二十三夜
萩原朔太郎
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『エ、おい、べら棒な。恁う見えても急所だぜ。問屋の菎蒻ぢやあるめいし、無價で蹈まれて間に合ふけえ』。
大泥醉の粹背肌、弓手を拳で懷中に蓄へ、右手を延ばして輪を畫くと、手頸をぐいと上げて少し反身のかたち。
向合て立つたのは細目の痩形、鼻下に薄い八字を蓄へて金縁の眼鏡が光る、華奢のステツキに地を突いて、インバネスの袖を氣にしながら對手が惡いと見て、怯氣た體、折折無氣味相に、眼を轉じて前後を竊視する。
蓋し『力は無かりけり』の標本男。
『エ、おい何とか言はねえか、物を言はねえかよ、唐變朴』
『………………』
『蹈んだら、蹈んだと言ひねえな、確かに私が、蹈みましたと詫びりや、すむ事ツた。おい。』
『だから謝罪たと云ツてるぢやないか、先刻から。』
『だから謝罪た、へん其樣な横柄な言草があるけえ、蹈みましたから、御免下さいましと云ふもんだ。何でえ、失敬しただあ。己あ其樣に唐人言葉は知らねえ日本人なら日本の言葉で言へ、恁う最う少し胸の透く樣な文句を利いた者だぜ』
痛罵しえて意氣昂然たり。颯然と二の腕を捲ると、生白い肌が現出れて酒氣を帶びた頬が薄赤い。
此の日偶然○○不動の縁日。
涼を取るべく連立た人。白い浴衣。黒い帶。萌黄の帷子。水色の透綾。境内は雜然としてかんてらの燈火が四邊一面の光景を花やかに、闇の地に浮模樣を染め出した。
香水、麝香、油煙、マニラの臭氣相混じて一種縁日臭を作り、靄々然として、人自らそが上を蹈み、そが中を歩めり。
『喧嘩だ、喧嘩だ、』
背中を突かれて驚く男、袂をくぐられて間誤付く女、跳ね飛ばされて泣くは子供、足下を攫はれて轉ぶが年寄、呆氣に取られた人人の間を縫て、矢の樣に走つて行く一人の男。
『ほれ喧嘩だ』
と、云ふとドツと一時に動搖めいて一崩れ、ばたばたと男の後を追うて、津浪が押し寄せた樣、逸早く合點した連中は、聲を擧げて突貫した。されば菓子屋、植木屋、吹屋、射的場の前には、今一客を止めず。吹屋の姐さんは吃驚した半身を店から出せば、筆屋の老翁は二三歩往來へ進み出て、共に引き行く人浪の趾を見送る事、少時焉たり。
譬へば或る時、大目玉を引ン剥いて、毛剃が白眼𢌞した百萬の唐船も斯くやと許り。十重に二十重に引ツ絡んで喧嘩の火の手を焚き付け樣と云ふ、江戸ツ子のいらぬ意氣地。
『足を蹈んだのは僕が惡かつた、惡かつたから謝罪る、ねえ君、これは僅かだけれど膏藥代に、な、納めて呉れ玉へ、さあ』
對手の心事、酒代にありと見て取つた若紳士は、事の組し易きを喜んで、手早く握つた銀貨、二枚、三枚、光る物手をすべつて男の掌に移るよと見る間に「呵」と叫んで紳士は身を轉換した。途端、目標を外れた銀貨はチチンと小石に衝突つて、跳返つて、囘轉つてベタリ。
『間拔奴、見損やがつたか、汝、記憶えとけ、深川の芳兄いてで鳴らしたもんだい、手前達の樣な、女たらしに、一文たりとも貰ふ覺えはないぞ、ヘツ、どうだい、その面は、いやにキヨロツキやがつて、憚乍ら口惜しけりや腕ツコキで來い、白痴ツ』
『女たらし』の一言に力を罩めて憤怒の焔燃ゆるが如し、果然彼には一物あり。相手は何處迄も御人好の御坊ちやまの、泣き出し相に、なさけない顏でおろおろして居るまだるつこさ、芳公の啖呵も折角、響が來ないので、聊か之も張合なさの悄氣た體。
此の處、年の頃十八九と見える色白の、艶然とした中形單衣、夜目にも透いて見える襟脚の確乎白きに、烏羽玉色の黒髮を潰し島田に結んだ初初しさ、濃紫の帶を太鼓に結んだ端が二寸許り、たれてその先が地に着かんとして觸れ合つて居る。
紳士の影に潛んで顏も上げず、蹲踞つて、風呂敷の包物を膝にかかへた儘、胸悸して居るのが不圖目を見張つて、壯侠の顏を偸視る、途端、その亦鋭い視線と出合つて、俯向と急に顏色を變へた。
『斯う成つちやあ一番腕ツコキだ、さあ野郎、文句は言はずと、出ろ』
男は片脚はづして下駄を脱いだ。
『イヨー、大哥』
『えらいぞ』
『音羽屋ア』
『やつちえねえ、骨はおれが拾つてやる』
彌次馬の騷ぐこと、夕立の如し。
『では、どうすれば好いんだ、ど、どうすれば……腕力なんて、野蠻な……僕は』
紳士は對手の權幕に、震へ聲を出して、殆ど、全く、實際、困つた樣子。此では到底喧嘩に成らない品物。と知つてか、芳は苛つて圖に乘り、無理にも賣らずんば止まざる底の心掛。
『いやにじれつたいな、何うにも、恁うにも、恐かないなら、手を地べたに着いて謝罪んねえ、そこへ坐つて、チエツ、意氣地のない青二才だ』
「カツ」と痰を吐いたのが、胸の處へベツタリ絡みつく。
『なにをする』
流石の男も、少し正氣になつて、激した口調で
『失敬な、貴樣は』
『何だと』
芳は體を突き出した、苦み走つた、黒い眉毛がヒリリと動く。
『やつちまへ』
『疊ん仕舞へ』
彌次馬の聲援、畢竟は我が味方と、芳は勇み立つて、無手と對手の襟髮を掴むや、馬手の下駄は宙を飛んで、その頬桁を見舞はんとす。
『あれ、芳ちやん』
此の時女は耐り兼ねて、紳士の背後から躍り出た。
『芳ちやん、お待ちツてば、アレ、そんな手荒なことを』
纖弱い腕を延べて、男の右手に搦み付く。
『何をする、賣女』
芳の眼色は、急に變つて體躯が震動へた。
『う……うぬ、穢れだ』
滿身の怒氣を込めて、身を踠くと、無殘、女は胸を一つ突かれて、仰向にばつたり倒れる。
隙を窺つて紳士は二足、三足、たぢろぐよと見る間に身を返して一目散、人垣の間を別けて行衞も知れず。
芳は狂氣の如くなつて、追ひ掛けんとした。人垣は急に崩れて、大風に偃す野草の如く、芳の通路を拓けども、何分多人數であるから、幾重にも犇犇と垣あり。
『邪魔するな、ヤイ』
前に立つた男を突き飛ばして、なお吼けり行かんとする先に、亦もや手を拓げた一人。
『なぐれ』
『たため』
『しめろ』
雜然たる叫聲の中、殺氣は既に滿ち渡つて、氣早の若者は行成横合から飛び出して、思ひ切り芳の天窓を擲つた、續いて何處よりともなく、拳の雨は彼の頭上に降り注いだのである。意外。味方と思つた彌次連は、先刻から傍若無人の暴言を小面憎く思つて居た、敵であつたのだ。
不意を打たれて芳は危く昏倒せんとして、僅に身を支へた、其處を、勝に乘じた群衆はなほ、執念強く、取り包んで、凡そ息のある限り、滅多無性に打ちすゑんとする、刹那の急。
折から翩乎と、何物か芳の體躯に抱き付いた。
此の混雜の中、ほとんど夫れが、天から降つたかの如く、人人の眼には見えたであらう。ひらひらと紅の裙が燃える、女だ、若いぞ。
足袋裸足で痛痛しい、胸が開張けて、雪の肌が白百合の匂ひ、島田の根が外れて忙しい呼吸である。
『芳……芳ちやん』群集を振り返た時にはおろおろ聲で眼が血走つて居る。やがて凜とした甲聲
『殺せ、殺せ、妾を殺して……こ……この人に罪は無い、みんな妾が惡いのだから』
婀娜かしい襦袢の袖が縺れて、男の肩に纏綿る。背後から靠掛る樣に抱きついて密接顏を押し附けると、切なげに身を悶えて
『堪忍してよ、芳ちやん………』
『………』
男は何か言はうとして、僅に手先を動かしたが『阿呍』と一唸呻、言下に反繰返つて仰樣に僵れた。
『あれ』
屍を守る見樣で、棒の如く突立つた女は、軈て俄然と身を投て、伏重なつたと思ふと、熟と僵れて身動も仕無い。
此の夜、風多くして、廿三夜の月が紺屋の虎落を登つた。
底本:「萩原朔太郎全集 第三卷」筑摩書房
1977(昭和52)年5月30日初版1刷発行
1986(昭和61)年12月10日補訂版1刷発行
※『エ、おい何とか言はねえか、物を言はねえかよ、唐變朴』は底本では折り返した行は天付きになっています。
入力:kompass
校正:小林繁雄
2011年6月5日作成
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