年中行事覚書
柳田国男
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日本の年中行事が、近頃再び内外人の注意をひくようになったことは事実だが、その興味の中心というべきものが、これからどの方角へ向おうとしているのか、久しくこういう問題に携わっている者には、かえって見当をつけることがむつかしい。しかし少なくとも子供に言って聴かせるように、これは昔からこうするものなのだと、説いただけでは話にもならぬし、またこのごろのジャーナリズムの如く、正月が来れば門松の由来、三月が来れば雛祭の根原などと、きまりきったことを毎年くりかえしていたのでは、観光団の通弁にはなっても、考える人の役には立たぬだろう。
そこで私は一つの方針として、今まで私たちのまだ知らずにいたことが多いということと、誰もが気をつけて見ておこうとせぬうちに、消えてなくなろうとしている年中行事が、幾らもあるということを説くのに力を入れた。今ならばまだいろいろの事実は残っていて、なるほどそうだったということも出来るし、またどういうわけでこうなのだろうと、疑って見ることも出来る。共同の疑いがあれば、それに答えようとする研究者も必ず生まれるだろう。自分がまだはっきりと答えられないからといって、問題までをしまっておくのはよくないことだと思う。
歳時習俗語彙という書物は、将来問題になりそうな年中行事の事実を、手の届く限り寄せ集めたもので、比較研究には都合のよい参考書だが、すでに絶版になって古本でも容易には手に入らない。どうかして早く増補改訂を加えた第二版を出したいと、民俗学研究所の人々は苦慮している。絵で説明がつくと、話はたしかに面白くまたわかりやすくなるのだが、それも季節があるために、よいものをたくさん集めて行くことはむつかしい。
武田理学博士の農村年中行事には、結構な写真がたくさんに出ているが、ちょうどこの本とは反対に、主として正月中の慣習に力が入れてあるので、こちらへは借りて来ることが出来なかった。しかしあの本は精確な注意深い良い記述である。これもなかなか手に入りにくいこととは思うが、もし図書館か何かで読むことが出来たならば、諸君の年中行事に対する興味は、また一段と深まるであろう。
年中行事という言葉は、千年も前から日本には行われているが、永い間には少しずつ、その心持がかわり、また私たちの知りたいと思うこともちがって来た。この点に最初から注意をしてかかると、話の面白みはいちだんと加わるのみならず、人とその生活を理解する力が、これによって次第に養われるであろう。史学が世間で騒ぐような、そんなめんどうな学問でないということを実験するためにも、これはちょうどころあいな、また楽しい問題ではないかと思う。
今日お互いが知りたいという年中行事は、いつのころからまたどういうわけで、こうしたいろいろの常とかわった風俗が、毎年日を定めて日本には行われているのであろうか、ということが問題であるに反して、昔の年中行事の書いたものとなって残っているのは、たいていは一つの大きな家、または神社とか寺とかにおいて、必ずこれだけのことは守って続けて行かなければならぬということを、ただ忘れぬように書き留めておいたものである。まさかその日までを忘れてしまう者はあるまいが、人が多くまたたびたびかわるので、こうであったああであったということが、不確かになる場合がいくらもあり得る。折角の儀式がまちがえられては価値がないので、それを一つ書きに絵なり文字なりにして、永く残しておこうという人が前々からあったのである。
近世の実例としては、遠州の高林という大農の家の年中行事が伝わっている。この研究所の近くでも、世田谷の大場という旧家の年中行事が、後に活版になったのでよく読まれている。こういうものを集めてみたら、まだ全国に何百というほどもあるだろうが、それは今日の年中行事の研究に、興味の深い参考品であるというに止まり、直接に私たちの知ろうとする答にはならない。さすが何百年の古い家だけあって、珍しいしきたりがあるということは感じられるが、それがことごとく多数普通の民家でも、かつて一度はみなそういうことをしていたのが、消えずにそこだけに残っているものと、見ることは出来ぬからである。
今の多くの家庭の年中行事は、本や帳面に書いて伝えているものなどはほとんとない。従ってまちがえたり忘れたり、わざと改めたり罷めたりしたものが多く、ことに都会ではこの大きな戦争を機会に、あれほどたくさんあった春秋の楽しみが、半分以上は名前まで隠れてしまったが、気をつけて見ていると、これはまだ決して問題の終りではなかった。人が何かの折に寄り集まって、生まれ故郷の風物を談り、または小さなころの思い出を話し合う場合に、いつでも最も多く話題に上るのは、祭礼でなければ、この年中行事のどれかの日の出来事であった。老若男女の分ちなく、誰でも少しずつこういう話には心を引かれ、また自分でも何か話をしてみたいような、和やかな気持になって来るのも、理由のあることのように考えられる。
普通とちがったさまざまの経歴をもつ人も、このごろは多くなって来たけれども、大体からいうと私たちの生活は単調で、きのうもきょうもあすの日も、似よった暮し方をくりかえしている。それを後からふり返って見て、ああ生きて来たと思い知るためには、楽しい目標が必要であり、それがただ一年ずつの境を立てるだけでは、まだ足りなかったのではないかと思う。オボエルという言葉の正しい意味において、多数の日本人はまだ年中行事をおぼえている。それだからまたわざわざ絵や文字に書いて残すに及ばなかったのである。
昔の記録になった年中行事と区別するために、我々はこちらを民間の年中行事と呼ぶことにしている。しかし長たらしく、また一方はもう働かなくなったのだから、ここでは簡単にただ年中行事といっておくが、これは一つの土地、一つの家だけに限られた特色でなく、汎く日本という国に住む者の共に知り、共に守ろうとしていたものが、いかなる慣習であったかを明らかにしてみたいので、昔とくらべて目的はまるでちがって来ている。年中行事という名称が、近世に入ってから少しずつ、この方向に移り動いて来たのは、文化の学問の上からいうと、好ましい一つの進歩であった。つまりは我々の人生を視る眼が広くなり、比較の方法は歴史の研究にもなお必要だということが、追々わかりかけて来た兆候なのである。
国語の方面などでは、これがまだはっきりとせず、今でもたった一つの変遷を正しい道と感じ、それに付いて行かねばならぬように、我と我身を苦しめている人がまだ多い。年中行事の方でも、暦は大きな統一の力であって、その支配の及ぶ限りは、中央の標準に遵拠せしめようとしていたが、それは正朔すなわち月と日の算え方を主としていて、これに伴なういろいろの行事に至っては、すべて土地毎の自然の発達にまかせてあった。外からの感化もなかったわけではあるまいが、これとても住民の合意がなければ、風俗としては成立しなかった故に、わずかな距離を隔てても、もう目立つほどの差異があり、それをまた当然の事のように、昔の旅人らは予期してもいたのである。ところが実際はさほどの変化でもなく、同じ一つの国の人である以上は、どんなに離れて年久しく住んでいようとも、やはり似通うたことをしていたのだったと、やっとこのごろになって少しずつ、私たちは心づき始めた。
人が自由に遠国に行き通い、ちがった方角から来た人たちと軒を並べ、膝をまじえて雑談をするようになったのは、そう古くからのこどでなく、また近いころ急に盛んにもなった。今まではとかく変った点が目につきやすく、言葉や品物のわずかなちがいでも、理解を妨げていたことが多かったけれども、静かに聴いて見れば心持はだんだんと汲み取られる。わざわざ統一してみようと努めなかった区域に、かえって隠れたる自然の一致があったということを、学び知る機会が多くなって来て、ここに始めて年中行事が、新しい学問上の意味を持つことになったのも、つまりは時代の然らしむる所であった。
人が自らを知るということは、すでに容易な仕事ではないが、国民が自分の国を知るのは、それよりもまた何層倍かむつかしいことだった。しかも方法はなお幾らもある。第一にはめいめいの無知に気づくこと、今までわかったつもりでいたものに、実は答えられないことが多いのは、私みたいな年よりには、一種の若返りの薬であった。年中行事は小さな問題だけれども、ことにこの中からいろいろの新しい疑いが生まれて、人の話を聴く楽しみが止めどもなく成長する。子供とか外国の旅客とかは、今までの常識には囚われないから、とんでもない質問を出して、返答に困らせることが多い。たまにはこういう人たちの立場に立って、ま一度日本を見なおして見るのもよく、また少なくともそういう無邪気な疑いを、どう説明するかを考えておくのもよい勉強である。
この小さな一冊の本は、へただけれどもその一つの試みである。今に必ずもっと面白く、わかりやすく書いたものが、この本の読者の中からも出て来るであろう。年中行事の研究には、まだ広々として未知数がある。これがだんだんと開けて行くにつれて、我々の古い歴史、周囲の民族との繋がりもわかって来るかもしれない。最初どのような生活計画を立てて、祖先はこの島に渡って来たか、そういうことも明らかになるかもしれない。私はまだ答えることは出来ないが、遠い将来を考えると、この仕事は楽しみである。
一年は三百六十五日、その三百日余はただの日、またはフダンの日といって、きまった仕事をくり返し、忘れて過ぎて行くのをあたりまえのように思っている中に、特に定まったある日のみは、子供が指を折って早くから待ち暮し、親はそのために身の疲れもいとわず、何くれと前からの用意をして、四隣郷党一様に、和やかにその一日を送ろうとする。これが今日いうところの民間の年中行事であった。正月や盆のように幾日かを続けたのもあるが、大体にこの行事の日は、一年の間によいあんばいに割りふられている。これは古くから自然にそうなったか、ただしはまた近頃の祝祭日のように、昔も評議をして人がきめたものであろうか。もしきめたとすれば発頭人は誰かということになるが、正月以外にはその心あたりはないから、それは要するに社会の力、すなわちまた一つの自然ということになりそうである。
それをいま少し詳しく考えて見る前に、一つ言いたいことはこの行事のそれぞれの日を、もとは我国では何と呼んでいたろうかで、それが今日は誰にきいても、もうはっきりとしなくなっているのである。千年以上も昔から朝廷に用いられ、また民間でも汎く行き渡ってはいるが、節という語はともかくも日本語ではない。節はフシであり長いものの区切りであり、ちょうど竹には必ず備わり、葱や韮にはないのが目につくというものだから、これを生活の単調を破るために、自然に生まれて来た行事の日の、名にするだけならば別に不思議はない。ただわざわざ漢語の音までを取入れて、セツといったのには何かまた理由がなければならぬ。
私などの想像するところでは、日本の年中行事は中央と地方と、もとは似通うたものであったのを、いわゆる唐制模倣によって一方の儀式を、特に荘重な形に改めて、むしろ差別のためにこういう呼び名を採用せられたのであった。それが公けの言葉になると、いつとなく田舎の端々にまで広がって、結局は以前何と言っていたかを、簡単には思い出せないようになってしまった。なくてこの時まですましていたのではあるまいと思う。
九州の南部から沖繩の島々にかけて、折目といっているのがあるいはもとの言葉だったかもしれない。節も折目も心持は近い上に、古くは「日折の日」という名も一つだけ伊勢物語に出ている。近畿地方の多くの村々では、盆や正月祭礼までを引きくるめて、小さな休みの日までをトツキヨリという人が多い。折は機会という意味に広く用いられてはいるが、トキと組合わせてこういう風に使うと、ただ年中行事に限られて他のことにはならないのは、古い慣用のなごりかと思われる。トキはもちろん今日の「時」と同じ言葉なのだが、本来は時間よりも時点、すなわち節というのに近かったと見えて、節をトキと訓ませた人の名乗があり、また時節とつづけた漢語が、日本では盛んに行われている。
現在は何だか仏法に縁が深く、仏事法事の飯だけをオトキと呼ぶ土地が多くなっているけれども、これも以前は一年のきまった日、常と異なる日の一つ一つを意味し、すなわち「節」という語が入って来るまでの古語であったかもしれない。東日本ではかわり物、何かふだんとちがう食物をこしらえて食べる日を、トキドキと今でもいっている土地がある。以前は人の心がおおようで、相手に通じさえすれば、こんな広い意味の言葉を使ってもすまされたのである。
この以外にも、マツリとかイワイとかヤスミとか、意味のはっきりとしない名がいろいろと出来ていて、その場の都合でそれを使っていたようだが、近ごろは範囲や定義がやかましくなって、説明をつけないともう通用しないものばかり多くなった。あるいはその時の様子次第で、あれもこれも取りまぜて使い、総称というものがなかった時代もあったかと思うが、その事は後にもう少し詳しく説明するとして、とにかくに今ではセツというのが、全国にわたって最も普通の名になっている。これからさきも何とかしてこの語を活用するの他はないだろう。
節は紀元節天長節というように、公けの最も重々しい儀式の日の、ただわずかなものに限るように、近頃ではなっていたけれども、それは必ずしも本来の意味だったとは言えない。現にそういう重々しい節の日と併行して、民間にも数々のセチビが認められていた。いわゆる五節供三節供には限らず、九月の秋祭、十月の亥の子、その他毎月の日待月待までを、鹿児島県などではみんな折目節目と呼んでいる。そういう中でも全国を通じて、最もよく知られた節日は一年の境の日であった。
現在はオセチを除夜の夕食にたべてしまうのが不思議に思われ、都会ではまた節季というものがあって、それはまた全く別個の事務となっているのだが、それもこれも一続きのセツの中であったことは、正月の飯米用意をセチ搗きといい、薪の支度をすることをセチ木伐り、その他セチゴ(節衣)だのセチ草履だのというのも、すべてこの晴れのこしらえであったのを見てもわかる。信州では嫁聟が実家へ遊びに行くことを、正月だけはセチニユクといっているが、埼玉県まで来ると親戚故旧が、年始に集まって、酒宴を催すのがすべてオセチであった。すなわち節は常民の飽満し、また歓喜する日の名だったのである。
民間でこれをセチといったのも普通の日本語で、別に正式の大きな節の呼び方に対する御遠慮ではなかった。その証拠には、昔の宮廷の女たちも皆セチといい、ことに節会は男でも必ずセチエといっていた。白馬節会はアオウマノセチエ、豊明節会はトヨノアカリノセチエ、珍しい名だから多くの人々が記憶し、ちがったよび方をすると今でも笑われる。この節会は我国の特色の一つだった。本元の国でもそういったのか知らぬが、こちらのようには盛んに用いていない。節会はすなわち節日の会食で、この日は集まって大いに飲みかつ食べることは、古今都鄙を一貫した行事の中心であった。これが時世によって盛衰し、どちらかというとだんだんと淋しくなった。節という日の意義はこれと共に、少しずつ衰えて来たような感じがある。
節句というようなおかしな当て字が、普通になって来たのはそう古いことではない。江戸幕府の初期に、五節供というものをきめて、この日は必ず上長の家に、祝賀に行くべきものと定めたという話だが、その頃を境として、以前はたいてい皆節供と書いており、節句と書く者はそれからだんだん多くなって来た。節供の供という字は供するもの、すなわち食物ということでもあった。今では神供とか仏供とか、上に奉るもののみに限るようになったが、もとの心持はこの漢字の構造が示すように、人が共々に同じ飲食を、同じ場においてたまわることまでを含んでいた。目的は必ずしも腹一杯、食べて楽しむようにということではなかったが、同じ単位の飲食物、たとえば一つの甕に醸した酒、一つの甑で蒸した強飯、一つの臼の餅や一畠の瓜大根を、分けて双方の腹中に入れることは、そこに眼に見えぬ力の連鎖を作るという、古い信仰が根本にあったのである。
始めて縁組をした二つの家門の間で、または初対面の、これから交際をして行こうという人たちが来ると、とかく一盃を交えるまでは打解けた気分にならぬなども、今は弊害百出だが、基づくところは皆この原理から出ている。まして神々や先祖の霊に対しては、形が眼に見えぬだけに、それをくり返さないと精神の連絡が心もとなく、ことに人と人との新たなる交渉には、始終この目に見えぬものの参与を必要としたので、節日はその目的のために予定せられた日だったのである。ところが最近の祝祭日法とはちがって、江戸時代の五節供の制定は厳粛であった。都合がつくなら出て来たらよかろうというのでなく、この祝賀に出ぬのはなまけ者、あるいは不義理なやつと刻印を打たれるかもしれない。そこで猫も杓子もカミシモを着てやって来て、少なくとも玄関の帳面には名を付けなけらばならない。
都会ではこの右往左往が、目ざましいものであった。この連中の全部に対して、共同の飲食を分つことはとても出来ない。あるいは皮肉な想像かとも思うが、何だ節供と言いながら「供」はないじゃないかと、批評をしそうな者が多くなって、然らば節は一つの句切りだから、節句と書くことにしようということになったものかとも考えられぬことはない。
五節供という配置法は、少しばかり人為的に、程よく間隔を取ろうとした計画が現われている。地方で一般によく知られているのは、春は旧三月三日の雛の節供と、夏の五月の端午の日であって、この二つだけにただセックといっても通用する程に、民間の言葉とよく一致している。九月の九日を節供という土地は、関西の方でも半分以内のもので、その他は九日といったりまた別の名で呼ぶ処が多い。しかしこの三つならまず見当がつく。さて残りの二つはということになると、今でも確実に覚えている人ばかりはない。
七月七日はなるほどという者もあろうが、それが何故に祝賀の日になるかは、多少の説明を必要とした。盆は不幸のなかった家々では、以前もやはりおめでとうという日であり、普通にはこの日から十五日までの間に、親や目上の人の健在を祝する酒宴があった。それを数字が揃うので七月七日ということにきめたものと思われる。正月の七日に至っては、日の数を月と揃える法則にも合わず、年越の一つに算えられてはいるけれども、七草の粥と九州の鬼火以外には、そう大きな行事はない。察するにこれは元日と十五日とには、一般に家々各自らの式が多いので、それに自由を与えようとした一種の譲歩であって、まあこの程度には討究した政策の現われなのである。
この五節供の日を制定するに先だって、幕府では各藩各領の実状を調べさせたところが、人日や七夕には地方毎の風習の差が甚だしく、とても民間と歩調を合わせることが出来ないのを知って、結局は理論に拠ってこの五つの日を決したという話が伝わっている。うそかも知れないが外形は少なくともそうなっている。つまりよく考えて勝手にきめさえすれば、人民は付いて来るだろうと思ったのである。ところが必ずしも予測の如くならず、民間には別に独自の年中行事があって、衰えたりまた盛んになったりしながらも、なお今日までは続いている。これがこのさきどうなって行くかということは、政府や国会だけの力ではまだきめられない。
五節供の制定には、現実生活の要求を十分に参酌しなかった嫌いがある。それから今一つは年久しい慣行よりも、新たに入って来た外国の理論に、根拠をまず求めようとしたことが、ついに民風を新たにし得なかった原因かと思われる。もちろん私たちの行事とても、決して古代のままを伝えようとしていたのではなかった。中世以来の社会事情に動かされ、またはただ単なる流行によっても、よそでそうするならここでもと、気軽に改めた部分もないとは言えぬが、その保存にも改廃にも、ともかくも彼等の理由があった。歴史の学問がまだこの方面には進まないために、今まではそれを考えて見る道がなかったのである。やや泥繩のきらいはあるけれども、これからでも少しずつ、注意を深めることにしてはどうかと思う。
一つの例を挙げると、一年は十二ヵ月であるのに、五節供をこれに配当すると、どこかに空隙が出来ないわけには行かぬ。旧の十一月には十一日の節供などはないが、ここは何もせずに過ぎた月かというと、決してそうでなかった。家の外は霜月の寒い風が吹きまくるが、ちょうど田の仕事も一通り片づいて、薪と食物とが共にやや豊かに、家に集まって親子夫婦の情を温めると共に、群の連続のこれからと今までとに、最も多くの思慮を費やすべき、言わば精神生活の季節であった。静かな農民の感情は、いろいろの祭や行事となり、これに伴なう幾つかの言い伝えに映し出されている。いくさや災害が度重なって、人の移動が繁くなったころから、少しずつこの月の楽しみが消え薄れて、今ではかなりの山村か、遠く中央から隔たった土地を訪ねて、わずかに残ったものを見つけるまでになっている。これが果して免れ難い世の中の推移であったか、はたまたこの損失の補充はついているのかどうか。これを考えて見る者は今のところ、農民自らより他には、私たち少数の者があるだけである。
十月という月は神無月ともいって、もとは神祭のほとんとない月だった。ところが神社大観などを開いて見ると、大小の社の祭典は、三分の二近くがこの月を以て挙行せられる。もちろんこれは新旧暦法の差で、現在十月というのは旧九月の月送りであるが、その九月とても元来はそう祭の多い月ではなかった。稲は大よそこの月の末までに刈揚げるが、それを掛け乾しニオに積んで、やがて到来すべき新嘗の日を待っているのが、楽しいしかも至って厳粛な、心の準備の期間であった。どうしてこのようにまで永い日数を、必要としたかは我々にも説明し難いが、とにかくにこれはたしかな事実であり、またしばしばよその民族の中でも聴くことであって、そのかわりには祭が滞りなくすんでしまった後の歓喜というものは、これまた今日の想像を絶した、濃厚かつ強烈なものであったらしい。
ところが内外の事情の次々の変化のために、この一月余りの物忌の期間を、静かに謹慎して待ち暮すことが出来なくなり、結局はやっと農事の一きりがついた旧九月に、多くの収穫後の行事を引上げてしまうことになって、冬はまた一段と淋しい退屈な、人生の空白の如く見られるに至った。この古今の変遷というものが、恐らくは日本の農民の気質と生活ぶりとを、わかりにくいものにしているのかと思う。
第一に私たちのまごつくのは、ちがった土地に入って行くと、故郷ではついに聴いたこともないような、かわった食べ物をこしらえる日があって、それに基づいてその日の呼び方や、言い伝えなどにも思いがけないものが行われている。今までの学者の中には、そそっかしい人ばかり多かった。少し南の方だとすぐに南洋系の文化だの、北へ寄っているとアイヌから引継いだ風習だのと、ちっとも証拠のないことを説き立てていたが、日本人が彼等と交際しなくなってからも久しいことである上に、内部でもこの通り、もとあったものが変っているのであった。そうしてじっと気をつけていれば、その痕跡が濃く淡く、他とは少しも話し合わずに、保存せられている場合が多い。比較の方法が研究の上に、これくらい有効にまた興味深く、応用し得られる場合も少ない。それを試みもせずに、ただ勝手なことを言っていたのである。
そういう中でも冬の三月は、今までの祭祀組織が弛み、この間の行事は公定の五節供から除外せられていたので、土地の人だけが思い思いに、守り育てて来たものがその中に多く、そこで大きくなった人たちはもちろん、外から観る者にも方々の話を聴いて、うれしくなるような場合が幾らでもあったのである。
七十年前には、自分なども村の子供であった。古い話をし出すと止められなくなって、うっかり紙数を費やす恐れがあるが、今でも覚えているのは旧十月の亥の日の晩に、亥の子と称して新藁で太い苞を巻き立て、地面を打ってまわる遊びがあった。九州の島々ではこれを亥の子節供とも呼んでいる。この日の晩には必ず新米の団子をつくり、それを重箱に入れて家々互いに贈り合う。そのお使いをするのも子供であった。霜にやや痛んだ赤白黄の菊の小枝が、重箱の蓋を開けるとぷんとにおうのも、なつかしい風情であった。それよりも大きな楽しみだったのは、家々ではこの藁ボテの地を打つ音を悦んで、子供を励ましてめいめいの門庭を打ちまわらせ、その慰労には必ず餅をくれた。それで私などはイノコ餅を、この日の行事の名かと思い、またあの藁ボテの名かとも思っていた。
瀬戸内海も少し西の方へ行くと、藁ではなくて円い石に多くの環を付けたものを、亥の子石と称して子供が使っており、形式は一段と地搗き地固めと近い。九州各地のムグラ打ちは、藁を竹のさきに巻き付けたものだが、これで地面を叩く日が正月の十四日になっている。目的は何れも土地の力を強くする呪法であって、それには一年の特にめでたい日を選べばよく、ぜひともこの日に限るということはなかったのだが、子供の管理となってよりいよいよ遊戯の分子が加わり、ついに亥の子の晩を忘れ難くしたのである。
今でも恐らくはまだ続いている土地が、関西方面には少なくはあるまい。ところが近畿関東になると、亥の子という名は一般には知られていない。京都には古くから亥の子の日に餅を搗いて、農村から持って来る旧例のみはあって、その他の行事は何もないけれども、まだ名前だけはほぼ記憶せられているが、それから東では十月亥の日などは普通の日に過ぎない。そうしてその代りに十月の十日夜と名づけ、ちょうど中国地方のイノコヅキと同じに、藁の束をもって地面を叩きまわる子供遊びがあったのである。
このいわゆるトオカンヤの藁鉄砲が、行われていた区域はそう広くはない。どこが境かはっきりとはしないが、私の知っている限りでは埼玉県の北部から、群馬長野の二県の隣接した数郡などで、栃木県の東部でボウジボウチ、茨城県北部でムジナバタキというものが、名はちがっているがすることは同じく、
などという囃し詞が似ており、日も同じく十月十日の晩だから、もとは一続きの風俗であった。それがその中間ではいつの間にか消えているのである。これと関西地方の亥の子の関係は説明しにくいが、ともかくもただ偶然の類似でないことは、この二つの日を比較して見てもわかる。トオカンヤという名で呼ばれている区域はあまり広くはないが、旧十月十日は日本の東半分において今でもかなり大切な日である。すなわち田の神がこの一年の任務を終って、再び山に帰って山の神となりたまう日、ということになっているのである。
信州の人たちはよく知っていると思うが、あの地方ではこの日をカガシアゲ、もしくはソメの年取りといって、ソメすなわち山田の案山子を田から迎えて来て、屋敷の片隅の静かな場所で、または内庭に臼をすえて、焼餅を供え御祭をする風習が、つい近い頃まではあった。神は眼に見ることが出来ないから、この蓑笠を着て永い間、田の番をしてくれたものを、その代表者のつもりで歓待をするのであろう。
こういう話を聴くと他の地方の人は珍しがるであろうが、この日を田の神の田から引揚げたまう日と考えて、餅を搗いて供えまた自分たちも食べるという村ならば、全国を通じて数多く、神はその餅を蛙に背負わせて、山の方へ帰って行かれると言ったり、あんまり飛ぶなよ、粉ンこが落ちるにと言われるそうだというような、子供が笑う話までがそちこちに残っている。そうしてその十日という日取りだけが、土地によって少しずつかわり、西日本の方は一帯に、現在は同じ月の亥の日を用い、農業保護の神の御名まで、亥の神様ということになっているのである。
子丑寅卯の十二支を十二ヵ月に割り当てると、正月が寅だから旧十月は亥の月であった。十日とはっきりきめてしまうよりも月に三回か二回かある亥の日を祭の日にした方が、農作の実際には都合がよかったので、いつの頃からかこうきまったものらしく、イノコヅキなどの子供行事の全くない九州の南の端まで行っても、やはり十月の初めまたは中の亥の日が、一つの民間の節供であった。すなわちみんなが仕事を休んで、楽しく暮す日である故に、この亥の子搗きというような遊戯がだんだんと盛んになって来たので、これも元来はこの一年の大きな吉日に、昔の人が行っていた数多くのまじないの一つであったのが、たまたま子供に好まれて、これ一つ永く保存せられることになったのかと私は思う。
田の神が春は山から降りて田を守り、冬に入ってから、再び山に登って山の神になるということは、もう本当にそうだと思わない人までが、全国にわたって今でも皆記憶している。町に住む者は、毎日いつでもほしい時に、珍しい食物が得られるので、節日というものの印象はうすいのだが、農村ではこれが一つの良い記念であった。その日にならなければ決して作らないという餅や団子、それに伴なったいろいろの行事の、他の日にはついぞ見られぬものがいろいろある。ことに新米は香りが高く、味がおいしく珍しいのに、わざと以前はこの折目の日まで、食事につかうことをさしひかえていたのであった。
その上に今いった亥の子餅のやりとりというような、心をときめかす所作が幾つもあった。子供でなくとも久しい後まで、忘れることの出来ないのはあたりまえである。数限りもない世の中の激変につれて、そういう古い作法は片端から消えて行き、ことに冬のうちの年中行事などは、もう覚えておらぬ人が多くなって来たらしい。誰かが一ぺんは話をして世に伝えて置くべき事柄は、三つや五つではないのである。
十月は神無月で祭のない月だったというのに、どうしてこれだけ重要な節供が、出来ていたかということがまず問題になるであろう。これはもともと一月以上の慎しみが永きに過ぎて、だんだん待ちきれなくなったということもあろうが、また一つには実際の刈入れの日が、斎忌の初めとして、別に何か行事のある日であったのを、後に追々と力を此方に傾けて、これを中心と感ずるようになったということも考えられる。
そういう類例は正月にもあって、七日と十五日と節分と除夜の行事が、互いに似通うているものも少なくはない。亥の子と十日夜が別の日ではなかったように、その十日という日も必ずしも固定してはいない。一ばん多いのが二月十日を田の神降り、これに対して田の神昇りの日を、十月十日としているものというだけで、それよりも遅く双方とも十二日、または十七日とした例もあれば、寒い雪国などでは早稲を作って、旧九月のうちにもう田の神を上げてしまうものがある。これがもし形ばかりの外からきめた制度であったならば、決してこのように各地まちまちにはならなかったろう。節が実際生活の必要によって生まれたことは、こういう点からも証明せられるのである。
しかも一方においては、その古い頃の霜月祭も、まだ全くは忘れてはいなかった。旧十一月になって田の神の終りの祭を営む例は、九州北部一帯に丑の日様またはオウシ様といって初の丑の日、それから西南の島々にかけても、同じ日に山の神の祭をするものがある。中部地方でも岐阜県は一般に、霜月七日かまたは寅の日を以て、山の神の出入りの日とし、慎しみ深い祭をしている。この日を山の講というので、ちょっと見ると農事に関係がないように取れるが、これに参与する者は主として農民であった。
能登の半島の引込んだ村々で、アエノコトというのも同じ祭で、これも最近まで旧十一月の五日または四日、あるいは新暦十二月の月送りのその日であった。田から上って来られた田の神を迎えて、ちょうど人間の貴い賓客に接するように、家々の主人がカミシモを着て、自ら歓待の任に当ったと言われる。今日はあるいは罷めているかもしれぬが、私たちの採訪して来た記録には豊かに残っており、昔なつかしい事実がその中には多い。たとえばその晩は風呂を立てて、神をまずそれへ案内するのだが、もとよりお姿は見えないから、ただ遠くに坐っていて湯のお加減はいかがといったり、または主人自らがカミシモ衣服を脱いで、湯に入ってそれを神のご入浴と解するものもある。田の神は久しく田の中におられて、お目が見えなくなっておられるといって、座敷では一々お膳の食物を名をいってすすめたというような話もある。それが皆わざおぎの所作ではなくて、神の実在を信じたあるじ振りであったことは、ちょうど我々の盆の魂祭の後先ともよく似ている。
刈入れ直後の祝の日に、すでに田の神のお帰りを送った地方でも、なおもう一度この霜月の祭の日を、何もしないでは過すことが出来なかった。九州の各地には二月の初午に対して、十一月の初午にも家の稲荷の祭をしているが、これもその一つの現われかもしれない。年に何度か行われる二十三夜待の中で、特に霜月三夜を大切にする風が中国地方その他にある。これなどはことに新嘗の祭に近いのだが、これは他でも説き立てたことがあるからもうここでは詳しく述べない。それよりもさらに広く残っているのは、大師講という珍しい名をもった節日で、東北は三大師と称して月のうちに三度、四のつく日を以てこれに宛てているが、それはやはり農作業の現実と調和させようとした新しい試みかと思われる。
他の多くの地方、たとえば関東の北半から中部一帯、北陸から遠く山陰の沿海まで、同じ習俗口碑を存する村々は、何れも主として二十三日の晩から二十四日の終日をその日としている。大師という名称にはもちろん寺々が参加し、仏法の信徒が流布させたと思われるが、土地によって解説はまちまちであり、また両立しにくいものが多い。たとえばオダイシには、二十三人とかの子があり、それを養うのに骨が折れるので、長い箸を三本添えて、団子を突刺して食べさせるようにするとか、またはオダイシは寡婦であり、子育ての苦しいにつけても、亡くなった主人の有難さが思い出され、それを頭の上に戴くようにしているのがあのお姿だと、この日に掛けて拝む角大師の姿を、そんな風に説明したりしている。こういうのは多分古来の節供の趣意が不明になり、どうしてこうなのだろうという推測の中から、奇抜なおかしいものがかえってもてはやされたのでもあろうが、なお行事の特色というべき点が、これからでも窺いたしかめられ、それがまたやや広い一致を示すのであった。
暦本の頒布もまだ十分でなかった時代から、掛軸や壁に貼るような絵像だけは、需要があったと見えて遠い田舎までも配られていた。版画の大量生産者などは、信用すべき解説者でなかったのは無論だが、それが売りひろめたお姿というものは、年徳神でも恵比須大黒でも、またはオシラという養蚕の神でも、妙に力強く人心を支配していた。井手の蛙のひぼし哉とも評せられた、いわゆる角大師の像なども、中央では元三大師、良源という名僧の肖像の如く言われたが、奥羽の北端と北九州の一部とでは、これが霜月三夜の神であるが如く、思っていた者が多かったのである。
あるいはまた布袋和尚が多くの子供をつれて、旅をしている図なども、オダイシ様だと言って売られたことがあるらしい。そのような絵像をじっと見つめていた人々が、そういう想像を出したものとすれば、一通りは説明がつくかもしれないが、なお遡ってこのような絵を、めいめいの拝むべき神として悦んで買い求めたという点に、考えて見なければならぬものが残っている。そうしてその理由はまだ今日、はっきりとしておらぬのである。
あるいは数多くの子を持った神というような話が、特に小さな人たちの印象を深めたのかもしれない。今でも現実に長短のある三本の箸を、この晩の神の膳に付ける風が、ずっと広い地域にわたって行われ、それと関連してまた一つの珍しい言い伝えが残っている。それからなお一つ、この晩はきまって風雪があって、それにもかわった昔話が付いているのは、これを何でもないただ普通の現象と、村の人々には思うことが出来なかったからであろう。その話というのは、オダイシ様はたくさんある子供に粥をこしらえて食べさせようとしたが、貧乏なために塩が買えなかった。または塩を買いに出て吹雪に遭って斃れたとさえいって、この二十三日の晩に煮る粥には、今でも塩を入れてはならぬという家が少なくない。
こういう話もやはり正しい古伝と言われないことは同じだが、少なくとも言い伝えには基礎となるべき事実はあり、新しい版絵などに面して始めて胸に浮んだ空想ではなかった。簡単に言ってしまうならば、粥は最初からこの節供の日の食物であって、それを中絶せずに、今なお農村では守っているのである。正月十五日の小豆粥を始めとし、正式の粥には塩を使わなかった。その点だけは後々解しにくくなって、このような説明が考え出されたのであった。
この旧十一月二十三日の晩に、必ず雪が降るという俗信は、大師講という名の知られているよりも、もっと広い区域に行なわれている。それが大体に日本海がわ、水のあちらへ流れている地帯に、現在は限られているらしいのは、天然の証拠が挙げやすかったためかと思う。ただしその由来の説明としては、越後から南西にはまた別の話が伝わり、奥羽六県などはかえってこの点にあまり力を入れていない。その理由も私にはやや判ったような気がする。
東北ではオダイシは常の日は何処におられるかを言わぬに対して、こちらでは毎年この一夜に限り、村々家々を経めぐって、人の心を見てあるかれると語り伝えていた。そうしてさらに珍しいことには、この貴い旅人の足が不具なので、足跡によって通り筋のわかってしまうことをいとい、必ず雪を降らせてその跡を隠させる。それで跡隠し雪という名が出来たと言っている。これは越後の魚沼川渓谷などの話であって、わずか形をかえて鳥取県のあたりまで行われているのだが、いくら話だとしてもお大師様の足がデンボであったというのはひどいと思ったものであろうか、他の多くの土地にあるものは、また一趣向を添えていよいよ昔話と近いものにしている。
昔々至って貧しい老女の家に、この晩大師が来て一泊を求められた。何一つまいらせる物のないのを悲しんで、夜ふけにそっと出て隣の稲の一把を盗み、または一本の大根を畠から抜いて来た。ところがこの婆は足が片輪で、指が一本もないので足跡ですぐ発覚する。それがふびんと雪を降らせたのがお大師様であった。その因縁に基づいて、今もこの晩はきっと雪が降り、それをスリコギ隠しとも、デンボ隠しの雪とも土地の人は名づけているという。
この形の話の採集せられている土地は多くまた広く、一つの教訓譚としては首尾整ってもいるが、私などから見ると、これも一種の合理化であって、つまりは古い頃の俗信の一部が、もう稀薄になった結果としか考えられない。大師と名のつく名僧に、そんな足をした人はもちろんあるまいが、雪を自在に降らせるような大師も、いたろうとは思われない。実際は霜月三夜の晩に、村をまわってあるくと信じられていた神または尊霊を、大師と呼んだわけが判らなくなったからと、見るより他はないのである。
信州の犀川流域などは一般に、物の高低長短があることを山の神といい、その根本には山の神が片足神であるという俗信がまだ残っているらしい。現在は片足神がすでにちんばとなり、それ故にまたこの日の膳に長短の箸を上げ、さらに長いものをもう一本、杖として添えるのだなどといっている処も方々にあるようだが、最初はただ我々の山の神が一本足で山を降り昇りせられるものと、単純に信じ得た時代もあったのだが、追々とそんな事は信じにくく、古い話を少しずつ改造しなければならぬようになったのではあるまいか。私などの聴いているだけでも、今でも山中にそうした形をした霊物が住むという話が怪談のようになって各地に保存せられている。
たとえば紀州の山奥で一本ダタラまたは雪入道などというものは、雪の上に大きな距離をおいて、円い筒のような足跡を留めたのを見るといい、土佐の寺川郷で昔ある人が目撃したという山爺なども、ただ一本の足でぴょんぴょんと跳ねあるいて来たなどと、眼の迷いかは知らぬがとにかくにこういう隔絶した一致がある。朝鮮でも中国でも、また北欧の前代神話でも、神を独脚に想像していた記録が多い、というだけは少なくとも事実であった。
詳しく説いて行くとかなり面白い話になるのだが、これは何分にも年中行事の解説には縁が遠い。ここで私たちが注意してよいと思うのは、風と節供の日との関係であって、それは必ずしも旧暦十一月下弦の頃の、いわゆるダイシコ吹キだけの例ではないことである。雨でも雪でもしとしとと静かに降るのでなく、普通に強い風を伴なって、海の辺りならば海が荒れる。単に北海に面した地方だから、冬分はそういう日が多く、偶然にちょうどそうなるのか、ただしはまた特にこれらの節日の前後が強い風の出る頃なのであったか。もし後の方ならば、この霜月祭の日の選定には、始めから自然の指導を受けていたことになるので、我国の気象を研究する人たちと共に、もう少し進んで考えて見たい問題である。今日まだ説明のつかぬことが、これによってはっきりとして来るかも知れない。
冬の節供の中では、いわゆる大師講吹きの他に、問題になる日がなお二度はあって、何れも公定の暦法には認められず、民間では今でも相応に力を入れている日であり、また国内の大部分の一致もある。ちょうど旧十月の神無月の始め、九月晦日から翌朔日の朝にかけて、神のお立ちと称して村々の社の祭があり、また一月後の十一月の朔日頃には、神迎えまたは神のお還りといって、同じような祭がある。神信心の篤い土地では、両度とも神社に夜の宮籠りがあり、少なくとも住民の参拝がある。
多くの土地の言い伝えでは、村々の氏神はこの一月の間、出雲国に出かけて会議をなされるという。またそういう事が書物に載せられてあるのも、数百年以来のことであるが、私たちに少しも諒解し得ないのは、どうしてそのようなことを国中挙って、信じ始めたろうかという点である。もちろん最初からこの通りであったからと、答え得る人も多少はあるのだが、そう思ってしまうには、なお聊か証拠が足りない。そうすると以前この両日に何か特別の行事があって、それがいつの頃よりか神々の出雲行きという解釈に傾いて行ったと見るの他はないのだが、久しく心がけているにかかわらず、それにもまだ完全な民俗資料が、十分に備わっているとは言えないのである。
九州の北部一帯、ことに海に接した地方では、神の出雲行きを一般に信じていて、前後両度の祭、といううちにもことにお還りの日の儀式が荘重であるようだが、このあたりでは神渡しおよび神戻しというのが、二つの日の名でもあれば、同時にまたその日の風の名でもあった。すなわちちょうど出雲の方角へ、次にはまた出雲の方角から、吹いて行きまた吹いて来る大きな風であり、これによっていよいよ父祖以来の言い伝えの、確かであることを感じていたかと思われる。まだ実地に確かめてはいないのだが、この風は多分船路に便な、雨雪を伴わない晴れの風であったろう。
ところが鳥取県の八頭郡などで、神返しというのは十月の二十五日で荒れ日であった。美濃の揖斐郡の山村では、十一月の三日が、氏神の出雲から還りたまう日であって、お神楽荒れと称して天気がよく荒れる。風の方角は必ずしも問わなかったろうが、風雨を冬の祭の兆候としたことは、あるいは神々の遠くへ旅をなさるという信仰を固め、従ってまたある一つの地方のそういう信仰が、宣教者以上の感化を四近の地に、与えたということもないとは言われまい。
村々の社の神が、遠い出雲の国へ旅をなさるという言い伝えは、いつの頃どういう風にして始まったろうか。これは学問の上からも大切なまた興味の深い問題である。何となれば中古数百年間の常の人の精神生活、すなわち書いたものに少しでも現われていないことが、この方面から追々に、わかって来る望みがあるからである。それを窺い知る手掛りも全くないというわけではない。ただ今までこんな事に気をとめぬ人が多かっただけである。
私などのいま心づいているのは、第一には神のお立ちとお還りの日に、きまって高い大きな風が吹くということ、これがいわゆる神無月の始めと終りとに限らず、霜月二十三夜の大師講吹きがあることは、前に述べた通りであり、さらに旧十二月に入っても八日吹きがある。北は秋田県の横手附近から、日本海岸はずっと南の方まで、佐渡の島にも飛騨の白川村あたりにも、海辺も山奥も一様に、これを来年お作柄のよい知らせのように、思っている処は少なくない。
一つの珍しい話は、針千本という一種の小さい河豚が、この日の風に吹かれて数多く浜に上って来る。それが目立った自然の現象であるためか、これを拾って来て魔よけにしたり、またいろいろとその由来を説く昔話を語り伝えたりしている。そうしてこの八日の節日を針千本、または針歳暮とさえいっている人がある。それでなくても全国を通して、この日は仕事をせずに休む日だったのだが、そういう中でもことに針を使うことを忌みきらい、針供養と称して針を豆腐とかこんにゃくとかいう軟らかいものにさして一日休ませ、または折れた針はためておいてこの日川に流し、縫い物をする女の子の集まる所などでは、焼いた餅を供えて小さな祭をしていた。
針河豚が八日吹きの風に吹かれて、浜に漂着することを知っている土地だけにこの風習があるのなら別に不思議はないけれども、現在は針供養の名と行事が、ほぼ全国といってもよい位に行き渡り、さらにこの十二月の八日に対立した旧二月の八日に、これとよく似た針供養をする処が、関東東北と九州の南の端とにあるということは説明を要する。島根県の一部には十二月の八日以外に、二月の八日をも八日吹きといい、針箱にお焼きの餅を供える例もあるというが、この日も風が吹き針千本が寄るということはないらしい。年にただ一ぺんずつ、絶えずくりかえされている年中行事には、あるいは特別によその土地の感化を受け、何か新たな社会事情の変り目に、少しずつ今までの仕来りを改める傾きが大きかったのではないかと思う。
旧二月と十二月との八日の節供は、東京附近ではコトハジメ・コトオサメなどといって、かなり大切な祝祭日の一つだったことは、三百年来の記録にも現われており、今日もまだ多くの府県に同じような風習がある。これは神々のお立ちお還りの日とはちがって、正式の食物のこしらえ方にきまりがあり、また両度の行事が互いによく似ていた。この日してはならぬといった物忌の範囲は広く、決して女の子の縫い仕事だけではなかった。
ただ現在地方的にちがって来ている点は、関西は一般に十二月の八日の方を重んじ、二月の方はもう守っておらぬのが普通なのに反して、奥羽の方に行くと特に二月に力を入れ、また九州も南端の一小部分には、二月の方の行事がなお認められている。その中間に於て、関東地方とこれに隣接するやや広い区域が、両度の八日節供を相対立するものとして、均しく休みまた祝っているのであった。こういう地方地方のちがい方からも、生活様式の推移段階が、だんだんにわかって来るもののように、民俗学の人々は考えているのである。
村々家々の神が、一年のある期間だけお留守になるので、その後先にお祝いをするという考えが前にあって、その行くさきを出雲の国へと思うようになったのが、その次の変化ではなかったかと私は見ている。並べるならば例はまだ幾つかあるが、たとえば越後の米山の神なども、現在は薬師様として祭られているが、たしか十二月の八日に立って出雲へ薬の調合に行き、四月八日にはお帰りになるといって、その日が参拝の日であった。
宮城県内のそちこちの村で聴いているのは、神のお立ちが十二月の八日、お帰りは二月八日となっていて、これもやはり出雲へ往復なされるように今は思っている。九州その他の神無月を中心とした神の旅でも、土地によりまた神によって、出発と帰還の日が全く同じではない。三日五日の差ならば遅刻早引の類とも見られようが、こんなに時日を異にしては、まず集会という説明は成立たぬのである。すなわちある期間の神々の不在は、別に土地毎の理由に基づくもののあることが考えられるのである。
もっと多くの類似が出て来るとよいのだが、愛知県の東部、三河の南設楽郡のうちには、九月晦日の神送りの宵を、田の神送りと呼んでいる村がある。それから東に来て静岡市のまわりでも、やはり同じ日を田の神送りと名づけて、もとは家毎に餅を搗き、あるいは小豆飯を炊いて祝いごとをしていた。この二つの中間地帯、ことに天龍川の流域などは、田の神とは言わぬがこの日の神送りが近い頃まで盛んで、あるいはこれをコトの神送りとも呼んでいた。出雲への旅行をいう他の地方の神送りとちがうのは、ここでは一ヵ月過ぎての神迎えの祭というものが全くないことと、その神送りの式がよそでする虫送りや、病い神送りの行事とあまりにも近いことであった。ところが同じ天龍川も上流に溯って、信州の部内まで入って行くと、コトの神送りの行列その他は同じであって、日だけが十二月の八日と二月の八日になっているのである。
私の解したところでは、一年の祭の終りを神送りといったのは古い名で、それは至って丁重な行事であった故に、元は旧十月朔日の前後から、この十二月八日まで続いていた。然るに一方には遠くから入って来た恐るべき害をする神々を、祭ってなだめて送り返す式が始まり、それが都風の極めて花やかなものだったために、こちらは推されてだんだんと送るとは言わなくなり、たまたま残ったものは、その花々しい悪神祭却の式を真似するようになってしまった。だから神無月の終りの日、もしくは十一月の始めの日を、神迎えというには理由がなく、また現にそういっている者は少ないので、そこはただ一つの区切りであり、大祭の準備の一段と進行する時であった故に、何かかわった式が昔からあったのを、後世祭の日を早めてしまってからも、いつまでも忘れずにいたのかと思う。
神迎えという語が、もしも送りに対して用いられるとすれば、それは次の年の二月八日とする方が古い考え方であろう。佐渡の農村などは一帯に、二月上旬の一日を祭始め、十二月八日ではないが、その前後の式日を祭じまいとして、それに先だつ幾日かが物忌であった。暦の本が田舎に行き渡るまでは、昔の人たちは月の姿によって日を算えていたので、少しずつの日のちがいは出来たが、大体に初冬の十月十日までは亥の子の日に対して、二月は月始めの十日前後が、新しい稲作の支度にかかる日であり、同時にまた祖先以来の神の力を思う日でもあった。
今でも広く知られている二月二日の灸すえ日なども、これを考えると私たちには意味が深い。東北では二月のコト八日の次の日をヤサラと称して、八つの皿に濁り酒をついで祝い事をする風がある。この日を作始めという例は信濃にも石見にもある。丹後や因幡で春亥の子というのも、この二月始めの亥の日であって、共に田畠に出て耕作のまねをした。すなわちこれもまた民間の祈念祭で、この日こそ本当に、古来の神をお迎え申す日だったのである。
今でも国民の多数がただ何となく続けて、しかも自分でも意味がないと思っている折目の日が、冬の季節に入って特に多いのは、恐らく五節供の影響であろう。意味がないときまったら罷める方が正しいが、あるのを知らずにいたのでは、それを決することも出来ないであろう。年中行事の話などは、ただ珍しい話をきくというのが目的ではないが、ともかくも別に珍しくもないことを、話して見たところで始まらない。本当はどういうわけでと質問するような人に、その特に知りたがることを答えるのがよいので、その支度を私たちはしているのである。
冬の民間節日には、話して見たいものがまだ幾つかあるが、話が長くなるのでどうも全部は尽せそうにない。そういう中でも十月は神無月、神の祭のない月というのに、何故に祭をするかと不審に思われそうなのは、土地によって竈の神、いわゆる三宝荒神の祭もあるが、それよりも広く行われているのは恵比須講で、商業地区では正月にその祭をするのに、わざわざ農村では十月の二十日を講の日としている。講というのは多くの家族が合同して神を祭ること、ちょうど村社の祭も同じように、めいめい単独に家で営む場合よりも一段と信仰の強いもので、仮に他の節供を祭の外におく者でも、恵比須の祭だけはそうするわけに行かなかった。
実際また床の正面に絵像を掛け、堂々たる供物を上げ、また時々は庚申講などのように唱えごともあり祭の詞もある。いつからこういうふうに、特に十月を以て祭るという信仰が始まったものか。私の想像では、正月二十日の商人恵比須講の方が早く、それを農村の方に移すとすると、やはり十月の二十日が農民の考え方に、よく調和したのではないかと思う。古いことではないらしいが、恵比須さまのように雑然たるいろいろの言い伝えをもった神も少なく、それを綜合して見てもまとまったことは何もわからない。
たとえば恵比須は脚がお悪いから、また聾だから出雲の集会には出られず、それで留守番をなされるなどという。脚の方は神代記の蛭子をこの神としての推測らしいが、その事がすでに根拠はない。つんぼという一説も確かでないことは同じだが、社殿の後にまわって戸を叩いたり、または大きな声を揚げて願を掛けたりするのを見ると、何か今までの神よりももっと積極的に、進んで求めなければならぬ神、というような考えが下にあったのかもしれない。
恵比須を農作の神、ことに田の神と信ずるようになった原因は、この方面から少しずつわかって来る。この信仰はやや飛び飛びながら東西の諸国に行われ、土地によってはそれが大黒ともなり、海と陸との生産擁護をこの二つの神が分担し、または二神揃って農民の家に祭られたまうを見れば、これが中世の福神思想に基づくというまではまず疑いがあるまい。信州北部などの実例を見て行くと、これも在来の神を排除して、新たにこうした新神を迎えて来たのではなく、ただ幾分か田の神の機能を、恵比須風に解釈し始めたというに過ぎぬらしく、家を接し部落を隣して、同じ一つの神を田の神ともまた恵比須ともいう者が入りまじり、祭り方も大よそ元の通りで、大よそ東北などでいう宇賀の神に近く、表の神棚よりもむしろ勝手の方に祭場を設けている。
一つの目に立つ変化は、恵比須は田の神と同じように、春出て秋の末に還られるという説の他に、別になお十月の二十日に空の財布を持って稼ぎに出かけ、正月二十日にはそれを一杯にして還ってござらっしゃるなどと、戯れながらも語り伝える者のあることで、そういう農閑期の副業などの、もとはなかったろうことを考えると、これはむしろ雪国の冬場稼ぎの、わびしい内情を反映したもので、本来はやはり田の神の田から山に、還って行かれるという信仰を受継いだものであった。
しかし商業交易の保護神として、すでに福神のある程度の信仰が流伝していなかったら、突如としてこのような俗伝が、村に入って来なかったこともまずたしかであり、これが都会の地を経て入ったものにも、やはり一通りの順序があったことがわかる。もっと証拠を揃えぬと断定は出来ぬが、どんな漢字を当てようとも、エビスという語は外の人、よそから入って来たものという意味より他に、考えて見ようがない。最初海から上って漁業に携わる者の拝む神だったという通例の解釈が、事実に合するものと私には見られる。
漁民と農民との生産計画を比較すると、一方は土地を擁して安全である代りに、何等の意外な収益を予期することが出来なかった。これに反して他の一方は、危険と徒労とに曝されてはいるけれども、時あって莫大な利得を挙げ得たことは、昔は今よりもさらに著しい体験であった。以前は全く想像もし得なかった福徳の神を、仮に国外から学ばずとしても、自然と考え出さずにはいられなくなったというのは、一言でいうならば海の産業の進歩であった。釣がすでに麦飯で鯛という諺をさえ生んでいるのに、網にはそれ以上の運不運をひかえていた。商売も一歩近隣の交換から外に出ると、もう損得の別れは大きく、市には追々に見知らぬ人が寄って来る如く、遠くを心ざせばおのずから利益が多く、それにはまた危険も加わって来る。そうして島国の交通は半分は船に由っていたところから、漁民と似たような希望と不安とを抱いて、特に礼拝する者だけを富ましめるというような、エビスの信仰を共にすることが出来たとも考えられる。
百姓はこの両者とはちがって、予測を超えた農産は望み得なかったろうけれども、人が増し開発が拡張すると共に、危害の種類は多く、またその力が強くなって来て、後々は所の神の昔からの約束だけに頼っていることが出来ず、やはり少しずつ福神の愛顧を受けて、仲間を追抜くような農作の成功を得ようという、いわゆる個別祈願の流儀にかぶれたものらしい。ただその風潮が新しいだけに、これをめいめいの家の田の神と全く別の神とまでは考えず、稲の収穫直後の感謝の祭を、大よそ同じ時期に営んでいたのだが、その祭の式ばかりは、いつとなく商家の恵比須講に近くなって来た。それを農民の商業化と、見る人があっても致し方はないのであった。
もとは一続きの大きな祭であったものを、こまかく幾度にも切離して、それぞれにちがった心持、または目的を以て節供をするという傾きは、田植の頃にも現われていたが、ことに冬の期間には著しかった。それは世の中がせわしくなって、永い日数の慎しみが守りきれなくなったためもあるが、また一つには人間の心がかり、願いと気づかわしさがだんだんに種類を増して来たからであった。今まではよけいな取越し苦労をしなかったというだけでなく、実際にまた弊害も次第に多くなって来た。
火事などは眼の前にその大きな不幸を見た者が、たいていは秋葉愛宕を信心し始め、または村限りの火事の年忌を設けたりしている。旧十一月の十五日を油祝いというのも、この月油をこぼすと火に祟るという俗信があるのを見ると、やはり火災を免れようとする特別の祭になっていたのだろう。関西では寒の入りに油ものを食べぬと凍えるというだけだが、東北は一般にこの日を油しめといって、始めて種油を搾らせ、それを使っていろいろの食物をこしらえる。必ず神に供え、またそのことを女たちの神事というのを見ると、元来はもっと大きな目的のある日だったらしい。
旧十二月の朔日は六月の朔日と相対して、今でも水と関係ある一日であった。土地によって差はあるが、いろいろ意味の深そうな作法と言い伝えが残っている。水の恵みは稲作国にとって、忘れ難いものであり、以前は専らこれを田の神の神徳として礼讃したのであろうが、今ではこの両日とも水の災い、ことに川童の害をよけるというような方へ、傾いているのは変遷である。六月は水のついたち鬼の朔日、または衣脱ぎ朔日とか剥節供とかいう類の、由来を考えて見ると面白い名称も多いのだが、結局は昔から定まった食物を調えて、静かに話でもして休む日であった。
十二月もこれと同様に、必ず餅を搗いて神に供え、また自分たちも食べることにしている。九州の一部でネバリモノの朔日、その他流れ餅だの川飛び餅だのというさまざまの異名はあるが、いずれもこれを食べぬうちに川を渡ると、水の霊に取られるという俗信を伴ない、あるいは腹一ぱい食ってから後に、わざわざ流れに尻を浸しに行くという処もある。中国地方などは数県にわたって、膝ぬり餅という名が今もあって、この餅を膝にぬってさえおけば、川を越してもあやまちはないと言っている。いくら悠長な時代でも、これただ一つのために一つの年中行事を設定した気づかいはまずないのだから、何かもっと強い理由が別にあったと思う。
私たちの心づくのは、この二度の朔日には、共に前からの準備があった。ことに十二月の方は数日にわたって、普通でない日が前にあり、土地によってはそれを忌ともいっていた。そうして他の一方には両月とも、さらに大切な節日がその後にまた来るので、六月は七日と十五日、十二月は八日と十三日とが、今なおよく知られた行事の日であった。月の盈ち欠けを目標とした太陰暦の時代には、朔日くらい目に立たぬものはなかったろう。よほどそのつもりで気をつけておらぬと、今日から月がかわるということを知らずにいる。そんな月を目あてにして、節折目を設けるということはしない筈である。すなわち前月の末の近く、未明に起き出して眉のような細い月が、まだ東の山に残っている頃から、気をつけてかぞえていなければならぬ日であった。
暦が小さな本または一枚刷りになって、端々の村にまで配給せられ、そこに幾人かのそれを読んでわかる者が出来てから、年中行事の統一は急に進んだのだが、そうなったのもあまり古いことではない。私などの小学校にいる頃までは、年始状には必ず千里同風という言葉を使わせられた。国の四方の端々まで、ちょうどこの同じ時刻に、人が互いにおめでとうと言っているだろうと思うことが、一段と正月の元日をめでたくした。そうしてまた今まではまだ心づかずに、そこでもここでも同じ日に、同じような事をしていたのだったと知ることが、さらに一段と私たちを楽しくしたのであった。それを近頃になってはまた再び忘れようとしている。
正月という言葉の人望は、大したものであった。中世には恐らくまるでなかったことだろうが、正月は年の始めの一月の名ではなくて、近頃はすべてこの月中の特にめでたい一日を、片端から正月と呼んでよいことになっている。例は挙げきれないが、少しかわったものだけでも、立春の日を神の正月、正月十六日の御斎日を仏の正月、女の正月というのは正月十五日、または同二十日をそういう地方も多い。
小正月というのは家々の正月、すなわち以前の正月という意味らしく、奥羽から越後などは一般に十五日をそういっている。この日を花正月というのは関東の各地、対馬でこれをまたモドリ正月カエリ正月ともいうのは、立返ってもう一度の正月ということであろう。実際またこの日を元日よりも大事にして、いろいろの忘れ難い行事を、今でも満月の頃に集注している村は決して稀でない。
正月十一日を、田打正月と呼んでいる地方は広いが、これは私には新しい流行かと思える。それよりも異名の多いのは二十日正月で、その名の由来についても、土地ではともかくも説明があり、それを比べて見ると、内容の互いに似通うていることがわかる。つまりこの日を祝わずにいられぬ気持は一貫していて、力の入れどころが少しずつちがっているのである。そういう中でも中国地方でこの日を松栽えの節供、関東の周囲で綱打ち節供、または東北の端の三県で、メダシの祝いなどというのはまじめで古風だが、他の多くの何々正月という類は、どれもこれも皆少しずつふざけている。
話の種に三つ四つの例を挙げると、関西方面で広くいうのは骨正月かしら正月、これは二十日になるともう正月の肴も尽きて、残った骨を食べる日という意味だそうである。中部地方で乞食正月またはヤッコ正月というのも同じ意味らしく、あるいは糟の飯などといって、この日正月の食物の残りを皆集めて、食べてしまうことにしている土地もある。正月の四日に福入雑煮という名で、同じようなものをこしらえる風が、東京などにもあったのを見ると、二十日は多分十五日正月の方に対するものだったろう。その他トロロ正月だの麦飯正月だのと、どんなまずい物でもこの日は腹一ぱい食べておかぬと、一年中ひもじい思いをしなければならぬというなども、起りは一つだったかもしれない。つまりは食べることが儀式の中心でありながら、それがそう大した御馳走でないという所に、こんな名を付けるもとがあったことは皆似よっている。
それからなお進んで、正月の終りの日をミソカ正月、または末正月という名がある。その翌日の二月朔日はことに名が多く、並べ正月、重ね正月、二正月ともヒシテ正月とも、またひと日正月ともいう処があって、この一日だけが多くは休みであった。太平洋に面した奥州一帯には、これを蔦の年越とか、小松正月とかいう名が残っているが、その意味はまだはっきりしない。私などの想像では、もとは二月の八日という日の節供のために、もう前月の末から準備を始めたことが、この日の儀式の目的だったかと思うのであるが、後々二つの日を引離して、特に朔日の方を重んずるようになったらしい。
二月一日を太郎のついたちというのは、やや古い頃からのことであって、これは暦のまだ行き渡らぬ前に正月十五日の満月の晩を、年の境にしていたことを考えると、すなわち一年の最初の朔日というわけで、少しも不思議のない話なのだが、後にはわからぬ人が多くなったか、東京近くの県では次郎の朔日という人が多く、あるいは太郎次郎の日とさえ呼んでおり、これに対して十二月一日を、オトゴの朔日という名も方々に出来、この日は特別に末の子のために、餅を搗いて祝う日だと、いうような言い伝えまでが新たに生まれている。
小さな末の子たちがこの話を聴いて、うれしくまた忘れ難く、思ったろうことは疑いがないが、前に膝ぬり餅のところでも述べたように、旧十二月の朔日は今一段と大事な日で、これも二月と同じに、やはり八日の節供に対する心構えの日ではなかったかと思う。関西方面に比べると、東北は一般にこの日には冷淡なのだが、それでも仙台市の周囲などでは、この日を水こぼしの朔日、または水こぼし正月ともいい、子供のない家でも餅を搗いて祝った他に、炉の四隅に串に生豆腐を插し立て、それへ水を掛けて火防のまじないとする風習は、まだ広く行われている。十二月のある日を正月というなどは、字を識った人にはおかしいだろうが、それも節供という日が限定せられて、ちょっと代りになるよい言葉がなかったからであった。
春は桜の咲きそろった頃に、家中村中が誘いあって、見晴しのよい岡の上などで、べんとう持ちで一日遊んで来ることを花見正月といい、または田植に待ち焦れた雨の降った次の日を、シメリ正月などといっていたのは、まだ正月よりも楽しいからと、いうような意味もあったろうが、千葉県南部などのミアリ正月は旧十月、亥の子の日のことであった。十二月は前にいう水こぼし正月の他に、さらに第一の巳の日を巳正月、または巳午正月という例もある。主として四国の四つの県に行われているが、これはその一年のうちに亡くなった人々のために、墓場の前に集まってする祭であった。この日も定まった食物を調じ、人が共々に食事をすることは同じだが、一名を死人の正月、新仏の正月ともいう位で、ちっともめでたくはない正月であった。多分は世間と共々に、普通の正月をすることが出来ないので、日をくり上げて自分たちだけの年越をしようというわけだろうが、そうしてまでもなお一年のある日を、空しく過すことはしなかったという点に、遠い昔からの節日節供の、根本の気持は窺われるのであった。
盆の七月の七夕という日に、二つの星が銀河を渡って相会するなどという話は、書物を読んだ人が知っているだけで、数からいうと十分の一にも足らぬ人がそう言ったのである。多くの村々の年中行事は、実は近頃までそれとは無関係に行われていた。大体からいうと、墓薙ぎ盆道作りなど、十五日の先祖の訪問の待受けに力を傾けていたが、同じ序を以て井戸替え虫払い、この日の水で洗うと汚れがよく落ちるといって、女たちは必ず髪を洗った。七夕送りと称していろいろの好ましからぬものを送り出し、盆を清らかな日にしようとしたことは、正月前の煤払いともよく似ている。その中でも眠流しまたはネブタ流しというのが、これからそろそろ始まる夜仕事に、坐睡りの出ぬまじないだったことは、前に信州随筆という本に詳しく書いておいた。
そういう中でも子供に楽しみだったことは、この日は一日中に七度水を浴び、七へん飯を食うものだといって、それを守ろうとする子供はもちろん多く、今でもこの言い伝えはほとんど全国に行き渡っている。野蛮な話だなどとインテリさんは笑うであろう。または食べることにしか楽しみがなかったのは哀れだと、同情する人もあるだろうが、実はこの日は他にまだすることが幾らでもあった。それを忘れないで毎年正しく、くり返すために、この変った食事のしかたが目標としてよく覚えられ、偶然にそこに古い事が多く残っただけである。餅でも粢でもまた豆腐でも、珍しいからうまくおいしく、またなるべくうまくしようと親たちは努力することにもなったろうが、それはいわゆる口腹の欲を満たそうがために、企てられたものでないことを考えて見なければならぬ。
私たちの食物の好みは、すでに今日は著しく変っている。甘く柔らかく温く、またおつゆの多いものがだんだんと増加しているが、節の日の食物にはそういうものがごく少ない。正月にはことに歯で咬み砕いて、米嚼みのくたびれるようなものが多かったが、それ等はことごとく不人望になり、しかも人間の歯はあべこべに、もとよりも悪くなっている。
節供はただ単に、進んでうまい物を食べる日ではなかったことをいうために、ここで私はいろいろの餅や団子の名と、それをこしらえる日との関係を、列記して見ようと思っていたのだが、その片端は前に出してもいるし、読者自らも指を折って、かぞえてみることが出来ようからもう省略する。ただ何とかして一ぺんは考えて見てもらいたいことは、これ等の食物の多くは手が掛り、また相応の支度のかかるものだったことである。
米しか作れない新田場は別として、以前の村方では米はそう食わなかった。主食とはいってもよいが、常食ではなかった。正月や祭の日に米の飯を食べるためには、籾から米にするまでの仕事が女の役だった。それを粉にはたき、または蒸し上げて、餅や強飯を調整するのには、男が参与するようになってからでも、なおなかなかの時間の費えがあった。よほどの便法が採用せられぬ限りは、これをふだんの労働の日に、もって来ることはとうてい望めなかった。倹約ということを強いられるような時代でなくとも、やはり農家では種々なる食料を取合せて、ふだんの簡単な食事に当てていたのである。それ故に節日時折は興奮であり、また大きな期待であった。これを古風だなどと嘲ることは出来るか知らないが、今ある農法と労働組織を改めてしまわぬ限り、この状態はなお続くであろうし、またそれが田園の生活を、外で思ったほど単調のものたらしめなかった、隠れたる理由でもあると思う。
新しい祝祭日法は、こういうことまで気がついていたのかどうか確かでないが、ともかくも日本の農民は、今までは外からばかり描かれて、自分で自ら知るということが少なかったために、批判の力の不足が、こういう時代になると顕われるのである。毎年毎年きまったことをしていて、変化のない生活だと人には言われるが、それは遠い昔の話で、現在はいかに変えまいとしても、世の中がもうそれを許さない。天然も環境も次々に刺激を与えて、むしろ生活の安全を妨げようとしているのである。そうしてまたこの変化に対処するだけの平生の覚悟が、まだ新たに養われる機会がないのに悩んでいるのである。
これに対して一方に個々の各一年内の生産作業は、単調どころかこれくらい日に変り、また幾つもの節日行事を以て、鮮明に区切られ色どられた生活も稀なのである。工場の日々こそは単調であって、そこに入った者は皆回顧して、若い日の変化の多かった一年をなつかしがっている。ただ中心を食事の共同においたこれまでの節日の考え方が古びて、一方地を異にし業を異にする人々との提携が得にくい故に、何か新たに時代に適応した改正がほしくなっているのである。果して今度の休日制定が、十分にこの要求に答えたかどうか。それを判断すべき者が、あまりにも今はまだ心付かぬことが多い。
それを私などは理論でなく、何か簡単な小さな事実から、いかにもそうだったと思わせるようにして見たいのである。餅と団子とはどこがちがうかということなども一つの問題になる。双方ともに節の日の食物として作られるが、一方は粉をこね、他の一方は粒を搗いてつぶすものに、限るかというと必ずしもそうでない。杵が今のように大きくなるまでは、餅も粉にしてから搗くのが普通であり、粉も挽臼の普及するまでは、やはり水に浸してから臼に入れて搗いていた。一方は仏事に、一方は神事にという風に考えている人もあるが、これなども必ずしも事実と一致しない。
誰でも知っている一つのちがいは、餅には鏡とかオソナエとかいって、大きな円い一重ねを作るに反して、団子は一粒二粒といって数多く、めいめいがほしいほど取って食べる。これが古くからの餅の用途であり、団子は新しくて、もうその伝統をもっていないという点かと思う。節の日の食物としては、一人もその分配に洩れないのはもちろんだが、そういう中にもおのずから目ざす人、または中心というものがあって、これだけは是非ともここへと、最初からきめておくことが、団子には見られない特色のようである。
神におそなえの大きいのを上げる外に、もとは正月には身祝いと称して、一人一人にもやや小ぶりな鏡餅をすえ、それでまたオスワリという名もあった。近頃はそれを省略して、一家共同の大鏡を一重ね、床の間に飾って見ているようにもなったが、それでも関西では雑煮の餅は円く、餅は円いものという概念はまだ消えてはいない。ただその小餅がいよいよ小さく、数でこなすという点が団子と近くなって、後には切餅に作る風が一般化して来たのだが、今でも東北地方に行くと馬の餅・臼の餅・鉈の餅などと、家畜にも家具にも人並みに、それぞれの円い餅を供している。つまりはこういう気持のいい配給の出来ることが、モチというものの早くから、めでたいものと見られた理由だったのである。
これはあるいは私の考え過ぎかもしれないが、この鏡餅の分配が省略せられ、もしくは大小が目に立ち中心が出来るようになって、イワウという日本語の意味が、だんだんと今風に変って来たのではないかと思われる。古い書物を見てもまた字引を引いても、イワウという語には人のために喜ぶというような意味はない。むしろ彼も我も共同して、神を祭るというようなある一つの厳粛なる機会に臨む心構えがイワウであり、今の言葉で言えば精進とか、潔斎とかいうのがそれに近かった。然るにいつの頃よりか、それはイマウとかイモウとか言い分けて、こちらはただ他人の喜悦に共鳴するような場合に使うことになったのは、かなり大きな変化と言わなければならぬ。
餅を今でもイワイという処が多いのは、イワイの食物という略でもあろうが、事によると特にある人の前にすえられたのが大きかったので、イワイはその人のために言い現わすべき感情だと、解するようになったのかもしれない。誕生とか初節供とか、または老人の年祝とか、餅がある一人のために特に大きかった場合は多い。もとはそういう日も一同のイワイだったのが、後にはその空気の外から遣って来て、やたらにオメデトウという者が多く、結局は祝祭日などと言っても、何が祝いなのやら、判らなくなってしまったのである。
メデタイという言葉も濫用せられている。本来は好ましいまたは結構な、人が共同してイワイをしている静かな和やかな状態を、互いに評し合う形容詞だったのが、社交に用いられて甚だ空々しくなった。一休和尚以来、おれにはちっともめでたくないなどと、つむじ曲りなことをいう者が多くなっては来たが、ともかくも正月はめでたいものと、きまっていた所に年中行事の意義はある。よその国々でも大体に同じだったと思うが、この統一した「めでたさ」を作り出すためには、単にめいめいの心の持ち方だけではなく、別に古くから定まった法則によって、自分の行動を制限する必要があった。
土地によってその慎しみの箇条はちがうが、大体に毎日の常の業務から遠ざかり、何もしないで遊んでおればよかったので、結果に於ては休息と同じ場合が多く、この義務は守るに難くなかった。しかし世が進み生活の事情が変って、節日でも働きたい、働かずにはいられぬという人が多くなると、問題はまた別なものになって来るのである。遊んでただ餅を食うだけでは節供でなく、もちろんイワイとはいうことも出来なかった。それと同じように、節供を常の日の如く働きつつ、餅だけは食おうとする者も、以前は許さなかったが、今日はもうどうすることも出来ない。
祝いと休みとは起りは全然別なものだったけれども、その日仕事をしないという末端だけが似ている故に、近頃では境目がはっきりとしなくなったのである。沖繩の島などでは、オマツイ(御祭)の日に働く者は、ハブに噛まれるという俗信が近い頃まであった。かつてはこちらでも、それは堂々と非難してよい行為だったのだが、その戒は次第に弛んで、ただ惰け者の節供働きという類の、ひやかしの諺ばかりが残っている。今日となっては、祝祭日という言葉ぐらいが、幽かな古い痕跡の保存であった。日曜というものの歴史がこれに近いことは、宗旨の人でなくともまだ知っている者があるが、祝いの感じは私たちの間でも、もうめったに考えて見ようという人はなくなっている。
終りにもう一つだけ、祝祭日の「祭」という語のいわれを考えて見よう。祭の範囲は今日はやや狭く、神社で行われるものに限るようにも見えるが、もとはめいめいの家において、または村や部落の共同の下に、社地以外の場所で営む祭が、数においてはかえって神社の祭よりは多かった。単に言葉が双方同じというだけでなく、よく視ると様式にも共通のはっきりとしたものがあった。それを二つは別々のように、取扱うことになったのにも事情はあるのだが、とにかくに祭日という言葉の意味が、これによってたちまち不明になってしまった。
我々の祭の日の中で、一ばん全国的なものは盆の魂祭であろう。これは早くから仏寺の管掌に属し、従って仏教によって解釈せられ、国の祭日からは除外せられていたが、それはただ一部の変化に止まり、事実はこれもまためでたい節供であり、人が集ってイワウ日であったことは、かなりはっきりと私は証明することが出来る。日本の東半分では、今でも盆の魂祭に対して、暮にもう一度ミタマ祭というのがあり、この方は全く仏教との交渉がなく、清らかな米の飯を調じて、祖霊に供しまた自分たちもこれに参与する。ただ荒御霊と称して新たに世を去った霊魂のために、特別の作法がある点だけが、盆祭とよく似ている。つまりは盆の行事は、この方に力を傾け過ぎていたのである。
盆と正月との以外にも、大よそ祭のない節供というものは考えられなかった。家々の表の間には神棚といって、常設の祭壇が備わり、節日にはその前に集まって祝うことになっているが、以前は多分その日毎に、臨時に清い座を設ける習わしであったかと思う。神棚はまた信心棚とも呼ばれ、そこに新たに勧請した神々も多くなり、それにつれて今まで祭り来った節日の神様にも名が出来た。正月に祭るのを年神または正月様、盆には盆さまといい、また盆神とさえいう者がある。その他春の農事の取掛りには、オコトと称してコトの神を祭り、秋の刈入れがかたづくと、十月亥の日には亥の神を祭るなどと、日により場所についてそれぞれちがえて神の御名を呼んでいる。
そのようにまでいろいろの神があった筈はなく、すべてが家の神、恐らくはまた先祖の神だったろうと、私などは思っていたのだが、人はあまりにも一般の慣行にたよりきって、この徐々たる推移には気づかずにいた。そうして一方には神社の祭る神の名を、是非とも歴史の書によって確定しようとする、新しい神道が起ったために、ここに二つのマツリは二通り全く別なものであるかの如く思う人を多くしてしまい、祝祭日というものの根原が、また一段と尋ねにくくなったのである。
大きな神社の祭日は、近年神職たちの手で改定したものが多いけれども、気をつけて見てゆくと、最初はほとんど皆民間の年中行事の日であった。その日は家々でも祝いまた休み、必ず定まった食物をこしらえることは、これも祭の日が改まって後までも変らない。つまりは祭礼も重要な節供の日ということが出来るのである。節供は五つと公けに限られてからは、これと祭礼と対立するもののようになったが、それでも旧九月の九日前後を、祭日とした神社が数において最も多い。そうしていろいろの変った催し物のない社はたくさんあっても、この日新穀の餅強飯を調じて、ささげかついただくのを、祭の楽しみの中心とせぬものは一つだってない。マツリという語のもとの意味が、もし私などの考えているように、マツラウと同じであり、侍坐とか勤仕とかいう点にあるとすれば、それはかえって家々の節供、または村々の小さな社の祭において、今も厳粛に守られているのであった。
まだ気づいていない人は多いようだが、節供の食物の条件は、原料の精選と製法の念入りとの他に、これを分配する様式の特殊な点にもあった。今でも子供の間にはその感覚が伝わっているが、食物を家から外に持出して、広い処で集まって食べる楽しみなどは、もとはこういう晴れの日の行事であった故に、印象が深かったのである。そういう中でも三月の節供は、関西は一円に、また関東の方でも飛び飛びに、海辺や岡の上に豊富なる食物を運んで行って、終日遊び暮す風習は現在もなお続いている。それも一つの祭であったことは、磯祭または瀬祭などの名が、各地にあるのを見てもわかる。盆にも盆竈辻飯等の名を以て、この屋外の食事が全国に行われている。成人はもう手を引いてしまったが、それでもこれをただ子供の遊びとは見ないで、外から世話もすれば、またこの食物の精神的効果をも認めている。
正月は寒くて外に出にくい季節なるにかかわらず、雪国の方ではかえって雪の小屋などを造り、その中に集まって食事をする風習が多い。盆にももちろん盆小屋を作る土地があるが、正月小屋の方がそれよりももっと盛んで、この多摩川両岸の村々でいうサイト小屋なども、前年私の見たものは三坪もあり、子供はその中で神を祭り、食事をし、また一晩はここにあかした。すなわち成人のオコモリと同じである。
もとは神社の方でも常設の社殿のないものが多く、祭の度毎に仮屋をかけて、こうして忌籠る例が幾らもある。ただ小屋を掛ける場所だけを、霊地として保存していた故に、ヤシロという語が残っているのである。子供らしくはなったかも知れぬが、古来の祭の心持は、むしろ年中行事の方に大切に守られていた。それを飛んでもない所で区画して、他の一方を無視したから、今は一段と根原が不明になったので、祭はもう一度、改めてこの側面から、見なおす必要があると、私などの考えている理由はここにある。
我々の年中行事が、国の固有信仰の進んで来た跡を、保留しているのは当り前の話である。そうでなかった民族は恐らくはどこにもあるまい。それを根こそげ抜き棄てようというのならば、また一つの議論として成立つだろうが、これほど明々白々な民間の事実にも気がつかず、ただ今日いう所の何々サイという類の催しを以て、国民を統一し得られると思うようだったら、祝祭日という名称の如きは、むしろない方が害が少なかろう。
これは正直なところ、明治以来の祝祭日とても同じ憾みがあった。せっかく公けの力を以て制定して渡しても、それはまだ国民多数の感覚と一致しない故に、知らん顔をして彼等は働いていた。一ばん困ったことは暦のくいちがいで、節供に最も重要だった季節の感は消え、月の形を見てきめた古い約束も無視せられて、あるいは中暦という一月送り、またはなお内々に旧暦を用いて、古い仕来りをつづけていた人が多く、七十何年は乱雑の間に過ぎて来た。今度もし新たに風習を作り出そうというのならば、少なくとも私たちの生産を制約した天然の条件を考慮に入れて、せめては月と盆踊、五月節供の柏餅と、柏の葉の伸び方の関係ぐらいは、喰いちがわぬようにしたいものである。
正月元日というたった一つの例を除けば、都会で設け出した年中行事などは日本にはない。そうした都会で始まった生活を真似するのが、すなわち文化だと思うような考え方は、もうたいていこれからはなくなって行くだろう。人を指導しようという賢い人は、やっぱり本当に賢くなくてはだめだと思う。
これまでの歳時記に載せず、従って多分まだ句にはなっていない生活の俳諧を、心がけて自分は少しばかり集めている。全国同好の士の参加を求むべく、ここに若干の見本を並べておこうと思う。正月はもう過ぎたから、その十六日から始めて一まわり、四季の順を追うて書いて行くことにする。
正月十六日を「にお積み」というのは、羽後の雄物川流域などの風である。ニオはすなわち稲村のこと、中央部でスズミともスズシともいうものと同じであって、この日新たにこれを積んで見るのは、秋の豊饒を祝する意と思われるが、今はもうそういう手数をする家も少なく、ただ朝から一日ゆっくりと休んで、炬燵にでも入って寝転んでいるだけだそうである。同じ秋田県でも北隅の鹿角郡あたりでは、所謂ニヨチミは同じ日に、子供が相撲をとって遊ぶことのようにも解せられている。すなわち大きい者が彼等を抱えて、ごろりと横に寝かすのをニヨーチンダというのだそうだが、これならばなるほど稲村に稲束を積み上げるのとちとばかり似てもいる。
江戸大阪の昔の正月言葉で、稲積むというのが寝ることであった意味は、これに比べて見てほぼ明らかになる。年の夜は夜籠りをして寝ないのが古来の習わしであった。それ故に寝るという語を避けて言わず、それもまた睡眠のイネに掛けたのも言葉の綾であった。しかもまた現実に貯えの稲束を出して、庭の上に飾る風がもとなかったら、こういう思いつきの軽妙な隠語も、そう易々とは生まれて来なかったのである。岡山県の小田郡などでは、旧正月の三が日、朝祝をすませてから後、戸をしめて寝ることをイナグロを積むといっている。イナグロもやはり稲積みのことを意味するあの辺の方言である。同じ県でも美作の西部では、正月朝寝をすることを大グロを積むというそうである。やはり春早々の自由な無作法を、めでたく言い直そうという趣意から出ている語かと思う。
正月松の内は仏いじりはせぬようにしている。それを新たに始めるので、十六日は意味があったように思われる。中国四国のかなり広い区域では、この日を仏の正月といい、あるいはまた「念仏の口あけ」ともいっている。これに対する「念仏の口止め」は、多くの地方では暮の二十五日ごろであった。九州の島々には、正月十六日を鉦起しという例がある。この鉦もまた念仏のために叩くもので、日は少しずつちがっても、近畿地方にも正月第一回の念仏講を、鉦はじめというのは通例である。
淡路の島では十六日を「真言始め」といい、鉦はこの日までは鳴らしてはならぬことになっていた。越後の東蒲原の山村にも同じ日を後生始めといい、前年十一月からこの前日まで、鉦を叩かぬ習わしがある。沖繩の農村でも同じ日をミイグショウ、すなわちまた新後生の日といって、新ぼとけのために燈籠を上げた。東京でこの日をオサイニチと呼び、あるいは餓鬼の首だの地獄の釜の蓋などという名が各地にあるのも、正月仏事を抑制していた名残に他ならぬと思う。
正月の二十日には、土地によっていろいろの名がある。骨正月という語は近畿地方から、九州にかけて最も広く行われているが、これは正月用意の懸けの魚ももう終りになり、この日はいよいよその骨を卸して食べてしまうからの名と解せられている。実際骨叩き・骨おろし・骨くずしなどと名づけて、残りの魚を入れて雑炊を作ったり、大根などと共に煮て食う風も処々にある。北陸一帯から飛騨にかけては、この日を乞食の正月・ヤッコの正月、またはこれと近いいろいろの名で呼んでいるが、その意味はまだはっきりとしない。あるいはこの日ひもじい思いをすると、一年中食に飢えるという処も四国などにあるのを見ると、むしろ粗末なものでも思い切って、飽食すべき日ではなかったかと思う。
「正月二十日の棚さがし」という諺は、ずいぶん広い区域に亙って聞くことだが、これは必ずしも食えるものを掻集めるというだけでなく、この日正月神の年棚の飾りものを、いっさい取卸して始末することらしい。たとえば粟穂稗穂の餅を食ってしまうことを粟刈り、繭玉の餅を食うのを繭掻きもしくは繭ねりというの類である。しかしなおその以外に、麦飯正月と名づけて麦飯をうんと食い、あるいは出雲の大原郡のように、麦畠の上に蓑をしいてその上に転がり、
という唱え言をするのを見ると、乞食にまで正月をさせるほどの、食物の豊かなるべき日であったことが察せられる。信州の上田付近で、正月二十日をダマリ正月といい、この日は一日黙っているがよいという理由はまだ判らぬが、あるいはこの飽食の風と関係があったのではないかと思っている。この辺では恵比須講がやっぱりこの二十日で、恵比須様はこの日を済ませて、再び旅へ稼ぎに行かれると言い伝えている。
まだまだ多くの名称が正月二十日にはある。奥羽の一帯に古くから、この日をメダシの祝といって女の遊ぶ日になっているが、その趣意はまだ私には明らかでない。陸中の遠野ではこの日を麻の祝と名づけ、早朝に背の低い女の来ることをいやがり、来ると松の葉でいぶして祓いをした。その松の葉をヤイトヤキ、またはヨガイブシといっていたのは、めいめいがこれを手に持って村中をあるき、
と唱えつつ、自由にどこの家にも入って、自在鉤のあたりまでも燻しまわったからで、ヨガとは日中のカすなわち蚋に対して、夜の蚊をそういうのである。このまじないは他ではたいてい節分の晩に行うが、こうして二十日を用いる例も稀ではなかった。たとえば阿波の鷲敷で、「香の口やき」と称し、この日長虫の入らぬ呪いとして、灰を家の周囲に撒いていたなども、他の地方で節分の日に行う蚊の口焼きという行事とやや似ている。佐賀県東松浦郡の山村に於て、同じ二十日を蜂の養生というのも、蜂のためにはちっとも養生ではなくて、かえって一年中蜂に螫されても負けないようにというまじないかと思われる。ヌストシバ(盗人柴)と称する山の木を伐って来て、やはり家の周りに立てまわすことをそういうのである。あるいはこれをまた盗人防ぎともいうのを見ると、この佳節を期して予防の効果を挙げようとしていたのである。
伊豆の七島で正月二十四日を大切な祭の日、また物忌の日としていることは、すでに多くの人が書いているから、そう詳しく受売りするには及ばぬ。ただここで注意したいことは二つ。もとはこの日に来臨したまう神が、非常に尊くまた力ある神であった故に、物音もさせず煙も立てず、戸を開けてはならぬ、海を見てはならぬと言って謹慎し、たまたま戒めを犯した者が罰を受けたという類の話があった所から、後にはかえってこれを魔神悪霊の如く、解する者が少しずつ出来たということが一つである。しかしこれは島々の言い伝えを比べ、老いて敬虔なる人々のいうことを粗末にしなかったら、今ある代官殺しだの海難坊だのという伝説が、新たに来て引付いたものなることは自然に察せられる。
忌の日・日忌み様・二十五日様等の名も一つの証拠であるが、カイナンボウなどという珍しい言葉までが、行く行くはまた一つの手掛りになるだろう。第二には正月二十四日を中心にした信仰行事は、島ばかりでなく内地にもあるということで、この両者の比較はもっと進んで行けそうである。今日知られている内地の習俗は、多くは愛宕さまの信仰に結びついている。毎月の二十四日に酒を慎しめば、火事の災難を免れるという言い伝えなどは、あるいは別途の発生と考えている人もあろうが、火の神は愛宕の祀られる前からあった筈だから、両者根本の共通は必ずしもなかったとは言えない。少なくともこういう習俗は他にも分布していて、島に発生したものでないことだけは確かである。
正月終りの日もハツミソカなどといって、普通の日とは考えられていない。厄年の男女が特に警戒する以外に、信州では鬼の目団子、もしくは鬼の眼玉と称して、三つの団子を串に刺し、戸口に插んでおく風もある。その説明としては二月八日の大眼も同様に、この晩は鬼が覗きに来る。そうして門口の団子を見て、おや人間は眼が三つあるのかと、怖れをなして帰って行くようにというのもあれば、あるいは節分に豆を打って潰した鬼の目を、こしらえてやるのだともいっていて、何れにしても話はよほど剽軽になり、子供ももう格別こわがってはいないが、以前はこれよりも、もっと現実に近い不安であったらしく、婆さんがこの晩団子を丸めるのを忘れていて、鬼に腕を抜かれたなどという話が、幽かに伝わっている土地も同じ県にはある。
旧暦二月一日にもまたいろいろの異名がある。太郎の朔日または次郎の朔日、中国地方でヒトヒ正月と称して、この日一日だけ正月の式を繰返し、あるいは送り正月といって半日年神を送るなどというのは、厄年の男女がもう一度年を取り重ねる習俗と、関係がありそうである。越後の中部ではこの日の行事に、米の粉を練って小狗の形をこしらえて戸の棧に飾り、または十二支の形を作り鴨居長押に引掛ける習わしがあり、犬の子正月の名はこれに基づいている。その団子の作り物は、二月の十五日までそっとしておいて、お釈迦様の供をさせるという処もあり、あるいは猫と鼠が喧嘩をして、涅槃の席に間に合わなかった故に、この二種の動物の形だけは作らぬといっている土地もある。
二月八日も、やはり危険な日として警戒せられていた。関東地方では一帯に、この晩人里を窺う怪物を一つ目小僧様、すなわち眼一つの恐ろしい姿をした者と言い伝えて、しかも様の字を添えて呼んでいる。下駄や草履を忘れて外に出しておくと、一つ目様に焼印を押されて、その主が病気になるともいうのを見ると、これは疫病神と想像していたので、現に奥羽や越後では、「疫神よけ」と称してこの日いろいろの行事がある。信州でも北半分は、唐辛子とか皀莢の莢とか、茱萸とか茄子の木とかの、かわった植物を門口に焚き、南の方へ行くと藁人形を作りまたは御幣を立てて、コトの神を村境まで送り出す。
コトというのはこの日の式のことである。目笊を高い竿のさきに括りつけて、表に立てておくのは広い風習で、西の方ではその竹籠に八日の餅を入れて上げるようだが、東京近くのはたいてい空っぽで、目籠の目の数の多いのに驚いて、一つ目が敗北して行くなどという者もある。栃木県の東部では、一つ目をまた大眼ともいい、目籠の竿以外に八日塔と称して、熊笹で祭壇を組んでその上に蕎麦を供える。卯月八日の天道花も同様に、祭の形だけは古くからの定めに従い、その説明が追々に変化して来たのである。
この日必ず何等かの変った食物をこしらえることは、全国の田舎の風といってもよいが、蕎麦は一部に限られ他の多くは餅である。かけ初めと称して子供が七歳になる迄、毎年この日には年の数よりも一つ多い餅を蔓にとおし、襟に掛けさせる習いが常陸にはあった。あるいは長男の初の八日だけに、特に丁寧な祝いをする例もあった。一つ眼の言い伝えが子供らしいのみでなく、何か最初から子供とは縁のある行事だったらしいのである。信州では辻の道祖神の祭をこの日行う例も多い。藁苞の馬に藁苞の餅を背負わせて、道祖神の前まで牽いて行って置いて来る。それを子供がほしがると自分のは棄てて、人の上げた分を持って還るのを、彼等は「組んで来る」といって、馬の交易のように思っている。
これは陸中下閉伊地方でいうことで、他にはまだ類例を知らない。二月九日は嫁が親里へ還って、一日ゆっくりと遊んで来る日で、家ではおまけに御馳走をして出して遣るのだが、土地ではこの日をオカタボンダシと呼んでいる。オカタは御方すなわち嫁のことで、それを追出す日といつの頃よりかいうのである。昔は女房をこの日でないと離縁し得なかった。この日追出された者は、どんなに詫び言をしても許されなかった。だから御方がほしければ二月九日の晩、四つ辻へ行けば幾らでも見つかったそうだなどというのは、後々言い始めた戯れの説明にちがいない。十二月の九日を大黒様の嫁迎えと称して、二股大根などを供えて祭をすることと、根原に何か関係のあることではないかと思う。
二月九日は東北ではヤサラと称して、八つの皿に濁酒などを注いで神を祭る日であり、あるいはまたこの日を女の悪日という処もある。いわゆるおかたが問題になる日は、正月十五日の尻はり尻つみ以外にも、五月四日の女の夜などがある。京都民俗志には棚おろしといって、暮の大晦日の夜一年中の小言を、ためておいて言う風習があったことを記している。同じ下閉伊地方でも、正月十六日の早朝、嫁が寝ているうちに蒲団を剥いで、丸裸にして尻を打ったという。それも単なる話らしいが、この日をイロハギというのは意味がありそうである。イロは婚礼と葬式の日に、女が着て出る晴着のことで、蒲団や寝間着のような尋常のものでない。
二月初午が早く来る年は警戒する。火事が多いとか虫が付くとかいうらしいが、それは一定していない。伏せ馬というのは指を折って日を算えて、指のまだ伏せてあるうち、すなわち五日までに午の日がある年のことである。これは十一月の寝犬起き犬なども同じように、単に記憶を助ける諺のような言葉であるが、特に午の日に重きをおく理由は、馬の神の信仰にあったかと思う。稲荷の社を初午に祭るのも、起りは京の稲荷山の山登りで、その日山中の杉の枝を折って来たということが、古い文学にもしばしば見えているが、それとよく似た風俗は今も諸国にあって、何れも皆馬の祈祷に馬を牽いて登ることになっている。蚕の当りを願掛けする信仰も、多分はこれから一転したものであろう。蚕はどういうわけでか馬と関係が深い。蚕の神様はいつも馬に乗っておられる。
二月十五日の涅槃の日に作る食物に、釈迦の頭だの、おしゃか様の鼻くそだのというのがあるのも解しかねるが、それよりもさらに縁がなさそうに思われるのは、信州などに行われるヤセウマという団子である。その名の起りは片手で握った形が、骨張った馬の背なかに似ているからだろうが、それを仏陀の示寂と結び付ける理由はなお不明である。あるいは元はただ二月の祭の日に作る団子で、むしろ馬の神の信仰の方に関係があったのではあるまいか。いわゆる痩馬の名は広く知られ、これをこしらえる日がまちまちであることから、私などはそう想像している。田植終りのさのぼりという祝いの日に、小麦の粉でこれとよく似た形の団子を作る土地がある。私などの在所では、それを「馬のせなか」と呼んでいた。
彼岸に日天様のおともなどといって、一日外に出て日を拝んであるく風習が、やや広く行われている。土地によって方式は少しずつちがうが、午前は日迎えと称して東に向って歩み、午後は日送りといって西の方へあるいて行く処もあれば、早天に家から東に当る霊場に行って日の出を拝み、それから南をあるいて日の入りは西の方で拝むという例もある。日天願などという名もあって、あるいは仏法に教えられたものかも知らぬが、多くの年寄りたちはこうすると身体が丈夫になるといって、まじないのように考えている。丈夫になることは確かだと思う。
三月三日の節供の日に、終日外に出て楽しく飲み食いして遊ぶ風は、ほとんと全国の隅々にまで行き渡っている。東京の潮干狩などもその一つの変化というに過ぎない。前年私は対馬の西北海岸づたいに、この盛んな磯遊びを見てあるいたが、女や子供が幾十組ともなく、手に手に重箱を下げてよい場所を見つけてあるく光景は、なごやかなものであった。それから尋ねて見ると九州一帯から瀬戸内海あたりも同様で、磯が遠ければ海の見える丘の上、または川の流れの辺りでも同じ遊びをする。奄美大島ではこれを浜下りといい、遠く離れて陸前の金華山近くでは磯祭、関東では単に子供の花見ともいうが、何れも日は三月の三日である。伊豆半島のある村では、女の児が雛壇の前に集まって、ままごとをするのを磯遊びと呼んでいる。
それから考えて行くと、雛の宵の可愛いい飲食なども、本来はまた野外の楽しみを移したものらしく、しかも天龍川や相模川の川沿いで、この際に古雛を送り流し、また正月に墓所に立てて置くタッシャ木という木ぎれを集めて、煮炊きの燃料としたというのを見れば、これは一つの定まった方式であって、単なる遊戯とは言われぬものであった。全体にこの日を気味の悪い、用心をしなければならぬ日のように、考える風はまだ残っている。家の中にじっとしておらぬ方がよいので、外へ出て日を暮すというのが元ではなかったかと思う。
旧暦三月十五日を、梅若様の日として休みまた神祭をすることは、東京付近の例だけを見ると、かの謡曲隅田川の影響のようにも解せられるか知らぬが、全体農民がそういう文芸に親しみ、これを記念する風習を一般化するということが、すでに信じにくいだけでなく、こことは全然かけ離れた東北の田舎まで、同じ行事の行き渡っている事実は、とうてい説明することが出来ぬと思う。仙台の「梅若のこと」という日はやはり同じ日で、四百四病を送れ送れと書いた紙を笹の枝につけて、草餅を添えて家のそばに立てる風が昔あったと、真山青果君の仙台方言考に出ているが、これなどまだ江戸風を真似たものとも想像し得られる。
しかし栗原郡誌を見ると、三月十五日の梅若さまは、今でもあの郡の村々には守られているとある。いわゆる信夫の惣太の浄瑠璃などよりはずっと前から、この日を梅若の供養という習わしがすでにあって、芝居はむしろ主人公の名前に、土地でよく知られた佳名を採用したものと考えられる。梅王子という神様は関東諸国にもあって、今ではたいてい菅原天神と結び付けられている。そういう名の起りは恐らくは春の末、すなわち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執って舞うことから出ているのであろうが、これがまた同じ季節の送り祭の一つになっていたとすれば、ここに美しい童児の死を主題とした、悲劇の結構せられる余地は十分にあったのである。
近畿諸府県を始めとして、北でも南でもこの日山に登る風習は広く行われていて、それだけは少なくとも仏誕生会とは無関係である。山を背後にした麓の里の春祭で、四月八日を定日とし、今は月送りの五月八日を用いるものが、数えきれぬほどもあるのはその名残と見てよかろう。天道花または高花などと称して、竹竿の頂に色とりどりの花を結わえて立てるなども、もちろん仏者は我が信仰によって理由を説こうとするが、私たちはこれを仏教以前からの古い仕来りと思っているのである。
それを確かめる方法としては、各地の言い伝えを多く集めて、細かに比べて見るのが尋常の順序であるが、寺方では夏花は盆のかかりまで、一夏中を通して立てておくというに反して、多くの民家では八日を過ぎれば卸して川へ流し、または乾かし貯えて雷鳴の日に焚いたり、牛が遁げた時のまじないに盥に伏せたりする。花に草鞋をくくり付けて、共に立てるなども山の神と縁があり、これを日天様に上げるという処も例は多い。東北地方の烏祭は、正月初めの山入りの日に行うのが普通だが、九州の南部に行くと、四月八日に同じような祭を営み、やはりこれをミサキ祭といっている。すなわち粢を藁苞に包んで、高い木の梢に引掛けておき、烏が来て持って行くことを念ずるのである。
この日の名称にもまたいろいろの変化がある。薩摩の甑島では「あめがた節供」といい、この日は必ず飴を食う習わしがある。越後も中頸城の漁村には「鰯の年取り日」という珍しい名があるが、それからやや北へ行くと一般に、もとは「藤の花立て」といって、晴着をして山に行き藤の花を採って来て、仏壇に立てる風があった。それを米山の薬師如来に上げると言っていたのも、同じくまた山から農作の神を迎え申す意味であったろうかと思う。
五月はおも月または神祭月といって、特に重要視せられる月なるにもかかわらず、その朔日を記念する行事が少ない。これは多分午の日の節供をくり上げて、月の初めの五日ときめた結果、三月も同様に、それと朔旦の祝日とが併合したものであろう。南河内でこの一日をワタシというのは、綿の植付けに取掛る日だからとも説明せられているが、四月の二十八日を天気渡しと称して、この日の晴雨を以て一年中の天候を卜する風も岡山地方にはあるから、あるいは別に何か意味があったかも知らぬ。
鳥取付近の農村では、五月一日を豆炒り朔日と呼び、豆を炒って神に供えるそうだが、その趣旨もまだ明瞭でない。壱岐の旧五月の三日をコザツケというのは、日吉山王でもいう小五月であろうと思う。それにもかかわらず、島では小座頭が流れて死んだからこの日は雨が降るといい、もし降らなければマガが天上するなどと言い伝えている。そうしてそのマガというのは何物か、もう我々には不明になっている。節供は良い日だから一層悪い霊を警戒する必要があったのだが、後にこの事情は混乱してしまって、何か怖ろしいものの来る日の如く、想像するようになったらしいのである。
五月端午の日の神と人との食物として、茅笹蒲茨等さまざまの葉で巻いた巻餅をこしらえる風は全国的であるが、別にある土地限りでこの日にする事が幾つかある。その中でかなり珍しい一つは、定まったある種の植物を以て、耳を掻きつつ唱えごとをする東北の風習である。山形秋田から津軽へかけての日本海側は、牛尾菜という草を必ず用いる。これと山の芋、またはホドの根か野老の根かを以て、耳の穴をさらえる真似をして、荘内地方では、
悪いこと聞かないように
よいことを聞くように
と唱える。平鹿郡に行くとこれを耳にあてて、えいこと聞かせてたんせと何遍もくり返すそうで、それ故にこの行事をエイコトキクとも呼んでいる。同じ習わしは秋田全県にわたって、もう百五十年も前からこの通り行われていたことは、真澄翁の多くの日記にも見えている。宮城県石巻などでも、元は長芋を三宝に載せて神に供えた後、その芋を耳にあてて「ええこと聞け聞け」という式があり、そのために今でも長芋を耳くじり芋といっているが、その日は五月の節供ではなくて、次に言おうと思う六月の朔日であったそうである。
前に並べた若干の例にもあるように、同じ一つの行事を土地によって、異なる日に行うことは珍しくない。たとえば豆まきを大晦日の晩に、農作の占いを小正月の夜分に、綱曳は盆にも八月の十五夜にもする処がある。一年に一度は必ず行うというだけが慣習であって、期日は外部の事情に応じて、いつの世よりか改めつつあったのである。すなわち暦法よりも年中行事の方がさらに古かったということが出来ると思う。
近江の農村の信仰生活には、不思議に多くの古風が遺っているらしいことは、過日彦根の講演でも述べて来たのであるが、今度長浜の会員三田村耕治君が調べて見ようとしているオコナイの風習も、その一例としてかなり興味の深いものである。滋賀一県のためにもまた総国の文化史のためにも、この行事の如きはすでに単なる注意の時期はすぎて、精細なる討査考察の階段に入っているのである。やがて公表せられる結果を待つ間に、今まで判っているだけを、声援の意味において書列ねて見よう。
始めて私たちが近江のオコナイの存在を知ったのは、雑誌「民族と歴史」八巻三号(大正十一年九月)に、近藤謙吉氏の小報告が出たときであった。湖北某村とあるのみだが、春秋の二度、村社において行わるる家内安全五穀豊饒を祈る神事で、春は一月から二月の間に行われ、この村の実例は二月十二日だとある。当日は米かしとて鏡餅搗きでいっさい女を寄せ付けず、男だけで餅を供えまた大いに食う。翌十三日は鏡番と称していろいろの余興があり、翌々日も宮参り、終って一年の総勘定をする。鬮で頭屋をきめ、酒食を中心とした村の集会であることは、関東のビシャとも似ている。
甲賀郡誌を見ると、ここでは現にブシャオコナイといっている村もあるそうで、あるいはまた宮オコナイ、寺オコナイという村もあり、柏木村では総オコナイともいって正月八日、その他も多くは年頭三箇日すぎて、山の口明けと同じ日だというのが湖北とは変っている。祭の周旋人は前年のうちに結婚した者で、未婚元服前の者はこの式から除外せられるというのは珍しい。滋賀県方言集には坂田東浅井の二郡で春祭礼をオコナイ、伊香ではオコナイまたはオトウというのが神事のこととあるのみで、期日も行事も記してないが、栗太郎勝部神社のオコナイは火祭で、大松明の柴に用いる榛の木が乏しくなったので、今はハゲシバリを代用していると京都民俗志にはあるから、名は一つでも式は村毎にややちがっていると見える。
オコナイがもと行法の義で、寺家から生まれた語であることはほぼ想像し得られる。紀州有田民俗誌によれば、この地方のオコナイも正月早々だが、お寺において祈祷が行われる。住民は各戸蕎麦大豆の若干量を紙袋に入れて持参し、帰りには牛王福杖などを貰って来て耕地の端に刺す。ただその日その後で御狩を行うと、有田郡年中行事にあるのが、少しばかりかわっている。和歌山から程近い紀三井寺のオコナイも、正月三ヵ゛日と十八日とに行われる。ここでは村の青少年が白衣を着て、ゴロ(木洞)の霊仏を奉じて本堂の外縁廻廊を練行すると、社会史研究九巻一号に出ている。
伊勢の津の観音堂の二月十七、八日の法会は、たしか修二会といって古い本にも多く出ているが、土地では津のオコナイということが、沢田君の五倍子雑筆に見えている。鬼を床下から引出して杓子で押える式だそうである。村の郷社の行事でも、かつては法師が参与したものが多かったので、双方を通じてこの名で呼んだのであろうが、その実質は決して仏教によって導入せられたものでないと思う。
奈良県では吉野郡野迫川村北今西の不動さんで、これも旧正月にオコナイが行われたが、これは村人が源平に分れて綱曳の勝負をする式であった。大阪府では泉南西葛城村が近江甲賀と同じく、正月八日の山の神祭をオコナイといっているが、その日山から伐って来る木を、やはり寺風に牛王杖と呼んでいる。京都府でも小塩山十輪寺の正月十四日のオコナエというのが、他の地方にもよくある道祖神社の祭であった。京都民俗志によれば、もとは村民中三人の長男十六歳以上の者、麻上下を着て寺に参り、この社に出て式を行ったという。
オコナイというのは古語であるが、これを普通名詞に今でも用いている処は少ない。私の知る限りでは、壱岐島の続方言集に祈り呪うことをオコナイ、信州の南端遠山地方では、修験者などの手で印を結ぶことがオコナイだという。静岡県方言辞典を見ると、遠江磐田郡で、オゴナイというのは猿楽のことだとある。これなどは少し変化が甚だしく、あるいは別の語からとも考えられるが、やはり春の始めに行われる祭の式に、天狗の面などを被って踊る演伎があったからで、そのために同じ郡では天狗をオコナイ神といい、天龍川対岸の三州富山村の熊野社でも、火のう水のうの二つの面を、オコナイ様またはオクナイ様というそうである。
以前遠野物語に出て有名になった陸中のオクナイ様は、家々の神ながらオシラ神とは別のようにも説かれているが、羽前荘内地方のオコナイ様は、ほぼ精確にオシラ神に該当している。これは秋の末に子供たちの手に持って村内をあるく神で、この祭がまた一種のオコナイであった。それを土地の学者だけが、藩公酒井宮内大輔の遺徳を記念したもので、すなわち御宮内様が正しいなどといっているのである。
一 農村の式日の中でも、ことに三月三日の慣習には古今の変化が甚だしかったのではないかと思う。そう思う理由は、土地によって行事に著しい相異があり、しかもその一つ一つが、意外に遠方において類似を示している。例えば日本海岸に近い加賀のある部分で、この日を戦の祝いと称して弓箭を弄ぶのは、何か雛祭と調和せぬようであるにもかかわらず、太平洋に面した陸中の釜石に陣場遊びがあり、その南隣の気仙では、やはりまた小児的射の遊戯が残っている外に、さらに伊予の西海岸の如き、前の二地方と関係のなさそうな方面にも、コイヤバと名づけて山の上の眺望の良い処に、男の児が多く集まって飲食し、それからゲンジと名づけて源氏平氏の用いたような旗に、三月三日千度戦万度勝也と書いたものを、右のコヤバに立てるということが、郷土研究(四ノ六二六頁)に報告せられている。あるいはまたこの日必ず蜊を食べるという習いが、上総あたりの産地に近い村里のみならず、海なき美濃の国、または信州の境に接した山村までに及んでいることは、それが交通盛んな平野地方においても認められぬ処があるために、かえって遠い伝来のあることを考えしめる。
二 しかもこの節の都の手振は、驚くべき勢いで模倣せられているから、我々の共同の手帳が用をなさなかったなれば、恐らくはこれ等多くの意味深き痕跡が、顧みられずして永遠に消え去ることであろう。蒐集と記録との事業の甚だ軽んずべからざる所以である。三都の読書子などは、三月の節供といえば直ぐに雛人形を連想し、外国人の著述にはこれを珍しい日本の古風俗の随一に算えているが、これが存外近い頃からの流行であり、雛の製作にも年代および地方の著しい変化のあったことだけは、もう知っている者が多いようである。
ただそれ以上に歩を進めていかなる必要から最初人形を祭ったかと言う点になると、雛の細工が余りに精巧を尽した結果、かえって不明に帰した嫌いがある。それは全くこの比較調査の不可能であったためで、これを思うと林魁一君の地方で、ただ一個の焼物雛でも、新しいものを水の流れに送ったということは、学問のために価値ある記録と言わねばならぬ。
三 古雛に霊があることはしばしば耳にする所でありながら、実は今まではその理由が分らなかった。東京から西の郊外へ出て見ると、手が取れたり顔の胡粉の剥げたりした雛人形が、路の辻の小祠の付近に出してあるものをよく見かける。それが相模と甲斐境の山村に入ればいよいよ数多く、その場処も村はずれの石地蔵の傍などに、一定した送り先があったのである。それがことごとく不用になった品を、粗末にしてはならぬからこうしておくように人は考えるが、例の目なし達磨の目を入れたのなども、同じように始末するのみならず、棄てた以上はずいぶん粗末にしているから、元はやはり藁人形などと同じに、神の形代として送り出したものである。
雛を水に流すことは塩尻二九にも注意している。嬉遊笑覧六上に相州厚木辺で、古雛を川に流すとて棧俵などに載せ、児女白酒の銚子を携えて河原に出で、別れを惜しみて一同に悲しみ泣くとあるが、これを他のいろいろの実例と合わせ考えると、三月三日の川遊びも山遊びも、始めの趣意は神送りであって、藁の人馬の腹のところを苞形にこしらえ、その中に数々の食物を入れて野山へ棄てに行くのと、一つ儀式の変化であったことが想像せられる。美しい張子押絵の人形の珍重せられる以前、雛にもやはり草を結い、または瓜に目鼻を描いたような、年々掛け流して差支えのないものが、国々の田舎にはあったのである。
四 上総の「花見やれ海見やれ」は、いかにもなつかしい昔風であるが、相模川の辺の別宴の悲しみと共に、これもまた道饗祭の様式の一つであって、それと殺伐たる陣場弓箭の沙汰とは、いかにも別々な行事らしく見えるが、本当は剛柔二様の使い分けで、双方共に目に見えぬ精霊を、一日も早く退去させようとする目的は同じであったかと思う。なお五月と七月との人形送りの風習などと、追々比較を進めて見たら、心付くことが多いであろう。
折口氏の髯籠の話の中に「卯月八日のてんとうばななども、釈尊誕生の法会とは交渉なく、日の物忌に天道を祀るものなるべく、千早ふる卯月八日は吉日よ、神さけ虫を成敗ぞする、と申すまじない歌と相俟って意味の深い行事である。ただし竿頭のさつきの花だけは花御堂にあやかったものであって、元はやはり髯籠系統のものであったかと推察する。なお後の話の都合上この八日という日取りを御記憶ねがっておく」とある。我々は無論今もこの興味ある新説を記憶はしているが、折口氏はまだなかなかその続きを発表せられない。ただ催促するのも失礼と存じ、そちらの方の材料を少々提出しておく。
折口氏はいわゆる天道花の花と竿とを引離して、竿は日本の卯月八日の用に立て、花は天竺の仏誕会に返してやろうとせらるるらしいが、それは少々むつかしい。この日花を神に捧げる風習はいかにも広く行われているが、必ずしもことごとく竿の頭に付けて立てはせぬ。現に孝経楼漫筆に依れば「江戸四月八日に卯花を門戸に插む云々」とある。少なくともその一部では竿を用いなかったのである。木曾の村々でも家の戸口に山躑躅を打付けてあるのを自分は目撃した。伊那谷ではこれを後に苗代に立てるという。熱田神宮四月八日の花の頭は剪綵花を飾ったらしく、張州府志など迄が、これを灌仏会の一種の式と断定しているが、それらしい証拠もないのみならず、諏訪大明神画詞の中に詳に見えている花会の式の如きも、七日八日の両日に分って右左の頭役これを勤仕し、社僧これに干与したにもかかわらず、正しく神事であったことが分る。すなわちまた竿なしの花を用いた古い一例である。
花の窟の花祭はあまり物遠いとしても、日前国懸両宮往古年中行事にも「四月八日供躑躅」という例はあるので、自分等はむしろ何故に釈迦誕生に花御堂を作り始めたかを考えて見たい位である。塩尻四八には男山八幡、毎年六月の花の頭の式が、熱田四月八日の例とよく似ていることを述べ、後者は灌仏会にして、前者は夏中の供花に起ると説いているが、単に期日が四月八日であるために、この差別を認めたのならば誤りである。しかし社僧等が名づけて供花といった風習とても、なお何れの点まで仏法の教えに基づいているかを考える必要がある。
後水尾院年中行事四月十六日の条に「きょうより黒戸にて夏花を摘ませらるる云々」とあって、伊勢と内侍所へは三葉ずつ、他の大社は二葉ずつ、諸仏七葉、御先祖七葉などと記されているが、その花摘の行わるる日も同じ月の八日であった例が多い。日次記事に依れば、東寺などで花摘といったのはこの日花御堂を結構して、小釈迦の銅像を安置することで、この日また比叡山戒壇堂の仏生会に、女人等の常は登拝を許されざる者も参詣し、同じ序に東坂本栗坂の上なる花摘社に詣ずるとある。しかしその花摘社が仏誕生と関係があったことは未だ確かでなく、近江輿地志略二十二の如きはこの社の祭神を伝教大師の母なりと言い、この日は女子此処まで登り拝し、それより七月八日まで一夏の間花を摘み仏に供するのが例であるとのみ記している。なるほどこの日が女に取って最も名誉ある記念すべき日なる故に、この日を以て祀らるる結界の社に、花摘の名が起ったのだとも説明し得るか知らぬが、一たび他の地方の事例を比較して見ると、根原の必ずしもそう単純でなかったことが窺い知らるるのである。
越後出雲崎の旧事を収録した「出雲崎」という書に曰く、西越後の村々の婦女、毎年四月七日には精進潔斎し、八日は早天に晴れの衣を着て近き山々に行き、藤の花房ある手頃の一枝を採り還り家の仏壇に供う。米山の薬師へ捧ぐる意にて当日餅団子を作り、業を休むは古来の習なり。此風慶長頃特に盛んにしてあるいは奢侈の傾あり、支配掘家より四月八日山入厳禁の命あり、追々衰えたりしも、今も村田辺(三島郡島田村大字村田?)にこの遺風あり、名づけて藤の花立というと。
この話の中で注意すべきことは、第一には釈迦と言わずして薬師と言ったことである。月の八日は薬師の賽日には相違ないが、この類の薬師はかえって八日という所から祭り始めたのではないかと思わるる仔細がある。陸中水沢に近い化粧坂の薬師が、昔人柱に立った京の小夜姫という女の護持仏と伝え、またこの日を以て祭られるなどはその著しい例である(郷土研究二巻六九一頁)。美作勝田郡豊国村大字上相の間山薬師で、毎年この日痩御前と称する像を人が裸になって背に負い、群衆手を叩いて「おかしやヤセゴゼ」と囃して大笑いに笑う中を、「おかしゅうも候わず」と言って些しも笑わずに、薬師堂を三周すれば福を授かると伝うる式があるなど(東作誌)、細男と関係があるらしい古めかしい風習で、やがてまた薬師の信仰が後に起ったかを思わせる。
第二に注意すべきはこの日山に登るということである。卯月八日を山登りの日とする習慣は至って広く行われているらしいが、その外にも山に斎かかる有名な社にこの日を祭日とする例は多い。近くは武州秩父の三峰神社、上州横室の赤城神社、駿河の愛鷹明神、越中の立山権現、大和では纏向の穴師坐兵主神社、東北では羽後飽海郡の国幣中社大物忌神社、同雄勝郡大沢の荒羽波岐神社、北秋田の七座神社森吉神社等、陸中石巻の白山神社、磐城倉石山の水分神社、九州では薩摩串木野の冠岳(西)神社など、何れも旧来卯月八日を以て祭日としているのである。
さらに第三の点は婦人が登るということであるが、これも仔細のあろうと思わるるは、
(イ)には、女神を祭る社の四月八日を祭日とすることである。例えば玉依姫を祭るという下総香取郡の東ノ大神、草奈井比売という諏訪の蓼宮社、倭迹々日百襲姫を祀ると伝えた讃岐の一ノ宮田村神社、あるいは倭姫命を祭ったのが始めという江州土山の田村神社などの類で、この外にも新暦に引直した社がなお多かりそうである。
(ロ)には神蛇体なりという言伝えの往々にして存することで、しばしば水の辺においてこの日の祭を行うことがこれと関連するらしい。伊勢鈴鹿郡の鶏足山は卯月八日の登山を以て聞えたる霊地である。寺では千手観音を本尊にしているが、而も山上に鏡ヵ゛池というがあって、傍らに善女龍王雨壺の三祠を斎き祈雨の神として仰がれていた(三国地志二十六)。浮島を以て知られている羽前大沼の浮島稲荷神社も古くから例祭は四月八日で、祭神宇迦之御魂というも元は宇賀神すなわち弁才天の信仰に始ったものらしい。
鍋の祭で評判の江州筑摩神社の如きも、社殿大湖に臨んで竹生島に向い、今は主神を大御食津神としているが、以前は市杵島姫命と伝えていた(木曽路名所図会)。祭は同じ四月の八日で八人の童女を玉串を以て定め一月の物忌させて神事に仕えしめた。前に挙げた陸中化粧坂の薬師堂に美女を以て池の神の牲とした口碑を伝えるのも、その薬師の賽日という四月八日と関係あることは、同時に報告せられた武蔵井ノ頭の弁天の申し児なる長者の娘が、池に入って蛇体となったのも同じ日という話(郷土研究二巻六九二頁)と見合わせても推測し得られる。さらにまた野州葛生の峰渡権現においても、昔蛇体となったという長者の妻の供養を、同じくこの日に行う例であったといい、四月六日を以て例祭とする近江伊香郡の大音神社にも、やはり弘法大師が池の主を済度したという、かのせせらぎ長者の妻虎御前の話(同上四巻三三九頁)と相似たる話を遺している。
諸国に数多の跡を留めたトラという比丘尼は、立山および白山に伝えているトウロの姥、さては大和の金峰山で古く説く所のトラン尼と、起原は皆一つであろうという迄は前にすでに説いたが、自分は独り窃かにこれを生島足島などのタル、および大帯日子・大帯日女などのタラシとも同じ語で、社頭の霊泉をミタラシと呼ぶことも、これと関連しておりはせぬかと思っている。豊後国東の海上にある姫島にも大帯八幡の社がある。以前はこれを大虎八幡と呼んでいた。祭の日は四月八日と七月七日とで、その七月七日も水の神に縁のある日である。
秋田市の古四王神社の付近には、もと船ヵ゛沢という地に虎ノ井と称する清水があった。四月八日の祭の日に木馬を灌い奉るより外の用には用いざる水であったという(蕉雨雑筆)。祭の日に神輿を霊泉の上に迎えまつる例についても、前にちょっと述べておいたが、いわゆる神輿洗いもしくは浜下りの例は、諸国にあまり多くあってこの序に列挙することもむつかしい。ただその中で自分の珍しいと思ったのは、大祭の日の神事とは独立してこの儀式のみを行うもの、言わば浜下りのための浜下りを行う地方のあることである。たしか仙台領にもこの例があったかと記憶するが、自分が高木誠一氏から聞いた所では、磐城四倉浜にも村々から神輿を海岸へ舁いで出る風があって、その日がやはり四月八日であった。
そこで立戻ってこの日を重要なりとするに至った理由を考えて見る。熱田の花の頭などは、書物に由っては「花の堂」とも「花の橈」ともさまざまの字を当てているが、これを諏訪の花会の古式に比べて見れば「花の頭」と書くことの正しいのが分る。頭とは頭人または頭屋の頭で、年番の司祭者を意味する。熱田にも郷頭人輔頭人の二人があって、毎年四月晦日を以て選定せられ、翌年の五月六日まで神務を執って次の頭人と交代した。その二人の頭人は四月晦日の夕方に鈴宮の海辺に出て解除(御祓)をしたので、この式をば頭人浜下りと名づけていたそうである(張州府志五)。
それから推測を下すと、四月八日は五月田植の季節の祭のためにする斎忌の始めの日ではなかったかと思う。農民に取って最も大切なる米作安全の祈祷と予言とが、五月の上旬いわゆる端午の節供を期として行われたとすれば、四月の八日はほぼ散斎致斎の日数に合うので、元は必ずしも八日ではなかったかも知れぬのは、上に列記した祭日の外に卯月上卯日と定めた社もあるので察せられる。
婦女が田植の儀式に深い関係のあったことは、今も早少女の晴がましい支度に跡を留めている。その中の一人を選定してオナリといい、ヒルマモチと称し、特に神に仕えしめていたらしいことも俚謡集の多くの田歌に由って察せらるる。彼等がその準備として通常の生活と別れる際に、山に入って花を摘み、海川に下って身を潔め、少女としては容易ならぬ気づかわしき謹慎を始める事は、花やかにして、同時に物哀れな光景であったことと思う。仏教の干渉介助が始まってこの作法のやや弛んだ頃に、すなわちかの多くの水の神が妻を覔める話は起ったのであろう。
出雲大社などではこの日魚膾を設けて醴酒の宴をする式があった(大社志)。河内の誉田八幡でこの日の若宮祭礼に造花を飾った壇輾を曳くのも、壱岐の住吉社でこの日軍越の神事と称し神馬を牽いて村々を巡るのも、他の諸社の祭典と共に、さらに重大にしてさらに静粛なる稼穡の祭の予備の儀式から発達したものではないかと思う。仮にこの推定の如しとするならば、八日の日に戸口に插す季節の花を物忌の徴と見るまでは異議がなく、折口君が天道花の天道という二字に重きをおかれた点だけは、いかなものかということに帰着するのである。
終戦翌年の秋、香川県大川郡の会員田中正夫君から、小さな葉書の報告を受取って以来、私の田社考は急に興味を加え、最初にまずこの近所の高等農林校の学生のために、病い田の話という長い講演をしたのが、その半月ほど後のことであった。その手控えは保存してあるのだが、次々と付け加えたいことが多くなって、もう簡単にはまとめられなくなった。
日本の田の神信仰は、どこの国からの借りものでも真似でもなく、言わば我々の神の道のまっ只中であるにもかかわらず、神社に仕える人たちが、始終申し合わせたようにこれを研究の外に放置し、たまたまこういうことに注意しようとする者があっても、それを民間信仰だの民俗学だのと名づけて、よその道楽のように看過していたために、時代の変遷に会う毎に埋没はいよいよ甚だしく、結句めいめいの迷いを散じ蒙を啓くために、手近に見つかる知識をさえなくしてしまうのである。私の仕事なども取掛りが遅かった故に、間に合うかどうかは甚だ心もとないが、一人で為し遂げられぬなら手分けをしてなりとも、もう少し前の方へ推し進めておきたく、それにはまた時機もあり持場の適不適もあるかと思うので、ここに讃岐の同志の鹿島立ちの日を利用して、一つサンバイサンのことを説いておこうと思う。年をとるととかく話がくどくなる。うまく一文のうちに言いたいことを尽し得るや否や、それがやや心配である。
田中君の葉書というのはごく手短かで、もっと調べて下さいと言ってやったのだが、まだその返事は来ない。その内容は、白鳥からの帰り途、三本松の駅の近くの田圃に、稲刈りの跡の土を少し盛り上げて、そこに一株の稲を刈り残し、その前に青竹を立てて花をさして供えてあったという、たったこれだけの事実であったけれども、二つの点において私をびっくりさせたのである。その一つは、たとえ小さな土まんじゅうにせよ、田の中の祭にわざわざ祭壇を築くという風が、まだこの地方に伝わっていたことである。その盛り土が小さくまた臨時のものであることは、かえって東国農村の水口祭や、正月十一日の田打ち行事との連絡を考えさせるのだが、この点は別に狐塚の話のつづきとして、「民間伝承」の方へ書くつもりだからここでは省いておく。
第二のびっくりはサンバイサンとの関係で、この地方は一帯に田植期の終り、すなわち全国で汎くサノボリという日に、もうサンバイサンは上げてしまって、それで田の神の祭はすんでいるものと思っている形がある。然るに別に収穫期に臨んで、こういう祭があるということは、私などには全く新しい知識であった。県下他の村々においてもこれは普通の事なのかどうか。もしそうだとすると、この日に祭り申す稲の神は、サの月のサンバイサンとはどういう関係にあり、またいかなる名を以て呼んでいるのであろうか。土地の人にはわかり切ったことかも知らぬが、我々には今まで心づかずにいたことなのである。どうかこれからはそれを日本国内の、共有の知識にしておきたい。
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分類農村語彙にも一通りは出ていることだが、地方ではかえってそうとは知らない人が多いかもしれない。田植時に祭る家々の御田の神を、オサバイまたはサンバイサマという地域は、四国四県と、中国西半の四つの県だけで、少しはその外にもあるのかと思うが、私はまだ確かな例に出逢っていない。そうしてこの八つの県は隅々まで、というよりもむしろ隅の方へ行くほど、丁重にまた楽しく、田植前後の二度のサンバイ祭を営み、従って田の行事はこれだけですんだかの如き印象を人に与えている。広く国内諸方の例を比べ合わせて見ると、以前は少なくともそうでなかったという証拠が挙げやすい。つまりはこの信仰行事には中代の変遷が大きかったのである。
最初の問題の一つは、いつ頃からどうしてサンバイサンというような名が、この地域だけに流布したろうかということだが、これは今だけの知識では私たちには答えにくい。石見の牛尾三千夫君なども早くからこれに注意しているから、同君と話し合いをした上でないと、うかとした断定も下しにくいが、こういう上代にはなかったらしい名が新たに生まれるのは、あるいは民謡すなわち田植唄の力であり、今はもう衰えていようとも、かつて花田植の花々しい儀式が、極度に人心を引付けていた名残でもあるかと想像せられる。
ずっと前に目を通した防長二国の風土書上の記事では、一方にサンバイの祭が盛んに行われていると共に、他の一方には村々の稲の虫追いを、サバエ送りと称してこれも、大がかりな人を興奮させる行事であった。それ故に何か二つの名称の間には関係があるかと、考えずにはいられなかったが、この方は現に害虫をサバエという語があり、また五月蠅なす悪しき神などという古記の文句もあるので、田の神とは直接の繋がりはなさそうであり、強いて関係を付けるならば、無意識なる外形の感染があった位のものであろう。とにかくにこの名は珍しくまた新しく、古い日本語の訛って伝わっているものとはどうしても解しにくいのであった。
そこでまたいろいろの飛んでもない推測説が起りやすい。あるいは私のもその一つというまでに過ぎぬだろうが、倉田一郎君が採訪した伊予の越智大島の例では、田畠の神をサンボウサンと呼んでおり、この言葉はまた周防都濃郡の田植歌にもある。讃州の方にももしや飛び飛びに、そういう名は残っておらぬかどうか。たった二つでは何分にも心もとないが、この方ならば少しばかりの心当りが東日本にもあるのである。すでに農村語彙にも出ているから詳しくは説かない。
千葉県の太平洋地帯では三ボウソウリまたは三本立てというのが田の植始めのことで、これには現実に三株ずつ三列の苗を、儀式的に植えてかかるからそういうといっている。そうして田の神の祭には三把の苗を洗い清めて、それを中心に供物を上げる慣習は、全国に行き渡って非常に多いのであった。もちろん例外には二把一把、七把に取分けて祭るという話も聴くが、これだけはたしかに三つというのが原則のように思われ、近頃になってもぽつぽつと判って来たことが多い。どういう順序でそうなったかが説明し得なければ物にならぬが、この三把の苗とサンバイサンの名と、脈絡がありそうだという推測ばかりは、空なものでないと私は思っている。
今まで私たちのそう深く考えなかった事は、この三把の清い苗が田の神のよりまし、すなわち祭の日の神座、御幣や後世の鏡などに該当するものだったということで、家で田の神の祭をするようになってからは、ただその三把の苗を洗って持って来て、それを供物と一しょに供えるのだという風に、当の農民までがだんだんに考えているようになったが、少し気をつけて見ると、そうでない証拠は得られる。
「高志路」に報告せられた佐渡の二見や北鵜島の田植、「ひだびと」にしばしば説かれた車田という正式の植方などでも見られるように、特に三株の苗を鼎の足に插して、そこを最初にくるくると廻り植えする風は、東上総の海沿いだけの奇習ではなかった。能登の鉈打村でもこの三本立てがあることは近頃わかった。讃岐はこれ等の土地よりもずっと開けているだろうが、それでもまだどこかの隅の農家などには、何の心もなくこれをつづけている昔者がいるかもしれない。それにつけても賢い人にばかり、物を尋ねていた今までの採訪ぶりは改めなければならぬと思う。
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田の神の祭場は以前は、苗代の真中であったのが、後々水口から田の畔の一部に移り、さらに家の中で臼を伏せ箕をあおのけ、または床の間や神棚の上でも、祭をするようになったものと私は見ている。「村」という雑誌に書いた「苗忌竹の話」は、不十分ながらそれを説こうとしたものであった。島根広島二県の間に行われる大田植には、サゲと称する田人の頭取が、高い杖を携えて出場する。サゲはおそらくその杖の名で、サの木だからサギといったものであろうが、現在はサンバイ降しの日になってからこれを田の中に立てるから、苗忌竹との関係が不明になった。
佐渡の二見などの三把苗植でも、楢の一枝をその三把の苗の真中に插して、ここを植えるときに田の神節を歌い、またその楢の枝を田の神降臨の目標だといったそうだが、これまたすでに植田の中のことであって、苗代においてはその苗がいかに取扱われていたかを知ることが出来ない。ところが信州などのタナン棒、または田の神さまの腰掛ともとまり木ともいう楊の木は、もう苗代の代掻きの日から立ててあって、固い家では三把の苗を、その田神棒の根もとから採ることにしている。関東の苗尺、石城地方の苗見竹、それより東北一帯にかけての家々の苗じるしは、何れも籾播き以前から苗代の真中に立てられ、それを目当てに種を撒くために存在するものの如く言い伝えているが、しかもその苗じるしの根もとに近い苗が、特に大事な苗だと思っている人は、あるのかも知らぬが私はまだ聴いていない。
何でもない逸話のように笑って語ることで、私ばかりが早くから気をつけていることは、大昔弘法大師が天竺から、稲の穂をそっと持ってござった時に、後々稲荷に祭ってやるからという約束をして、狐にその種子を芦原の中に隠させた。その目じるしに立てられたのが苗じるしの起りだということである。この話はいろいろと形をかえて、今でも日本全国に分布しているのだが、これを苗じるしと稲荷とに結び付けたものは少ないらしく、しかもこの点がかなり有力な一つの暗示であった。
簡単な言葉では説き現わせないが、信越一帯の広い地域では、春播く籾種に限ってこれをスジと呼んでいる。家に伝わる米の種にも系統があり、これを次の年の生産に引継ぐにも、収穫期以後の幾つかの儀式はあったようで、祭はすなわち田植の始め終りの、短い日数を以て完成することが出来ないものだった。その点が今や漸う忘れられようとしているのである。讃岐大川郡のたった一つの戦後の小見聞が、かくまで私を動かしたのには理由があった。
そこで改めて諸君に尋ねて見たいのは、故宇野博士のいわゆる稲米儀礼は、いかなる日取りを以て、香川県では行われているだろうかということである。私などの知っている限りでは、阿波の北部の村々では種下しの日、苗代の畦の内側に樹の枝を插し、焼米と雑魚とを供えてサンバイを祭った例があり、伊予大三島の北端の村には、正月二日に米一升を年神に供えて、これをサンバイオロシという習わしもあったが、その他の広い地域は一般に、この神を降し申すのは初田植、すなわちこの辺でサイケまたはサイキ、他の土地ではサオリ・サビラキ・ワサウエともいう日に限っているかと思うがどうであろうか。果してこの想像の如しとすれば、そこにまた一つの不審が生まれて来る。すなわちそのサンバイ降しより以前、および田植終りのサンバイ上げより後に、田ではどういう神を祭ったか。それとサンバイ様との関係はどうなっているものと、今日は考えまたは解せられているかということである。
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民俗学が一国総体の学問として存立する利益は、実は専らこういう所から収められる。いくら一地方の事実には詳しくとも、比較をして見なければ今のようになるまでの変遷はわからない。さしも重要なる我々の信仰生活ではあるが、一つ以前の状態は文献にも伝わらず、従ってまた最初からこの通りであったように、信じ切っている者が多いのである。そのようなちっとも改まらぬ文化が、あったとすればむしろ不思議であろう。
広く全国を見渡すと、田の神が始めて田に下りたまうという日は、大よそ三通りに分れていて、田植始めの日をそれだとするものは、この八県のサンバイ地域の他にはないように思われる。誰にも気がつくであろう一つの差異は、オロス・アゲルということを他の地方ではあんまり言わない。そうしてこちらの支度のあるなしにかかわらず、かねて定まる日があって、その日になると田神が降りてござるので、農家では急いでそれに間に合わせようとするのである。関東の一端から東北一帯、越後から能登半島にかけて、中部地方では岐阜県の大部分など、遠く離れては九州の外側にある村々でも、田神農神または作の神が、始めて田に降りたまう日は大体に旧暦二月の中頃ときまっている。
奥羽の北端には小部分、三月十六日としたところもあるが、それから南には二月の十六日というのが多く、他はいずれもそれよりも少し早い。この日の早朝には、どの家でも餅を搗き、米がなければ空臼でも鳴らせといったり、またはそのから臼の音を聴いて、米がもうなくなったらしいと、急いで降りて来られると言う村もある。社日というのは旧二月の彼岸のうち、または最もそれに近い戊の日ということになっているから、やはりまたこの類に算えてよかろうが、東京周辺から近国にかけてまたは京阪の方面にも、社日に田の祭をする村々が多い。ただそういう中で山梨県の山村のように旧の四月のある日を以て、作の神の降りたまう日としているのは、注意せずにはいられない例外である。
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話があまり長くなって、この会の人々にも迷惑だろうからいったん切り上げるが、結びに一つだけ是非言いたいことは、田の神が古来の約束に基き、自分から進んで田に降りてござるとすると、農民の方でも前以て、是非とも祭の場処をきめておいて、行きちがいにならぬ用心をしなければならぬ。その方式は果して定まっていたろうかという点である。家に予め田の神の棚を設けて、一応はそれへお迎え申すのは、多分は後代の発明と思われるが、そのために祭の作法は改まったのみか、神の解釈にも意外の変化が起って、たとえば恵比須大黒を以て田の神年の神の本体の如く、思う者を多くしたことは一つの現象であった。
苗代をまた親田とも称して、当然にそれへお降りになるものとしたのは、やや古くからの考え方で、明治以来の勧農政策によって干渉せられた東北地方の通し苗代の風習なども、これあるがために同情がもたれるのだが、なおそれだけでは安心していられないで、前以てそこに木を立て斎串を插したのが、前に私の述べた苗忌竹、または田の神さんの腰掛けの起りだったろう。この風習はほとんど無意識に、今でも田のほとりに樹枝を插す慣行として残っているが、最初の目的は一般にもう忘れられている。
フォクロアの役目がどこにあるかは、わずかな親切と興味とを以てすぐに心づかれるであろう。たとえば小井川潤次郎氏が綿密に調査した青森県八戸地方の苗じるしは、大様似た形で津軽にも伝わっているらしいが、これは家毎に苗代に立てる植物がちがい、三本五本と立てる棒の数もちがい、またその寸法や組合わせ方も、苗代毎に異なっているのである。田の神がその特色を記憶したまい、毎年決して降る田をまちがえられぬように、村の家々の数が多くなるほどずつ、苦心を積み重ねて来たことは家紋や家じるしも同じで、つまりは田の神はすなわち家の神という信仰が、近い世代までなお消えずにいたのである。
太初以来、個々の部曲家門に専属した神が、だんだんと共同の神に化し、いわゆる分霊思想を発達せしめた傾向は、今にたゆみもなく続いている。そういう中にあって、なおこれほど顕著なる証跡を保存したということは、神社神道がいわゆる民間の信仰を、度外視してくれたお蔭と感謝してもいい。ただ我々素人までがそれに巻き込まれて、たった一つの田の神が全国を飛びめぐり、何百万戸とある農民の田を、保護していられたものと我も解し、人にもそう思わせようとしたことは、腑甲斐ない話と言わねばならぬ。神を共同に持つということは、国の結合のためには非常に大切なことであった。新たにそういう大きな力のある神々の、示現なされたのも自然の進みであろう。しかしそうして中心の信仰を築き上げるには、我々の祈願は十分に公けのものでなければならぬ。人を抑圧しなければなし遂げられる望みもないような、私の欲念を抱きつつ、我方へ神の恵みを引寄せようとすれば、いやしい争奪に帰すべきことは政治も同じである。
私はまだまだ四国のサンバイオロシなどの如く、出来るだけ田歌の声を高く美しく、娘たちの笑いを花やかに、彼等の衣襷の色どりをさまざまにして、神を自然に此方へ靡き依りたまうように努めたことを、ほほえましい巧みだと認めているのだが、しかもそれが最初の家の神の信仰から見れば、一つの異端であることだけは皆同じである。いかに質素なまた物静かな祭の形であろうとも、以前の田の神は子孫の田より他に、降りてやすらうべき田をもっておられなかった。そうして活きて働く彼等と共に、その田の稔りを豊かにすることが、同時にまた自分たちの永く血食する道でもあった、という風に少なくとも活きた子孫の者はもとは皆信じていた。従ってまた死して行く処には迷わずにいられたのである。それが正しかったか否かは、私たち歴史を究むる者の問うところではない。ただ今一段とかつてあった事実を精確にしようと念ずるのみである。
讃州の同志に望むところは、自分たちの地方文化の発達を忘れて、今あるままのものが最古の形だなどと速断したがらぬことである。変化があったとすれば、どう変化したかを知ろうとせずにはいられぬだろう。それにはもう一足、遠く外へ出て振りかえって見るのがよい。近頃二三の学者が何かというと、いや南洋型だのアイヌ式文化だのというのを聴いて、私は今あきれかえっているところである。それではこの永い数千年の間、果して日本人は何をして暮していたというのであろうか。
八木某氏か昔は寒かったという証拠に「六月の雪」を引かれたに就いて、郷土研究記者が悪口を言われたのは是非もないことであったが、これに関する同記者のお考えを承わらぬのは物足らず思う。武州比企郡高坂村大字岩殿の岩殿観音の寺伝に曰く、坂上将軍東征の時、この御堂の前に通夜し悪龍を射斃したことがある。頃しも六月の始め、金を蕩す炎暑にたちまち指を落すばかりの寒気起り、積雪尺に余りしを以て、人夫燎を焼いて雪中の寒気を凌いだ。今この近郷六月朔日に燎火を焼くはその時の名残である云々(新編武蔵風土記稿百九十一)。
上州碓氷郡豊岡村不動堂の縁起に曰く、八幡太郎この地の山窟に安倍の残党を退治せられた時、自分は火性で本年は水性なれば、寺僧をして増歳の祭をなさしめた処、翌六月朔日不思議にも雪一重降って川岸の松の葉が白かった。依ってこの地を薄雪郡土用寒ノ庄というたのが、終に転じて碓氷郡豊岡村となった云々(行脚随筆中)。この雪は何か特に六月も朔日の日に降るべき仔細があったのではないか。近世にも六月を正月に祝い直して凶年を避けた話があったように思う。
信州には旧暦七月七日の、オネンブリという行事がある。土地の人たちも現在はもうさして重要視せず、またその分布が広く、伝来のかなり久しいものであることを、心づいておらぬ人が多い。そうしてこれを説明しようとした記録が、この地方ではまだ見出されていないのは、多分は主として子供だけがこれに携わることになっていたためであろう。近頃の採集によって知られて来た簡単な事実を、出来るだけ数多く掲げておいて、次の精確なる調査の報告せられるのを待とうと思う。
先ず最初に小県郡の豊里村では、この日早天に付近の川や池に水浴びに行くことを、オネンブリを流すといっている。七夕様の笹は夕方になって流すのだから、それとは別であるという。このオネンブリを早く流しておくほど、その一年中早起きになれるとも伝えている(郷土研究一巻四号)。同じ名称は付近一帯にも行われているかと思われ、あるいはまたこの日は七くら水を浴びるといいという村もある(長村資料)。七月七日には七回物を食い、七度水に入るものだということは、東北地方でも子供のよく口にすることだが、多分はもっと広く行われている習慣であろう。備中の阿哲郡にも、ナヌカベ(七日浴び)という語がある。すなわち子供が七度水を浴びるのをそういうのである(備中北部方言集)。
上田の市中でも、月送りの八月六日の夕七夕祭を行うが、翌朝未明にその笹を流しに行って、川で泳ぐことを眠流しと呼んでいる。昭和五年には町の青年が川に溺れ、もうこれで眠流しに人が死ぬことが三年続くといって、恐ろしがったという新聞の記事を見たことがある。長野の七夕祭もまたネンブリ流しと呼ばれ、朝早く起きて水泳ぎをし、また硯なども洗うという(郷土研究一巻一号)。この日家具仏具などの油にしみたものを出して洗い、また髪を洗うとよく落ちるというのも、これに関連した行事かと思う。京でも江戸でもこの日井戸を浚え、また虫払いをするのは普通の習いであった。
松本市とその周囲でも、七夕の日は七度ホウトウを食べ、七度水泳ぎをすれば腹を病まぬといって、子供は皆川へ出かけたそうだが(同上二巻二号)、眠流しの語があったかどうかはまだ聴いていない。南安曇郡へ行くとネムリ洗いといって、七日の朝は四つ前に水浴びをし、あるいはまは七回浴びるともいった。やはり道具類を洗うと虫がつかぬとも病まないともいい、また女の髪を洗う日でもあった(同郡年中行事篇)。北安曇郡の方にはネンブリを流すという語があり、朝早く顔を洗いまた七度の水浴もする。村によっては流し火と称して、藁や麦稈などで作った燈籠を流すが、これも灯が消えずに遠くまで流れて行くほど、夜分睡くならぬなどと言伝えている(同郡郷土誌稿巻三)。
木曾天龍の二つの川の流域にも、同じ行事があるか知らぬが、恐らくこの名称はないのであろう。少なくも私はまだ耳にしていない。ところが境を越えて北三河の段嶺村に行くと七月七日には四つ時に川に行って、髪を洗うと油がよく落ちるといい、翌八日の朝は早く七夕の飾り物を川に流しに行くことをネブチ流しといっている(田嶺炬燵話)。やはりその序に水を浴びたかと思われる。ネブチとはいっても念仏とは関係がなかったようである。
関東の方では、埼玉県の羽生町にネボケ流しがある。これも七日の午前三時頃から床を離れ、葛西用水掘に飛込んで、泳ぎ廻ったのは子供のみでなかった(新聞)。同県熊谷地方ではネム流し。やはり同刻限に青年男女川の辺に集まり、手に手に合歓木と大豆との葉を持ってこれを水に投込み、
と唱える。それが終って水を泳いで還るのが習わしであった(風俗画報一六八号)。栃木県に入ると、足利ではこれをネブト流しといって、工場に働く男も女も、七日の日の夜半に渡良瀬川に入って水を浴びた(郷土研究二巻五号)。ネブトというと腫物のように聞えるが、なお目的は睡魔を攘うにあって、宇都宮の方ではこれをネムタ流しといい、その際に紙で作った人形を流す風習もあった(同上)。場所は田川の押切橋のあたり、時刻はこれも深夜から暁へかけてであったらしく、老若男女舟を浮べ、花火などを揚げて賑わしいことだったという(栃木県誌)。鹿沼のネムッタ流しは七日の夜明方であった。昧いうちから起きて子供らが水を浴びる。こうすると病気にかからぬといっている(山口貞夫君話)。それからさらに進んで奥州路に入っても、今日はもう中絶したかも知らぬが、白河の町にネムッタ流しがあった。同じく七日の未明に、男女家々の前を流るる小川の水に浴し、水を頭に灑ぎかけつつ、
と唱えることは熊谷の例とよく似ていた(白河風土記巻二上)。会津の耶麻郡でも、七月七日の七日竹を流す日は、川に薬が流れるといって必ず水浴をする。そうしてこれをまたネムタ流しと称えている(郡誌)。
中部以西の各地にも七日の早朝に七夕祭の笹竹を海川に流し、またその序に水泳ぎをして来る風習は到る処にあるようだが、通例はそれをタナバタ流しというだけだから、果して信州のオネンブリなどと同じものかどうか。こればかりではまだ何ともきめられない。現在知られている実例で疑いのないものはたった二つ。その一つは対馬の久根村でネブノキ流しというもの、これは合歓木の枝を折って海に流し、年中睡くないようにというまじないとするらしく婦人がもっぱらこれに携わるというが(島誌)、その期日は七日の朝ではなくて、旧六月十五日になっている。
次には熊本県阿蘇神社の眠流祭。此方は明らかに昔から七月六日であるが、近頃の記録には音振流とも字に書いて(阿蘇の面影)、行事の中心はもう水浴ではないようである。この祭の行列には、前月二十六日の御田植神事の時と同じ歌をうたい、この日を限りに翌年正月の謡初めの日まで、その歌をうたわせぬことになっていたというのは(郡誌)、意味がありそうである。末社の霜宮にはこの日を始めにして、九月九日までの長期の祭典があった。そうしてその期間はいっさいの音曲を禁じていた。すなわち災害を避けるための祭事であったことは察せられるが、さて何故にこれに眠流しの名があるのか。この土地のみの言伝えでは、恐らく十分なる説明が得られぬことと思う。
さて眼を転じてさらに日本海側の、北寄りの地方を見て行くと、ここにはやや比較を可能ならしめるほどの相接近した事例がある。現在知られている南の端は、越中滑川のネムタ流し。これは人形をこしらえて海に流す行事で、その際に子供が水を浴び、また、
という唱えごともあるというのだが、その期日は今は七月三十一日である(方言彙報三号)。多分は月送りの旧六月晦で、すなわち九州などで広く行われている夏秋祭の海ゆきと同じ日でもあり対馬のネムの木流しと共に、これも天王祭との関係が想像せられる。
それから越後に入って、柏崎の七夕流しというのが、式は越中と近くてその翌朝の七月朔を以て始まっていた。明治の世になっていったん絶えたというが、この節また復活していないかどうか。これは主として少年少女の行事で、竹に燈籠を結び付けて立て、船の形をしたものに男女の人形をこしらえて載せ、七月六日の夜まで町内に飾っておいて、七日の朝海へ流したのである。この時に童児等異口同音に、
と唱えたというから、明らかにまた一つの神送りであった。新潟の元住吉神社の湊祭、また夜七夕とも呼ばれた神事は、期日も行事も全く柏崎と同じだが、これには児童でなく屈強の男子が携わっていた。ヨタナバタはまたその海へ送る飾り物の名でもあって、一にこれをマトイ燈籠ともいっていた。すなわちマトイと燈籠とを組合わせたようなもので、元は二十九番のねり物のうち、十番以下がすべてこれであった。その形状一ならず、竪に長きあり、横に広きあり、大文字にて番を表わし、種々の人形船やかた草花など、思い思いに彩色し、鉾吹流し繖傘小提灯などを付け、力強くかつ気転ある者に持たせ、他の人々は提灯をもち、曲太鼓の囃しにてこれに付添い、湊口の番所の所まで、列をなして行ったという(越後風俗問状答)。多分は他の北海の湊々と、張合っていたものと思う。
ただしこの二つの例は、形が似ているのみで、眠流しという名は残っておらぬが、山形県から北のものはすべて名称までが一つになっている。その中でも鶴岡市中のネブリ流しなどは、家々の棧敷と飾り物、そこへ出入をする老幼男女の飲食宴遊の楽しみが主になっているが(日本奇風俗)、それでも翌七日の朝早く、それ等のいっさいの祭具を流しに行く行事はちゃんとあったものと思われる。東田川の村々でも、やはり屋ぐらを設け燈籠をつり、子供ら食物を携えて来て、夜遅く迄その上で遊ぶことは同じで、七日の朝はまたこの飾り物を、川へ流しに行きかつ水泳ぎをする。そうしてこの日の朝に限って、川に薬水が流れるということは(郡誌)、嶺を隔てた会津の耶麻郡も同じである。
秋田県に入ると、平鹿郡横手の町のネブリ流しがまず有名である。これは旧暦七月六日の夜、藁で作った二間ばかりの舟に、満船蝋燭を点したのを各町から出し、それにこの土地ではネブタの木という合歓木かまたは竹へ、短冊形の色紙と燈籠とを付けたのを持った青年が多く付添うて、旭川の川原まで持出し、花火を揚げたりいろいろと景気をつけた後に、川へ流すのである。近郷近在より多数の見物人集まり来り、その賑かさ十六日の送盆に次ぐとある(横手郷土史)。すなわちこの土地では盆の後先に、両度の燈籠送りをしているのである。
それから仙北郡には大曲のネムリ流しがある(月の出羽路九)。生保内村のネブタ流しは、入込んだ山寄りの村だけに、その行事がずっと質素で、竿燈などという飾り物はない。日は一定せぬらしいがほぼ同じ頃と思われる。ちょうど麻剥きの作業期に入って、夜分睡たくなって困るのを、何かネブタというものがいて憑くように思っていたので、それを流すためにこの行事があった。今はただ簡単に酒食を携えて川の辺へ行き、飲み食い歌い楽しむだけになっているが、それでもその折に唱える言葉は、
というのがあった(郷土研究七巻七号)。以前はこの際にイボタの木の葉を以て、頭から眼顔胴を擦り、それを川に流したという説もあるが(同上六巻二号)、これも必ず方言ネブタ、すなわち合歓の木を用いたもので、イボタというのは誤りだろうと思う。
町と村落と、一つの行事の花々しさの度のちがう理由は、誰にでも容易に推測し得ることである。仮にこの習俗が起りの遠いものならば、湊や城下町で始まった気遣いはなく、すなわち今ある形は後々の発達でなくてはならぬのだが、妙にこの点だけはお国自慢の人が取りちがえている。古いと言いながら今の姿によって、その由来を説明したがる者がまだ多いのである。秋田県などは村々の眠流しが、町とは非常に変っていてしかも久しく保存せられていた。そうして秋田市のいわゆる竿燈などは、すでに百数十年も前から、今のように盛んなものであった。長い竹に数本の横木を渡し、これに大いなる燈籠四十五十をぶらさげる。多力の者を選んで一人で持たせ、三四人の手代りが付添うてあるいたというから、あるいは新潟の夜七夕よりも壮大だったかと思う。これがこの城下の眠流しなのだが、流す以前は町々を練り廻って、華美を競うのを主としていたように見える。
能代湊の眠流しは、ことに目ざましいものであったという。高さは三丈四丈、横幅は二丈、屋形人形さまざまの巧みを尽し、蝋を引いた紙で五彩を色どり、年々新を争うて入費を惜しまなかった。しかもこれと同時代に行われていた村々の眠流しの方は、ただ単に麻稈をめいめいの齢の数だけ折って、草のかずらでからげ、それを枕の下に敷いて寝て、七日の朝早く川へ流すだけの行事をそう呼んでいたのである(秋田風俗問状答)。
ここで我々の注意を引くのは、同じ仙北郡でも二つの土地で、ネムリ流しともネブタ流しともいっていることである。鹿角郡も南部の宮川村などはネムリ流しといい(民俗学二巻七号)、北の毛馬内ではネンプタと呼んでいる。双方同じということは土地土地でも知っていたろうが、どちらが前からあるかはちょっと決しかねる。私の想像では、ネブタという語が名詞として用いられるには、単なる思い付きという以上に、そこに一つの心理過程が介在する。すなわち人を苦しませるネブタというもの、睡魔とまでは言い得なくとも何か流して離れてしまえるものがあるように考えたのが元だったらしく、合歓木をネブタという方言は、恐らくはまず来てこれを助けたのである。そのネブタの木という方言は区域がずっと広く、この木の枝を流す風習もまた、ネブタ流しという土地よりも広いから自分はそう思う。
それから今一つ重要だと思うことは、同じ南秋田のうちでも男鹿半島まで行くと、すでにネブリ流しの期日が異なっていることである。たとえば八郎潟に寄った脇元村などで、同じ名を以て呼んでいるのは、盆の十六日の仏送りのことで、この夕は胡瓜と茄子の馬に、例の通り仏様の荷物という食品を負わせ、それに寺から受けて来た札、すなわち仏様を結び付け、火を焚き太鼓を叩いて村内の一地まで送って行く。それがこの土地のネブリ流しである。七日には七回赤飯を食べ七度水を浴びるという習わしもあり、宵にはまた子供たちが燈籠を持ってあるくが、こちらにはそういう名がないという(寒風山麓農民手記)。眠流しの最初の趣意が、魂送りや聖霊舟のそれと、本来同じであった一つの証拠ではないかと私は思っているが、これだけではまだ多くの人の同意は得難いであろう。
青森県各地のネブタ流しに就いては、ずっと以前に、自分も書いたことがあり(郷土研究二巻五号)、またそれから以後ますます全国的に著名になって来たから、もう詳しくこれを記述する必要もないが、ほんの二三の要点と思う所を揚げておくと、まず第一に現在の大きな町のネブタは、信州あたりの眠流しと比べて、どこに一つの似た所もないほどちがっている。ことに電線が邪魔になる位な巨大な紙張りの人形を作り、それを日中から担ぎまわるなどは秋田能代にも新潟にも宇都宮にもないことである。
しかもこの行事は相応に古くからあったというのだから、以前もこの通りの著しい異色を具えていた如く、速断する人がないとは限らぬが、張子の人形だけは少なくともごく近世の発達のようで、その前はやはり夜分を主とした大燈籠であった。いわゆる人形ネブタの目ざましい発達は、今純三君が精細にその過程を説いているが(民俗芸術一巻一一号)、それに付加えて、昼間も人に見せようという念慮がなかったら、かくまでの工夫と金とは費さなかったのである。而うしてその結果はまたこれを海に流す七日目よりも、かえってその前の六日間を、重んずる傾向を強くしたのである。
燈籠の製作は、紙の民間普及より早い気づかいはない。京都や奈良でこそすでに足利期の末頃から、珍しい形の盆燈籠の、貴人の間に賞翫せられたことが見えているが、それを地方に住む者が利用し得たのは、また大分後のことでなくてはならぬ。津軽年代記の元亀元年の条に、流火焼諸人見物とあるのは、単にこの地方の流火行事が、もうあの頃から七月七日であったという証になるだけで、その火は松の火でも藁炬火でもすむ。現に今日もなおそれですませている地方は多いのである。それからいよいよ蝋燭が自由に求められるようになっても、ネブタはまだ暫くの間はただの四角の燈籠であった。
たとえば寛政五年の外南部の大畑のネブタ流しは「牧の朝露」という紀行に「六七尺一丈ばかりの竿のさきに、彩画かいたる方なる火ともしに七夕祭と記して、そが上に小笹芒などさし重ね云々」とある。これはまだ僻地だから真似得られなかったとも見られるが、これと大よそ同じ頃の奥民図彙という見聞録の、弘前城下のネブタ祭記事にも「万燈は四角、上に風流を付く、青森にて見たるものとやや同じからず」とあるのみで、扇とか金魚とかいう最も平凡なるものも、まだ出来ていた様子がなく、まして大々的な人形の細工などは、全くその後数十年の間に、次第に新奇を好んで考案せられたものとしか見えぬのである。
この程度の燈籠ならば、秋田にもまた新潟にもあった。その上に人形はまた別にこの日を以て海に送り流す習俗があったらしいのだから、これを燈籠の風流すなわち飾り物に、技巧が許すならば利用しようとする。動機は初めから潜んでいたので、ただこの地方の如く発展して来た事実だけが特異なのである。
次に今まで青森県の人が、知らずにいたらしい他の土地との一致は、ただに名称と七月七日の早暁に海へ流すという、二点だけでないことを述べなければならぬ。現在なお行われている群衆の唱え詞、
というなどもまたその一つで、これが各地の偶合ということはあり得ぬはもちろん、たったこればかりをよそから採用して、その他は独創ということもまた想像し難く、しかも寛政中頃の奥民図彙時代、すなわち弘前でまだ四角な万燈を担ぎまわっていた頃から、すでに全く同じ文句であったのである。土地によってのわずかずつの相異は前からもあった。たとえば下北半島の大畑では、
ネブタも流れろ、豆の葉もとどまれ
苧がら苧がら
と唱えていたが、この終りの句の苧がら苧がらは、あるいは南秋田などの、前夜枕の下に敷いて寝た麻殻を、翌朝川へ流す風習と関係があるのでないかと「牧の朝露」には言っている。近年の例としては北津軽の小泊辺に、
というのは(旅と伝説四巻八号)、注意すべき変化だと私は思う。それからまた東津軽の野内などで、
ネプタこながえろ、まずの葉とっぱれ
ださばだせよ
といっているなども、つまりはネプタを合歓木のことだと、考えなくなってからの空想が元らしく、その終りの囃しのダサバダセヨは、青森市中で流行っている「エッペ出せ出せ」のおかしな言葉と共に、これだけは近頃の改作のように思われる。この部分は寛政の頃にはイヤイヤイヤヨとなっていた。そのイヤイヤだけが何の事かわからぬと言った人もあるが、残りの文句だっても、実はよく判っていなかったのである。
それが今日は比較によって、もう大よそは明白になって来た。つまりネブタと豆は二つのやや似た所のある植物であって、しかも両語ともそれぞれに別の意味をもち、一方は甚だ感心せず、他は好ましいことであった故に、彼は流れてしまえこれは止まっておれと言った所に、水辺の行事としての言葉の綾が珍重せられたので、それにもまた最初何かの木の小枝を以て、身を撫でて流し棄てる習俗が裏打ちをしているかと思う。然るに津軽地方だけには、早くからそういう風も絶えていたものか。このネブタの解釈には、思い切って地方的なるものが輩出している。畢竟するにこの二つの植物の名の提唱が、今ではあまりにも突兀なものになっているからである。
青森県のネブタの研究者としては、棟方悌二氏が最も著名であった。この人の意見は日本風俗志(上巻四八三頁以下)にも出ていて、十分に穏健なるものであったが、なおこの一語の意味を明らかにし得なかったために、今に至るまで地方の通説を、覆えすことに成功していない。最も人望の多い通説は、田村将軍がこのネブタを催して、山に隠れている蝦夷の賊を誘い出し、退治をしたのに始まるというもの、次には同じ策略を以て引捉えた夷民を選別して凶猛なる者は対岸へ放流し、忠順なる者のみを止住せしめた。それがすなわち「まめの葉は止まれ」だというので、この解釈が早くから学者の間にも認められ、あるいは元禄年間の事蹟であったという人もあり、田村将軍と言出したのはかえって新しいそうだが、とにかくにこの両説は関連している。一方が認められなければ、次の説も成立たない。つまりはネブタに佞武人だの佞侮多だのという無理な当て字を自分でしておいて、自分でその文字に繋がれていたのである。
ところが一方にネブタは蕃語ならんという説があって、これがまた近頃まで続いていた。それをまた北里闌氏は否認して、ネは稲、ブタは札で稲札のことではないか。水神に捧げて当年の豊収を祈る意味であるまいかと言っている(むつ一巻四号)。これらの諸説の優劣を決するのは、少なくとも私の任務ではない。私はただ現在のいわゆる郷土研究が、もしわが郷土を視て他を省みなかったならば、結果は概ね此の如くなるであろうということを、例示するだけの小事業を以て、満足しようとしているのである。
この序に一言だけ心付いたことをいうと、主君や領主に忠誠を尽す者をマメなりということは、馬琴などがよく用いた語だが、果して文学以外にそのような用語が、津軽は元より他の田舎にもあるか否かは、問題にしてよいことである。自分等の知識では、マメは根気のよいこと、それよりもむしろ身体の丈夫なことをいうのが普通で、たとえば婦人の平産してもとのからだになったことを、東北ではマメシクなったといっている。
唱えごとも最初は利用者が理解していたであろうから、土地にもない語の字引の意味に、引付けようとしたのが根本の無理かと思う。マメでもネブタでも、土地では何と何とを意味しているか。それを明らかにしてかかるのが先決問題で、もしどうしても意味のない語だったら、それは他所から口移しに、学んだ唱えごとだと推定するのが恐らく自然の順序である。
他所では少なくともネブタは合歓木と睡魔とを意味し、マメはまた豆と壮健とを意味していた。その一方を憎んで海川に流さんとし、他の一方の止まって土地にあることを、念じ願った心持はよくわかっている。それを早速にアイヌ語に持って行こうとする、学問の不自然な態度には、結論を超越して私たちは苦情を唱えなければならぬ。
マメが邑里の生活に何よりも大事なことは異存がない。ただネブタを災厄として放ち棄てようというのは如何と、カルモチン常用者輩は一斉に批難するかも知れない。この点が将に私の予め答えんとする所である。睡くなればいつでも睡られる赤ん坊や閑人ならば、睡は悪でないのみか、また快楽でさえあり得るのだが、以前はそういう人が少なく、また睡るべからざる場合が、今よりも遙かに多かった。ネブタそのものは災でなくして、起きているべき時に睡いのが不幸であったのを、測らず混同するほど、よく働きまたよく疲れていたのである。
対馬をあるいている時に始めて気がついたのだが、夜分別れる折の常の辞令に、我々がオヤスミまたはオシズカニという所を、かの島ではオイザトナという語がまだ使われている。五島へ渡って見ても一部の人々が、意味はもう忘れてオイザットとか、イザトバイとかいう挨拶をしている。イザトイは標準語でも、睡っていて直ぐに目の覚めることである。すなわちあまり熟睡をするなという意味としか思われぬので、私は直ちに元寇刀伊の乱等の、昔の悲惨な記念かと空想していたのである。ところが十時弥君の話を聴くと、筑後柳河でも上流の士分の家では、子供のオヤスミナサイが定まってオイザトウであったそうだ。
捜せば西国にはまだ広く残っておろうも知れぬ。すなわち余りにいぎたなく打っても目覚めぬように寝込んでしまうことは、古風な人たちには幸福なことでなかったのである。朝のオハヨウの方にはこれがまだ広く残っている。余りよく寝て遅く起きることは、町の遊民にもなお慶賀すべきことでなかった。ただ星を戴いて野に出る者ほど、この睡たさを苦にしなかったというだけである。
次にそういうネブタを流し去り得るものだと、心得ていたのがおかしいと思う人たちももちろん今は多い。これは一年の間の生日足日すなわち方式のことに効果多き日があって、その日に念じた願いは常よりもことによく達せられるという考え、および災禍害悪には必ずエージェントがあって、適切なる時と方法とを以て交渉すれば、予めその結果が避けられるという信仰、この二つが昔はあり今はなく、もしくは昔は一般の常識であり、今は一部の迷信になっているからで、これを認めざる者には奇怪であり不条理である如く、認めて疑わぬ者にはおのずからその説明があったことは、現在まだ少しも進んでいない民族心理学の課題である。
七月七日に髪を洗えばよく落ち、七度水に泳げば身が健やかになるというなども、不完全ではあろうがとにかくに経験であった。そういう中でも最後まで残ったのは田の虫追いである。雨乞いもかつてはこれと近い悪霊のわざと考えていたようで、よく似た様式を以て旱魃の神を駆逐した。日を定めて行うものには正月十五日を利用した例が最も多かったが、他の月も満月の宵は価値を認められ、これに次いで重んぜられたのは上弦と下弦、すなわちこれを前後に距たること十七日の日が重要な期日と考えられていた。私の方法は理論を立てて説明をそれから導こうとせず、専ら事実によって法則を見出そうとするのだから、資料の完備せぬ限りは断定を下し得ないが、少なくとも今まで集められている例証から、七日ことに正月と七月との七日が、何か特別の意義のある日であったらしいことだけは推測せられるのである。
それを今少しく考えて見る前に、まずこういう一年の最も有効なる節日に、いかなる災厄が除去せられようとしていたかを説いて「睡た」を流すということの必ずしも歴史なき空想でなかった例に引いて見よう。虫追いは今では害虫の発生した時だけにするが、奥州には毎年六月朔日を期して、蚤を駆除する風習もある。ギシギシという草を方言にノミノフネといい、これを室内に撒いて後で集めて流すと、蚤はこれに乗って海へ行くと信ぜられている。ジヤジヤまたは蚊の口焼き、蛭や蝮の口焼きという式などは、まるでその虫のおらぬ節分の晩、もしくは小正月の宵に行うので、炉の火に榧の葉などをくべて唱えごとをする。これに由ってあるいはこの式をヘビムカジという土地もある。
広く保存せられているのは鳥追いと土鼠打ちで、これも正月の鳥獣の少ない時に予行するために、次第に遊戯化して子供の役となり、江戸では非人の娘などがその歌をうたって門付けをした。しかし本来はこの一年の最好の日に行えば、効果は四季に及んで、忙しい日の労を省くと思っていたのである。東北ではこの際また鹿追いも狼追いもし、あるいは鳥の巣あぶりということもした。信州川中島の松葉いぶしは、貧乏神を追出すと今ではいっているが、あるいはこれも獣害の防止だったかもしれぬ。近畿中国には狐狩があった。狩とはいっても後には食物などを供して、機嫌を取るような土地もあった。そうでなくともたいていは威喝だけで、事実捕獲をしようと迄はしなかった。若狭の佐分利村の唱えごとに、
狐の鮓は七桶になから
八桶に足らぬとて狐狩やんれい
というのがある。つまりは威勢よく相手をへこませる文芸であった。
武蔵の杉山神社の正月の田遊び祭に、唱えた言葉というものが伝わっている。主として鳥追いだがその序に追却しようとしたものに、田螺蝼蛄から家々の口争い、女房の小鍋食いまで追払えといっている。陸中紫波郡の小正月の豆蒔きには、
がいき鼻だれ、やんまいやく病、びょうやく病、ねこものはれもの
貧乏神やふんではれ、福の神や内におんでやれ
というのがある(郡誌)。ガイキは感冒、ネコモノは腫物も同じでフンデハレは踏み出はれだから、趣意はネブタ・マメノハとよく一致している。信州上水内の瀬戸川村には、正月十五日の早朝に鳥追いの次に唱える、オデキ追いの言葉がある。
向う通るアキョンド
ねぶつはれもの
買ってけしょってけホウイホウイ
というので(民族二巻二号)、村に入込んで来る行商人も、どうやらこの機会を以て予め追われたらしいのである。こういういろいろの村のために好ましからぬものが、この一種の示威運動的方式を以て、毎年定まった日に追却せられるということが、郷土の気風に暗々裏の影響を与えていたことは想像し得られるが、そういう中でも異なる日、または岡の上とか水の辺とかいう場所のちがいは、何か本原に溯っての考え方に、特色があったことを語るものではなかったか。あるいはそれはただ偶然の地理的状況に基づくものであるか。この点が次の問題としてなお残る。
私のことに興味を感ずる一例は、同じ信州でも南端の伊那遠山に、正月七日のサガ流しという行事があることである。これはただ単に門松を川に流すこととあるのみで詳しい説明はまだ聴いていないが、サガは古くから善悪の文字などが当てられて、よかれ悪しかれ物議の種、今で言えば問題になる事件とでもいうべきもので、これらを概括的に村の人が嫌って、極度の無為を願望したものと思われる。それを特に正月の七日目に、水のほとりでまた正月の飾り物を流すことによって、なし遂げ得るものと信じたとしたら、その根拠は果して何にあったろうか。また全国に広く分布する七月七日の眠流しと、どういう関係をもつと見るべきであろうか。はっきりとは判らぬ迄も、私は追々にその問題の核心に近よって見たい。
現在知られている事実だけに依って見ても、いわゆる七日盆の習俗には、織女牽牛の中国から来た伝説と、何等の交渉のない部分がかなり大きく、また我々の民間の星合い祭にも、かの古今集の和歌に列記してあるような、優美なる詠歎以外の感覚が加味している。たとえば鳥取県などの在方では、この日一粒でも雨が降れば、天の川に水が出て渡られぬからよいが、もしも雨なく川が渡られて二つの星が逢うと、病の子が生まれるから怖ろしいともいって、むしろこの恋愛に反感を示している。今までは誰も気づかなかったが、この日の祭壇にも瓜茄子の牛馬、もしくは初物の野菜果実などを供えることが、かなり著しく盆棚と似ている。そうして翌早朝は大急ぎで、笹竹飾り物を流しに行くのである。あるいはこの日を危険な日として、道切り注連繩張りなどの防衛策を講ずる例も少なくない。
これらは何れも慎重に境を浄め、あらゆる目に見えぬ障害を除却しようとした、久しい仕来りの反映に過ぎなかったかも知れぬが、それにした所で何かその前途に大きな不安が想像せられなければ、かくまでの煩わしい手続きは尽さなかった筈である。今日はもうすでに状況は変っているけれども、私はこれを初秋満月の夜の祭を完全ならしめるための、一週間前の準備作業、すなわち令に致斎といっている期間の、開始せられる方式ではなかったかと思っている。
これを確かめるためには我国民間暦法の変遷、それと古信仰との関係を尋ねて見なければならぬのだが、幸いにしてその便宜は今でもまだ絶滅していない。たとえば初秋の七夕と、ちょうど対立して一年を切半している初春の人日、すなわち六日から七日に渡って行く境を、御湯殿上の日記等には、また一つの年越と認めているが、京都で著名なのはただ早朝の七種の粥の行事のみで、その他の慣行に就いては、もう田舎を求めなければならぬようになっている。
信州ではこれを六日正月、あるいはまた蟹年とも名づけて、蟹を捕って来て門の戸に打ちつけ今ではその代りに紙に画を描き蟹の字を書いて貼っておく習俗が、意味は判らぬなりにひどく目につく。山陰の旧家には椀籠負いという祝言があり(民俗学四巻四号)、九州南部に行くと竈の前の田の神舞があり、あるいはまた各地方の七軒もらいがあり、そうしてまた前にいうが如きサガ流しもあるのである。少なくともこの正月七日を重要視していた動機は、七月七夕と共に外来のものではなかった。そうして盆と正月との二度の行事には、その根底において幾つとなき方式の併行が見られるのである。
以前仏教がまだ常民の風習に干渉せず、すなわち所謂盆の月を以て全く新亡者の供養に委ねてしまわなかった時代には、この春秋二回の第一の望の夜は、大体相似たる祭典が行われていたらしいのである。日本固有の斎忌制においても、もちろん新たに喪のあった家は分離せられる。だから正月にもアラミタマの家には別の行事がある。しかし三年七年十三年というように、いつ迄も記念を繰返し追慕を新たにし、七月を徹底的に線香くさくしたのは、恐らく外来教の信仰だったろうと思う。我々の祖霊は早く清まわり、神の大きな一団に入って活きた子孫と共に季節の悦びを味わっていたようである。
一つの混同は外聖霊、土地によって無縁とも餓鬼とも呼ぶものが、数多く紛れ込んで村々の内輪の団欒を攪き乱すことであった。それ故に古風な家々では、正月でも別に彼等のための食物を供与して、その嫉視と妨害とをなだめようとしている。それが盆の方ではことに怖れられ信ぜられて、しばしば家の先祖の霊との、分堺を見失うているのである。これは多分いわゆる新仏の立場と子孫の祀を受けずに迷っている三界万霊の態度とが、共に生人に好意をもたぬ点で、幾分か相通ずるものがあるように、考えられていた結果であろう。この二種の亡魂を意味する語を正月はミタマといってミタマの飯を供え、盆にはショウリョウと称して聖霊棚をしつらえた。ミタマも聖霊も同じもので、ただ一方だけが仏徒によって音読せられたのである。
京都四周の大きな御社や寺で、御霊会または聖霊会と名づけていと花やかなる儀式の行われていたのも、要は共同にこれらの亡魂を慰撫して、人生に向ってその幽憤を漏らさしめぬためであったことは、記録がすでにこれを語り伝えている。その期日は若干の入れちがえがあるが、最初は何れも居民の畏怖不安の、最も忍び難い時が指定せられたのが、後次第に恒例となったものと思われる。七月七日の宵暁を中心としたネブタ流しを、一種の御霊会だと言う説は正しいと思う。風でも虫でも多くの生物に対する障碍は、皆夏秋の交を以て出現したというだけでなく、盆はまた新古さまざまの聖霊の、わざわざ招き寄せられる剣呑な季節にもなっていたからである。
日本北半の七日日行事、ことに秋田津軽の眠流しの大祭が、東海近畿から彼方の各都会に今でも盛んに行われている十六日の魂送りの式と、非常によく似ている理由もこれから説明し得られそうだ。すなわち本来は盆を正月同様の悦ばしい祝いの日とするために、前以て無縁の気味の悪い霊だけを、なだめ賺して立退かせてさえおけば、後は心安く落付いて祭をすることが出来たのだけれども、余り熱心に多くの死者を供養するようになると、もう一度その日を過ぎてから、送りの式をせぬと気が済まぬように感じ、かつ次第にこの方へ重きをおいて、第一次の分を簡略にする結果を見たので、言いかえると七日の眠流しの方が、一つ古い形であったのだが、今日はもうその目的を局限して、主として睡たくなる不幸を、ここでは追いはらおうとしていたのである。そうして睡たもまたある亡霊のわざであることを忘れかかって、別にそういう名の忌わしいものが、独立してあるかの如く考え出したのは、さして珍しくもない信仰の分化であった。
これとよく似た変化は正月の方にもあった。トンドといいまた三掬杖ともいう正月の火祭は京都とその周囲は十五日を定日とし、別に十八日にももう一度行うのが、記録の存する限りの古い例である。東国でもこれを行う土地はたいていは十五日を用いている。ところが九州の鬼の火というものは、北から南まで大部分が七日の行事であり、ただわずかの区域だけで十五日にももう一度これを執行する。すなわち正月と七月とは、南と北の端ではこの前後が逆になっていて、しかも双方共に一部ずつ、古い形を保存しているように見える。
正月十五日の火祭は、神送りとは普通認めておらぬが、それでも福島県などでは歳神がこの煙に乗って、還って行かれる姿が西の空に見えるといっている。七日の鬼火に至ってはその名の示す如く、明白に祝賀の火でもなく、また飾り物の処理方法でもなかった。以前モチの日すなわち正月十五日が一年の境であった時代に、その日を神聖ならしむべく、外部の障碍を除去する目的であったことが、唱えごとその他の残留からも察せられる。つまりは爰でもまた事前の火祭が、一つの段階としてなお保存せられていたことは、奥羽信越等の眠流しも同じであった。十五日の第二の火祭も早く始まっていたかも知らぬが、これに少年青年の興味が集注するようになったのは、少なくとも後期のことのようである。
越中中新川郡のネブタ流しが、旧六月晦であったことは前に述べたが、その東隣の下新川の沿岸には、正月十五日にこれを行う村々があるという。もちろん寒い頃だから水泳ぎはせず、ただ藁の束に火をつけて、海に投込むだけだとある(風俗画報二二四号)。もっと他にも類例が出て来ないと、これただ一つでは安全でないが、今日は全然二つのものの如く、考えられている盆と正月との火祭の、起りは一つであったという証拠にはなりそうである。これと相対して、土佐の西部の海岸で、ヨシオ様という正月十四日の夜の行事は、名は全くちがうが、内容は信州三河の眠流しとよく似ている。これは村内各戸から竹一本ずつを出し、それに女たちが五色の短冊をつけて、台に載せて曳き廻わり、最後に浜に持出して注連飾りと共に焼き、それからその火に身を暖めつつ、若者らは海に飛込んで潮を浴びるのだそうである(桜田勝徳君報)。
この藁炬火と短冊付きの笹と、二つのものは夜と昼とのちがいで、共に送らるるものの標識であることは同じかったかと思う。払暁の行事としては照明の必要はなく、何か一つの目標になるものを持って行って流せばそれでよかったので、合歓木の小枝をネブタという名の縁から、携えて行った目的もそれかと思うが、燈火の方が実は見た目には美しく、また前の宵から飾っておいて祭を営むにも花々しかったので、紙や絵具や蝋燭が手に入りやすく、また若者の手工が進むと共に追々に此方へ進んで行ったのである。
九州の盆の精霊送りで、最も青森のネブタと近いものは、肥後の山鹿の骨なし燈籠などであろう。これは足利期末の文禄年間に、炬火を燈籠に改めたという古い記録があって、次第に発達して人物宮殿その他いろいろの意匠を争い、いわゆる運行の方法までが、言合わせたほどネブタとよく似ている(土の鈴三号、旅と伝説三巻九号)。しかも他の地方の数多くの精霊舟の中には、人物を主とし食物に重きをおき、白昼全く火を用いぬものも決して稀でない。そうしてすべてに共通しているのは、海に沿うた村では海へ、海なき邑里では川筋へ、送り流すという一事だけである。夏の御霊は海から上って来て、初秋に送られて再び海へ還って行くものと信ぜられていたのである。そうして人間の常に働こうとする者を、睡たくするのも彼がわざと、考えられていたのである。
七月七日の朝、畠へ入ってはならぬという昔からの言伝えは、農村としてはさほど珍しい話でないかも知れぬ。他にも十月の十日、大根畠に入るべからずという類の、農作の制止は例が多いのみならず、それを犯せば虫が付き雑草が茂り風が吹き、または自身が病気をするというなどの制裁もよく似ている。何れも皆大切な節日の慎みであったと、想像してよいようである。ここで問題になるのはこの七夕の場合だけに限って、これは条件が添いまた特殊の解説が出来ていることで、よそにも同じような話は残っているだろうが、信州の例だけが現在は知られている。多分はこういう物忌のもとの意味が、誰にもわからなくなってから後の変化で、これもまた我々の通って来た永い年月の精神生活を、回顧する目標には役立つのである。
信州ではたいていどの郡でも、古い人たちのこういうことを知っている者が多いかと思う。私は南安曇郡の年中行事篇から、この事実を引用するのだが、ここでも家によって少しずつ言うことは違っている。たとえばこの日は一日野菜畠へ入ってはならぬ。入ると虫がつくというもの。蔓ものの畠だけへは入らぬようにするというもの。夕顔畠には入るべからず、入ると身が溶けてしまう。この日は七夕さまが夕顔畠へ入っておられるからというもの。および七夕は七つ時から、ささげ畠へ下りて逢っておられるから、その畠だけへは入ってはいけないというもの等がある。
隣の北安曇郡でもずっと北へ寄って、同じ理由で大角豆畠へ入らせぬ村があり、また夕顔棚の下へ行くと、七夕様の天の川のお渡りなさる音が聴えるという村もある。小県郡の方でも、この日みずら(ささげ)の畠へは決して行かず、やはりその畠へ七夕の神が、降りて隠れてござるようにいう者があるということである。夕顔を畠に作るという土地は、栃木県へでも行かぬとそう多くは見られない。ささげも新しい作物のようだから、その栽培面積もそう広くはなかったろう。禁忌をこういう風にある作物だけに限局しておけば、農民の行動もよほど自由にはなるわけだが、単にそのために発明せられたものとしては、今ある由来譚が少しばかり奇抜過ぎる。これは一応考えて見てもよい問題だと思う。
私の心あたりは、以前は農村で人望のあった七夕の昔話に、瓜やその他の蔓物を説くものの多いことである。信州でも何処かにまだきっとあることと思っているが、今知っているのはたった一つ、上伊那郡小野村の年中行事篇の中にそれが見えている。
昔一人の老翁があった。瞿麦の花を栽えると天人が降りるということを聞いて、庭にその種子を蒔いて見ると、果して天人が降りて来て水に浴して遊んだ。その一人の羽衣を取匿し、困っている天人をつれ帰って、共に楽しく暮していたが、馴れるに任せて羽衣を匿したことを打明けたところが天人は早速その羽衣を捜し出して、それを着て天へ還ってしまった。その折に、もし私に会いたいと思ったら、厩肥を千駄積んでその上に青竹を立て、それに伝わって昇って来いと言ったので、男はその通りにして後から天へ昇って行った。天では別に何の用もないので、畠の瓜をもぐ手伝いをしていた。そうして天人の戒めを破ってその瓜を二つ食ったところが、たちまち大水が出て別れ別れになってしまう。これからはせめて月に一度だけ逢うことにしようと言ったのを、傍からアマノジャクが、なに一年に一度だぞと言ったので、今でもこの日だけしか逢うことが出来ない。また七夕の日に青竹を立てるのはこういういわれだとこの土地ではいっている。
これただ一つを聴いては合点のゆかぬことが、この昔話の中には幾つもある。第一には厩肥千駄の上に青竹を立てると、どうして天へ昇って行くことが出来たのか。第二にはアマノジャクの意地悪な差出口が、たちまち効果を生じて七夕の運命を変更したということは、どういう処から出て来た話であろうか。第三には食べるなという瓜を食べたら、大水が出たという点、これもこの一例だけでは余り突兀としていて、おかしい感じすらも起らない。
こういうのが今後の採集と比較とによって、だんだんにもとの心持が判って来ようとしているのである。簡単な言葉でいうと、これが我々の俳諧の、まだ十七字とか十四字とかいう、定まった型にはまらぬ以前の姿であったらしい。文字に録せられている現在の俳諧でも、たった二百年も過ぎれば実は半分はその言葉の意味を解する者がない。しかも連想の鍵と仲間の共鳴とがなくて、生まれた文芸は一つだってあり得ない。同じ血を分けた子孫の我々として尋ねてその動機の捉えられぬという筈はないと思う。今まではつまりその練習が試みられなかっただけである。
青竹の昇天も、天探女の中言も、それぞれにこうなって来る順序はあったのだが、それよりも瓜と蔓物の畠の事から始まった話だから、そちらをまず一通り片づけて行くことにしよう。信州とは恐らく何の直接の関係もなしに、ずっと南の鹿児島県の喜界島には、七夕の由来として次のような昔話が伝わっている。
この島では天人をアムリガー、すなわち天降子と呼んでいる。昔々一人の若い牛飼があった。姉妹の天降子が天から降りて、野中の泉の傍の木に美しい飛羽を掛け、水を浴びているのを見つけて、その飛羽の一つを匿した。姉の天降子は驚いて飛んで天へ還ったが、妹は何と頼んでも牛飼が飛羽を出してくれないので、困ってとうとうその牛飼の嫁になった。それから幾年か仲よく暮して後、二人は天とうへ親見参に行くことになった。その時は以前の飛羽を出して着て、夫を脇にかかえて空を飛んで行った。飛びながらその女房がいうには、いつ迄も私と離れたくないならば、天とうへ行って親たちが縦に切れというものを、必ず横に切りなさいと、固い約束を夫にさせた。
天とうではちょうど胡瓜の季節で、二人の取持ちに畠から胡瓜を採って来て出した。そうして男が包丁を手に持っている時に、不意に親がナイキリー(縦に切れ)といったので、うっかり女房の戒めを忘れて、その瓜を縦に切ってしまった。そうするとたちまち眼の前に大きな川が出来て、天女と牛飼とは両方の岸に分かれてしまった。それが七月の七日で二人はそれ以来、一年に一度、この日でなくては逢えないようになってしまった。
沖繩の多くの島々には、羽衣を匿して天人を妻とした昔話がどこにもあるが、それが今でも年に一度逢う七夕であったという語りは、これただ一つの他はまだ私は聴いていない。島の羽衣譚では、通例は夫婦の間に子供が二人または三人生まれる。その児がやや大きくなって姉が弟を遊ばせる子守唄の中に、飛衣は六股の倉に、稲積の下に置いてあると歌うのを母が聴いて、それを見つけて天へ還って行くので、近頃日本青年館で演出せられた銘苅子なども、またその一つの文芸化であるが、これで話が終ってしまうのはいかにも寂しいために、いろいろの後日譚がそのあとに付くことになったようである。
最初にこれをあるすぐれて旧い家の血筋と、結び付けようとした試みがあったのは自然である。沖繩では王家の外戚の特に有力なものが、伝説として久しくこれを信じていた例もあるが、これも多分は斎宮の職分が、王妃の手に移った変遷と関係しているのであろう。その他の場合には羽衣天女の後胤は、必ず女系を主とする巫女の家であった。天人に男女の児が生まれたという形も、元はこの動機から強調せられたように思われる。
とにかくここに一つの改定が行われたにしても、その改定は十分に敬虔なものであった。それがいつともなく奇を競い変化を愛するようになって、ついには今日の如くただ大衆の笑を博することを、目途としたかと思う話ばかり多くなったのである。これを歴史の次々の過程と見なかったら、説話の解釈は行詰まるにきまっている。そうしてまた我等の親々が、激しい労働のひまひまにも、なお心を空想の世界に遊ばせていた、ゆかしい余裕が不明に帰することであろう。
しかし幸いなことには我国の羽衣説話は、まだその進化の各段階において保存せられている。同じ一つの喜界島にも、まだこの七夕由来と結合しなかった、以前の形とも見るべきものが聴き出し得られる。たとえば百姓に飛羽を奪われて、無理に伴われて行ってその家の妻となった天降子が、二三人の児を設けて後に、やはり沖繩の記録にもあるように、上の児の子守唄によって飛羽の所在を知り、それを出して着て三人の児を抱えて天に飛び還った。ところが天上もすでに昔とは変って、自分の家屋敷さえなくなっていたので、再びその三児を地に下して来た。それがトキとノロとユタと、三種の巫女の先祖になったというのは、浦島子を逆に行ったような話である。
あるいは兄妹の二人が天から追い下されて、島の内をさまよう内に、妹はある農民に嫁して三子を設けた。稲麦の芒を厭うて、毎年暮春の麦の赤らむ頃から、飛羽を着て天に昇り、夏の稲取入れが終って後に、戻って来るのを習いとしていた。その夫がそれを欲せずして飛羽を匿すと、これもまた子守唄によって在りかを知り、それを着て飛んで今度は戻って来なかった。それでも時々は白鳥の首に団子を掛けて、子供の処へ送って来ていたのを、それさえ夫が嫌って、ある日弓を張ってその白鳥を射殺した、それを限りとして天と地との合図は、永久に絶えてしまったというような話もある。
この天と地との交通ということは、当初の羽衣説話の主要なる目標であった。それを信ずることの出来ぬ者が多くなるにつれて、追々に話の誇張は烈しくなって来たようである。肥後の天草地方に数多く伝わっている七夕の由来譚なども、たいていはまたこの類に属し、かつ前に引用した信州上伊那の話とも連絡をもっている。
丸山学氏の採集した一例では、天女の着物を匿してそれを娶った若者は、その家に一匹の犬を飼っていた。そうして二人の間に児があったことは説かない。三年もしたからもうよかろうと思って、匿した着物を出してやると、天女はそれを着て早速昇天してしまった。若者は恋い慕うて歎いていると、人が来て天に昇って行く法を教えてくれた。それは一日の中に百足の草履を作って、一本の糸瓜のまわりに埋めておくと、瓜の蔓は一晩に天に届くから、それに伝わって行けというので喜んでその通りにすると、九十九足しか出来ぬうちに日が暮れた。それでも相応に糸瓜は空高く伸びたので、それを攀じ登って行くと犬も後から踉いて来たが、草履がたった一足だけ足らぬばかりに、天までもう一歩という所で糸瓜は止まっている。そうすると犬は飛上がって尻尾を垂らし若者はそれにつかまって、やっとのことで天へ昇って行くことが出来た。その若者が犬飼さん、天女はすなわち七夕さんであるという。
故浜田隆一君の天草島民俗誌にも、別にまた四つほどの七夕の昔話を採録しているが、その中の二つはやはり瓜に関するものであった。あるいは近世の語りひがめもあったかと思うが、ここでは七夕様は一人娘、犬飼さんは養子であったなどといっている。その犬飼さんが農業がへたくそで、おまけに耳がつんぼであった。それである時七夕が短気を起して、機を織っておられた梭を投付けなされると、犬飼さんも腹を立てて、七夕の作っておられる瓜畠の瓜を真二つに切割ってしまわれる。それが天の川になって二人の間を隔て、終に一年にただ一度しか、川を渡って逢うことが出来ぬようになったといい、あるいはまた犬飼が母から西山の一町歩もある畠を耕すようにいいつけられて、あまり暑くて咽が乾くので、妻の七夕の止めるのも聴かず、そこに生っている瓜を食べようと思って、二つに竪に瓜を割ったら、それがたちまち天の川になった。それ故に今でも瓜を七夕に上げると、それが天の川になって流れるなどともいっているそうである。
以上三つの天草島の瓜話は、あるものはすでに破片であり誤伝であるかとも思われるが、共に喜界島の天上聟入、および信州小野村の瓜畠手伝の話と、各自独立に発生したものでないことだけは察せられる。それがまたどうしてこのようにも飛離れて、別々に保存せられていたろうかは、今はまだ解説し難い問題であるが、大体に昔話が至って数多くまた変化に富み、明けても暮れても人の口に上り、もしくは思い出されていた時代が、かつて我国にもあったらしいのである。そういう中から何か因縁があって、ほんの一部分だけが消え残ったために、今のように珍しい分布状態を示すのかと私は思っている。
いわゆる天人女房の昔話などは、元は神秘な大切な言伝えであったろうと思われるにもかかわらず、その破綻と終局とは、いかにも不真面目に笑話化する風が、もうよほど早くから始まっていた。前に「竹取翁考」の中でも注意をしたことがあるが、奄美大島の最も外部と交通の少ない地域にも、おかしい位この天草の話とよく似た話があった。むかし一人の翁が、クロという犬を飼っていた。ある夜山中の池のほとりに音楽の声を聴いて、往って見ると天女が水を浴びていた。これも飛衣を取匿してその天女を妻とし、三人の児を設けて後に子守唄によって飛衣の在りかが知られたという迄は他と同じく、天に還って行く時に二番目の児は頭に載せ、末の児は手を引いて行こうとしたが、重いのでこの子だけは後に残したといっている。
父の翁はこれを知って愛慕の情に堪えず、急いで千足の草履をこしらえて、それを踏んで天に昇って行こうとしたが、千足と思った草履は九百九十九足で、たった一足だけ足りない。そうすると飼犬の黒が進み出て、私がその草履の代りになりましょうというので、翁はその九百九十九足の草履と一匹の犬とに乗って、天界に昇って行った。そうしてその翁は一番の夜明け星となり、二番の夜明け星には飼犬の黒がなったという結末になっていて、これはまだ織女牽牛の、年に一度の逢瀬ということとは、結び付けられていないのである。
現在の不完全なる採集状態においては、まだどのような想像説でも成立ち得るが、しかもその当否の裁決せられる時はやがて来る。私はこの天に昇って星になった話がまず生まれて、それから七夕の方へ伸びて行ったものかと思っているのだが、果たしてこの予測は適中するであろうかどうか。
それにはもう少し瓜の空想の成長して来た順序を考えて見る必要がある。島原半島民話集に載せられている「天人女房」も、すでにまた思い切った笑話化であるが、これにはなお七夕の由来譚を伴のうていない。むかし源五郎という男が山中の池のほとりで、天人の着物を匿して例の如く女房にする。子どもも生まれたので、もう大丈夫と思いうっかり在りかを告げると、それを着てさっさと還って往った。その別れに臨んで天人がいうには、もし私に逢いとうなったら、あめ牛千疋を土に埋め、その上にブナ(南瓜)の種を播き、その蔓を伝うて昇って来なさいという。それで逢いたさの余りに、諸方をあるいて黄牛を買い集め、九百九十九疋までは手に入ったが、残り一匹はどうしても見つからない。一疋ばかりはよかろうと庭に穴をほり、その牛を埋めて上に南瓜を播くと、果してぐんぐんと成長して、もう梢の方は見えなくなる。それを攀じ昇って天竺まで行くと、ある家の裏の垣根にやっと蔓の端が引掛かり、今にもはずれそうになっていたけれども、折よく水汲みに出た女が前の女房であぶない所を手を執って引上げてくれた。
それから天竺では別に仕事もないので、頼まれて雨降らせの手伝いをする。桶の水を柴に浸して公平に日本国中に雨をまくのが役であった。ある日自分の村の上へ来て、今頃は雨乞でさぞ困っているだろうと思って、思い切って一桶の水をうちまけたところが、水の重みで雲が破れ、その穴から源五郎は落ちる。下が近江国で一円の湖水となり、源五郎も大きな鮒になってその中に住んでいるという。
この後段は広く西国に源五郎話として知られているもので、無論島原地方だけの特産ではない。本国の近江ではかえってまだ聴いたことはないが、京大阪にも以前はあったらしく、関東東北では源五郎を主人公としたものの有無は知らぬが、九分まで内容の同じものを村々に持っている。これを分類しているとまた話が長くなるから略するが、その一部には越後の大豆の木、もしくは奥州の茄子の木話のように、ある植物の急激な成長に伴のうて、天に昇って行く便宜を得、乃至は天の雷神の娘を娶ったという類の話もあるのである。私が想像しているように、これが天上聟入譚の一つの後世の変化ということは、まだ心もとないにしても、少なくとも瓜が七夕話の専属でなかったことだけはわかる。
話がやや西国の方に偏したから、今度は方面をかけて遠い類似を尋ねて見る。津軽ムガシコ集には「天さ伸びた豆の話」というのがある。これも天の女子の飛ぶ着物を若者が隠して家へ連れて来て夫婦になり児が生まれる。その児がよく啼く児でアダコ(子守)が幾らだましても啼き止まぬが、不思議に坪庭の松の木の下へ来るとぴたりと啼かなくなる。それを女房が子守から聴いて、そこを掘って見ると飛ぶ着物がいけてある。悦んでそれを着ると急に身が軽く天へ還りたくなった。そこで子守を呼び一粒の豆をくれて、この児が大きくなったらこの豆を流しの下に植えて、それに伝わって天さ来いと、言ったまま高い空に飛んで行った。アダコはその言いつけ通りに児を育て、やがて豆粒を流しの下に蒔くと、豆はたちまち芽を吹いてぐんぐんと天さ伸びて行った。二人は大喜びで豆の茎を伝わりながら、母のいる天へ昇って行ったといっている。
次は因伯昔話に採録せられている羽衣石山の口碑、これは半分伝説のようになっているが、話の筋には共通の点がなお多い。農夫に羽衣を匿された天人が、天上の事を忘れてしまって、その男の妻となって二人の娘の母になる。娘は音曲がすきでまた舞の上手であった。ある日その羽衣を携えて、母子三人で倉吉の神坂へ遊びに行き、姉妹はその羽衣を着て舞を舞った。そのあとで母が試みにそれを着て見ると、たちまち人界の心を失って、天へ還って行く気になった。そうして以前の夢に白い花の咲く蔓草の下で、子供に救われて天へ還れると夢を思い出したが、果してそこには夢の告げの如く、夕顔の花が白く咲いていたというのである。
こういう一つ一つの例を眺めていると、夕顔でも南瓜でも、何かそれぞれの深い意味があるように思われるが、話の他の部分は連繋していて、この点ばかりが独創であった筈はない。元はただ単に成長の迅い植物、どこ迄伸びて行くか知れないものの興味が、偶然に空想の上に出現して、後久しく消え残っていたのである。そうして百足の草履とか千頭の黄牛とかの、余りにも奇抜な条件すらも、信州の千駄の厩肥に比較することによって、始めてその来由を明らかにすることが出来る。つまりはその天地に梯を架ける一本の蔓草の、非凡な発育を念じたものに過ぎなかった。ただ後者はその瓜と青竹とが、もう離れ離れのものになろうとしていただけである。
それからなお一つ、庭に瞿麦を栽えると天人が降りて来るということを、人に教えられて試みたという発端も、信州だけにある珍しい例のように見えるが、捜せばこれにやや近いものが他の土地にもある。羽衣の発見をただ偶然の幸運のように説くのは、かえって私は新しい形ではないかと思っている。安芸国昔話集にある佐伯郡の羽衣譚は、主人公は猟師で鹿の恩返しということになっている。
鹿が白髪の翁に化けて来て、明日は天人が川に下りて水を浴びるから、松の樹にかけてある羽衣の一つを匿して、その天人を嫁にせよ。そうして二人の児が生まれるまで、その羽衣を見せてはならぬというのだが、この伝承には誤りがあると見えて、その戒めを守ったにもかかわらず、やはり天人はその二人の児を両手にかかえ羽衣を着てすうっと飛んで往ってしまう。そこで猟師が泣いていると、同じ老人が再び現われ、あすの朝はあの川へ天から金のタゴ(担桶)が下って来るだろう。それは天人が水を汲むのだから、その中へ入っていれば引上げてくれると教える。すなわちその通りにして親子四人楽しく天上に団欒するという話で、今まで列記した各地の例と比べて、また少しばかり変っており、あるいは新趣向かというような気もする。
ところが実際は飛んでもない地方に、これとよく似たものがやはり伝わっていたのである。孫晋泰君の集めた朝鮮民譚集七四頁に、木樵が山中で追われて来た鹿を救うと、それは山神の鹿の姿をしているのだったという話がある。何をお礼にしようかと聞かれて、私はまだ独身だから嫁がほしいと言うと、そんならこの奥の池に仙女が沐浴している。そこへ行って羽衣の一つを隠してしまえ。ただし子供が四人になる迄は、その羽衣を返してやってはいけない。三人のうちは両腋と足の間とに挾んで、一緒に飛んで還ってしまうからと教えられる。その戒めにもかかわらず三人の児が出来て、もうよかろうと思って羽衣を出して遣ると、果してその三人の子を挾んで飛び去ってしまった。
それを悲しみ歎いて独りおる樵夫の家へ、また前年の鹿が来ていうには、もう一度あの山の池に往って見よ。そこには天から水汲瓢が下って来るだろう。仙女たちは一度羽衣を盗まれてから、懲りてもう降りては来ない代りに、瓢で水を汲んで天上で浴びている。だからその水を翻して自分がその中に入っていれば、容易に天に昇って妻子に逢えると、教えて貰ったことになっている。すなわちかの黄金の担桶も、やっぱり瓜のたぐいの瓢であったのである。
どこ迄行っても同じ話だから、もうこの辺で列記を切上げる。終りに問題として残るのは七月七日の朝、瓜大角豆の畠に入ってはならぬという信州の俗信に、隠れて影響を与えている七夕の由来が、いつからまたいかなる因縁で、この世界的なる羽衣説話と、結合することになったかである。これは私の一つの仮想であるが、人と天上との交通を説くのに、瓜や豆の蔓の極度の成長と、これを梯子として往来したということが、かなり早くから用いられた一つの趣向であった。一方に野菜はちょうどこの季節の初物であり、ことに瓜類は夏の神と縁が深く、これを七日の節供の欠くべからざる供物としていたために、自然に両者の間に連想の橋を架けたのでなかろうかと思う。
今一つの繋がりには、犬飼ということが算えられる。犬と羽衣との関係は前に挙げた鹿の助言も同様に、最初はただ単なる動物の援助の一例だったかも知れぬが、日本ではすでに近江の余吾湖の昔語りもあって、犬が大切な役割をもつことになっている。そうして一方には中国でいう牽牛星すなわち彦星を、また犬飼星と呼ぶことは、少なくとも倭名鈔の昔からである。これにも何か特別の説話があったらしいが、それはもう埋もれてしまって、ただこの二つの言伝えを、混同せしめる因縁となっているのである。
御伽草子の天稚彦物語は、羽衣とは反対に人間の美しい少女が、天上に嫁入する説話であるが、その結末にはやはり月に一度と男神の言うのを、一年に一度と聴きちがえて、怒って薦を投げたら化して天の川となったという条がある。すなわち信州の七夕昔話のアマノジャクの中言も、起原は四五百年前に遡り得るのである。
肥後の天草の犬飼さんが聾ということも、やはりこの趣向の系統に属する。妻のたなばたひめが別れに臨んで、月に三度は逢いましょうと言ったのを、聞きそこなって三年に三度とやと答えたので、それから七月七日にしか逢えなくなったという点は、すなわちまた天稚彦の草紙と同じであった。あるいはこの犬飼が妻の逃げ去るのを妨げるために、その羽衣を畠の土の中に、埋めておいたという話も天草にはある。それを七夕さまが畠打をしていて見つけ出し、すぐにそれを着て天の川の向う岸へ飛んで行かれたというのは、まことに農民らしい空想であった。信州の多くの田舎にも、以前は多分こういう類の笑話が、出来て盛んに語られていたものであろう。
○ 果たしてまたこればかりの採録の中からでも、なお幾つかの埋没していた問題を、見つけ出すことだけは出来たのである。第一に盆の景物の中で最も花やかなもの、すなわち高燈籠と燈籠流しとが、広く全国に亙った方式であったことは、これが中世の都人士の思いつきに始まったものでなく、至って古くからの必然的要素なりしことを感ぜしめる。東北諸県のネブタなどに就いて、いかにも一地方的に説明の行われているのは、やがて比較に由って逐次に更訂せらるべきであろう。
○ 魂迎えの夕の墓参りに、必ず燈をともして行くということも、単に精霊の路を照らすためのみではなかったらしい。土地によっては今はほとんど何の理由かも忘れてしまっているが、児女が半ば戯れに近く、背中を出して負う真似をしたり、あるいはもっと厳重に必ず両手を背後に組み、転ばぬようにして帰って来る風、もしくは墓所近くの小石を一つ拾って、懐にして来る信州東筑摩辺の風習、新仏は墓地を去ることがむつかしいからといって、瓢を携えて往って代りに墓処に置いて来る岩手県の慣行の如き、共に幼い考え方ではあるが、参る人が伴のうて還るという古い信仰を保存しているかと思う。
○ だからこの黄昏に、まず石碑の前の燈籠を点じ、その火を提灯に移して家に持来り、家中の灯をこれに改めて、盆の間だけ消さぬようにするという仕来りには意味が深く、仮にこの明りでお出やれお帰りやれと言うことに、今はなっていても、本来の火の光に対する我々の考えは別であって、やがて、日を拝みまた雷火を崇信した古い神道と、筋を引いて遠く火の発見の時代まで、溯って行かれるものであるかも知れぬ。蝋燭や燈蓋の普及する以前には、いっさいの照明は松明でなければならぬから、迎え送りの門火の苧稈までが、必ず小松明であったということはすなわちまた精霊の火の運搬せられたことを語るものであろう。
○ 高燈籠の制作は、松明の時代には決して容易でなかったことと思うが、それでも投げ松明または火揚げなどと称して、今なお昔の様式を伝えたものがある。久しい歳月の異信仰に反抗して、依然として、祖神が天がけり降り来るものと考えていたのはなつかしい。我国のみに数多い人玉の空を行く話、またはいろいろの遺念火の現象が、右の固有の思想に根ざしていたことは言う迄もないのである。
○ それよりも珍しいのは、初春の歳徳棚でもすでに認められたように、今でも一隅にいっさい精霊もしくは無縁仏の座を設けて、招かざる賓客に供物をしていることである。盆正月の行事のこの部分には、多分は仏法の干渉も少なく、注意して見たらまだいろいろの古風を遺留していることと思う。柿の葉をカシワに用いるなどはその一つであり、またこの供物ばかりは散乱を慎んで、一纒めにしてこれを流すというのにも意味があろう。
○ 踊りが魂送りの日を盛りとして行われ、鉦鼓喧噪してひたすらに幽霊の追却に力めているのは、これまた仏教の圏外のものであるらしいことは、数年前にもすでにこれを説いたが、今回の報告に由っていよいよその推測を裏書せられたように感ずる。
○ 盆花の必ず野山に採られ、ことにその種類に制限があったことは、考えて見なければならぬ事実である。桔梗という花のしばしば神祭に使用せられるのは、あるいはその形状からでも若干の理由を推測し得ぬことはないが、その他の植物に至っては、繁茂の地が荒野であった点以外に、これを盆花とし始めた動機を知り難い。ことにいわゆるミソハギの用途には、まだ沢山の窮められざる神秘がある。これを蓍萩と呼んだのにも仔細があるだろうが、日本の自然史はまだこれを説く迄に進んでいないのを遺憾とする。
○ 上総の海近い村の旧慣の中には、盆供の古い形式が保存せられていた。さらに意外なことには遠州の飯尾家に、多量の伝承が主人自らの忠実なる記述を待っていたことである。こういう機会は今までは得易くなかった。分析と省察とが学問のために用立つ時は、もうたいていは古いものの改まる際であった。この三四十年来の同情なき理解が、手を触れずにおいた昔というものは、実際は甚だ少なかったのである。
オクンチはもちろん「御九日」であるが、九州北部では一般に秋の祭をそう呼び、必ずしも九日でないところから、これを供日宮日などと書く土地もあり、従って意味が広くなって、八日の鞴祭をカジヤグンチなどという方言さえ出来た。五節供の中でもいわゆる重陽だけは、ことに中国から学んだ式典と、日本民間の古習とが、十分な調和を遂げていなかったように思う。日本の方では単に九月中のある一日に、飲食を神に供えて直会する慣行はあったのだが、それが必ず新米を用いなければならなかった故に、九日に限ることは困難であったのである。故に風土と稲の品種に従って、関東の平原では十九日、また二十九日にも秋祭をする村が多かった。それを一様に九日といい、またその日の神を九日様といっていたことは、群馬などの人はよく記憶するであろう。
その九日の今一つの特徴は、それが一邑の戸外の祭というよりも、家の中の歓喜であったことで、これはただ食料の最も豊富な時だから、飲食を以て儀礼の主要部とした結果であった。村に入って見ると、祭なるがためにかえって静かで、ただ遠く高柱の徴しの幟が、定まった場所に白く翻えるを望むのみである。頭屋の制度のなお厳重な土地では、これをその年の頭にさされた群飲の家の前に樹てたが、たいていは道の辻や馬場の端に、すでに柱場が定められているから、これによってその年の祭の中心を見つけることは出来なかった。
次にこの秋祭は親族朋友の交際というものに、利用せられたのが一つの特色であった。このためにも祭日を九日に一定することは難く、しかも地方一様に同じ頃に熟する稲を作ると、次の九日まで十日を待つことも出来なかった。そこでいよいよ九月の節供の日はまちまちならざるを得なかったのである。以前よく見かけたのは今日は甲の村へ乙丙等が祭に呼ばれ、明日はすぐまた甲丙の人々を、乙村へ誘うて往ったので、無益なことのようだがそれをしなかったら、一村の仲間同士で長夜連日の宴を張って沈酔したであろうから、この変化はむしろ幸福なものであった。
家々に新穀を以て秋の酒を醸すことを制止せられて後、久しからずしてこの祭の日に干渉が下り、強制を以て比隣の祭の日を同じ日に変更させ、往来の余裕なからしめたのが地方官の手柄であった。その結果はどうかというと、鎮守の祭は家々の農祝いと分離し、また九月九日とも無関係のものになった。しかし各地方の神社にその祭神の歴史とは縁故もなく、九月のある日を以て大祭礼の日としているのは、その起原の共同信仰よりもさらに古いことを暗示するものであった。すなわちその日に口にする甘酒や鮓、外部から想像し得ない深い歓楽は、村として神を祀らぬ前から引継がれたものであった。故に何か特別の事由があって、最初から二者の結合の十分でなかった土地では、これが本誌に報告せられたような、いろいろの新時代風に移って行こうとするのである。神無月の出雲の往来という類の、神祇官の記録と一致せぬ伝承などは、今一度この方面から仔細に考察して見る必要があるように思う。
共古日録巻六に依れば、群馬県北甘楽地方では、十月十日をトオカンヤといい、この夜は子供等藁にて太き繩をこしらえ、地面を打ちまわる。土龍除の呪法だという。その歌の文句は、
とおかんや、いいもんだ、朝そばきりに昼だんご、夕飯食ってひっぱたけ
また、
武州大里吉見辺にも同じことをするという。播州などでは十夜と亥の子とは全く別であって、亥の子は中の亥の日の夜いわゆる藁鉄砲の遊をする。霜に染まった香の高い菊の小枝を折添えて、亥の子餅の重箱を配る。この夜子供のうたう唄、
また十夜の晩にいう言葉は、
この事を書きながら、自分ははからずも近松の心中物の中に「外は十夜の人通り」と書いた大阪の町の風情を思い出したのである。
ここでもまた変化しているか知らぬが、四十年前には確かに次のようであった。津の国で今イノコというものを、我々はイノコモチと呼んでいた。あるいはワラデッポウなどという者もあったのは、それを以て大地を打つ音が、ぽんぽんと冴えて響くからであった。繩で出来るだけ堅く藁を巻き、重みを付けるために何か余分のものを入れて、末の方がかなり太くなっていた。それを右の手でまわして、からさおの如くにして土を打つのである。五人十人が調子を揃えて打つと、子供には少なくとも面白いものであった。歌はこれに合わせて歌うので、イノコ餅くれんこ云々というのが最も普通であった。それでこの藁の棒をもそう呼ぶことになったものと思う。
別に新嫁の前に限らず、辻々を突きあるきまた人家の前の広場を利用した。雛とか七夕とかに物を貰いにあるくことを、何とも思わぬ子供たちであったが、亥の子には別に餅などをねだらなかった。ただ歌の文句には、
などともいったから、元は必ず餅を貰っていたのである。月夜の情景を連想するから、旧暦十月も一の亥より第二の亥の日の方を用いるのが例であったろう。摂津の能勢はいわゆる厳重(玄猪)の本場であったから、製法その他にもいろいろの古例があったことと思うが、播州の方ではこの日のためにただ餅をつき、特にイシイシと称して粳米の粉を以て作ったものを、互いに贈答することが東京の彼岸の餅以上に盛んであっただけである。菊の花のややうつろい方になった小枝を、必ず餅の重箱の中に入れて贈り来り、蓋を開くと高く薫ったのが、今でも忘れ難い鼻の記憶である。眼の記憶として残っているのは、翌朝学校に行こうとすると路の両側処々に、夜深までイノコモチをついた痕跡が、あたかも盆の踊りの痕の如く土をてらてらと光らせていたことである。
種村氏の報告にある重兵衛の金玉の歌は、私たちには亥の子の歌ではなく、単に十夜の晩に重箱ひろて云々と、口ずさんでいただけであった。またジュウヤジュウバコと重ねているのだからその方がもとに相違ない。この事は一度郷土研究の中にも説いたことがあるが、関西の十夜関東のトオカンヤ(十日夜)は、すなわち下元の節のことで、起原は正しく亥の子と一つである。従って二の亥を百姓の亥の子などとはいうが、これが最も古い期日であろうと思う。十月は亥の月だから亥の月の亥の日を用いたのは、なお五月の午の月の午の日を節句の日にしたのと同じ趣旨で、むしろ本来の日よりも月の方が重んぜられたものであろうと思う。
これから研究して見たいと思っているだけで、私はまだ案山子の問題には一向手を着けておらぬ。どうかよい雑誌が出来て沢山の新資料を供与してくれよかしと念ずるばかりである。誰でも知っていることかも知らぬが、今まで方々から報告せられている事実はいろいろある。それを綜合して要点だけをその号に掲げておくと、後々何かにつけて便利だろうと思う。私は播州で生まれたが、カガシという言葉は書物によって始めて学んだ。山田のカガシという唄はまだ出来ておらず、土地ではただトリオドシといっていたのである。
鳥おどしまたは鴉おどしの語は新しいものだろうが広く行われている。九州にはオドロカシという方言もあるから、その意味はよく通じている。ところが東京とその周囲の村々では、そういえばわかるというのみで、この語を使う者はないように思う。カガシは文学語でもありまた東京語でもあるのだから、それが標準語として認められたのも尤もである。
東北六県ではこれを何というかまだ確かめて見ないが、どの方言集にもついぞ見たことがないから、多分標準語と同じで、それを書上げる必要を認めなかったものと思う。カガシという語の起りにはいろいろの説もあるらしいがまず大よそはカグ(嗅ぐ)という語の他動形を、名詞にしたものと解するのが正しいであろう。すなわち悪い臭気のするものを田畠のへりに立てて、動物の中でも主として獣類に不安を感じさせて追い退けることから、導かれた命名なのである。普通山村に入ってよく見かける実例は、今日では石油を襤褸に浸していぶすものであるが、以前は竹の串に髪の毛を少し綰ねて挾み、その片端を焦がしたもの、あるいは野猪の生皮を一寸角ばかりに切って、これもちょっと焼いて竹のさきに挾んだものなどを立てる。猪は同類の皮の焼ける香だから、ことに気味悪く感じて遁げ去るものと解していたようである。
もしこの説のように、嗅がすものだからカガシという名が出来たとすると、いわゆる山田の案山子の蓑着て笠着てただつっ立っているものを、カガシと呼ぶのは誤りということになるわけだが、それは誠に致し方がない。前はこういう一種の駆除法だけの名であったものでも、良い名でありまた人が元の意味を考えなくなると、広く鳥獣害防止法の全体の名にもなり、またその中でも最も目につき易い人形の名ともなることは不思議でない。それでは当っておらぬと気にかけて、カガシは鹿逃がしの略語だなどと言って見たところでやっぱり「鹿逃がし」で鴉を追うのはどういうわけだということになる。言海にはカガシとは嚇すことだとあるが、果たしてそういう日本語があったかどうか。そんなむつかしい解はしないでよかりそうに思う。
東京から西の方、東海道の諸国では節分の前の晩に、ヤイカガシまたはヤツカガシというものをこしらえて戸口に插す。たいていは鰯の頭、髪の毛などを小さな串のさきに挾んで、ごくざっと炙ったもので、これを見ると鬼が辟易して入って来ぬという。これも臭気を嗅がしめるのが目的と見えて、ただそれだけでも相応に臭いのに、更にその際の唱えごととして「隣の婆々が屁をひった」という類の下品な言葉があり、またふふらのふんというような鼻の音の声色を囃しにしている。
こういう文句の特に発達しているのは、静岡、愛知の二県だけらしいが、同じ風習は遠くの地方にもある。淡路や備中ではこれをヤキザシ、出雲などはヤイクサシと呼んでいる。ヤツカガシという語の知られているのは信州から越後、関東、奥羽にも処々にこの風習と共に名前がある。盛岡などではこの節分の宵に插す串も、本物の案山子も共にヤツカガシというそうだから、カガシの元の意味はまず明らかになったわけである。しかし中部地方の数県のように、節分のヤツカガシの行事風習が盛んな地方では、山田の案山子と混同して困るためか、この地方はカガシとはいわず普通ソメと称している。
つまり日本における案山子の方言は、カガシとオドロカシとこのソメと、大体三通りになっているので、その中では中部のソメが最も古くからあった語らしく、しかもその意味が最もわかりにくいのである。これは自分だけの推定だが、ソメという語の起りは注連繩などのシメすなわち占有の占ともと一つであったらしい。
九州南部の山村たとえば宮崎県の椎葉村等では、山で焼畑を開いた際に、周囲の木を伐って垣のように立てまわすのをキリカジメ、またはキリシメといい、萱を刈って来て一尺おき位に畑の周りに立てるのをシデカジメ、あるいはシオリカジメといい、共に野猪の害を防ぐ装置である。カジメが「刈しめ」であることは、別に「切しめ」の名があり、また「焼しめ」の方法もあるのを見てもわかる。この地方のヤキシメまたヤイシメは私も前年見ているが、前にカガシの元の形だろうと言った関東などの例と同じように、やはり髪の毛を焼き焦がして、竹の皮に包んで竹に挾んで立てるので、この臭気を猪が嗅いで、いやがって寄付かぬのだといっている。そうするとこの日向あたりのヤイジメはすなわちカガシであり、シメは広くいろいろの害獣駆除法を、総括した名であったことが察せられる。
三河や信州のソメも元はまたそうであったのが、後にはただ案山子の人形ばかりをいうようになった土地も出来たものかと思う。山田山畑を荒らしに来るものの種類が変って来るに伴のうて、これに対する防禦策も、追々に改まるのは当然である。近来は一般に鹿や猪のような大きな動物は少なくなり鳥類の害ばかり烈しくなったようだが、鳥には野獣のような嗅覚の鋭敏さはないらしい。里近くになると多くは鳴子を引き、石油罐をたたき、またこの人形のカガシのみを立てている。だから今日の開けた土地ばかりの状況を以て、以前を推すことも出来ぬのである。
自分は今から二十四五年前に、福井県の西ノ谷から岐阜県の根尾谷へ越えて見たことがあるが、その時山の中のわずかな畠地で、珍しく複雑な鳥獣予防の設備を見たことがある。まず畑のまわりには繩を引廻らして、これに紙のシデがそちこちに垂れてあり、竹の棒も幾本か立ててあって、これにも布片を下げ、またかの焼きかがしを設けている。畑の中には処々に一尺ばかりの石を転がし、それに石灰を水に溶いたものが流しかけてあるのは、兎を驚かすためだといい、杉の小枝の赤く枯れたのを斜めにぶらさげたのは、鼬の形に似せて鳥を追うためだといっていた。それから鳴子を繩の中程に掛けて、風で自然に鳴るようにしてある他に、片隅には筧で山水を引いて来て、それが自然にブリキの罐を叩くようにもしてある。精々二段か三段歩かの粟の畑に、新旧五種以上のオドロカシ方法が、利用してあるのに感心したことであった。
水の流れで自然に音を立てるようにした仕掛けは、九州北部では兎鼓などと呼んでいる。ブリキの器は新工夫であるが、昔は桶のこわれとか瓢箪とかを応用したものであろう。これも一本調子に始終鳴っていたのでは価値がない。水が溜まって来ると引くりかえって、不意に大きな音をして物を敲くように、若干の意匠を加えなければならぬ。現在山間で麦搗き稗はたきに利用し、後には水車小屋とまで発達した水臼が、土地によってはソウズの名を以て知られ、古事記に出る山田の曾富騰と結び付いているのも、私には理由のあることと思える。すなわち遠くはあの書物の編述せられた時代にもすでに近頃の人がカガシを以て蓑笠の人形のことと解するのと、同一の誤りがあったらしいのである。それ程にもこの案山子は、古くかつ人に注意せられる農間の一風物であった。
農家の生産が大切となり、これに対する鳥獣の害が忍び難くなると、山村の人たちは番小屋をこしらえて、夜分もそこに往ってしばしば眼を醒まして獣を追うた。静岡県などではこの事をダオイといっている。小鳥は日中だけだから比較的楽だが、それでも鳴子を時々の風にまかせていてはいられない。始終その繩を手で曳いて、ホオラホウと追わなければならなかった。
謡曲の鳥追舟、または説経節の安寿津志王などは、全くこの苦労を戯曲の主材としたものであった。しかしこういう場合には我が案山子は、少しでも干与しなかったのである。谷川のソウズや日向山中の焼きじめも同じだが、これらは皆作物の安全を人間以外の力に託して、それで済ましていた時代の遺物である。この間には明らかに自力他力の二様の差別があったのである。
そうしてこの害鳥獣の駆除手段が人智の進まぬ時代にかえって自動式であったということは、何だか不思議なようにも思われるが、我々の祖先には単なる動物の生態とか、水とか風とかの自然の法則以外に、別に深く信頼し得るものがあったのである。九州地方の刈しめの場合でも、萱の二三本を一尺おきに畑のめぐりに立てたところで、それを倒して猪・鹿が、入り込むのは何でもないことだ。しかもなおこうしておけば大丈夫と思って、家へ戻って楽々と寝ていたのは、シメというものに敵を防ぐ実力が潜んでいることを認めたからである。案山子の人形なども同じことで、半日も見ていればこれが人間でないことは鳥にもわかる。雀なども引板鳴子には驚くが案山子の頭には折々は来てとまるかも知れない。
これでは困ると思って色々とこの方法を改良し、近頃は笠の代りに鳥打帽を被せたり、古いタオルの頬冠りをさせたりすると、人間の香りが強いので幾分か余計にこれを避け憚るように見える。それを実験すると、これは当世の形にした方が、彼等には本物と見え易いのだと解して、だんだんに案山子の風俗もモダーンになるのだが、その解釈は果して正確を得ているかどうか、まだ実はよく判らぬのである。
むつかしい語を使うことを許されるならば、私はこれを信仰の合理化または呪法が伎芸となって行く過程と認めているのである。
始めて鳥獣の嚇しのこの人形を立てた人の心持は、これが自分達の姿のように見えて、相手を誤解させようというのではなかった。形はどうあろうともこれが霊であって、むしろ人間以上の力で夜昼の守護をするものと信じられていたことは、日向のシオリジメも注連繩も同じことであった。そういう古風な考え方はもう抱いている者もないかと思っていると、地方によって存外に物堅く、今でも、この案山子に対して慰労感謝の祭をしている者もある。信州の南安曇郡などで、ソメの年取りというのは旧十月十日の夜、俗にトオカンヤという晩のことである。年取という語は正月でなくとも、一年に一度ずつ人間の同じように、正式食物を供して身祝いをさせることをいうので、臼の年取り鼠の年取りも同じように、この晩は案山子に餅を供え、また大根を供える。
トオカンヤは十日夜であって十月十日を意味し、中国四国の亥の子のように、これを農終の祝い日として餅をつき、また藁鉄砲を以て地を打って祝う風が東京からごく近い関東の田舎にもある。信州ではこれを案山子祭の日にしていたのである。同じ信州でも村によっては、これをカガシ揚げという処もある。松井氏の辞典にカガシアゲは十月十五日のことだとあるが、少なくともこの地方では皆十日を用いている。
カガシはこの日までしか田の番をしてくれない。それでこの日に田から迎えて来てこれを正座にして田植以来の手伝人を招き、餅やいろいろの食物を饗するのは、この県南北を通じての一様の慣例なのである。
天龍川上流の村のカガシアゲは、見には行かぬが、私はその写真を貰って持っている。屋敷の一隅の静かな処、たとえば土蔵の蔭などに、田から迎えて来たソメを立てて、片手に熊手を、他の片手には箒を突かせて、その日の祝いの食物を供えて丁寧な祭をする。そうしてまたこれを山の神でもあるように考えているらしい。それは不思議なようであるが、私にはなお理解が出来る。農家の信ずる山神は、どこでも狩人の信ずるのとは別である。春は山から降りて来て田の神となり、秋の刈入が終ると、送られてまた山に帰って行くことは、どこの府県も大よそは同じである。その田の神が自身田の守護をせられるとすると、これほど慥かなことはないわけであり、またしみじみとそのお礼をするのも、もっとも千万なことだと思う。
それを人間の模型のように思う人が出来て来て、用の終った案山子がいつ迄も、寒そうに冬田の中に立つことになったかと思うと、しかし一方にはこれと関係なしに、秋の終りの田の神迎えは、今でも厳重にこれを営む村が多い。九州は寒さが遅いから霜月初の丑の日に、丑の日様と称してこれを田から迎えて、やはり信州同様洗い浄めた農具類と共に、庭の仕事場の真中で臼の上にこれを祭る処もあれば、阿蘇ではこれを大黒様迎えといって、その大黒はまた最後の稲株と共に、主人自らが迎えて来て祭ることになっている。四国でも伊予にはこの祭があって、わずか刈残した稲と共に、主人が重そうにして家まで担いで来る。能登の半島では田の神は盲目だとも言う。これを迎えて来る旧十一月の初のある日を、アエノコトともいうのは饗応の式の意であろう。以前は主人が袴をはき、風呂の蓋をとって自ら湯殿へ案内し、また目が見えぬから食物の名を一々告げてすすめたという。神の姿は誰の目にも見えないのに、それをこうして歓待するのは、珍しい想像力の発達である。
普通は何か形式がないと頼りないので、田植には若苗の三つの束を、秋には刈稲を取り分けておいて箕の上などにこれを祭るのである。信州のカガシ揚げに、熊手と箒とを手に持たせるということも、あるいは以前こういうものを以て山神田神のおしるしとしていたのではなかったか。とにかく我々の案山子の姿は最近五十年間にもだんだんに変っている。しかもその名前や心持には、まだいろいろの古いものが偶然ながらも伝わっていたのである。箒や熊手に関する俗信や口碑にも、これを暗示する幾らかの残留があるようであるが、それ迄述べていると余り長くなる。この分は各地の同志者の第二次の観察に委ねたいと思う。
祭日考以後、自分が頻りに問題にしていることの一つは、今日日本の全版図にわたって、少しずつの地方差はありながらも、まず一般に記憶せられている年中行事、旧の二月と十二月との八日の節供は、いつの時代から始まったろうかということ、これと古くからあった祈年新嘗の二つの祭とは、いかなる関係があるのか、または全く別々のものなのだろうかということである。
これについて出雲の神郡、それからその四近の村々などが、どうやら最も多くの参考資料を持ち伝えているらしい。それを芝居のだんまりの幕の如く、君はそちら、僕はこちらの隅を捜しまわるという、今日の実状はまことにおろかしい。地方に小さい団体の相嗣いで起るのは結構だが、それを一国の事業とするには、この孤立の弊を極力避けようとしなければならぬ。それを勧めることも、多分は中央にいる者の本務なのであろうが、欲を言えば地方の人たちも、これまでのような郷土研究ぶり、すなわちよそはどうか知らぬが私の方ではという類の割拠主義は棄てなければなるまい。そうしてお世辞ではなしに島根のこの会などが比較的多量の利他心を抱いておられるように私には見える。それで試みに一つ、わが成城地方の産物を輸出して、果たして貴地との取引が、有望であるかどうかを問合わせて見ることにしたいのである。
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さて自分が毎朝顔を洗う二階の窓から、富士山の方角すなわち西々南に見える多摩川対岸の丘陵地帯は、この私のいう八日節供の風習の、比較的濃厚に伝わっている区域なのであるが、昨年の秋の頃、よくこの辺をあるきまわる稲垣、石井などという青年の口から、ミカエリバアサンの話というのを私は聴いた。あの村々ではそういう名の老女が、このいわゆるコト八日の日には来るというので、そいつは面白そうだ、もっと詳しく尋ねて見たまえといっておいたところ、若い人たちだからすぐに熱心になって、やがて先月の民間伝承に載せてあるような報告文をこしらえて、その石井君が持って来たのである。そうして私の予感は果たして当っていたのである。
その悦びのあまりに、私はこの連中を集めて一席、それから半月ほどをおいて女の人たちの会のために一度、このミカエリバアサンの話をしたが、そういううちにも話はだんだん成長して、もっと考えないと言い切れないことが多くなって来た。今言ってしまうのは実は惜しいのだが、後にまとまらぬといけないからもう一ぺんだけ、遠くにいる人たちに話しておきたいと思う。雑誌に出ている事だけは必要のない限りくり返さないことにするが、ともかくもこれは皆この研究所の所在地から、二時間位で行ける土地ばかりに、分布していた民間伝承なのである。事柄はしかも甚だ簡単である。それからどういうことまでが心づかれ、考えて行かれるかというのが、私の一つの試みなのである。
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何にもせよすでに五十年はもう過ぎていて、それを知っている人は大分年がよっている。聴き流してしまえばこれきりの話であるのはもちろん、今でもごく確実なことは言えないが、七つの実例を綜合して見ると、ミカエリバアサンというのはこちらの聴き取りで、本来はミカワリ・ミカーリ・ミカリ・ミケエリなどの順序を踏んで、わかりやすい言葉に改まって来たものらしい。この詳しい報告を得るまでは、私も実はそれに気づかなかったのである。
ともかくもこういう気味の悪い名の老婆が、この八日の晩には里をあるくというのである。まちがいにもせよ、何か理由がなくてはこんな話が伝わるわけがない。という点が私などの眼のつけどころであるが、その根本にはなお一つ、この晩あるく者の名を、私に注意させる理由が他にもあった。
歳時習俗語彙を見た人は知っているだろう。この晩はまた目一つ小僧もしくは一つ目小僧という怪物が、やってきて家々を覗くという晩でもあった。この一つ目小僧の領域は中々広く、奥州でいうヒトツマナグなどは、きっと八日の夜ときまっているかどうか、まだ少々心もとないが、栃木県などはたしかにそれであり、十二月の八日に来るものをダイマナコ、他の一方のを、小マナコと分けていう処もあれば、一部ではまたヤツマナコといって、眼の八つある怪物がやって来るともいい、とにかくにメカイという眼の多い竹籠を、竿のさきに引掛けて軒に出しておくのを、今ではこの好ましからぬ訪問者の撃退策のようにも説明しているのである。
箱根は江戸人などが化け物の関所の如くいったにもかかわらず、この峠のあちらにもこちらにも同じ話はあり、また伊豆の大島を始めとし、これを一つ目小僧様と様付けにして呼んでいる地方も多い。馬入川すなわち相模川の水域は、ことに本場であるように以前から伝えられているので、私などは例の早合点で、この手近の多摩川の両岸なども、当然に一つ目小僧さまの領分の如く心得ていたのであった。ところが案に相違して、その間に一孤島の如く、小僧は来ずして婆様の来る区域が、広さはまだ精確にはわからぬが、ともかくもつい目の先に展開していることを知ったのである。びっくりしないわけには行かなかったわけである。
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出雲のカラサデサンなどは、土地の人が率先してこれを馬鹿馬鹿しがり、実際の言い伝えを我々に教えてくれない。だから恐らくは研究が少しおくれ、または判らずじまいになるだろうが、目的さえ確固としておれば、むしろこうした意想外なことが、新しい暗示となると私だけは信じている。それでこのようなたわいもないことから、入って行こうとするのである。
見返り婆さん実はミカリまたは、ミカワリバアサンだったらしいことを知って、私ははっとした。というわけは東京の近く、入海を隔てて対岸の上総と安房とでは、今でも十一月下旬に始まる物忌の期間を、ミカリまたはミカワリといっているからである。通例この期間は十一月の二十六日から始まり、終りははっきりしないが少なくとも一週間以上はつづいている。神社によってはそれをまだやかましくいうものがあり、少なくとも物固い本家筋の旧家などでは、誰が何と言おうともこれを守っている。ただその個条が主として不行為すなわち謹慎である故に、外から見ていては目に立たぬだけである。
この名称の本意は不明となり、従っていろいろの新たな解説、たとえば神様が狩猟をなされる期日だから、これをミカリと呼び、静かにして妨げにならぬようにするのだなどともいい、それと打合うような行事も少しは生まれているが、神御自らの狩ということは少しおかしく、また家々の慎しみの種類とも結びつかない。たとえば髪を結ってはならぬなどということは、少しもお猟の邪魔にはならないのである。
ミカリよりもミカワリの方が前ではないかと思うわけは、むしろこの方が一層意味が不明だということが一つ、次にはこの方なら他にも例があるということがまた一つである。捜せばなお出て来るだろうが、今私の記憶しているのは、たしか徳島県の剣山周辺にもあって、これは祭の準備の間、奉仕者が忌み籠ることであった。摂津の西宮のは正月ではなかったかと思うが、ここでも祭に伴のうてミカワリという名目があり、その意味はまだ合点の行くほどには説明せられていない。吉井良尚君などの記憶を尋ねて見たいと思っている。
国内の同志が心を合わせて、一つの問題を凝視してよい理由はこういう処にある。大した事でないと気にも止めず、まして人にも語ろうとせぬ区域に、鍵はしばしば潜み隠れているのである。たとえば地方的不可解の一つなるミノガレという言葉の起りなども、後には立派な証拠として、通用する時が来るのかもしれない。現在の私の仮定などは弱いものだが、今にそんな事があるものかという時が来るかもしれぬと共に、なるほどそうだったと言い得る日が来ぬとも限らぬ。自分はミカワリは物忌のことで、常日頃の肉体を、神を祭るに適するような身に改めること、すなわち身変りではなかったかと思っているのである。
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そう考えても許さるるかと思う傍証の一つは、これも山陰地方でならば得られる資料で、出雲大社を始めとして、遠方の神々へお詣りに行った者が、居村に還って来てから執り行う儀式に、ドウブルイという名が今でも関西には広く分布している。ドウブルイのドウは身体を意味する古語らしく、地方にはまだ伝わっているが、これに当てられたる胴という漢字が雅訓でないためか、室町初期の記録にはもう道振いなどという当て字が普通となり、従ってその語義が不明に帰している。東日本の方には、この場合の儀式のみはなお残って、名称はハバキヌギもしくはスナバタキなどとなっているが、脛巾脱ぎは恐らく砂払いからの再転で、人が神事から人事に移って行く際にも、何かその境目をはっきりとさせる必要があることを意味したものらしい。
現在は出羽の三山詣での場合のみに堅実に守られているだけだが、伊勢でも熊野でも、以前は発足に先だって精進屋に入り、まず身を養って行く食物から改めてかかった。それが再び平常の生活に復帰するために、何か特別の行法を必要としたことは、やがて斎忌の期間の清浄に過ぎて、そのままでは人と交際しにくいような状態であったことを意味し、今日なお我々の説明しかねている大きな不思議、同じ一つのイミという言葉が、吉凶二つの面を持っている理由にまで入って行かれる山口の栞となるのかもしれない。
うっかりこんな説を信じてしまうのも浅慮であろうが、これが確かにそうだ、そうでないと決するまで、ここに立止まって待っているということは、年をとった者にはどうしても出来ない。それで私などはこれはこの程度にしておいて、なおその次に起り得る問題の幾つかを、出来る限り片づけて見ようとするのである。
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誰でもそうたやすくは合点すまいと思う疑問は、仮にミカワリが自ら進んで身を改めることだったとしても、それが一転して多摩丘陵地帯の、怖ろしい婆さんの名になったのはどうしたわけか、ということであろうと思うが、この点は比較的私には答えやすい。単に一つ目小僧の付近の類例があるというだけでなしに、忌を守らぬ者の心の不安は、いつでもこういう形を以て表出せられているからである。妖怪変化の出現というものが、大体にこの法則に支配せられていた。
人のよくいう話は、オバケなど今時あるものかと、半分の勇気を持って行く者が、きまってキャッと叫んで還って来る。古い常識に留まっている者は、始めからおじけているから冒険はしないのみか、むしろそういうこわい話の流伝に参与するのである。しかもこういった経験の増加するのも、世の変り目の一つの現象である故に、後いつとなく退治譚がもてはやされて、人が笑って聴くようになって来る。日本は言わばその堺の線を去ること遠からぬ時代から、一足飛びに現今に移って来ているので、そのために珍しいいろいろの言い伝えを拾うことが出来るのである。
例は幾らでもあるが、最も普通のものとしては春と秋との山の神の日に、山に入ってはならぬのに入った者の制裁がある。これには怪我をした病気になったというものが一方には多いと共に、他の一方には山の神が木を算えておられる処に行き合わせて、算え込まれてしまって木になるという話が伝わり、もちろんこれにはまだ一つも実際の証拠がない。岐阜県の東濃地方などは、山のコの日というのが二月七日と十一月の初寅の日とで、よほどここにいう事八日と近いのだが、ここではその禁を犯すと山の神婆という老女に逢うことがあると伝えている。
その婆は必ずおれを見たことを誰にも言うなと戒め、その戒を破った者は死ぬという話になっているが、そういう経験をした人は恐らくはなく、ただ単に山に入ってはいけないという訓えだけではすまず、どうしていけないかと問う者のあった時に、ちっとでも具体的に印象づけようとする用意であったかと思われる。多くの奇怪談が全国共通のもので、しかもやや昔話の色彩を帯びているのも、これで説明はつくだろう。つまりは聴手がほぼ昔話のすきな年頃の者だったからである。
相模川沿岸の目一つ小僧区域から、この小田急沿線のミカワリ婆地域にかけて、広くこの八日の日の怪物を、ヨウカゾと呼んでいることも私には注意せられる。このゾは助詞であって、ぶつぞ、なぐるぞのゾも同じように、きょうは八日なるぞということを、強める目的しかもっていなかったと思う。これとやや似た例は信州中部から越後の方にかけて、もとは正月晦日を重要視し、この日餅や団子をこしらえて食わぬと、ミソカバアサが来て腕を抜いて行くという話なども残っているが、ここでもやはりこの日山へ入ると、ミソカヨイというものが出て来る。またはミソカヨイという大きな喚び声を聴いて、びっくりして遁げて来たという類の言い伝えがある。これなどもただきょうは三十日よというまでの注意であって、つまりはよくないことに相違ないが、そう大きな制裁を下すまでの必要もないという場合には、この程度の畏嚇でまずよいとしたのであろうが、それにはまた若干の想像のつけ加わる余地があったのである。
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八日の日の畏さを守護しようとした霊物の名が、ミカワリからミカエリに移り動いたということは、むしろほほえましい自然の変化とも私には受取られる。世の常の妖怪とてもトッテカモ、またはクウゾというのは口ばかりでたいていはこちらが目をまわしてしまうだけであった。怖ろしいのは主として眼であって、それが顔の真中に一つあるのも無論こわいだろうが、ふり返ってじろりと見るなども、気味が悪いことは同じだったろう。そうして実際はそれ以上に、別に何もしていないのである。あるいは松明を手に持って、家のまわりをぐるぐるとあるくなどという話もあったらしく、慎しみの足りない家が、怪し火で焼けたというような話もあったかは知らぬが、そういうことはもうはっきりとしていない。
これに対して一つ目小僧さんの方では、下駄はき物を屋外に脱ぎすてておくと、夜分に彼が来て目に見えぬ焼印を押して行き、そうせられると当人が病気になるなどといっていた。つまりは家に閉じ籠って静かに一夜を守っていればよいので、出てあるかなければこんな怖ろしい目にも遭わずにすむのだから、話がどうしても面白くなるわけである。以前そういう不謹慎なことをする者がめったになかったろうことを考えると、これらはただ家の中に集まって、睡らずにいた人々の話柄であって、ちょうど庚申の由来霊験を説く話、または大年の晩には大きな火を焚いて、知らぬ旅人にも親切を尽すべきものだという類の民間説話が、数多く残っているのも原因は一つであったろう。ただそういう中で一つ目の方は行われている区域が広く、見返り婆の方は大分狭いらしいので、後者が後に起りかつ一方の暗示によって、誘致せられたかと思われるだけである。
人はまだ十分には承認してくれないかもしれぬが、この一つ目小僧についてはずっと以前に、私はほぼ気がついていただけのことを書いておいた。日本にはこの一つの想像が、ことに盛んに展開していたというだけで、これは決してこの民族の間のみに限られたものでないことを、今でも私は信じている。ただ何としても不思議でならぬことは、そういう月もない頃の夜の真夜中に、里をあるいてまわる神の眼を、たった一つとはどうして考え出したかということである。古く溯って行けばいかなる信仰でも、みんな説明がつかなくなることは同じであろうが、この点は特に注意してよい不可解であると思う。すなわち今我々の抱いている信仰の系統よりも、も一つ以前からの持ち越しかも知れないからである。
ミカワリ考の著者として、自分が今大いに知りたがっていることは、旧十一月二十三日夜の国巡りに、大師さんが石臼の目を切ってあるかれるという伝説が、現在どの範囲にまだ残り伝わっているかということである。何かの折に年寄りなどがふと言い出しはしないか。これからもどうか気をつけていてもらいたい。御承知の通り摺臼が一般農村に普及したのはそう古いことではない。石臼の目がつぶれると、目に見えて能率が低下するものだが、これには石屋の持つ特殊な道具が入用だから、手細工ではどうもならない。それをある一夜家人の知らぬ間に、そっと来て目を立てて使いやすくしておいて下さる方があるというのだから、小さいながらこれも信仰である。
然るに江戸などでは、正徳の初め頃にこれがはやり、当時のいろいろの書に見えているのを、それから百年余り後に流行した、石塔磨きという墓地の不思議と一つにして、妖怪あつかいをした学者もあった(ききのまにまに、天保元年記事)。田舎の方でもこの霜月大師講の晩だけは、娘たちが内庭の石臼の側を、怖がって馳けて通ったという話を、たしか越後の人に聴いたように思う。古い言い伝えの受入れ方が、年と共に少しずつ変って行く例である。
民間伝承では、四巻の三号に、青森県の例が一つ出ている。東津軽の駒込村などでいうことは、弘法大師は十二年に一度ずつ丑の年に村を巡って擂鉢に目を打って行かれる。青いきれいな衣を着て知らぬ間に通ってあるくから、丑年は擂鉢をきたなくしてはおけないともいうそうである。擂鉢は石臼から考案せられたまた一つの文化であろうが、これは焼きものだから目を切るということは考えにくい。それでただ一の字や八の字を付けて行くといったり、または塗り膳の上に円い一銭銅貨ほどの跡をつけて行くともいったりするが、とにかく大師の立寄った家では身上がよくなると言って、今でもひそかに心待ちにしている人もあるという。ただしその期日は二十三夜とは限らず、秋の末からとも、または春から秋へかけて、廻っておられるともいうそうである(以上)。
これは一ぺん本誌に出たことだが、大分持っている人が少なくなったからもう一度掲げておく。私の目的は石臼擂鉢の空想は新しいにちがいないが、それはどういう信仰状態の下に生まれ、どれだけの区域にまで流布するに至ったかが考えて見たいのである。なお付記したいことは、明和八年のお蔭参りの後に出た「抜参夢物語」という書にも、人家の石臼が知らぬ間に目を切りかえてあるのを、弘法大師の所行とする説があったと述べている。これはたしか上方の出版物であった。石臼の目立てを業としてあるく者は、信州北部その他に少しずつはあったようだが、それの全く巡って来ない村も多く、石が軟かくて早く目の潰れた臼などは、まことに始末の悪いものだった。
荷馬車やトラックが盛んに走り出してから、どこの村にも新道が通ることになった。新道には今までの路を取り広げたのもあるが、多くは真直ぐに耕地原野を切りならして路にしているので、両側にはまだ人家が少なく、地面の形にも裁ち屑のようなものが出来ていて、一目見ただけでも旧い道でないことが判る。旧道はこれに反して、田畠よりも前から開けていたものが多く、そうでなくともなるだけ地面を潰さぬように、川の岸や岡の根を通ろうとし、また歩行が主であったから、坂路の登り降りを避けていない。それで新道が出来ても旧道はまるで不用にはならず、細々ながら永く残っているのである。村の生活に注意しようとする者は、最初にまずこの昔の路の上を、人が右左に行き通うていた時代の姿というものを、胸に描いて見なければならない。
路をあるくということは、人の生活の主要なる半分であった。散歩というような何の当てもない外出をする人は、もとは非常に少なかった。それ故に世の中に入用ないろいろの設備は、神社でも仏寺でも、すべて皆道路の傍に立ち、また道路を以て繋がれている。どれが旧い世の道の跡であろうかが全く不明になるような時代は、恐らくは来ないだろうと思う。しかし村里の中に入って行くと、後々便利のためにつけた小路が、そちこちで交叉していて、土地の人たちに尋ねても、どれが本道であったかを簡単には答えてもらえぬ場合が稀でない。それを一つ一つ聴いて見なくとも、何か大よそ判るような目標はないものかと、旅行をするたびにいつも私などは考えていた。
大体に村を離れで出て行く処で、遠くへ通ずるものと近まわりの小路とは、かなりはっきりと外形がちがっている。だからその出口の二つ以上を、あまり曲らずに繋いだ筋が、古い本道だったと見ておいてよいのである。道という言葉は日本でも中国でも、人が進んで行かねばならぬ心の道、すなわち精神の働きの意味にも用いられている。それで今私の言ったような考え方は、事によると日本人の古来の信仰、神を拝み崇める者の心持の上にも、当てはまるものではないかと思う。そういう考え方を下に持って、ここで私は二十三夜様の話をして見ようとするのである。
古風なやや大きな村里では、ほぼ中央に近いあたりに、辻という場処のあるものが多い。遠くから通ずる本通りが二つあれば、その二筋はそこで十文字に横ぎり合い、そうでなければ村の産土の社に詣る路が、そこから入り込んでいる。すなわち祭礼の日に神の行列が、お降りなされる道路である。辻にはお社の鳥居などの他に、いろいろの注意すべきものが見られる。旅人としては見のがせない道しるべの石もあれば、小さなお堂のようなものもあり、繁昌の店屋もそこにあると共に、土地で最も古いという家も、主が変っていなければたいていはこの近くにある。小さい人たちが集まって来て、毎日遊んでいるのもまたこの辺である。
そういう中でも余りに数が多くありふれているので、かえって二度三度は気がつかずに、過ぎてしまいそうなのは、私のこれから言おうと思う路傍の立石、道祖神とか二十三夜の石塔とかの類で、これは今まで立ち止まって、どうしてこんなものがたくさん立っているのかを、考えようとした人がめったになかった。それだから新たに私たちの知り得ることが、まだこの中には隠れているのである。立石の種類は大よそ数がきまっている。地方によって少しずつちがい、また存外に似ていることもある。東京のまわりに多いのは馬頭観音、これなどは西日本の方ではあまり見かけない。全国に亙って最も普通なのは石の地蔵尊、庚申さんという石の塔、それから道祖神がいろいろあるがこれもたいていの土地で知らぬ者がない。
文字を知る人が多くなってからの石は、大きく立派に名を書いて彫り付けてあるが、古いものはただ浮彫り線彫りの像であり、または何もないただの石もあるので、ちょっと見ただけではまちがえやすく、土地ではこれを何というかを、聴いて知るの他はないものも多い。こういう小さな石の建造物が、幾つか同じ処に並んで立っているのである。村を出離れようとする路の三つ股、野を横ぎって行く路の曲り目、または坂の口や峠の頂上などにも、時々はこれとよく似た石の集合があって、そういう地点を繋いで見ると、だんだんに古い頃の交通路が、はっきりとして来るように思われる。年号と月日を刻み入れたのもこの頃は少なくない。郷土の歴史というものがこれによって、片端は判って来るだけでなく、村から外へ出て行こうとしなかった住民の大部分にとっては、実際これがまた一種の心の里程表でもあったのである。
村の子供たちと親しみの深かったのは、何と言っても石地蔵が一番であった。地蔵さんは顔形も子供と近く、いつも目を伏せて静かに彼等のすることを視ているようなので、みんなその下へ来て常に遊んだ。秋の始めの二十四日などは、地蔵盆といって子供のための祭であった。児を愛する人たちもこれをよく記憶していて、喜びにつけ悲しみにつけ、始終地蔵さんの前に来て、いろいろの願いごとをしては拝んでいた。それで地蔵は子供の保護者であるように、我国だけでは信じられるようになったのである。
しかしその役目は、もとは決して地蔵さんには限られていなかった。道祖神はまたサエノカミともいっているが、これもその祭をいとなむとすれば、祭り手は多くは子供であった。正月の十五日、または二月十月の月半ばなどに、藁で作った馬に餅団子の苞を背負わせて、それをこの神の石像の前へ子供に持って行って供えさせる。子供はそれをさし上げておいてから、前に供えてあるものを食べて還って来る村もある。
家に丈夫なよい児の生まれるように、願掛けをする信仰もまだ残っている。または生まれた児を道祖神の辻へ連れて行って、路を通る人に名を付けてもらったり、形だけその人の子にしてもらったりするような、珍しい風習も近頃まであった。それで道祖神は地蔵の仮の名のように、思っている人も時々はあるのだが、その考えはあべこべで、実際は子供の好きな道祖神を、後に地蔵さんといって拝ませたのである。
子安という神様も、子供の安全を守りたまうと信じられた。しかしこの神を祭るのは子供でなく、専ら村内の若い母たち、またはこれから母になろうという女の仲間であった。東京付近の田舎では、毎月十九日にそういう人々が集まって祭り、かつ何十年かに一度、大きな祭をして子安の石塔というのを建てた。その石にはただ文字と年月日とを彫ったのもあるが、私などの知っているものには、髪を長く後に垂れた貴げな女の人の、赤児を抱いている像などもあった。もとは仏教のものでなかったことはほぼ確かであるのに、これも近頃では子安地蔵といって、子を抱きかかえている石の地蔵が作られているのみか、なおその外にも子安観音、子安の釈迦と名のる仏像さえ出来ている。ただしこの後の二つは、まだ路傍の立石の中には少ないようである。
その次にこれも中部地方から、東にばかり多いようであるが、路の辺に立つ石の塔の中に、雷電神という文字を彫刻したものがあって、これだけは像になったのが少ないので、どういう神様であるのかよくわからず、名前が何か怖ろしい故に、群馬栃木二県の山近くでは、ただ落雷を防ぐために、立てているようにいう人もある。しかし本来はやはりまた恵みの神であったことは、今でも雨の少ない夏、同じ名の神の社に祷り、または稀には天から非凡な強い児を降し賜わった、記念の地という雷電松の伝説もある。路の傍の雷電さまの石が、どうして立ったかはまだ明らかでないが、すでに子安や道祖神や石地蔵の例がある以上は、あるいはこれももと少国民の幸福のために、始まった風習ではないかと私は考えている。
数多くの立石の中では、ことによく知られている庚申と馬頭観音とが、少年少女とは何の関係もないように見える。それを説明するならば、まず馬頭観音は新しく始まったものかと思われる。現在でもなお次々と立てているようであるが、これを立てる人はたいていは馬の飼主で、馬が途中で斃れるか、もしくは大きな怪我をしたとき、目に見えぬ馬の霊を慰め、また再び同じ災いのないように、その場処に近く石を立てるものが多いので、在り所が幾分か散らばっている。
馬の頭を持つ道の神である故に、それを運送用馬の保護者の如く、考え始めたのも無理はないが、この信仰の起りは別に在り、またもっと古かったようである。私は静岡県の古い道路をあるいていて、ある一つの坂の崖下に、四角な穴を掘り窪めて、本ものの馬の頭骨を安置したのを見たことがある。奥羽地方でも人の家の入口などに、杙を打って同じような馬の首を、幾つか掛けておく風があったことが、今はどうか知らぬが、以前の紀行文には見えている。東京近くの村里の中にも、今ある庚申の石像をよく見ると、額の正面に馬の頭を付けたものが幾つかあり、一方にはまた馬頭観音の像だといって、石の表に彫刻してあるものには、非常に庚申の青面金剛像と、よく似たものが見られるのである。
庚申の信仰は中国から来たものだと、学者だけは昔からそう言っているが、双方の形はいろいろの点でちがっていて、同じなのは名前ばかりと言ってもよいように思われる。そうしてまた仏教とも思えない、こちらだけの特徴もあるのである。馬の頭を切って祭をするなどといくことは、もちろん日本の神道の外であるが、北アジアの民族の中には、そういうことをする者があり、また我国でも少しずつそんな痕跡がある。いつか知らぬうちにそんな習わしが、我国へも入って来ていたのかも知れない。少なくとも馬頭神のもとの形と、庚申像との間には何等かの関係があり、そうしてまた二つとも、子供とは直接の因縁がなかったようである。
わずか三十年か四十年の前まで、庚申の夜の集まりは大きな行事であった。村でもおもだった家々は皆参加して、二ヵ月に一度の会であった上に、夜どおし睡らずに話をしたり、物を食べたりして明かすのだから、女や子供にも忘れられぬ印象があった。しかしもう今日となっては、説明しなければ解らぬ人が多くなっているであろう。日本は国の初めから今日まで、十干十二支の組合わせを以て日を算える仕来りをもっているが、庚申はその中のカノエサルという日、すなわち六十一日目に一度ずつ、順まわりに親しい友の家に寄合って、徹夜で祭をする永い間の慣習であった。その団体の名を庚申講、仲間の一人一人を講中ともいって、お互いに家代々の友であり、ちっとやそっとの事では退会もせず、また新たに講員を加えることも稀であった。
宿になる家を頭と呼び、家並かまたは帳面で順がきめてある。一年の始めか終りの一度だけは、やや大きな会をする。また十年とか五十回目とかになると盛んな催しをして、石の庚申塔を建てることもあったが、普通の講の晩はわずかな食料を持ち寄り、頭家では神酒燈明供物を用意する他は、ただその食べ物の世話をするだけである。一つ変っているのはその晩は風呂をたてて、集まって来た仲間は皆入浴するというのが通例であった。こういう事にも何か深い意味があるように、私などは考えているのである。
夜あかしの祭とは言っても、そうこみ入った儀式があるわけではなかった。風呂から上って来て全員が揃うと、やがて定めの作法によって唱えごとがあり、または経文が読まれるが、初夜すなわち十時頃にはもう終って、神酒を下げて少しずつ戴き、ゆるりと一同が食事をしてもまだ夜中にはならない。それから夜明けまではただ雑談に時を過して、睡ってしまいさえしなければよかったのである。かねがね相談したいと思う村の問題を、この晩まで溜めておくこともあったろうが、それも片づいてまだ残る時間には、興味あるいろいろの世間話、または何度も聴くような昔話もこの時に出て、忘れていた者は思い出し、若い連中は新たに覚えるのであった。
以前は人がこの私の話のような、悠長なことを話すのを嘲って、そんな話は庚申の晩に聴こうなどという言い草のあったのを見ると、庚申の晩の話は、相応に悠長なものだったのである。しかしこうした自由な時間のあったお蔭に、人は物わかりのよい話好きになり、また眼の前に入用のない事物や諺を覚え、一方にはまた人に耳を傾けさせる話術が進んで、国語の利用が国民の端々に行き渡ったのであるが、もちろんこれは庚申の信仰が、いささか衰えかけてからの副産物であった。
関東平野の村々をあるいて見ると、過去三百年の間に立てられた庚申の石塔が実に無数であって、文字ばかりをしるしたものは割合に少なく、いろいろの物の形を彫刻したものが多い。それを気がついたたびに見比べて行くと、考えずにはいられない珍しい事実を発見する。まず第一は人が庚申様といって拝む神のお姿である。青面金剛ともいった、顔の怖ろしい、手の何本もある印度の武将のような形であるが、これはそう早くからの事ではないように思われる。この像の上の方には、日輪月輪を右左に表わしたものが多い。
それよりも皆さんが目を留めずにはおられないのは、この像の足の下に踏まえているアマノジャクという醜い怪物と、それからまた別に三つの坐った猿、見ざる言わざる聞かざるともいって、一つは両手で眼を蔽い、一つは口をおさえ、一つはまた耳に手を当てている。これは庚申が猿の日の祭であるためにちがいないのだが、猿が天台宗と縁の深い日吉神社、俗に山王さんというお宮の使者だからと、言って聴かされている人が今日では多い。それからまだあるのは、この日月のお形の下に、一方には鶺鴒という小鳥、他の一方には鶏が彫り入れてあることで、説明がないとこれだけはよく解らない。今までの学者の解釈によると、鶺鴒はよく馬屋の口へ遊びに来る鳥である故に、中国では馬櫪神という馬の保護神の像の片端に、この小鳥を描くものがあった。それを採用したものだろうということで、私もそうかも知れないと思っている。
猿も日本を始めとし、東アジアの諸民族の間において、馬の災いを防ぐ力のある動物と考えられ、初春には厩の前で猿を舞わし、または厩の柱に猿を繋いでおく風習が広く行われていた。すなわち庚申はその猿の日だから、この日祭をする神は馬の安全を守りたまうべしと、考え始めたのが元だったかとも見られるのである。鶏は素より夜明けを報ずるめでたい鳥であったけれども、これを庚申さんの傍らに持って来るのには、何かまた特別のわけがなくてはならない。私の想像では、これは猿の日の翌日が鶏の日だから、一方を重んずれば自然にこれも出て来る。つまりは祭がこの二つの動物の日を連ねて、徹夜に行われることを意味するかと思う。
アマノジャクという醜い怪物は、今では天邪鬼などと字に書いているが、九州の方へ行くとアマノシャグメという人が多い。書紀や万葉集のような古い書物に、天之探女と出ているのも同じもので、これを意地悪で悪戯好きで、いつも人間のいやがるような事をする魔物であったように、今でも古い人たちは言い伝え、または話の種にしている。多分庚申の晩の夜明かしには、よくこういう話が出たので、これを足の下に踏み付けている神さまというのも、つまりはこの日の祭を慎しみ営むならば、そのお蔭によって村にいやな事が起らぬのだという意味を以て、信仰せられていたものなのであろう。
我々の祖先が庚申の晩に祭っていた神様は、結局はもう不明になっているというより他はない。中国にも庚申の夜を守るという風習だけはあったが、それはただ警戒の夜というまでであった。睡れば三尸という虫が人間の身から抜け出して、天に昇って隠し事を密告するなどともいっていたが、我国ではそういう後ろ暗いことは言わなかった。我々の信仰は最も慎しみ深いもので、心と身を浄めて、穢れを去り悪念に遠ざかり、一夜を神の前に参籠することによって、団体共同の幸福が得られると思っていたことは、仏法の教えよりも、むしろ国固有の神道の方に近かった。それを村々の神職たちが指導しなかったのは、一つにはこの晩床の間に掛けて拝む掛軸が、路傍の庚申塔の彫刻と同様に、もう神道では説明し難いものになっていたからである。
全国到る処、どこでも庚申の日にこの祭をする風習が行き渡ると、神の絵像を木版に刷って、表装までして売るようになったのも自然なことで、これにもわずかずつのちがいはあるようだが、大体にこれを作らせた人は僧侶たちであった。しかもその絵の中には前にも言うように、仏教では説明することの出来ないいろいろの異分子が、半分以上も混同しているのである。石塔を頼まれて彫刻する地方の石屋等は、手本をこの掛軸の絵に取ったので、信徒はまただんだんと、庚申様はこういうお姿の神だと思うようになって来た。この祭に読む経は何と何、また唱えごとはこういうのがよいというような、小さな幾つもの指導書も法師の手に成っている。
ちょうど今から七八十年の前まで、大小多くの我国の神社を、僧侶がお祭りしていたのも同じことで、この方だけには終に改革がなかったのである。これには奈良朝以来の永い永い原因があったことは、誰にでも考えられることであるが、その一つの大きな力は念仏の流行であった。農民はむつかしい経文はわからぬので、こういう夜の祭の集まりにも、ただ南無阿弥陀仏を唱えていた。それが念仏講といって今の世にもなお続き、またその記念のために多数の石塔を建てたり、多数の念仏塚という塚を路の傍らに残したのである。
そういう講はもと念仏のために結ばれたものでなく、ただ講中の人々が念仏を教えられたというまでであり、親しい友だちが月に一度または二月に一度、集まって夜籠りをする慣例の方が、もっと古かったのではないかと私は思っている。そうしてその集会の日を、六十一日目毎の庚申の晩としたのも、その一つの新しい方式に過ぎなかったことは、これから話して見ようとする二十三夜講の実例から、大よそは明らかになって来るのである。
庚申さんが青面金剛などというような、妙な外来の神でなかったとすると、そんなら何という神かということが、当然に問題になって来るが、これはただ庚申の日にお祭り申す神という以上に、詳しく名を知ることは誰にも出来ぬだろう。一体日本人は、軽々しく神の名を口にする民族ではなかった。神道の歴史を説く者だけが、それを構わずに呼ぶようになっているが、信ずる人々はなおご本名と思うものは諱み憚っている。ことに農民に至っては、村にただ一つある産土の神の御名さえ知らず、ただお宮といい明神さんといってすませ、その他の神々でも山で祭るから山の神、泉のほとりに祭ればカワの神またはオスズ様、正月に祭る神を正月様、盆に祭る神を盆さまなどといって区別していた。
庚申さんはつまり庚申の日の晩に、お籠りをして祭る神ということだったので、それ故に越後や佐渡ではただオカノエ様ともいい、薩摩などではサッドン(猿殿)とさえ呼んでいるのである。京都内外の古い大きな神社でも、申の日酉の日または卯の日等を以て、毎年の例祭を執り行うものが、稀ではない。それは古い頃からの慣例には相違ないが、その日がただ十干十二支の六十の組合わせの一つだからと言って、この信仰までも隣国から、教えてもらったように思ったのは誤りである。
村にはこの庚申待や甲子待ばかりでなく、子安講・観音講・地神講その他いろいろ、庚申と似通うた寄合があった。家代々の親しい人々が仲間になり、順まわりに宿をして共々に神を祭るという団体は多かったのである。しかしそういうのはたいてい昼間集まるだけで、食事でもすますと解散することに今はなっているが、別になお幾つかは庚申と同じように、一夜を睡らずに語り明かす集会があって、これを総称してまちごとといっている。
まち事の中では日待と月待との二つが最も全国的である。日待は旧暦十月の十五日、または正月中旬のある日、または月々の農事の少し閑な日に、やはり仲間の家に寄合って神を祭り、夜どおし起きていて、翌朝の日の出を拝んでから別れるもので、土地によっては庚申も甲子も、共に日待の一つのように考えているものがある。マチは古くからの日本語であって、その最初の意味は「おそばにいる」こと、すなわち神と共に夜を明かすことであったのだが、後々それを「待つ」ことだと思うようになって、夕方の祭よりも、朝の方に重きをおく者が多くなったのである。
二十三夜の月待なども、それと同様に月を待つ催しの如く解せられた。しかし二十三夜講の頭屋では、やはり庚申講と同じく、人が揃うとすぐに、まず宵のうちに祭を行うのであった。そうしてこの二十三夜と庚申と、二つの間にはことによく似通うた話が多い。たとえば十年に一度とか五十回目百回目とか、または何か特別の祈願のある時とかに、記念の大祭を挙行して、石の塔を一定の場処に建てるということも同じであった。石に年号月日を刻したのは、三百年より古いものは稀なようだが、これは一つには字の読める人が少なかったのと、また一つには石工がなく、石を斫り出す者が村におらず、石塔の代りにただ土の塚を築いていたからで、起りは決してそのように新しいものではなかったようである。
拝む人々が神の御名を口にしなかったために、次第に祭神が不明になって来たことも、庚申と二十三夜とはよく似ている。そういう中でも二十三夜の方は、仏教の人たちもあまり口を出さず、青面金剛のようなかわった掛軸も、作って売る者がなかったから、この点が今でもはっきりとせず、石塔の表にも文字ばかりを彫ったものが多く、人はただ二十三夜様という神様があって、この晩は村々をご巡回なされ、信心の深い人々には徳を施し、恵みを垂れたまうものと思っているだけであった。
それが月天子である。または月読尊という神様であるということは、誰しも考えやすくまた物知りの言いそうなことであったが、夜毎に出ては照らす空の月が、この二十三日の祭の夜ばかり、そういう神になりたまうということは、かえって単純な少年少女などには、受け難い話であった。なぜ他の日には何もなされぬのかということが、まず彼等の疑問になるからである。
二十三夜のお月様は、薬袋を背負ってお出やるそうななどと、言っている村は方々にあったが、それはこの晩の祭をよく勤める者は無病健康で一生送れると、言うような時に引くことわざのようなもので、そうだろうかと思って出て見る者などは子供にもなかった。二十三夜の月だけは三体になって山を離れるということを聴いて、まさかと思ったことは私にもあるが、これは今宵の月が弥陀の三尊のお姿をお示しなされるといって、信じている者が古くからあったためである。すなわちこの晩もまた祭の後、念仏を唱えて夜を明かす者があったので、こういう話も起ったのである。
しかしそれも今はただ話ばかりになって、やはり二十三夜の晩になると老人が思い出している。事実その通りと思う者は少なく、だそうなとか、という話だとかを付け添えて、古い言い伝えのまだくり返されているのは、これも夜籠りの一つの功徳であった。私は久しい間、こういう種類の話を方々で拾い集めて、二十三夜という不思議な風習の起原を、この方面から尋ねて見ようとしている。二十三夜の文字までがあの通り単純な、どうかすると見過してしまいそうな、この小さな路傍の立石の背後にも、まだまだ沢山の昔が隠れているということが、これからだんだんと判って来そうなのである。
二十三夜様の昔話というのは、珍しく国の端々によく伝わっている。たとえば九州もずっと南、薩摩の甑島という離れ島などにも、この夜の月が三体に分れて出たという口碑がある。甲賀三郎の物語などと近く、三人ある兄弟の末の弟が兄に憎まれて、地の底へ押し堕される。弟は土の下でもなお二十三夜を拝み続けていると、三年目の九月二十三日の晩に、お月様が三体になって出現なされ、中央の一つは天に留まり、左右の二つは船と船子とになって、その弟を載せて白浜という海辺に着いた。そうしておれは二十三夜の月だと言って、天に還って行かれたと語っている。月を船というのは島であるためだけでなく、この夜の月は形も船に似ているので、ことに漁民は救済の恵みを信じていたものかと思う。
然し二十三夜様を月だとは言わぬ土地にも、これにやや近い神の示現を説く話が多い。その中の最も珍しく、かつ庚申様の方の話と似通うたものが、やはり鹿児島県南部の喜界島にも残っていた。昔ある処で二十三夜の集まりをしている家へ、見すぼらしい破れ衣を着た一人の旅人が尋ねて来て、祭の仲間に入れてくれという。通例こういう者は加えないのだが、主人は心のすなおな人なので快くそれを許した。祭が終って明くる朝、帰って行こうとする際にその人は、この次の二十三夜は私の家で宿をしたい。どうか来て下さいと住所を告げ、招待をしておいて行ってしまった。
あんな乞食のような男に何が出来るかと、仲間の者は信用しなかったが、それでも約束だからと誘い合って行って見ると、今まで気がつかずにいた立派な住居がそこに在る。亭主は前回の破れ着物の人で、これはよくお出で下さった。支度にかかりますから暫らくお待ちをと言って、台所へ下ったままなかなか出て来ない。そっと覗いて見ると、爼板の上に赤児のようなものを載せて、頻りに料理していた。それは人魚というまたと得難い魚だったのだが、仲間の人たちは気味を悪がって皆逃げて帰り、正直な前の頭屋の主人だけが、残ってその人魚の肉を御馳走になった。それからいよいよ月が昇ってからの帰りがけに、おまえは誠に正直な善い人だ。こういうことを教えて上げるから途中でやって見なさいといって、刀を一本与えられた。
それはシキという大きな火柱のようなものを、この刀を以て斬り払うと、あまたの金銀ががらがらと空から落ちて来るという話で、あまり長くなるからここには詳しく述べないが、これと三分の二以上も似よった話が、遠く奥州の北上川流域にもあったことが、吾妻昔物語という書物にも載せられている。そうして喜界島の方ではこの異人が二十三夜の神様であって、それを知らなかったけれども前の祭宿の主人は、信心深くまた正直であった故に、神の恵みを受けて大へんな長者になったのだと語り伝えているのである。
皆さんはもう何かで読んでおられるかも知らねが、この人魚の肉というのは、我国では極めて有名な話であった。今でも年をとって容貌の少しも衰えない人を見て、人魚でも食べたのかと戯れに言う者があるように、この肉を食べると長命で、かついつまでも年を取らずにいられるというのが、中世以来の言い伝えであった。この人魚の料理を物蔭から覗いていた人々が、疑いの心を抱いて食べずに逃げて還り、たまたま無邪気にそれを食べた一人だけが、いつまでも老いず死なずにいたという話、これがまた各地に広く行われている。
その中でも多くの書物に載せられたのは、若狭の白比丘尼という女であって、八百歳になるまで、美しさは娘のようであったと言われている。これは父親がこの人魚の肉を一きれそっと持って還って、着物を着替えるときに畳の上に取落したのを、まだ這いまわるほどの小さい児であって、何も知らずに食べてしまったのであった。そうしてこれがまた今まで見たこともない人から、庚申の晩に招かれて行って、貰って来たものだったという話になっているのである。
つまりは遙か南の喜界島においては、二十三夜講の晩の出来事として語り伝えている奇談が、内地では庚申の話となって、諸処方々に分布しているのであって、島にはまだ庚申の日に夜籠りの祭をする風が始まっておらぬらしいから、あるいはこの二つの講がもとは一つだったかという想像も成り立つのである。人魚の肉という点はないのもあるが、私が覚えているだけでも紀州の吉野川のほとり、岐阜県では飛騨の益田川の岸の村、遠く北に離れて福島県会津のある村などでも、何れも庚申の晩に見馴れぬ旅人が来て、強いて仲間に入って一夜を共に過したという話がある。帰りがけに次の庚申を自分の家へ招き、見たことのない立派な家で御馳走をしたとか、その他いろいろの人間わざでない不思議を現じて、さてはあの旅人は神であったかと、心づいたことは皆同じである。
たった一つの二十三夜とのちがいは、一方ではこれをその日に祭る神とは言わずに、別の尊い神だったと伝えていることであるが、それならば何も庚申の日の出来事として記憶するわけもなく、またこの晩の話題となって、永く伝わっている筈もないのであった。つまりこの日に祭られたまう神が、不明になってしまったという以上に、青面金剛などという外来の神の名を以て置き換えられた結果、こういう古くからの言い伝えが、次第に似合わしくないものになって来たのであって、その変遷の路筋が、今はまだ幽かに二十三夜様の方の話によってわかるのである。
二十三夜にお祭り申す神が、日を定めて遠い処から、降りてお出でになる神であったことは、また全く別な方面からも考えて見ることが出来る。そうして私は庚申の夜に祭る神も、もとはやはりそうであったろうと思っているのである。古い京都の記録を見ると、今からもう四百年近くも前に、宮中にもこの二つの御夜籠りがあったが、二十三夜の方は毎月行われた時があり、庚申は当然に二ヵ月に一度であった。毎月一度ということは信心の篤いうちはよいが、あまり回数が多いとかえって粗末になりやすく、時や費用の上からも大きな祭は出来ない。それで今でも二十三夜講は、村によっては毎月のところと、四ヵ月に一度のところと、春夏秋冬に一度ずつのと、年に一回だけ重々しい祭をするものとがあるのである。
そういう中では、年に三度というのが最も多い。通例は正月と五月と九月、この三つの月は一般に祭の月となっていて、そのためには婚礼とか引越しとかいうような、日の自由にきめられる祝い事は、なるべくこの月を避けている。そうして二十三夜なども念を入れてこの月に行うたのであった。その以外に年に一度という土地では、秋の初めの七月二十三夜というのがあり、または冬のなかばの旧暦十一月の二十三日、すなわち霜月三夜というのも古くからあった。
新暦では十一月はまだ農事の忙しい、人のくたびれて早く寝る頃だが、以前の太陰暦という暦では、もう寒くなって雪が降り始め、夜分がしんとして淋しくなって来る。兵庫県但馬の村々などでは、この霜月三夜には山々の獣までが山から出て来て、この晩の祭をするという言い伝えがあり、子供は楽しいというよりもむしろ気味わるく、静かに炬燵にあたって木枯しの音を聴いていた。尊い神様が吹雪の風に乗って、里をお巡りなされるといったのもこの晩の事である。中部地方から東の各県、北陸一帯、または山陰地方も但馬から西の方では、この晩だけは二十三夜とは言わずに、大師講といいまたはその大師の昔話によって、跡隠しとか擂木隠しとか、その他いろいろの珍しい名を以て呼んでいる。
むかしある一人の貧しい老女の家へ、この寒い二十三夜の晩に、戸を敲いて大師が訪ねて来られる。何か食べ物をさし上げたいと思っても、ひどい貧乏なので家には何一つもない。悪い事とは知りつつも、そっと隣家の田に行って、掛稲の穂を五六本盗んで来る。または大根を畠から抜いて還る。大師はその志を憫れんで、雪を降らせてその老女の足跡を隠してやった。その因縁によって今でもこの夜はきっと雪が降るのだとも言い伝えている。暖かい雪の降らぬ土地の生まれでない限り、この話は今でも聴いて覚えている人は多いことと思う。
あるいはまたその貧しい家の婆が、足は擂木のように指のない片輪であった。これではこの女の所業ということがすぐ露われる故に、雪を降らせて足跡を隠して下されたのだという処も少なくない。ところが越後の魚沼地方などでは話がまた少しばかりちがっていて、この霜月二十三日の夜更に、村々を巡ってあるかれる大師という人の、足がデンボであったともチンバであったともいい、それで自らの足跡を人に見せぬように、雪を降らせたまうというように伝えている。
これはたしかに同じ話の二つに分れたものであるが、この方が古くからのものだろうと思うわけは、跡隠しの伝説の全くない土地にも、なお霜月三夜の大師さまは、跛者であったとも片足神だったともいう者が稀でないのである。人は大師と聴くとまず弘法大師のことと思い、それから弘法が破れ衣の旅僧の姿で、今でも全国をあるきまわっておられるように言う者があり、高野山の方でも御影堂の大師のお姿が、毎年のお衣替えにはすっかり法衣の裾を切らせておられるなどという話も出来ているが、もしもこうしたさまざまの話を聴いたならば、この霜月三夜の旅の神だけは、弘法大師でないと言わずにはいられぬだろう。
東北地方も端々の方へ行くと、この大師は女性だという人さえある。デイシコは夫がなく、二十三人の子供があった。この日こしらえて上げる粥や団子の膳には、長い二本のちんば箸と、もう一本の杖というのと、必ず三本添えることになっているのだが、これもあんまり児の数が多いので、一々傍へ寄って食べさせることが出来ず、それでこのような長い箸が入用なのだという説明がついている。あるいはまた大師は子供が多いので家が貧しく、二十三日の粥に入れる塩がなく、それを買いに出て途中で吹雪に遭って倒れた。そういう由来によって今でもこの日の粥だけは塩を入れないという者もある。
大師講の日には何処でも粥を煮て供え、それに塩を入れないことは事実であるが、他の土地ではまた貧家の女が、旅の弘法大師にこの粥をさし上げたときに、どうして塩を入れないのかとわけを問われて、塩も買えぬような貧乏なのですというと、それは困るだろうと杖のさきを以て地面を刺し、塩水の湧き出す泉を授けられた。その記念のために粥に塩を入れないのだと説明している者もあるのである。こんな珍しい幾つかの話が、そこにもここにもよく記憶せられているのを見れば、この十一月二十三日から二十四日にかけての一夜も、やはり人が睡らずに睡気の醒めるような話を、頻りにする晩であったことが想像せられ、いかにも田舎の冬の集りが、のんきなものだったことが考えられるのである。
私たちがお大師水、または弘法水と名づける諸国の伝説には、明らかに十一月二十三日の出来事だったというものは幾つもないが、事柄は前に出した喜界島の二十三夜様とだいぶ似ている。そうしてその起りは、たしかにまた弘法大師の生まれた時よりも古いのである。日本全国には千以上、地方によっては村毎に、また泉毎にこの話があって、何処のもたいていは同じことであった。
昔一人の女が窓の下で機を織っていると、きたない破れ衣の乞食みたような旅僧がやって来て、水を一杯もらいたいといった。昔の地機は紐でからだを機に結わえたものだったが、心のやさしい女なのでその煩わしさも厭わず、紐をほどき機から下りて、遠くへ水を汲みに行って来て飲ませた。どうしてこのようにひまがかかったのかときかれて、ここは水が悪く乏しく、町十町も行かぬとつめたい水がない。それを汲んで来たから遅くなりましたと答える。それは毎日骨折なことであろう。お前は心の善い女人だから、この門前に清水を一つ出してやろうと、杖で程よい処を刺すとたちまち美しい泉が湧いた。それが今もある名水で、一名を杖立清水といっているというのも多い。
あるいはその近所に不親切な女があって、旅人が水を求めると、そこの洗濯盥の水でも飲めといった。それでその家の井戸は今でもきたない泥水だというような、裏の話のついているのもある。四国の一部では、その旅僧が最明寺時頼だったという話になっているが、女が茶碗の縁を少し打ち欠いて、ここは私が口をつけたところですから、他のところから飲んで下さいと言ったので、これもその謹しみ深い行いが大いに賞せられた。沖繩の島などは、最明寺も弘法大師もまわって行かぬ離れ島だが、やはりこれと全く同じ話があって、これは神様が姿をかえて、人の心を試みられたもののようにいっている。
わずか水を一杯というような小さなもてなしでも、志の深い者は神のお恵みを受けるという教訓であったろうと思うが、これと同じ話はまだいろいろある。たとえば女が川に出て大根を洗っている処へ、やはり見すぼらしい旅僧が来て大根を一本くれよという。この川には水がないのでまだ洗えませんとうそをつくと、そうかといって去ってしまったが、それから以来大根を洗う頃になれば、川にはきっと水がなくなるという大根川という流れが、九州などには十数ヵ処もある。
大根はちょうど霜月頃が収穫の盛りであり、また二十三夜様を祭れば大根がよく出来るという俗信が東京の近くにもある。甲子祭の日に大黒さんが来て、大根を洗う女に一本くれよと所望なされた。これは主人の物ですから上げられませんが、ここだけは余分ですからさし上げましょうと、二股大根の片方を取って上げた。それから甲子の日には二股の大根を供えて、大黒さんを祭るのだという話が東北にもあるから、この話などは多分霜月三夜の大師講と関係があり、従ってその晩の夜話にしていたものであったろう。
この以外にも石芋脂桃不喰梨の類、この梨は硬くてとても喰われませぬと欺いたら、それから後は喰うことの出来ぬ梨になったというような話は、たいてい皆大師の逸話となって各地に分布しているが、誰でも知っているほど数が多いのだから、もう詳しくはここで述べない。次には弘法機といって、これは少し大師の方が無理かと思う話がある。これもやはり女が二人、隣どうしで機を織っているところへ、例の旅僧が来てその布を何尺とか、ここから剪ってわしにくれと所望する。一方のかたましい女はもちろんこれをはねつけるが、その隣の女は僧を敬い、惜気もなく鋏を入れて渡すと、それが実際は人の心の試験だったので、すぐ及第して大きな御褒美を頂戴する。それは何でも果てなしに続くという不思議の力であった。この女が布を機から卸して物差で測り出すと、何尺取ってもその跡がまだ残っている。それでたちまち大金持になってしまった。
悪い女はそれを見て羨ましくてたまらない。方々探しまわってその旅僧を見つけ無理にひっぱって来て、くれとも言わぬのに布を何尺か剪って渡すと、御褒美はこれも同じ力であった。やれ嬉しや、まず水でも汲んでおいてから布をはかることにしようと、手桶を下げて井戸へ行き、水を持って帰る途中、すべって転んでその水がこぼれ、それがまた一旦始まったらいつ迄も続いて、しまいにはこの女の家屋敷が沼になった。その沼が何とか沼だそうなというような人を笑わせる話も、やはり同じ言い伝えを親にして生まれたものである。
それからもう一つ、これは今少し新しく出来たものらしいが、宝手拭という話がある。むかし心の美しい、顔容の至って見にくい娘があって、長者の家に奉公をしていた。主人の妻女の物吝みが強いので、自分は流しの余り物を食べ、我が食う分を残しておいて旅僧に施していた。ある日ふらりと来たのが弘法大師であることを知らず、そっと後を追いかけて用意の食物をさし上げると、お前は珍しい善人だからこれをやろうと、この方は向うから三尺ばかりの布をくださった。それを手拭にして顔を拭いていたら、二三日もたたぬうちに見ちがえるほど綺麗な女になった。家の女房もびっくりして、どうしたどうしたとわけを尋ね、急いで自分も旅僧を見つけて来て、うんと御馳走をしたのでまた手拭を頂戴する。しかしそういう身勝手な施しなので、美しくなって行く筈もなく、毎日少しずつ顔が長くなって来て、しまいにはヒヒンと嘶いて飛び出したなどといって笑わせている。
この話の基になったかと思うのが、東北にも広く行われており、また一方の国の端、沖繩の島にもまだはっきりと記憶せられている。それは食物を僧に施したという代りに、不思議の旅人に一夜の宿を貸したということになって、やはり貧しい親切者と、強欲な金持との対照を示している。霜月二十三日の夜ではないが、普通は正月も近づいた年の暮にという話が多い。
見馴れぬ旅の人が来てどうか泊めてくれというのを、長者はすげなく断って追い出すように門をしめる。その隣の貧乏人は、おとめ申したいのは山々だが、何分さし上げるような食べ物がないのに困るというと、いやいや火の傍にさえ置いてくれるなら、飯はわしがこしらえるからと、大きな空鍋を出させ。袋の中から耳掻きに一ぱいほどの物を出して、水を入れて火の上にかけると、たちまちのうちに一鍋の真白な米の飯が出来た。それを主人夫婦にも食べさせて、お前たちは誠に立派な人だ。今に隣の長者一族が猿になって山に入ってしまうから、その跡に入って住むことにしてやろうと言った。その旅人は実は神様だったのである。
長者は神を粗末にした罰で、果たして猿になってその家にはいられなくなる。正直な貧乏人は代りにその屋敷を持つことになったが、沖繩の話ではその猿が恨み悲しんで、毎日山から来て門の石に腰かけて啼いた。どうしたら好いでしょうかとまた神様に窺うと、そんならその石を熱く焼いておいて見よとのことなのでそうすると、それを知らずに来て腰をおろし、尻を焼いて飛び上って逃げて行った。それから今でも猿の尻は赤く、猿の手は真黒に汚れているのだとも、またもとは染物業だったからともいっている。すなわちもう結果を子供が笑うように、童話とかいうものの形にしているのだが、もとは今一段と人が信じ得るような言い伝えであったことは、古い書物との比較によってわかって来るのである。
その古い話というものの一つは、広島県備後の疫隅宮という神社の由来で、これは延長年間の風土記に出ていたというが、それが事実であっても弘法大師よりはずっと新しい。むかしこの土地に巨旦将来・蘇民将来という兄弟の者が住んでいた。巨旦は無慈悲で神を敬わず、蘇民は正しい善人であった。武塔天神という北方の神様が、南海の美しい女神を娶ろうとして、ここに一夜の宿をお求めなされたときに、前の話と同様に一方はこれを拒み、他の一方は快くお迎え申して、栗の飯を進めたともいっている。
武塔天神は今の京都の八坂神社、俗に祇園さんという疫病の大神であったという。神が南の方から八人の御子を連れて帰りたまう日に、お憤りによって巨旦はたちまち打ち滅ぼされ、蘇民の末は永く神の御庇護を受けたということになっていて、現に今でも国々の天王社または祇園さんのお社から、授けられる疫病除けの守り札には、蘇民将来子孫也という文字を、書いたものが多いのである。この人名などには不審な点もあるが、少なくとも遠い処からお出でになる尊い神様を、真心を以てお宿する人々が、子孫末永く保護せられるという言い伝えだけは日本のもので、それをこの物語も受け継いでいるのだと、いうことまではこれによって認め得られる。
そうして一方にはまた有名な、富士と筑波という古い話もあるのである。これは奈良朝時代に出来た常陸風土記という本の中に出ているので、この事が文章になったのは、確かに弘法大師の生まれた時よりも前であって、これには微行して来られた旅人は、御祖神であったと明らかに書いてある。大昔その大神が、富士山のところへ来て一泊を求められたのに、今宵は新嘗の晩だから、知らぬ人などは内に入れられないと厳しく断った。これに対して筑波の山の方は物わかりがよく、新嘗は慎しみの夜であるけれども、他ならぬ天つ神をお宿申さぬ法はないと、早速お迎え申して懇ろにおもてなしをした。その行いによって筑波は小さい山だが、夏冬を通して草木が栄え、お参りに来る人の数が多く、富士はあの通り積雪が深くて、人の近づき寄る者の至って少ないのは、天つ神に敬を尽さなかったためだと説明せられている。
山が新嘗の祭を営むというのは珍しいが、それは少なくともこの二つの峰が西東に見える地方では、どこの家でも皆古来の作法通りに、この一夜の祭をせぬ者がなかったからそう思ったのであろう。そうしてこの話が幾分か筑波山の方をひいきしているのは、二つの山の間とはいっても、やや東の方へ偏した村里において、語り始めたものだったからであろうと、私は考えている。
新嘗は我国でことに大きな重い祭であった。詳しいことは私にも判らぬけれども、稲の収穫がすっかり終って後に、家を清め身を清めてその穀物を調理し、夕御饌と朝御饌と、両度の御膳を神にさし上げる祭のように聴いている。現在は太陽暦で十一月の二十三日にその祭を行うことに定められているが、以前はもっと遅く、冬もよっぽど寒くなってからの祭であって、多分は北半球では太陽が南の端まで下り、これから少しずつ北へ還って来るという、冬至の前後の事であったかと思う。
中国でも早くから冬至を大切な祭の日にしているが、西洋でも今クリスマスといっている日が、基督教よりももっと古いものだそうで、暦の数学がまだそう精確でなかった時代に、強いていろいろと理窟を付けて、これをキリストという神の子の生まれた日にしたという話である。花咲き鳥の鳴く春という嬉しい季節が、これから出発して帰って来るという時である故に、それを力強いまた恵み深い神の御子の、誕生の日のように想像したのは、子供らしい大昔の人としては自然なことであった。強いてある一人の賢い者が、教えて広めたと見る必要はないのである。
天つ神というだけでは、まだ我々にははっきりとせぬようであるが、日本でもこの若々しく伸びて行く春の陽気を、新たに誕生なされた御子神と、考えることが出来たのかも知れない。二十三人もある子の母が、吹雪の中に塩を買いに出て倒れたというのも、無論空想だが、基づくところはあったらしく、耳でダイシと聴いて弘法大師、または元三大師や角大師を想像していたのも、起りはやはり尊い神の御子ということであったかも知れない。そう思うわけは我国では、もとは長男長女をオオイコといい、漢字では常に大子と書いていたからである。
この新嘗の祭という口言葉は、もうそのままでは農民の中には残っていない。それでとくの昔に消えてしまったように、本で歴史を読む人は考えているのである。それが私たちの霜月三夜、ニジュウソ(二十三)といい太子講という日と、同じものだったら非常にうれしいのだが、確かな証拠はそうたやすく見つかりそうもない。ただ一つ二つ今でも比べて見ることの出来るのは、昔の新嘗でも宵から暁まで、人が集まって起きていたことと、男と女とが場処を異にして、この一夜の物忌を守ったらしいことである。これも東国に伝わっていた古い歌に、
というのがある。セというのは男たち、自分の夫や男兄弟のことであった。すなわち女は女どうし戸をしめて家に籠り、男はまたどこか一処に集まって、この晩の参籠をしていたので、それと同じ事を、今でも月々の二十三夜待にしている村々は少なくないのみか、さらにまた庚申待の晩にも、女を別にしておく風習が、まだ広く行われているのである。庚申の徹夜が次の朝、旭日の山を出るのを拝して、すがすがしい心持を以て終ったと同じく、二十三夜もまた夜明けの少し前に、山から出て来る月の光に正面して、これで祭はすんだと散り散りに別れて帰ることになっているが、これなどはマツという国語の意味が、知らぬ間に少しくすべって来たためで、農家ではもうそれから寝る人もなかったろうから、共に夜すがらの祭であったことに変りはない。
それから今一つは話の種が多く、また古いものが永く残って、しかもわずかずつ面白くおかしく補修せられていることも、この信仰の変遷と併行しているように思われる。最初はただ新嘗の夜の慎しみが厳重で、うっかり知らぬ人を入れて穢れを受けてはならぬという警戒であって、それでも稀々には神様が御自ら訪ねてござることがあるから気をつけねばならぬという話だったのが、後には人間の慈悲無慈悲、親切不親切をためして見るために、姿をかえ口実を作って、家々を訪問なされるというような話になって、もう必ずしも一定の日であることを要せず、常に私たちの心の持ち方を、教え戒める例に引き直されたのは、見方によっては社会道徳の進みということも出来る。
弘法大師が死後千年以上、始終諸国を破れ衣であるきまわり、人の心の裏までも見ておられるという話は、時々は乞食坊主の便利にも供せられたか知らぬが、一方にはそれが私たちの身の行いを、知らず識らずのうちにどの位、引き締めていたか知れぬのである。二十三夜の夜話ということが、近い頃まで村里に続いていなかったら、こんな話ももういい加減になくなったであろうが、実際にはなおこの二つのものの中間ともいうべき話、すなわち二十三夜や庚申講の仲間へ、見知らぬ他所の人を加えてやったことが、大きなしあわせになったという話なども残っているのである。
私の話も長くなったが、ここにもう一つ、どうして二十三日の晩が、こういう祭をする時になったのか、という問題がまだ残っている。自分だけの考えでは、霜月三夜は農民にとって、ことに重々しい日だったけれども、これは主として稲の栽培に伴なうもので、他になお正五九月や七月などの同じ日も、やはり同じように祭をすべき日であったと思う。それに就いても一つの昔話が、東北地方の端の方に行くとある。
二十三夜様を、百姓は山の神だといい正月に祭るものだといい、漁師たちはいや海の神だ、二月二十三日の祭が本当だといって争いをしていた。そこへ見たことのない人がふらりと来て、この次は私の処の二十三夜様に来て下さいと招くので行って見ると、そこでは自分たちの認めない日に、もっと立派な祭をしていたといい、または双方が賭をしておいてから、そっと相手の村へ行って見たら、自分の処にも劣らぬような祭があるので、双方ともにこれは負けたなと思ったという話もある。これにはどこか脱け落ちた点があるらしいが、ともかくも人は互いに知らずに、ちがった月に同じ神を祭っていたのである。それが海の上でも山の中でも、均しく人を助けたまう大きな神であるとわかって、いよいよ有難さを加えたということを説いたものらしい。
東北では二十三夜と大師講とを別々に見ているから、これも正月と二月との争いになっているが、もともと土地によって祭る月が同じでないのだから、こういった話はどの月にも起り得る。そうして霜月三夜はことに大切な日なので、太子講などというちがった名を以て、呼ぶ村が多いのであった。正五九月の年三度という中では、正月に力を入れるものが多く、京都の付近なども、二十三夜は正月のものと思っている。そうして祭の仕方はほぼ同じなのである。正月は祝い月で、一般に人の心に余裕がある。静かに一夜の祭を営むに適していたとも見られるが、なおそれ以上に一年に一度、この日を定めの日として遙々と訪れたまう神があると、今も信じている処もあるのである。
伊豆七島では大島から三宅島まで、すなわち八丈を除いた六つの島で、その神を日忌様、その日を忌の日というのがそれであって、今では二十五日を中心と見ているらしいが、祭の謹慎の始まるのは、やはり二十四日の前の宵からである。島々村毎に由来談はちがうけれども、それを見比べるともとの伝えはまだ判る。この夜島々に近よる畏ろしいものがある。昔悪い代官を殺した祟りだの、それを殺した七人の者の霊だの、または海難法師という化け物だのというのは、余りにこの祭の前の物忌が厳しく、その戒めを犯した罰が怖ろしかったためで、ある島では夜深く神が上陸して島をお通りなされ、それを神職だけがお迎えに行くといい、普通の住民は皆日の中から戸を閉じて、ことりという音もさせぬようにしていた。あるいはまた神のお舟は帆の色が赤く、それを見た者はたちまち死ぬといって、三日の間はある方角を限って、海を見ぬようにしている島もあった。つまりこの島々は神を敬うのあまり、祭典をある一家だけに任せてしまって、他の者はただ日夜の忌籠りだけをしていたのであった。
月はちがうけれども鹿児島県の方の七島でも、旧十二月末のほぼ同じ頃に、何日か続いて海を見てはならぬ日がある。そうしてこの間に祭があるのだが、ここでも家の中に閉じ籠って、お通りに行逢うことを不祥としている。世襲の祭り人がきまってしまう迄は、もとはやはり順まわりに頭屋に集まって、厳粛に祭の夜を守っていたのかと思う。内地の方でも正月の二十四日とその前後を、祭の日としたものが諸処にあるが、その大部分が現在は愛宕様の祭となっている。また月々この二十四日の一日を愛宕精進といって、酒を慎しむ人が多かった。そうすれば火事の災いがないと信じていたのは、多分愛宕が火伏せの神であったからであろう。
しかしなお気を付けて見ると、かつてはこの正月二十四日にも、やはり伊豆七島と同じように、遠く訪れたまう神があるといい、それをまた夜話の話題としていたかと思われる形跡がある。これも笠地蔵といって路傍の立石と、関係のある昔話だから、ついでにざっと話をして見るが、誰でも知っているのは、野中の六地蔵が雪霙に濡れてござるのを、心の善い老人が見てお気の毒に思い、市へ売りに出て売れなかった笠を、六体の石地蔵に着せ申して還って来る。そうするとその夜中に、家の外へ重い橇を曳いて来た音がして、何かどしんと戸の口へ卸して行く。出て見たところが山のような金銀米俵で、それを持って来た六人の地蔵の後ろ姿が、雪あかりに見えたというような話もあった。
土地によっては少しずつのちがいがあるが、岩手県の紫波郡ではこれを七人地蔵といって話している。地蔵の七人は少し変だと思うが、他の部分はたいてい同じことで、双方共に大晦日の晩、明くれば元旦のめでたい出来事として語られるのであった。奥州の方には、これと半分似通うた七人山伏という話もあった。やはり路の傍で山伏が吹雪で難儀をしているのを見て、うちへ連れて来たというのもあり、またはそういう晩に七人の山伏が戸を敲いて泊めてくれといって来たともあって、日は同じように除夜の晩であった。貧乏で何一つ食べさせる物もないが、せめて大火を焚いてあたらせると、七人は蓙を頭から被って炉のはたで睡ってしまい、夜が明けて元日の朝日がさし込むのにまだ起きようともしなかった。揺り起そうとしてよく見ると、それは山伏ではなくて七つの黄金の大きなかたまりであったので、たちまち爺婆は大金持になったというような、心地よい話になっていて、これにもまた土地によってちがいがあるのである。
これらの多くの昔話が、何れも正月元日の前夜の事となっているのは、何かわけのあることだろうと私は思っていた。ところがずっと隔たった徳島県の祖谷山という奥まった山村では、七人の正月神という話があって、これは正月二十五日の出来事となっている。そうして話は前に挙げた笠地蔵と、七人山伏とのちょうど真中に立つようなものであった。その夜は雨が降って爺婆が家にいると、七人の正月神が来て笠を貸せと言われる。笠は四つしかなくてあとは傘二本、自分の合羽などを出して快くさし上げたというだけだが、この正月神様はその年の十二月除夜の晩になってまた訪れて来られ、褒美にいろいろの宝を賜わって、ここでも爺婆は俄か長者になったという話、これで少なくとも正月二十三夜の祭の、どうして始まったかが考えられるのである。
正月の神様が二十五日頃まで、まだ村の中におられるということは、今考えると何だか長過ぎるようだが、古い日本の正月が満月の夜、すなわち旧暦の十五日を中心にして行われたとすると、これはまだ注連の内という祝いの日のうちなのだからおかしくはない。暦が字で書き印刷した本になり、どこの家庭でも見られるようになったのは至って新しいことで、もとはその暦本の数も少なく、こしらえる処が遠くに在って持って来る方法もなく、それに第一読める人が少なかった。そのためにたいていの農村では昔の仕来りのままに、月の形を見ていろいろの祭や行事の日をきめたのであった。年や月というものの境も、この満月の日だったろうかと私は思うが、その点は確かにそうだとまでは言えない。ただ少なくとも多くのお社の祭が、今でも十五日の後先になっているのは、文字を知らない人々には月の形が、一ばんわかりやすい暦だったからである。
祭には物忌といってさまざまの心の準備があり、また祭のあとの慎しみというものもあった。神に仕えるのを大きな仕事としていた時代には、祝いは一日や二日で切上げることが出来ず、それで今でも正月と盆とは何日もつづき彼岸も七日間ということになっているのである。祭の仕度が前七日からとなっていたのは、ちょうど月の形が半分ほどになった頃から気をつけ始めることで、それに対して下弦の月、すなわちだんだんと遅く小さく、再び半分の大きさになる時までが、我々の祖先の神を思う日数であったからで、この間にはまた幾つもの儀式があったのである。
たとえば今から四百年近くも前の、奈良の大きなお寺などでは、月々の十七日から始めて、二十三夜まで七夜の間、毎夜の月を拝んでこれを七夜待といい、その晴れ曇りと、月のお形のいろいろによって、一年間の吉凶を卜したことが多聞院日記という本には書いてある。その月がいよいよ遅く昇って、暁に残る二十三日の夜、もう一度重い祭をするというのもあり得ることである。それが私は我国に二十三夜様という祭の、永く伝わっている理由だと思う。
これが全国にわたって盛んだったから、仏法も陰陽道も手を出し世話を焼こうとしたのであったけれども、そのために変った部分は至って少なく、大昔の心持はなお明らかに伝わっている。学問をする人がそれに注意をしようとせず、自分で祭をする農民漁民たちも、これを深く考えて見ようとはしなかったために、忘れたようになっているばかりで、どのように新しい文化は進み加わって来ても、古いこの御国の神ながらの道というものは、尋ねて行けばまだ必ず見つかるのである。
毎月の十五日に神に詣で、または先祖のお棚を拝むということは、村でならば今でもこれを続けている家が幾らも見られる。信心の深い土地では、二十三夜にも月々順まわりに、まだ祭の集まりをしているのだが、これには大事な月とそうでないのとがあるのだから、年に六回となり三回となっても差支えはないので、ただ家々だけでの思い思いの企てではなく、同じ土地に久しく住む人たちの、共同の祭ということが肝要であった。それから集まる日には風呂を立てて、必ず身を潔めるということも意味がある。何か不幸のあった家はそのあと三年間、たとえ順番がまわって来ても祭の宿をさせなかったこと、これもまた外国から来た宗教にはないことであった。
女と男とが祭を別にして、二十三夜や庚申の頭屋では、男が食事をこしらえ、女は皆他の家へ遣ってしまう処も方々にある。この祭の供物だけは、女に食べさせてはよくないという俗信もまだ残っている。そうして女はまた女だけで、その一夜前の二十二夜に、集まって月待をしていたのであった。こういう信仰は女の方が強いので、現在は二十三夜よりも、二十二夜待の方が盛んな地方もある。
大病人があるとこの日を期して七人待八人待をした。また多くの仲間で一しょに夜明かしをしてもらうと、願いごとがかなうとも、手業が上手になるともいう者がある。夜あかしには立待と称して、夜更けて月の昇るまで坐らず腰かけず、または瀬待といって必ず流れ川の岸に立って待ち、または迎待といって月の出る方角へ、月の出るまで歩行をつづけるなど、苦行を信心のうちに算えていたのは、以前の物忌が形を変えたものと思われる。それでいてこの信心な女たちが、なおさまざまのおしゃべりを止めなかったのは、これも祭の夜に神の尊さを、話の種にしていた風習の引続きとも見られる。
そこでおしまいに路傍の石の二十三夜塔と、この夜祭との関係を言うならば、これも農村に文字のなかった時代には、石屋は頼まずに村の人が寄合って、土を運んで来て塚を築いていたもので、多分はそこに簡略な藁の仮小屋を作り、その中に集まって祭の夜籠りをしていたのである。近頃では講の幾まわりかが滞りなくまわった後、または何かあらたかな御利益のあった際に、記念の意味を以てこの石を立てる者もあるらしいが、もとは月待に人が集まるのがこの場処であった。
東京から遠くないある海岸の砂山に、私は小さな家をもっている。一度秋の末にそこへ行って見ると、庭の草原が何だか取散らかっているので、不審に思って聞いて見たら、そこは私の家が出来るよりも前から、村のお婆さんたちが三夜様を拝みに、集まって来る場処だったということが判った。民家を一軒きれいに掃き清めて、祭の宿にする風習は後に始まったもので、かつては祭のたび毎にごく簡単な仮屋を建てて、村の人がその中に集まり、一夜を静かに守り明かし、また神のお供物お神酒を戴きつつ、語り明かしたことがあるのであろう。もしそうだったら今日の神社の祭と、ちがっていたところは少くともなかったので、これを別もののように考えていたのは、誤りであったということが、今に判って来るものと私は思っている。
村の年中行事の言葉を集めて見ると、盆と正月前後とに用いらるるものばかりが、割合を越えて多いことがよくわかる。もとよりこの二つの節日の大切であったのは争えないが、一つには外へ出て故郷を懐い、もしくは年取って少年の日を回顧する人たちに、特に印象の濃く鮮かなるものが、ここに現われていたということもあるかと思う。
その印象とは何かと考えて見ると、具体的には火の光、松のあかしが燈蓋となり、ランプとなりまたは蝋燭となり、数多い提灯の火となったことである。次には紙の美しさ、木を削って花にした代りに、純白でたけの長いものをいろいろの形に剪って、到る処に飾るようになったことである。それから今一つは餅のうまさ、及びその形と色艶のよいことで、これもまた横杵と大臼が使用せられる時になって、始めて今までの水に浸した米の粉の粢に、代ることが出来たものである。
他にもまだこういう隠れた力は幾つかあろうと思う。単に春秋二季の初めの、自然の変り目が著しかったという以上に、新しい文化の我々の感覚を動かすものが、偶然にも盆と正月との行事に集注していたのである。人が一年中の祝い休みの日を節約して、なるべく多くの時間を生産に向けようとする傾きが始まると、祭礼の大きくなりかつ数少なくなると同様に、この二季の儀式だけが盛んになって、他の月々の節日は少しずつ衰えて行かねばならなかったのである。
田園の風物を咏歎しようとする事業と、生活様式の由来変遷を究めたいという学問とは、手を繋いで行くことが幾分かむつかしくなるかも知れない。我々も近世のお正月と盆とを楽しみつつ、大きくなって来た者ではあるけれども、それを思い出しまたなつかしがっていただけでは、何故にこれがこのように強く忘れ難く、日本人の心を捉えているのかを説明することは出来ない。独り年中行事の問題のみと言わず、他の多くのいわゆる日本的なるものに就いても、当世がこれを好むと否とにかかわらず、今一つ背後の徐ろに消えて行こうとするもの、幸いにしてなお若干の痕跡を留めているものと合わせて、一括してこれを考察するようにしなければ、本当は文化の展開を談ずる資格が得られぬのである。
そういう中でも年中行事などは、これでもまだ以前の段階が、比較的明瞭に残留している方である。手杵で餅を搗き、削り掛けを以てしでに垂れ、手火を投げて火祭をする風習が、田舎の隅々にまで伝わっているのみならず、数多い月々の節の日なども、一部では全く忘れられまた一部ではただ痕跡を存し、また他の地方では厳重に古い仕来りを守っているというものが、たとえば私の郷里の十一月のニジュウソのように、次々に明らかになって来るのである。
少なくともこの区域においては、独断は何らの威力もなく、ただ事実に基づいて帰納し得る者だけが、正しい知識に到達するということを経験させてくれるのである。多くの珍しい見聞はこの書の中に集められているが、単なる好奇心に投ずるということは我々の目的ではない。他日これが練習の一つの機会となって、同じ方法の広く他の無形の疑問にも延長せらるることを念ずるために、まずこの簡明なる題目を整理して見たまでである。
以前「旅と伝説」の誌上に、年中行事調査標目というものを連載した時には、私はこれに拠って一つの採集手帖を作る計画をもっていた。この集はそれに比べると、語数は十倍以上となり、項目はかえって約三十を減じている。十月四月の満月の夜を始めとし、かつては我民族の間に重く視られたかと思う五月二十八日、または中世の印地打ちの日として、記録にも残っている四月二十二日等、これから問題として注意して見たい日を加算すれば百は超えるのだが、それらは採集の今少しく進むまで、暫らくこの列記の中から省いておくこととした。
古人が年を生活の一つの単位と認めて、四季の行事を互いに関連させて考えていたらしいことと、従って今見る盆正月の特異なる行事にも、すでに埋没に瀕した他の日の言い伝えを参酌して、解釈の手がかりを導くべきものが多いことを考えると、この集はむしろ一回の中間報告の、それもやや早期に失したものという批評を甘受しなければならぬであろう。今後の採集がいよいよ必要であり、かつ必ずしも興味の乏しい仕事でないことを例示し得たことを以て満足すべきもので、もちろん完成というものからは大変な距離がある。日本の未知の知識はそれ程にも豊富かつ重要なのである。
底本:「年中行事覚書」講談社学術文庫、講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷発行
2009(平成21)年3月19日第32刷発行
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2013年4月30日作成
2017年8月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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