こども風土記
柳田国男
|
子どもとそのお母さんたちとに、ともどもに読めるものをという、朝日の企てに動かされたのであったが、私にはもうそういう註文に合うような文章を書くことができなくなっているらしい。「こども風土記」が新聞に連載せられている間、面白く読んでいるよと言って励ましてくれた人は多かったが、それはたいていは年をとった仲間だけであった。近所のまたは親しい少年少女の中には、気をつけていたけれども、読んでいる者ははなはだ少なかった。
うれしかったのは友人の一人が、うちではいつのまにか朝日が切り抜いてある。子どもが読んでから帳面に貼るそうだと、告げてくれたことである。九州の或る町からは、お清書のような字を葉書に書いて、鹿の角の遊びを知らせて来た少女がある。母が柳田さんにお知らせするとよいと言いましたからとあるのを見て、是だけは少なくとも予定の読者であったことがわかった。小学生の通信は、この以外には二つ三つしか受取っていないが、それでも東京・大阪の都会へ出て働いている人で、ほんの四、五年前の子どもかと思われる人たちから、あどけない感激の手紙は幾つか来ている。始めて親に離れ故郷に別れて、人中の生活をする者の胸のうちには、或いはもう一度「子ども」の感じが蘇って来るのではあるまいか。もしそうだとすると、強いて現在の子どもと母ばかりを追うてあるくにも及ぶまいかと思う。一つの新しい経験は、横浜近くに住む或る一人の女性から、こういう意味のことを私へ言って来られた。自分は亡夫が外国にいた留守の間、二児を連れて伊予の松山に住んでいたが、鹿々何本の遊びは毎日のように子どもが窓の外へ来て遊んだのでよく知っている。ただそれがどういう所作を伴うかは出ても見なかったので言うことができない。当時最も熱心にこの遊戯に参与した二人の子どもに問えばすぐに判るのだが、一人は中支にあり、一人は九州の或る職場に働いているので、今は尋ねてみる方法もないという。すなわち茲にもまた二十年前の子どもとお母様とが、再びその感慨を新たにしているのである。母といた日の悦楽は、老いたる私にさえも蘇ってくる。つまりはこの文章は人のために書いたのではなかった。
「こども風土記」が本の形になって世に遺ると聴いて、改めてまた私は考えて見た。現在の少年少女が老い尽し、彼らの孫曾孫が嬉々として膝の前に遊び戯るるを見る時代には、この一巻の文章は果してどうなっているであろうか。人間に永遠の児童があり、不朽の母性があることを認めつつも、それを未出の同胞国民とともに、談りかわすべき用意は整っていると言えるであろうか。僅か百年を隔てた祖先の文章は、もう註釈がなくては我々には読めない。今日の文章はさらに一段と時代の制約を受けている。是がいわゆる現代語訳のお世話になり、味も匂いもすり切れてしまってから、ただ義理だけに敬われるようなことのないように、時の古今に亙った国語の統一ということが、もう考えられてもよかったのではないか。無始の昔から無限の末の世まで、続いて絶えない母と子との問題であるが故に、ことにその感を深くするものである。読者をただ眼前の人のみに求めた私たちの態度にも懺悔すべきものが至って多い。もう間に合わぬかも知れぬけれども、是を機縁として改めて文章の書きかたを学びたいと思う。
一昨年の九月、米国ミズリー大学のブリウスタアという未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはこういう子供の遊戯はありませんかという尋ねである。一人の子が目隠しをして立っていると、その後にいる別の子が、ある簡単な文句で拍子をとって背なかを叩きその手で何本かの指を出して、その数を目隠しの子に当てさせる。英語では問いの文句が、
ドイツのも全くこれと同じだが、国語のちがいで一言葉少なく、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉で、やはり意味は鹿の角の数を訊くことになっている。目隠しをする代りに壁にもたれ、また四つん這いになって、その背に跨って、指を立てて問う例もある。もう長いあいだかかって調べていると見えて、これ以外にスコットランド、アイルランド、米合衆国、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといっている。日本にももしかそれがあったら、面白いと思うがどうかという質問である。
古い文献では、ペトロニュウスの諷刺詩の一つにも出ているという話である。あったらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないようだ、と皆がいうので、一応そういう返事をして置いて、なお念のため『民間伝承』の会報にこの手紙を訳して載せておくと、ほどなく二ヵ所から、あるという報知がやって来た。ありませんなどという答えはめったにできるものでないということを、しみじみと我々は経験したのである。
滋賀県の今津近くの村では、少なくとも二十年ほど前まで、この遊びをしたということを、長浜女学校の三田村君がまず知らせてくれた。じゃんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまって身を曲げていると、勝った方の子がそれに馬乗りになって、指を出して、その数を下の子にいい当てさせ、それが当るまではこの問答をくりかえし、あたれば今度は上の子が答える番にまわるのだそうである。馬乗りになるだけで、もう背なかは打たなかったらしいが、やはりその文句は、
と、くぎって唱えていたという。
鹿の角なら二本にきまっているようなものだが、これは角の叉がいくつに岐れているかということらしい。御存じの通り牡鹿の角は、成長するにつれて枝の数が多くなり、五本ぐらいがまず大鹿である。単に子どもの指の遊びに似つかわしかったというだけでなく、山の猟師にとっても重大な問題で、毎度おそらくは声を立てずに、こうして指を出して相手に知らせ、または噂をしていたことがあったろうかと思う。それを子どもが遠い遠い昔に学んで忘れずに持ち伝えていたものらしい。今日の語でいうと、この遊戯は生活に即している。
これがもし琵琶湖岸の片隅に、たった一ヵ所しかない例だったら、或いは近年米国の宣教師が来て、教えて行ったろうなどと、ありもせぬことを想像してすます人が多かったろうが、幸いなことには九州に一つ、飛び離れて同じ「鹿なんぼ」の遊びがあった。久留米中学校の峰元君は、近ごろ市中でこの遊戯を子どもがしているのを見かけたと報ぜられた。それから附近の村里を問合せてみたが、三井郡にはたしかにあって、他の郡にはまだあるという人を知らぬという。私も強い断定は差控えるが、これは近江から、または近江へ、ちかごろ輸入したものでないということはまあ言えそうである。
ただし詳しい方式はもう一度見なおす必要がある。熱心なブリウスタア氏に知らせてやりたいのは、久留米の方でも背なかを叩かないかどうか。「鹿なんぼ」という文句があまり簡単だから、あるいはこれも馬乗りの方かも知れぬが、文句が残っている以上は元は拍子をとって、叩いていたのではないかと思う。
これによって、ふと心づくことは、今でも東京の小学校の子どもが、別れるときなどにちょいと立ちもどって、
という類の、どうしても意味のとれない文句を唱えて、友だちの背なかを打つことである。流行といってしまえばそれでも説明はつくが、あまりにも無意味だから何か別の形があり、それが鹿・鹿・角・何本でないまでも、少しはこれに近いような「あてもの遊び」が、行なわれていた名残りではないかと考えている。人の背なかを打つということは、そう軽々しい戯れではない。それでも喧嘩にはならぬだけの約束が、かつてはこれを許していたもの、といっても理由が一つあるのである。
遊戯の童言葉とは、本来は歌と舞とのように、表裏不可分のものであったらしい。新しい小学校の遊びにも、なるべくは唱歌を添えて与えようとしているが、文句がやや混入っているためだろうか、言葉に力を入れすぎて所作の方が軽く取扱われ、もっとも熱中する遊戯にはかえって黙演が多い。自分はこの二つのもののしっくりと結び合っているか否かによって、子ども遊びの新旧が窺われるように思うが、どんなものであろうか。
二つの例を拾ってみるならば、このごろはもうあまり耳にしない遊戯唄、
という変った節の文句は、調べたら作者のきっとわかるほど新しいものだが、これをうたうべき遊戯は前からあった。東京などで古くから、蓮華の花が開いたというのが同じもので、つぼんだ、開いたという別の動作があるが、歌の半分はやはり小さな手を繋いで、くるくる廻っている間に歌うもので、しかもこれにはなお今一つ前の形があるのである。どうしてあのようにいつまでも、面白がって続けているかと思うほど、意味の解しにくい文言の羅列だが、「かごめ・かごめ」というのがやはりまた同じ遊びであった。
かごめ かごめ 籠の中の鳥は いつ〳〵出やる
夜あけのばんに つるつるつーべった
或いは、
ともいっている。そういうと一しょに全員が土の上にしゃがんでしまい、そのあとで、
というのもあり、また全くそれをいわないのもあるが、動いている人の輪がはたと静止したときに、真後にいるものを誰かときくのだから、これは明らかに「あてもの遊び」の一つであった。子どもはもう知らずに歌っていることであろうが、気をつけてみると、この「かごめ」は身を屈めよ、すなわちしゃがめしゃがめということであった。誰が改作したか、それを鳥の鴎のように解して籠の中の鳥といい、籠だからいつ出るかと問いの形をとり、夜明けの晩などというありうべからざるはぐらかしの語を使って、一ぺんに坐ってしまうのである。鹿・鹿・角・何本に比べるとたしかにこの方が試験はむつかしい。そうして数多くの子どもが加わることができて、楽しみは大きかったかと思われる。それが少しずつ形をかえて、ひろく全国の「昔の子ども」に、今もなお記憶せられているのである。
西洋の子どもの中にも、まだ幾種かの当てもの遊び(Guessing Games)が残っていることは、こういうことを書いた本によくいうが、あちらではもうその起りを説明することができなくなっている。日本ならそれが簡単にわかるのである。
子どもが手を繋いで輪になって、ぐるぐる廻る遊び、全国どこにもある「中の中の小仏」というものなどは、鹿の角を幾分か複雑にして、たくさんの児がいっしょに楽しめるようにしただけで、やはり問答が中心であった。六十年も前に私などが唱えていた詞は、
中の中の小坊さん なァぜに背が低い
親の逮夜にとゝ食うて それで背が低い
というのであったが、この文句は皆さんの覚えておられるのと、多分は大同小異であろう。あるいは魚の代りに「海老食うて」という者もあるようだが、いずれにしたところで父母の命日に、そんな物を食べる人は昔は一人もいなかった。それがおかしいので何遍も何遍も、同じ歌ばかりをくり返していたけれども、大阪でも東京でも、そのあとに添えて、
または「うしろの正面だァれ」といって、その児の名を当てさせるものが多かった。或いは目隠しをさせ、もしくは顔を両手で掩わせて、正面に踞んだ児を誰さんと、いわせることにしていたかとも思われる。鹿児島県の田舎などでは、それでこの遊戯をマメエダレとも呼んでいた。マメエダレはすなわち真前誰である。
遊びは後に少しずつ改良せられている。中の小坊の手に御盆を持たせて、誰それさん御茶あがれと言わせたり、または一つ一つ手を繋いだところを探って、ここは何門と尋ねる問答を重ね、答えによってそこを切って出るような遊びかたもあった。いずれも小児が自分たちで考えだしたもので、そんなことに世話をやく成人はいなかったろうと思う。それから蓮華の花は開いたといい、または「かごめ・かごめ」という文句に取換えたりしたのも、あんまり上手だから別に作者があったように考える人もあるか知らぬが、私たちは、なお、かれらの中の天才が興に乗じて言いはじめた言葉が、自然に採用せられて伝わったものと思っている。遊びはもともと輪を作って開いたり莟んだり、立ったり屈んだりするのが眼目であった。そうして歌は、またその動作と、完全に間拍子があっている。作者がほかにあったろうと思われぬのである。
「中の中の小坊さん」は、私などは弘法様のことかと思っていた。これを小仏と唱えていた子どもの、近所にあることも知っていたのである。山梨県ではそれをまた、
とうたい、その「中の地蔵」が後で周囲の子の頭を叩きまわって、
といっていたそうである。茨城県で地蔵遊びといったのもこれで、一人をまん中にかがませて目かくしをさせ、周囲の輪の子どもが廻りながら、やはり「なぜに背が低い」を唱える。そうしてその運動を止めるや否や、中の地蔵が一人をとらえてだれさんと名をあてる。それが的中すると地蔵が代ることは盲鬼の一種とよく似ている。福島県海岸地方の地蔵遊びのことは、前に『日本の伝説』の中にも述べておいた。これは輪の子どもが口を揃えて「中の中の」の代りに、
という言葉を唱える。乗るとはその児へ地蔵様に乗り移って下さいということであった。そうするうちにまん中の児は、しだいしだいに地蔵様になってくる。すなわち自分ではなくなって、色々のことを言い出すのである。そうなると他の子どもは口々に、
と唱え、皆で面白く歌ったり踊ったりするのだが、元は紛失物などの見つからぬのを、こうして中の中の地蔵様に尋ねたこともあったという。
古い『人類学雑誌』に出ていたのはもとは仙台附近の農村で、田植休みの日などに若い男女が集まって、大人ばかりでこの地蔵遊びをしていたそうである。これとても遊びで、信心からではなかったが、まん中にややお人よしというような若い者を坐らせ、ほかの者が輪になって何か一つの文句をくりかえしくりかえし唱えていると、しまいには今いう催眠状態に入って、自分でなくなって色々の受返事をする。いずれ男女の問題などの、罪もない笑うようなことを尋ねて、それに思いがけない答えがあるので面白かったのであろうが、それが今一つ山奥の村へ入って行くと、まじめな信心者だけで集まって、この中座のいうことを聴いていた。それが昔の世にひろく行なわれた神の口寄せというものの方式だったので、つまりは子どもがその真似をくりかえして、形だけでも、これを最近まで持ち伝えていてくれたのであった。
成人と子どもと、同じ遊びをちがった心持で、持ちつづけていた例はほかにもある。おとなの遊戯などということは考えにくいようだが、今でも元気な人たちは退屈すると、おりおり思いついて子どもみたようなあてものなどをする。それが案外新発明というのが少ないのである。ことに酒宴の席では古くさいものが面白がられる。たとえばある一人に目隠しをして盃を持たせ、
などと、飲み足りなそうな人に盃をさす戯れは、愚劣なものだが、まだまるっきり廃れてもいない。これと「中の中の小坊主」のお茶あがれとは近いのである。
それからもう一つ、このごろはあまり見受けぬが、箸とか紙縒とかの尖を少し折曲げたものを、くるくると両手の掌で揉み廻し、その突端の向いて止った方角の人に、盃を押しつけるという方式がもとはあって、その囃し文句もよく似ていた。ところがこれと全く同じ遊びが地方では小児の遊びとして、最もひろく行なわれていたのである。
もとは全国にわたって、ほとんど知らぬ児童もなかったろうと思う。おかしいことにはそれがことごとく、隠したおならの犯人を発見する目的のみに用いられていた。四国・九州ではそれ故にヘヘリカノド、またはヘヒリガンドともカネジョとも呼ばれていた。そのカネジョもカンドもともに鉤殿で、その小枝や細い棒さきが鉤になっていたからの名であろうと、私たちは想像している。すなわちこの鉤をまわして占いをした目的は、最初は決して下品なものではなかったのを、のちに酒飲みは盃をさす人をきめるために、子どもはただおならの主を見つける戯れだけに用いて、その他を忘れてしまったのである。上方方面の酒の席では、これをベロベロの神様といったことが記憶せられている。
ベロベロの神様は
正直な神さまで
おささの方へ面向ける
面向ける
という囃し言葉を唱えつつ、なにか細長いものを手で廻したということであるが、それと同じ名前は関東・越後・奥羽地方まで通用していて、こちらはいずれもみな子どもの遊びであり、唱えごとは、
ベロロ カベロ 正直神で
誰がへをひった
ひった方さつん向け(上総)
という類の文句になっている。或いはまた「ベロベロカメロ、とうといカメロ」などともいうところがある。つまりは初めに、まず鉤の霊の尊く正直なことを讃えて、それからいよいよその指定を求め、これによって疑いを決しようとしていたので、少なくとも方式だけは、昔の神を祭った人々の所作を、そのまま守っているのである。無心な者のすることには、うっかり看過すことのできないものがいろいろある。
東北で小児がベロベロの遊びをするのは、たいていは樹の小枝の鉤になったものを折取って、それを両手の間にまわして、あのおかしな文句を唱えるのだが、時としては萱とか藁とかの一本の茎を折曲げてすることもある。ベロベロという言葉が最初からなにか滑稽な意味をもっているように思う人もあるかは知らぬが、実際は決してそうでなかった。長野県の北部などでは、正月の三日をベロベロの歳取りと称して、小枝でそういう鉤をこしらえて三方折敷に載せて神棚に上げておく家もあり、またはもう、そういうものは作らずに、ただこの名称だけを知っている家もあるが、とにかくこれには少しも戯れの心持は伴わぬのである。奥州の田舎では以前まだ定まった墓地がない時代に、葬式当日に行列の先に立つ者が、このベロベロを廻して送るべき方角をきめたという話なども残っている。非常に子どもらしい素朴過ぎた占いかただけれども、前にはこうして右か左かの疑いをきめるという信仰もあったのではないかと思われる。
そんならどういうわけでその尊い、また正直な鉤の神にベロベロなどという名をつけたろうかという問題が起る。私たちの想像では、ベロベロとは嘗めることで、舌の田舎言葉をベロというのも、元はそれから出ているのかと思っている。今でも子どもがベロベロの神を廻すのを見ていると、これを両手で高く口の前まで持って来て顎の下あたりで揉み廻すので、ちょうど鉤のさきを鼻と見立て、その細い棒の後から、声が出て行くようにしていたようである。きわめて簡単なものだが、この鉤を一つの人形のように見ることが許されていたのではあるまいか。
人形が今のように写実になったのは、わが邦でもそう古いことではない。東北で盲の巫女が舞わせているオシラサマという木の神は、ある土地では布で掩うた単なる棒であり、また他の土地では、その木の頭に眼鼻口だけを描いてある。そうしてこれをカギボトケという名などもまだ時々は記憶せられている。信心な人たちの強いまぼろしでは単なる鉤ある小枝でも、なお有難い神の姿に見ることができたので、それを祭をする人の口の前に持ってくることが大切な条件ではなかったかと思う。東京でオシャブリ、関西でネブリコなどという木の人形も、これを轆轤でひいて今のコケシボコにするまでの、元の形というものがあって、それがのちには幼い者の手によって管理せられることになったのではあるまいか。
玩具を面白がって集める成人が多くなった割には、古いことがまだ一向わかっておらぬが、近年ブリキ・セルロイドが目まぐるしく新を競うようになるまでは、われわれのおもちゃは不思議なほど種類が限られていて、どうやらその一つ一つから根原を尋ねて行かれるらしく思われる。だいたいに、以前の玩具はほぼ三通りに分けることができたようである。最も数多いのは子どもの自製、拾ってすぐ棄てる草の実やどんぐりのようなものから苗株あねごとか、柿の葉人形とかの、うまくできたらなるだけ永く大事にしてしまっておこうとするものまで、親も知らないうちに自然に調えられる遊び道具、これを子どもは「おもちゃ」というものの中に入れていない。
オモチャという語のもとは、東京では知らぬ者が多くなったが、今も関西でいうモチヤソビの語にオをつけたものにちがいない。その弄び物を土地によっては、テムズリともワルサモノともいって、これだけは実は母や姉の喜ばぬ玩具であった。もっとも普通に使われるのは物さしとか篦の類、時としては鋏や針などまで持ち出す児があって、あぶないばかりか、無くしたり損じたりするので、どこの家でもそれを警戒した。そうしておいおいとその代りになるものを、こしらえて可愛い子には与えたのだが、最初はそれもただ親たちの実用品のやや小形のもの、たとえば小さな籠とか桶とか、箒や農具の類が多く、子どももまた成人と同格になったと思ってそれを喜んでいたようである。
それから第三には、買うて与える玩具、これが現今の玩具流行のもとで、形には奇抜なものが多く、小児の想像力を養うには十分であったが、如何せん、そういう喜びを味わう折が以前はきわめて少なかったのである。おみやげという言葉でもわかるように、本来は物詣りの帰りに求めてくるのが主であって、したがってその種類も限られており、だいたいにお祭に伴なうものばかり、たとえば簡単な仮面とか楽器とか、または神社から出る記念品のようなものであったことは、深い意味のあることなのである。その一つ一つについて話をしてみれば面白いのだが、それではあまり長くなる。ただここで私のいいたいのは、あんなオシャブリのような小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥であり、すなわち日本人の信仰から生まれて、発達したものだったということである。
今の人には何でもない木の小枝の鉤になったものなどが、昔は非常に重要にみられていたということは、必ずしも小さな発見ではない。金属工芸の進まなかった時代から、土を耕す鍬はすでに備わり、また火を焚く炉の上の鉤も欠くべからざるものであった。これに天然に備わった物を用いようとすれば木の枝より以上に丈夫なものはなかった。すなわち昔の人たちは自分の体験によって、つとに木の枝の強い力を認めていたのである。
三重県の北部から滋賀県の甲賀地方にかけて、春のはじめに神様を山から、里の方へ御迎え申す作法として、鉤曳という神事がある。神木に張り渡した太い注連繩に、木の鉤を懸けて歌をうたいつつ曳くのである。
東北地方では一般に、峠路の辻や入口にある大木の高い枝に、鉤になった小枝を下から投げあげて引懸かるかどうかを試みる占いがあって、時々は無数にその小枝の懸っている樹を見かけるが、それを鉤懸もしくはカンカケといっている。讃岐の小豆島の寒霞渓もそれらしいから元はこの方面にも同じ風習があったかと思われる。今日では小石を石の鳥居の上に乗せて見ようとし、または沓掛といって、馬の沓や古草鞋を投げあげるようにもなっており、子どもや若い者の慰みくらいにしか考えられておるまいが、かつてはまじめに或る旅行の成功するか否かを、鉤によってたしかめてみるという信仰があったのである。
それよりも今一段と子どもらしい方法、したがって今では子どもしか試みない戯れに、鉤引というものがあることは知っている人が多かろう。東北ではこれも小さな木の枝の鉤で、それ故に主としてこれに用いられるしなの木などを、今も子どもはカギヒコノキと呼んでいる。この遊びをする日が、特に正月の松の内となっているのは、由来の久しいことかと思う。他の地方に行くと春もたけてから、路傍の車前の茎を折曲げて引懸け引張り、または菫の花の馬の首のようになった部分を交叉して、むしろその首のたやすくもげて落ちるのを、笑い興ずるようになっているが、二つは最初から別々の遊戯であろうとも思われない。すなわち、子どもの遊びには遠い大昔の、まだ人間が一般に子どもらしかった頃に、まじめにしていたことの痕跡があるのである。
こういう話をしていると、自分の幼いころが際限もなく思い出される。秋の末に稲が刈り入れられて、水田の土がまだじくじくと柔かい時分に、日が暮れて寒くなるまで家に帰ることを忘れ、着物をよごして来てよく叱られた遊びがある。関東ではひろくネッキともネンボウとも呼んでいるが、それがまた木の鉤のさきを尖らしたものを、柔かい田の土などの中に打込んで、相手の立てたのを倒す遊びであった。
ちょうど片仮名のイの字を逆さにしたような棒で、現在は鉤の全く取れたただの木切れを尖らせて打つ地方も多いようだが、私などは鉤が有るために面白く打てたのだと今でも思っている。庭や畠で遊ぶと叱られるから田へ行くだけでなく、全く刈田の頃合の柔かさを、捜してでも子どもはそこへ集まったのである。打ちかたの巧者によっては自分のネンボウは深く刺され、同時に敵のをはね出して倒す。そうするとその棒をこちらへ取ってしまうのである。いろいろと工夫をして自分の得手に合うようなのを削り上げ、それには名前をつけておいたりする子どももある。勝った獲物を二抱も三抱も、物置の隅にしまっておいて、風呂のしたに焚かれてがっかりした記憶も自分にはある。
この遊戯は以前は全国的のものだったのである。したがってそれを詳しく説明する必要はまだないかも知れぬが、ここで私の考えようとするのは名称であって、それが不思議なほど南北に共通しているのである。もっとも東北の端の方だけは笄打ち、またはツクシ打ちという名もありその他にも少しずつちがった地方名はあるけれども、だいたいにおいてネンという言葉が行き渡っている。関東平野でもネン棒があり、またネン木と謂ったところもある。ネッキ・ネックイは根木・根杭であろうと、字を学んだ子どもはおよそ想像しているが、実は枝のさきを切って作るので、ただ土の中へ刺し込む点が、根と呼ぶのにややふさわしいだけである。言葉はこういう風に形と心持とが、別々に移り動くものであるらしく、また必ずしも、学者によって吟味せられてもいない。私の心づいたのは、このネンは別に起りがある。或いは念の字の音であって、やはり中古から言い始めたのかも知れない。そうするとこの名前よりも遊びの方が古く、またもう一つ前の名があったにちがいないのである。
いわゆる根ッ木の問題には限らず、我々がお互いに話し合ってみないために、覚るべきことを覚らずにいる場合ははなはだ多い。私がこんな小さなことに力を入れるのも、目的はもっと自分の中にある「日本」を見つけ出してもらおうがためである。各地から寄り集まっている人々の話題を、できるだけ朗かな楽しいものにしたいからである。
まちがっていたら正してもらうようになるべく多くの地名を掲げる。尖った木の棒を土の上に突き立てて相手の立てたのを倒し合う競技を、関東とその周囲の県ではネッキという者が多く、またネンボウという名も伊豆あたりまで行なわれている。それよりももっとひろいのは、北陸では能登の七浦村などでいうネンガラウチで、ここでは村の鎮守の御祭の日の遊びだが、西の方に行くとそれが子どものただの遊びとなっている。たとえば鳥取市の附近の村でもネンガラ、ここでも稲刈後の田へ出て遊ぶ。次には山口県の豊浦郡でもネンガラ、海を渡って筑前の大島でネンガラ、これも遊びかたは同じだが、注意すべきことには御産のあった家の前で、子どもがこの木を組んで産屋というものを立てるという。しかしもう一度尋ねてみなければ詳しいことは言えない。
それから西へ廻って長崎県の下五島にもネンガラ打ちの遊びがあり、さらに熊本県の天草下島でも旧十一月丑の日の山の神祭の前に子どもが、手頃の木を伐って来て、このネンガラを作っておいて祭の日に遊ぶというのは、いよいよ信仰上の儀式であったことを思わしめる。同じ遊びはまた阿蘇郡の山村にもあるが、ここでは少しかわってネンゴロといっている。鹿児島県の甑島へ行くと上甑の方ではネンガラまたはネンガネ、このカネはベロベロの神をカネジョというのと同じで鉤のことらしい。下甑の手打港などはこの遊びをネンウチ、それで遊び道具の方をただネンと呼んでいるが、起りの一つであったことは疑いがない。昔は九月九日の節供の日の子ども遊びであったというが、今ではもう常の日にもすることがあるらしい。奄美大島のような遠い島にも、やはり古くからそのネンウチの遊びはあり、その木をネンと呼び遊びかたもよく似ていた。人のネンを打倒して手の幅一つだけ離すことができれば、それを取って自分のものとしたという。ただこれらのネンを絵にかいたのを見ると、関西各地のものには私たちの重要視している鉤の枝のないものが多い。いつからないのか考えてみたいと思っている。
ネンウチは念打と字に書くのが本の意にかなうものかと思う。或いはあまり念が入りすぎるかも知れぬが、もう少しばかり他の土地の例をならべると広島県の海岸地方にも、ネンがありまたネンウチの遊びがある。倒して相手のネンを取るほかに、はじめから下手で地面に立たなかったものも次の番の児の所得になる。どういうわけでか、それをグッソウと子どもはいっている。ネンギリという名前が備後の府中などにはある。打つという代りに切るともいっていたのか、或いはまた別の言葉だったかも知れぬ。豊前の築上郡などではこの木の棒をネンギ、伊予の宇和島ではこれをキネンといい、またネンガリともいうのは日本海側のネンガラと似ている。
近いところでは神戸にも、このネンガラという語が行なわれていた。現在はもう木を尖らしたものでなく長さ四、五寸の鉄の棒の、さきの尖ったものを用いるというが、もちろん今はもう見られぬであろう。私などもまだ播州にいたころ、大きな西洋釘に紙の総を附けたものを、地面に打付けているのを見たことがあるが、危いといって持つことを許されなかった。しかしああいうものではとても関東などの根木打の面白さは味わえなかったろう。以前の競技は青年も加わり、それよりももっと複雑な、かつ興味の深いものではなかったかと思う。
有馬郡有野の唐櫃神社に伝わっているネングイというものなどは、正月二日の鬼打神事の一部で、はじめに的射の式があってそれの終った後、弓を地上においてその弓弦の前と後とに、櫨の木で作った杭を六本ずつ二度、合せて二十四本打ちこむ。閏年には二十六本、すなわち十三本の倍数を打つというから、多分はこれに由って月々の吉凶または晴雨を卜したのだろうと思うが、現在はもう自信がなくなったものか、それぞれ適当の場所に手を持ちそえて刺しこむことにしている。そういった変化は他の土地の、的射の式などにもおりおりに見られる。
つまりは成人の間ではただ形だけを残し、その面白さの方は子どものみが相続しているのである。尾張の知多半島などでこの遊びをネギゴトといい、それに使う木の棒をネギというのも、同じ念木という語の地方音だったかも知れぬが、別にこれを願いごとまたは禰宜事と解してもよいような感覚がなお残っていて、二つの心持が融合したものとみられる。ことに小児は単純だから、毎度こういう思いちがいをしやすいのである。
弓箭は農民の間では早くから、神祭の折にしか用いられていなかった。従ってその技能は劣っていて、実際の役に立たなかったのである。私の知っている三河の或る山村では、氏神の祭礼に金的を射あてる神事がある。箭が的を射貫くと的場の土といっしょに的と箭とを三方の上に載せて神前に供え、それをもって祭を終ることになっており、祭の前にはみな一生懸命に弓の稽古をする。もし中らなかったらどうしますかと尋ねてみると、何日でもあたるまでは御祭が続くのだそうである。しかしどうしてもあたらぬ時には仕方がないから、神主が箭を持っていって、金的に突射すのだという話であった。
四国や九州で百手祭、または御的射の神事といっているのは、的も大きく距離も近くしてあるようだが、射手はたいていの場合には少年であって、みな前々から精進をして練習する。そうして各自の部落を代表して、あたればその村が神の思召しにかない、一年中の仕合せを取るとしていたのだから、周囲の人たちも今日の声援団以上に力瘤を入れたのである。的射に出る少年選手は弓太郎などと呼ばれ、それを出す家には親類から祝い物を贈ってくるような土地もある。式場には多くの人が出席して、世話をしたり力をつけたことは無論である。朝廷や京都の大きな御社にも、中世以前からこれとよく似た賭弓の御式があって射手は右左に分れて勝負を競うほかに、おのおの一方の声援者があり、それを念人といっていたことは記録にしばしば見えている。すなわちめいめいの選手が勝つことを、心の中で念ずる役である。
という近世の発句があるが、その念者もまた元は右にいう念人と同じであった。われわれのネンボウ・ネンガラの遊びには、もはや年を取った念者の来て見る者は無くなっていたけれども、仲間がこの勝ち負けに力を入れる熱心さは、純然たる遊戯になるまでなお残っていて、それが暗々裡に競技の興奮を忘れがたいものにしていたように思う。相撲とか競馬とか鶏合せとかのごとく今まで成人の念者がたくさんに押掛けるもの以外に、盆や正月の綱曳きのように、ちょうど成人から子どもへの過渡期にあるものもあれば、さらにまたこのネン打ちや、次にいいたいと思うハマの遊びのように、ほとんと子どもだけしか面白がらぬ競技もあって、それがことごとく最初は神様の祭から出ていることは、子どもを愛する人々の回顧せずにはいられぬ歴史である。
児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精一ぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、今とよっぽど違った点があったのである。
第一には小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子どもが世話を焼く場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識しえたゆえ、悦んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気ごんでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、御蔭でいろいろの珍しいものの伝わっていることをわれわれ大供も感謝するのである。
第二には小児の自治、かれらが自分で思いつき考えだした遊びかた、物の名や歌ことばや慣行の中には、何ともいえないほど面白いものがいろいろあって、それを味わっていると浮世を忘れさせるが、それはもっと詳しく説くために後まわしにする。
第三には今日はあまり喜ばれぬ大人の真似、小児はその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった。昔の大人は自分も単純で隠しごとが少なく、じっと周囲に立って視つめていると、自然に心持の小児にもわかるようなことばかりをしていた。それに遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない。共同の仕事にはもとは青年の役が多く、以前の青年はことに子どもから近かった。故に十二、三歳にもなると、子どもはもうそろそろ若者入りの支度をする。一方はまたできるだけ早く、そういう仕事は年下の者に渡そうとしたのである。今でも九州や東北の田舎で年に一度の綱曳という行事などは、ちょうどこの子ども遊びとの境目に立っている。もとは真面目な年占いの一つで、その勝ち負けの結果を気にかけるくせに、夜が更けてくると親爺まで出て曳くが、宵のうちは子どもに任せて置いて、よほどの軽はずみでないと青年も手を出さない。村の鎮守の草相撲や盆の踊などもみなそれで、だから児童はこれを自分たちの遊びと思い、のちにはそのために、いよいよ成人が後へ退いてしまうのである。
子どもが大きい人から引継がれた行事と、単なる彼らの遊戯との境目は目に立たない。ただ年月が経って一方がもうその重要性を認めず、おいおいに起りを忘れてしまうだけである。中の中の小仏や念打ちなどはよい例だと思うが、今一つだけもう少し手近いのを挙げると、畠作に力を入れる東日本の農村などでは、もぐらもち(オゴロモチ)の害にはいつも弱りきっている。見かけたらすぐに退治するが、それだけではとても追いつかぬので、春の初めの一ばん好い日、すなわち正月十五日の早天に、もぐら追いということをしてあらかじめ一年の害を防いで置こうとする。棒で肥桶の腹をこすってキーキーという音を立て、耕地の上を転がしてまわると鼹鼠が遁げるといって、関東・信越の田舎では、今でも農家の主人が出て行って、このまじないをする風もあるが、別になお一つ簡便な方式を行なっている村もある。この小獣が海鼠の香を嫌うということは経験であったらしい。それでこの物を繩の端に括りつけて、畠を引張りあるく風習もひろく行なわれており、その時唱える文句が愉快なので、小児が志願してその役につく場合も多かった。必ずしも効果があると信じているわけでもあるまいが、久しい仕来りだから、これをせぬと気になるためだろう。いまでも子どもの無い家からは親爺が出てそれをやっている。海鼠が手に入らぬと、その代りに横槌などを引きずり、または東北ではトウラすなわち手束を曳くところもある。これは海鼠の一名をトウラゴというから代用になると思ったのかも知れぬ。
ところがこの海鼠引きが、多くの土地ではもう純然たる正月遊びになっている。たとえば東北では仙台・気仙沼など、西では近江の彦根でも、また京や大阪のちっとも鼹鼠などはいない大都市でも、やはり小児が町中を押しあるいて、
おごろもちはうちにか とうらごどんのお見舞じゃ
おるす おるす
というような文句を節おかしく唱える風習が近い頃まであった。九州各地の正月のもぐら打ちのごときも、
という類の文句は稀に残っているが、今ではすっかり果樹の豊産を祝う式となって、小児はただ竿で地面を叩いて喜んでいるだけである。
正月はむしろ子どもには多忙な月であった。食べねばならぬし、遊ばねばならぬし、そのほかにさらに頼まれてする仕事がもとは幾つともなくあったのである。そういう中でも鼹鼠駆除のなまこ引き以上に、もっと子どもが大悦びで引きうけた役目は鳥追いで、その日の面白さは、白髪になるまで忘れずにいる者が多いのである。その理由の一つは、どんな大きな声で耳の割れるほどわめいてもよかったこと、それから今一つは子どもばかりで、二夜も三夜も屋外の仮小屋に、親を離れて寝起き飲食するということであった。楊や白膠木の木を削っていろいろの飾りをつけた祝い棒がこのために銘々に与えられる。それでたんたんと横木をたたいて、心まかせに鳥を追う詞を唱えるのが、いわゆる鳥小屋の生活であった。それ故にこの小屋をまたワアホイ小屋・ホンヤラ堂などという類のおかしな名で呼ぶ土地が多いのである。ワアホイはもちろん鳥を追い散らすおどしの声、ホンヤラも後から駆り立てる声だったとみえて、二月・十二月の風の神送りなどにも、こういう囃しを用いている例がある。ただ正月の雪の中では、まだ駆逐すべき害鳥が眼の前にはいないのだから、当の本人たちがかえって言葉の意味を理解せず、今はもうむやみに興奮して騒ぐだけになっているのである。
村の鳥追いの詞は誰が考えだしたかしらぬが、よほど古くから今あるものが行なわれていた。それを少しずつ子どもはまちがえて歌うのだが、
朝鳥ほほほ 夕鳥ほほほ
長者どのゝ垣内は
鳥もないかくちだ
やいほいばたばた
こういった文句が東北には広く分布する。そうして現在でもやはり朝早くと、日の暮れ方とにはことに大声でわめくことになっている。山形県の海岸一帯から越後の粟生島あたりにかけて、この「夕鳥」をまたヨンドリほいともうたい、それで小児が手に持つ木の棒を、ヨンドリボウと呼んでいる土地がある。名前は土地ごとにというほども変っているが、日本全国どこの隅に行っても正月はこの棒を持たぬ子どもはなく、しかも鳥追い以外にもこの棒の大きな力は、一般に今なお承認せられており、それで彼らはまた正月の任務を欣々然として引受けていたのである。
小児は全体に木切れを持って遊ぶを好み、それを持つとかならず少しばかり昂奮する。なんでもないことのように我々は考えがちだが、実は隠れたる由来のあったことかも知れぬのである。ことに目にたつのは正月の十五日前で、これを子どもが持つと、ちょうど神主さんの笏や扇子と同じく、彼らの言葉と行ないに或る威力がある、という風に昔者は今も感じている。単に目に見えぬ害鳥虫をあらかじめ駆逐し、または果樹を叩いてその木を豊産になしえたのみならず、若い女性の腰を打てば、みごとな児を生むとさえ信じていた時代があった。だから、
という歌があって、この祝い棒をダイノコと呼ぶ土地もあり、または、
などという悪口に近い詞さえもあった。東部日本ではヨメツツキまたは嫁叩き棒、九州の各地でハラメン棒、対馬でコッパラなどといったのも、すべてこの正月の祝い棒の名で、集めているときりがないが、いずれもこの木切れに女を孕ませる力があると思っていたからの命名である。祝い棒にはいろいろの装飾が施されていた。色紙を貼ったり彩色をしたり、または左巻きと称して樹の皮を巻き、燻して型をつけたものもあるが、最も古風なのは精巧な削り掛けがしてあった。それを手に執ると、実際もう常の心ではおられなかったのかと思う。
鹿児島県の一部などでは、この棒をダシヤレ棒ともいっている。大歳または十四日の年越の晩に、家々の門に来てこれを振りまわし、ダシヤレダシヤレ、またはハーラメダーセ、すなわち孕み女を出せとわめくのである。現在はたいていお菓子や餅を与えて帰すだけだが、固い家では表口に俵をならべその上に花嫁を坐らせて、尻を打つまねをしてもらう土地も他県にはあり、または子のないのを歎く女が、所望して打ってもらうという例さえ稀にはあった。『枕草子』には宮中の人たちが、隠れて女を打とうとしたことが面白く書いてあるが、無論こういう行事は戯れになりやすく、小児はまた決していたずらが嫌いではない。だから中央部がはじめで、しだいに今日の公認せられた悪戯となったのである。あるいは粥杖というので別もののごとくにも見えるが、それもまた一つの祝い棒の役目から出た名であった。
正月十五日の前の晩に、子どもが人の家の前に来てわる口を言う風習が、稀にはまだ農村には残っている。羽後の飛島などではそれが必ず両の手に一本ずつ、ヨンドリ棒を持っていてすることにきまっていた。家の男女の一年間の隠しごとを、随分と露骨にいってしまうのだが、それを黙って囲炉裏ばたで首を垂れて聴いているのだそうである。小児はもちろん人の秘密などは知らない、または片はし知ってもそれを言い現わす言葉はもたない。だから若い衆などがついて来て、小声でその文句を授けるのが例であったというが、そのようにしてまで小児の口から、常は言わないことを言わせていたのは、つまりはこの正月の祝い棒の力を認めていたからであった。
早川孝太郎君の『飛島図誌』に、このヨンドリ棒の絵が出ている。鳥追いの日が過ぎると背戸の樹の下などに、その毎年の棒を積み重ねておくという。ヨンドリ棒については言ってみたいことが色々あるが、子どもに関係がないことだからごくざっと述べると、この棒の材料は桑の木で、上端を削って眼鼻口を描いたのが、我々の問題にしているオシラサマとよく似ている。奥州でオシラサマという木の二本の切れを持って、神の言葉を伝えるのは小児でなく、イタコまたはモリコと称する盲目の婦人であるが、この二つの間には共通点があるのみならず、小枝の鉤になったベロベロの神、一名カギボトケというものも元は同じ目的に使われた。それが今はただ児童のあてもの遊戯の中に、幽かな残形を留めているのである。
大人がこういうことをするのはもう阿呆らしくなって、自然に子どもの真似をするのは放任したという場合もあったと思うが、別に最初から小児を適任とし、彼らに頼んでさせたという行事も、一部にはたしかにあったのである。たとえば年取った者ならまだ憶えているだろうが、近畿とその周囲の昔かたぎの家々で、正月元日の朝の起きぬけに、特に彼らをして言わしめた詞、
ゆの木の下のおん事は
さればその事めでとう候
という問答などは、意味は分らぬなりに久しく守られていた。私たち兄弟も元はそれを言ったことがある。そうしてなんだか大切なものであったように今にいたるまで印象づけられている。
『日本外史』を読んで、笠置の山の行宮の御夢に、二人の童子が現われて楠の樹の下を指ざし、爰ばかりがせめて安らかなる御座所と、御告げ申したという記事に接するごとに、いつも子ども心には、あの「ゆの木の下の御事」を聯想せずにはおられなかった。そうしてこの二つはまるで関係のないことではないように、今でもまだ考えられるのである。
ゆの木を私たちは柚子のことかと思ったので不審であったが、これを土地によっては、
と言わせていた家もある。ユというのは「ゆゆしい」などのユで、元は斎の木または祝いの木のことであろうから、或いは最初門松などの下に立たせて、子どもにめでたいことを唱えさせる習いがあったのかも知れぬ。信州の松本などには、盆の七日にも柱を立てて、その柱の根もとに一人の児を坐らせて、祭をしたということが、たしか天野氏の『塩尻』に見えている。神の依りたもう木から我々の中へ尊い言葉を伝えるのが子どもの役であり、それがまた正月の御祝い棒に言葉を神聖にする力が籠るとした古代人の理由かと思う。
しかし小児はそんな古い由緒を知らない。それに親たちの心持までは呑みこめぬ者が多いので、いつしかこの特権は濫用せられるようになった。一方にはこれを詮もないことだとあざ笑うような気風も、夙く文化の中心地には起っていたのである。安楽庵策伝の『醒睡笑』は、元和年間に書き上げたという笑話集だが、その中には「祝ひ過ぎるも異なもの」という題で、そのような例が数多く出ている。
今でもこれに似た笑い話は、ぼつぼつと生まれつつあることと思う。無心な小児の言葉には思いがけぬ啓示のあることも事実だが、あんまりそれに重きをおいていると、時々は興のさめるようなことにも出遇うので、まして西洞院の鍛冶屋の隠居のように、わざわざ工作を加えたのはたいていは結果がよくない。ところが昔の村の人たちなどは悠長で、そう大して気にもかけずに子どもにはいいたいことをいわせて、おかしいことをいえばただ笑って、古い仕来りの少しずつ変って行くのを、自然のままにまかせていたのだから面白い。おかげでまだ色々の昔が子供の間に残っている。
東北では正月の春田打ち、または田植と称する行事が、土地によっては今もまだ少年少女の領分である。
といったり、または、
などといって、彼ら自身もなんのことだか知らずに、ただまわってあるけば餅が貰えるものだと思っている。それに相応の受け答えをして、心よく用意の餅を出して与えるのみか、それが来なくなるのをなんとなく淋しく思っている家もまだ多い。正月はもちろん田植の季節でないが、もとは一年のはじめに一通りそのわざを演じて、農作成功のまじないとする風があって、それには外部からこういって来る者のあることを、一つの瑞相として歓迎したのであった。ところが他の土地ではもうそのための職業団体ができたり、または貧しい人たちが顔を包んで、門に立ったりすることがはじまって、なんだか品の悪いものとして、親も学校も制止するようになり、子どもの正月の楽しみはまた一つ失われた。
これと似よった例は四国の粥釣りや御祝いそ、中国地方のコトコト・ホトホト、またはトロベイ・トヘイなどというもの、九州・奥州の両端にあるカセドリなど数えきれぬほどの種類を私は知っている。起源は少しずつちがっているかも知らぬが、いずれも正月に子供の口から、めでたい言葉を聴こうとした趣意は一つで、もしもはじめから賤しいと見られる所作であったら、真似をするはずもないのだから、いわば児童はお株を取られたのである。
もとよりこの変化は近ごろのものではない。東京などでもまだ江戸といった昔、町の子どもが数人で小さな船の形をしたものをかかえ、商家の店さきに来て入船の祝言を唱えていたということが、多くの書き物に残っているが、これなどもやはりいろいろの段階において今も諸国の船着場には行なわれている。たとえば津軽の鰺ヶ沢の柱かつぎ、筑前博多のセンザイロウなどはまだ子どもの管轄に属している。そんな話を聴けば珍しがるだろうが、東京人の中でも小さな児をかかえゆさぶって、
などと唱えているのが、やはり古い文句の記憶であり、幼い者がそれを楽しんでいるのも、幽かながらその相続であった。
今は東京市内になった高井戸あたりの子どもが、もとは甲州街道に出て富士登りの道者に、
と、銭を撒くことをねだり、もし撒かずに行くと後から、風吹け雨降れというような悪口をしたということが、百年ばかり前の紀行に見えている。百年も以前に行なわれていたものならば、古来の風習だろうと即断する人がないとは言えぬが、私には一つの零落の姿としか思われない。見ず知らずの旅人が村を通って、遠くへ物詣りをするような場合がそう早くからあったはずもなく、またどこに行っても見られる出来ごとでもないからである。なにかもとづくところがあったろうとまでは考えられる。しかし少なくともこういういやなことをするようになったのは、別に新たな誘因があったのである。
しかも道行の多い街道筋、ことに大きな神社や霊場に参詣する路では、今も時々は旅客の袂について施しを求める風儀が残っているぐらいで、もちろん江戸近郊だけの特例ではなかった。私などがこれについて思い出すのは『参宮名所図会』にも出ている「さるちご問答」その他、旅人が最初馬鹿にしてかかった路傍の小児から、あべこべに遣りこめられるという話で、わが邦ではこれを西行上人や宗祇法師の逸話として、妙に数多く各地に伝えている。知らぬ人も少なかろうがこの例を一つだけ挙げておこう。伊勢では櫛田川のほとりのある村で、可愛い童子が樹の上にいるのを見て、
と口ずさんでいい気になっていると、すぐにその童子が下の句をつけて、
とやり返したので、ぎゃふんと参って早々に遁げ去ったという話。その「さる稚児」は今ならば目に立つほどの美少年とでもいう言葉だが、それを猿に引掛けて木に登りとからかうと、一方また猿に対して狗といった、つまりは平凡なただの口合いではあるが、「狗のような法師」はあのころのはやりで、旅の連歌師などが自らを嘲る言葉だったからおかしいのである。児と法師との多くの問答は、いずれの土地の伝説でも、皆かならず前者の勝利をもって結ばれている。その賢しい童児は実は神様の化現であったなどというのを見ると、単なる民間文芸の趣向ではなしに、或いはもと路ばたに出て旅の参詣者に呼びかけるような宗教的の職業に、子どもが参与する慣わしがあったのではないかと思う。
味をしめるということが、よく子どもについてはいわれる。子どもには自制の念が乏しいのは当り前だから、してもよろしいとなるとたいていのうまいことが、癖にもなれば流行にもなりやすい。悪戯に独創のものが少ないのもそのためであった。
大阪郊外の村里などにも、八月十五夜の団子突きがつい近ごろまであったが、あれは全国的といってもよいほど、各地の子どもに知られている悪戯であった。細い長い竹竿のさきに、縫針や釘などを附けたものさえ関東にはあった。それを垣根の隙からそっとさし入れて、縁端のお月見団子を取って行くのである。中には家の人たちがいる前で、さして来てやったと自慢する子がある。取られた家でも笑いながら代りを補充したり、または十五夜団子は盗まれるほど好いと言ったり、その盗んで来たのを貰って食べると、何かのまじないになるという人さえあったのだから、面白くてたまらなかったわけである。
一方にはまた御手本といってもよいものがあった。村に嫁迎えがあると若い衆はよく酒をねだる。これを樽入れ、笊転がしなどといって、そっと背戸口から空の容器を持込み、知らぬ間に持って行くのが普通だったが、或いは竿のさきに樽を結わえて、高塀の外からぶら下げるという例も多く、熊野などではこれを釣瓶さしと呼んでいた。これも家の方では快く入れてくれるのだが、顔を見られまいとするところに一種の冒険味があった。子どもはおそらく狩猟のような気持でそれを羨みまた真似たものであろう。
取られる側からいうと一種の豊富感、余って誰にでも遣りたいという幸福を、味わいたい際なのだから、相手が容易に悦ぶ子どもならば、なおのこと取らせてやりたかったであろう。
千葉県の農村などは苗代の種蒔き日に、子どもは焼米袋というのをこしらえてもらって首にかけて村中をもらいあるいた。雛の節供にお雛はん見せとくれといって来る子どもは、昔も今も炒豆や菓子が目あてであった。関西ではこれを雛荒しという土地が多く、愛知・岐阜の二県などは、ガンドウチという名が今もまだ行なわれている。ガンドは中世語で強盗のことだから、まず極端なる誇張であるが、以前は断りなしに雛の供物を取ってゆくのが、子どもには何よりの楽しみだったらしい。やれガンドウメなどと笑いながら、勝手に炒豆や菓子をつかんで行かせた、昔の人の心持は気楽でよいと思う。
公認せられた子どもの悪戯というのが、今日はちっともなく、以前は相応にあったことは、可否は別として、ともかくも世の変り目である。復活させたくもないものは無論幾つかある。そういう中でもわれわれ外部の者の眼に、やや憎らしくも思われるのは正月小屋の生活、ちょうど左義長をやく前後の少年の跋扈であった。道祖神の勧進と称して木竹藁を集めあるき、少し出し惜しみをするとすぐに悪口をする。そういう悪太郎が仲間では、幅をきかしていた土地も稀でない。
もっとひどいのは通行人に銭をねだり、道路に繩を張ってその繩に泥を塗っておくというのさえあった。甲州の道祖神祭のごときは、その我儘がことにはなはだしく、これには面白づくで青年も多数に参加していた。小屋のある場所には御山木または歳神柱という木を立て、これから綱を引いて家の炉の鉤に、それぞれ結びつけて置くという村も多いが、憎まれている家では飯時にやたらにこの綱を揺かされて鍋も薬罐も掛けておくことができなかった、というような話も残っている。
そんなことまでして叱らなかったのは、正月ばかりは子どもらが神主さんだから、というような考えがまだ幽かに伝わっている土地が多いためであった。そんなら何神様の神主かと問うと正月様だという人もあり、道祖神と思っているものもあって、結局はっきりとしないが、石城郡の海岸一帯などには、七小屋参りと称して七つの小屋を巡拝し、またはその小屋を焼く以前に年寄たちが、御賽銭をもって御参りする村があるのである。それを怠る者がだんだんと多くなって、いよいよこの小さな神主さんが荒れ出したのである。
左義長は関西の方ではただ飾り物を焼く行事のようになっているが、それでもまだ少年がこれを自分の事業のように心得ている。中部地方から関東では一般に、大か小か一つの小屋を掛けて、その中には神壇を設け燈明供物を上げ、子どもの仲間がその中で寝ることを「おこもり」といっている。愛知県などでは旧十一月の山神祭に同じ事をするようだが、共に十五日の早暁にその小屋を焼くことをもって、祭典の終りとしていることは一つである。私が今住んでいる多摩川一帯の農村においては、この正月行事をサイト焼というが、藁で作ったサイト小屋はどの村のも八畳敷ほどの大きさであった。そこへ三つの団子を樹の枝の三つ叉にさして、参詣かたがた村の人が焼きに来るのである。
支那事変が始ってから、遠慮をしてやめたものが多いが、ある一つの部落などは子どもが寝ているのを知らずに、その小屋に火をかけて、かわいそうなことをしたので、その翌年からやめてしまった。ともかくも今はもう正月小屋の末期である。
正月小屋の中では、おかしいほどまじめな子どもの自治が行なわれていた。或いは年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十五になった者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役目とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといっている。指揮と分配とは一切が親玉の権能で、これに楯つく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘な児でも、ここへ来ると欣々然として親玉の節度に服している。これをしおらしくもけなげにも感ずるためか、年とった者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めていたようである。
この子ども組の最もよく発達しているのは、信州北部から越後へかけてであるが、他にも飛び飛びにこれが見られる土地は多い。古くからあったものの消え残りのようにも考えられるが、それにしてはあまりに他の地方に痕跡がなさ過ぎる。何か基づくところはあったにしても、それがこの程度まで制度化したのには、別に新たな原因が加わっているのではないか。興味の深い問題だと思う。
一つの想像は青年団の影響である。十五は昔から男が一人前になる年であったが、若い衆の資格が追い追いとむつかしくなっても、実際はまだ何年間かの準備期間が必要であった。中老などと子ども組ではいばっていても、若連中に入っては使い走り、だまって追いまわされていて一向に頭が挙らない。かれらの側からいうと、ここでまた一回の努力がいるのである。そう思って見るときは、子ども組の活躍が何か若連中に加わる目的にばかり、集中しているようにも見られぬことはないのである。
かれらが無心なる年少者の群と、正月十五日の自由とを利用して、成人を笑わせようとする歌言葉の中にも、そういう形跡はたしかにある。正月は花やかに笑うべき月であり、また笑うとすればいずれこの辺のところに落ちるだろうが、かれらは思い切って成長した男女の問題を、大きな声でわめこうとしていたのである。すでに一人前の知識・感覚を持っているぞということを示そうとする態度がよく見られる。穏当でないか知らぬが親も祖父も、みんな一度は通って来た関門であった。それがただ少しずつ濫用せられていただけである。
あんまり男の子の荒々しい話に片よったから、今度は方面をかえて「おままごと」の問題を考えてみよう。この遊びが日本では特別によく発達しているということを、皆さんは多分まだ心づいておられぬだろうが、同じ年をとった人たちの所作を真似るという中でも、ままごとのお手本はそう手近いところにはないようだ。そうして男の子の鳥追いやもぐら打ちと同様に単なる遊戯という以上に、まだ一部分は村の公務といってもよい状態が残り伝わっているのである。
これを発見するには最初にまずこの遊びに、季節または機会があるかどうかを注意して行くのがよいかと思う。カマクラと称する秋田県の雪小屋などは、以前の鳥追歌や御火焚棒がまだ残っているにもかかわらず、今では女の児が火鉢なんか持込んで、静かに煮炊きをして楽しむ場所になっている。他の地方の正月小屋でも、餅を焼いて食べ、または世話をする宿があって、子どもばかりの食事をするのが彼らにとっては重要な事務であった。ただしこれだけは女の子を入れない。
或いは天竜川筋の雛送りのように、三月節供の日に川原に蓆を敷き、火を焚いて飲み食いを中心にした少女の集まりがあるが、もとは東京の近くの馬入川筋の村にもあった。ままごとの地方色はいろいろある中に、若狭の常神村などでカラゴトというのが、やはりその川原事であったらしい。ただし三月の雛遊びの日に限らず、盆に川原に出て川原粥・川原飯を炊いて食べる方が、むしろずっとひろい風習であった。
場所は川原でなくとも磯ばた・海のほとり、または遠くの見える丘の上・橋の袂などを選ぶこともあった。とにかくに屋外で食べるだけでなく、調理までをするというのが一つの特色で、それによって辻めし(美濃)、門飯(五島)、門まま(紀州)などの名があり、またたいていは中元の行事であったゆえ、全国を通じて盆かまど・ボンクド・盆飯・盆粥という例が多いのである。食べ物を野天でこしらえるということは、大人でも興味を持つほどの珍しい事件なのに、ましてやこれに携わった者がいつの世からともなく女の童であった。どうしてこういうことをするのかは彼らにはわからぬ。ただその面白さを忘れることができなくて、折さえあればその形をくりかえして、おいおいと一つの遊びを発達せしめたのである。
ままごとは親が見ても静かでしおらしくまた他日の修練にもなって、同情のもてる遊びであったが、それが最初から遊戯として生まれたものでないことは、盆のままごとの一つの例を見てもわかる。浜名湖周囲の村々ではショウロメシ、瀬戸内海のある島では餓鬼飯とさえいう通り、盆は目に見えぬ外精霊や無縁ぼとけが、数限りもなくうろつく時である故に、これに供養をして悦ばせて返す必要があったとともに、家々の常の火・常の竈を用いて、その食物をこしらえたくなかった。それが門・辻・川原等に、別に臨時の台所を特設した理由であり、子どもはまた触穢の忌に対して成人ほどに敏感でないと考えられて、特に接待掛りの任に当ったものと思われる。
お盆飯の材料は家々から持寄り、米などは貰い集め、野菜ものは畠から取って来てもよい。或いは大角豆だけは勝手に畠に入ることを許していたという土地があるのも、私には意味のあることに思われる。盆に来る精霊は、大角豆畠にしばらく隠れて居るというような言い伝えもあるからである。地方によっては盆棚の供物、ことに水のこまたは水の実と称して、茄子をこまごまと刻んで水と米とにまじえたものを、家々から貰って来て味をつけて煮ることもある。箸にはかならず精霊様の麻稈を折って用い、めいめいが喰べる前にまず辻々で無縁ぼとけを祭り、または少しずつ近所の家に配ってまわるという例も多い。私はまだそういう場所に行き合わせたことがないが、小さな女の子が年上の娘の子の指図を受けて、まじめに一生懸命に働いていた様子はほほえましいものであったろうと思う。一度は自分もそういうことをして来て、年を取った村の女たちが、悦んで傍から世話を焼き、またはこの食物をもらって食べておくと夏痩せぬまじないなどといっていたのも、すべて皆いつからともない仕来りだからで、たとい小さな女の子のすることでも公務であり、どんなに楽しくてもそれはやはり労働であった。
これが普通の日のただの遊戯となってしまう前から、ままごとという言葉はおそらくは有ったのであろう。コトというのは古い日本語で、祭その他の改った行事を意味していたらしい。徳島県の伊島などでは、盆のままごとというのがこの精霊飯の儀式のことであった。盆以外にも同じ行事が元は多かったであろうが、もうその目的が盆ほどには明らかでなく、従って人が注意をせぬうちに、追い追いと変化したかと思う。
盆のままごとと正月のドンドン小屋と、今一つの似た点は成長段階、すなわち子どもが大人になる境目を、かなりはっきりと区切っていることであった。遊びのままごとは七つ八つ、もう少し大きな児は冷淡になるに反して、この日は年かさの親玉ともいうべき者が采配を揮って臨時に女の子ども組が組織せられる。讃岐の小豆島の餓鬼飯などは、十六、七歳の女子のみが参与するらしく、伊予の宇和地方の御夏飯にも、年頃の娘ばかりの集会があるということだが、その他の多くの土地では頭に立つ女は、もう一人前に近くなっていても、これに附き随う面々は村の少女の全部で、それが組織ある行動に出づることは、左義長の子ども組も同じであった。
そういう中でも特色のあるのは対馬の阿連村などに行なわれているという盆の十四日のボンドコであって、トコというのがやはり釜壇のことであった。島誌のしるすところによれば、ここの少女団の首領は十七歳で、その指導の下に村に二ヵ所の大きな竈を粘土と小石をもって作り上げ、その上に台を置いて男女二つの粘土製の人形を載せる。翌十五日には、ここで飯を炊き、村の若者連の踊と芝居をする組に送る例になっている。信州浅間の山麓の村では、この盆竈の行事をカマッコというそうだが、これにも物前すなわち成女期に近づいた女たちが率先して、米と少しの銭を持寄り、食物を調えて村の青年たちを饗応するのが定めであった。これがいかなることを意味するかは、多分彼らにもわからなかったろうが、少なくとも今まで全く経験せぬ心のときめきを感じたことだけが推察せられる。
男の児が盆飯を炊くという例も東北などにはある。或いは男と女と二組に立ち分れ、一方の築いている竈を壊して行くという悪戯も稀にはあったということを聴いている。女十七歳というのは少し大きくなり過ぎているが、これも正月のオンベ仲間の中老と同じく、もとは単なる顧問格だったかも知れぬ。伊豆の田方郡の盆の竈などは、これを作り上げる者は十四歳の娘ときまっていた。珍しい話だがその時は必ず腰巻を取って出て来た。というのは多分この日から、新たに裳をはく者ということであったかと思う。ここでは男の児の竈はなく、ただその少女組の竈を突き崩しに来るのを、十三歳以下の娘が協力して一生懸命に防衛するのが重要な役目であったという。
子どもは自分たちの遊戯を改良し、また発達させる能力を具えているということが、ままごと鬼ごとの二つの遊びにおいてはことによく見られる。盆の門ままの行事はすでに成人が重きを置かぬようになった土地でも、彼らは一朝にしてその模倣を中止しなかったのみか、むしろその中の最も面白かった部分を残して、他を新たなる環境に適するようにかえていって、昔の生活様式を我々のために保存しているのである。御礼を言わなければなるまい。
皆さんの郷土でままごとを何と呼んでいるか。これと今日流行の姉さまごととはどういう関係にあるか。とにかく子どもを理解するために、またわが身の昔を省みるために、も少し互いに他所のものを比べ合う必要があるかと思う。私などにも今はまだわからぬ言葉が多いが、気長に集めているうちには、案外なことが見つかるという経験だけはもっている。たとえば備前の邑久郡などで、ままごとをバエバエゴクというのは、釜の下に焚く火を形容した小児語がもとらしい。
夕方子どもが食事を待つ間、明るく燃えるものに注意を向けていたことは、火と燃料とに関する多くの名称が、彼らの製作にかかるのを見ても察せられる。九州でバエラ、中部地方でバイタ、モヤとかボヤとかいうのもそれであり、近畿一帯で松毬をチチリ・チンチロなどというのもそれかと思う。だからバエバエゴクも御飯をたくわざということに解せられるのである。下総の海上郡ではオミツチャゴというのがこの遊びの名である。今ではあの辺でもあまり耳にしないが、もとは台所を御水屋といっていたので、それで煮炊きの真似を御水屋事といい始めたのであろう。安房半島に行くとケンゴトまたはケエヤドッコ、ケというのは常の日の食事ごしらえで、その仕事をケシンといっている土地も他にはあるが、ケエヤドという語はちょっと解しかねる。これはカイヤドすなわち台所のことで、古語にもカイヤがあり、八丈島ではカイコヤとも呼んでいる。それが幼い者に採用せられたために、偶然に今も残っているのである。
しかしままごとの起りは前にもいうように、毎日の食べ物ごしらえの真似ではなかった。何か改った日の食事の物々しさと、これに伴う興奮に印象づけられて、自分も役者として働いていたのが始めであった。それを忘れてしまうと新たにまた似合わしい名を付けて、少しずつ遊びの興味を補足して来たものと思われる。
ままごとはしだいに御客遊びの方へ展開していったようだが、それに入らぬ前に調理した食物を、隣近所の人たちに持って行くという段階があって、それが今でもなかなか人望がある。東京などの小さな女の児は、カランコロンと口で木履の音をさせつつ、何べんでも御馳走をじじばばの処へ持って来てくれる。富士山南の村々でままごとをコンバ、或いはオコンバというのは訪問辞であろう。これだと盆の十五日の辻飯分配の方式が、まだ片端は保存せられているのである。徳島県の北部でこの遊びをクバリアイ、飛騨の高山でクバリゴト、配るというのは正式食物の贈与で一段と元の心持に近い。
甲州の北巨摩郡ではオワザッコというのが、姉様ごとの方言だと郡誌にはあるが、東国ではワザットはもと物を配るときの辞令の語であった。どうしてわざとというかは考えて見る人もないが、近ごろの感覚では「しるしばかり」というのに同じく、われわれが最小限度、守らずにはおられぬ御義理だったので、単なる気まぐれのお遣い物を真似ているのではなかった。
遊戯にはままごと・鬼ごとに限らず、下にコトという語を添えるものが多い。今ではゴッコ・ゴク・ゴとなり、またはナコ・ナンドなどにも変化しているが、コトの本来の意味はワザ・オコナイ・フルマイも同様に、儀式もしくは祭典ということだったと思うがどうだろうか。子どもの生活を離れて一ぺん考えて見たいものである。青森県のままごと方言は色々あるが、だいたいに南部領はオフルメヤコ、津軽領はオヒルマイコまたはジサイコナコというのがひろい。ジサイコは津軽から秋田へかけて、中央でいう法事・仏事のことで、文字には持斎と書くべき語と言われている。すなわち、あの地方のままごとは、外形が法事と似ていたのである。加賀の金沢などではこの遊びをオジャコトといっている。御座は年忌でなくとも僧を請じ、説教を聴聞する人寄せであるが、やはり法事のように食物が出たものと思われる。フルマイは今では物を食わせることのごとく解せられるが、やはり定った吉凶行事のある日のことで、ただこれには必ず御馳走が伴っただけである。ままごとの地方名としては米沢でもオフルマエゴト、伊豆の半島でもフルミヤッコ、遠く飛び離れて肥前の小値賀島まで、ホンミヤナンドという語が行なわれている。そうして多分もうその理由が忘れられているだろう。
上州の桐生附近ではオキャクサンヤッコ、信州諏訪地方でオキャクボッコ、またはオキャナンコというのが東京などの御客遊びに該当する。九州でも熊本県の球磨郡をはじめ、ままごとをキャクナンドというところは多いようである。遊戯中心の移るにつれて、新しい名も次々に生まれている。大垣の附近にはゴチソウサンゴト、信州でも上田地方にはヨバレッコもしくはオンバレコ、これは新旧二つの方言のたがいに接近して紛れやすくなった例である。一茶の『方言雑集』にオバチコとあるのが、多分北信の例であろう。子ども遊びに柿など切り刻みて、呼んだり呼ばれたりすること也とあるが、これは呼ばれごとでなく、姥ごとの方から出ているかと思う。
御客遊びをオクサンゴッケンと呼んでいる例が、大分市にはあるというが、越後のどこかにもオカサマゴッチョという名ができていて、この方はかなり起りが古い。たとえば『甲斐の落葉』にはオカダッコ、食物調理の真似をして遊ぶこと、すなわちままごととあるが、南大和の方言集にも、雛遊びをここではオカタサンゴトというとある。宮城県はほとんと全国を通じて、オカカブツ・オカカボチといった記録がある。主婦をオカタというのは中世以後の標準語であって、それを小児があどけなく発音したのが、今日のカアサマ・カカサン・カカ・オッカーなどの語を作っている。彼らの功労は国語の先生よりも大きいかと思う。
ままごとの主役はおかっぱの主婦だったのである。だから主婦の名が変ればそれについてままごとの名も変って行くのである。母をオウカチャマという越後の新発田辺ではオガチャマゴト、主婦がジャジャと呼ばれる秋田県の北部ではジャジャボッコというのがままごとのことである。ジャジャは中世の茶々の局などのチャチャと同じく、もとは緑児が母を呼ぶ声から出たものらしい。今では父をチャンと呼ぶ方が多くなっているが、越前の福井附近でままごとをジャジャンコ、紀州の熊野でチャチャボコというのも、かつては母をそう呼んでいた名残りかと思う。そういう例ならば外にも求められる。山形県のオバコは今日は未婚の女のことだが、米沢地方ではままごとをオバコダチ、中国地方のオバサンは他家の婦人のことなのに、但馬ではこの遊びをオバサンゴトと呼んでる。それはみな家々の主婦をウバといったころの遺物なのである。
主婦をオカタという語が、上流に限られている時代には、常人の家ではそれをウバといったのである。その語もまだ残って東北ではアッパ、沖繩ではアンマがあるが、一般に呼名は許される限り上級へと登って行って、裏長屋にも奥さんは多くなったのである。これから考えて行くと信州松本附近のように、御客遊びをオバゴトといっているのは一時代古い頃の形ということができる。静岡県でも西の方によるとオンバゴトがある。村によって発音は少しずつ変りオンバイゴトなどという児もあるから、もう主婦の真似ということは忘れているかも知れぬ。
九州の端々でも上五島でバッジョ、薩摩の下甑島ではバッコーというのが、ともにままごとを意味している。それよりもさらにわかりにくいのは紀州東熊野の尾鷲あたりで、ナンコビまたはゴコトンボというのが同じ遊びの名である。ナンコビの方はまだ不明だが、他の一方は私には説明できる。ゴコというのは中国で、若い女性を意味するよい言葉であるが、そのゴコと姥との応対を真似たことが、ゴコトンボの名の起りであった。それによく似た例は伊豆七島の三宅島の一部で、ままごとをネザンバまたはネタンバアということで、これは「ねえさん婆さん」の意味だということを、島の人もまだ知っている。村によってはオンバッコもしくはウンバージというところもあり、そのウンバージも姥爺だろうという。主人夫婦のことをオジンバ(土佐幡多、近江伊香)、オンジョウンボ(鹿児島県)、バオジ(出雲)、ウバグジ(陸前栗原)などといい、または熊手と高砂の絵から思い寄って、ジョウトンボという土地もあるのだから、ゴコトンボも決して不思議な名ではない。
ただし女の児の遊戯に出て来るゴコは、ただの年若い娘ではなく、花嫁御のことであったかと思う。常の日には見られぬような化粧をして、里で散々練習をして来たよい口上で、新たな家の姥と対談している姿を、眼をまん円くして傍聴していた小娘たちが、それを自分たちの遊戯の名とし、または中心としようとした気持は、神事のわざおぎが近世のただの芝居になって来た経過と、何だか似よったものがあるような気がする。食物の調理を中心とした古い遊戯がしだいに眼で視、耳で聴く楽しみに移って来たのは、必ずしも明治以来の新文化の影響だけではなかったと私は思っている。
人形がおままごとに参加したのは、遠い対馬の阿連村の例はあるが、一般にはずっと新しいことで、今ある姉様遊びに伴うてひろまったものらしい。姉様遊びの姉さまが新嫁の別名であったことは、あの顔より大きな髪飾り、紅の衣裳の染模様を見てもわかるが、その花オカタが古いオカタと同居して、特に姉様と呼ばれて区別せられる必要などは、元は少なくとも村落にはなかったのである。
この姉様人形が入って来たころから、ままごとはしだいに食べる遊びでなくなった。三宅島のネザンバなどはどうかしらぬが、子どもは人形を相手にして遊び出すと、急におしゃべりになるか、そうでないまでも言葉の楽しみを味わう力ができてくる。大人が傍にいるうちは黙っているが、それでも独言や心の中の言葉が数を増して、感情のようやく濃やかになって行くのがよくわかる。やたらに切り刻んだものを食べさせまいとする、衛生おかあ様の心遣いはなくとも、文化が進めばままごとは文芸化せざるをえなかったのである。私は実は人形の普及がこれを促した大きな力ではなかったかと思っているのだが、その説明をしだすとまた長たらしくなるから、今回は見合せておく。とにかくに日本の子ども遊びは、全体に込み入ったものが多くなり、かつ文句が面白くまた繁くなって、言葉の楽しみというものが親たちの近ごろの会話よりも大きかったのである。
そういう中でも特によく発達しているのは鬼ごとであろう。これも名称が自ら語るごとく、最初は神社仏閣の鬼追い行事に、少年を参加せしめたのが起りと思われるが、今日は野球の規則の一部を採用したアブト鬼というのまでが各地にはやっている。内田武志君の『静岡県方言誌』の一冊が、丹念にこの種類を集めている。全国各地の児童界にも、親がこしらえて与えたとは思われぬ色々の鬼事術語が、土地ごとに制定せられている。
たとえば何かの理由で一人だけがタイムを要求する合図の語に、ミッキ・ミッコ・ニッキ・モンキ・マッチ・チョマ・ゴイロ・ゴイ・ゴー・タンマ・タンコ・テンマ・タエマ・オヒマ・マヒ・ドッパ・ベン等、さては幼少な者を加えて特別扱いにすることをチャチベ・アブラボウズ・カワラケ・ナベコ・ヒデコ・ミズッコ・スボノコ・ロッパ等々、一々土地を挙げその由来を考えようとしたら、読者が困ってしまわれるだろうほども数多くできているのである。
信州小県郡の民謡集に、鬼遊びの童詞が七章まで載っている。
鬼の来るまで 洗濯でもしやしょ
鬼の来るまで 豆でも炒りやしょ
がら〳〵がら〳〵 石臼がら〳〵
豆はたきとん〳〵
鬼を激昂させる手段として、東京でも洗濯だけはいうが、こうなると、もう一つの演劇であって、しかも作者は土地の子どものほかにありえない。あるいは文句を他所から聞き覚えて、呪文のようにそれを守り、または若干の作意を加えたものが鬼きめの言葉には多い。羽後の大館附近に行なわれていたのは、
隠れぼっちにかたなの者は
しんざのこちゃのれんげの花
これを新沢という村の麹屋のことのように思っていたそうだが、実は非常に古くからある小さ子法師、すなわち一寸法師の物語であった。江戸でも早くから意味が分らなくなって、チーチャコモチャ桂の葉などとうたっていた。備前の岡山では、
つーちゃこもちゃかずらの葉
ねんねがもったらちょと引け
すなわち東北は遠いだけに、まちがいが幾分か大きかったのである。
鬼きめというのは、小さな握り拳を並べさせて、歌の文句に合せてその上を突いて行くのだが、その言葉にも遊戯の趣意を説こうとする、序曲のような役目があったのかも知れぬ。ことに隠れ鬼や目くら鬼では、遊びのなかばでは声を立てることができない故に、初めに歌っておく文句が多かった。
だあまれ〳〵雉の子
鉄砲かたげがとおッぞ
うんともいうな屁もひんな
これは肥後の球磨地方の、モウゾウ隠れ(隠れんぼ)の歌であった。是よりも一段と劇的なのは今も田舎に残っている狐遊び、大阪でもと「大和の源九郎はん」などといった鬼ごとである。百年以前の『嬉遊笑覧』にも、
と見えている。今日の「御山の御山のおこんさん」遊びの筋書は、もうまただいぶ長くなっていて、これに子どもでなくては言えぬようなおかしい問答が数多く繰り返される。
私などが子取ろといっていた遊びは讃岐ではオトリコトリ、南伊予でウシノコトリというのも同じで、鬼事の一種であった。強い大きな児を前に、順々に帯に手をかけて繋がり、鬼がその後の児を捕ろうとするのを、動きまわって先登が防ぐので、これは動作があまり激しいので、短い単調な言葉しかくり返されていなかった。ところが別に今一つ、
子買お子買お
子を買うてなんにする
赤のまんまに魚そえて食わそ
というような問答を、際限もなく遣り取りする遊びがあって、それを大阪では子取りといったときくが、本当であろうか。
子買おの文句は国々で実によく発達している。奥州の端では子売ろというそうだから、元は「どの児がほしい」というのが一般であったと思われるのだが、近頃は遊びの名前までが変ってきている。たとえば熊本の附近では猫もらい、越後の岩船郡でも猫じゃ猫じゃというのがこの遊びで、
猫じゃ猫じゃ
どの猫ほしや
後の何々猫ほしいわ
という類の問答をする。仙台の市中の子どもはこれを雀とりといった。
どの雀よかろ
いつも来るよな誰それ雀よかろ
どの茶碗でかせる(食せる)
金の茶碗でかせる
という風に、着物や家などを次々にたずね、それが一通り終ると、名ざされた子どもが、自分でブーンといって飛んで来る。すなわち子どもは問答の面白さに気を取られて鬼事はもう忘れているのである。しかし埼玉県で雛買いというのはこれに反して、婆さんが川越の市へ雛人形を買いに行き、一つ一つを見立てて、くすぐって笑わぬのを買おうといったり、臼を挽かせたり、よくないといって返しにきたり、芝居同様の色々のしぐさがあるのだが、それでいて留守にその雛が逃げ出し、それから鬼ごとになるのだといっている。察するに最初は、「向いのおばさんお茶のみにお出で、鬼が怖くて行かれません」のように、または遠州の鰮屋問答で、鰮の値段をきいて「負からんと後の子を取るぞ」というように、鬼の遊びを面白くする前幕であったのが、末には児童がその文芸を愛するあまりに、これを独立した静かな遊戯の一つに、作り上げたのかと思われる。
年をとった者に子どもの話をさせると、どうしても懐旧味ばかりが多くなる。もう全体を説き尽くせないことがわかったから、手短に私の要点と思うことを述べよう。
いわゆる児童文化は孤立した別個の文化ではない。国にそのような離れ離れのものが、並び存するわけがないとすると、単に一国一時代の文化相が児童を通して視ればまたちがった印象を与えるというまでの意味しかない。そういう心持をもって皆さんと自分は、この児童文化を少しばかり見なおした。児童は私が無く、また多感である故に、その能力の許す限りにおいて時代時代の文化を受け入れる。古く与えられたものでも印象の深さによって、これを千年・五百年の後に持ち伝えるとともに、いつでも新鮮なる感化には従順であった。そうして常に幾分か親たちよりも遅く、無用になったものを棄てることにしていたらしい。ことに国語のうるわしい匂い・艶・うるおいなどは、かつて我々の親たちの感じたものを、今もまだ彼らだけは感じているように思う。こういうところに歴史を学ぼうとする者の反省の種が潜んでいる。
どうしてこのように無心な者の言葉が、聴けば身に沁むのかということを考えて見るのもよい。風のない晩秋の黄昏に町をあるいて、
大わた来い〳〵まゝ食わしょ
まアまがいやなら餅食わしょ
という歌を聴いて、涙がこぼれたことも私にはあった。或いは白髪の翁が囲炉裏の脇で、膝の子の小さい手をおさえながら、
ひいひいたもれ
火が無い無いと
この山越して
この田へおりて
などと歌ってきかせているのも、単なる昔なつかしの情を超えて、我々を教訓しまた考えさせる。火もらいは燧石の普及よりも、もう一つ以前の世相であった。それが奥州の昔話や信濃の山村の子守歌だけには残っている。老人の記憶にはまた一つもとの子どもがある。言葉が面白いために消えてしまうことができなかったのである。霞ヶ浦の湖岸の村にも、
ひいころ火ころ
火は無い無いぞ
おばたの下で云々
というような歌がある。東京では年少の者を罵るのに、ヒイヒイタモレという語があった。すなわち元はこの土地にも同じ歌が、幼い人々に口ずさまれていたのである。
鹿・鹿・角・何本の遊びが、近江と筑後の二ヵ所にあったということを、物珍しそうに書いておいたところが、たちまち全国から百七十何通の手紙が来て、自分の土地にもあると告げられたのにはびっくりした。この御礼の方法は別に考えなければならぬが、とにかく大要をここに載せて、読者におことわりをする義理が私にはある。
この遊戯が近ごろまで行なわれていたのはだいたいに九州と四国、ことに福岡と愛媛の二県は、各郡市残らずというほどに分布しているが、東の方も千葉県の東海岸、越後佐渡にまで及んでいた。報告のなかったのは奥羽六県と富山以西の日本海側の諸県および長野・岐阜の中部二県だけで、近畿・東海にもぽつぽつとあるが、やはり瀬戸内海のまわりが多い。百七十何通といっても、同じ土地から幾人もの知らせがあったのだから、総数にして二十四の市と五十五の郡と、五つの島との計八十四ヵ所に、現在もなお行なわれ、またつい近年まで確かに行なわれていたのである。報告者はいろいろの年齢の人で、いずれも十年・二十年の前に自分が携わっていた記憶を喚び起してなつかしいと言っておられる。若いおかあ様たちを読者に予期していたのだが、こういう意外な人までが見ておられたのである。なるほど新聞はよいものだなと、改めてまた経験したことであった。
そんな話よりも、遊戯のどう変って来たかということを、あらましだけでも述べておかねばならぬ。このごろの鹿遊びは、いったいに男の児の荒々しい運動となり、女が参加することはできぬようになっている。一人がうつむいて馬になることは外国のも同じだが、遠くから走ってきて木馬のように飛び乗り、足が地についたり、乗りそこねたりするのを負けとしている所さえある。それでいて例の鹿々何本を、まだ掛声のように唱えているのだから、考えてみると子どもは面白い。伊予などでは胴乗りと称して、幾人もの子どもが帯をつかまえて繋がり、長い馬になって組を分けて乗りっくらをしているのもあるが、やはりまだ鹿何ちょうなどと、数を当てさせる言葉を使っている。そうして他の多くの例では、依然として当てられた児が次の馬になる遊びなのである。
九州・四国が最も新しい流行地である故に、変化も一段と烈しいのではないかと思う。第一に角という語を落しているのが多い。初めてシカシカが鹿だったということを知りました、と言ってきた人も多勢ある。或いはチカチカなんぼ・チケチケ何本・カチカチなんぼという処もある。京都はこの鹿々が犬にでもなったものか、
などといっている。この唱え言葉はもっと奇妙に変っているのだが、それはもう一度後でいう。四国から東では、だいたいに鹿の角という者が多いから、何本という問いの意味はまだ忘れてしまってはおらぬらしいのである。
最初これがあてもの遊びの一つであることを知っていた間は、女の児の中でも行なわれていたものと思われる。九州北部でも稀にはシカシカ何本と唱えて背なかを叩き、指の数をいい当てさせることをしていたと、あるわかい女の人は報告している。それを男の遊びを半分だけ真似たように思っているのは多分誤りで、まだ他の地方ではお年玉の数、銀杏や榧の実の数を隠して、相手に当てさせるにも同じ言葉を唱え、または手を組み、輪になって、中央に一人の児をしゃがませ、目を押えて物の数を当てさせる場合にもなお口々にこの鹿々何本を唱えていたというから、馬乗りの方がむしろ一つの応用だったとも見られるのである。
土地によっては、何の申し合せもなしに、不意にかがんでいる児の後から乗りかかって、指を高く掲げて鹿なんぼと問うという例もある。これは面白かった遊びのおさらえとも考えられぬことはないが、浜松地方などでは家の中でこの遊戯をすることがあり、それは唯うつむいている背なかの上で、鹿の角に何本あるかを問うだけで、女の子もこれに参加するというから、少なくとも以前はもう少し静かな、同じ馬乗りとはいっても、ただこちらを見てはいないということを確かめる目的で、相手を屈ませていただけかも知れない。
二つの遊戯の結合する場合は多い。たとえば石蹴りなどは私などの全く知らなかった遊びだが、東京でいうチンチンモガモガ、関西でいう足ケンケンの上手な児なら、誰でもこれに参加せずにはいない。ケンケンも元は蹴ることを意味していたのかも知れぬが、近ごろはただ片足で飛んで「ケンケンばた〳〵なぜ泣くね」の歌を、うたいあるく遊びだったのである。
それからまた、この鹿遊びの外国から入って来たということを、全然無視していたのも悪かった。必ずそうだとは誰にもいえまいが、そういうこともあり得るとまでは認めなければならぬ。越後高田のある女学校で、明治初年に教育を受けた一女性がこの遊びを記憶していた。ここに来ていた米国人の教師で、格別に子どもの好きな人があって、たくさんのあちらの遊戯を教えて行った。これもその一つであったようにこの婦人はいっている。これは確かな事実であるにしても、今ある九州・四国の鹿々なんぼが、ここから運ばれていって発達したということまではとうてい証明する道はないであろう。しかしこの程度の出来事なら、同時に他の土地にもあったかも知れない。私の受取った報告の中には五十年前にあったというものが三つ、あるいは七十近いお婆さんが、私の生まれる前からあったといった例も同じ越後にあったが、それにしたところで明治以前でない。児童の遊びは他の慣習とちがって、一年のうちには百度もくり返され、真似の上手な手あいが熱心に見つめていたのである。一旦流布するとすれば足取りは早かったはずである。
注意すべきことには、鹿々角何本というように安らかな日常語で問う例は割に少なく、前に掲げた浜松市をはじめ、神奈川・山梨・富山などの諸県には、
という類の、近ごろの新文章口調で問うているものが多い。それが滋賀県にも、香川県にも、またシカシカなんぼの最も盛んな福岡県にもあるのは、あるいはまたこの言葉の珍しく、かつ大人くさいのに興味をひかれたのが、はじめだったかもしれぬ。指の数を当てさせて、はずれたとき、ちがうという代りに正しい数をいい、「三本何本」と畳みかけて問う風は九州にもあるが、大分県の方には最初から、
という妙な問いかたがあって、それを零本のことだと解しているらしい。滋賀県の犬上郡でも、
レイボン、鹿の角何本
鹿の足何本
などという聞きかたがあるという話だが、このレイボンなどが、或いはなんらかの手掛りではあるまいか。私はなお他の地方の変った事実に、これからも気をつけていたいと思っている。
念木・念棒の問題についても、二十何通の通信を私は受取っている。遊びの方式はどこの土地もほぼ一様で、ただ細かな規則に少しずつの差異がある。名称は隣どうしの村々でもちがっていて、しかも不思議に遠い地方との一致が認められる。あまり数が多いので私も全部は列記しなかったが、やはり一ばん多いのはネンで、その中でもネンガラ・ネンガリなどがひろく行なわれている。木とか棒とかクイとかいうものの、今一つ古い言葉がカラではなかったかと私は思う。
ネンガラには元はみな鉤枝がついていたろうというのが、私の新しい意見であって、これにはまだ同意の人が少ないように思われた。しかし自分が鉤のある念棒を用いていたというためでなく、本来は二叉に岐れた木の枝というものが、特別に霊の力があるもののように、我々の祖先には考えられていた。その心持が今も子どもの中に伝わっているごとく感じたからである。二また大根などは近頃の話だが、もとは「またぶり」という股になった杖を、旅の聖などは皆ついていた。西洋で占いの杖というのも皆これで、金鉱・地下水の発見の技術も、また北アジア名物の宝捜しも、もとはすべてこの枝によったのであった。ネンガラの童戯が果して私の想像のように、最初子どもらしい大人の占いの方法に出たものならば、必ず鉤があるわけだと私は思っているのである。
ところが関西のネンガラにはもう一般に鉤がない。ないのが当り前のようにいう人が多いので、少しばかり弱っていると、これも幸いに実例が出てきたのである。九州でも中央の山地にはまだ鉤のあるネンがあるらしい。豊後の玖珠地方のものは久留島武彦氏が図示してくれられた。ただしここのは関東とちがって、小枝の方を長くして把手にしている。それでは力の入れかたが我々とは異なっていたろうと思うが、とにかく呼吸だから、覚え込んだものが伝わっているのである。或いは鉄で打たせたものもあって、これも棒ではなく、よほど曲っているのが面白いと思った。山口県の一部では、キリコまたはネコというのが、鉤のある念木の特別品であった。佐賀県および豊前の一つの報告では、ネン木は通例は直ぐな棒だが、時には枝附きのものを大事にして持っておる子がある。この方が勝負に強く、相手に打たれてもくるっとまわって容易に倒れぬからということであった。
朝日新聞の「こども風土記」の中に鹿・鹿・角・何本の遊戯のことを書いておいたら僅か七、八日の間に、驚くべし百七十余通の手紙葉書が到着し、それがいずれも近年までこの遊びをしていたという、関係者自身からの知らせであった。この方面においては民間伝承の会はまだ無識であり、かつ怠慢であったことが明らかになったから、罪滅しのためにその資料を整理して、同志諸君に報じ、またこの問題を起してくれたアメリカの学者に通信し、同時に各地の書状の主に感謝の意を表したいと思う。一々その氏名を掲げるのが本意だが、あまり数多いのでそれができない。ただ次の二十四市・五十五郡と五つの島、合せて八十四ヵ所以上の土地に、ほんのわずかずつの変化をもってこの鹿遊びが行なわれていたということを、お互いに知ってもらい、かつそれを比較し綜合してみると、こういうことが考えられるというまでの報告をもって、私の答礼に代えたいのである。
まず最初に現に鹿々の遊戯が行なわれ、または近い頃まで行なわれていたことの、確かなところは次の通りである。地名の下の数字は受取った書状の数で、二、三人以外はみな成人だから、是だけの諸君が独立に記憶しており、また思い出してくれられたのである。
福岡県久留米市 5
同 三井郡
同 八女郡
同 三池郡
同 大牟田市 4
同 浮羽郡
同 朝倉郡 3
同 福岡市 4
同 糟屋郡 2
同 鞍手郡 5
同 直方市
同 嘉穂郡 6
同 宗像郡 2
同 遠賀郡 10
同 八幡市 11
同 若松市 3
同 戸畑市
同 門司市
同 企救郡
同 京都郡 6
同 田川郡 4
同 糸島郡
佐賀県三養基郡
長崎県北松浦郡
同 佐世保市
同 壱岐芦辺浦
熊本県菊池郡
同 八代郡
大分県下毛郡
同 中津市 2
同 宇佐郡
同 東国東郡
同 別府市
同 大分郡
同 大分市 5
愛媛県宇和島市 2
同 西宇和郡
同 八幡浜市 2
同 喜多郡 2
同 上浮穴郡
同 伊予郡 2
同 松山市 16
同 温泉郡 7
同 越智郡
同 大三島
同 今治市 6
同 周桑郡
同 新居郡
同 宇摩郡 2
香川県三豊郡
同 伊吹島
同 仲多度郡
山口県宇部市 4
同 吉敷郡
広島県広島市 2
同 倉橋島
同 豊田郡 2
岡山県浅口郡
兵庫県赤穂郡
同 加西郡
大阪府北河内郡
和歌山県日高郡
京都府京都市 2
三重県阿山郡
滋賀県滋賀郡
同 大津市
同 犬上郡
同 彦根市
同 高島郡
愛知県碧海郡
静岡県浜松市
同 沼津市
同 田方郡
山梨県北巨摩郡
神奈川県足柄下郡
同 中郡
同 高座郡
千葉県夷隅郡
群馬県吾妻郡
新潟県高田市
同 南蒲原郡
同 中蒲原郡
同 佐渡相川
富山県下新川郡
この表で明らかなように、だいたいにこの遊びの分布は西の方、ことに九州と四国との北半分に片よっており、福岡、愛媛の二県などは、ほとんと全般といってよいくらいだが、それと繋がらない他の府県にも飛び飛びに弘く行渡っているうえに、方法と言葉の異同が入組んでいるのは、何か一つの古い起りがあって、近年の流行ではないように思わせる。しかしその伝播の実状なり、また子どもの新しい遊戯を迎える態度なり、習癖なりは、今日まだ決して明らかになっているわけでもない。むしろこういう顕著なる実例に基づいて、改めて是から研究せられてよい問題である故に、汎く児童文化の考察者のために、我々はこの記録を残して置きたいのである。
遊びの方法はだいたいに馬乗式で、背なかを敲くというのは至って少ない。荒い挙動である故か男の児が主であって、女もしていたという例は二つだけである。単純な組合せは三人で一人が行司、数を当てられた児が次の馬になることは普通で、ただ問答の文句と節とが、土地ごとに少しずつちがっている。指は上に向けて高く掲げる者が多く、片手は馬を押えていて五本以下の数しか問わない。両手で十までの変化を争うという例も稀にはあるが、こうなると馬の不利益ははなはだしい。そうでなくとも多くの児童が代る代る、どしんと乗りかかるのは相応にやりきれなかったと言っている人がある。或いは握り拳をさし上げてモゲタまたはモゲタリという処も九州に二つ三つあるが、是は多分土地だけの改作であろう。もっと大きな変化は伊予の各地において、幾人かの子どもが前の子の帯を捉えて、連鎖式ともいうべき長い馬になり、それへめいめいが走って行って飛乗るもので、是は胴乗りと呼ぶ村もあって、馬飛びの運動との結合かとも思われる。鹿々何本の文句は口にしながらも、指の数は当てさせずに、落ちたり足が地に附いたりするのを負けとしているものがある。
九州のどこからしい或る一地では、鹿とは言わずにただ馬乗りになって、
と問うている例がある。或いはもとその文句に合せて、背なかを叩いていたなごりではないかと思う。或いは男生徒のこの遊びをするのが羨ましくて、自分たちでも互いに背を打って鹿々なんぼを唱え、指を出して当てさせる戯れをしていたと知らせてくれられた女性が三人ある。問いの言葉に格別の興味をもち、節をつけて唱えているのが一般であるのを見ると、これはこの方を主としていたのが、後おいおいに相手を馬にして飛び乗る挙動の方へ移って来たのではないかとも思う。佐賀県の例では始めからの申し合せもなく、不意に後から乗りかかって指の数を問う戯れもあるという。これなどはいよいよ背なかを叩く方が元の形ではなかったかを考えさせる。
次には指の数を問う文句であるが、これにはことに面白い変化がある。全体に鹿・鹿・角・何本とくぎって、はっきりと言う者が少なく、九州などは、
またはシカナンボというのが普通で、それが鹿だということを今始めて気づいたという人も多かった。鹿の角を明らかに言っているのは、九州では博多と京都郡とただ二ヵ所だけで、その他はシタシタ何本と謂ったり、またはチカチカ何本という者が方々にある。広島市などでは、
とさえ謂っている。紀州の日高郡でもチカチカこれ何本、京都ではまた、
つまり鹿の遊びだということはもう忘れているのである。
愛媛県の方に来ると、鹿の角何本というのがまだ処々に残っているが、一方には色々の言いかえが始まり、それも九州ほどには統一していない。最も簡単な、しかしかなんぼ以外に、たとえば、
しかいちなんぼ(喜多)
しかんちょなんぼん(松山市等)
しかしかなんちょう(温泉)
しかやんなんぼ(越智)
しか〳〵しかの年なんぼ
その他の珍しい変化が現われている。是は運動の間拍子とも考え合せて見るべきものであろうが、とにかく意味もわからぬ語が永く伝わるには、別にそれぞれの理由が隠れて存するものと見てよい。注意すべき点はなお幾つかあるが、九州でも大分郡と別府の町とだけに、
と言ってきく例がある。是は下の児の答えが当らなかった場合に、それを打消して「三本! 何本」と畳みかけて問う言葉ともみられるが、一本も出さずに握り拳で出すことを、零本というのは少し出来過ぎている。ところが遠く離れて滋賀県の犬上郡でも、同じ遊びは背の上から指を立てて、
というのがあって、土地の人は零本と解しているようだが、是などは問いの始めだからことに妙に聞える。何か原因のまだ捉えられぬものが有るのではないか。小さなことのようだが手掛りはこんなところに潜んでいると思う。
それからもう一つ、是は同じ滋賀県の大津などできく問答の言葉に、
鹿のつの〳〵何本あるや
三本あるわ
よう当てた
というのがある。「あるや」は児童の平語でないだけに、自然には生まれなかったもののように思われる。大津から京都へ越える山中の村でも、
九州方面でも朝倉郡に、
福岡市では、
豊前の京都郡には、
鹿の角々何本なりや
三本なァり
などという問答があるというが、是が飛び飛びに広い地域に及んでいる。少し煩わしいけれども列挙してみると、たとえば香川県の三豊郡では、
同じく多度津では、
東海道の方に来ても浜松市は、
相模の海岸では、
と問い、甲州の北巨摩郡では、
富山県の入善地方においても、
と謂っている。こうした一致に至っては偶然ではありえない。或いは最初外国にあったものを直訳に移したかという想像も成り立つのである。
外部に独立した証拠のないかぎり、そう断定してしまうことはもちろんできない。我々の一つの仕事は明治以前の文献の中に、これを記したものが全く無いということを確かめることであるが、それは容易ではないだけでなく、記録に無いということは実はまだ当てにはならない。平凡なる日常の生活は、筆に表わされずに幾らでも伝わっているので、他の多くの児童遊戯とても、必ずしも何かに出ているとはきまらぬからである。しかしこの場合に考えて見るべきことは、我々の慣行には年に一度または人一代にただの一ぺんというような、くり返しの間遠なものが多いのに比べて、子どもの遊びは毎日の事件であり、これに参加する者は無数であるうえに、模倣と発明との境目も立たぬほど、印象に忠実な人たちであった。機会さえあれば学び移し、遠くへ運んで行く足取りは速かだったろうと思う。ただこういう海川山坂をもって区画せられている国土において、いかにしてその機会が得られたろうかが、今はまだ具体的に答えられぬだけである。鹿々の遊戯などは、幸いにして互いによく似ていて、とうてい中心なしに別々に始まったものとは思えない。だから各地の実例を引合せて、やがてその運搬の路筋がわかってくるかも知れぬのである。
次にはこの遊びが古くからあったらしいということ、これも滋賀県と九州の一角とは、飛離れて二つだけあると思っていた間は、私などもそう推定せずにはおられなかったのだが、こうして中間の飛石がほぼ繋がっている以上は、確かとは言えないまでもまた別な考えも成り立ちうるのである。同じ一つの土地からの報告を比べてみても、四十歳の人は三十年ほど以前、三十歳の人は二十年ばかり前の、記憶に拠っているのが多く、もうこの節はやっておらぬようだというのも事実である場合もあろうが、一方には近頃まで、または小学生などが今でもしていると、知らせて来た者も有るのである。それと同様に古い時代からというのにも限度がある。二、三の老人の手紙によると、五十年前にもあったということは事実らしい。越後からは七十のお婆さんが私の生まれる前からだと言ったという話も伝わっているが、それにしたところで、明治より古くはない。その以前は今はまだ明らかになっておらぬのである。同じ越後からはまた次のような報告もあった。明治の初年、高田の女学校で教育を受けた老女が、この遊戯を知っている。この学校には米国の宣教師に特に子どもが好きで、本国の色々の遊戯を教えて遊ばせていた人がある。この人去ってのち一つずつ無くなってしまったというが、鹿々もその一つのように思うとのことである。ただし文句の翻訳口調になっているのは、越中の下新川のが最も近いだけで、越後では、
または、
佐渡の相川では、
というのが行なわれている。従って直訳くさいから米国からの輸入だとも言えないとともに、高田がただ一つの出発点だとも無論認められない。ただ近世外国人から学び取ったということが、まるっきり有りうべからざる空想であるように私の考えていたのは行き過ぎだっただけである。
ただし女の子の学校において、米国宣教師が教えた遊びにしては、飛び乗りは少しばかり荒々しいように思われるが、是は唱えごとの文句も同様にだんだんと変って来たものとも見られぬことはない。現在この遊戯の最も盛んな西南の二県などは、むしろ新しい流行地であるがために、今のようなちがった形になっているのかも知れない。もっと他の地方の遊びかたを、詳しく尋ねてみなければならぬが、遠州浜松などでは家の中で、女の子も加わってする遊びであった。単にうつ伏しになっている背の上で指を立てて数を問うだけで、馬乗り・胴乗りというようなことまではしていなかった土地がまだ有るのかも知れない。前に言い落したが福岡県の田川郡でも、女の子は御手玉を隠して数を当てさせるのに、やはり鹿々何本を唱えていた。またあいにくと地名を挙げてないが、是も北九州のいずれかの郡で、銀杏・榧の実などの数をあてる女の子の遊びにこの語を用い、なかには「中の中の小坊主」と同じく、手を繋いで輪になって中央に踞った児に、鹿々何本と謂ってその樹実の数をあてさせたという例さえある。是を男の子の遊びの真似のように思っている婦人もあるらしいが、それにしては双方の動作があまりにちがい過ぎる。察するにあの活溌な飛乗りの運動に合体したのが後の進化であって、最初はまず唱えごとの耳新しさが、小さな人たちの興味を誘うたので、それがまた奇抜な文章言葉の、遠くまで伝わって行った理由でもあろう。これを外国輸入の証拠と認めるのはまだ早いとしても、少なくともこの言葉のできた時代が、明治以後だということは疑われない。そうして子ども遊びの興味の中心が動きやすく、一旦その中心をはずれると存外容易に、そこだけは改まって行くということと、女の子は比較的古い形を守るものだということとが、是だけの材料からでも言いうるかと思う。
底本:「こども風土記・母の手毬歌」岩波文庫、岩波書店
1976(昭和51)年12月16日第1刷発行
2009(平成21)年7月9日第12刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第二十一巻」筑摩書房
1962(昭和37)年12月25日刊
初出:「朝日新聞」
1941(昭和16)年4月1日~5月16日
鹿遊びの分布「民間伝承六巻九号」
1941(昭和16)年6月号
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2012年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。