日本の伝説
柳田國男
|
日本は伝説の驚くほど多い国であります。以前はそれをよく覚えていて、話して聴かせようとする人がどの土地にも、五人も十人も有りました。ただ近頃は他に色々の新に考えなければならぬことが始まって、よろこんで斯ういう話を聴く者が少なくなった為に、次第に思い出す折が無く、忘れたりまちがえたりして行くのであります。私はそれを惜むの余り、先ず読書のすきな若い人たちの為に、この本を書いて見ました。伝説は斯ういうもの、こんな風にして昔から、伝わって居たものということを、この本を読んで始めて知ったと、言って来てくれた人も幾人かあります。
日本に伝説の数が其様に多いのなら、もっと後から後から別な話を、書いて行ったらどうかと勧めて下さる方もありますが、それが私には中々出来ないのです。同じような言い伝えを、ただ沢山に並べて見ただけでは、面白い読みものにはなりにくい上に、わけをきかれた場合にそれに答える用意が、私にはまだととのわぬからであります。一つの伝説が日本国中、そこにもここにも散らばって居て、皆自分のところでは本当にあった事のように思って居るというのは、全く不思議な又面白いことで、何か是には隠れた理由があるのですが、それが実はまだ明かになって居らぬのです。私と同様に何とかして之を知ろうとする人が、続いて何人も出て来て勉強しなければなりません。その学問上の好奇心を植えつける為には、よっぽどかわった珍らしい話題を、掲げて置く必要があるので、そういう話題がちょっと得にくいのであります。白米城の話というのを、今私は整理しかかって居ります。十三塚の伝説も遠からずまとめて見たいと思って居ますが、斯ういうのが果して若い読者たちの、熱心な疑いを誘うことが出来るかどうか。とにかくにこの本の中に書いたような単純でしかも色彩の鮮かな話は、そう多くはないのであります。
最近に私は「伝説」という小さな本を又一つ書きました。これは主として理論の方面から、日本に伝説の栄え成長した路筋を考えて見ようとしたものですが、曽て若い頃にこの「日本の伝説」を読んで、半分でも三分の一でも記憶して居て下さる人であったら、興味は恐らくやや深められたことと思います。それにつけてもこの第一の本が、今少しく平易に又力強く、事実を読む人の心に残して行くことの出来る文章だったらよかろうにと、考えずには居られません。それ故に今度は友人たちと相談をして、又よほど話し方を変えて見ました。日本の文章は、一般にやや耳馴れないむつかしい言葉を今までは使い過ぎたようであります。伝説などの如く久しい間、口の言葉でばかり伝わって居たものにはどうしても別の書き現わし方が入用かと思いますが、その用意もまだ私には欠けて居たのであります。新にこの本を見る諸君に、その点も合せて注意していただかなければなりません。
伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。雀や頬白は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。
諸君の村の広場や学校の庭が、今は空地になって、なんの伝説の花も咲いていないということを、悲しむことは不必要であります。もとはそこにも、さまざまのいい伝えが、茂り栄えていたことがありました。そうして同じ日本の一つの島の中であるからには、形は少しずつ違っても、やっぱりこれと同じ種類の植物しか、生えていなかったこともたしかであります。私はその標本のただ二つ三つを、集めて来て諸君に見せるのであります。
植物にはそれを養うて大きく強くする力が、隠れてこの国の土と水と、日の光との中にあるのであります。歴史はちょうどこれを利用して、栽培する農業のようなものです。歴史の耕地が整頓して行けば、伝説の野山の狭くなるのも当り前であります。しかも日本の家の数は千五百万、家々の昔は三千年もあって、まだその片端のほんの少しだけが、歴史にひらかれているのであります。それ故に春は野に行き、藪にはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見るようにしなければなりません。
しかし、小さな人たちは、ただ面白いお話のところだけを読んでお置きになったらいいでしょう。これが伝説の一つの木の中で、ちょうど昔話の小鳥が来てとまる枝のようなものであります。私は地方の伝説をなるたけ有名にするために、詳しく土地の名を書いて置きました。そうして皆さんが後に今一度読んで見られるように、少しばかりの説明を加えて置きました。
昔は東京にも、たくさんの珍しい伝説がありました。その中で、皆さんに少しは関係のあるようなお話をしてみましょう。
本所の原庭町の証顕寺という寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があって、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直に治るといいました。大きな石の笠をかぶったまま、しゃがんで両方の手で顎をささえ、鬼見たようなこわい顔をしてにらんでいましたが、いつも桃色の胸当てをしていたのは、治ったお礼に人が進上したものと思われます。子供たちは、これを咳のおば様と呼んでおりました。
百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のおば様があったそうであります。築地二丁目の稲葉対馬守という大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などで難儀をする児童の親は、そっと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拝みにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつの頃よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃っていました。婆さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていたそうですが、おかしいことには、両人は甚だ仲が悪く、一つ所に置くと、きっと爺さんの方が倒されていたといって、少し引き離して別々にしてありました。咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅の炒り物を持参して、煎じ茶と共にこれを両方の石の像に供えました。そうして最もよくきく頼み方は、始めに婆様に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺様のところへ行ってこういうのだそうです。おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束ない。何分御前様にもよろしく願いますといって帰る。そうすると殊に早く全快するという評判でありました。(十方庵遊歴雑記五編)
この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、暫くどこへ行ったか行く方不明になっていましたが、後に隅田川東の牛島の弘福寺へ引っ越していることが分りました。この寺は稲葉家の菩提所で、築地の屋敷がなくなったから、ここへ持って行ったのでしたが、もうその時には喧嘩などはしないようになって二人仲よく並んでいました。そればかりでなく咳の婆様という名前も人が忘れてしまって、誰がいい出したものか、腰から下の病気を治してくれるといって、頼みに来る者が多くなっていました。そうしてお礼には履き物を持って来て上げるとよいということで、像の前にはいろいろの草履などが納めてあったそうです。(土俗談語)
食べ物を進上して口の病を治して貰った婆様に、後には足の病気を頼み、お礼に履き物を贈るようになったのは、ずいぶん面白い間違いだと思いますが、広島市の空鞘八幡というお社の脇にある道祖神のほこらには、子供の咳の病が治るように、願掛けに来る人が多く、そのお供え物は、いずれも馬の沓であったそうです(碌々雑話)。道祖神は道の神また旅行の神で、その上に非常に子供のすきな神様でありました。昔は村中の子供は、皆この神の氏子でありました。馬に乗って方々のお産のある家を訪ねて来て、生れた子の運勢をきめるのは、この神様だという昔話もありました。すなわち子供を可愛がる為に、馬の沓の入り用であった神なのであります。路を通る人が馬の沓や草鞋を上げて行く神はどこに行ってもありますが、今では名前がいろいろにかわり、また土地によって話も少しずつ違って居ます。咳のおば様なども、もしかするとこの道祖神の御親類ではないか。それをこれから皆さんと共に私は少し考えて見たいのであります。
咳のおば様の石は東京だけでなく、元は他の県にもそちこちにありました。例えば川越の広済寺というお寺の中にも、しやぶぎばばの石塔があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。(入間郡誌。埼玉県川越市喜多町)
甲州八田という村にあるしわぶき婆は、二貫目ばかりの三角な石で、これには炒り胡麻とお茶とを供えて、小児が風をひいた時に祈りました。もとは行き倒れの旅の老女を埋めた墓印の石で、やたらに動かすと祟りがあるといっておそれておりました。(日本風俗志中巻。山梨県中巨摩郡百田村上八田組)
上総の俵田という村の姥神様は、近頃では子守神社といって小さなお宮になっていますが、ここでもある尊い御方の乳母が京都から来て、咳の病で亡くなったのを葬ったところといっております。それだから咳の病に願掛けをすれば治してくれるということで、土地の人は甘酒を持って来て供えました。そうして頼むと必ずよくなったという話であります。(上総国誌稿。千葉県君津郡小櫃村俵田字姥神台)
姥神はまた子安様ともいって、最初から子供のお好きな路傍の神様でありました。それがだんだんに変って来て、後には乳母を神に祀ったものと思うようになり、自分が生きているうちに咳で苦しんだから、お察しがあって子供たちの百日咳も、頼むとすぐに救うてもらうことが出来るように、信ずる人が多くなったのであります。
下総の臼井の町でも、城趾から少し東南に離れた田の中に、おたつ様という石の小さなほこらがあって、そこには村の人たちが麦こがしとお茶とを上げて、咳の出る病を祈っておりました。臼井の町の伝説では、おたつ様は昔臼井竹若丸という幼い殿様の乳母でありました。志津胤氏という者が臼井の城を攻め落した時に、おたつはかいがいしく若君を助けて遁れさせ、自分はこのあたりの沼の蘆原の中に隠れていました。追手の軍勢が少しも知らずに、沼の側を通り過ぎようとしたのに、あいにく咳が出たので見つかって、乳母のおたつは殺されてしまいました。それが恨みの種であるゆえに、死んで後までも咳をする子供を見ると、治してやらずにはおられぬのであろうと、土地の人たちも考えていたようであります。麦こがしは炒り麦をはたいて作った粉であって、皆さんも御承知のとおり、食べるとよく咳が出るものであります。それを食べて今一度、咳の出る苦しさを思い出して下さいというつもりであったと見えて、近頃では焼き蕃椒を供える人さえあるという話でありました。それからお茶を添えるのは、こがしにむせた時に茶を飲むと、それで咳が鎮まるからであろうと思います。(利根川図誌等。千葉県印旛郡臼井町臼井)
しかし東京などの咳のおば様は、別にそういう来歴がなくても、やはり頼むと子供の百日咳を治してくれたといいますから、この伝説は後で出来たものかも知れません。築地の稲葉家の屋敷の咳の爺婆は、以前は小田原から箱根へ行く路の、風祭というところの路傍にあったのを、江戸へ持って来たものだということであります。風外という僧が、庵を作ってそこに住み、後に出て行く時に残して置いたので、おおかた風外の父母の像であろうといいましたが(相中襍志)、親の像を残して去る者もないわけですから、やはりこれも道の神の二つ石であったろうかと思います。山の峠や橋の袂、または風祭のように道路の両方から丘の迫ったところには、よく男女の石の神が祀ってありました。箱根から熱海の方へ越える日金の頂上などにも、おそろしい顔をした石の像が二つあって、その一つを閻魔さま、その一つを三途河の婆様だといいました。路を行く人が銭を紙に包んで、わんと開いた口の中へ、入れて行く者もあるそうです。しかしそこではまだ咳の病を、祈るということは聞いていません。
浅草には今から四十年ほど前まで、姥が淵という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄い昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌で撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)
何か必ずわけのあることと思いますが、姥神はたいてい水の畔に祀ってありました。それで臼井のおたつ様のように、水の中で死んだ女の霊が残っているというように、説明する話が多くなったのであります。静岡の市から少し東、東海道の松並木から四五十間北へはいったところにも、有名な一つの姥が池がありました。ここでは旅人が池の岸に来て「姥甲斐ない」と大きな声で呼ぶと、忽ち池の水が湧きあがるといっておりました。「甲斐ない」というのは、今日の言葉で、「だめだなあ」ということであります。それについていろいろの昔話が伝わっているようですが、やはりその中にも咳の病のことをいう者があります。駿国雑志という書物に載せている話は、昔ある家の乳母が主人の子を抱いてこの池の傍に来た時に、その子供が咳をして大そう苦しがるので、水をくんで飲ませようと思って、下に置いてちょっと目を放すと、その間に子供は苦しみのあまり、転げて池に落ちて死んでしまった。乳母も親たちに申しわけがなくて、続いて身を投げて死んだ。それだから「姥甲斐ない」というとくやしがり、また願掛けをすると咳が治るのだというのであります。ところが、うばは金谷長者という大家の乳人で、若君の咳の病がなおるように、この家の傍の石の地蔵様に祈り、わが身を投げて主人の稚児の命に代った、それでその子の咳が治ったばかりか、後々いつまでもこの病にかかる者を、救うのであるといっているものもあります。伝説はもともとこういうふうに聴くたびに少しずつ話が変っているのが普通ですが、とにかくにこの池のそばには咳の姥神が祀ってあり、ある時代にはそれが石の地蔵様になっていたらしいのであります。そうして地蔵様も道の神で、また非常に子供のすきな御方でありました。(安倍郡誌。静岡県清水市入江町元追分)
姥神がもと子安様と同じ神で、常に子供の安全を守りたもう神であるならば、どうして後々は咳の病ばかりを、治して下さるということになったのであろうか、何かこれには思い違いがあったのではないかということを、考えて見ようとした人もありました。上総国の南の端に関という村があって、以前そこには高さ約五尺、周囲二十八尺ばかり、形は八角で上に穴のある石が二つありました。大昔この村に関所の門があって、これはその土台の石であるということで、土地の人は関のおば石と呼んでおりました。おば石は御場石と書くのがよいという者もありましたが、やはりほんとうは姥石であったようで、ちかごろ道普請のために二つある石の一方を取り除けたところが、それから村内に悪いことばかりが続くので、また代りの石を見つけて南手の岡の上にすえて、これを姥神といって祀ることになりました。もとの地に残っている方の一つの石も、姥石だと思っている人が多いようであります。そうして他の地方にある神石と同様に、この百年ほどの間に重さが倍になったという説もありました。(上総町村誌。千葉県君津郡関村関)
咳のおば様は実は関の姥神であったのを、せきというところから人が咳の病ばかりに、祈るようになったのであろうという説を、行智法印という江戸の学者が、もう百年余りも前に述べていますが(甲子夜話六十三)、この人は上総の関村に、おば石があることなどは知らなかったのであります。関の姥神はもちろん、上総と安房との堺ばかりにあったのではありません。一番有名なものは京都から近江へ越える逢阪の関に、百歳堂といってあったのも姥神らしいという話であります。後には関寺小町といって、小野小町が年を取ってからここにいたという話があり、今の木像は短冊と筆とを手に持った老女の姿になっていますが、以前はこれももっとおそろしい顔をした石の像であり、その前はただの天然の石であったかも知れませぬ。せきはすなわち塞き留める意味で、道祖神のさえも同じことだ、と行智法印などはいっております。いかにも関東地方の道祖神には、石に男と女の像を彫刻したものが多く、姥石の方にも実は爺石と二つ並んだものが、もとはたくさんにあったのでありますが、人が婆様ばかりを大切にするようになって、二つの石はだんだん仲が悪くなりました。
これには閻魔さまの信仰が盛んになるにつれて、三途河の婆様の木像を方々のお寺に祭るようになったことが、一つの原因であったかも知れません。お寺ではこのこわい顔をした婆のことを、奪衣婆といっております。地獄の途中の三途河という川の岸に関をすえて、この世から行く悪い亡者の、衣類を剥ぎ取るというので有名になっております。仏説地蔵菩薩発心因縁十王経という日本でつくった御経に、この事が詳しく書いてありまして、それを見ると奪衣婆も決して後家ではないのです。懸衣翁というのがその爺の方の名でありました。
「婆鬼は盗業を警めて両手の指を折り、翁鬼は無義を悪んで頭足を一所に逼む」ともあって、両人は夫婦のように見えるのでありますが、木像は大抵婆の方ばかりを造ってありました。これにも深いわけがあるのですが、皆さんにはそんな話はつまらないでしょう。
とにかくにこの奪衣婆を拝むようになってから、姥神は多くは一人になり、またその顔が次第におそろしくなりました。江戸で関のおば様に豆炒りを上げるようになった頃から、市内の寺にも数十箇所の木像の婆様が出来、今でもまだそちこちで盆にはお詣りをする者があります。それからはやり病などの盛んな時に、こわい顔をした婆のはいって来るのを見たというような話が、だんだんに多くなったようであります。甘酒婆といって、甘酒はないかといいながらはいって来る婆が、疫病神だなどというひょうばんもよく行われました。可愛い子供をもつ親たちは、こういう場合には急いでどこかの婆神様にお詣りしました。関のおばさまが江戸でこのように評判になったのも、私はきっと質の悪い感冒の、はやった年などが始めであったろうと思っています。
それにしてもせきのおば様というような、古い名前が残っていながら、どうしてこんな石の婆の像のところへ、子供の病気を相談に行くのかは、もうわからなくなっていたようであります。三途河の婆様の三途河という言葉なども、やっぱり関ということでありました。三途河はにせものの十王経には葬頭河とも書いてありますが、そんな地名が仏教の方に前からあったわけでなく、そうずかは日本語でただ界ということであったのを、後に誰かがこんなむつかしい字をあてはめたのであります。富士山その他の霊山の登り口または大きなお社に詣る路には、大抵はそういう場所があります。精進川と書くのが最も普通で、実際そこには水の流れがあり、参詣の人はその水で身を潔めたようですが、それが初めからの言葉の意味を、表したものであるかどうかはまだ確でありません。ただそこが神様の領分の堺であるために、いよいよ厳重に身をつつしみ、また堺を守る神を拝んだようであります。昔の関の姥神は、おおかた連れ合の爺神と共に、ここで祀られた石の神であったろうと、私などは考えています。それを仏教の方に働いていた人たちが、持って行って地獄に行く路の、三瀬川の鬼婆にしたのであります。それだからこの世にある諸国のそうずかには、多くは奪衣婆の像を祀ってあるのであります。
日本本土で一番北の端にあるのは、奥州外南部の正津川村の姥堂で、私も一度お参りをしたことがあります。東海道では尾張の熱田の町にある姥堂は、古くから有名なものでありました。これは熱田神宮の精進川に架けた御姥子橋、一名さんだが橋の袂にある御堂で、もとは一丈六尺の奪衣婆の木像が置いてあった為に、熱田神宮は御本地閻魔王宮だなどとおそれ多いことをいう者さえありましたが(紹巴富士見道記)、これは姥神のもとのお姿を、忘れてしまった人のいうことであります。十王経はうその御経でしたが、これに基づいて地獄の絵解きをする者が全国を旅行しており、それがまた婦人でありました為に、わずかな間に方々の御姥子様が、見るもおそろしい奪衣婆になってしまいました。以前はこれよりずっとやさしい顔であったことと思います。そうでなければわざわざ地獄からやって来て、活きた人間の子供のために、こんなに親切に心配をしてくれるはずはないからであります。
今でも三途河の婆様はこわい顔をしながら、子供たちの友人であります。盆の十六日には藪入りの少年が遊びに来ます。そればかりでなく、もっと小さな子供の為にも、頼まれると乳の心配をしたなどというのは、まったくの商売ちがいのように見えますが、それがかえって昔からの、姥神の役目であったのです。羽後の金沢の専光寺のばばさんは、寺では三途河の姥だといっていますが、乳の少い母親が願掛けをすると、必ずたくさんに出るようになるといいます。この像は昔専光寺の開山蓮開上人の夢に一人の女が現れて、われは小野寺の別当林の洞穴の中に、自分の像と大日如来の像とを彫刻して置いた。早く持って来て祭るがよいと教えてくれた。さっそく行って見るとその通りの二つの像があったので、迎えて来たといい伝えています。雄勝の小野寺は芍薬の名所で、小野小町を祀ったという寺がありますから、そこから迎えて来た木像ならば、たとえ小町ほどに美しくはなくても、まさか鬼見たようではなかったろうと思います。(秋田県案内。秋田県仙北郡金沢町荒町)
荘内大泉村の天王寺のしょうずかの姥も、乳不足の婦人が祈願すれば乳を増すといって、多くの信者がありました。これも至って古い作の木像だそうですから、後に名前だけが改まったものであろうと思います。(三郡雑記。山形県西田川郡大泉村下清水)
遠州見付の大地蔵堂の内にある奪衣婆の像は、新しいものだろうと思いますが、ここでも子供の無事成長を祈る人が多く、そのお礼には子供の草履を上げました。新に願掛けをする者は、その草履一足を借りて行き、お礼参りの時にはそれを二足にして納めるので、いつも地蔵堂の中は、子供の草履で一杯であったといいます。(見付次第。静岡県磐田郡見付町)
それから上州の高崎市には、大師石という一つの霊石があって、その附近には弘法大師の作と称する石像の婆様があり、これをしょうずかの婆石といっておりました。これには咳をわずらう人が祈願をして、しるしがあればやはり麦こがしを持って来て供えたということであります。(高崎志。群馬県高崎市赤坂町)
越後では長岡の長福寺という寺に、古い十王堂があって閻魔様を祀っていましたが、ここでは米の炒り粉を供えて咳の病を祈ると、立ちどころに全快するということで、咳の十王といえば誰知らぬ者もなかったそうです。閻魔に米のこがしを上げるのは珍しい話ですが、ことによるともとは見付の地蔵堂の草履のように、同居をしていたもとの姥様のおつきあいであったかも知れません。閻魔と地蔵とは同じ一つの神の、両面であるといった人もあります。もしそうだったら地蔵は子供の世話役ですから、わざわざこわい顔をした婆さんに頼む必要はないのですが、以前はこれがわれわれの子安神であった上に、いつも御堂の端の方に出ていて、参詣人の目につき易いところから、子供やその母親の願いごとは、やはりその婆様の取り次ぎを頼む方が、便利であったものと思われます。実際また人間の方でも、地蔵や閻魔の祭りに加わった者は、つい近い頃まで総て皆婦人でありました。それが子安姥神の三途河の婆になって後も、永くもてはやされていた一つの原因であろうと思います。
乳母が大切な主人の子を水の中に落して、自分も申しわけのために身を投じて死んだという話は、駿河の姥が池の他にもまだ方々にあります。これだけならばほんとうにあったことかと思われますが、なおその外にもこれによく似た不思議話があるので、それが伝説であることが知れるのであります。
越後の蓮華寺村の姨が井という古井戸などもその一つで、そこでも人が井戸の傍に近よって、大きな声でおばと呼ぶと、忽ち井戸の底からしきりに泡が浮んで来て、ちょうどその声に答えるようであるといいました。或はこれを疑う者が、かりにあにと呼び、またはいもうとと呼んで見ても、まるで知らぬ顔をしてすこしも泡が立たなかったということであります。(温故之栞十四。新潟県三島郡大津村蓮華寺字仏ノ入)
すなわち死んでもう久しくなった後まで、姨の霊が水の中に留っていると考えさせられた人が多かったのであります。同じ国の曽地峠というところには、またおまんが井というのがありました。これも傍に立っておまんおまんと呼ぶと、きっと水の面に小波が起ったといいます。おまんはこの近くに住んでいた某という武士の女房でありました。夫に憎まれて、殺されてこの井戸に投げ込まれたゆえに、いつまでもそのうらみが水の中に残っているのだということであります。(高木氏の日本伝説集。新潟県刈羽郡中通村曽地)
これとよく似た伝説は、上州伊勢崎の近くの書上原というところにもありました。それは阿満が池という小さな池があって、その岸に立って人があまと呼ぶと、清水がすぐにその声に答えて下から湧き上り、「しばしば呼べばしばしば出づ」といっております。(伊勢崎風土記。群馬県佐波郡殖蓮村上植木)
あまもおまんもまた姨が井のおばも、その声がまことに近いのは、何か理由があることかも知れません。駿河の姥が池でも人がうばと呼べば湧き上り、姥甲斐なしといえばいよいよ高く泡を吹いて、水を動かしたという話であります。清水の湧き出る池や井戸では、永くじっとみていると泡が上り、また周りの柔かい土を踏むと、水が動くこともあるかと思いますが、ただ大きな声で呼ぶと呼ばぬとで、湧いたり止ったりすることがあるというのは奇妙です。しかしこれも早くから評判になっていて、人が特別に注意するために、こういうことがわかったのかも知れません。
同じような不思議は実はまだ方々にありました。それを少しばかりお話して見ましょう。
摂津有馬の温泉には、人が近くへ寄って大声で悪口をいうと、忽ち湧き上るという小さな湯口があって、これを後妻湯と呼んでおりました。うわなりという言葉は後妻のことですが、後に女の喧嘩のことをいうようになってからは、別に悪口をする者はなくても、若い娘などが美しく化粧をして湯の傍に行くと、すぐに怒って湧き立つという評判になり、それを妬みの湯という人もありました。これなどはよほど姥が池の話と似ております。(摂津名所図会。兵庫県有馬郡有馬町)
野州の那須の温泉でも、もとは湯本から三町ばかり離れて、教伝地獄というところがありました。人がそこへ行って、「教伝甲斐ない」と大きな声でどなると、たちまちぐらぐらと湯が湧いたといいます。昔教伝という男は山へ薪を採りに行く時に、朝飯が遅くなって友だちが先に行くのに腹を立てて、母親を踏み倒して出かけたので、其罰でその魂がいつまでも、こんなところにいるのだという話もありました。(因果物語。栃木県那須郡那須村湯本)
伊豆の熱海にはまた平左衛門湯というのがあって、「平左衛門甲斐ない」とからかうと湯が湧くといい、旅の人がそれを面白がるので、村の子供たちが銭をもらって、呼ばって見せたということであります。それが多分今の間歇泉のことであろうと思いますが、前にはその東に清左衛門湯、一名法斎湯というのもあって、そこでも大声に念仏を唱えて暫く見ていると、高く湯が湧き上るといっておりました。法斎も人の名のように聞えますが、実は法斎念仏という踊りの念仏のことで、それだから法斎念仏川とも呼んでおりました。念仏でなくとも、高声に何か物をいえば湧くのだといった人もありますが、だまって見ていても自然に湧き上ったのかも知れません。(広益俗説弁遺篇其他。静岡県田方郡熱海町)
温泉ではなくとも、念仏を唱えると水がわくという池は方々にありました。京都の西の友岡村では、百姓太右衛門という人の屋敷の後に、いつもは水がなくて、岸に立って念仏を申すと、忽ち湧き出すという池があって、それで念仏池といっておりました。近頃はどうなったか、私はまだ行って見たことがありません。(緘石録。京都府乙訓郡新神足村友岡)
美濃の谷汲の念仏池は、三十三所の観音の霊場である為に、はやくから有名でありました。池には小さな橋が架かっていて、これを念仏橋といい、橋の下には石塔が一つあり、橋からその石塔に向って念仏を唱えると、水面に珠の如く沸々と泡が立つ。しずかに唱えればしずかに立ち、責め念仏といって急いで唱えると、泡もこれに応じてたくさんに浮んだという話であります。(諸国里人談。岐阜県揖斐郡谷汲村)
この県には今一つ、伊自良の念仏池というのがありました。やはり同じ伝統があったのかと思います。少し甘味があるというくらい良い清水で、皮膚病の人などはこの水を汲んで塗ると、すぐに治るとまでいっておりました。(稿本美濃誌。岐阜県山県郡上伊自良村)
上総の八重原という村でも小学校の裏手に、念仏池というのが今でもあるそうです。これは泡ではなく池の畔に立って念仏を唱えて見ていると、水の底から忽ち清い砂を吹き出すというのは、やはり清水がわいているのであります。(伝説叢書上総の巻。千葉県君津郡八重原村)
これとちょうど正反対の例は、陸前の岩出山の近く、うとう阪という阪の脇にありました。いつも湧き上って底から砂を吹いていますが、人がその側に近づいて南無阿弥陀仏を唱えて手を打てば、暫くの間は湧き上ることが止むというのです。そのくせ泉の名を驚きの清水と呼んでおりました。(撫子日記。宮城県玉造郡岩出山町)
驚きの清水というのは、普通の池や泉とちがって、人のような感覚をもった活きた水ということであったようです。豊後風土記という千年あまりも前の書物にも、そんな話が書いてあります。たぶん今の別府の温泉の近くでありましょうが、玖倍利湯の井という温泉は、いつも黒い泥が一ぱいになって湯は流れないが、人がこっそりと湯口の傍に近より、ふいに大きな声を出して何かいうと、驚き鳴って二丈あまりも湧きあがるといっているのであります。それが後になると念仏の話ばかり多くなったのは、つまり念仏が非常にはやったからであると思います。この国でも田野の千町牟田には、朝日長者の屋敷跡というところがあって、そこには念仏水という小さな池がありました。人がその岸に立って南無阿弥陀仏を唱えると、水もこれに応じて泡を立て、ぶつぶつといったという話が残っています。(豊薩軍記。大分県玖珠郡飯田村田野)
それからこの県の東の沖にある姫島という島では、拍子水と名づけて、手を叩けばその響きに応じて、迸り流れるという泉があって、これを姫島の七不思議の一つに算えておりました。この島の神様赤水明神は姫神でした。この水を掬んで歯をお染めになろうとすると水の色が赤錆色であったので、また銕漿水という名前もありました。お社はその泉の前の岩の上にあり、御神体は筆を手に持って、歯を染めようとする女の御姿でありました。不思議なことにはただ手拍子につれて水が湧くというばかりでなく、胃腸の悪い人はこの水を飲むと治り、また皮膚病にも塗れば治ったということは、美濃の伊自良の念仏池などと同じでありました。(日女島考等。大分県東国東郡姫島村)
支那にもこれとよく似た泉が方々にあったそうで、土地によっていろいろの名をつけております。あるところでは咄泉といっておりました。どなると湧き出す清水ということであります。あるところでは笑泉。人が笑い声を出すと水が急に湧いたというので、すなわち驚きの清水も同じ意味であります。喜客泉は、人が来ると喜んでわく清水、撫掌泉といったのは、手を打つとその声に応じて流れるという意味でありました。日本でもぜひ念仏を唱えなければ、湧き出さぬというわけでもなかったのであります。実地に行って見ないと確なことは知れませんが、大抵は周囲の土が柔かで、足踏みの力が水に響いたのではないかと思います。常陸の青柳という村の近くには、泉の杜というお社があって、そこの清水も人馬の足音を聞けば、湧き返ること煮え湯のようであるといい、それで活き水と呼び、また出水川三日の原はここだともいう人がありました。(広益俗説弁遺篇。茨城県那珂郡柳河村青柳)
甲州佐久神社の七釜の御手洗という清水なども、人がその傍を通ると水がたちまち湧きあがり、細かな砂が浮き乱れて、珍しい見物であるという話であります。ただ近くに行っただけですぐに湧くくらいですから、南無阿弥陀仏といったり、姥甲斐ないとでもいおうものなら、もちろん盛んに湧き上ることと思いますが、ここでは誰もそんなことをして見ようとはしなかっただけであります。(明治神社誌料。山梨県東八代郡富士見村河内)
昔の人たちは飲み水を見つけることが、今よりもずっと下手でありました。井戸を掘って地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らなかったのであります。それだからわざわざ川や池に出かけたり、または筧というものを架けて、遠くから水を引いて来たので、あまり離れたところには家を建てて住むことが出来ませんでした。たまに思いがけない土地に泉を見出すと、喜んでそこに神様を祀り。それからおいおいにその周囲に村を作り、また旅人もそこを通って行きました。水がないので一番困ったのは旅の人でありますが、その中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者があって、土地の様子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを教えたのも、彼等であったろうということであります。諸国の山や野を自由にあるいていた行脚の僧、ことに空也上人という人などが、多くの村々に良い泉を見立てて残して行ったということで、永く住民に感謝せられております。空也はわが国に念仏の教えを弘めた元祖の上人でありました。後の世にその道を慕う人たちは、いつでも美しい清水を汲むたびに、必ずこの上人の名を想い出しました。阿弥陀の井という古い井戸が各地に多いのは、多分その水のほとりにおいて、しばしば念仏の行をしたためであろうと思います。空也派の念仏は多くの人が集って来て、踊り狂いつつ合唱する念仏でありました。念仏池の不思議が土地の人に注意せられるようになったのも、それにはそれだけの原因があったのであります。しかしそれだけの原因からでは、他のいろいろな驚き清水、おまんが井や阿満が池の伝説は出て来なかったろうと思います。念仏の僧たちが諸国を行脚してあるくよりもなお以前から、水の恵みを大切に感じて、そこに神様を祭ってそのお力を敬うていたことが、むしろ念仏の信仰を泉のへんに引きつけたのかも知れません。そうしてその神様が、後に姥神の名をもって知られた子安の神であったことは、まだこれからお話して見ようと思う多くの伝説によって、おいおいにわかって来るのであります。
伝説の上では、空也上人よりもなお弘く日本国中をあるき廻って、もっとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやった御大師様という人がありました。大抵の土地ではその御大師様を、高野の弘法大師のことだと思っていましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で仏法の修業をして帰って来てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を残し、また京都の人のために大切ないろいろの為事をしていて、そう遠方まで旅行をすることの出来なかった人であります。こういうえらい方だから、亡くなったと見せてほんとうはいつまでも国々を巡って修業していられるのであろうと思っていた人も少くはなかったので、こんな伝説が弘く行われたのでもありましょう。高野の大師堂では、毎年四月二十一日の御衣替えに、大師堂の御像の衣を替えて見ると、いつもその一年の間に衣の裾が切れ、泥に汚れていました。それが今でも人に知られずこっそりと、この大師がわれわれの村をあるいておられる証拠だなどという人もありました。
とにかくに伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけました。その記念として残っている不思議話は、どれもこれも皆似ていますが、中でも数の多いのは今まで水のなかった土地に、美しくまた豊なる清水を与えて行ったという話でありました。東日本の方は大抵は弘法井、または弘法池などといい、九州ではただ御大師様水と呼んでおります。もとは大師様とばかりいっていたのを、後に大師ならば弘法大師であろうと、思う者が多くなったのであります。あんまり同じような話がたくさんにあって、いくつも並べて見てもつまりませんから、私はただ飛び飛びに今知っている話だけを書いて置きます。皆さんも誰かに聞いて御覧なさい。きっと近くの村にこういういい伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様であったのであります。
普通は飲み水の十分に得られないような土地に、こういう昔話が数多く伝わっています。人がいつまでも忘れられないよろこびの心を、起さずにはいられなかったからであろうと思います。石川県の能美郡なども、村々に弘法清水があって、いずれも大師の来られなかった前の頃の、水の不自由を語っております。例えば粟津村井の口の弘法の池は、村の北の端にある共同井戸でありますが、昔ここにはまだ一つの泉もなかった頃に、ある老婆が米を洗う水を遠くから汲んで来たところへ、ちょうど大師様が来合せて、喉が乾いたからその水を飲ませよといわれました。大切な水を惜しげもなくこころよくさし上げますと、そんなに水が不自由なら一つ井戸を授けようといって、旅の杖を地面に突き立てると、忽ちそこからいい水が流れ出して、この池になったといっております。鳥越村の釜清水という部落なども、釜池という清水が村の名になるほど、今では有名なものになっていますが、もとはやはり水がすくなくて、わざわざ手取川まで汲みに行っておりました。土地の旧家の次郎左衛門という人の先祖の婆さまが、親切にその水を大師に進めたお礼に、家の前にこの池をこしらえて下されたのであります。それだから今でも池の岸には大師堂を建て、水の恩を感謝しているということであります。花阪という村にももとは良い水がなくて、ある家の老女が遠方から汲んで来たのを、大師様に飲ませました。そうするとまた杖をさして、ここを掘って見よといって行かれました。それが今日の花坂の弘法池であります。ところがその近くの打越という村では、今でも井戸がなくて毎日河へ水汲みに出かけます。これはまた昔その村の老婆が、大師様が水をほしいといわれた時に、腰巻を洗う水を勧めたその罰だと申します。湊という村にも以前は二つまで弘法大師の清水があって、今ではその一つは手取川の堤の下になってしまいましたが、これも大師が杖のさきで、突き出した泉であるといっておりました。ところがその隣りの吉原という村には、そういう結構な井戸がないばかりでなく、今でも吉原の赤脛といって、村の人が股引をはくと病気になるといい伝えて、冬も赤い脚を出しているのは、やはりある姥が股引を洗濯していて、せっかく水を一ぱいくれといわれた弘法大師に、その洗い水を打ち掛けたからだといっております。良い姥、悪い姥の話は、まるで花咲爺、または舌切り雀などと同じようではありませんか。(以上みな能美郡誌)
それから能登の方では羽阪という海岸の村では、昔弘法大師がこのへんを通って水を求められた時に、情なくも惜しんで上げなかったため、大師は腹を立てて一村の水をしまい込んでおしまいになったといって、今でもどこを掘って見ても水に銕気があって使うことが出来ず、仕方なしに食べ物には川の水を汲んで来るという話でありました。(能登国名跡志。石川県鹿島郡鳥尾村羽阪)
また羽咋郡の末吉という村でも、水を惜しんで大師に与えなかったために、今に良い清水を得ることが出来ぬといっていますが、その近くの志加浦上野という部落では親切にしたので、大師はそのお礼にそばの岩を指さすと、忽ちその岩の中から水が湧いたといっています。そして名産の志賀晒布また能登縮をこの水で晒して、いつまでもそのめぐみをうけているということであります。(郷土研究三編。石川県羽咋郡志加浦村上野)
若狭の関谷川原という所は、比治川の水筋がありながら、ふだんは水がなくして大雨の時にばかり、一ぱいになって渡ることの出来ない困った川でありました。これも昔この村の老女が一人、川に出て洗濯しているおりに、僧空海が行脚して来てのどがかわいたので、水でも貰いたいとこの老女にいわれたところが、この村には飲み水がありませんと、すげなく断りました。それを非常に立腹して唱えごとをしてから川の水をことごとく地の下を流れて行くことになって、村ではなんの役にも立たぬ川になってしまったのだそうです。(若狭郡県志。福井県大飯郡青ノ郷村関屋)
近江の湖水の北にある今市という村でも、村には共同の井戸が一つあるだけで、それがまたすぐれて良い水でありました。これも弘法大師が諸国を歩きまわって、ちょうどこの村に来て一人の若い娘に出逢い、水が飲みたいといわれました。すると親切に遠いところへ汲みにいって、久しい間大師を待たせましたので、大師がそのわけを聴いて気の毒に思い、持っていた杖でそこいらの岩の間を突かれると、すなわち清水が湧き出たのがこの井戸であるといいます。(郷土研究二編。滋賀県伊香郡片岡村今市)
伊勢の仁田村では井戸世古の二つ井といって、一つは濁って洗濯にしか使われず、その隣りの井戸はまことによい水でありました。やはり老いたる女が洗濯をしているところへ、弘法大師が来て水を求めた時に、その水は悪いからといって、わざわざたいへん遠いところまで行って汲んで来てくれましたので、大師がそれは困るだろうといって、杖を濁り井のすぐ脇の地面に揷すと、そこからこのような清い泉が湧き出たというのであります。(伊勢名勝誌。三重県多気郡佐奈村仁田)
紀州は弘法大師の永くおられた国だけに、幾つかの名水が大抵はこの大師のお蔭ということになっています。日高郡ばかりでも弘法井は南部の東吉田、上南部の熊岡、東内原の原谷にもあり、西内原の池田の大師堂の近くにもありました。船津の阪本の弘法井は、今でも路通る人が花を上げお賽銭を投げて行きます。高家の水飲谷にあるのは、弘法大師が指先で穿ったといって結構な水であります。南部の旧熊野街道の山路に、今一つある弘法井などは、親切な老婆が汲んで来た水が、千里の浜まで汲みにいったものだという話を聞いて、それはたいへんなことだといって、大師が錫杖のさきで、穿って下さった井戸だといっております。(以上みな南紀土俗資料)
伊都郡の野村という所などは、弘法大師が杖で突いてから涌き出したと伝わって、幅五尺ほどの泉が二十五間もある岸の上から落ちて、広い区域の田地を潤しています。話は残っているかどうか知りませぬが、それを今でも姥滝というのであります。杖が藪という村にも大師が杖で穿ったという加持水の井戸があって、その杖を投げて置かれたら、それが成長して藪になったといい、村の名までがそれから出ているのであります。(紀伊続風土記。和歌山県伊都郡高野村杖ヶ藪)
こんな話は幾らでもありますから、もういいかげんにして置きましょう。四国などは大師の八十八箇所もあるくらいですから、この突きさした杖に根が生えて、だんだん成長したのだという大木の数だけでも、数え切れないほどたくさんにあり、悪い婆さんと善い婆さんとが、たった一杯の水を惜しんだか与えたかによって、片方はいつまでも井戸の水が赤くて飲まれず、他の片方はこんな良い水を大師様に貰ったという伝説が、もう昔話のようになって多くの村の子供に語り伝えられております。
杖の清水の話の中でも、殊に有名なものは、阿波では下分上山の柳水、この村にはもとは水がなかったのを、大師がその杖で岩を突き、そこから清水が流れ出るようになりました。杖は柳の木で、永くその泉の傍に青々と茂っていたそうであります。(阿州奇事雑話。徳島県名西郡下分上山村)
伊予では高井の西林寺の杖の淵。この村にも昔は水がなかったのですが、大師が来て杖を地に立ててから、淵になるまでの立派な泉が涌き出したのだそうです。しかしその杖は今ではもうないので、竹であったか柳であったかわからなくなってしまいました。(伊予温故録。愛媛県温泉郡久米村高井)
どうして旅の僧が行く先々に、杖を立ててあるくのかということを、私はいろいろに考えて見ましたが、池や泉と関係のないことははぶいて置きます。九州の南の方では性空上人、越後の七不思議の話では親鸞上人、甲州の御嶽の社の近くには日蓮上人などが、竹の杖を立ててそれが成長したことになっていますが、水が湧き出した話には、どうも大師様が多いようであります。東京の附近では入間郡の三つ井という所に、弘法大師が来られた時には、気立てのやさしい村の女が、機を織っていたそうであります。水がほしいといわれるので、機から下りて遠いところまで汲みに行きました。それは定めて不自由なことであろうと、さっそく杖をさして出るようにして下さったという清水が、今でも流れて土地の名前にまでなっております。(新篇武蔵風土記稿。埼玉県入間郡所沢町上新井字三つ井)
女が機を織っていたという話も、何か特別のわけがあって、昔から語っていたことのようであります。大師の井戸の一番北の方にあるのは、今わかっているものでは山形県の吉川という所で、ここまで伝説の弘法大師は行っておられるのであります。その昔大師が湯殿山を開きに来られた時に、喉が乾いてこの村のある百姓の家にはいって、水を飲ませてくれと申されますと、女房がひどい女で、米の磨ぎ汁を出しました。それを大師はだまって飲んで行かれたが、あとで女房の顔が馬になってしまった。それからまた二三町も過ぎたところのある家では女房は機を織っていました。ここでも水がほしいといわれますと、いやな顔もせずに機から下りて、遠いところまで汲みに行ってくれました。大師は喜んでこの村には良い水がないと見える。一つ掘ってやろうといって、例の杖をもって地面に穴をほりますと、こんこんとして清水が湧きました。それが今もある大師の井戸だというのであります。(郷土研究一編。山形県西村山郡川土居村吉川)
ここでまず最初に、われわれが考えて見なければならぬのは、それがほんとうに弘法大師の僧空海であったろうかということであります。広い日本国中をこの通りよく歩き廻り、どこでも同じような不思議を残して行くことは、とても人間わざでは出来ぬ話でありますが、それを神様だといわずに、なるべく誰か昔の偉い人のしたことのように、われわれは考えて見ようとしたのであります。それには弘法大師が最もその人だと、想像し易かっただけではないでしょうか。温泉の方にも杖で掘り出したという伝説が少しはあります。上州の奥にある川場の温泉なども、昔弘法様が来てある民家に一泊したときに、足を洗う湯がないので困っていると、さっそく杖をその家の入り口にさして、出して下されたのがこの湯であるといい伝えております。それだからこの温泉は脚気によくきくのだと土地の人はいい、またその湯坪の片脇に、今でも石の小さな大師様の像を立てて、拝んでいるのだということであります。(郷土研究一編。群馬県利根郡川場村川場湯原)
ところが摂津の有馬の湯の山では、豊臣秀吉がやはり杖をもって温泉を出したという話になっております。太閤が有馬に遊びに来た時に、清涼院というお寺の門の前を通ってじょうだん半分に杖をもって地面の上を叩き、ここからも湯が湧けばよい。そうすれば来てはいるのにといいますと、たちまちその足もとから、温泉が出たといいます。それでその温泉の名を上の湯、一名願いの湯とも呼んでおりましたが、後にはその名ばかり残って、温泉は出なくなってしまいました。(摂陽郡談八)
太閤様は思うことがなんでも叶った人だから、そういうこともあったか知れぬと、考えた者はずいぶんありました。ぜひとも弘法大師でなくてはならぬというわけでもなかったのであります。尾張の生路という村には、あるお寺の下に綺麗な清水があって、これも大師の掘った井戸だと、土地の人たちはいっておりましたが、それが最初からのいい伝えでなかったことは明かになりました。四百年ばかり前に、ある学者がこの寺に頼まれて書いた文章には、大昔日本武尊が、ここに来て狩りをなされ、渇きをお覚えなされたが水がないので、弓弰をもって岩をおさしになると清い泉が湧いた。それがこの井戸であると誌しております。近頃はもう水も出なくなりましたが、以前は村の者が非常に尊敬していた井戸で、穢れのあるものがもしこれを汲もうとすると、俄に水の色が濁ってしまうとまで信じていたそうであります。(張州府志。愛知県知多郡東浦村生路)
これと同じような伝説は、他の地方に数多くありまして、ただ関係した人の名が違っているばかりであります。関東などで一番多くいうのは、八幡太郎義家であります。軍の半に水が得られないので、神に念じ、弓をもって岩に突き、また矢を土の上にさすと、それから泉が流れて士卒ことごとく渇を癒やした。よってこれを神水として感謝のため神の御社を建てて永く祀ったといって、その神も多くは八幡様であります。小高い所から泉の湧く場合には、大抵は土が早く流れて岩が現れて来ますので、一そう普通の人間の力では、見出すことが出来なかったように想像する者が多くなったことなのかと思います。すなわちこの石清水八幡の伝説なども、後になるほどだんだんに数が多くなったわけでありますが、それがお社も何もない里の中や道の傍、または人家の間に挾まってしまうと、話はどうしても杖を持った行脚の旅僧という方へ、持って行かれやすかったようであります。
それからまた他のいろいろの天然の不思議を、あれもこれも同じ弘法大師の仕事のように、説明するふうが盛んになりました。その中でも最も人のよく知っている例に、石芋といって葉は全く里芋の如く、その根は硬くて食べることの出来ない植物、または食わず梨といって、味も何もない梨の実などであります。いずれもその昔一人の旅僧がそこを通って、一つくれぬかと所望したのを、物惜しみの主人が嘘をついて、これは硬くてだめですとか、または渋くて上げられませんとかいった。そうかといって旅僧は行ってしまったが、後で聞くとそれが大師様であった。その芋また梨はそれから以後硬くまた渋くなってしまって、食べることが出来なくなったなどというのであります。伝説の弘法大師は全体に少し怒り過ぎ、また喜び過ぎたようであります。そうして仏法の教化とは関係なく、いつもわれわれの常の生活について、善い事も悪い事も共に細かく世話を焼いています。杖立て清水をもって百姓の難儀を救うまではよいが、怒って井戸の水を赤錆にして行ったり、芋や果物を食べられぬようにしたというなどは、こういう人たちには似合わぬ仕業であります。ところが日本の古風な考え方では、人間の幸不幸は神様に対するわれわれの行いの、正しいか正しくないかによって定まるように思っていました。その考え方が、今でも新しい問題について、おりおりは現れて来るのであります。だから私などは、これを弘法大師の話にしたのは、何かの間違いではなかろうかと思うのであります。
そのことは今に皆さんが自分で考えて見るとして、もう少し珍しい伝説の例を挙げて置きましょう。石芋、食わず梨とちょうど反対の話に、煮栗焼き栗というのが方々の土地にあります。これも今では弘法大師の力で、一旦煮たり焼いたりした栗の実が、再び芽を吹いて木になったといって、盛んに実がなっているのであります。越後の上野原などにある焼き栗は、親鸞上人の逸話になっていますが、やはりある信心の老女がさし上げた焼き栗を、試みに土に埋めて、もし私の教えが後の世で繁昌をするならば、この焼き栗も芽を出すであろうといって行かれた。そうすると果してその言葉の通り、それが成長して大きな栗林となり、しかも三度栗といって一年に三度ずつ、実を結ぶようになったというのであります。どうしてこのような話が出来たかというと、この一種の柴栗が他のものよりはずっと色が黒くて、火に焦げたように見えるからでありますが、京都の南の方のある在所では、やはり同じ話があって、これは天武天皇の御事蹟だというのであります。天武天皇が一時芳野の山にお入りになる時、この村でお休みなされると、煮た栗を献上したものがあった。もう一度帰って来るようであれば、この煮た栗も芽を吹くといって、お植えになった実が大木になって栄えたということで、その種が永く伝わっております。或はまた春日の明神が初めて大和にお移りになったときに、お付きの神主が煮栗の実を播いたともいう者もあります。こういうように話はぜひとも弘法大師でなければならぬというわけでもなかったのであります。
それからまた片身の魚、片目の鮒などという話もあります。焼いて食べようとしているところへ大師がやって来て、それを私にくれといって、乞い受けて小池へ放した。それから以後その池にいる鮒は、一方だけ黒く焼け焦げたようになっている。または片目がない、もしくは片側がそいだように薄くなっているというのです。動物学の方から見て、そんな魚類があるものとも思われませんが、とにかくに片目の魚が住むという池は非常に多く、それがことごとく神の社、または古い御堂の傍にある池であります。池と大師とは、またこういう方面においても関係があるのであります。
或はまた衣掛け岩、羽衣の松という伝説もあります。これも水の辺で、珍しい形の岩や大木のある場合に、不思議な神の衣が掛かっていたことがあるというので、普通には気高い御姫様などの話になっているのですが、それがまたいつの間にか、弘法大師と入り代っているところもあるのです。備前の海岸の間口という湾の端には、船で通る人のよく知っている裳掛け岩という大岩があります。これなども飛鳥井姫という美しい上﨟の着物が、遠くから飛んで来て引っ掛かったといういい伝えもあるのですが、土地の人たちは、またこんな風にもいっている。昔大師が間口の部落へ来て、法衣を乾かしたいから物干しの竿を貸してくれぬかといわれた。竿はありませんと村の者がすげなく断ったので、大師もしかたなしにこの岩の上に、ぬれた衣を掛けてお干しなされたというのであります。おおかたこれも一人の不親切な女の、後で罰が当った話であったろうと思います。(邑久郡誌。岡山県邑久郡裳掛村福谷)
安房の青木という村には、弘法大師の芋井戸というのがあります。井戸の底に芋のような葉をした植物が、青々と茂っています。昔大師がこの村のある老婆の家に来て、芋をくれないかと所望したのを、老婆が物惜しみをしてこの芋は石芋ですと嘘をいった。そうすると忽ち家の芋が皆石のように堅くなり、食べることが出来ぬから戸の外に棄てると、そこから水が湧き出してこの井戸になったというのは、きっと二つの話の混合で、芋では罰を受けたが、井戸は土地一番の清水でありました。伝説はこういうふうに半分欠けたり、また継ぎ合せて一つになったりするものであります。(安房志。千葉県安房郡白浜村青木)
会津の大塩という村では山の中の泉を汲んで、近い頃まではそれを釜で煮て塩を製していました。こういう奥山に塩の井が出るというのは、土地の人たちにも不思議なことでした。それでやはり弘法大師がやって来て、貴い術をもって潮を呼んで下されたといっていますが、これにはまたどういう女があって関係したものか、今ではもう忘れてしまった者が多いようであります。(半日閑話。福島県耶麻郡大塩村)
ところが安房の方では神余の畑中という部落に、川の流れから塩の井の湧くところがあって、今でもその由来を伝えています。その昔金丸氏の家臣杉浦吉之丞の後家美和女、施しを好み心掛けのやさしい婦人でありました。大同三年の十一月二十四日に、一人の旅僧が来て食を求めたので、ちょうどこしらえてあった小豆粥を与えると、その粥には塩気がないから、旅僧は不審に思いました。うちが貧乏で塩を買うことが出来ぬというのを聴いて、それはお気の毒だと川の岸に下りて、手に持つ錫杖を突きさして暫く祈念し、やがてそれを抜くと、その穴から水が迸って、女の顔のところまで飛び上りました。嘗めて見るとそれが真塩であり、その僧は弘法大師であったと、古い記録にも書いてあるそうです。(安房志。千葉県安房郡豊房村神余)
いくら記録には書いてあっても、これが歴史でないことは誰にでもわかります。弘法の旅行をしそうな大同三年頃には、まだ金丸家も杉浦氏もなかったのであります。それよりも皆さんにお話したいことは、十一月二十四日の前の晩は、今でも関東地方の村々でお大師講といって、小豆の粥を煮てお祭りをする日だということであります。天台宗のお寺などでは、この日がちょうど天台智者大師の忌日に当るために、そのつもりで大師講を営んでいますが、他の多くの田舎では、これも弘法大師だと思っているのであります。智者大師はその名を智顗といって、今から千三百四十年ほど前に亡くなった支那の高僧で、生きているうちには一度も日本へは来たことのなかった人であります。また弘法大師の方はこの十一月二十三日の晩と、少しも関係がなかった人でありますが、どこの村でもこの一夜に限って、大師様が必ず家から家を巡ってあるかれると信じて、このお祭りをしていたのであります。
旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇郡誌その他)。しかしこの話なども後になって、少しばかり間違ったのではないかと思う点があります。信州ではこの晩に食物を供えるお箸は、葦の茎をもって必ず一本は長く、一本は短く作ることになっています。これもでんぼ隠しの記念であって、その婆さんはでんぼで且つ跛であったからという人もあるが、所によっては大師様自身が生れつき跛で、それでこの晩村々をまわってあるかれるのに、雪が降るとその足跡が隠れてちょうどよいと喜ばれるといい、「でえしでんぼの跡隠し」という諺もあるそうです(小谷口碑集)。越後の方でも古くから大師講の小豆粥には、栗の枝でこしらえた長し短しのお箸をつけて供えました。耳の遠い者がその箸を耳の穴に当てると、よく聴えるなどともいいました。それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答)
そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。それとこれとは関係はないかも知れませんが、とにかく十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、だだの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただだいし様と呼んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります。
だいしはもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいしといって、殆ど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。そういう古い言葉がまだ田舎には残っていたために、いつとなく仏教の大師と紛れることになったのですが、もともと神様のお子ということですから、気をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。信州でもずっと南の方の、竜丘村の琴が原というところには、浄元大姉といって足の悪い神様を祀っております。その御遺跡を花の御所、後醍醐天皇の御妹であったなとどいう説さえありますが、これもまただいしと姥の神とを、拝んでいたのが始めのようであります。この大子も路で足を痛めて難儀をなされたので、永く土地の者の足の病を治してやろうと仰せられたといって、今でも信心にお詣りする人があり、そのお礼には草鞋を片足だけ納めることになっています。そうしてこの地方にも、「ちんば山の神の片足草鞋」という諺があるそうであります。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡竜丘村)
高く尊い天つ神の御子を、王子権現といい若宮児宮などといって、村々に祀っている例はたくさんあります。また大工とか木挽とかいう山の木に関係のある職業の人が、今でも御太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかも知れません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しくまた貴い神様を祀っているものが方々にありました。そうしていつでも御身内の婦人が、必ずそのお側に附いておられるのであります。それから考えて見ますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、後には貧乏な賤しい家の者のようにいい出しましたけれでも、以前にはこれも神の御母、または御叔母というような、とにかく普通の村の人よりは、ずっとそのだいしに親しみの深い方であったのではないかと思います。それぐらいな変化は伝説には珍しくないのみならず、多くのお社や堂には脇侍ともいって、姥の木像が置いてあり、また関の姥様の話にもあるように、児と姥との霊を一しょに、井の上、池の岸に祀っているという、伝説も少くないのであります。
私は児童の守り神として、姥の神を拝むようになった原因も、大子が実は児の神のことであったとすれば、それでよくわかると思っています。姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのであろうと思います。それについてはまた二つ三つの少し新しい伝説もあります。紀州岩出の疱瘡神社というのは、以前は大西という旧家の支配で、守り札などもそこから出しておりました。その大西家で板にした縁起には、こういう話が書いてありました。ある年十一月の二十三日の晩に、白髪の婆さまが一人訪ねて来て、一夜の宿を借りたいといった。うちは貧乏で何も上げるものがないというと、食事には用がない。ただ泊めて下さればよいといって、夜どおし囲炉裏の火の側に坐っていた。夜の明け方に清水を汲んで貰って、それを湯に沸かして静かに飲み、そうして出て行こうとして大西家の主人に向い、私はこの家の先祖と縁のある者だ。今またこうして親切に、宿をしてもらったのはありがたいと思うから、そのお礼にはこれからいつまでも、大西の子孫と名乗る者は疱瘡が軽く、長命をするように守ってやろうといって帰った。その跡を見送ると、ちょうど今のお社のあるところまで来て、愛染明王の姿を現じて行方知れずになったといってあります。種痘ということの始まるまでは、疱瘡はまことに子供たちの大敵でありました。それだから殊に疱瘡神をおそれ敬うていたのでありますが、この老女は実はそれであったらしいのです。愛染明王はもとは愛欲の神であったそうですが、愛という名からわが国では、特に小児の無事息災を祈っていました。それ故にお姿も若々しく、決して婆さまなどに化けて来られる神ではなかったのです。それを一つにしてこの大西家の先祖の人は、まぼろしに見たのであります。前から姥の神の後には児の神のあることを、知っていた為であろうと思います。(紀伊続風土記。和歌山県那賀郡岩出町備前)
伊勢の丹生村は古くから鉛の産地ですが、そこには名の聞えた鉱泉が一つあります。近頃ではいろいろの病気の者が入浴に来るようになりましたが、昔はただこの地方の女たちが、お産の前後に来て垢離を取り生れ子の安全をお祈りするところであった為に泉の名を子安の井といい、やはり弘法大師の加持水だという伝説をもっていました。戦国時代にはこの土地が荒れてしまって、井戸も半分は埋もれ、そういういい伝えを忘れた人が多くなり、近所の百姓たちがその水を普通の飲料に使う者もありましたが、そういう家ではどうも病人が多く、中には死に絶えてしまった家さえあったので、驚いて御鬮を引いて明神様の神意を伺ったそうです。実際は水に鉛の気があって、それで飲む者を害したのかも知れませんが、昔の人はそうは思わなかったのであります。それで御鬮の表には、子安井は産前産後の女のために、子育てを助け守りたもうべき深い思し召しのある井戸だから、早く浚えて清くせよと出たので、それからはいよいよこれを日用のために汲む者が、祟りを受けるようになったということであります。(丹洞夜話。三重県多気郡丹生村)
子安の池というのは、また東京の近くにもあって、これにも杖立て清水とよく似た伝説をもっておりました。板橋の町の西北の、下新倉の妙典寺という寺の脇にあったのがそれで、昔日蓮上人がこの地方を行脚していた頃、墨田五郎時光という大名の奥方が、難産で非常に苦しんでいました。日蓮がその為に安産の祈りをして、一本の楊枝をもって加持をすると、忽ちここから優れたる清水が湧き出した。その水を掬んで口そそぎ御符を戴かせたら、立派な男の児が生れたといって、その池の傍にある古木の柳の木は、日蓮上人の楊枝を地に揷したのが、芽を吹いて成長したものだとも語り伝えておりました。(新篇武蔵風土記稿。埼玉県北足立郡白子町下新倉)
伝説は子安の池の、岸の柳の如く成長しました。東京は四百年この方に漸く出来た都会ですが、ここへも弘法大師がいつの間にかやって来ています。上野公園の後の谷中清水町には、清水稲荷があってもとは有名な清水がその傍にあったのです。この清水がまだ出なかった前に、やはり一人の老母が頭に桶を載せて、遠いところから水を運んでいたところへ、大師が来合せてその水を貰って飲みました。年を取ってから毎日こうして水を汲んで来るのは苦しいだろうといわれますと、そればかりではありません、私にはたった一人の子があって、永らく病気をしているので困りますと答えました。そうすると大師は暫く考えて、手に持つ独鈷というもので、こつこつと地面を掘り、忽ちそこからこの清水が湧くようになりました。味わいは甘露の如く、夏は冷かに冬は温かにして、いかなる炎天にも涸るることなしという名水でありました。姥の子供の病気は何病でありましたか、この水で洗ったら早速に治りました。それから多くの人が貰いに来るようになって、万の病は皆この水を汲んで洗えば必ずよくなるといいました。稲荷のお社も、この時に弘法大師が祀って置かれたということで、おいおいに繁昌して今のように町屋が立ち続いて来たのであります。(江戸名所記。東京市下谷区清水町)
野州足利在の養源寺の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。(郷土研究二編。栃木県足利郡三和村板倉)
土地の古くからのいい伝えと、それを聴く人の考えとが食い違った時には、話はこういうふうにだんだんと面倒になります。だいしが世に名高い高僧のことだとなってしまうと、また一人別に姥の側へ、愛らしい若児を連れて来て置かねばならなかったのであります。あんまり気味の悪い話が多いから、詳しいことはいわぬつもりですが、日本でよくいう産女の霊の話なども、もとはただ道の傍に祀った母と子の神でありました。姿が弱々しい赤んぼの様でも、神様の子であった故に不思議な力がありました。道を通る人に向って抱いてくれ抱いてくれと母親がいうので、暫く抱いているとだんだんに重くなる。その重いのをじっと我慢をしていた人は、必ず宝を貰い、または大力を授けられたのであります。それが後には、またある大師に行き逢うて、却ってその法力をもって救われたという話に変って来て、産女は普通の人の幽霊のごとくなってしまいました。しかし幽霊が子供づれで来るのもおかしいことですし、福を与えるというのも、ますます似合いません。これには何か他の理由があったのであります。土地によって、夜啼き松または夜啼き石などといって、真夜中に橋の袂や阪の口で、赤子の啼く声がするという話もありますが、それをおそろしいことと考えずに、村にお産のある知らせだなどという土地もあります。或はまた一人の女があって、夜になると赤んぼが啼くのに困って、その松の木の下に行って立っていると、行脚の僧が通りかかって抱いてくれた。そうして松の小枝を火にともして、その光を子供に見せると啼き止んだ。それから後この松の下に神を祀り、また夜啼きをする子の家では、その小枝を折って来て燈の火にするという所もあります。九州の宇佐八幡の附近では、弘法大師といわずに、この僧を人聞菩薩と呼んでおります。人聞菩薩は八幡大菩薩が仮にこの様な姿をして、村々をお歩きなされるのだという人もありましたが、こんな奇妙な僧の名もあるまいと思いますから、私などはそれを人の母、すなわち人母という言葉が、この神の信仰について、古く行われていた名残であろうと思っています。子安という母と子との神は、今でも関東地方には方々に祀っています。気高い婦人が子を抱いた石の像であります。姥というのはただ女の人のことでありました。親の妹を叔母というのも、または後々叔母になるべき二番め以下の娘を、小娘のうちからおばと田舎でいっているのも、もとは一つの言葉でありました。それを老女のように考え出したために、しまいには三途河の婆様のような、おそろしい石の像になったのであります。仏教が日本にはいって来るより前から、子安の姥の神は清い泉のほとりに祀られていました。弘法大師が世を去ってから千年の後までも、なお新なる清水は常に発見せられ、いわゆる大師の井戸、御大師水の伝説は、すなわちこれに伴うて流れて行きます。生きて日本の田舎を今も巡っている者は、寧ろわれわれの御姥子様でありました。それだからこの神を路の傍、峠の上や広い野はずれ、旅人の喜び汲む泉のほとりにまつり、また関の姥神という名も起ったので、熱田の境川のおんばこ堂なども、もとはこういう姥と子を祀っていたからの名であろうと思います。箱根の姥子も古い伝説は人が忘れていますが、きっとあの温泉の発見について、一つの物語があったのです。なお皆さんも気をつけて御覧なさい、古くからの日本の話には、まだまだ幾らでも美しいかしこい児童が、姥とつれ立って出て来るのであります。
この次ぎには子供とは関係はありませんが、池の伝説の序に片目の魚の話を少ししてみましょう。どうして魚類に一つしか眼のないのが出来たものか。まだ私たちにもほんとうのわけはよくわかりませんが、そういう魚のいるのは大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水です。東京に一番近い所では上高井戸の医王寺、ここの薬師様には眼の悪い人がよくお参りをしに来ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持って来て、お堂の前にある小さな池に放すそうです。そうするといつの間にか、その魚は片目をなくしているといいます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくうことが折々ありますが、そんな時にはこれはお薬師様の魚だといって、必ず再びこの池に持って来て放したということです。(豊多摩郡誌。東京府豊多摩郡高井戸村上高井戸)
上州曽木の高垣明神では、社の左手に清い泉がありました。旱にも涸れず、霖雨にも濁らず、一町ばかり流れて大川に落ちますが、その間に住む鰻だけは皆片目であった。それが川へはいると、また普通の眼二つになるといいましたが、それでもこの明神の氏子は、鰻だけは決して食べなかったそうです。(山吹日記。群馬県北甘楽郡富岡町曽木)
甲府の市の北にある武田家城址の濠の泥鰌は、山本勘助に似て皆片目であるといいました。泥鰌が片目であるばかりでなく、古府中の奥村という旧家は、その山本勘助の子孫である故に、代々片目であったという話もありましたが、実際はどうであったか知りません。(共古日録その他。山梨県西山梨郡相川村)
信州では戸隠雲上寺の七不思議の一つに、泉水に住む魚類、ことごとく片目なりといっていました。また赤阪の滝明神の池の魚も、片目が小さいか、または潰れていました。神が祈願の人に霊験を示す為に、そうせられるのだといっております。(伝説叢書。長野県小県郡殿城村)
越後にも同じ話が幾つもあります。長岡の神田町では人家の北裏手に、三盃池という池がもとはあって、その水に住む魚鼈は皆片目で、食べると毒があるといって捕る者がなかった。古志郡宮内の一王神社の東には、街道をへだてて田の中に十坪ほどの沼があり、そこの魚類も皆片目であったそうです。昔このお社の春秋の祭りに、魚のお供え物をしたお加持の池の跡だからといっておりました。四十年ほど前に田に開いてしまって、もうこの池も残っていません。それから北魚沼郡の堀之内の町には、山の下に古奈和沢の池という大池があって、その水を引いて町中の用水にしていますが、この池の魚もことごとく片目であるといいました。捕えてこれを殺せば祟りがあり、家に持って来て器の内に置いても、その晩の内に池に帰ってしまうという話もありましたが、実際は殺生禁制で、誰もそんなことを試みた者はなかったのであります。(温故之栞。新潟県北魚沼郡堀之内町)
青森県では南津軽の猿賀神社のお池などにも、今でも片目の魚がいるということで、「皆みんなめっこだあ」という盆踊りの歌さえあるそうです。私の知っているのでは、これが一番日本の北の端でありますが、もちろん捜せばそれより北にもたくさんにある筈であります。(民族。青森県南津軽郡猿賀村)
それからこちらへ来ると話は多くなるばかりで、とても一つ一つ挙げていることは出来ませんから、私はただ魚が片目になった原因を、土地の人たちがなんといい伝えていたかということだけを、皆さんと一しょに考えて見ようと思います。その中で早くから知られていたのは、摂津の昆陽池の片目鮒で、これは行基菩薩という奈良朝時代の名僧と関係があり、話は少しばかり弘法大師の杖立て清水に似ています。行基が行脚をしてこの池のほとりを通った時に死にかかっている汚い病人が路に寝ていて、魚を食べさせてくれといいました。かわいそうだと思って、長洲の浜に出て魚を買い求め、僧ではあるが病人の為だから自分で料理をして勧めますと、先に食べて見せてくれというので、それを我慢をして少し食べて見せました。そうしているうちにその汚い乞食は薬師如来の姿を現し、私は上人の行いを試して見る為に、仮に病人になってここに寝ていたのだといって、有馬の山の方へ、金色の光を放って飛び去ったということであります。行基はその不思議にびっくりして、残りの魚の肉を昆陽池に放して見ると、その一切れずつが皆生きかえって、今の片目の鮒になった。それで後にはこの池の魚を神に祀って、行波明神と名づけて拝んでいるというのでありました。あんまり事実らしくない話ではありますが、土地の人たちは永くこれを信じて、網を下さず、また釣り糸を垂れず、この魚を食べる者はわるい病になるといっておそれていたそうであります。(諸国里人談その他。兵庫県川辺郡稲野村昆陽)
またある説では行基は三十七歳の年に、故郷の和泉国へ帰って来ますと、村の若い者は法師を試して見ようと思って、鮒のなますを作って置いて、むりにこれを行基にすすめた。行基はそれを食べてしまって、後に池の岸に行ってそれを吐き出すと、なますの肉は皆生きかえって水の上を泳ぎまわった。その魚が今でも住んでいる。家原寺の放生池というのがその池で、それだから放生池の鮒は、皆片目だといいました。しかしなますになってから生きかえった魚ならば、それがどうして片目になるのかは、ほんとうはまだ誰にも説明することが出来ません。(和泉名所図会等。大阪府泉北郡八田荘村家原寺)
これと全く同じ話は、また播州加古川の教信寺の池にもありました。加古の教信という人は、信心深い念仏者でありましたが、やはりむりにすすめられたので、仕方なしに魚の肉を食べ、後で吐き出したのが生き返って、永くこの池の片目の魚になったといいました。寺ではその魚を上人魚といったそうですが、それは精進魚のあやまりかと思います。そうしてこの池を教信のほった池だという点は、行基の昆陽池の話よりも、いま一段とお大師水に近いのであります。(播磨鑑。兵庫県加古郡加古川町)
しかし魚が片目になった理由には、まだこの他にも色々の話があります。
例えば下野上三川の城趾の濠の魚は、一尾残らず目が一つでありますが、これは慶長二年の五月にこの城が攻め落された時、城主今泉但馬守の美しい姫が、懐剣で目を突いて外堀に身を投げて死んだ。その因縁によって今でもその水にいる魚が片目だというのであります。この「因縁」ということも、昔の人はよくいいましたけれども、どういうことを意味するのか、まだ確にはわれわれにわかりません。(郷土光華号。栃木県河内郡上三川町)
そこでなお多くの因縁の例を挙げて見ると、福島の市の近くの矢野目村の片目清水という池では、鎌倉権五郎景政が戦場で眼を傷つけ、この池に来て傷を洗った。その時血が流れて清水にまじったので、それで池に住む小魚はどれもこれも左の目が潰れている。片目清水の名はそれから出たといいます。(信達一統志。福島県信夫郡余目村南矢野目)
鎌倉権五郎は、八幡太郎義家の家来です。十六の年に奥州の軍に出て、敵の征矢に片方の眼を射られながら、それを抜かぬ前に答の箭を射返して、その敵を討ち取ったという勇猛な武士でありましたが、その眼の傷を洗ったという池があまりに多く、その池の魚がどこでも片目だといっているだけは不思議です。その一つは羽後の金沢という町のある流れ、そこでは権五郎の魂が、死んで片目の魚になったというそうです。ここは昔の後三年の役の、金沢の柵のあった所だといいますから、ありそうなことだと思う人もあったか知れませんが、鎌倉権五郎景政は長生をした人で、決してここへ魂を残して行く筈はないのでありました。(黒甜瑣語。秋田県仙北郡金沢町)
次ぎに山形県では最上の山寺の麓に、一つの景政堂があってそこの鳥海の柵の趾だといいました。権五郎が眼の傷を洗った池というのがあって、同じく片目の魚が住んでいました。どうしてこのお堂が出来たのかは分りませんが、附近の村では田に虫がついた時に、この堂から鉦太鼓を鳴らして虫追いをすると、忽ち害虫がいなくなるといっておりました。(行脚随筆。山形県東村山郡山寺村)
また荘内の平田の矢流川という部落には、古い八幡の社があって、その前の川でも権五郎が来て目を洗ったといっています。そうしてその川のかじかという魚は、これによって皆片目であるという伝説もありました。(荘内可成談等。山形県飽海郡東平田村北沢)
こうして福島県の片目清水まで来る途中には、まだ方々に目を洗う川や池があったのですが、驚くべきことには権五郎景政は、遠く信州の南の方の村に来て、やはりその目を洗ったという話が、伝わっているのであります。信州飯田から少しはなれた上郷村の雲彩寺の庭に、杉の大木の下から涌いている清水がそれで、その為にそこにいるいもりは左の眼が潰れているといいます。清水の名はうらみの池、どういううらみがあったかは分りませんが、権五郎は暫くこの寺にいたことがあるというのであります。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡上郷村)
何かこれには思い違いがあったことと思われますが、またこういう話もあります。作州美野という村の白壁の池は、いかなる炎天にも乾たことのない物凄い古池で、池には片目の鰻がいるといいました。昔一人の馬方が馬に茶臼を附けて、池の堤を通っていて水に落ちて死んだ。その馬方がすがめの男であった故に、それが鰻になって、また片目であるという話であります。今でも雨の降る日などに、じっと聴いていると、池の底で茶臼をひく音がするなどといいました。(東作誌。岡山県勝田郡吉野村美野)
越後には青柳村の青柳池といって、伝説の上では、かなり有名な池があります。この池の水の神は大蛇で、折り折り美しい女の姿に化けて、市へ買い物に出たり、町のお寺の説教を聴きに来たりするといったのは、おおかた街道のすぐ脇にこの池があった為に、そこを往来する遠くの人までが評判にしていたから、こういう話が出来たのであろうと思います。昔安塚の城の殿様杢太という人が、市に遊びに出て、この美しい池の主を見染めました。そうして連れられてとうとう青柳の池にはいって、戻らなかったということで、この杢太殿が、また目一つであったところから、今にこの池の魚類は一方の目に、曇りがあるといい伝えております。(越後国式内神社案内。新潟県中頸城郡櫛池村青柳)
池の主の大蛇は、水の中にばかり住んでいて、へびともまるで違ったおそろしい生き物でありました。そういう物が実際にいたかどうか、今ではたしかなことはもうわからなくなってしまいました。絵などに描く人は、もちろん大蛇を見たことのない者ばかりで、仕方なしにこれを大きな蛇のように描くので、だんだんにそう思う人が多くなりましたが、この大蛇の方は水の底にいて、すべての魚類の主君の如く考えられておりました。片目の杢太殿が池の主に聟入りをして、自分も大蛇になったといえば、魚類はその一門だからだんだんかぶれて、目が一つになろうとしているのだと、想像する人もあったわけであります。
静岡市の北の山間にある鯨の池の主は、長さ九尺の青竜であったといい、または片目の大きなまだら牛であったともいいますが、化けるのですからなんにでもなることが出来るわけです。昔水見色村の杉橋長者の一人娘が、高山の池の主にだまされて、水の底へ連れて行かれようとしたので、長者は大いに怒って、何百人の下男人夫を指図して、その池の中へあまたの焼け石を投げ込ませると、池の主は一眼を傷ついて、逃げて鯨の池にひき移ってしまいました。それから以後、この鯨の池の魚は、ことごとく片目になったというのは、とんだめいわくなおつき合いであります。(安倍郡誌。静岡県安倍郡賤機村)
又、池の主は領主の愛馬を引き込んだので、多くの鋳物師をよんで来て、鉄をとかして池の中へ流したともいいますが、どちらにしてもそれがちょうど一方の眼を傷つけ、更に魚仲間一同の片目のもとになったというのは、珍しいと思います。ところがこういう話は、まだ他にも折り折りあります。同じ安倍郡の玉川村、長光寺という寺の前の池でも、池の主の大蛇が村の子供を取ったので、村民が怒って多くの石を投げ込むと、それが当って大蛇は片目を潰し、それからは池の魚も皆片目になっているといいました。
蛇が片目という伝説も、また方々に残っているようであります。例えば佐渡の金北山の一つの谷では、昔順徳天皇がこの島にお出でになった頃、この山路で蛇を御覧なされて、こんな田舎でも蛇はやっぱり目が二つあるかと、独言に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入って、以後この谷の蛇だけはことごとく片目になりました。それで今でも御蛇河内という地名になっているのだといいます。加賀の白山の麓の大杉谷の村でも、赤瀬という一部落だけは、小さな蛇までが皆片目であるといっています。岩屋の観音堂の前の川に、やすなが淵という淵がもとはあって、その主は片目の大蛇であったからということであります。
昔赤瀬の村に住んでいたやす女という者は、すがめのみにくい女であって男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になった。それが時折り川下の方へ降りて来ると、必ず天気が荒れ、大水が出るといって恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺という寺の門徒であったので、この寺の報恩講には今でも人に気付かれずに、やす女が参詣して聴聞のむれの中にまじっている。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといい、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが来そうな日だともいったそうであります。(三州奇談等。石川県能美郡大杉谷村赤瀬)
すがめのみにくい女といい、夫に見捨てられたうらみということは、昔話がもとであろうと思います。同じ話は余りに多く、また方々の土地に伝わっているのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を売りに来た男が門をはいろうとすると、片目の潰れて一筋の蛇が来て、真直になって方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなって、荷を捨てて近所の家に行って休んでいましたが、ちょうどその時に、しばらく病気で寝ていた寺の和尚が死んだといって来ました。この僧も前に片目の尼を見捨てて、そっとここに来て隠れていたのが、とうとう見つかって、その霊に取り殺されたのだといいました。(閑田耕筆)。或はまた身寄りも何もない老僧が死んでから、いつも一疋の片目の蛇が、寺の後の松の木の下に来てわだかまっている。あまり不思議なので、その下を掘って見ると、たくさんの小判がかくして埋めてあった。それに思いがのこって蛇になって来ていたので、その老僧がやはり片目であったという類の話、こういうのは一つ話というもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざわざ遠い所から、人が運んで来たものもありましたが、それがいかにもほんとうらしいと、後には伝説の中に加え、または今までの伝説と結び付けて、だんだんにわれわれの村の歴史を、賑かにしたのであります。人が死んでから蛇になった。または金沢の鎌倉権五郎のように、魂が魚になったということは信じられぬことですけれども、両方ともに左の眼がなかったというと、早それだけでも、もしやそうではないかと思う人が出来るのです。しかしそれならば別に眼と限ったことはない。またお社の前の池の鯉鮒鰻ばかりを片目だというわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。そういうことが、いま私たちの問題になっているのであります。
歴史の方でも伊達政宗のように、独眼竜といわれた偉人は少くありませんが、伝説では、ことに目一つの人が尊敬せられています。その中でも前にいった山本勘助などは、武田家一番の智者であったように伝えられていますが、これがすがめで、またちんばでありました。鎌倉権五郎景政の如きも、記録には若くて軍に出て眼を射られたというより他に、何事も残ってはいないのに、早くから鎌倉の御霊の社に祀られていました。九州ではまた方々の八幡のお社に、景政の霊が一しょにおまつりしてあるのです。
奥羽地方の多くの村の池で、権五郎が目の傷を洗ったという話があるのも、もとはやはり眼を射られたということを、尊敬していたためではないかと思います。そうすると片目の魚といって、他の普通の魚と差別していたのも、必ず何かそれと似たようなわけがあったので、女の一念だの、池の主のうらみだのというのは、ちょうど池の辺の子安神に、「姥母甲斐ない」の話を持って来たと同じことで、後に幾つもの昔話を繋ぎ合わせたものらしいのであります。
つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったというわけは、ごく簡単に想像して見ることが出来ます。神にお供え申す魚は、川や湖水から捕って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する為には、一方の眼を取って置くということが出来るからであります。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがあるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われるのみならず、また話にはいろいろ残っております。例えば近江の湖水の南の磯崎明神では、毎年四月八日の祭りの前の日に、網を下して二尾の鮒を捕え、一つは神前に供え、他の一つは片面の鱗を取ってしまって、今一度湖に放してやると、翌年、四月七日に網にはいって来る二尾のうち、一つは必ずこの鮒であるといいました。そんなことが出来るかどうか疑わしいが、とにかくに目じるしをつけて一年放して置くという話だけはあったのです。
また天狗様は魚の目が好きだという話もありました。遠州の海に近い平地部では、夏になると水田の上に、夜分多くの火が高く低く飛びまわるのを見ることがある。それを天狗の夜とぼしといって、山から天狗が泥鰌を捕りに来るのだといいました。そのことがあってからしばらくの間は、溝や小川の泥鰌に眼のないのが幾らもいたそうで、それは天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島の村にもありました。沖縄ではきじむんというのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、きじむんと同行して釣りをすると、特に多く獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、大そうつごうがよいという話もありました。
また宮城県の漁師の話だというのは、金華山の沖でとれる鰹魚は、必ず左の眼が小さいか、潰れている。これは鰹魚が南の方から金華山のお社の燈明の火を見かけて泳いで来るからで、漁師たちはこれを鰹の金華山詣りというそうであります。必ずといったところが、一々調べて見ることは出来るものではありません。人がそう思うようになった原因は、やはり神様は片目がお好きということを、知っていた者があった証拠だと思います。
それからまた、お社の祭りの日に、魚の目を突いて片目にしたという話も残っています。日向の都万神社のお池、花玉川の流れには片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫の神が、このお池の岸に遊んでおいでになった時、神様の玉の紐が水に落ちて、池の鮒の目を貫き、それから以後片目の鮒がいるようになった。玉紐落と書いて、この社ではそれをふなと読み、鮒を神様の親類というようになったのは、そういう理由からであるといっております。(笠狭大略記。宮崎県児湯郡下穂北村妻)
加賀の横山の賀茂神社に於ても、昔まだ以前の土地にこのお社があった時に、神様が鮒の姿になって御手洗の川で、面白く遊んでおいでになると、にわかに風が吹いて岸の桃の実が落ちて、その鮒の眼にあたった。それから不思議が起って夢のお告げがあり、社を今の所へ移して来ることになったといういい伝えがあります。神を鮒の姿というのは変な話ですが、お供え物の魚は後に神様のお体の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考えていたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかったもとの理由であったろうと思います。(明治神社誌料。石川県河北郡高松村横山)
昔の言葉では、こうして久しい間、神に供えた魚などを活かして置くことを、いけにえといっておりました。神様がますますあわれみ深く、また魚味をお好みにならぬようになって、いつ迄も片目の魚がお社の池の中に、泳ぎ遊んでいることになったのでありますが、魚を片目にする儀式だけは、もっと後までも行われていたのではなかろうかと思います。俎岩などという名前の平石が、折り折りは神社に近い山川の岸に残っていて、そこでお供え物を調理したようにいっています。備後の魚が池という池では、水のほとりに大きな石が一つあって、それを魚が石と名づけてありました。この池の魚類にも片目のものがあるといい、村の人はひでりの年に、ここに来て雨乞いのお祭りをしたそうであります。(芸藩通志。広島県世羅郡神田村蔵宗)
阿波では福村の谷の大池の中に、周囲九十尺、水上の高さ十尺ばかりの大岩があって、この池でも鯉鮒を始めとし、小さな雑魚までが、残らず一眼であるといっています。その岩の名を今では蛇の枕と呼び、月輪兵部殿という武士が、昔この岩の上に遊んでいた大蛇を射て、左の眼を射貫き、一家ことごとくたたりを享けて死に絶えた。その大蛇のうらみが永く留まって、池の魚がいつ迄も片目になったのだといいますが、これもまた二つの話を結び合せたものだろうと思います。(郷土研究一編。徳島県那賀郡富岡町福村)
大蛇といったのは、むろんこの池の主のことで、片目の鯉鮒は、その祭のためのいけにえでありました。それとある勇士が水の神と戦って、初めに勝ち、後に負けたという昔話と、混同して新しい伝説が出来たのかも知れません。しかしこういう池の主には限らず、神々にも眼の一箇しかない方があるということは、非常に古くからいい伝えていた物語であります。どうしてそんなことを考え出したかはわかりませんが、少くともそれがいけにえの眼を抜いて置いたということと、深い関係があることだけはたしかであります。それだから、また目の一方の小さい人、或はすがめの人が、特別に神から愛せられるように思う者があったのであります。大蛇が眼をぬいて人に与えたという話は、弘く国々の昔話になって行われております。その中でも肥前の温泉嶽の附近にあるものは、ことに哀れでまた児童と関係がありますから、一つだけここに出して置きます。昔この山の麓のある村に、一人の狩人が住んでいましたが、その家へ若い美しい娘が嫁に来まして、それがほんとうは大蛇でありました。赤ん坊が生れる時に、のぞいてはいけないといったので、かえって不審に思ってのぞいて見ますと、おそろしい大蛇がとぐろを巻いて、生れ子を抱えていました。それがまた女になって出て来まして、姿を見られたからもう行かなければならなくなった。子供が泣く時にはこの玉を嘗めさせてやって下さいといって、自分で右の眼を抜いて置いてお山の沼へ帰って行きました。それを宝物のように大切にしておりましたが、その評判が高くなって殿様に取り上げられてしまい、赤ん坊がお腹がすいて泣き立てても、なめさせてやることが出来ません。こまり切って親子の者が山へ登り、沼の岸に出て泣いていると、にわかに大浪がたって片目の大蛇が現れ、くわしい話を聴いて残った左の方の眼の玉を抜いてくれます。喜んでそれを貰って来て、子供を育てているうちに、その玉も殿様に取り上げられます。もう仕方がないから身を投げて死のうと思って、また同じ沼へやって来ますと、今度は盲の大蛇が出て来て、その話を聴いて非常に怒りました。そういうひどいことをするなら、しかえしをしなければならぬ。二人は早くにげて何々という所へおいでなさい。そこでは良い乳を貰うことが出来るからといって、親子の者をすぐに返しました。そうしてその後でおそろしい噴火があって、山が崩れ、田も海も埋まったのは、この盲の大蛇の仕返しであったというのです(筑紫野民譚集)。遠州の有玉郷では、天竜川の大蛇を母にして生れた子が、二つの玉を貰ってそれを持って出世をした話が、古くからあったようですが、眼を抜いたということは、そこではいわなかったと思います。(遠江国風土記伝)
何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、一つまなぐ、東京では一つ目小僧などといって、顔の真中に眼の一つあるお化けを、想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つの目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴みもしていたのであります。だから月輪兵部が、大蛇の眼を射貫いたという話なども、ことによると別に今一つ前の話があって、その後の勇士のしわざに、間違えてしまったのではないかと思います。
飛騨の萩原の町の諏訪神社では、又こういう伝説もあります。今から三百年余り以前に、金森家の家臣佐藤六左衛門という強い武士がやって来て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといって、御神体を隣りの村へ遷そうとした。そうすると、神輿が重くなって少しも動かず、また一つの大きな青大将が、社の前にわだかまって、なんとしても退きません。六左衛門この体を見て大いにいきどおり、梅の折り枝を手に持って、蛇をうってその左の目を傷つけたら、蛇は隠れ去り、神輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戦が起って、六左衛門は出て行って討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお社をもとの土地へ迎えました。それから後は、折り折り社の附近で、片目の蛇を見るようになり、村民はこれを諏訪様のお使いといって尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じているそうであります。(益田郡誌。岐阜県益田郡萩原町)
この話なども佐藤六左衛門がやって来るまでは、蛇の目は二つで、梅の木は幾らでも成長していたのだということを、たしかめることは出来ないのであります。もっと前からこの通りであったのを忘れてしまって、この時から始まったように、考えたのかも知れません。わざわざ梅の枝など折って、しかもお使者の蛇の目だけを傷つけるということは、気の短い勇士の佐藤氏が、しそうなことでありません。そればかりでなく、神様が目を突いて、それからその植物を植えなくなったという伝説は、意外なほどたくさんあります。その五つ六つをここで挙げて見ますと、阿波の粟田村の葛城大明神の社では、昔ある尊い御方が、この海岸に船がかりなされた折りに、社の池の鮒を釣りに、馬に乗っておでかけになったところが、お馬の脚が藤の蔓にからまって、馬がつまずいたので落馬なされ、男竹でお目を突いてお痛みははげしかった。それ故に今にこの社の神には眼の病を祈り、氏子の四つの部落では、池には鮒が住まず、藪には男竹が生えず、馬を置くと必ずたたりがあるといいました。(粟の落穂。徳島県板野郡北灘村粟田)
美濃の太田では、氏神の加茂県主神社の神様がお嫌いになるといって、五月の節句にも、もとは粽を作りませんでした。大昔、加茂様が馬に乗って、戦いに行かれた時に、馬から落ちて薄の葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用いないのだといっておりました。(郷土研究四編。岐阜県加茂郡太田町)
信州には、ことにこの話が多く伝えられています。小県郡当郷村の鎮守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜の蔓に引っ掛ってころんで、胡麻の茎で目をお突きなされたということで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといっています。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植えず、植えてもしその木が栄えるようであったら、その家は反対に衰えて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いがで目を突かれたからだというのです。また島立村の三の宮の氏子の中にも、神様が松の葉で目を突かれたからといって、正月に松を立てない家があります。橋場稲扱あたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てております。昔清明様という偉い易者が稲扱に来ていて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるようであったら、その家は火事にあうぞといったので、こうして柳を立てることにしたのだそうです。(南安曇郡誌。長野県南安曇郡安曇村)
小谷四箇荘にも、胡麻を作らぬという部落は多い。氏神が目をお突きになったといい、または強いて栽培する者は眼を病んで、突いたように痛むともいいました。中土の奉納という村では長芋を作らず、またぐみの木を植えません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまずいて、ぐみで眼をさしたことがあるからだといっております。(小谷口碑集。長野県北安曇郡中土村)
東上総の小高、東小高の両部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たまたま路傍に自生するのを見付けても、驚いて御祈祷をするくらいでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一様に大根を作らなかったということです。これも小高明神が大根にけつまずいて、転んで茶の木で目を突かれたせいだといいますが、それにしては茶の木の方を、なんともいわなかったのが妙であります。(南総之俚俗。千葉県夷隅郡千町村小高)
中国地方でも、伯耆の印賀村などは、氏神様が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといって、今でも決して竹は植えません。竹の入り用があると山を越えて、出雲の方から買って来るそうです。(郷土研究四編。鳥取県日野郡印賀村)
近江の笠縫の天神様は、始めてこの村の麻畠の中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなというお誡めで、今に一人としてこれにそむく者はないそうです。(北野誌。滋賀県栗太郡笠縫村川原)
また蒲生郡の川合という村では、昔この地の領主河井右近太夫という人が、伊勢の楠原という所で戦をして、麻畠の中で討たれたからという理由で、もとは村中で麻だけは作らなかったということです。(蒲生郡誌。滋賀県蒲生郡桜川村川合)
関東地方に来ると、下野の小中という村では、黍を栽培することをいましめておりますが、これも鎮守の人丸大明神が、まだ人間であった時に、戦をして傷を負い、逃げて来てこの村の黍畠の中に隠れ、危難はのがれたが、黍のからで片目をつぶされた。それ故に神になって後も、この作物はお好みなされぬというのであります。(安蘇史。栃木県安蘇郡旗川村小中)
この近くの村々には、戦に出て目を射られた勇士、その目の疵を洗った清水、それから山鳥の羽の箭をきらう話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神様のおつき合に片目になるという話を少しして見ます。福島県の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃はどうなったか私はまだきいていません。(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村)
眼の大きさが両方同じでない人は、思いの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思っていないのです。村によっては昔鎮守さまが隣りの村と、石合戦をして目を怪我なされたからということを、子供ばかりが語り伝えている所もありますが、大抵はもう古い話を忘れています。それでも土湯のように、実際そういう御像が残っている場合だけは、間違いながらもまだ覚えていられたのであります。三河の横山という村では、産土神の白鳥六社さまの御神体が片目でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いようだということであります。(三州横山話。愛知県南設楽郡長篠村横川)
石城の大森という村では、庭渡神社の御本尊は、もとは地蔵様で、非常に美しい姿の地蔵様でしたが、どういうわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもそういっているそうです。(民族一編。福島県石城郡大浦村大森)
それからまた村全体でなくとも、特別に関係のある、ある一家の者だけが、代々片目であったという話は方々にあって、前にいった甲州の山本勘助の家などはその一つであります。丹波の独鈷抛山の観音さまは片目でありました。昔この山の頂上の観音岩の上で、観音が白い鳩の姿になって遊んでござるのを、麓の柿花村の岡村という家の先祖が、そうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちょうど鳩の眼に中りました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奥に来て、止まっていたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たまたま兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといって、永く弓矢のわざをやめていたそうであります。(口丹波口碑集。京都府南桑田郡稗田野村柿花)
羽後の男鹿半島では、北浦の山王様の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であったという伝説が残っています。この家の元祖竹内弥五郎は弓箭の達人でありました。八郎潟の主八郎権現が、冬になると戸賀の一の目潟に来て住もうとするのを、一つ目潟の姫神に頼まれて、寒風山の嶺に待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたということであります。そうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して弥五郎の眼にあたったともいい、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいって、とにかくに弥五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめであったそうです。(雄鹿名勝誌。秋田県南秋田郡北浦町)
この竹内神主の家には、神の眼を射たという箭の根を、宝物にして持ち伝えてありました。神に敵対をした罰として、片目を失ったということが間違いでなければ、こういう記念品を保存していたのが変であります。神が片目の魚をお喜びになったように、ほんとうは片目の神主が、お好きだったのではなかろうかと思われます。
野州南高岡村の鹿島神社などでは、神主若田家の先祖が、池速別皇子という方であったといっております。この皇子は関東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが為に都にお帰りになることが許されなかった。それでこの村に留まって、神主の家をおたてになったというのであります。(下野神社沿革誌。栃木県芳賀郡山前村南高岡)
奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。少しくすがめというのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめなり」といって、笑われたという話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。そうして時によってはそれを自慢にしていたらしいのであります。(相生集。福島県安積郡多田野村)
越後の山奥の大木六という村には、村長で神主をしていた細矢という非常な旧家があって、その主人がまた代々すがめでありました。昔この家の先祖の弥右衛門という人が、ある夏の日に国境の山へ狩りに行って路を踏み迷い、今の巻機山に登ってしまいました。この山は樹木深く茂り薬草が多く、近い頃までも神の山といって、おそれて人のはいらぬ山でありましたが、弥右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫様の機を巻いているのを見かけたのであります。驚いて立って見ると、向うから言葉をかけて、ここは人間が来れば帰ることの出来ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あってわが姿を見た。それでこれから里に下って、永く一村の鎮守として祀られようと思う。急いでわれを負うて山を降りて行け、そうして必ず後を見返ってはならぬといわれました。仰せの通りにして帰って来る途中、約束に背いて思わずただ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神様を見ようとしますと、忽ちすがめとなってしまって、それから以後この家へ生れる男子は、悉く一方の目が細いということでありました。今でもそういうことがあるかどうか、私は行って尋ねて見たいと思っています。(越後野志と温故之栞。新潟県南魚沼郡中之島村大木六)
大木六ではこの姫神を巻機権現ととなえて、今も引き続いて村の鎮守として祭っているのでありますが、土地によっては神を里中へお迎え申すことをせず、もとからの場所にこちらからお参りをして、拝んでいる村がいくらもあります。そうすると参拝する時と人とが分れ分れになって、もとからあった伝説もだんだんに変って来るのであります。それで山の神様が女であった。小さな子を連れた姥神であったということなども、後には忘れてしまったところがずいぶんありますけれども、どうかすると話の大切な筋途から、いつまでもそれを覚えていなければならぬ場合もありました。例えば静かな谷川の淵の中で、機を織る梭の音をきくといい、または人が行くことも出来ぬような峰の岩に、布をほしたのが遠く見えるというなどはそれで、こういう為事は男がしませんから、その為に山姥山姫のいい伝えはなお永く残るのであります。
殊に山姥は見たところは恐ろしいけれども、里の人には至って親切であって、山路に迷っていると送ってくれる。またおりおりは村に降りて来て、機織り苧績みを手伝ってくれるという話もありました。また仕合せの好い人は、山奥にはいって、山姥の苧つくねという物を拾うことがたまにある。その糸はいくら使っても尽きることがないともいいました。また山姥が子を育てるという話も、決して足柄山の金太郎ばかりではありません。
以前はどこの国の山にも山姥がいたらしいのですが、今はわずかしか話が残っておらぬのであります。そうしてその山姥ももとは水の底に機を織る神と一つであったことは、知っている者が殆どなくなりました。備後の岡三淵は、恐ろしい淵があるから出来た村の名で、おかみとは大蛇のことであります。村の山の下には高さ二丈余もある大岩が立っていて、その名を山姥の布晒し岩といい、時々この岩のてっぺんには、白いものが掛かってひらめいていることがあるといいました。(芸藩通志。広島県双三郡作木村岡三淵)
因幡国の山奥の村にも、非常に大袈裟な山姥の話がありました。栗谷の布晒し岩から、それと並んだ麻尼の立て岩、箭渓の動ぎ石の三つの大岩にかけて、昔は山姥が布を張って乾していたといいました。この間が二里ばかりもあります。また箭渓の村の西には、山姥の灰汁濾しと云う小さな谷があって、岩の間にはいつも灰汁の色をした水がたまっています。この水でその山姥が布を晒していたというのであります。(因幡志。鳥取県岩美郡元塩見村栗谷)
こういう話を子供までが、大笑いをしてきくようになりますと、だんだんと伝説がうそらしくなって来て、山の崩れたところを山姥が踏ん張った足跡だといったり、小便をしたあとだなどという話も出来て来ます。土佐の韮生の山の中などでは、岩に自然の溝が出来ているのを、昔山姥が麦を作っていた畝の跡だといいました。(南路志。高知県香美郡上韮生村柳瀬)
春になると子供が紙鳶をあげるのに、「山の神さん風おくれ」というところもあれば、また「山んぼ風おくれ」といっている土地もあります。今では山姥は少年の知り人のように、呼びかけられているのであります。或る夕方などに山の方を向いて、大きな声で何かわめくと、直にあちらでも口まねをするのを、普通にはこだまといいますが、これは山姥がからかうのだと思っていた子供がありました。こだまというのも山の神のことですから、もとはそれを女だと想像していたのであります。
山姥は少し意地悪だ。いつも子供のいやがる様な、にくらしい口答えをよくするといって、あまんじゃくという言葉が、素直でない子のあだなのようになったのも、ほんとうはこの反響が始めなのであります。前に姥が池の話でいったように、あまんもおまんも姥神さまのことであります。東京のような山から遠い土地でも、昔は夕焼け小焼のことを「おまんが紅」といっておりました。天が半分ほども真赤になるのを、どこかで山の大女が、紅を溶かしているのだといってたわむれたのであります。
この山姥が機を織ったという話が、またいろいろの形に変って伝わっております。遠州の秋葉の山奥では、山姥が三人の子を生んで、その三人の子がそれぞれ大きな山の主になっているといい、その山姥がまた里近くへ来て、水のほとりで機を織っていたといいました。秋葉山のお社から少し後の方に、深い井戸があります。この山にはもと良い清水がなかったのを、千年余り前に神主が神に祈って、始めて授かった井戸だということで、この泉の名を機織の井というのは、その後奥山に山姥が久良支山から出て来て、このかたわらに住んで神様の衣を織り、それを献納していったから、この名になったのだというそうです。そういういい伝えのある井戸は、まだこの近辺の村にも二つも三つもあります。(秋葉土産。静岡県周智郡犬居村領家)
秋葉の山の神は俗に三尺坊さまと称えて、今でも火難を防ぐ神として拝んでいるのは、おおかたこの貴い泉を、支配する神であったからであろうと思います。山姥とこの三尺坊様とは、一通りならぬ深い関係があったので、そのお衣を山の姥が来て織ったというのも、それ相応な理由のあることでした。相州箱根の口の風祭という村は、後に築地へ持って来た咳の姥の石像のあったところですが、その近くにも大登山秋葉寺という寺があって、いつの頃からか三尺坊を迎えて祀っています。この寺にも一夜にわき出したという清水があり、水の底には二つの玉が納めてあるともいって、雨乞いの祭りをそこでしました。三百五十年ほど前に、ここへも一人の姥が来て布を織ったことがあるので、井戸の名を機織りの井と呼びました。その布に五百文の鏡を添えて寺におくり、姥はいずれへか行ってしまいました。その銭は永くこの寺の宝物となってのこり、布は和尚が死ぬときに着て行ったということであります。(相中襍志。神奈川県足柄下郡大窪村風祭)
今でも姥神は常に機を織っておられるが、それを人間の目には普通は見ることが出来ぬのだというところがあります。信州の松本附近では、人が病気になって神降しという者に考えてもらうと、水神のたたりだという場合が多いそうであります、水神様が水の上に五色の糸を綜て、機を織って遊んでいられるのを、知らずに飛び込んでその糸を切ったり汚したりすると、腹を立ててたたりなさるのだと、想像している人があったのであります。それが為に時々は小さな流れの岸などに、御幣を立て五色の糸を張って祭ってあるのを、見かけることがあったという話です。(郷土研究二編)
戸隠の山の麓の裾花川の岸には、機織り石という大きな岩があって、その脇には梭石、筬石、榺石などと、いろいろ機道具に似た形の石がありました。雨が降ろうとする前の頃は、この石のあたりでからからという音がするのを、神様が機をお織りになるといったそうで、この音がきこえるとどんな晴れた日も曇り、二三日のうちには必ず降り出すといったのは、恐らくもとここで雨乞いをしていたからでありましょう。(信濃奇勝録。長野県上水内郡鬼無里村岩下)
木曽の野婦池というのもひでりの年に、村の人が雨乞いに行く池でありました。この池では時おり山姥が水の上で、機を織っておるのを見た者があるといいました。この山姥はもと大原という村の百姓の女房であったのが、髪が逆立ち角が生えて、しまいに家を飛び出して山姥になったといいます。或はまた突いていた柳の杖を池の岸にさして置いて、水の中へはいってしまったという話もあって、そのあたりに柳の木がたくさんに茂っているのを、山姥の杖が芽を出して大きくなったものだともいっていました。(木曽路名所図会。長野県西筑摩郡日義村宮殿)
水の底から機を織る音がきこえて来るという伝説なども、土地によって少しずつは話し方が変っていますが、探して見るとそちこちの大きな川や沼に、同じようないい伝えがあります。羽後の湯の台の白糸沢では、水の神様が常に機を織っておられるので、夜分周囲が静かになれば、いつでも梭の音がこの淵の方からきこえるといいました。(雪之飽田根。秋田県北秋田郡阿仁合町)
飛騨の門和佐川の竜宮が淵というところでは、昔は竜宮の乙姫の機織る音が、たびたび水の底からきこえていたものであった。それがある時一人のいたずら者があって、馬の鞦をこの淵へほうり込んで以来、ばったりその音をきくことが出来なくなったといいます。神代の天の岩屋戸の物語にも、似通うた所のある話であります。(益田郡誌。岐阜県益田郡上原村門和佐)
昔は村々のお祭りでも、毎年新たに神様の衣服を造ってお供え申していたようであります。その為には最も穢を忌んで、こういうやや人里を離れた清き泉のほとりに、機殿というものを建てて若い娘たちに、その大切な布を織らせていたかと思います。その風がだんだんにやんで、後には神のお附きの女神が、その役目をなさるように考えて来ました。そのわけももうわからなくなって、しまいには竜宮の乙姫様などということになりましたけれども、ここできこえる機の音は竜宮のものでなく、最初から土地の神様の御用でありました。ちょうど片目の魚が生け牲のうちからおそれ敬われたように、後々神の御身につく布である故に、その機の音のするところへは、ただの人の布を織る者は、はばかって近よらぬようにしていたのであります。旧五月一と月の間は、ただの女は機を織ってはならぬといういましめがあり、これを犯す者が厳しく罰せられる村は今でもあります。
安芸の厳島などは、島の神が姫神であった為か、昔は島の内で機を立てることが常に禁じられてありました(棚守房顕手記)。また機道具をもってある池の側を通った女が、落ちて死んだという話が他の村々に多いのも、その為かと思います。
若狭の国吉山の麓の機織り池なども、今はすっかり水田になってしまいましたが、前には水の中から機織る音がきこえるといいました。まだこの池が大池であった頃、一人の女が機の道具を持って、池の氷の上を渡ろうとしたところが、氷が割れて水にはいって死んだ。機織姫神社というのは、その女の霊を祀ったのだといっていますが、それは多分思い違いで、この姫神の社もある程の池だから、こんな恐ろしい話が出来たのであろうと思います。(若狭郡県志。福井県三方郡山東村阪尻)
それよりも更に物すごい話が、近江の比夜叉の池にあります。もとはこの池には水が少くて、どうすればよいかと占いを立てて見ると、一人の女を生きながら池の底に埋めて、水の神に祀るならば、きっと水が持つということでありました。その時に領主の佐々木秀茂の乳母比夜叉御前が、自ら進んでこの人柱に立ち、持っていた機の道具とともに、水の下に埋められました。それからは果していつも水が池一杯あるので、今でも比夜叉女水神と称えて信仰せられています。そうして真夜中にこの池の脇を通る人は、いつも水の底から機を織る音をきいたということであります。(近江輿地志略。滋賀県阪田郡大原村池下)
乳母がわざわざ機道具を持って、池の底にはいって行ったという点は、今一つ前からの話の残りであろうと思います。比夜叉という池の名も、もとはおそろしい池の主がいた為らしいのですが、美濃の夜叉池の方でも、やはりそれを大蛇に嫁入りした長者の愛娘の名であったようにいっています。即ちこういう伝説は昔話になり易いのです。昔話の最も面白い部分を、持って来て結びつけられ易いのであります。
上総の雄蛇の池などでも、若い嫁が姑ににくまれ、機の織り方が気に入らぬといっていじめられた。それで困ってこの池に身を投げたという話になっていますが、雨の降る日には水の底から、今でも梭の音がするという部分は伝説であります。もとはこの話は必ずもう少し池の雄蛇と関係が深かったのだろうと思います。(南総乃俚俗。千葉県山武郡大和村山口)
しかしその昔話の方でも、もし伝説というものがなかったら、こうは面白くは発展しなかったのであります。一つの例をいうと、土佐の地頭分川の下流、行川という村には深い淵があって、その岸には一つの大岩がありました。昔ある人がこの岩の下にはいって見ると、淵の底に穴があってその奥の方で、美しい女が綾を織っているのを見たという伝説があります。(土佐州郡志。高知県土佐郡十六村行川)
この伝説は殊に弘く全国に行き渡ってありますが、大抵はこれに伴って気味の悪い、または愉快な話が語り伝えられているのであります。
羽後の小安の不動滝の滝壺では、昔あるきこりが山刀をこの淵に落し、水にはいってこれをさがしまわっていると、忽ち明るい美しい里に出た。御殿があって、その中には綺麗な女の人がいました。山刀はここにあるといってこの男に渡し、二度と再びこんなところへは来るな。あの鼾の声をききなさい。あれは私の夫の竜神の寝息だ。私は仙台の殿様の娘だが、竜神に取られてもう逃げ出すことが出来ぬといったという話。これには女が機を織っていたという点が、早すでに落ちております。(趣味の伝説。秋田県雄勝郡小安)
ところが私のきいた陸中原台の淵の話では、長者の娘は水の底に一人で機を織っており、鉈はちゃんとその機の台木に、もたせ掛けてあったということで、そうしてうちの親たちに心配をするなという伝言をしたというのです。(遠野物語。岩手県下閉伊郡小国村)
更に岩代二本松の町の近く塩沢村の機織御前の話などは、また少しばかり変っています。昔ある人が川の流れに出て鍬を洗っていて、あやまってそれを水中に取り落した。水底にはいってさがしまわっているうちに、とうとう竜宮まで来てしまいました。竜宮では美しいお姫様がただ一人、機を織っていたといいます。久しく待っていたところへようこそおいでといって、大そうなおとり持ちでありましたが、家のことが気になるので、三日めに暇乞いをして、腰元に路まで送ってもらって、もとの村に帰って来ました。そうすると三日と思ったのがもう二十五年であった。それから記念の為に、この機織御前のお社を建てたという話であります。ただしそれにもまた別のいい伝えはあるので、私はそのことを次ぎにお話して、もうおしまいにします。(相生集。福島県安達郡塩沢村)
機織御前を織物業の元祖の神として、祀っている地方は多いのであります。その一つは能登の能登比咩神社、この神様は始めて能登国に御兄の神と共にお下りなされ、神様の御衣服を作って後に、その機道具を海中にお投げになったのが、今は織具島という島になって、富木浦の沖にある。この地方の織物業者が、稗の粥を織糸にぬるのは、もと姫神様のお教えであったといって、今でも四月二十一日の祭礼に、稗粥を造ってお供えすることになっているそうです。(明治神社誌料。石川県鹿島郡能登部村)
野州の那須では那須絹の元祖として、綾織池のかたわらに綾織神社を祭っております。大昔、館野長者という人が娘の綾姫の為に、綾織大明神を迎えに来たというのが、今の歴史でありますが、その前には驚くような一つの奇談がありました。この池は今から二百五十年前の山崩れに埋まって、小さなものになってしまったが、もとは有名な大池であった。その頃に池の主が美しい女に化けて、都に上ってある人の妻となり、綾を織って追い追いに家富み、後には立派な長者になった。ある時この女房が昼寝をしているのを、夫が来て見ると大きなる蜘蛛であった。それを騒いだので一首の歌を残して、蜘蛛の女房は逃げて帰った。そうしてこんな歌を残して行ったというのであります。
それで夫が、跡を追うて尋ねて来て、再びこの池のほとりで面会したという話もあります。歌はこの地方の臼ひき歌になって永く伝わっていたといいますから、これもまた那須地方の伝説であったのです。(下野風土記。栃木県那須郡黒羽町北滝字御手谷)
この歌が安倍晴明の母だという葛の葉の狐の話と、同じものだということは誰にも分りますが、那須の方は子供のことをいっておりません。ところが、歌の文句にある那須のことやというのが、もしこのお社のある御手谷のことであるならば、福島地方の絹の神様、小手姫御前はもとは一つであろうと思いますが、こちらには親子の話があるのであります。小手姫様は今の飯阪の温泉の近く、大清水の村に祀ってあるのが最も有名で、土地では機織御前の宮といっております。いろいろのいい伝えがあって、少しも一致しませんが、今でもよく知られているのは、羽黒山の神様蜂子の王子の御母君であって、王子のあとを慕ってこの国へお下りなされ、年七十になるまで各地をあるいて、蚕を養い絹を織ることを人民に教え、後に、この大清水の池に身を投げて死なれたというのであります。それはとにかくに、社の前には左右の小池があって水至って清く、今も村々の人は絹を織れば、その織り留めをこの御宮に献納するということであります。(信達二郡村誌。福島県伊達郡飯阪町大清水)
この小手姫の小手という語には、何か婦人の技芸という意味が、あったのではないかと思いますが、今の小手川村の内には、また布川という部落もあって、小手姫がここの川原に出て、自ら織るところの布を晒したともいっています。すなわち布を織る姥の信仰の方が、却ってこの地方に絹織物の始まりよりは古かったようであります。そうすると小手姫を蜂子王子の御母といい始めた理由も、幾分か明かになります。すなわち王子の御衣服を調製する役として、早くから共々に祀っていたのが、後に絹工業が盛んになって、独立してその機織御前だけを、拝むようになったとも見えるのであります。前に申した二本松の機織御前なども、領主の畠山高国という人が、この地に狩をした時、天から降った織姫に出あって、結婚して松若丸という子が生れた。その松若丸の七歳の時に、母の織姫は再び天に帰り、後にこの社を建てて、祀ることになったと、土地の人たちはいっていたそうで(相生集)、話はまた那須の綾織池の方とも、少しばかり近くなって来るのであります。こういう風に考えて来ると、機を織る姫神を清水のかたわらにおいて拝んだのも、もとは若い男神に、毎年新しい神衣を差し上げたい為であって、どこまで行っても御姥子様の信仰は、岸の柳のように一つの伝説の流れの筋を、われわれに示しているのであります。
御箸を地面にさして置いたら、だんだん大きくなって、大木になったという話が方々にあります。
東京では向島の吾妻神社の脇にある相生の楠もその一つで、根本から四尺ほどの所が二股に分れていますが、始めは二本の木であったものと思われます。社のいい伝えでは、昔、日本武尊がここで弟橘姫をお祭りになった時、お供え物についた楠のお箸を取って土の上に立て、末代天下泰平ならば、この箸二本とも茂り栄えよと仰せられました。そうすると果してその箸に根がついて、後にはこんな大きな木になったというのであります。この楠の枝を四角にけずったものを、今でも産をする人がいただいて行くそうです。それをお箸にして食事をしていれば、必ずお産が軽いと信じた人が多く、またこの木の葉を煎じて飲むと、疫病をのがれるともいっておりました。(江戸志以下。土俗談語等)
また浅草の観音堂の後にある大公孫樹は、源頼朝がさして行ったお箸から、芽を出して成長したものだといういい伝えもありました。(大日本老樹名木誌。東京市浅草公園)
頼朝のお箸の木は、これ以外にも、まだ関東地方には、そちこちに残っております。
武蔵ではまた土呂の神明様の社の脇の大杉が、源義経の御箸であったと申します。義経は蝦夷地へ渡って行く以前に、一度この村を通って、ここに来て休憩したことがあるのだそうです、そうして静かな見沼の風景を眺めながら昼の食事をしたというのであります。その時に箸を地にさして行ったのが、芽を生じて今の大杉になったといっております。(大日本老樹名木誌。埼玉県北足立郡大砂土村)
武蔵の入間郡には椿峯という所が二箇所あります。その一つは、御国の椿峯で、高さ四五尺の塚の上に、古い椿の木が二本あります。これは昔新田義貞が、この地に陣取って食事をした時に、お箸に使った椿の小枝をさして置いたのが、後にこの様に成育したといい伝えております。(入間郡誌。埼玉県入間郡山口村)
いま一つは山口の北隣りの北野という村の椿峯で、これは新田義興が、椿の枝を箸にして、ここで食事をしたようにいっておりますが、ちょうど村境の山の中に、双方がごく近くにあるのですから、もとは一つの話を二つにわけていい伝えたものであります。(同書。同郡小手指村北野)
それからいま一つ外秩父の吾野村、子の権現山の登り口に、飯森杉という二本の老木があります。これは子の聖という有名な上人が、初めてこの山に登った時に、ここで休んで、昼餉に用いた杉箸を地にさして行ったと伝えております。こういうふうに人はいろいろに変っても、いつもお昼の食事をした場所ということになっているのは、何か理由のあることでなければなりません。(老樹名木誌。埼玉県秩父郡吾野村大字南)
甲州では、東山梨の小屋舗という村に、また一つ日本武尊の御箸杉という木がありました。それは松尾神社の境内で、熊野権現の祠の後にある大木でありました。日本武尊の御遺跡という所は、山梨県にはまだ方々にありますが、いずれも詳しいことは伝わっておりません。(甲斐国誌。山梨県東山梨郡松里村)
そこから余り遠くない等々力村の万福寺という寺にも、親鸞上人の御箸杉という大木が二本あって、それ故に、また杉の御坊とも呼んでおりましたが、二百年以上も前の火事に、その一本は焼け、残りの一本も後に枯れてしまいました。昔、親鸞がこの寺に来て滞在しいよいよ帰ろうという日に、出立の膳の箸を取って、御堂の庭にさしました。阿弥陀如来の大慈大悲には、枯れた木も花が咲く。われわれ凡夫もそのお救いに洩れぬ証拠は、この通りといってさして行きましたが、果たせるかな、幾日もたたぬうちに、その箸次第に根をさし芽を吹いて、いつしか大木と茂り秀でたというのであります。(和漢三才図会以下。東山梨郡等々力村)
関東では東上総の布施という村の道の傍にも、幾抱えもある老木の杉が二本あって、その地を二本杉と呼んでおりました。これはまた、昔源頼朝が、ここを通って安房の方へ行こうとする際に、村の人たちが出て来て、将軍に昼の飯をすすめました。箸には杉の小枝を折って用いたのを、記念の為にその跡にさし、それが生えついて、この大木となったといって、そこも新田義貞の椿峯と同様に、小さい塚になっていたと申します。(房総志料。千葉県夷隅郡布施村)
なおこれから四里ばかり西に当って、市原郡の平蔵という村の二本杉にも、同じく頼朝公が御箸をさして行かれたという伝説が残っておりました。いつも頼朝であり、また箸であることは、よほど珍しい話といわねばなりません。(房総志料続編。千葉県市原郡平三村)
上総では、また頼朝公の御箸は、薄の茎をもって作り、食事の後にそれをさして置いたらついたので、今でも六月二十七日の新箸という祭り日には、薄を折って箸にするといい伝えている村があります。(南総之俚俗。千葉県長生郡高根本郷村宮成)
越後などでは、七月二十七日を青箸の日と名づけて、必ず青萱の穂先を箸に切って、その日の朝の食事をする村が多かったそうです。そのいわれは、昔川中島合戦の時に、上杉謙信が諏訪明神に祈って、武運思いの通りであった故に、その後永く諏訪の大祭りの七月二十七日の朝だけは、神のお喜びなされる萱の穂を、箸に用いることにしたのだといっておるのであります。(温故之栞巻二十)
或はまた頼朝は葭を折って、箸に用いたとも伝えております。上総の畳が池は、八段歩に近い大池でありますが、一本も葭というものが生えません。それは昔頼朝公が、この池の岸で昼の弁当を使い、葭を折って箸にしたところが、あやまって唇を傷つけました。それで腹を立てて葭の箸を池に投げ込んだので、今でもこの池には葭が育たぬのだといっております。(上総国誌稿。千葉県君津郡清川村)
下総では、印旛郡新橋の葦が作という所に、これは頼朝の御家人であった千葉介常胤の箸が、成長したという葦原があります。やはりこの池を通行して昼の食事をするのに、葦を折って箸に使い、後でそれを地面にさして行くと、その箸に根を生じて、追々に茂ったといい、元が箸だから今でも必ず二本ずつ並んで生えるのだと伝えておりました。(印旛郡誌。千葉県印旛郡富里村新橋)
安房の洲崎の養老寺という寺の庭には、やはり頼朝公の昼飯の箸が成長したと称して、清水の傍に薄の株がありますが、これは前の話とは反対に、毎年ただ一本だけしか茎が立たぬので、一本薄の名をもって知られておりました。尾花は普通には何本も一しょに出ますから、何か特別の理由がなくてはならぬというふうに、考えられていたものと思われます。(安房志。千葉県安房郡西岬村)
葦と薄の箸の話は、もうこの他には聞いておりません。東北地方では、陸中横川目の笠松があります。黒沢尻から横手に行く鉄道の近くで、汽車の中からよく見える松です。これは親鸞上人の御弟子の信秋という人が、やはり甲州の万福寺の話と同じ様に、仏法のたっといことを土地の人たちに示すために、食事の箸に使った松の小枝を二本、地面にさして行ったのが大きくなったのだといわれております。(老樹名木誌。岩手県和賀郡横川目村)
それからまた、越後に来て、北蒲原郡分田村の都婆の松が、これまた親鸞上人の昼飯の箸でありました。この松は女の姿になって京都に行き、松女と名乗って本願寺の普請の手伝いをしたというので、非常に有名になっている松であります。(郷土研究一編。新潟県北蒲原郡分田村)
能登の上戸の高照寺という寺の前に、古くは能登の一本木ともいわれた大木の杉がありました。これは八百年も長命をしたという若狭の白比丘尼の、昼餉の箸でありました。白比丘尼は、ある時眼の病にかかって、この寺の薬師如来に、百日の間願かけをしました。そうして信心のしるしに、杉の箸を地に立てたともいっております。この尼は箸ばかりでなく、諸国をめぐって杖や椿の小枝をさし、それが皆今は大木になっているのであります。(能登国名跡志以下。石川県珠洲郡上戸村寺社)
加賀では白山の麓の大道谷の峠の頂上に、また二本杉と呼ばるる大木があって、これは有名なる泰澄大師が、昼飯に用いた箸を地にさしたといっております。ここはちょうど越前と加賀との国境で、峠の向うは越前の北谷、この辺にも色々と泰澄大師の故跡があります。(能美郡誌。石川県能美郡白峰村)
越前では丹生郡の越知山というのが、泰澄大師の開いた名山の一つであります。泰澄はこの山に住んで、食べ物のなくなった時に、箸を地上にさしたのが成長したといって、大きな檜が今でも二本あります。くわしい話はわかりませぬが、これも信心の力で、やがて食べ物が得られたというのであろうと思います。(郷土研究一編)
近江国では、聖徳太子が百済寺をお建てなされた時に、この寺もし永代に繁昌すべくばこの箸成長して、春秋の彼岸に花咲けよと祝して、おさしなされたという供御の御箸が、木になって二本とも残っております。土地の名を南花沢、北花沢、その木を花の木といっております。楓の一種ですが、花が美しく、また余りたくさんにはない木なので、この頃は非常に注意せられるようになりました。しかし美濃三河の山中などにも、たまに大木を見かけることがあって、大抵はあるとうとい旅人が、箸を立てたという伝説を伴うているそうであります。(近江国輿地誌略以下。滋賀県愛知郡東押立村)
この地方では今一つ、更に驚くべき御箸の杉が、犬上郡の杉阪という所にあります。大昔天照大神が、多賀神社の地に御降りなされた時に、杉の箸をもって昼飯を召し上り、それをお棄てなされたのが栄えたと伝えて、境の山に大木になって今でもあります。(老樹名木誌。滋賀県犬上郡脇ヶ畑村杉)
聖徳太子の御箸の木は、大阪にももとは一本ありました。玉造の稲荷神社の地を栗岡山、または栗山といってのは、その伝説があった為で、ここでは栗の木をけずったお箸であったといっております。太子が物部守屋とお戦いなされた時に、このいくさ勝利を得べきならば、この栗の木、今夜のうちに枝葉出ずべしといって、おさしなされたお食事の箸が、果して翌朝は茂った木になっていたと伝えられます。もちろん普通にはあり得ないことばかりですが、それだから太子の御勝利は、人間の力でなかったというふうに、以前の人は解釈していたのであります。(芦分船。明治神社誌料)
美作大井荘の二つ柳の伝説などは、至って近い頃の出来事のように信じられておりました。ある時出雲国から一人の巡礼がやって来て、ここの観音堂に参詣をして、路のかたわらで食事をしました。この男は足を痛めていたので、これから先の永い旅行が無事に続けて行かれるかどうか、非常に心細く思いまして、箸に使った柳の小枝を地上にさして、道中安全を観音に祈りました。そうして旅をしているうちに、だんだんと足の病気もよくなり、諸所の巡拝を残る所もなくすませました。何年か後の春の暮れに、再びこの川のほとりを通って気をつけて見ると、以前さして置いた箸の小枝は、既に成長して青々たる二本の柳となっていました。そこで二つ柳という地名が始まったと伝えております。二百年前の大水にその柳は流れて、後に代りの木を植えついだというのが、それもまた大木になっていたということであります。(作陽誌。岡山県久米郡大倭村南方中)
四国で二つあるお箸杉の伝説だけは、もう今日では昼の食事ということをいっておりません。その一つは阿波の芝村の不動の神杉というもの、二本の大木が地面から二丈ほどの所で、三間四方もある大きな巌石を支えております。昔弘法大師が、この地を通って、大きな岩の落ちかかっているのを見て、これはあぶないといって、二本の杉箸を立てて去った。それが芽をふき成長して、大丈夫な大きな樹になったのだと伝えております。(徳島県老樹名木誌。徳島県海部郡川西村芝)
伊予の飯岡村の王至森寺にあるものに至っては、なん人の箸であったかということも不明になりましたが、それでも杉の木の名は真名橋杉、まなばしとは御箸のことであります。八十年余り前に、この木を伐ってしまったところが、村に色々の悪いことが続きました。或は真名橋杉を伐ったためではなかろうかといって、新たに今ある木を植えて、古い名を相続させ、それを木の神として尊敬しております。(老樹名木誌。愛媛県新居郡飯岡村)
九州には、またこんな昔話のような伝説が残っております。昔肥前の松浦領と伊万里領と、領分境をきめようとした時に、松浦の波多三河守は、伊万里兵部大夫と約束して、双方から夜明けの鶏の声をきいて馬を乗り出し、途中行き逢うた所を領分の堺に立てようということになりました。ところがその夜、岸嶽の鶏が宵鳴きをしたので、松浦の使者は早く出発し、隣りの領の白野なた落という所に来て、始めて伊万里の使者に行き逢いました。これではあまりに片方へ寄り過ぎるというので、伊万里方から頼んで、十三塚という所まで引き下ってもらって、その野原で馬から下りて、酒盛り食事をしました。その時用いたのは栗の木の箸でしたが、それを記念のために、その場所に揷して帰って来ますと、後に箸から芽を出して、そこに栗の木が茂りました。不思議なことには毎年花が咲くばかりで、実はならなかったといい伝えております。(松浦昔鑑)
これと同じ様な話は気をつけていると、まだいくらでも知っている人が出て来ます。以前はほんとうにそんなことがあったと思っていた者が多かったので、永い間皆が覚えていたのであります。里でも山の中でも村の境でも、神のお祭りをする大切な場所には、必ず何か変った木が伐り残してありました。それが近江の花の木の如く、種類の非常に珍しいものもあれば、また向島の相生の樟のように、枝振りや幹の形の目につくものもありましたが、最も普通には、同じ年齢の同じ木を二本だけ並べて残したのであります。そうして置けば、すぐに偶然のものでないことが後の人にもわかったのであります。
そうして一方にはお祭りの折りに限って、木の串または木の枝を土にさす習慣がありました。同時にまた新しい箸をけずって、祭りの食事を神と共にする習慣もありました。箸は決して成長して大木となることの出来るものではありませんが、大昔ならば、また神様の力ならば、そんなことがあっても不思議でないと思ったのです。それもただの人には、とうてい望まれぬことである故に、かつて最も優れた人の来た場合、もしくは非常の大事件に伴うて、そういう出来事があったように、想像する者が多くなりました。しかし実際はそれよりもなお以前から、やはりこれは大昔の話として、語り伝えていたものであったろうと思います。
境は、最初神々が御定めになったように、考えていた人が多かったのであります。人はいつまでも境を争おうとしますが、神様には早く約束が出来ていて、そのしるしにはたいてい境の木、または大きな岩がありました。大和と伊勢の境にある高見山の周囲では、奈良の春日様と伊勢の大神宮様とが、御相談の上で国境をおきめなされたといっております。春日様は余り大和の領分が狭いので、いま少し、いま少しとのぞまれて果てしがない。いっそのこと出逢い裁面として、境をつけ直そうということになりました。裁面はさいめ、すなわち堺のことで、双方から進んで来て、出おうた所を境にしようというわけであります。そこで春日の神様は鹿に乗ってお立ちになる。伊勢は必ず御神馬に乗って、かけて来られるに相違ないから、これはなんでもよほど早く出かけぬと負けるといって、夜の明けぬうちに出発なされました。そのために却って春日様の方が早く伊勢領にはいって、宮前村のめずらし峠の上で、伊勢の神様とお出あいになりました。おお春日はん珍しいと声をおかけになった故に、めずらし峠という名前が出来ました。ここを国境にしては余りに伊勢の分が狭くなるので、今度は大神宮様の方からお頼みがあり、笹舟を作って水に浮かべて、その舟のついた所を境にしようということになりました。
その頃はまだこの辺は一面の水で、その水が静かで、笹舟は少しも流れません。それで伊勢の神様は一つの石を取って、これは男石といって水の中に投げこまれますと、舟はただようて今の舟戸村にとまり、水は高見の嶺を過ぎて大和の方へ少し流れました。それを見て伊勢の大神が、舟は舟戸、水は過ぎたにと仰せられたので、伊勢の側には舟戸村があり、大和の方には杉谷の村があります。二村共に神様のお付けになった古い名だといっております。その男石は今もめずらし峠の山中にあって、新道を通っても遠くからよく見えます。村の家に子供の生れようとする者が、今でもこの石を目がけて小石を打ちつけて、生れる子が男か女かと占います。男が生れる時には、必ずその小石が男石に当るといっております。三十年ほど前までは、この男石の近くに、古い大きな榊の木が、神に祀られてありました。伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭にしておいでになったのを、ちょっと地に揷して置かれたものが、そのまま成長して大木になった。それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びているといいました。この木をさかきというのも、逆木の意味で、ここが始まりであったと土地の人はいっております。(郷土研究二編。三重県飯南郡宮前村)
大和と熊野との境においても、これと近い話が伝わっておるそうであります。春日様は、熊野の神様と約束をして、やはり肥前の松浦人と同じように、行き逢い裁面として領分境をきめようとせられました。熊野は烏に乗って一飛びに飛んで来られるから、おそくなっては負けると思って、まだ夜の明けぬうちに春日様は、鹿に乗って急いでおでかけになると、熊野の神様の方では油断をして、まだ家の内に休んでおられました。約束通りにすると、軒の下まで大和の領分にしなければならぬのですが、それでは困るので無理に春日様に頼んで、熊野の烏の一飛び分だけ、地面を返してお貰いになりました。それ故に、今でも奈良県は南の方へ広く、熊野は堺までがごく近いのだといいますのは、まるで兎と亀との昔話のようであります。
これとよく似たいい伝えが、また信州にもありました。信州では、諏訪大明神が国堺を御きめなされるために、安曇郡を通って越後の強清水という所まで行かれますと、そこへ越後の弥彦権現がお出向きになって、ここまで信濃にはいられては、あまり越後が狭くなるから、いま少し上の方を堺にしようという御相談になり、白池という所までもどって堺を立てられました。それから西へ廻って越中の立山権現、加賀の白山権現ともお出あいなされて、つごう三箇所の境がきまり、それから後は七年に一度ずつ、諏訪から内鎌というものが来て、堺目にしるしを立てたということであります。(信府統記)
同じ話を、また次のように話している人もあります。昔国境を定める時に、諏訪様は牛に乗り、越後様は馬に乗って、途中ゆきおうた所を境にしようというお約束がきまって、越後様は馬の足は早いから、あまり行き過ぎても失礼だと思って、夜が明けて後にゆっくりとお出かけになる。諏訪様の方では、牛は鈍いからと、夜中にたって大急ぎでやって来られたので、先に越後分の塞の神という所まで来て、そこでやっと越後様の馬と出あわれた。これは来過ぎたわいと、少し引き返して出直して行かれたという所を、諏訪の平というのだそうであります。(小谷口碑集。新潟県西頸城郡根知村)
昔はこういうふうに、国の境を遠くと近くと、二所にきめて置く習慣があったらしいのであります。そうすればなるほど喧嘩をすることが、少くて済んだわけであります。豊後と日向との境の山路などでも、嶺から少し下って、双方に大きなしるしの杉の木がありました。そうして豊後領に寄った方を日向の木、これと反対に日向の側にある方の杉を、豊後の木といっておりました。百年ほど前にその豊後の木が枯れたので、伐って見ますと、太い幹からたくさんの錆びた鏃が出ました。これは矢立の杉ともいって、以前はその下を通る人々が、その木に向って箭を射こむことを、境の神を祭る作法としていたのであります。箱根の関山にも甲州の笹子峠にも、もとは大きな矢立杉の木があったのです。信州の諏訪の内鎌というのも、その箭の代りに鉄の鎌を、神木の幹に打ちこんだものと思われます。近頃になっても、境に近い大木の幹から、珍しい形をした古鎌が折り折り出ました。そうしてそれと同じ鎌が、諏訪では今もお祭りに用いられるので、薙鎌と書く方が正しいようであります。何にせよ諏訪の明神が、境をお定めになったという伝説は、鎌を打ちこむ神木があるために、出来たものに相違ありませぬが、その話の方はおいおいに変って行くのであります。例えば越後の神様は、諏訪の神の母君で、御子の様子が聞きたくて、越後からわざわざお出でになる路で、ちょうど国境の所で、諏訪の神様とお出あいなされ、諏訪様が鹿島、香取の神に降参なされたことをきいて、失望してここから別れて、越後へお帰りになったなどというのは、後に歴史の本を読んだ人の考えたことで、安房や上総で、源頼朝の旅行のことを、附け加えたのと同じ様な想像であろうと思います。
飛騨の山奥の黍生谷という村などは、昔川下の阿多野郷との境が不明なので、争いがあって困っていた時に、双方の村の人が約束を立て、黍生谷では黍生殿、阿多野は大西殿という人を頼み、牛に乗って両方から歩み寄って、行き逢うた所を領分の境とすることにしました。尾瀬が洞の橋場で、その二つの牛がちょうど出あい、それ以後はこれを村堺に定めたといっております。その黍生殿も大西殿も、共に木曽から落ちて来た隠居の武士であったといいますが、話はまったく春日と熊野、もしくは諏訪と弥彦の、出逢い裁面の伝説と同じものであります。(飛騨国中案内。岐阜県益田郡朝日村)
美濃の武儀郡の柿野という村と、山県郡北山という村との境には、たにのしおという所があって、そこに柿野の氏神様と、北山の鎮守様とが、別れの盃をなされたといい伝えております。金の盃と黄金の鶏とを、その地へ埋めて行かれたので、今でも正月元日の朝は、その黄金の鶏が出て鳴くといっております。(稿本美濃志。岐阜県武儀郡乾村)
二つの土地の神様を、同じ日に同じ場所で、お祭り申す例は方々にありました。そうすれば隣り同士仲が良く、境の争いは出来なくなるにきまっています。地図も記録もなかった昔の世の人たちは、こうしでだんだんにむりなことをせずに、よその人と交際することが出来るようになりました。だからどこの村でも伝説を大事にしていたので、もし伝説が消えたり変ったりすれば、お祭りのもとの意味がわからなくなってしまうのであります。
行き逢い祭りをするお社は、別になんという神様に限るということはなかったのであります。信州では雨宮の山王様と、屋代の山王様と同じ三月申の日の申の刻に、村の境の橋の上に二つの神輿が集って、共同の神事がありました。その橋の名を浜名の橋といっております。東京の近くでは、北と南の品川の天王様の神輿が、二つの宿の境に架けた橋の上で出あい、橋の両方の袂のお旅所でお祭りをしました。そうしてその橋を行き逢いの橋というのであります。東京湾内の所々の海岸には、まだ幾つでもこれと同じお祭りがありますが、もとは境を定めるのが目的であったことを、もう忘れている人が多いようであります。そうして一方が姫神である場合などは、これを神様の御婚礼かと思う者が多くなったのであります。
昔備後の下山守村に、太郎左衛門という信心深い百姓があって、毎年かかさず安芸の宮島さんへ参詣しておりました。ある年神前に拝みをいたして、私ももう年をとってしまいました。お参りもこれが終りでござりましょう、といって帰って来ますと、船の中で袂に小さな石が一つ、はいっているのに心付きました。誰か乗り合いの人がいたずらをしたものであろうと思って、その石を海へ捨てて寝てしまいました。翌朝目が覚めて見ると、同じ小石がまた袂の中にあります。あまり不思議に思って大切にして村へ持って帰り、近所の人にその話をしましたところが、それは必ず神様からたまわった石であろう。祀らなければなるまいといって、小さなほこらを建ててその石を内に納め、厳島大明神と称えてあがめておりました。その石が後にだんだんと大きくなったということで、この話をした人の見た時には、高さが一尺八寸ばかり、周りが一尺二三寸程もあったと申します。それからどうしたかわかりませんが、もし今でもまだあるならば、またよほど大きくなっているわけであります。(芸藩志料。広島県蘆品郡宜山村)
信州の小野川には、富士石という大きな岩があります。これは昔この村の農民が富士に登って、お山から拾って来た小石でありました。家の近くまで帰った時、袂の埃を払おうとして、それにまぎれてここへ落したのが、いつの間にかこのように成長したものだといっております。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡智里村)
また同じ地方の今田の村に近い水神の社には、生き石という大きな岩があります。これは昔ある女が、天竜川の川原で美しい小石を見つけ、拾って袂に入れてここまで来るうちに、袂が重くなったので気がついて見ると、その小石がもう大きくなっていました。そうして自分が爪の先で突いた小さな疵が石と共に大きくなっているので、びっくりしてこの水神様の前へ投げ出しました。それが更に成長して、しまいにはこのような巌となったのだといい伝えております。(伝説の下伊那。長野県下伊那郡竜江村)
熊野の大井谷という村でも、谷川の中流にある大きな円形の岩、高さ二間半に周りが七間もあって、上にはいろいろの木や草の茂っているのを、大井の袂石といってほこらを建てて祀っておりました。それをまた福島石ともいっていましたが、そのわけはもう伝わっておりません。(紀伊国絵風土記。三重県南牟婁郡五郷村)
伊勢の山田の船江町にも、白太夫の袂石という大石があります。高さは五尺ばかり、周りに垣をして大切にしてありますが、これは昔菅公が筑紫に流された時、度会春彦という人が送って行って、帰りに播州の袖の浦という所で、拾って来たさざれ石でありました。それが年々大きくなって、終にこの通りの大石となったので、その傍に菅公の霊を祀ることになったといい伝えて、今でもそこには菅原社があります。(神都名勝誌。三重県宇治山田市船江町)
土佐の津大村と伊予の目黒村との境の山に、おんじの袂石という高さ二間半、周り五間ほどの大きな石がありました。これは昔曽我の十郎五郎兄弟の母が、関東から落ちて来る時に、袂に入れて持って来たものといい伝えております。この地方の山の中の村には、曽我の五郎を祀るという社が方々にあり、またその家来の鬼王団三郎の兄弟が住んでいたという故跡なども諸所にあります。曽我の母が落人になって来ていたということも、この辺ではよく聞く話なのであります。(大海集。高知県幡多郡津大村)
肥後の滑石村には、滑石という青黒い色の岩が、もとは入り海の水の底に見えておりましたが、埋め立ての田が出来てから、わからなくなってしまいました。この石は神功皇后が三韓征伐のお帰りに、袂に入れてお持ちになった小石が、大きくなったのだといっておりました。(肥後国志。熊本県玉名郡滑石村)
九州の海岸には神功皇后の御上陸なされたといい伝えた場所が、またこの他にもいくつとなくあります。そうして記念の袂石を大切にしていたところも、方々にあったのではないかと思います。一番古くから有名になっていたのは、筑前深江の子負原というところにあった二つの皇子産み石であります。これはお袖の中に揷んでお帰りになったという小石ですが、万葉集や風土記の出来た頃には、もう一尺以上の重い石になっておりました。卵の形をした美しい石であったそうです。後にはどこへ移したのか、知っている人もなくなりました。土地の八幡神社の御神体になっているといった人もあれば、海岸の岡の上に今でもあって、もう三尺余りになっているという人もありました。(太宰管内志。福岡県糸島郡深江村)
大きくなった石というのは、大抵は遠くから人が運んで来た小石で、始めからそこいらのただの石とは違っておりました。下総の印旛沼の近く、太田村の宮間某という人の家では、屋敷に石神様のほこらを建てて、五尺余りの珍しい形の石を祀っていました。むかしこの家の前の主人が、紀州熊野へ参詣の路で、草鞋の間に挾まった小石を取って見ますと実に奇抜な恰好をしていました。あまり珍しいので燧袋の中に入れて持って帰りますと、もう途中からそろそろ大きくなり始めたといっております。(奇談雑史。千葉県印旛郡根郷村)
また千葉郡上飯山満の林という家でも、この成長する石を氏神に祀っていました。これはずっと以前に主人が伊勢参りをして、それから大和をめぐって途中で手に入れた小石で、巾着に入れて来た故に、その名を巾着石と呼んでいました。(同書。同県千葉郡二宮村)
土佐の黒岩村のお石は有名なものでありました。神に祀って大石神、また宝御伊勢神と称えております。これもずっと昔ある人が、伊勢から巾着に入れて持って来てここに置いたのが、終にこの見上げるような大岩になったのだといっております。(南路志其他。高知県高岡郡黒岩村)
筑後にも大石村の大石神社といって、村の名になった程の神の石があります。昔大石越前守という人が、伊勢国からこの石を懐に入れて参りまして、これを伊勢大神宮と崇めたともいえば、或は一人の老いたる尼が、小石を袂に入れてこの地まで持って来たのが、次第に大きくなったともいっております。今から三百年前に、もう九尺三方ほどになっておりました。そうして別に今一つ三尺ほどの石があって、村の人はそれをも伊勢御前と称えて、社をたてて納めておりました。その社殿を何度も造り替えたのは、だんだん大きくなって、はいらなくなって来たからだといっております。(校訂筑後志。福岡県三瀦郡鳥飼村)
この大石村のお社には、安産の願掛けをする人が多かったそうです。石のように堅く丈夫な子供、おまけに知らぬ間に大きくなるという子供を、親としては望んでいたからでありましょう。熊野から来たという石の中には、ただ成長するだけでなく、親とよく似た子石を産んだという伝説もありました。例えば九州の南の種子島の熊野浦、熊野権現の神石などもそれでありました。このお社は昔この島の主、種子島左近将監という人が熊野を信仰して、遠くかの地より小さな石を一つ、小箱に入れて迎えて来ましたところが、それが年々に大きくなって、後には高さ四尺七寸以上、周りは一丈三尺余、左右に子石を生じてその子石もまた少しずつ成長し、色も形も皆母石と同じであったと申します。(三国名勝図会。鹿児島県熊毛郡中種子村油久)
これとよく似た話がまた日本の北の田舎、羽前の中島村の熊野神社にもありました。今から四百年ほど前にこの村の人が、熊野へ七度詣りをした者が、記念の為に那智の浜から、小さな石を拾って帰りました。それが八十年ばかりの間にだんだんと大きくなって、後には一抱えに余るほどになりました。形が女に似ているので姥石という名をつけました。それが年々に二千余りの子孫を生んで、大小いずれも形は卵の如く、太郎石次郎石、孫石などと呼んでいたというのは、見ない者にはほんとうとも思われぬ程の話ですが、これをこの土地では今熊野といって、拝んでいたそうであります。(塩尻。山形県北村山郡宮沢村中島)
土佐では今一つ。香美郡山北の社に祀る神石も、昔この村の人が京の吉田神社に参詣して、神楽岡の石を戴いて帰って来たのが、おいおいに成長したのだといっております。(土佐海続編。高知県香美郡山北村)
伊勢では花岡村の善覚寺という寺の、本堂の土台石が成長する石でした。これは隣りの庄という部落の人が、尾張熱田の社から持って来て置いたもので、その人はもと熱田の禰宜であったのが、この部落の人と結婚したために、熱田にいられなくなってここへ来て住んだといって、そこには今でも越石だの熱田だのという苗字の家があります。(竹葉氏報告。三重県飯南郡射和村)
肥後の島崎の石神社の石も、もとは宇佐八幡の神官到津氏が、そのお社の神前から持って来て祀ったので、それから年々太るようになったといっております。(肥後国志。熊本県飽託郡島崎村)
この通り、大きくなるのに驚いて人が拝むようになったというよりも、始めから尊い石として信心をしているうちに、だんだんと大きくなったという方が多いのであります。だからその石がどこから来たかということを、今少しお話しなければならぬのでありますが、安芸の中野という村では、高さの二丈もある田圃の中の大きな岩を、出雲石といっておりました。これもまだ小石であったうちに、人が出雲国から持って来て、ここに置いたのが大きくなったといっております。(芸藩通志。広島県豊田郡高阪村)
その出雲国では飯石神社の後にある大きな石が、やはり昔から続いて大きくなっておりました。石の形が飯を盛った様だからともいえば、或は飯盒の中にはいったままで、天から降って来た石だからともいっております。(出雲国式社考以下。島根県飯石郡飯石村)
どうしてその石の大きくなったのがわかるかといいますと、その周りの荒垣を作りかえる度毎に、少しずつ以前の寸法を、延べなけらば納まらぬからといっております。豊前の元松という村の丹波大明神なども、四度もお社を作り替えて、だんだんに神殿を大きくしなければならなかったといっておりました。昔丹波国から一人の尼が、小石を包んで持って来て、この村に来て亡くなりました。その小石が大きくなるのでこのほこらの中に祀り、丹波様と呼ぶようになったのだそうであります。(豊前志)
石見の吉賀の注連川という村では、その成長する大石を牛王石といっております。これは昔四国を旅行した者が、ふところに入れて持って帰った石だと申しています。(吉賀記。島根県鹿足郡朝倉村)
富士石という石がまた一つ、遠江の石神村にもありました。村の山の切り通しのところにあって、これも年々大きくなるので、石神大神として祀ってありました。多分富士山から持って来た小石であったと、土地の人たちは思っていたことでありましょう。(遠江国風土記伝。静岡県磐田郡上阿多古村)
関東地方では秩父の小鹿野の宿に、信濃石という珍らしい形の石がありました。大きさは一丈四方ぐらい、まん中に一尺ほどの穴がありました。この穴に耳を当てていると、人の物をいう声が聴えるともいいました。これは昔この土地の馬方が信州に行った帰りに、馬の荷物の片一方が軽いので、それを平にするために、路で拾って挾んで来た小石が、こんな大きなものになったというのであります。(新編武蔵風土記稿。埼玉県秩父郡小鹿野町)
その信州の方にはまた鎌倉石というのがありました。佐久の安養寺という寺の庭にあって、始めて鎌倉から持って来た時には、ほんの一握りの小石であったものが、だんだん成長して四尺ばかりにもなったので、庭の古井戸の蓋にして置きますと、それにもかまわずに、後には一丈以上の大岩になってしまいました。だからすき間からのぞいて見ると、岩の下に今でも井の形が少し見えるといいました。(信濃奇勝録。長野県北佐久郡三井村)
こうしてわざわざ遠いところから、人が運んで来るほどの小石ならば、何かよくよくの因縁があり、また不思議の力があるものと、昔の人たちは考えていたらしいのでありますが、中にはまたもっと簡単な方法で、大きくなる石を得られるようにいっているところもあります。九州の阿蘇地方などでは、どんな小石でも拾って帰って、縁の下かどこかに匿して置くと、きっと大きくなっているように信じていました。やたらに外から小石を持って来ることを嫌っている家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持って来ると火にたたるといったり、白い筋のはいった小石を親しばり石といって、それを家に入れると親が病気になるなどといったのも、つまり子供などのそれを大切にすることも出来ない者が、祀ったり拝んだりする人の真似をすることを戒める為にそういったものかと思います。
だから人は滅多に石を家に持って来ようとしなかったのですが、何かわけがあって持って来るような石は、大抵は不思議が現れたといい伝えております。奥州外南部の松ヶ崎という海岸では、海鼠を取る網の中に、小石が一つはいっていたので、それを石神と名づけて祀って置くと、だんだんと大きくなったといって、見上げるような高い石神の岩が村の近くにありました。(真澄遊覧記。青森県下北郡脇野沢村九艘泊)
隠岐島の東郷という村では、昔この浜の人が釣りをしていると、魚は釣れずに握り拳ほどの石を一つ釣り上げました。あまり不思議なので、小さな宮を造って納めて置きますと、だんだん成長して七八年の後には、左右の板を押し破りました。それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破ったといって、後にはよほど立派なお宮になっていたそうです。(隠州視聴合記。島根県周吉郡東郷村)
阿波の伊島という島でも、網をひいていますと、鞠の形をした小石が網にはいって上りました。それを捨てるとまた翌日もはいります。そんなことが三日続いて、三日めは殊に大漁であったので、その石を蛭子大明神として祀りました。それから一そう土地の漁業が栄え、小石もまたほこらの中で大きくなって、五六年のうちにはほこらが張りさけてしまうので、三度めにはよほど大きく建て直したそうです。(燈下録。徳島県那賀郡伊島)
こういう例はいつも海岸に多かったようであります。鹿児島湾の南の端、山川の港の近くでも、昔この辺の農夫がお祀りの日に潮水を汲みに行きますと、その器の中に美しい小さな石がはいっておりました。三度も汲みかえましたが、三度とも同じ石がはいって来るので、不思議に感じて持って帰りましたところが、それが少しずつ大きくなりました。驚いてお宮を建てて祀ったといい伝えて、それを若宮八幡神社といっております。そうして御神体はもとはこの小石でありました。(薩隅日地理纂考。鹿児島県揖宿郡山川村成川)
沖縄県などで今も村々の旧家で大切にしている石は、多くは海から上った石であります。別にその形や色に変ったところがないのを見ますと、何かそれを拾い上げた時に、不思議なことがあったのであろうと思います。薩摩には石神氏という士族の家が方々にありますが、いずれも山田という村の石神神社を、家の氏神として拝んでおりました。そのお社の御神体も、白い色をした大きな御影石の様な石でありました。昔先祖の石神重助という人が、始めてこの国へ来る時に道で拾ったともいえば、或は朝鮮征伐の時に道中で感得したともいい、これも下総の宮間氏の石の如く、草鞋の間に挾まって何度捨ててもまたはいっていたから、拾って来たという話がありました。しかし今日では運搬することも出来ない程の大石ですから、これもやはり永い間には成長したのであります。(三国名勝図会等。鹿児島県薩摩郡永利村山田)
石に神様のお力が現れると、昔の人は信じていたので、始めから石を神として祀ったのではないのですが、神の名を知ることが出来ぬときには、ただ石神様といって拝んでいたようであります。それだから土地によって、石のあるお社の名もいろいろになっております。備後の塩原の石神社などは、村の人たちは猿田彦大神だと思っておりました。その石などもおいおいに成長するといって、後には縦横共に一丈以上にもなっていました。普通には石神は路のかたわらに多く、猿田彦もまた道路を守る神であった為に、自然にそう信ずるようになったのであります。(芸藩通志。広島県比婆郡小奴可村塩原)
常陸の大和田村では、後には山の神として祀っておりました。これは地面の中から掘り出した石と伝えております。始めは袂の中に入れるほどの小石であったのが、少しずつ大きくなるので、清いところへ持って来て置くと、それがいよいよ成長しました。それで主石大明神と唱えていたといい伝えております。(新編常陸国志。茨城県鹿島郡巴村大和田)
石には元来名前などはないのが普通ですが、こういうことからだんだんに名が出来るようになりました。伊勢石、熊野石が伊勢の神、熊野権現のお社にあるように、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もともとそれぞれの神を祀る人たちが、大切にしていた石でありました。鎌倉石も多分鎌倉の八幡様の、お力で成長したものと考えていたのだろうと思います。しかしどうして来たかがよく分らぬ石には、人がまた巾着石とか袂石というような、簡単な名を附けて置いたのであります。
羽後の仙北の旭の滝の不動堂には、年々大きくなるという五尺ほどの岩があって、それをおがり石と呼んでおりました。おがるというのはあの地方で、大きくなるという意味の方言であります。(月之出羽路。秋田県仙北郡大川西根村)
備後の山奥の田舎にはまた赤子石というのがありました。それは昔は三尺ばかりであったのが、後には成長して一丈四尺にもなっていたからで、そんなに大きくなってもなお赤子石といって、もとを忘れなかったのであります。(芸藩通志。広島県比婆郡比和村古頃)
飛騨の瀬戸村には、ばい岩という大岩がありました。海螺という貝に形が似ているからとも申しましたが、地図には倍岩と書いてあります。これもおおかたもとあった大きさより倍にもなったというので、倍岩といい始めたものだろうと思います。(斐太後風土記。岐阜県益田郡中原村瀬戸)
播州には寸倍石という名を持った石が所々にあります。たとえば加古郡の野口の投げ石なども、土地の人はまた寸倍石と申しました。ちょうど郷境の林の中にぽつんと一つあって、長さが四尺、横が三尺、鞠の様な形であったそうですから、前には小さかったのが少しずつ伸びて大きくなったと、いい伝えていたものと思われます。投げ石という名前は方々にありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられそうもないものばかりであります。(播磨鑑。兵庫県加古郡野口村阪元)
大抵の袂石は、人が注意をし始めた頃には、もう余程大きくなっていたようであります。そうして土地で評判が高くなってから後は、ほんとうはあまり大きくはなりませんでした。前にお話をした下総の熊野石なども、熊野から拾って来た時は燧袋の中で、もう大きくなっていたというくらいでありましたが、後にはだんだんと成長が目に立たなくなりました。二十年前に比べると、一寸は大きくなったという人もあれば、毎年米一粒ずつは大きくなっているのだという人もありましたが、それはただそう思って見たというだけで、二度も石の寸法を測って見ようという者は、実際はなかったのであります。或は出雲の飯石神社の神石のように、もとはお社の中に祀ってあったといい、または筑後の大石神社の如く、以前のお宮は今のよりも、ずっと小さかったという話は方々にありますが、それは遠い昔のことであって、石の大きくなって行くところを、見ているということは誰にも出来ません。筍のように早く成長するものでも、やはり人の知らぬうちに大きくなります。ましてや石は君が代の国歌にもある通り、さざれ石の巌となる迄には、非常に永い年数のかかるものと考えられていたのであります。つまりは一つの土地に住む多くの人が、古くから共同して、石は成長するものだと思っていた為に、こういう話を聴いて信用した人が多かったというだけであります。
石が出しぬけに大きくなろうとして、失敗したという話も残っております。例えば常陸の石那阪の峠の石は、毎日々々伸びて天まで届こうとしていたのを、静の明神がお憎みになって、鉄の沓をはいてお蹴飛ばしなされた。そうすると石の頭が二つに砕け、一つは飛んで今の河原子の村に、一つは石神の村に落ちて、いずれもその土地ではほこらに祀っていたという話があります。一説には、天の神様の御命令で、雷が来て蹴飛ばしたともいって、石那阪ではその残った石の根を、雷神石と呼んでおりました。高さは五丈ばかりしかありませんが、周りは山一杯に根を張って、なるほどもしこのままで成長したら、大変であったろうと思うような大岩でありました。(古謡集其他。茨城県久慈郡阪本村石名阪)
陸中小山田村のはたやという社の周囲にも、大きな石の柱の短く折れたようなものが、無数に転がっておりましたが、これも大昔の神代に石が成長して、一夜の中に天を突き抜こうとしていたのを、神様に蹴飛ばされて、このように小さく折れたのだといっておりました。(和賀稗貫二郡志。岩手県和賀郡小山田村)
南会津の森戸村には、森戸の立岩という大きな岩山があります。昔この山が大きくなろうとしていた時に、やはりある神様が来て、その頭を蹴折られたといっております。そうしてそのかけらを持って来て、逆さに置いたのがこれだといって、隣りの岩下の部落には逆岩という高さ八丈、周り四十二丈ほどの大きな岩が今でもあります。(南会津郡案内誌。福島県南会津郡館岩村森戸)
山を木などのように順々に大きくなったものと、思っていた人がもとはあったのかも知れません。富士山なども大昔近江国から飛んで来たもので、その跡が琵琶湖になったのだという話がありました。奥州の津軽では、岩木山のことを津軽富士といっております。昔この山が一夜のうちに大きくなろうとしている時に、ある家のお婆さんが夜中に外へ出てそれを見つけたので、もうそれっきり伸びることを止めてしまった。誰も見ずにいたら、もっと高くなっている筈であったという話であります。磐城の絹谷村の絹谷富士は、富士とはいっても二百メートルほどの山ですが、これもちょうど地から湧き出した時に、ある婦人がそれを見て、山が高くなると大きな声でいったので、高くなることを止めてしまいました。もし女がそんなことをいわなかったら、天にとどいたかも知れぬと、土地の人たちはいっております。(郷土研究一編。福島県岩城郡草野村絹谷)
駿河の足高山は、大昔諸越という国から、富士と背くらべをしに渡って来た山だという話があります。東海道を汽車で通る時に、ちょうど富士山の前に見える山で、長く根を引いて中々大きな山ですが山の頭がありません。それは足柄山の明神が生意気な山だといって、足を挙げて蹴くずされたので、それで足高は低くなったのだといっております。その山のかけらが海の中に散らばっていたのを、だんだん寄せ集めて海岸に、小高い一筋の陸地をこしらえました。それが浮き島が原で、そこを今鉄道が通って居ますが、以前の道路は十里木という所を越えて、富士とこの足高山との間を通っておりました。そうして右と左に二つの山を見くらべて、昔の旅人はこんな話をしていたのであります。(日本鹿子。静岡県駿東郡須山村)
伯耆の大山の後には韓山という離れ山があります。これも大山と背くらべをするために、わざわざ韓から渡って来た山だから、それで韓山というのだといい伝えております。それが少しばかり大山よりも高かったので、大山は腹を立てて、木履をはいたままで韓山の頭を蹴飛ばしたといいます。だから今でもこの山の頭は欠けており、また大山よりは大分低いのだということであります。(郷土研究二編。鳥取県西伯郡大山村)
九州では、阿蘇山の東南に、猫岳という珍しい形の山があります。この山もいつも阿蘇と丈競べをしようとしていました。阿蘇山が怒ってばさら竹の杖をもって、始終猫岳の頭を打っていたので、頭がこわれて凸凹になり、また今のように低くなったのだといいます。(筑紫野民譚集其他。熊本県阿蘇郡白水村)
山が背くらべをしたという伝説は、ずいぶん広く行われております。例えば台湾の奥地に住む人民の中でも、霧頭山と大武山との兄弟の山が競争して、弟の大武山が兄の霧頭山をだまして一人でするすると大きくなったという話があります。それだから大武山は、兄よりも高いのだといっております。(生蕃伝説集。パイワン族マシクジ社)
それからまた古い時代にも、同じ伝説があったのであります。近江国では、浅井の岡が胆吹山と高さくらべをした時に、浅井の岡は胆吹山の姪でありましたが、一夜の中に伸びて、叔父さんに勝とうとしました。胆吹山の多々美彦は大いに怒って、剣を抜いて浅井姫の頸を切りますと、それが湖水の中へ飛んで行って島になった。今の竹生島は、この時から出来たということを、もう千年も前の人がいい伝えておりました。(古風土記逸文考証。滋賀県東浅井郡竹生村)
大和では天香久山と耳成山とが、畝傍山のために喧嘩をした話が、古い奈良朝の頃の歌に残っております。それとよく似た伝説は、奥州の北上川の上流にもありまして、岩手山と早地峯山とは、今でも仲が好くないようにいっております。汽車で通って見ますと二つのお山の間に、姫神山という美しい孤山が見えます。争いはこの姫神山の取り合いであったともいえば、或はその反対に岩手山は姫神をにくんで、送り山という山にいいつけて、遠くへ送らせようとしたのに、送り山はその役目をはたさなかったので、怒って剣を抜いてその頸をきった。それが今でも岩手山の右の脇に載っている小山だともいいました。(高木氏の日本伝説集。岩手県岩手郡滝沢村)
日本人は永い年月の間に、だんだんと遠い国から移住して来た民族です。昔一度こういう話を聴いたことのある者の子や孫が、もう前のことは忘れかかった頃に、知らず識らず似たような想像をしたというだけで、わざとよその土地の伝説を真似ようとしたのではありますまいが、山が右左に高くそびえて、何か争いでもしているように思われる場合が、行く先々の村里の景色にはあるので、それをじっと眺めていて、幾度でもこんな昔話をし出したものと見えます。
青森の市の東にある東嶽なども、昔八甲田山と喧嘩をして斬られて飛んだといって、胴ばかりのような山であります。その頸が遠く飛んで岩木山の上に落ち、岩木山の肩には瘤みたいな小山が一つついているのが、その東嶽の頸であったという人があります。津軽平野の土地が肥えているのは、その時の血がこぼれているからだともいいます。そうして岩木山と八甲田山とは、今でも仲が好くないという話もあります。(高木氏の日本伝説集。青森県東津軽郡東嶽村)
出羽の鳥海山は、もと日本で一番高い山だと思っていました。ところが人が来て、富士山の方がなお高いといったので、口惜しくて腹を立てて、いても立ってもいられず、頭だけ遠く海の向うへ飛んで行った。それが今日の飛島であるといいます。飛島は海岸から二十マイルも離れた海の中にある島ですが、今でも鳥海山と同じ神様を祀っております。これには必ず深いわけのあることと思いますけれども、こういう変った昔話より他には、もう昔のことは何一つも伝わっておりません。(郷土研究三編。山形県飽海郡飛島村)
負けることの嫌いな者は、決して山ばかりではありませんでした。全体に日本では、軽々しく人の優劣を説くのは悪いこととしてありましたが、交通がだんだん開けて来ると、どうしてもそういう評判をしなければならぬ場合が多く、それをまた大へんに気にする古風な考えが、神にも人間にも少くなかったようであります。阿波の海部川の水源には、轟きの滝、一名を王余魚の滝という大きな滝があって、山の中に王余魚明神という社がありました。この滝の近くに来て、紀州熊野の那智の滝の話をすることは禁物でありました。那智の滝とどちらが大きいだろうといったり、またはこの滝の高さを測って見ようとしたりすると、必ず神のたたりがあったというのは、多分この方が那智よりも少し小さかったためであろうと思います。(燈下録。徳島県海部郡川上村平井)
橋などは、殊に遠方の人が多く通行するので、毎度他の土地の橋の噂を聴くことがあったろうと思いますが、それを非常に嫌うという話が多いのであります。橋の神は、至ってねたみ深い女の神様であるといっておりました。
甲府の近くにある国玉の大橋などは、橋の長さが、もとは百八十間もあって、甲斐国では、一番大きな、また古い橋でありましたが、この橋を渡る間に猿橋のうわさをすることと、野宮といううたいをうたうこととが禁物で、その戒めを破ると、必ずおそろしいことがあったといいました。今でも土地の人だけは、決してそういうことはせぬであろうと思います。猿橋は小さいけれども、日本にも珍しいという見事な橋でありますから、それと比べられることを、この大橋が好まなかったのであります。そうして野宮は、女のねたみを同情したうたいでありました。(山梨県町村誌。山梨県西山梨郡国里村国玉)
九州の南の端、薩摩の開聞岳の麓には、池田という美しい火山湖があります。ほんの僅な陸地によって海と隔てられ、小高い所に立てば、海と湖水とを一度に眺めることも出来るくらいですが、大洋と比べられることを、池田の神は非常にきらいました。そうして湖水の近くに来て、海の話や、舟の話をする者があると、すぐに大風、高浪がたって、物すごい景色になったということであります。(三国名所図会。鹿児島県揖宿郡指宿村)
湖水や池沼の神は、多くは女性でありましたから、独隠れて世の中のねたみも知らずに、静かに年月を送ることも出来ました。山はこれとちがって、多くの人に常に遠くから見られていますために、どうしても争わなければならぬ場合が多かったようであります。
豊後の由布嶽は、九州でも高い山の一つで、山の姿が雄々しく美しかった故に、土地では豊後富士ともいっております。昔西行法師がやってきて、暫く麓の天間という村にいた頃に、この山を眺めて一首の歌を詠みました。
そうするとたちまちこの山が鳴動して、盛んに噴火をし始めたので、これはいい方が悪かったと心づいて、
と詠み直したところが、ほどなく山の焼けるのがしずまったという話であります。西行法師というのは間違いだろうと思いますが、とにかく古くからこういう話が伝わっておりました。(郷土研究一編。大分県速見郡南端村天間)
もとはほんとうにあったことのように思っていた人もあったのかも知れません。そうでなくとも、よその山の高いという噂をするということは、なるたけひかえるようにしていたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじないに利用する者もありました。例えば昔日向国の人は、癰というできものの出来た時に、吐濃峯という山に向ってこういう言葉を唱えて拝んだそうであります。私は常にあなたを高いと思っていましたが、私のでき物が今ではななたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできものを引っ込ませて下さいといって、毎朝一二度ずつ杵のさきをそのおできに当てると、三日めには必ず治るといっておりました。これも山の神が自分より高くなろうとする者をにくんで、急いでその杵をもってたたき伏せるように、こういう珍しい呪文を唱えたものかと思います。(塵袋七。宮崎県児湯郡都農村)
山が背くらべをしたという古い言い伝えなども、後には児童ばかりが笑ってきく昔話になってしまいました。そうしてだんだんに話が面白くなりました。肥後の飯田山は熊本の市から、東へ三四里ほども離れている山ですが、市の西に近い金峯山という山と、高さの自慢から喧嘩をしたといっております。いつまで争って見ても勝負がつかぬので、両方の山の頂上に樋をかけ渡して、水を流して見ようということになりました。そうすると水が飯田山の方へ流れて、この山の方が低いということが明かになりました。その時の水が溜ったのだといって、山の上には今でも一つの池があるそうです。これには閉口をして、もう今からそんなことは「いい出さん」といった故に、山の名をいいださんというようになったとも申します。(高木氏の日本伝説集。熊本県上益城郡飯野村)
尾張小富士という山は、尾張国の北の境、入鹿の池の近くにある小山ですが、山の姿が富士山とよく似ているので、土地の人たちに尊敬せられています。それがお隣りの本宮山という山と高さ比べをして、やはり樋を掛け水を通して見たという話が伝わっております。そうして見た結果が、小富士の方の負けになりました。毎年六月一日のお祭りの日に、麓の村の者が石をひいてこの山に登ることになったのは、少しでもお山の高くなることを、山の神様が喜ばれるからだという話であります。(日本風俗志。愛知県丹羽郡池野村)
これと同じような伝説は、また加賀の白山にもありました。白山は富士の山と高さ競べをして、勝負をつけるため樋を渡して水を通しますと、白山が少し低いので、水は加賀の方へ流れようとしました。それを見ていた白山方の人が、急いで自分の草鞋をぬいで、それを樋の端にあてがったところが、それでちょうど双方が平になった。それ故に今でも白山に登る者は必ず片方の草鞋を山の上に、ぬいで置いて帰らねばならぬのだそうです。(趣味の伝説。石川県能美郡白峰村)
樋を掛けたということはまだききませんが、越中の立山も白山と背競べをしたという話があります。ところが立山の方が、ちょうど草鞋の一足分だけ低かったので、非常にそれを残念がりました。それから後は、立山に参詣する人が、草鞋を持って登れば、特に大きな御利益を授けることにしたといっております。(郷土研究一編。富山県上新川郡)
それから越前の飯降山、これは東隣の荒島山と背くらべをして、馬の沓の半分だけ低いことがわかったそうであります。それ故にこの山でも、石を持って登る者には、一つだけは願いごとがかなうといって、毎年五月五日の山登りの日には、必ず石をもって行くことになっております。(同上。福井県大野郡大野町)。
三河の本宮山と、石巻山とは、豊川の流れを隔てて西東に、今でも大昔以来の丈くらべを続けていますが、この二つの峯は、寸分も高さの差がないということであります。それで両方ともに石を手に持って登れば少しも草臥れないが、これと反対に小石一つでも持って降ると、参詣はむだになり、神罰が必ずあるといいます。つまり低くなることを非常に嫌うのであります。(趣味の伝説。愛知県八名郡石巻村)
有名な多くの山々では、みんなが背くらべのためではなかったかも知れませんが、非常に土や石を大切にして、それを持って行くことをいやがりました。山に草鞋を残して来る習慣は、今でもまだ方々に行われております。白山や立山にはあんな昔話がありますが、世間にはもっと真面目に、その理由を考えていた者も多かったのであります。例えば奥州金華山の権現は、山と土が草鞋について、島から外へ出ることを惜しまれるということで、参詣した者は、必ずそれをぬぎ捨ててから船に乗りました。(笈埃随筆。宮城県牡鹿郡鮎川村)
富士山のような大きな山でも、やはり山の土を遠くへ持って行かれぬように、麓に砂振いという所があって、以前は、必ずそこで古い草鞋をぬぎかえました。そうして登山者が、踏み降した須走口の砂は、その夜のうちに再び山の上へ帰って行くともいいました。
伯耆の大山でも、山の下の砂が、日が暮れると峯に上り、朝はまた麓に下るといっております。山をうやまい、山の力を信じていた人たちには、それくらいのことは当り前であったかも知れませんが、それでも出来るだけ皆で注意をして、少しでも山を低くせぬように努めていたのであります。富士の行者は山に登る時に特に歩みをつつしんで石などを踏み落さぬようにしていたそうですし、また近江国の土を持って来て、お山に納める者もあったそうであります。富士は皆様も御存じの通り、大昔近江の土が飛んで、一夜に出来た山だといい伝えていますので、それを今もとの国の土をもって、少し継ぎ足そうとしたのであります。
日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山が、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔御祖神が国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗の祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来り遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。(常陸国風土記。茨城県筑波郡)
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀る神を、以前から浅間大神と称えておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見の御嶽山にも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛、この山の神はその御姉の磐長媛で、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御嫉みが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。(伊豆志其他。静岡県賀茂郡岩科村雲見)
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田の町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭で、間に天城山を屏風のようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。(郷土研究一編。同県同郡下田町)
越中舟倉山の神は姉倉媛といって、もと能登の石動山の伊須流伎彦の奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山の神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬の争いがあったと申します。布倉山の布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山の加夫刀彦は能登媛を援けて、大きな神戦となったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫を打ちたもう故に、この山の麓の野には小石がないのだともいっておりました。(肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉)
これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越山との間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。(美馬郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村)
それよりも更に有名な一つの伝説は、野州の日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。(二荒山神伝。日光山名跡志等)
しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡老神の温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。(上野志。群馬県利根郡東村老神)
それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣らなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込はもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土の八幡だの市谷の八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。(十方庵遊歴雑記)
奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良という所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。(東遊雑記その他)
信州松本の深志の天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真であり、島内村の氏神武の宮は、その競争者の藤原時平を祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。(郷土研究二編。長野県東筑摩郡島内村)
時平を神に祀ったというお社は、また下野の古江村にもありました。これも隣りの黒袴という村に、菅公を祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖屏風の絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。(安蘇史。栃木県安蘇郡犬伏町黒袴)
下総の酒々井大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。(津村氏譚海。千葉県印旛郡酒々井町)
丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷があり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像をもって来る者があると、必ず旋風が起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。(広益俗説弁遺篇。兵庫県多紀郡城北村)
何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。(遠碧軒記。鳥取県岩美郡)
しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見の稲荷は、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊が雷になって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。(渓嵐拾葉集。載恩記等)
或はまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様と、蠣殻町の水天宮様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、独で繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬の毘沙門様へ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにも拘らず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。(都名所図会拾遺。日次記事)
どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山に登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城していた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。(楓軒雑記。茨城県久慈郡金砂村)
東京では神田明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門の霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷の後裔だからというのであります。下総成田の不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木という村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神鎧大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。(共古日録。東京府豊多摩郡淀橋町柏木)
信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連の子孫であって、善光寺の御本尊を難波堀江に流し捨てさせた発頭人だからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。(松屋筆記五十。長野県長野市)
天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰という山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足を祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿が祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。(即事考。奈良県吉野郡高見村)
この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後の飛島、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑しなかったのであります。日向の飯野郷というところでは、高さ五尋ほどの岩が野原の真中にあって、それを立石権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山の絶頂に、卒都婆石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。(三国名所図会。宮崎県西諸県郡飯野村原田)
肥後の山鹿では下宮の彦嶽権現の山と、蒲生の不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子で母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原という村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。揺ぎ嶽という岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕だといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。(肥後国志等。熊本県鹿本郡三玉村)
諸君の家のまわり、毎日あるいている道路のかたわらにも、もとはこれよりもっと面白い伝説が、いくらともなく残っていたのであります。学校に行く人たちがいそがしくなって、暫くかまわずに置くうちに、もう覚えていて話してくれる人がいなくなりました。それから美しい沼が田になり、見事な大木が枯れて片付けられてしまうと、当分はそのうわさをすることがかえって多いけれども、後に生れた者には感じが薄いので、おいおいに忘れて行くようになるのであります。村などはこのために大分さびしくなりました。
伝説は、今までかなり久しい間、子供ばかりをきき手にして話されておりました。尤も大人も脇にいてきいてはいるのですが、大抵はおさらいをするおりがないために、子供のように永く記憶して、ずっと後になってから、また他の人に話してやる程に、熱心にはならなかったのであります。子供のおさらいは、その木の下で遊び、またはみんなと連れだって、その岩の前や淵の上、池の堤をただ通って行くことでありました。話は不得手だから誰もくわしくは話しませんが、その度毎に一同は前にきいたことを想い出して、暫くは同じような心持ちになって、互に眼を見合うのであります。人が年を取って話をすることが好きになり、また上手になって後に、昔のことだといってきかせる話は、大方は、こうした少年の頃に、覚えこんだ話だけでありました。だからどんな老人の教えてくれる伝説にも、必ずある時代の児童が関係しております。そうしてもし児童が関係をしなかったら、日本の伝説はもっと早くなくなるか、または面白くないものばかり多くなっていたに違いないのであります。
だから皆さんが若いうちに、きいて置く話が少くなり、またそれを覚えていることがだんだんにむつかしくなると、書物をその年寄りたちの代りに、頼むより外はないのであります。書物には大人にきかせるような話、大人が珍しがるような話が多いのでありますが、今ではこの中からでないと、昔の児童の心持ちを、知ることは出来ぬようになりました。国が全体にまだ年が若く、誰でも少年の如くいきいきとした感じをもって、天地万物を眺めていた時代が、かつて一度は諸君の間にばかり、続いていたこともありました。書物は廻り廻ってそれを今、再び諸君に語ろうとしているのであります。
もとは小さな人たちは絵入りの本を読むように、目にいろいろの物の姿を見ながら、古くからのいい伝えをきいたり思い出したりしていたのであります。垣根の木に来る多くの小鳥は、その啼き声のいわれを説明せられている間、そこいらを飛びまわって話の興を添えました。路のほとりのさまざまの石仏なども、昔話を知っている子供等には、うなずくようにも又ほほえむようにも見えたのであります。其中でも年をとってから後にその頃のことを考える者に、一番懐かしかったのは地蔵様でありました。大きさが大抵は十一二の子供くらいで、顔は仏さまというよりも、人間の誰かに似ているので見覚えがありました。そうしてまた多くの伝説の管理者だったのであります。
村毎に別の話、一つ一つの名前を持っていたのも、石地蔵に最も多かったようであります。こういう児童の永年の友だちが、いつの間にかいなくなりそうですから、ここには百年前の子供等に代って、書物に残っている三つ四つの話をしてみましょう。古くから有名であったのは、箭負い地蔵に身代り地蔵、信心をする者の身代りになって、後に見ると背中に敵の矢が立っていたなどという地蔵ですが、これはまだその人だけの不思議であります。土地に縁の深い地蔵様になると、特に頼まずとも村のために働いて下さるといって、むしろ意外な出来事があってから後に、拝みに来る者がかえって多くなるので、その中でも、ことに地蔵は、農業に対して同情が厚いということが、一同の感謝するところでありました。足洗わずの地蔵というのは、時々百姓の姿になって、いそがしい日に手伝いに来て下さる。水引き地蔵は田の水の足りない時に、そっと溝を切ってこちらの田だけに水を引き、そのために隣りの村からうらまれるようなこともありましたが、それが地蔵の仕業だとわかると、怒る者はなくなって、ただ感心するばかりでありました。
鼻取地蔵というのもまた農民の同情者で、東日本では多くの村に祀っております。私の今いる家から一番近いのは、上作延の延命寺の鼻取地蔵、荒れ馬をおとなしくさせるのが御誓願で、北は奥州南部の辺までも、音に聞えた地蔵でありました。昔この村の田植えの日に、名主の家の馬が荒れて困っていると、見馴れぬ小僧さんがただ一人来て、その口を取ってくれたらすぐに静かになった。次ぎの日、寺の和尚がお経を読もうとして行って見ると、御像の足に泥がついている。それで昨日の小僧が地蔵様であったことが知れて、大評判になったということです。(新編武蔵風土記稿。神奈川県橘樹郡向丘村上作延)
ところがまた八王子の極楽寺という寺でも、これは地蔵ではないが、本尊の阿弥陀様を、鼻取如来と呼んでおりました。昔この近所にあった寺の田を、百姓がなまけて耕してくれぬので困っておると、これも小僧が現れて、馬の鼻をとって助けたといっております。どういうわけでかこの阿弥陀如来は、唇が開き歯が見えて、ちょっと珍しい顔の仏様であるので、一名を歯ふき仏とも称えたそうであります。(同上。東京府八王子市子安)
駿河の宇都谷峠の下にある地蔵尊は、聖徳太子の御作だというのに、これも鼻取地蔵という異名がありました。かつて榛原郡の農家で牛の鼻とりをして手伝ってくれられたということで、願いごとのある者は、鎌を持って来て献納したというのは、農業がお好きだと思っていたからでありましょう。ある時はまた日光山のお寺の食責めの式へ出かけて、盛んに索麪を食べたといって、索麪地蔵という名前も持っておられたそうです。(駿国雑志。静岡県安倍郡長田村宇都谷)
鼻取りというのは、六尺ばかりの棒であります。牛馬を使って田をうなう時に、この棒を口の所に結わえて引き廻るのです。今ではそれを用いる農家が、東北の方でも、だんだん少くなりましたが、田植えの前の非常に忙がしい時に、もとはこの鼻とりに別の人手がかかるので、仕方なしに多くは少年がその役に使われ、うまく出来ないのでよく叱られていました。地蔵が手伝いに来てわざわざそういう為事をして下さるといったのは、まことに少年らしい夢であります。もとはこういうさすの棒もなしに、直接に牛や馬の鼻の綱をとりましたから、かれ等にはかなりつらい為事でありましたが、もともと牛馬を田に使うということが、東の方ではそう古くからではありません。だからこれなども新しく出来た伝説であります。石城の長友の長隆寺の鼻取地蔵などは、ある農夫が代掻きの時に、ひどく鼻とりの少年を叱っていると、どこからともなく別の子供がやって来て、その代りをしてくれて、それは農夫の気に入りました。後で礼をしようと思ってさがしてみたが見えない。寺の地蔵堂の床の板に、小さな泥足の跡がついております。さては地蔵が少年の叱られるのをかわいそうに思って、代って鼻とりをつとめて下さったのだと、後にわかってあり難がったという話であります。この地蔵は安阿弥とかの名作で、今では国宝になっている大切なお像であります。(郷土研究一編。福島県石城郡大浦村長友)
また福島の町の近くで、腰浜の天満宮の隣りにある地蔵にも同じ話があって、お堂の名を鼻取庵といっておりました。これも子供に化けて田の水を引き、馬の鼻をとって引き廻して手伝いました。昼飯の時に連れて来て御馳走をするつもりで、田からあがって方々を尋ねたが見えない。尋ねまわってお堂の中にはいって見ると、地蔵の足に田の泥がついていたというのであります。(信達一統志。福島県福島市腰ノ浜)
登米の新井田という部落では、昔隣りの郡から分家をして来た者が、七観音と地蔵とを内神として持って来て、屋敷に堂を建ててていねいに祀っておりました。村の人たちもお参りをして拝んでいましたが、農が忙しい頃には、時々見たことのない子供がやって来て、方々の家の鼻とりの加勢をしてくれることがあって、それがこの地蔵様だと皆思っていたそうで、代掻地蔵と称えて今でも拝んでいます。(登米郡史。宮城県登米郡宝江村新井田)
それから安積郡の鍋山の地蔵様も、よく農業の手つだいをして下さるという話があって、わざわざこの村を開墾する際に、隣りの野田山から迎えて来たのだそうです。(相生集)
地蔵菩薩霊験記という足利時代の書物にも、こういう話はいろいろと出ております。出雲の大社の農夫が信心していた地蔵様は、十七八の青年に化けて、その農夫が病気の時に、代りに出て来て、お社の田で働いたということです。あまりよく働くので奉行が感心して、食事の時に盃を一つやりました。喜んで酒を飲んで、その盃を頭の上にかぶり、後にどこへか帰って行きました。翌日になって、農夫がこのことをきき、もしやと思って厨子の戸を開けて見ると、果して地蔵様が盃をかぶって、足は泥だらけになって立っておられたといいます。近江の西山村の佐吉という百姓は、病気で田の草もとることが出来ずにいると、日頃信心の木本の地蔵が、いつの間にか来て、すっかり草をとって下さった。朝のうち参詣の路で見た時には、あれほど生い茂ってどうしようかと思った田の草が、帰りに見るともう一つも残らずとってある。どうしたことかと思って近くにいた者に尋ねると、今のさき七十ばかりの老僧が、田の畔を一まわりあるいていられるのを見た他には、誰も来た人はないというので、それでは地蔵の御方便で助けて下さったものであろうと、引き返してお堂へ行って見ると、そこらあたりが一面に泥足の跡で、それがお厨子の中までも続いていたと書いてあります。
或はまた、田植えの頃に水喧嘩があって、一人の農夫が怪我をして寝ていると、夜の間に小僧さんが来て、その男の田に水を入れている。それをにくむ者が後から箭を射かけると、逃げてどこかへいってしまった。後にこの家の地蔵様を拝もうとして見ると、背中に箭が立って、田の泥が足についていた。こういう水引地蔵の話も古くからありました。また筑後国の田舎では、八講の米を作る田へ夜になると水を引く者がある。村の人が大勢出て見ると、若い法師が杖をもって田の水口に立ち、溝の水をかきまわしているのが、月の光でよく見えました。杖を流れに入れて掻くようにすれば、細い溝川が波を打って、どうどうと上手へ流れ、水はことごとくその田にはいりました。これも箭を射られて後で見ると、地蔵の背中に立っていたといいますが、その箭が山鳥の羽をもってはいであったというのは、前に申した足利の片目清水と似ています。この不思議に恐れ入って、その田を寄進してお寺を建て、それを矢田寺と名づけたということであります。
こういう話は、地蔵様でなくても、或は上総の庁南の草取仁王だの、駿河の無量寺の早乙女の弥陀だの、秩父の野上の泥足の弥陀だのというのが、そちこちの村にはあったのですが、その中でも一番に人間らしく、また子供らしいことをなされたのが地蔵でありました。仏教の方でも、地蔵尊は人を救うために、どこへも行き誰とでもお附き合いなさるといって、つまらぬ旅僧の姿で杖を持って、始終あるいていられるように考えていますが、日本の話はそれだけではないようであります。遠州の山の中のある村では、百姓が粟畑の夜番をするのに困って、もしこの畑の番をして、鹿猿に食わさぬようにして下されば、後に粟の餅をこしらえて上げましょうと、石地蔵に向っていいました。そうして置いてすっかり忘れていると、地蔵が大そう腹を立てて、その男は病気になりました。気がついて驚いて粟の餅を持って行ったら、すぐに全快したという話もあります。尾張の宮地太郎という武士が花見をしていると、山の地蔵様が山伏に化けて来てのぞきました。そうしてよび込まれて歌をよみ、烏帽子をかぶり鼓を打って、お獅子を舞ったという話もあります。
またある所では、信心深い老人があって、毎日夜明け前に門口に出て、地蔵様の村を廻ってあるかれるお姿を見ようとしていました。なん年かそうしているうちに、とうとう地蔵様を拝んだということであります。その様子がまるで人間と少しもちがわなかったといっております。地蔵の夜遊びということは、多くの村できく話でありました。例えば埼玉県の野島の浄山寺の片目地蔵などは、あまりよく出て行かれるので、住職が心配して、背中に釘を打って鎖でつないで置くと、たちまち罰が当って悪い病にかかって死んだといいます。それからは自由に夜遊びをさせていたところが、ある時茶畠にはいって茶の木で目を突いたといって、今でもその木像は片目であります。またその目の傷を門前の池の水で洗ったといって、今でもその池に住む魚は、悉く片目であるそうです。(十方庵遊歴雑記。埼玉県南埼玉郡萩島村野島)
東京でも下谷金杉の西念寺に、眼洗地蔵というのがありました。それから鼻欠地蔵だの塩嘗地蔵だのと、面白い名前が幾らもありました。夜更地蔵、踊地蔵、物いい地蔵などというのもありますが、伝説はもう多くは残っておりません。また時々は路傍の地蔵で、いたずらをして旅人を困らせたという話もあります。相州大磯には化け地蔵、一名袈裟切地蔵というのがもとはありました。伊豆の仁田の手無仏というのも石地蔵であって、毎晩鬼女に化けて通行の者をおどしているうちに、ある時強い若侍に出あって、手を斬られて林の中へ逃げ込みました。翌朝行って見ると、地蔵の手が田の畔に落ちていたというのもおかしな話であります。(伊豆志。静岡県田方郡函南村仁田)
しばられ地蔵というのにはいろいろあって、京都の壬生寺の縄目地蔵などは、一つは身代り地蔵でありました。武蔵の住人香匂新左衛門、この寺にかくれて追手を受け、既に危いところを本尊の地蔵が代って下されて、しばって来てからよく見ると、地蔵尊であったというのは、そそっかしい話であります。そうかと思うと品川の願行寺のしばり地蔵などは、願いごとをする者が毎日来て、縄で上から上へとしばりました。それを一年に一度十夜の晩に、寺の住職がすっかりほどいて置くと、次ぎの日からまたしばり始めるのでありました。(願掛重宝記。東京府荏原郡品川町南品川宿)
もとはこれなどは縄を結んだので、しばったのではないようであります。今でも神木とかお堂の戸の金網とかに、紙切れや糸紐を結びつけることがよくあって、こうして人と神様との間に、連絡をつけようとしたらしいのであります。前に鼻取地蔵の話をした上作延の村などにも、しばり松、一名聖松という大木がもとはあって、願掛けをする人は縄を持って来て、この松をしばりました。そうして願いごとがかなうと、お礼に参ってその縄を解いたのであります。しばるというために、何か悪いことでもしたように考えて、いろいろの話が始まりました。亀井戸の天神の境内には、頓宮神という小宮があって、その中には爺と婆との木像が置いてありました。その後には青赤二つ鬼が縄を持って立っています。頓宮神というのはこの爺様のことで、昔菅公が筑紫に流された時に、婆は親切であったが、爺の方はまことにつらく当りました。それで今でもお参りをする人は。わざわざ鬼の持っている縄で爺の体を巻き付けて天神に願掛けをする。そうして七日目にその縄を解くのだといっております。(願掛重宝記。東京府南葛飾郡亀戸町)
雨乞いの祈祷にも、よく石地蔵はしばられました。羽後の花館の滝宮明神は水の神で、御神体は昔は石の地蔵でありました。これを土地の人は雨地蔵、または雨恋地蔵とも称えて、旱の歳には長い綱をしばりつけて、石像を洪福寺淵に沈めて置くと、必ずそれが雨乞いになって雨が降るといいました。(月之出羽路。秋田県仙北郡花館村)
所によっては、ただ雨乞地蔵の開帳をしただけで、雨が降るものと信じていた村もありますが、なかなかそれだけでは降らぬので、おりおりはもっときついことをしたのであります。熊野の芳養村のどろ本の地蔵尊などは、御像を首の根まで川の水に浸して雨乞いをしました。(郷土研究一編。和歌山県西牟婁郡中芳養村)
播州船阪山の水掛地蔵は、堂の脇にある古井の水を汲んで、その中で地蔵を行水させ、後でその水を信心の人が飲みました。今では雨乞いとは関係がないようですが、この井戸もいかなるひでりでも涸れることがないといっております。(赤穂郡誌。兵庫県赤穂郡船阪村高山)
肥前の田平村の釜が淵などでは、ひでりの時には土地の人が集って来て、一しょう懸命になって淵の水を汲み出します。深さが半分ばかりにも減ると、水の中に石の頭が見えて来るのを、地蔵菩薩の御首といっていまして、それまで替えほして来ると、たいてい雨が降ったということです。(甲子夜話。長崎県北松浦郡田平村)
こういう雨乞いのし方は、ずっと昔から日本にはあったので、地蔵はただ外国からはいって来て、後にその役目を引き継いだばかりではないかと思います。
筑後の山川村の滝の淵という所では、昔平家方のある一人の姫君が、入水してこの淵の主となり、今でも住んでおられる。それは驚くような大鯰だなどといっておりますが、岸には七霊社というほこらを建てて姫の木像が祀ってあります。ひでりの場合にはその像を取り出し、淵の水中に入れて置くのが、この土地の雨乞いの方法でありました。(耶馬台国探見記。福岡県山門郡山川村)
大和の丹生谷の大仁保神社は、俗に御丹生さんといって水の神で、また姫神であります。ここでも雨乞いには御神体を水の中に沈めて、少し待っていると必ず雨が降るということでありました。(高市郡志料。奈良県高市郡舟倉村丹生谷)
武蔵の比企の飯田の石船権現というのは、以前は船の形をした一尺五寸ばかりの石が御神体でありました。社の前にある御手洗の池に、この石を浸して雨を祈れば、必ず験があると信じていましたが、どうしたものか後には御幣ばかりになって、もうその石は見えなくなったといいます。(新編武蔵風土記稿。埼玉県比企郡大河村飯田)
それから石地蔵に、いろいろの物を塗りつけること、これも仏法が持って来た教えではなかったようであります。雨乞いのためにする例は、羽後の男鹿半島に一つあります。鳩崎の海岸に近く寝地蔵といっていたのは、ただ梵字を彫りつけた一つの石碑でありましたが、常には横にしてあって、雨乞いの時だけこれを立てて、石に田の泥を一面に塗ります。そうするときっと降るといっておりました。(真澄遊覧記。秋田県南秋田郡北浦町野村)
これは恐らく泥で汚すと、洗わなければならぬから雨が降るのだと、思っていたのでありましょうが、そうでなくても地蔵には泥を塗りました。大和の二階堂の泥掛地蔵などは毎月二十四日の御縁日に、今でも仏体に泥を掛けてお祭りをしています。(大和年中行事一覧。奈良県山辺郡二階堂村)
油掛地蔵といって、参詣の人が油を掛けて拝む地蔵もありました。大阪の近くの野中の観音堂の脇には、墨掛地蔵という真黒な地蔵さんがありました。願いごとのかのうた人が、必ず墨汁を持って来て掛けたのだそうです。(浪華百事談)
羽前狩川の冷岩寺の前には、毛呂美地蔵というのもありました。以前普通の家でも酒を造ることが出来た頃に、この近所の者は、もろみといって酒になりかけの米の汁を、先ず一杯だけくんで来て、地蔵の頭から浴せる。それがだんだんと腐って路を通る者が鼻をつまむ程臭かったけれども、誰一人としてこれを洗い清める者がなかったそうです。昔ある農夫があまりきたない地蔵様だといって、それをすっかり洗って上げたところが、たちまち罰を被って一家内疫病にかかり、大きな難儀をしたという話もあり、おそれて手をつける者がなかったのであります。(郷土研究二編。山形県東田川郡狩川村)
それからまた、粉掛地蔵というのもたくさんあります。伊予の道後の温泉にあるものは、参詣の人が白粉を持って来てふりかけました。その名を粉附地蔵といい、ほんとうは子好き地蔵だろうという説もありましたが、たしかなことはどうせわかりません。(日本周遊奇談。愛媛県温泉郡道後湯之町)
駿河の鈴川の近くにも、小僧に化けたというので有名な石地蔵がありましたが、これもお祭りの時に白粉を塗って化粧をしました。(田子之古道。静岡県富士郡元吉原村)
相模の弘西寺村の化粧地蔵、これも願掛けをする人が白粉や、胡粉を地蔵のお顔に塗って拝みました。(新編相模風土記。神奈川県足柄上郡南足柄村弘西寺)
近江の湖水の北の大音村の粉掛地蔵は、このへんの工場で糸とりをする娘たちが、手が荒れた時には、米か麦の粉を一つかみ持って来て、この地蔵に振り掛けると、さっそくよくなるといっております。(郷土研究四編。滋賀県伊香郡伊香具村大音)
安芸の福成寺の虚空蔵の御像には、附近の農民が常に麦の粉や、米の粉を持って来て供えました。それはこの仏の御名を「粉喰うぞ」というのかと思って、それならば粉を上げたら喜ばれるだろうということになったとの話もありますが(碌々雑話)、これとてもはやくから粉を掛けていたために、一そうそんな説明が信じ易くなったのかも知れません。とにかくに虚空蔵は、地蔵に対する言葉で、もとは兄弟のような仲であったのですが、土に縁の深い地蔵尊だけが、特別に農村の人気を集めることになったので、それには諸君のごとき若い人たちが、いつでもひいきをしていたことが大いなる力でありました。
京都ではもう古い頃から、毎年七月の二十四日には六地蔵詣りといって、多くの人が近在の村を廻ってあるきました。村の方では休み所をつくってお茶を出し、子供は路の傍の石仏を一つ所に集めて来ました。そうしてその顔を白く塗ってすべてこれを地蔵と名づけ、花を立てて食べ物を供えて、町から来た人に拝ませました(山城四季物語)。私などの田舎でも、夏の夕方の地蔵祭りは、村の子の最も楽しい時で、三角に結んだ小豆飯の味は、年をとるまで誰でも皆よく覚えています。
土地によっては寒い冬のなかばに、地蔵の祭りをした所もあります。伯耆国のある村では、それを大師講といって、十一月二十四日の夜の明けぬ前に、生の団子を持って路の辻に行き、それを六地蔵の石の像に塗りつけました。一番早く塗って来た者は、大きくなってから美しい嫁をもらい、好い男を婿に取るといっておりました。(霞村組合村是。鳥取県日野郡霞村)
大阪天王寺の地蔵祭りは、以前には旧の十一月の十六日でありました。この朝早く子供たちは、米の粉を持って来て地蔵のお顔に塗り、その夕方にはまた藁火を焚いて、真黒にいぶしました。そうして「明年の、明年の」とはやして、お別れの踊りを踊ったということであります。(浪華百事談)
人によっては、これを道碌神の祭りともいいました。道碌神は道祖神のことでありますが、これも少年と非常に仲の好い辻の神で、もとは地蔵と一つの神であったのですから、そういっても決して間違いではありません。道祖神はたいていの所では、正月十五日にそのお祭りをしました。木で作った場合にでも、やはり子供等は白いものを塗りました。東京から西に見える山の中の村などでは、この日のどんど焼きの火の中へ、石の道祖神を入れて黒くいぶしました。信州川中島の村々では、二月の八日がお祭りの日でありますが、この朝は餅を搗いて、これを藁製の馬に負わせ、道碌神の前までひいて行き、その餅を神様の石像に所嫌わず塗りつけるそうであります。
町の児童も近い頃まで、「影や道碌神」と唱えて、月の夜などには遊んでいました。東北の田舎では三十年ぐらい前まで、地蔵遊びという珍しい遊戯もありました。一人の子供に南天の木の枝を持たせ、親指を隠して手を握らせ。その子をとり巻いて他の多くの子供が、かあごめかあごめのようにぐるぐると廻って、「お乗りゃあれ地蔵様」と、なんべんも唱えていると、だんだんにその子が地蔵様になります。
物教えにござったか地蔵さま
遊びにござったか地蔵さま
といって、皆が面白く歌ったり踊ったりしましたが、もとは紛失物などのある時にも、この子供の地蔵のいうことをきこうとしました。またある村では、遊び地蔵といって、いつも地蔵さまの台石ばかりあって、地蔵はどこかへ出かけているという村もありました。そういうのは、若い衆が辻の広場へ持ち出して、力試しの力石にしているのです。嫁入り聟入り祝言のある時にも、やはり石地蔵は若い衆にかつがれて、その家の門口へ遊びに来ました。地蔵講の地蔵には、廻り地蔵といって、次ぎから次ぎと仲間の家に、一月ずつ遊んで行くのもありました。
子供が亡くなると、悲しむ親たちは腹掛や頭巾、胸当などをこしらえて、辻の地蔵尊に上げました。それで地蔵もよく子供のような風をしています。そうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り折り腹を立てました。縄で引っ張ったり、道の上に転がして馬乗りに乗っていたりするのを、そんなもったいないことをするなと叱って、きれいに洗ってもとの台座に戻して置くと、夢にその人のところへ来て、えらく地蔵が怒ったなどという話もあります。せっかく小さい者と面白く遊んでいたのに、なんでお前は知りもしないで、引き離して連れてもどったかと、散々に叱られたので、驚いてもとの通りに子供と遊ばせて置くという地蔵もありました。
なるほど親たちは何も知らなかったのですけれども、子供たちとても、またやはり知らないのであります。今頃新規にそんなことを始めたら、地蔵様は必ずまた腹を立てるでしょうが、いつの世からともなく代々の児童が、そうして共々に遊んでいるものには、何かそれだけの理由があったのであります。遠州国安村の石地蔵などは、村の小さな子が小石を持って来て、叩いて穴を掘りくぼめて遊ぶので、なん度新しく造っても、じきにこわれてしまいました。それを惜しいと思って小言をいったところが、その人は却って地蔵のたたりを受けたということです。(横須賀郷里雑記。静岡県小笠郡中浜村国安)
このようなつまらぬ小さな遊び方でさえも、なお地蔵さまの像よりはずっと前からあったのであります。昔というものの中には、かぞえ切れないほど多くの不思議がこもっています。それをくわしく知るためには、大きくなって学問をしなければなりませんが、とにかくに大人のもう忘れようとしていることを、子供はわけを知らぬために、却って覚えていた場合が多かったのであります。木曽の須原には、射手の弥陀堂というのがありました。もとは春の彼岸のお中日に、この宿の男の子が集って来て、やさいこといって小弓をもって、阿弥陀の木像を射て、大笑いをして帰るのがお祭りであったそうです。(木曽古道記。長野県西筑摩郡大桑村須原)
仏像を射るということは、大へんなことですが、これにも神様が目をお突きになったという類の、古い伝説があったのかも知れません。越後の親不知の海岸に近い青木阪の不動様は、越後信州東京の方の人は、不動様といって拝み、越中から西の人は、乳母様と称えて信心していました。お寺では今から四百年ほど前に、野宮権九郎という人が海から拾い上げた仏様だといいますが、土地の人は、もとからこの沖の小さな島に、子産み殿といって祀ってあった神様だと思っていまして、字を知らぬ人のいった方がどうも正しいようであります。というわけは、このお堂へは、母になって乳の足りない女の人が、多くお参りをして来たのでありました。そうしてお礼には小さなつぐらといって、赤ん坊を入れて置く藁製の桶のような物を持って来て、堂の側の青木の枝にぶら下げますがその数はいつも何百とも知れぬほどあるといいます。この神様も地蔵と同じように、非常に子供がお好きであるということで、何かという時には、村々から多くの児童が集って来たということです。あんなこわい顔をした不動様でも、姥神と一しょに住めばつぐらの子の保護者でありました。お盆になると少年が閻魔堂に詣るのも、やはりあの変な婆さんがいるからでした。(頸城三郡史料。新潟県西頸城郡名立町)
日本は昔から、児童が神に愛せられる国でありました。道祖も地蔵もこの国に渡って来てから、おいおいに少年の友となったのは、まったくわれわれの国風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく貴いもとのお力がなかったら、代々の児童が快活に成長して、集ってこの国を大きくすることも出来なかった如く、児童が楽しんで多くの伝説を覚えていてくれなかったら、人と国土との因縁は、今よりも遙かに薄かったかも知れません。その大きな功労に比べるときは、私のこの一冊の本はまだあまりに小さい。今に出て来る日本の伝説集はもっと面白く、またいつまでも忘れることの出来ぬような、もっと立派な学問の書でなければなりません。
この本に出ている伝説の中で、町村の名の知れている分を、表にしてならべてみました。この以外の県郡町村でも、ただ私が知らなかったというだけで、むろん尋ねてみたら幾らでも、同じような伝説があることと思います。下の数字はページ数です。自分の村の話が出ていましたら、まずそこのところから読んで御覧なさい。
東京府
東京市浅草区浅草公園………………………………………………………箸銀杏
同 下谷区谷中清水町……………………………………………………清水稲荷
荏原郡品川町南品川宿………………………………………………………縛り地蔵
豊多摩郡淀橋町柏木…………………………………………………………鎧大明神
同 高井戸村上高井戸…………………………………………………薬師の魚
南葛飾郡亀戸町………………………………………………………………頓宮神
八王子市子安…………………………………………………………………歯吹仏
京都府
乙訓郡新神足村友岡…………………………………………………………念仏池
南桑田郡稗田野村柿花………………………………………………………片目観音
大阪府
神奈川県
橘樹郡向丘村上作延…………………………………………………………鼻取地蔵
足柄上郡南足柄村弘西寺……………………………………………………化粧地蔵
足柄下郡大窪村風祭…………………………………………………………機織の井
兵庫県
川辺郡稲野村昆陽……………………………………………………………行波明神
有馬郡有馬町…………………………………………………………………うわなり湯
加古郡加古川町………………………………………………………………上人魚
同 野口村阪元……………………………………………………………寸倍石
赤穂郡船阪村高山……………………………………………………………水掛地蔵
多紀郡城北村黒岡……………………………………………………………時平屋敷
長崎県
新潟県
長岡市神田町…………………………………………………………………三盃池
北蒲原郡分田村分田…………………………………………………………都婆の松
三島郡大津村蓮華寺…………………………………………………………姨が井
北魚沼郡堀之内町堀之内……………………………………………………古奈和沢池
南魚沼郡中之島村大木六……………………………………………………巻機権現
刈羽郡中通村曽地……………………………………………………………おまんが井
中頸城郡櫛池村青柳…………………………………………………………片目の聟
西頸城郡名立町青木阪………………………………………………………乳母神とつぐら
同 根知村………………………………………………………………諏訪の薙鎌
埼玉県
川越市喜多町…………………………………………………………………しやぶぎ婆石塔
北足立郡白子町下新倉………………………………………………………子安池
同 大砂土村土呂………………………………………………………神明の大杉
入間郡所沢町上新井…………………………………………………………三つ井
同 小手指村北野…………………………………………………………椿峯
同 山口村御国……………………………………………………………椿峯
比企郡大河村飯田……………………………………………………………石船権現
秩父郡小鹿野町………………………………………………………………信濃石
同 吾野村大字南…………………………………………………………飯森杉
南埼玉郡萩島村野島…………………………………………………………片目地蔵
群馬県
高崎市赤坂町…………………………………………………………………婆石
北甘楽郡富岡町曽木…………………………………………………………片目の鰻
利根郡東村老神………………………………………………………………神の戦
同 川場村川場湯原………………………………………………………大師の湯
佐波郡殖蓮村上植木…………………………………………………………阿満が池
千葉県
千葉郡二宮村上飯山満………………………………………………………巾着石
市原郡平三村平蔵……………………………………………………………二本杉
印旛郡臼井町臼井……………………………………………………………おたつ様の祠
同 酒々井町………………………………………………………………仲の悪い神様
同 富里村新橋……………………………………………………………葦が作
同 根郷村太田……………………………………………………………石神様
長生郡高根本郷村宮成………………………………………………………新箸節供
山武郡大和村山口……………………………………………………………雄蛇の池
君津郡清川村…………………………………………………………………畳が池
同 小櫃村俵田字姥神台…………………………………………………姥神様
君津郡八重原村………………………………………………………………念仏池
同 関村大字関……………………………………………………………関のおば石
夷隅郡千町村小高……………………………………………………………大根栽えず
同 布施村…………………………………………………………………二本杉
安房郡西岬村洲崎……………………………………………………………一本薄
同 豊房村神余……………………………………………………………大師の塩井
同 白浜村青木……………………………………………………………芋井戸
茨城県
那珂郡柳河村青柳……………………………………………………………泉の杜
久慈郡阪本村石名阪…………………………………………………………雷神石
同 金砂村…………………………………………………………………横山ぎらい
鹿島郡巴村大和田……………………………………………………………主石大明神
筑波郡筑波町…………………………………………………………………筑波山の由来
栃木県
河内郡上三川町………………………………………………………………片目の姫
芳賀郡山前村南高岡…………………………………………………………片目の皇子
那須郡黒羽町北滝……………………………………………………………綾織池
同 那須村湯本……………………………………………………………教伝地獄
安蘇郡犬伏町黒袴……………………………………………………………天神の敵
同 旗川村小中……………………………………………………………人丸大明神
足利郡三和村板倉……………………………………………………………大師の加持水
奈良県
山辺郡二階堂村………………………………………………………………泥掛地蔵
高市郡舟倉村丹生谷…………………………………………………………雨乞と地蔵
吉野郡高見村杉谷……………………………………………………………入鹿を祀る山
三重県
宇治山田市船江町……………………………………………………………白太夫の袂石
飯南郡宮前村…………………………………………………………………めずらし峠
同 射和村…………………………………………………………………成長する石
多気郡佐奈村仁田……………………………………………………………二つ井
同 丹生村…………………………………………………………………子安の井
南牟婁郡五郷村大井谷………………………………………………………袂石
愛知県
丹羽郡池野村…………………………………………………………………尾張小富士
知多郡東浦村生路……………………………………………………………弓の清水
南設楽郡長篠村横川…………………………………………………………氏子片目
八名郡石巻村…………………………………………………………………山の背くらべ
静岡県
清水市入江町元追分…………………………………………………………姥甲斐ない
賀茂郡下田町…………………………………………………………………下田富士
同 岩科村雲見……………………………………………………………富士の姉神
田方郡熱海町…………………………………………………………………平左衛門湯
同 函南村仁田……………………………………………………………手無仏
駿東郡須山村…………………………………………………………………山の背くらべ
富士郡元吉原村………………………………………………………………化け地蔵
安倍郡長田村宇都谷…………………………………………………………鼻取地蔵(索麪地蔵)
同 賤機村…………………………………………………………………鯨の池
小笠郡中浜村国安……………………………………………………………子供と地蔵
周智郡犬居村領家……………………………………………………………機織の井
磐田郡見付町…………………………………………………………………姥と草履
同 上阿多古村石神………………………………………………………富士石
山梨県
東山梨郡松里村小屋舗組……………………………………………………御箸杉
同 等々力村……………………………………………………………親鸞上人の箸
西山梨郡相川村………………………………………………………………片目の泥鰌
同 国里村国玉…………………………………………………………国玉の大橋
東八代郡富士見村河内組……………………………………………………七釜の御手洗
中巨摩郡百田村上八田組……………………………………………………しわぶき婆の石
滋賀県
蒲生郡桜川村川合……………………………………………………………麻蒔かず
栗太郡笠縫村川原……………………………………………………………麻作らず
愛知郡東押立村南花沢………………………………………………………花の木
犬上郡脇ヶ畑村大字杉………………………………………………………御箸の杉
阪田郡大原村池下……………………………………………………………比夜叉の池
東浅井郡竹生村………………………………………………………………竹生島の由来
伊香郡伊香具村大音…………………………………………………………粉掛地蔵
同 片岡村今市……………………………………………………………大師水
岐阜県
揖斐郡谷汲村…………………………………………………………………念仏橋
山県郡上伊自良村……………………………………………………………念仏池
武儀郡乾村柿野………………………………………………………………黄金の鶏
加茂郡太田町…………………………………………………………………目を突いた神
益田郡萩原町…………………………………………………………………蛇と梅の枝
同 上原村門和佐…………………………………………………………竜宮が淵
同 中原村瀬戸……………………………………………………………ばい岩
同 朝日村黍生谷…………………………………………………………橋場の牛
長野県
長野市…………………………………………………………………………善光寺と諏訪
北佐久郡三井村………………………………………………………………鎌倉石
小県郡殿城村赤阪……………………………………………………………滝明神の魚
下伊那郡上郷村………………………………………………………………恨みの池
同 竜丘村………………………………………………………………花の御所
同 竜江村今田…………………………………………………………竜宮巌の活石
同 智里村小野川………………………………………………………富士石
東筑摩郡島内村………………………………………………………………仲の悪い神様
西筑摩郡日義村宮殿…………………………………………………………野婦の池
同 大桑村須原…………………………………………………………矢さいこ行事
南安曇郡安曇村………………………………………………………………門松立てず
北安曇郡中土村………………………………………………………………芋作らず
上水内郡鬼無里村岩下………………………………………………………梭石榺石
宮城県
玉造郡岩出山町………………………………………………………………驚きの清水
登米郡宝江村新井田…………………………………………………………代掻地蔵
牡鹿郡鮎川村…………………………………………………………………金華山の土
福島県
福島市腰ノ浜……………………………………………………………………鼻取庵
信夫郡余目村南矢野目………………………………………………………片目清水
同 土湯村…………………………………………………………………片目の太子
伊達郡飯阪町大清水…………………………………………………………小手姫の社
安達郡塩沢村…………………………………………………………………機織御前
安積郡多田野村………………………………………………………………氏子の片目
南会津郡館岩村森戸…………………………………………………………立岩
耶麻郡大塩村…………………………………………………………………大師の塩の井
石城郡草野村絹谷……………………………………………………………絹谷富士
同 大浦村大森……………………………………………………………すがめ地蔵
同 同 長友……………………………………………………………鼻取地蔵
岩手県
岩手郡滝沢村…………………………………………………………………送り山
和賀郡小山田村………………………………………………………………はたやの神石
同 横川目村………………………………………………………………笠松の由来
下閉伊郡小国村………………………………………………………………原台の淵
青森県
東津軽郡東嶽村………………………………………………………………山の争い
南津軽郡猿賀村………………………………………………………………片目の魚
下北郡脇野沢村九艘泊………………………………………………………石神岩
山形県
東村山郡山寺村………………………………………………………………景政堂
西村山郡川土居村吉川………………………………………………………大師の井戸
北村山郡宮沢村中島…………………………………………………………熊野の姥石
飽海郡東平田村北沢…………………………………………………………矢流川の魚
同 飛島村…………………………………………………………………鳥海山の首
東田川郡狩川村………………………………………………………………毛呂美地蔵
西田川郡大泉村下清水………………………………………………………しょうずかの姥
秋田県
南秋田郡北浦町………………………………………………………………片目の神主
同 同 野村…………………………………………………………寝地蔵
雄勝郡小安……………………………………………………………………不動滝の女
北秋田郡阿仁合町湯の台……………………………………………………水底の機
仙北郡金沢町…………………………………………………………………片目の魚
同 同 荒町……………………………………………………………三途河の姥
同 花館村…………………………………………………………………雨恋地蔵
同 大川西根村……………………………………………………………おがり石
福井県
大野郡大野町…………………………………………………………………山の背くらべ
三方郡山東村阪尻……………………………………………………………機織池
大飯郡青ノ郷村関屋……………………………………………………………水無川
石川県
能美郡白峰村…………………………………………………………………白山と富士
同 同村……………………………………………………………………二本杉
同 大杉谷村赤瀬…………………………………………………………やす女が淵
河北郡高松村横山……………………………………………………………片目の魚
羽咋郡志加浦村上野…………………………………………………………大師水
鹿島郡能登部村………………………………………………………………機織と稗の粥
同 鳥尾村羽阪……………………………………………………………水無村の由来
珠洲郡上戸村寺社……………………………………………………………能登の一本木
富山県
上新川郡………………………………………………………………………立山と白山
同 船崎村舟倉……………………………………………………………山のいくさ
鳥取県
岩美郡元塩見村栗谷…………………………………………………………布晒岩
同郡……………………………………………………………………………時平公の墓
西伯郡大山村…………………………………………………………………韓山の背くらべ
日野郡印賀村…………………………………………………………………竹栽えず
同 霞村……………………………………………………………………大師講と地蔵
島根県
飯石郡飯石村…………………………………………………………………成長する石
鹿足郡朝倉村注連川…………………………………………………………牛王石
隠岐周吉郡東郷村……………………………………………………………釣上げた石
岡山県
邑久郡裳掛村福谷……………………………………………………………裳掛岩
勝田郡吉野村美野……………………………………………………………白壁の池
久米郡大倭村大字南方中……………………………………………………二つ柳
広島県
豊田郡高阪村中野……………………………………………………………出雲石
世羅郡神田村蔵宗……………………………………………………………魚が池
蘆品郡宜山村下山守…………………………………………………………厳島の袂石
双三郡作木村岡三淵…………………………………………………………布晒岩
比婆郡小奴可村塩原…………………………………………………………石神社
同 比和村古頃……………………………………………………………赤子石
和歌山県
那賀郡岩出町備前……………………………………………………………疱瘡神社
伊都郡高野村杖ヶ藪…………………………………………………………杖の藪
西牟婁郡中芳養村……………………………………………………………雨乞地蔵
徳島県
那賀郡富岡町福村……………………………………………………………蛇の枕
同 伊島……………………………………………………………………蛭子神の石
海部郡川西村芝………………………………………………………………不動の神杉
同 川上村平井……………………………………………………………轟きの滝
名西郡下分上山村……………………………………………………………柳水
板野郡北灘村粟田……………………………………………………………目を突く神
美馬郡岩倉村岩倉山…………………………………………………………山の戦
愛媛県
温泉郡道後湯之町……………………………………………………………粉附地蔵
同 久米村高井……………………………………………………………杖の淵
新居郡飯岡村…………………………………………………………………真名橋杉
高知県
土佐郡十六村行川……………………………………………………………綾を織る姫
香美郡山北村…………………………………………………………………吉田の神石
同 上韮生村柳瀬…………………………………………………………山姥の麦作り
高岡郡黒岩村…………………………………………………………………宝御伊勢神
幡多郡津大村…………………………………………………………………おんじの袂石
福岡県
糸島郡深江村…………………………………………………………………鎮懐石
三潴郡鳥飼村大石……………………………………………………………大石神社
山門郡山川村…………………………………………………………………七霊社の姫神
大分県
東国東郡姫島村………………………………………………………………拍子水
速見郡南端村天間……………………………………………………………由布嶽
玖珠郡飯田村田野……………………………………………………………念仏水
佐賀県
熊本県
飽託郡島崎村…………………………………………………………………石神の石
玉名郡滑石村…………………………………………………………………滑石の由来
鹿本郡三玉村…………………………………………………………………山の首引
阿蘇郡白水村…………………………………………………………………猫岳
上益城郡飯野村………………………………………………………………飯田山
宮崎県
西諸県郡飯野村原田…………………………………………………………観音石の頭
児湯郡下穂北村妻……………………………………………………………都万の神池
同 都農村…………………………………………………………………山と腫物
鹿児島県
揖宿郡山川村成川……………………………………………………………若宮八幡の石
同 指宿村…………………………………………………………………池田の火山湖
薩摩郡永利村山田……………………………………………………………石神氏の神
熊毛郡中種子村油久…………………………………………………………熊野石
底本:「日本の伝説」新潮文庫、新潮社
1977(昭和52)年1月15日発行
2007(平成19)年9月10日43刷
初出:「日本神話伝説集」日本児童文庫、アルス
1929(昭和4)年5月
※「伝説分布表」のページ数及び丸括弧内の編集部による現在の表示は省略しました。
※初出時の表題は「日本神話伝説集」です。
※「堺」と「境」、「涌」と「湧」の混在は、底本通りです。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2013年4月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。