日本大地震
斎藤茂吉
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西暦一九二三年九月三日。うすら寒く、朝から細かい雨が降つた。日の暮に Spatenbräu 食堂の隅の方に行つてひとり寂しく夕餐をした。七月十九日にミユンヘンに著いて以来、教室では殆ど休なく為事を励んだのであつたが、いまだに自ら住むべき部屋が極まらない、極まりかけては南京虫に襲はれ襲はれしていまだに極まらずにゐる。それも教室の方の為事を休んで部屋を捜すのではないのは、つまり教室の方は縦ひ一日の光陰をも惜しむがためであつた。けふも新聞の広告で見当を附けておいた数軒の部屋を見まはり、今夜は Klenze Str. 三十番地の部屋に寝泊りして虫の襲撃を試すつもりである。
いつもなら二人の同胞がゐて食事を共にするのであるが、けふは都合があつたと見えて誰も来ない。まるい堅さうな顔をした娘が半立突の麦酒を運んで来て、しきりに愛想を云ふ。『ドクトルまだ恋をしたこと無い?』などといふことをいふ。『まだ無いね』などといふ。『けれど、シナでは十三四でもう結婚すると云ふぢやない?』『それは百姓どものことだ、僕のやうな学者は矢張り結婚はなかなかしないものだ』『さういふものなの?』『どうだ、恋をして日本へ行くか、Fujiyama の国へ連れていかうか』『え、行きたいわ』などといふ会話をしたりする。さうすると幾らか気の晴れるのを覚えるのであつた。
そこに夕刊の新聞売が来たので三通りばかりの新聞を買ひ、もう半立突の麦酒を取寄せて新聞を読むに、伊太利と希臘とが緊張した状態にあることを報じたその次に、〝Die Erdbebenkatastrophe in Japan〟と題して日本震災のことを報じてゐる。
新聞の報告は皆殆ど同一であつた。上海電報に拠ると、地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなつた。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
私は暫く息を屏めて是等の文句を読んだが、どうも現実の出来事のやうな気がしない。併し私は急いで其処を出で、新しく間借しようとする家へ行つた。部屋は綺麗に調へてあつたので私は牀上に新聞紙と座布団とを敷き尻をぺたりとおろした。それから二たび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はやうやく家族の身上に移つて行つた。不安と驚愕とが次第に私の心を領するやうになつて来る。私は眠薬を服してベットの上に身を横へた。
暁になり南京虫に襲はれこの部屋も不幸にして私の居間と極めることが出来なかつた。九月四日の朝、朝食もせず其処を出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会つた。N君も日本の事が心配で溜まらぬのでやはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであつた。N君の持つてゐるけふの朝刊新聞の記事を読むと、きのふの夕刊よりも稍委しく出てゐる。コレア丸からの無線電報に拠るに、東京は既に戒厳令が敷かれて戦時状態に入つた。横浜の住民二十万は住む家なく食ふ食がない。ロイテル電報は報じて云。東京は猛火に包まれ殆ど灰燼に帰してしまつた。紐育電報が報じて云。大統領 Coolidge は日本の Mikado へ見舞の電報を打つた。それから能ふかぎり日本の震災を救助する目的で直ちに旅順港にゐる米国分艦隊をして日本へ発航せしめた。また、上海投錨中の英国甲鉄艦 Despatech 号も既に日本へ向つて出帆した。なほ、日本の地震はミユンヘンの地震計に感応し、朝の四時十一分頃から始まり五時少し前に最も強く感応した。云々。
二人は近くの珈琲店で簡単に朝食を済まし、日本媼のところに止宿してゐる二人の同胞と故郷のことを話合つた。私も部屋のことで斯う愚図愚図してゐてはならぬと思ひ、けふも数軒部屋を見、遠くて不便であるが一間借りるやうに決心した。私はけふはもう教室に行く勇気はなかつた。夕刊を読むと日本震災の惨害はますますひどい。私等は何事も手に附かず、夕食後三人して麦酒を飲みに行つた。酒の勢を借りてせめて不安の念を軽くしようとしたのであつた。
九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙してゐても何事も手に附かない。九月六日。思切つて、Thorwalsen Str. 六番地に引越してしまつた。ここには南京虫は居なかつた。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであつて見れば、私自身今後どう身を所決せねばならんか今のところ全く不明である。そこでせめて南京虫のゐない処に落付かうと決心したのであつた。
けふは、もう日本震災のための死者は五十万と註してあつた。大小の消火山は二たび活動を始め、東京・横浜・深川・千住・横須賀・浅草・神田・本郷・下谷・熱海・御殿場・箱根は全く滅亡してしまつた。政府は一部京都一部大阪に移つた。東京は今なほ火焔の海の中にある。首相も死に、大臣の数人も死んだ。ただ宮城の損害が比較的尠く避難民のために既に宮城を開放した。仏蘭西大使館、伊太利大使館は全く破壊した。帝室博物館、二大劇場、帝国大学、日本銀行、停車場等も廃滅に帰し、電報電信の途は全く杜絶してしまつた。云々。
次の日も、次の日も、教室に行く気にはなれない。部屋に籠つて自分の所持品などを整理しようとしても直ぐ疲れた。併し飯くひに街頭に出ると、食店にゐる客などが態々私のゐる卓のところまで来て震災の見舞を云つた。ある時には、途中で行過がつた背嚢を負うた一人の老翁がまた戻つて来て、私を呼止めて見舞の言葉を云つて呉れたりした。日本からの直接通信が始めて英京倫敦に届いたといふのが新聞に出たが、それを読むと前に読んだ間接通信の記事内容よりももつと深刻であつた。また民衆と軍隊との衝突があり、朝鮮人と軍隊との市街戦が報じられてあり、新首相山本権兵衛子爵に対する暗殺企図、数名の大臣の死亡なども報じられてあり、五十万の人間と、五億ポンドの財産とが消失されたことを註してあつた。
さういふミユンヘン新聞の手がかり以外に、伯林の友人からも何処からも何等事件の真相を知るべき手がかりが全く杜絶してしまつてゐる。夜はよく眠れず、暁がたになつてとろとろとしたかと思ふとしきりに夢なぞを視た。夢では、妻のやうな恰好をし、妻か誰か分からぬ一人の女と、一人の童子とが畳のうへに坐つてゐる。それが向うを向いて居り、幾ら呼んでも依然として向うを向いてゐる。それで夢が醒めてしまつたりする。ある夜、麦酒に酔つて帰つて来て寝た。さうするともうもうと火焔の靡いて居る光景を夢に視たりした。私は或時には、東京の家族も友人も皆駄目だと観念したこともある。
或日、朝からN君を訪ねて、二人して当もなく街上を歩いた。とある広場の古物商に能の面が二つばかり並べてある。この古物商には不思議にも日本物が並べてあるので、鎧があり、扇子があり、漆器があり、花瓶があり、根付があり、能衣裳などもある。これは戦後に土地の人が売払つたものに相違ない。N君はどう思つたか、歯を黒く染めた女の能面を一つ買つた。二人は街を歩いて行つて Isar 川の橋を渡り、川原に下りて行つた。N君の家は東京の郊外にあるから、これはどうにか損害を蒙らずにゐるらしい。併し親戚知己は幾人も東京の殷昌区域内に住んでゐる。それらの人々は到底駄目だらうといふことを話しあふ。二人は土手を上つて行つて黒麦酒を飲んだ。酔つて幾らか鬱を散じてまた二人は川原の方に下りて行つた。川原には川柳の一めんに生えてゐるところがある。そこに五六の頑童の遊んでゐるけはひがしてゐたが、突如として、Chinese! と叫んで柳のかげに隠れる。また、Chinese! と叫ぶ。『ヒネーゼ!』と叫ぶのは軽蔑して調戯ふつもりなのである。
N君はその能面をかぶり、川原で踊つた。能舞の様式を知つてゐるではなし、さればとて、Platzl で見るやうな、バヴアリア民間舞踊の恰好でもないが、日本震災のための不安動揺の心理は、N君にそんなことをさせたのであつた。さうして逃げていつた童子等も其処に戻つて来て、笑ひころげてそれを見てゐる。そんなことなどもあつた。そして一日一日が暮れて行つた。通信は全く絶え、たまたま配達された故郷からの書信を読むと、極く平安事なきもので、何の役にも立たぬものである。私等は或日には日本飯を焚いて食つた。それに生卵をかけ、大根などを買つて来てむさぼり食つたりしたのである。
日本の知人の顔などが時に眼前に浮んでくるが、その人々の中にはもう死んでゐるものもあるだらうといふ一種悲痛の心持が附帯してゐる。さういふ写象のうちには今どき小学校に通つてゐた筈の長男の顔なども浮んでくる。それから私みづからの近き未来の運命のことなどが意識の上にのぼつてくる。しまひにはさういふ意識のなかに自ら涵つてしまつたせいであらうか、日本軍艦数隻が沈没し、伊豆の大島が滅して半島の近くに新しい島が出来、神聖江の島が全く無くなつてしまつたといふ、さういふことなどは余り気にせぬやうになつた。
九月十日ごろN君のところに故郷の家族無事といふ電報が届いた。電文は『ヂシンヒドイブジ』としてあつた。なか二三日おいて十三日の夕がた私のところに、伯林のM君から電報が届いた。電報は、Folgendes Telegramm aus Japan erhalten 〝Your family friends safe〟 = Mayeda としてある。
家族も友人も無事といふ英文電報の方は、神戸から中村憲吉君がやうやうの事で打つてくれたのが、伯林大使館に届き、毎日毎日情報を聞きに押懸けてゐた私の友の一人が沢山の電報の中から其を見付けてM君に知らせたから、M君は独逸文を少し附加して至急報で打つて呉れたのであつた。私は一人で麦酒を飲みに行き、労働者等のわめきどよめく音声の側に、歯の鈍痛のやうやく薄らいだやうな気持で数時間ゐて帰つて来た。
翌日朝食の後、買物をした。教室で使ふ色素、靴墨、ナフタリン、石鹸、揮発油、靴下、針と糸などを買ひ、途中でトランク一つの代価を訊ねると娘店員が来て、zwei milliarden dreimal hundert millionen Mark と云つた。これは二十三億麻克のことである。
次の日教室に行き教授に会つて大体日本地震の有様を報告し電報のことをも話した。教授も助手も研究生も標本係の女も非常に喜んで呉れた。その日教授は私を自分の部屋に呼び、『もう率直にいひますが、それでは研究費として毎月英国貨四磅づつ払つて下さい』と云つた。
それから私は教室の為事をどうしても急がねばならぬと決心して、連日教室に通つた。九月の末といふに街路樹の葉が黄色になつて落ち、日本晩秋のやうな気持の時もあつた。独逸の状態がだんだん悪くなり、為替相場も急転して下つた。九月廿七日には十四ばかり行はれる筈の国民党の集会が禁ぜられ、集会所や大きな麦酒店をば軍隊と警官とで厳しく固めたこともあつた。Hofbräu のやうなあんな盛な麦酒店でもその三階は十月半ばには既に閉鎖したほどであつた。
十月十四日にはじめて大阪毎日新聞九月三日の号外を手に入れ皆頭を集めて読んだ、『東京全市焦土と化す』といふ大きな見出しがあり、碓氷峠から東京の空が赤く焦げてゐるのが見えるとも書いてある。これは想像よりもまだまだ悲惨である。十五日には大阪のO君から大阪朝日新聞の週報を受取り、廿一日には参謀本部附のK少佐から大阪朝日新聞を借りて読んだ。深川の陸軍糧秣廠の広場で何十万の人の死んだ所や、両国の橋の墜ちた所などを読んだ。どうも息がつまるやうである。三面の方には、佐渡まで帰らうとしてやうやく長野市の停車場まで落延びて来たひとりの女を見るに、自分の髪の毛が全く焼け焦げ背には焼死んだ子を一人負つてゐるといふ記事などもあつた。
そのうち東京の家から手紙があつて、しきりに帰国を要求して来てゐた。ミユンヘンも追々寒くなり町には毎日霧がかかるやうになつた。Hitler 事件といふのもその間にあつた。独逸の絵入新聞にも、死骸が山のやうに積まれてある日本震災の惨状が載るやうになり、或時には吉原で焼死んだ遊女の死骸を三列ばかりにして並べて、そこに警官がひとり立つてゐる写真を載せ、これは本国の日本で既に発表禁止になつたものだと註したことなどもある。さうして日一日と暮らしてゐる間に私は決断して当分ミユンヘンに止まらうと思ひ、東京の親しい友に金を借ることを頼んだりした。
十二月十三日になつて、「大正大震災大火災」といふ雑誌を借り、真に身ぶるひするやうな大地震の有様を読んだ。その中に幸田露伴翁の談話があつたが、私はその中の一二節をば手帳に書取つた。
○そこで一言を人々に贈らうと思ふ。おもへば言葉は甲斐無いものである。千百の言葉は一団の飯にも及ばず、娓々の言は滴々の水にも如かぬ場合である。けれども今の自分の此の言葉は言葉とのみではない。直ちに是自分の心である。○そこで仮令美酒蘭燈の間にゐて歌舞歓楽に一時の自分を慰めてゐても、何処かにこれを是認せぬものがある。つまり心が一つでなくて、二つになつてゐる。人といふものは二気あれば即ち病む、といふ古い支那の諺にある通り中
略宜しく胆を張り気を壮んにし、飲食を適宜にし、運動を怠らずして、無所畏心に安住すべきである。○宗教上の信仰を有する人は、かかる時こそ宗教の加護を受くべきである。観音の額には無所畏の三字が示してあるではないか。不動尊は不動経に、我は衆生心中に住すと説いてあるではないか。中
略神仏に人ををののかすものはない。皆各其大威力大慈力によりて人々に無所畏を得しむるものである。まして無神無仏の徒は既に神を無みし仏を無みするだけの偉いものであるから、夢にも恐怖心などに囚はれてはならぬ。云々。
私は実に久しぶりで翁の言に接したのである。そして独逸語で頭を痛めてゐるときに、是等の言葉はすらすらと私の心に這入つて来た、のみならず翁の持つ一つの語気が少年以来の私に或る親しみを持たせるのであつた。カアル・マルクスの『宗教は国民の阿片である』(Religion ist das Opium des Volks.)といふ西暦一八四四年の言葉が、西暦一九一七年の露国革命の際に、彼のグレコが聖母の像と相対した壁面上に書かれたといふ。これは莫斯科の出来事で、レニンなどが主になつてああいふことをやつた。レニンは、〝Die Religion ist Opium für das Volk.〟と書いて、さて、宗教といふものは下等なフーゼル酒のやうなものだ。資本の奴隷どもは、漸く真人間の仲間入をしようとする権利を得ながら、半途にしてこの宗教といふ下等な火酒の中に溺没してしまふのである。とさへ罵つてゐる。近ごろ読んだああいふレニンの言葉に較べると、『無神無仏の徒は既に神を無みし仏を無みするだけの』云々といふ幸田露伴翁の言葉には、少しもそこに反語がないところに露伴の面目がある。レニンのものの如くに、〝streitbar〟とか〝revolutionär〟とか謂ふ臭気がまつはつてゐない。そんな事を私は一人ゐながら思つた。レニンの病気もその後悪いさうだが、追つかけ死ぬだらう。臨終の近くに誰かがどういふ言葉かを掛けるだらう。それが所詮、希臘加特利教の儀式の代弁ならつまらぬなどとも私は思つた。
十二月十四日に宿の上さんに転宿のことを話し、翌十五日に日本媼のところに引越して来た。その晩に将棋を差したが、駒も盤も大戦前の留学生が置いて行つたものである。戦時中、老媼の一家がいまのところに引越して来たにも拘はらず将棋の如き、かういふ品物をも無くさずに持つてゐたのであつた。
大正三年に大戦が勃発し、留学生どもは逃げたのであるが、大正十一年の一月に私が伯林に著いてミユンヘンの事情をさぐると当時ミユンヘンは唯ひとりの日本人が特別の許可を得て研究してゐるに過ぎず、ここへの入国は厳重で出来なかつたのである。その七八年の間将棋の駒を無くさずにゐたのは私にはおもしろい。私はここに寄寓しておのづと大地震に対する驚愕の念を静めて行かうと思つたのであつた。
底本:「斎藤茂吉選集 第九巻 随筆」岩波書店
1981(昭和56)年2月27日 第1刷発行
初出:「改造」
1929(昭和4)年10月
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2012年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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