあるが、名まえだけは同じで、物は少しずつちがっている。播磨の一部では挽割麦と蚕豆とをまぜて、塩加減をして飯に炊いたもの、備中の吉備郡では麦と豆とを炒ってまぜて煮た米の飯、出雲の松江附近では番茶を煮立ててそのなかに飯を入れて煮たもの、どれもこれも旨くもなさそうだが、香気があるのでちょっと愛相になったものであろう。越後の高田辺でも、米と大豆をざっと炒って飯に炊いたものがオケジャ、駿河の志太郡では飯を炒って味をつけたのをウケジャまたは茶菓子ともいっており、紀州の熊野などでは、炒り米と薩摩薯とをまぜて炊いたものがオケジャである。飴や砂糖とはくらべものにもならぬが、甘藷や黒豆には少しの甘味があり、まためずらしいのでお茶の相手によかったのであろう。ともかくもただ空腹をしのぐというだけでなしに、しだいに口をよろこばすという目的がつけ加えられたことは、餡餅なども同じである。
農村には今でも砂糖をあまりあてにせず、戦争中の配給から使いはじめたという家もまれではないらしい。小豆の餡などはわたしたちから考えると、ただ砂糖の宿としか見えぬのだが、その砂糖はまったくなくて、餡だけを餅にぬって食べていた時が、ずいぶん久しいことつづいているのである。これにはなにか特別の理由もあるらしいが、総体に昔の人は歯をおもんじ、咬みしめて味の出るものをよろこんだにたいして、このごろは舌の触覚を主にするようになっている。栄養という言葉は使わなかったけれども、食べて身の力になるということが、以前は食事のただ一つの目的であったのが、後にはかえって口の楽しみに引かれるようになった。ことに砂糖の食べ物が得やすくなってからは、子どもの食事などは回数が多く、茶と茶の中間にまた新たなる間食を、ほしがる者さえできていたのであった。これも一つの習慣にはちがいないが、オヤツやお三時の起こりは存外にあたらしいものなのである。以前は食べる日が一年のうちに、指をおってかぞえられるほどしかなかった。それを毎日かならずもらうことにしたのは、子どもとしては一つの大きな歴史であった。
おしまいに今一つだけ、お菓子の歴史というものを、このついでに話しておこう。菓子はその文字がしめしているように、もとはただの果実のことであった。果実にも桃・梨・楊梅・覆盆子等、やわらかくて甘いものがいろいろあるが、生で食べられる日は幾日もないから、年中いつでも出るのはほして貯わえて置かれるものだけであった。それをぼつぼつと摘まんで食べたのは、客などのきたときのただの慰みであって、飢を凌ぐというのは始めからの目的でなかった。家でも正月だけは集まってこれを食べたと見えて、干柿・榧・搗栗というような、今はお菓子といわない昔の菓子が、三方折敷の上に鏡餅と共にかならず積みあげられる。昆布や山の薯や野老などは木の実でないが、これも早くから菓子のうちに加えられていた。それよりももっとよろこばれたのは白黒の大豆の炒ったの、つぎには蚕豆という大粒の豆などで、わたしたちの小さいころには菓子というものはべつにあって、これらを菓子とはいわなかったが、村の子どもはじっさいはこういうものばかり食べていた。
京都その他の大きな都会に、菓子屋という店のできたのは古いことであるが、最初はただ昔からの菓子、すなわち木の実や豆や昆布や薯を、味よく食べられるようにしたものだったらしい。そこへ砂糖がはいったので、さっそくとそれを利用し、今いう干菓子というものをいろいろと考え出して売ったが、まだしばらくのあいだ、餅団子の類はお菓子のうちには入れなかった。生菓子蒸菓子というような名まえは、上方から西の子どもは知らなかった。餅菓子というと餅と菓子と、二つをならべたもののように思っていた。菓子がやわらかな噛みくだく必要のないものになったのは新らしいことである。
そんならその干菓子でないほうの、今いう生菓子をなんといったかというと、百年前までの日本語はお茶の子であった。お茶の茶受けは塩でも梅干でもよかったのだが、何かことのある日には念入りに、こういうものをこしらえて出したので、今でも年とった人にはまだこの言葉を知っている者が少しはある。腹にたまるまでのたくさんの分量は出さぬので、どうしても味をおいしくする必要があり、甘味なども少しずつこの方面から加わってきたのだが、それでもまだ田舎には、ちっとも甘くはないお茶の子、どちらかというと少しまずいお茶の子がのこっている。これから夏のはじめ頃にかけて、皆さんのように朝早く起きる人たちは、気のつくときがきっとあると思う。農家の若い男女は床をはなれるとすぐに、鎌を持ち馬をひいて山へ草を苅りに行くが、その時には囲炉裏の灰の中から、昨晩入れて焼いて置いた大きな団子を掘り出して、ふうふうと灰をはたき、路々かじりながら出かけるのが、多くの農村のふつうの例であった。そうして一仕事してきてから、かえって本ものの朝飯を食べるのであった。この団子の大きさはメロンほどもあって、材料は蕎麦・稗の粉、たまに土穂といって米の調整のときに、一番あとにのこった屑籾を粉に挽いたものもある。塩も入れないのが多いから決してうまい物でないが、若い者はよろこんでこれで空腹をみたしたのであった。この団子の名はどこへ行って聴いても、大ていはお茶の子であった。すなわちもとはお茶の相手に食べたものを、後にはお茶なしに、「子」だけ食べていたのである。
このお茶の子ばかりは、じつはわたしなども食べて見ようという気にはなれなかった。それで旅からかえってその話をすると、もとは東京などの人はびっくりしたり、笑ったりしたものであった。しかしそういうのはもう歴史を忘れたので、前には江戸といった大きな都会でも、草こそは苅りに行かなかったけれども、やはり早朝にこのお茶の子を食っていたのである。その証拠としては何によらず、それくらいな仕事はいと容易だ、またはちっともこまらないというような場合に、朝飯前だともいえばまたお茶の子だともいっていた。すなわち二つの言葉は同じで、もと朝飯を食わぬうちに、お茶の子だけで、一仕事をしていた名残である。『宝暦現来集』という書物を見ると、今から百六、七十年前の安永年間までは、朝々江戸の町を「お茶の子お茶の子」といって売りあるく商人があった。そのお茶の子は今いう鶯餅のように、餡をつつんだ餅に黄粉をまぶしたものであった。手のない家ではこれを買い取って朝茶を飲み、それで朝飯をぬきにした人が多かったということである。農家のように昧いうちから起きるのでなければ、この茶の子のあとで朝飯を食べ、それからまた昼のしたくをするというのは、なるほど必要もないことであったろう。フランス人などの生活を見ていても、朝は起きぬけにコーヒーを飲みパンを少しかじるだけで、われわれが朝飯と訳している食事は十一時過ぎ、お昼の少し前になって食べるのをふつうのようにしている。日本の田舎でも朝飯は昨日の残りもの、そのほかいたってかんたんにすませておいて、その代りには昼飯をずっと早く、十時少しすぎるともう食べるというところもあるが、これなどは果して昼飯であるやら、または朝飯の時刻をおそくしたのやらわからない。というわけはこういう土地においてはきっと朝飯のことを茶の子と呼んでいるからである。そうして一方にはまたひるまの食事は屋外で食べるものとして、茶の子のつぎにくる朝飯をおそく、かつじゅうぶんに食べる土地も、東北などにはあるのである。何もしないで一日に三度、毎回膳ごしらえをして食事をするというのは、かならずしも日本のふつうの生活ではない。都会の住民でもそうしている人は、じつは半分もないのである。二度にしたからとて食料の倹約にはならず、やはり身を養う分量だけはへらせないが、それでもこれにともなう手数と気づかいとだけは、二度にもどすことによってはぶくことができるであろう。それがまた剛健なる古代日本人の生活でもあった。
ただそのために急に口淋しくなる人が、年寄りや子どものなかに多くなることだけはお気のどくだといわなければならぬ。そういうはげしい時代なら、年寄りは多分我慢をするであろう。それから小さな人たちも母の注意によって、だんだんと間食も少なくする習慣をつけられている。砂糖の甘さなども、忘れてしまわねばならぬ時があるかもしれない。しかし今から二、三十年前までは、それはそれは子どもがよく食べた。一つには大人もなんとかかとかいって、茶を飲み甘い物を食べる回数を多くしていたからであった。昼間または中間のマという言葉をはじめとし、ハシマも小バサマもケンズイも、もとはすべて間食ということであった。それがさらに進んでそのまた中間にもなにか食べるのを、中国地方ではハスワ食い、四国ではアイマ食い、九州の各地ではハザ食い、南の島ではマドモノ、中部地方にくるとコバミともコマグチともいう者が多く、近畿地方ではどういうわけでか、これをホウセキともヒズカシともいっていた。またタラシともいう人があるのを見ると、ヒズカシも幼児をすかす物ということであろう。越後から北信地方にかけては、これをまたスサビという語があって、古い名のように思われる。わたしなどの生まれた村では、オヤツだのお三時だのという言葉はなくて、小さい児はこれをナンゾといっていた。東京でナンカというと同じく、なんでもよいからくださいということから出ている。このナンゾを連発しつつ、わたしたちは成長してきたのであったが、それとくらべると今の時代はまた大いにかわっている。
日本人の特徴は、眼鏡に風呂敷包みだと、よく外人らがもとは言ったものである。もちろんそんな特徴ばかりを見ていたからいけないのだが、なるほど考えて見るとこの二つはよく目につく。眼鏡は日本人でなくとも、少しは掛けているが、風呂敷包みのほうは、よその国の者はあまり持ってあるかない。そうして眼鏡は近視眼さえなくすればうんと減るが、風呂敷包みのほうはどうであろうか。皆さんは大ていカバンを掛けるようになったが、そのためには、風呂敷はちっともまだ不用になってはいない。風呂敷とは全体みょうな言葉である。もとは風呂を出たときに、こんな四角な布で足をふいていたからという人もあるが、それがどうして荷物を包むものになったのか、今は風呂にも敷かないのに、どうしてそんな名をつけたのか、その説明にはちっともなっていない。東北地方では、風呂敷は女の顔をつつむ頭巾のことで、これは風呂敷頭巾を略した言葉かもしれないが、あちらでは、わたしたちほどには風呂敷包みを持ってあるかない。九州地方には風呂敷という名はなくて、平油単というのがこの風呂敷のことである。油単はもと行燈などの下に敷く敷物、のちには箪笥や長持の覆いに掛けて置く布の袋のことで、それを平たくまた四角にして、べつの用に使うから平油単なのであろうが、ともかくも三百年まえには聞いたこともないものであった。
然らばどういうわけで、このような物が日本に始まったのであろうか。またはこの風呂敷包みが始まるまでは、何がかわりの役をしていたものであろうか。こういうことは判るならば知って置いたほうがよい。ことに昔からこの通りであったものと思って、あたりまえのことだとしていた人は考えたほうがよい。人によってはもと服紗ともいったものを、たれかが風呂敷などと名をかえたのだというが、この二つは同じ物ではない。服紗は絹の美しい小さなもの、一方にはそまつな大風呂敷もあって、物を包むだけにしか使わぬが、服紗には物を包む以外のいろいろの使いみちがあった。あるいはまた平包みというのが、風呂敷包みのもとの名のようにいう人もあるが、それもまちがっている。平包みはただ物を平たく包むだけで、これならば支那からくる呉服商人なども持ってあるいている。こちらの風呂敷包みは、四隅を紐のかわりにして結ぶのである。平包みや服紗包みが前に、なかったら、風呂敷包みということはかんがえ出されなかったろうとまでは言うことができる。ただ、こういう包み方のできたのは新らしいことで、それはまた新たなる必要からであった。
わたしの話の題は棒の歴史、あんな棒見たような何でもない物にも、なお人間のほうから見て、見のがせない大事な変遷があるということを、皆さんに気づかせたいために、こんな題をつけたのだが、それは同時にまた風呂敷包みの歴史でもあるのみか、ひろくいうならばわが邦の、運搬方法の昔から今まで、だんだんと進んできた途筋を説くことにもなるのである。
なにかここにある物をあそこまで運んで行きたいと思う場合、鳥や獣や蟻・蜂・蜻蛉なども、足でつかんだり口にくわえたりして、持ちあるくことまではする。猿だけは手に取ってある距離を運び得るが、手というものは、元来ほかにもいろいろの用があるので、永く持ってもおられず、またそう大きな物も持てない。人は幸いにはやくから考え深く、手もさまざまの形にして利用したばかりか、なおつぎつぎに頭と背と肩とを使って手を休ませ、また手では持ちきれない物までも遠くへはこんだ。それが今日のように高い空から、または海の底から、自由に送りとどけられるようになるまでに、人が人にたのまれ、もしくは牛馬駱駝や船車などを使いこなして、それはそれはいろいろの新らしい運送方法を、近世はことに頻繁にかんがえ出していたのである。それが一つとして手数が今までよりもすくなく、効果が今までよりも大きくならなかったものは無いのは、棒の改良も風呂敷包みも皆おなじだった。これだけはだれにでも、考えて見ればすぐにわかる。
わたしたちのふしぎに思うのは、これほど改良に改良をかさね、村には手車やリヤカアが行きわたった今日、どうしてなおいくつも古風な方法、たとえば棒でいうならば、前からあった三通り以上のものが、今でもなお使われているのか、または風呂敷包みのような昔からあったわけでもないものが、何処に行ってもまだこのように流行していて、古いものと新らしい方法とが、ならんで共々に活きているのかということである。土地の事情というようなかんたんな言葉でも、ひと通りは説明し得られるのかも知れぬが、つまりわたしたちの一人一人の必要には、まだ改良のできないこまごまとしたものが、かず多くのこっていたのである。そうして現在あるものが、ともかくも今では一番つごうのよい方法であるということが、だいたいには想像し得られるのである。それを折角いろいろの新らしい便利なものがもうあたえられているのに、頑固で物知らずで古いものにくっついているのだと言おうとする人もあるが、そんな事をいうのは、今すこし一つ一つのものの実際の働きを、くわしく知ってから後でなければならない。
ただし皆さんはまだそう多くのものを知っていない。村に住んで朝晩見ていると、この風呂敷包みにはかぎらず、今まで知らなかったいろいろな物の運びかたが、あったということに気がつくばかりであろう。わたしはそれをかず多くあつめて見ると、ながい間の日本の交通輸送の歴史が、だいたいにわかってくるのだから、忘れぬようにしなければならぬということを話して見たいのである。
最初には博物の学問もおなじように、まずじょうずな分類ということが必要であって、それには自分たちよりも多くの事実を知っている人の、いうことを聴いて見なければならない。物を遠くの土地へ何日もかかって、または人をたのんで送ろうとするには、荷造りということをしなければならぬが、それが近まわりを自分で持ちあるく場合ならば、大した丈夫な荷造りにもおよばず、またそうすればかえって解くのに手数がかかって損なことも多い。わたしたちの運搬は、まずこの近まわりのほうから始まっているのである。家の前うしろや隣家までなら、猿も同様にむき出しでもかかえて行けるが、散ったりこぼれたり人に見られたりするのをいとえば、容器すなわち入れ物がほしくなる。それで入れ物は荷造りの最初なのである。もとは貯蔵用とかねていたろうが、たいていは手製なのだから、いろいろと自分たちの必要にあわせて、べんりな大きさや形がかんがえ出され、のちにはそれをやや遠方への旅行にもたずさえて行けるようになった。そういう中にもいくつとなき種類があって、古い絵巻物などの画につたわっているのは、木の櫃や袋のたぐいであるが、二つとも手製が容易でないうえに、櫃のほうは持つのに二人かかるものが多く、袋だけはそまつなごわごわした物を入れてあるくために、絹や布以外の多くの材料をつかったのが、今でもまだ弘くもちいられている。それよりも日本という国のありがたいことは、竹と葛蔓とが野山にありあまって、これをいろいろの容器に利用する技術が、まことにらくらくと国民のあいだに進みかつひろまってきたことである。籠というものの古い日本語はコであって、そのコの形状は、我邦では無数である。写真やスケッチにしてあつめて見ると、かえって分類にまようほど千変万化であるが、幸いにして使いかたが大よそきまっており、また名称もよく似たものが多いから、かんたんにその系統をたずねてみることができる。それは手に持つか腰に下げるか、頭にのせて行くか背に負うか、はた棒にくくりつけて肩にになうか、これによって大小もかっこうもきまり、また区別のために名まえもかえている。そうしてはじめは、ある一つの方法のためにできた籠または袋を、のちには第二第三の運搬用にも、使いだしたということがわかってくるし、どの点がとくにつごうがよくて、改良をしたかということも明らかになってくるのである。
風呂敷はつまりその改良の一つの端であった。袋には底があって出し入れにすこし不便であり、籠のほうはまたからっぽになっても、嵩だけはちっともすくなくならない。だから持って行っておいてくるような品物には(イ)最初には背をやすめ、また背負いかたを手がるにするために、平包みの布の二隅を紐に代用して、そのまま肩にかける方法がかんがえだされ、(ロ)次には下げたりかかえたりする袋や籠のかわりに、用がすめばなくなってしまうほどの、かわいい服紗にちかい小風呂敷というものがはじまったのである。だから風呂敷包みがどうしてできたかを説明するのには、やっぱり今ある手と背との運搬方法を、気をつけて見る必要があるのである。
小風呂敷はもとは女のもので、これを男までがさかんに使いだしたのはいたって新らしく、明治以来といっても言いすぎでない。そんならその前にはどうしていたかということが、当然に問題になるが、これにも男女をわけてかんがえて見るのが順序である。まず男のほうには負うとかになうとか、他にいろいろの持ち方があり、すこし大きな物なら供の男をつれて、持たせて行くという途があった。だから供という者のなくなってしまうまで、男には小風呂敷の用はなかったのである。女も背や肩を使うことは村の内では少ししているが、遠くへゆく時には貧しい者でもあまりそれをしなかった。その理由はべつにもう一つ、頭の上にのせてゆくという技術が、かれらのあいだに発達していたからである。
それで最初にまずこの戴きという運搬法を話して見なければならぬが、これは近世の百年か二百年のあいだに、急にすくなくなって行こうとしている。東京の附近で、そだった人などは、これを見ようと思えば伊豆の大島か、それから南の島々に行くよりほかはないが、わずか以前は伊豆半島の南部でも、また房州にもそれがいくらもあった。京都で名物の大原や北山の柴売女をべつにすると、だいたいにこの風習は海近くの村里、ことに魚などを売りあるく婦人にばかり多いので、なにか職業や家筋にむすびついた特別の技術のように、かんがえている人もあるらしいがまちがっている。頭のまんなかに重いものをのせて、手ばなしであるいてくるなどということは、ちっとやそっとの巧者ではまねられるものでない。かならず身のこなしや足の運びように、祖母から母への代々の練習が、積み重なっているのである。その練習の機会がわずかでもすくなくなれば、たとえ続けるにしても、だんだんと骨折が多くなってきて、ついにはこれで一生の暮らしを立てる人たちだけの、職業の技術のようになってしまうのである。伊豆の大島などに行って見てもわかるし、また同じ習わしをもつアジヤの国の、多くの民族の例をきいて見ても同様だが、どこでもはじめには水汲みから稽古するのである。大島の女の子なども、わたしの行って見たころには、学校へ来るのに本の包みまで頭にのせ、またわずかずつの柴や秣までささげていたが、親が教えるのは水汲みが主であったとみえて、八つ九つの小娘までが、年に似合ったちいさな水桶をこしらえてもらって、それを頭にささげて遠い井戸に通っていた。朝晩時刻をきめて、女たちは一列にならび、一ばん年かさのしっかりとしたのが、水の桶を小さい子の頭に置いてやって、しまいに自分は一人でささげて行くのであった。降っても照っても一日に二度、この水を汲みに行かねばならぬ。家に使われる者のない小さな家庭では、これが妻や娘のふつうの役目であったことは、もとは京都も同様であった。その為に多くの女たちは、頭のまんなかの毛が禿げていたということが、鎌倉時代の書物にも書いてある。だからそのころの女の人は、みんな頭に物をのせてあるくことができたわけである。
それが如何なるわけで今日のように、頭上運搬というものがめずらしくなったのかというと、これもわたしは飲水が主たる原因であったと思っている。水道やポンプの普及するよりもまえから、横にも竪にも水をひく工事は発達して、掘井戸は家々にちかくなり、共同の泉まで汲みにゆくひつようが、多くの村里ではなくなってしまった上に、さらに手桶というものが発明せられて、あまり遠くない井戸からならば、これを片手にさげてこられるようになったのである。今からかんがえると何でもない事のようであるが、以前に幅の広い薄板をまげてとじた桶、または水甕をもって水をはこんでいたころには、これに手をつけてひっさげるなどということは、想像もおよばぬ話であった。それが今見るような桶に変ったのは、女たちにとっては大へんなできごとであった。樽屋桶屋の商売が我邦にはじまったのは、はっきり何時からということはできないが、ともかくもそう古いころのことでないらしい。これは曲物細工からの改良ではなく、全然あたらしいべつな工芸であった。榑と称する檜や杉の木の四つわりを、円周にそうた線で厚く竪にわり、それをけずって円い形につなぎあわせ、そとから葛や竹の輪でしめつけて、底を入れたものが今日の桶であり樽であるが、これだとごくかんたんに、手桶の手をつけることができるのであった。手桶のさげ方にもうまいとまずいとはあろうが、だいたにに今はまだ形がきまっていないという感じがする。そうして三町と五町とへだたったところから、こうして水を汲んでくることは容易なわざでない。つまりは井戸が近くなったことが、大いに手桶の利用を助けているのである。司馬江漢の『西遊旅譚』という紀行は、今から百四、五十年前のものであるが、これには中国のある山村で、女が毎日谷川へ水を汲みにかようことが書いてある。往復一里もある路を頭に桶をのせて、路々も手を休めずに苧糸を績みながらあるいているとある。手桶で水をはこぶ人には、もちろんそんなことはできない。千代能という尼さんは江戸期のはじめ頃に京都にいた人だが、この人が悟りを開いたときに詠んだという有名な和歌がある。
千代能がいただく桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらず
すなわちこの人もまだ水桶はいただいていたのである。「松風村雨」という二人の女の舞は、『源氏物語』にもとづいて作ったというが、それが二つの桶を棒の両方にになって、潮を汲みに行くところを舞うのは、絵空事というものである。手桶ができて後ならばバケツというものも考えだされようし、棒で両方に下げる担い桶を、男にかつがせることも始まるであろうが、それがもしふつうであったら、女の頭上運搬はこのように久しくは行われなかったはずである。今となっては、なんだか気のどくな労働のように思われるけれども、近ごろまでこれの行われていた地方では、女の姿勢はすらりとし、足腰の筋肉もよく発達していて、今見る前かがみの内足などは、むしろ小風呂敷のさかんに用いられるようになってからのことだった。物を持ちはこぶ方法は、一般に手から背へ肩へまたは腰へと、なるだけ手を明けておこうとする方針であるのに、この風呂敷包みというものだけは、新たに始まったものとしては、ふしぎに手の自由を制限しようとしているのである。
女が頭と頸の骨とを使う運搬のしかたが、もう一つあることは知らぬ人がきわめて多いであろう。それは日本の端のほうの、わずかな区域だけに行われているからで、それもあるいは遠からず消えてしまうのではないかと思う。人が背なかに物を負う場合、力の半分は肩に持たせるのがふつうだが、九州の南に遠くはなれて島々と、中部では八丈島と、北は北海道の前からの住民とのあいだに、負紐を額にあてて背負うものがあって、これも女の運搬に多く行われている。わたしなどのめずらしいと思っているのは、南の島では、これにはっきりとした境の線があって、たとえば沖繩本島ではあの島のもっとも細くなっているあたりが一つの境で、それから南では荷物を頭の上にのせる。沖繩より北の島々では、宝海峡がまた一つの境の線であって、それから南には今もぽつぽつとそれが見られ、北は七島から九州の内陸沿岸までは、一帯に皆頭上運搬のほうである。あるいはこの人たちも重い荷物だけは八丈島のように、もとはこうして背と額とでささえていたのが、のちに一方をやめたのでないかとも思われるが、ともかくも現在は南北の両地とも、額を使う人々のあいだにはもう頭の上にいただく風は見かけない。そうして一般に棒とか大風呂敷包みとかいうような、肩を以前よりも多く使う運搬法が、だんだんとひろく行われてきている。
今からかんがえてみると、負搬すなわち背で物をはこぶ方法には、べんりと言えば言われる点が二つあった。その一つは両の手の自由につかえること、山へ登るのに木につかまり萱をわけ、または杖とか少しの武器とかをとって、急場の危害をふせぎ得られること、その二は練習と忍耐または持前の力によって、荷物の分量をよほどのところまで増加し得られることで、そのために人が余計な労苦をすることになったけれども、一方にはまたこの二つの長処を利用して、中世いらいの我邦の交通は、いちじるしく開けすすんだのであった。手に物を下げたりかかえたりする場合はいうにおよばず、頭にのせるものもそうそう遠くまでは行けない。まれには病気の夫を蒲団にくるんで、京都のお医者へかようたなどという話ものこっているが、そういうことは重さだけでなく、かさからいってもむりな話で、その点は棒に通して肩にになう場合もほぼ同じことだが、つまりは人間の背なかだけが、あんな大きな物をはこぶ可能性をもっていたのである。車や役畜のいくらでも利用せられるようになるまでは、どんなに骨が折れてもこの方法は世の中のためにひつようであり、したがってまたこれを少しでも楽に軽便にするように、今でも改良はなお少しずつつづいている。しかもその改良はどれもこれも、そういちじるしいものでなかったからであろうか。ちがった土地に行くとまだもとのままのところも多く、皆さんが疎開の村里において、直接見ているものをならべくらべてみても、ほとんと昔からの変遷の、すべての段階を知ることができるのである。比較ということがこういう場合において、分類についで大切なことがわかる。一人でのこらず見ることのできぬ人々は、それをたがいに話し合って見るために、できるだけ確実に物を観て、書いたりおぼえたりする習慣をつけておくと、将来つごうの好いことがひじょうに多いであろう。
人がみずから働く昔からの運搬法のなかでは、ただこの背を使うものだけが遠方の輸送に供せられ、したがってまた職業になっていた。我邦の中央山脈では、これを横断する無数の交通路があり、いずれもこれによって物を向う側へ送っていたと思われるが、そういう中でも北陸の各県から、主として海で採ったものを持ちこんで、麻や米麦などの内陸の産物と、交易したものがもっとも有名で、わたしたちはこれをボッカと呼んでいた。いそいで今のうちによく見ておかないと、もうこれもだんだんと少なくなり、絵や写真などにもそう残るまいと思うが、この人たちだけは遠方へ物を持って行くのだから、よっぽど村々のあいだを背負いあるく者と、ことなったしたくをしていたのである。
ボッカは文字に書くと歩荷、古い日本語ではカチニといっていたのを、いつの頃よりかしゃれて字音で呼ぶようになっているのである。駄荷すなわち牛や馬の背ではこぶものにたいして、人が徒歩で負うゆえに歩荷であった。人はもちろん牛馬のように、そう多くの重い物は負ってあるけない。それならどうして駄荷にしなかったかと、あやしむ人があろうも知れぬが、その答えはいたってかんたんである。つまりは山越えの路を、牛馬の通るように平らにすることは、ひじょうに金のかかる仕事だったからである。多くの昔からある峠路のふもとには、軽井沢という地名がまだ残っている。富士や日光山の馬返しというのも意味は同じで、ここまで馬の背に積んできた荷物を、この沢の口でおろして小さくして、人がかるうことになっていたところなのである。繩で背なかに物をくくりつけることをカルウという言葉は多くの人がまだ知っている。奥羽地方へゆくと、家々の若い働き手をカリコというが、これもかるい子で、かるうのが、かれらのおもな仕事だったからである。江戸の町にも元はカルコという者が多く住んで、引越しその他の運搬にやとわれていたらしく、今も軽子坂という地名がのこっている。ちょうど牛込見付と飯田橋とのあいだを、北へ登って行くほそい坂道がそれで、馬はいくらも使える江戸のような土地でも、やはり人の背を借りたほうが、べんりな場合がいくらもあったのである。
このついでに今一つ、江戸の古い町の名で、東京になるまでのこっていた、神田の連雀町という地名も、もとは運送業者の住んでいたところであった。これは明暦三年の大火事に焼けて、今までそこに住んでいた人たちを、西の郊外にうつして村を立て開墾させた。それが三鷹の駅の近くにある連雀という村だったということが、古い書物には書いてある。百余年以前には、村の戸数が上下をあわせて百六、七十、まだその以外にも同じ火災のあとで、利根川の川口に近い新田場へ、疎開させた家が数十戸もあった。これが全部みな連雀を職業にしていたのではなく、もうその頃にはいろいろの人が入りまじって住んでいたのかも知れぬが、ともかくも連雀は背に物を負う方法の一つであり、それがちょうどこの大火のころから、だんだんとこの大都会には、入用が少なくなろうとしていたのである。
かる子とこの連雀とのちがいははっきりとしている。これを職業にしていた者の出所も、また習慣もおそらくは別であったろう。かる子のほうはただ長い荷繩をもって、物を直接に背にかるう者だったにたいして、連雀も長い繩をもちいたことは同じだが、べつに木でつくったかんたんな枠のような物があって、それへ荷物をくくりつけてから負うたのであった。連雀はがんらい小鳥の名で、連鵲とも書くことがある。左右の翼に一本ずつ、長い羽があって垂れているのが、この背負い枠とすこし似ていたので、だれかがたわむれにこのような名をつけたものであるが、それも江戸になってから始まったものでなく、まだ織田信長が尾張にいたころから、秀吉の伯母聟になる杉原七郎左衛門という人が、清洲に住んで連尺商いをしていたという話があり、また「茶壺」という能狂言では、路傍にねむっている男の連尺へ片手を入れて、その荷物を自分の物だと、言いがかりをつける悪者の話などもある。すなわち荷をくくった繩のあまりを前にまわして、それへ左右の手を通して負いあるくような、かんたんな仕掛けをかんがえ出した者があって、それが商い物などを売りあるくのに、かるいとくらべるとひじょうに便利なもので、利用する者が多かったのである。あるいは連寂衆という一種の部落があって、ここで行商をしていたという言い伝えもある。そのためかどうかは知らぬが、農村の人たちはあまりこれを使っていなかった。
これが連雀という鳥に似ているからということは、今ではもう忘れてしまった人が多くなった。ふつうは連尺という字を書いて、これを背負い枠の両脇に取りつけた紐のことだといい、また山林のほうで働く人たちは、連尺はただ長いロープのことだともいっている。そうなった原因はいつの頃よりか、この連尺にまた小さな改良がくわえられ、繩のあまりを前のほうにまわして輪にするかわりに、べつにこれだけに両手を通す紐をつけ、それも肩にくい込むのをふせぐために、その部分の紐をひろく、布の古切れで織ったものを使いはじめたからである。それで土地によっては連尺を背負子の手ともいい(三宅島)、あるいはまた荷繩のことだというものもある(佐渡)のである。しかし連尺のべんりという点は、荷物がじかに背なかについて汗などでよごすことがなく、またおろしたり負ったりするのが手がるだったことで、連尺という名はもう知らない土地でも、この両手を通す紐だけはよく採用していた。そうしてまた新らしい色々の名が生まれているのである。江戸というような大きな都会では、連尺ではこばせるような大せつな荷物がいろいろあったが、そういう中でも最もめずらしいのは、花嫁さんをこれで運んでいたことである。駕籠という乗物はもとはおごりであって、中流の家庭では、嫁は家来に負わせてやったが、これには連尺のひつようが大きく、そのために足をのせる木を取りつけたものもあったという。この風習も江戸では早くなくなったらしいが、東北の田舎などは百年ばかり前まで、馬に乗せないで背に負うてゆく花嫁が多かった。それにはべつに一本の木を横にしたものをつけて、その上に腰を掛けさせたが、それをモリ木ともまたウモレ木とも呼んでいた。ウモルというのは負うという語のなまりである。そのモリ木を大せつに一生涯しまって置いて、死んだら火葬の薪に使うものだった、というような話もつたわっているが、それはただ一つの話かもしれない。
大きな市街地では、もう久しい前からこの連雀という背負いかたは見られなくなり、連尺商いという言葉も忘れてしまっているが、その旅じたくの一部分は歩荷たちのなかにつたわり、一方にはまたおいおいと、村々の運送法にも影響をあたえている。戦時の物資統制がはじまる前までは、東京附近の田舎、ことに千葉県の成田線にそう農村から、日に何百人というほどの小さな行商人が、籠を背に負うて物を売りに出ていた。信州・飛騨などの歩荷とちがう点は、かれらの全部が婦人であることが一つ、汽車に乗ってくるので足ごしらえをしないことが一つ、それから荷物の荷造りがかんたんで、大ていはそっくり入れ物に入れてくることがまた一つであったが、その負い方だけは改良した連雀も同じで、竹籠の左右に幅のひろい裂織の紐をむすびつけ、それへ両手を通して掛けはずしを自由にしたものであった。この竹籠ものちには長方形の、いくつも入れ子のあるよい格好のものになっていたが、五十年前にわたしなど見ていたのは、ただ農家の桑摘みや落葉掻きに、つかっていた目籠もおなじであった。つまりは田のすくない新開地の女房たちが、仕事のひまひまに畠の産物を持って、稲作のいそがしい村々へ売りに行ったので、それにつごうのよいような籠背負いというものが、もうこの方面には始まっていたのである。
しかし以前の農村の負搬法というものは、これとはまったくちがったかるい繩、もしくは荷繩一式の仕事であった。行きがけにはその繩ばかりを肩に引っかけて、身がるな姿で出て行くかわりに帰りには山から薪、野から馬の草、田畠からはいろいろの穀物の苅取ったのを、山のように負うてこなければならぬのであった。これにも荷ごしらえの上手下手はあったろうが、ともかくも持てるかぎり多くのものを、その繩で背にくくりつけてくればよいので、歩荷や籠背負いの行商人のように、とちゅうでおろしたり、分けたりする必要はちっともなかったのである。それがいつの頃よりか、別に木で造った背負い道具を携えて、物を負いに出かけるようになり、それも土地ごとにといってもよいほど、形と名称がいろいろとちがっているのは、つまりはこの改良がいたって新らしく、こういう運搬の必要がなおつづいているからである。一つにはこの労働がかなり苦しいので、少しでもこれを楽にしたいという希望があったからでもあろうが、一方にはまた連尺商いや歩荷という類の、これを専業にした人々と接する折がなかったら、そう容易にはこの改良をかんがえ出すこともできなかったろう。連尺商いのもう一つ前には、日本は聖または山臥という旅をする宗教家があって、それが修行のかたわらにわずかずつの物品を地方にはこんで、呉服とか小間物とかの商売を開いたと言われている。こういう人たちの永いあいだの実験によった考案が、あるいは間接に農村のほうに、働いているのかも知れないのである。
棒の話がいよいよおそくなるが、もう少しこの背負い道具のかわってきた順序を談っておかねばならぬ。古い絵をみると、はだかで大きな荷を負うた人もよく描いてあるが、たいていの荷物は突っ張ってごそごそするので、夏でもかるい子は荷摺という半袖腰きりの仕事着をきた。これも裂織の厚ぼったい布で、荷物にすれてもそう早くは破れなかったかわりに、着物というようなやわらかい感じのものでなかった。あるいはその荷摺は着ないで、藁でつくった背中当てを、荷物と背とのあいだにあてている人もある。わたしなどの知っているのは、藁を橢円形にあんで、まわりをきれなどで飾ったものだが、ところによっては袖をつけ手を通すものもあり、または木でつくった負い台のようなものもあるという。どういうわけか知らぬが、これを背中打ち、またはセナクチ・セナコージという地方もひろく、越後ではセナカンジ、美濃の山村にはゼンコウジという者さえある。勧進は神や仏のお姿などを背に負うて、諸国の信者に礼拝をすすめあるいた人のことだから、かつてはこういうものにのせて、旅をしていたことがあるのかもしれない。たんに荷物の積みおろしのべんりだけからならば、農村では木で作ったいろいろの背負い道具などは必要がなかったはずで、むしろ今までのように荷繩だけでかるうほうが、分量も多く、またなんでも、背負うことができるのであった。それがおいおいとこのほうに変ってきたのは、たぶんは品物の種類が多くなり、なかには直接に肌にふれてはいけないような、大せつなものもあったからであろう。ということがこの背中打ちの、ひろく用いられていることからも考えられる。
九州の山村などでは、藁の背なかあてに似たものをシカタといい、道具はつかわずに繩とシカタばかりで負うことを地かるいといっている。ほかの地方にはべつに名はないが、この地かるいの方法は奈良県の吉野地方、その他、処々の山村にまでのこっている。そうして一方の木製の台は、名も形も土地ごとにことなっているのである。絵にでもしてならべて見ないと、話だけではわかりにくいが、だいたいに関西のほうではオイコ、東にくるとショイコというのがこの木製の台の名で、東京のまわりだけでは背負梯子といって、とくに脚の長いものが多い。脚の長いのは立って休むのにつごうがよいようだが、それは平地の多い場所のことで、左右が傾斜になった山路をゆくには、脚はかえってじゃまになるのである。越中・越後などのボッカたちは、太い野球の棒のような、頭が撞木になり、もしくは二股になったものを杖に突いていて、休む時にはそれで背の荷をささえる。それを荷股ともニンボウとも、またニズンボウともいろいろの名で呼んでいる。東北地方などには、もとは路傍に休み石というものが、かれらの休憩のために処々に置いてあった。それを近ごろはのけてしまった土地が多いので、荷持は一段くるしい労働になり、したがってまた沢山は運べなくなった。そうして少しずつ何度にもかようのがふつうになり、以前のように一日の仕事のおわりに、うんと背負ってかえってくるという、農夫の働きぶりはしだいに見られなくなった。
それから他の一方にはべつに、いろいろの容器を作って、物を入れて負うという方法もさかんになっている。袋や竹籠の類は前からあって、これも背なかに負うものが多かったが、それらはかくべつ重いものでなく、なにか荷物ができればその上に小附けしてくるのだったが、後には仕事によって、それぞれの容器をかんがえ出し、それにも新らしいいろいろの名ができている。中国地方のトノスは鳥の巣に似ており、福島県から北ではそれに近いものをタガラといっている。その他土や砂利などを背ではこぶ木の箱の、立っていて蓋の綱をひき、なかの物をあけるしかけなども、だれがかんがえ出したのか、このごろは始まっている。総体に荷繩の使用をすくなく、といたり結んだりする手数をはぶき、背板の両端に鉤をつけて引っかけたり、また下の方に枝をのこしてのせる台にしたりしている。近ごろはまた朝鮮風の一つの背負い方も、チゲという名まえと共にはいってきている。
こうしてだんだんに荷繩を倹約した最後の形が、大風呂敷というものであった。これだけはまだ農民はもちいないが、村にはいってくる商人にはこれを利用する者が多い。すなわち平包みの布の二隅を引出して、これを紐のかわりにして背に負うもので、これは両腕の上部に力の半分を持たせるから、今までの荷負いのように手を自由に使うことができない。すなわち道路の危害の少なくなった今の世でなくては、発達し得ない一つの運搬法であった。
そこで最後に棒というものの歴史になってくるのだが、棒の発達は歴史としては新らしいもので、道路の改良ということがその一つの条件となっている。昔の交通は坂路が主であって、棒を運搬の用に供するばあいが、絶無ではなかったが、はなはだしく限られていたのである。棒はあるいは半分は武器であったと、いうほうがあたっているかも知れない。そくざに敵をふせいで荷物を保護し得るという、たった一つの長処をのぞいては、以前さかんに行われた背負繩の運搬の、かわりになるだけの力はもっていなかったのである。それがどういうわけで古いころから、ともかくも交通の用に供せられていたかというと、人の背なかでは運びにくいものがいくつかあって、それだけは棒が引受けていたのである。たとえば大きな櫃長持の類、なかにはいった物をかたむけたり曲げたりしてはならぬ場合、ことに清浄をたもって雑人の身に近づけたくない品物などは、しばしば六尺よりももっと長い棒のなかほどにゆわえつけて、平らにして持ち運ぶひつようがあった。神の御輿とか貴人の手輿とかになると、二本の棒をあわせてその上にのせて舁き、できるだけ土から遠くしようとしており、今でも物によると天井持といって、棒の下に通して舁くことがまれにはある。もちろんこれには二人以上、ときとしては四人も六人もの力をあわせるので、一人ですむということはぜったいになかったのみならず、急な坂だったら前がつかえるので、こういう運搬はまず不可能で、利用の道ははじめからかぎられていたのである。
次に今一つ、棒の片方の端に荷物をしかとくくりつけて、それをななめに肩にかけることがあった。これなら背に負うても同じことのように思われるが、物を背に負う者が一歩一歩、足をふみしめて道をあるく習いであるに反して、このほうは奇妙に早足で行くことができた。もちろんこれは荷物のかるい時ばかりで、またそういう物を運ぶために、走る練習をさせたものかも知れぬが、昔の大名行列の挾箱持ちは、馬とおなじ速力でついて行かねばならず、飛脚という者などは、状箱を肩にかけて、街道を走り通さねばならなかった。明治の御代になってもややしばらくのあいだは、郵便脚夫という者が、これも棒の片はしに荷をゆわえつけて走っていたほかに、東北地方の市場に行って見ると、村と浜べとから交易に出てくる男女が、やはりこういう荷物を肩にして、いずれもいそぎ足で町のほうへ出てくるのが見られた。
和歌山・高知等の諸県においては、この棒の片荷で物をはこぶことを、クジュウといっている。クジュウとになうとのはっきりしたちがいは、この方は荷繩をもって棒のはしにしっかと縛りつけることであった。肩にかたげて手で持つときには、棒はななめになっているので、こうして置かないと、荷物がずれさがってくるからである。どうしてクジュウというのかはまだよくは判らぬが、地方によってはこれをコジョウともいっているから、小背負かも知れない。とにかく棒はこの他の場合には、すべて平らにしてかたげるので、クジュウは要するに棒をななめにして肩に置くことであった。
棒という文字は支那のほうにもあるけれども、それと我々のボウとは、少しばかり物がちがうようである。そうして国内でもまだこの語を使わずに、もう一つ古い名を用いている人が多いのである。現在もっともひろく知られている名は大よそ三つ、その一つはオコまたはオーコ、これには木扁に力という字をあてているが、朸は日本でつくった新字というものであった。オコはわたしたちの桙といっているもの、および椋という木の名などと関係のある言葉らしい。昔の辞書にはアフコ、と仮名で書き、またアフコと詠んだ古歌もあるが、それはたまたまそれに近い発音をした土地もあったというまでで、元来が朸ともっとも縁のとおい人たちの書いたものだから、それが正しいとまでは信用することができない。それから後の記録にはオコが多く、今も全国にわたって皆オコかオーコであり、北九州のほうにはボーコというところもあり、薩摩の甑島などははっきりとホコと呼んでいる。漢字で鉾と書くものはすべて刃物にかぎるようだが、日本で木扁にかえている桙のなかには、明らかに鉾をつけない、ただの木竹の棒もふくまれていた。旗の竿を幡桙というのもその一つの例であり、草屋根を葺くのにつかう棒にも、隅ぼく・縫いぼくなどといろいろのボクがある。木の株や太い部分をボクまたはボクトというのも、木という漢字の音ではなかった。つまりは木で作ったこういう長いものが、我邦ではすべてホコまたはムホコであったのを、武器にはホコといい、他の棒はオコといって区別をしたので、椋を削ってホコにするのにてきした木だったからこの名があり、現にまた、これをホコと呼ぶ例もある。棒という漢字をあてているけれども、ボウも、ことによるとホコという日本語から、わかれて出た言葉かも知れぬのである。ともかくも、昔は我邦にボウという言葉はなくて、こういう物だけはたしかにあり、それをホコともオコとも謂っていたのである。山で手ごろな細い真直ぐな木を伐って、それを利用して猟の獲物などを、持ってくることは今でもする。そういうのがこの道具のはじまりではなかったろうかと、わたしは考えているのである。
こんな細かなことは、皆さんには入用がないように見えるが、棒の歴史の、これが第一章なのだから、やっぱりひと通りは聴いて置かなければならない。国の文化がすすむということは、こんな何でもないものが、だんだんと改良せられてくることである。それも現在まだどしどしと進んでいるものなら、人がなにかにつけて、その起原を考えずにいないだろうが、棒などはいったん広く用いられてのちに、今ではまた用が無くなってしまおうとしているのである。もし、このままにして置いたら、たいていの人は忘れるであろう。そうして前代日本人の、いろいろの苦心と経験とが、わからなくなるであろう。それでは困るから歴史は学ぶのである。
木扁に力と書いてオコとよんでいるもの以外に、地方ではまた棒をサスという者と、天秤棒という者とがある。東京などはその第三の天秤棒のほうであって、これが棒という言葉のふつうになったもとであった。この三つの名称は、三つとも使っているところはやや少なく、多くはそのうちの一つ、または二つを知っていて、それで間に合うもののように思っている。つまりは棒の使いみちがいくらもあり、そのこしらえもそれぞれに、ちがっていることに気がつかぬのであった。村にはいって住んでいると、このちがいには注意せずにはいられない。現在もっとも多く見かけるのは、棒の両端をずっと細くしたものだが、これにも二通りあってただ先を尖らしたものと、ツクと称する小さな突起を二つ、木または金属でつくって嵌めこんだものとがある。この二つは、共に比較的あたらしい改良であって、以前はなるべく平らな、まっすぐな棒を、少しもけずらずに使うのが朸であった。重い大きな荷物をこの朸のなかほどにゆわえつけ、二人で両端を肩にのせて行くのを中担い、または差担いともいっていた。小さい二人の兄弟が、こうして水をはこび、または親子で棒をやや前下りに、荷物をなるだけうしろのほうへ引取って、かつぐ練習をさせるのもよく見られ、今でも道普請の土運びには、これがふつうである。地方によっては中取りといって、こうして物を運ぶのをいやがるところもあると聴くが、それはただ荷物を棒にくくりつけるものだけで、多分はかんたんな葬式と、形がにているのが、いまわしいからで、綱を長く下げて棒に通すものまできらったのでは、せっかく平らな広い路ができても、大きな重い物は運ばれないことになるから、そのほうは構わずにやっているのであろう。
しかし人がふたり以上話しあった上でないと、物が運べないのでは朸の効能は小さい。一人でも力のある男はそれを一方のはしに引掛け、または分けられる物ならば半分ずつ両端につけて、まんなかをかたげて運ぼうとするようになったのは自然のことである。一人で持つならばよっぽどの山坂でも、杖を突き足もとに気をつけて持ってくることができた。関東・東北の働き人たちが、荷繩ばかりを背にかけて山に行き、田畠に行くにたいして、もとは西国では朸をかかえて出かける風があった。これは九州ではヤンモコ、すなわち山朸といい、またはヤマコとも山行き朸ともいっていた。山朸のさきには鎌をゆわえ、それにオコノコという長い荷繩をそえてかたげているのが、作男や小百姓の常の出立ちであったともいわれている。ところが、いつの間にかそれもまた変って、他の地方ではサスといい、またはトギリ朸とも(岡山)トガラシ朸とも(大和)チョガシ朸とも(熊野)いう棒を、山朸とよぶ村々もできてきたようである。
棒の両端をとがらしたものを、東京の近在ではまたノメシ棒ともいっている。ノメシというのは惰け者のことで、荷繩で棒にくくりつけるめんどうをいやがり、じかに荷物のなかへ棒のはしを刺しこんでになって帰るから、そういうたわむれの名をつけたのだが、これも、じつはじゅうぶんにその便利を知った人の言葉であった。これだと荷繩を掛けるための時間は、はぶかれるが、そのかわりには柴とか萱とか稲束とか、ぜひともしっかりと束にむすんだもので、棒を刺しても損じない物でなければならない。そうして、またそれらの物の束ねかた、およびそれに使う繩とか蔓とかの材料も、問題になってくるのだが、実際のところ村里には、こうして束ねたようなかんたんな荷物ばかりが多かったのである。此方法が始まると、いちいち長い繩で棒にくくりつけることがむだな手数のように考えられ、今までの山朸だけでなく地かるいというような背で負う荷造りまで、なるべく荷繩をすくなく使おうとして、背板や背負梯子の類にあらためられることにもなったものらしい。
サスという棒の名は、束に突き刺すからサスだと思う人が、今では農民の中にも多くなっているが、それだけは誤りである。尖った棒でもなおオコという土地が多いというのみでなく、サスはがんらい横にわたすという意味で、すなわち斜めにして肩にのせるクジュウという動詞に対する語であった。直径をサシワタシというのと同じように、二人で棒の両はしを舁くことを、今でもサシニナイ、またはサシアイ持ちというのが常である。しかし、ノメシ棒やチョガシ朸も、なんだか変だから、これからはさきの尖った朸だけを、サスということにするのは便利かもしれない。ただそのために、一方のこれをオコという人を、笑うことはできないだけである。まちがいをなくしようと思えば、このほうをサスオコ、ほかの昔からあった尖らない朸のほうを、熊野地方のようにマルオコと呼ぶのがよいかも知れない。
しかしまだこの以外に、わたしのこれから言おうとする天秤棒のことを、サスと呼び、オコといって居る地方もあるが、これだけはまぎらわしいから区別を明らかにして置かなければならない。天秤棒もまことに変な名まえで、変だからまた覚えやすかったのかも知らぬが、天秤はがんらいはかりの器械のことであった。ふつうの衡器は、棒の根もとに近いところは衡りの緒があり、それを下げていて他の一方の端のほうへ、分銅を送って行くしかけであったが、薬や金銀のような少しの物を量る天秤というものだけは、中央に支柱が立っていて、両方の皿が権衡を取るようになっている。それがこの棒をもって物をになう形と似ているので、天秤棒という名が始まったのである。その天秤が今ではただ、両天秤などという言葉だけをのこして、だんだん使われなくなってきたために、説明がむつかしくなった。そうして、また、このいわゆる天秤棒には、何かかわった名をつけてでも、区別しなければならぬ大きな特徴があったのである。
この発明は、あるいは支那にはじまったものかとも思うが、かりに外国から学んだとしても、その便利をただちに理解して、これだけまでひろく国内に普及させたことは、なお我々の祖先のてがらと言わなければならぬ。同じく両端をほそくした棒でも、束に突きさすだけの尖らし朸と、この天秤棒とはけずり方がちがい、またよく見るとこのほうは、まんなかのところもやや平らめにけずってある。これはになって行く者の足取りにつれて、両端が少しずつ上下にうごき、そのわずかのあいだだけ、肩を休めるようにできているので、そういう動作のために、荷物の吊繩がすべり落ちないように、丈夫な小さい突起が、棒の両端についているのである。この突起をツクといい、またツコともチコともいう人があるが、ツクのほうは古い日本語であって、小舟の櫓などにも古くからツクがついていた。つまり天秤棒はこのツクのあるおかげに、サスとはちがって棒がよっぽどかたむいても、荷物はずり落ちてしまわないのだから、肩で加減をすれば、そうほうの荷が平均しなくとも、そのままになって行くことができる。その点がまた衡器の天秤とよく似ていたのである。
このいわゆる天秤棒のことを、長崎地方ではまたツクオーコというので、このほうがむしろよく当っている。伊予の宇和島では、これをカリコ棒、このカリコは東北からもってきた言葉であろうが、この地方ではかる子も繩をもって背にかるわずにツクのある棒でになっていたのである。伊賀の上野あたりでは、タビヨコというのが天秤棒のことであった。タビヨコはすなわち旅朸であって、こういうにない方をすれば相応に重い荷物でも、かなりの速力で遠くまで持って行くことができたので、旅の商いをする人たちが、まずこれを利用し始めたのである。東京の市中で見ていると、多くの商人は手車を曳くようになったが、今でも天秤棒をかついでくるのは豆腐屋に金魚売り、その他液体のはいった容器をになう者に多い。農村のほうでも水を汲むとか、下水を田畠にはこぶとかには、他の方法だったら容易のわざでないのを、タゴという桶ならばよほどかんたんになるので、この特別の棒を早くから採用し、そのために畠作などはいちじるしい進歩をしたのであった。しかしそれも今日はもう歴史である。是から先はどう変って行くか、私たちはまた一つの新しい経験を積まなければならぬのである。
町では天秤棒を生活の要具としていたのは、今までは八百屋と肴屋とが主であった。配給の時代には問題はなかったが、その前にもすでに八百屋は車になっていた。肴屋のほうは走らないと新鮮だという感じが出ないので、また各地方で天秤棒をかついでいるが、これもだんだんと汽車電車などに乗る故に、長い棒がじゃまにされて、しまいには亜鉛の板で張った四角の箱を、カンカラといってまた背負いあるくようになっている。水汲みが手桶になり、にない桶になり、また水道になった結果、女の頭の上に物をのせる練習が足りなくなったことは、もう前に話をしてしまったが、これを専門に魚などを売りあるいた女たちも、いよいよこの運送法の変遷のために、あの古風な形をやめなければならぬ時に、出あっている。中国地方ではこの魚売りの女をカネリ、またはカベリといっていた。カベルと被るというのと一つの言葉である。その周囲の四国でも、九州でも、また北陸地方でも、まだイタダキという昔の名を持っている。しかもその戴きが、すでに天秤棒をかつぎ、またはリヤカアを引張ってあるいている土地は、もうだんだんと多くなっているのである。
底本:「こども風土記・母の手毬歌」岩波文庫、岩波書店
1976(昭和51)年12月16日第1刷発行
2009(平成21)年7月9日第12刷発行
底本の親本:「母の手毬歌」少年少女知識文庫、ポプラ社
1952(昭和27)年10月5日刊
初出:母の手毬歌「週刊小国民 第四巻一号」
1945(昭和20)年1月
親棄山「少女の友 三八巻二~三号」
1945(昭和20)年1月、2月
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2013年5月5日作成
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