日本媼
斎藤茂吉



 おうなの名は、Marieマリー Hillenbrandヒルレンブラント といふ。媼がまだ若くて体に弾力のあつた頃から、その母親と共に多勢の日本留学生の世話をした。当時の日本留学生はおほむね三年ぐらゐ居たのであり、一つの都市に居ついて其処そこで勉強するのを常としたから、都市の人々と留学生との間に、おのづと心の交渉が成立ち、それが今時とくらべて余程親密なものであつたと見える。そこで、この媼は娘のときから入りかはり立ちかはり日本留学生の世話をして老媼らうあうに及んだのである。『日本にほんばあさん』といふのは、これに本づいた名であつた。

 私は西暦一九二三年の七月から丸一年ミユンヘンに居るうちいろいろ媼から世話になつた。そして後半の七ヶ月あまりを媼の家に起居し、ミユンヘンを去る時も媼の家から立つた。いま追憶してなつかしく思ふのもその為めである。

 媼は私の世話になつたころは、既に六十に手が届くぐらゐのよはひに達してゐた。昔世話した日本留学生の写真を沢山持つてゐて、居間に飾つてあつたり、アルバムのなかに插んであつたりして、楽しさうにそれを私等に示した。なかには媼がだ娘々した顔でうつつてゐる写真などもあつた。

 媼が生んだただ一人の男の子に Wilhelmウイルヘルム Hillenbrandヒルレンブラント といふのが居た。これは日本の留学生の生ませた混血児であるが、すでに三十に近い敏捷びんせふな若者である。皆が Williウイリー と呼んでゐた。

Williウイリー の奴をてゐると実におもしろいね。すばしこくて、短気で、ずるいところがあるかと思へば、気前きまへが馬鹿に好かつたりして、やつぱし半日本人はんにほんじんといふ処があるね』

『それはさうだらう、実は婆さんにも一寸ちよつとそんなとこがありあしないか』

『さういへばそんな点もあるやうだね。何せ日本人が好きで世話をしながら、子を生んだのだから、何かの黙契があつたんだらう』

『黙契か、婆さんの顔でもひよつとしたら、蒙古種でも交つてゐるのかも知れんぜ。蒙古の奴らが昔このへんまで荒らしたといふぢやないか』

 こんな話が或時、私等一二人の間に取交されたこともある。

 Williウイリー は、私を警察に連れて行つて届を出して呉れたり、新聞社に行つて部屋借りの広告を出して呉れたりした。ある日、部屋を見に連れて行つたかへりに、

『ミユンヘン人は何でも真直まつすぐに物云ひますから、先生も喧嘩けんくわなすつちやいけませんよ』などと云つたことがある。〝direkt〟と云はずに〝gerade〟などと云つたのが珍らしいやうな気がして、帳面に書きとどめたことがある。

 その Williウイリー許嫁いひなづけの娘が一人ゐて、やはり媼の家に同居して居つた。若者も小柄であるが、娘も小柄で丸い可哀らしい顔をしてゐた。しかるに、娘と媼の間がどうもうまく行かぬらしい。目立つて争ふやうな場面は私どもに示さなかつたけれども、媼はここに投宿してゐる私の友に泣いて訴へることなどもあつた。

 さうしてゐるうちに、若者は娘を連れて、Stuttgartシユツツトガルト の運送店に勤めることになつた。そこはミユンヘンから急行汽車で半日もかかる商業都市である。時々、媼は著類きるいだの食物などを小包にして若者のところへ送り送りした。

 私は媼のところに世話になるやうになつてから、朝食を毎朝媼のところでした。黒麺麭パンを厚く切りそれに牛酪バタとジヤムとを塗つて、半々はんはんぐらゐの珈琲コーヒーを一わん飲ませた。その狭い台所兼食堂の卓の近くに、カナリヤが一羽飼つてある。媼は毎朝かごの手入をしたのち、人間にものいふやうな口調で、手指てのゆびを立てて見たり、顔をゆがめて見たり、目をむいて見たりしてゐるのが、いかにもをかしくあり、物あはれでもある。

 カナリヤは南独逸ドイツなまりまじりの媼の言葉にいつも敏捷びんせふに反応した。この小鳥は既に満十五歳の齢で、片足が利かなくなつてゐた。また、活溌にさへづるやうなことももうなかつた。『もうわたし同様おばあさんでございますよ。ごらんなさい、片方の足は僂麻質斯レウマチスであんなでございますよ』こんなことを媼は云ひ云ひした。今ここに止宿して居るMドクトルが大戦勃発ぼつぱつ少し前にここの家に止宿してゐて、その時ゐたカナリヤであるから、十五歳ぐらゐになるはずだとMドクトルは云つた。ただ媼の家が、戦前ゐた Bavariaringバワリアリンク から此処の Landwehrラントウエール 街に越して来たのであつた。

 媼は日本の留学生に日本飯にほんめしかしいで呉れた。それから牛肉の鋤焼すきやきなどもして呉れた。併し日本飯をくとつても先づ米に幾通りかあつて、それを鑑別しないとうまい飯にはならない。媼は、留学生から学んだ経験でその鑑別の法を知つてゐた。それから、瓦斯火ガスびなべで焚くのであるが、決してままめしにするやうなことはなかつた。焚き方は、湯気ゆげを強く吹かせて火を消さうとするときに火を消してしまはない、そして火を細めてから三十分間放置しておくと、鍋の底は少しくきつねこげに焦げて飯は誠に工合よく出来あがるのであつた。私は維也納ウインナ留学中は寸暇を惜しんだので、自ら日本飯を焚くやうなことがなかつたが、ミユンヘンに来てはじめて媼からこの秘法を授かつたのである。

 媼は信心ぶかいといふ方ではないであらう。けれどもあかつきに寺の鐘が鳴ると何かつつましい顔をするときもあつた。若者と娘が居なくなつてからは、土曜から日曜にかけて洗濯をするので寺まゐりの暇が無いといふやうなこともいつた。

 四階目にある此処の家のはばかりには、ミユンヘンの新聞紙とともに日本の新聞紙を四角に切つてげてあることがあつた。用を足しながら見るともなしに見ると、懐郷の心をそそるやうな文句に逢著ほうちやくしたりする。時には宮さまの御登山の写真などが一しよになつて交じつてあつたりする。さういふ時には勿体もつたいないと思つてそこだけ取はづすことなどもあつた。

 ある朝、食を済ましてゐると媼は小ごゑにうたを教へて呉れた。『けふはヨハナ。あすはスサナ。恋が年ぢゆう新しい。これが正銘しやうみやうじつある学生さん』といふので、媼のこゑはさびてゐる。時代の変遷してしまつた、今から三十年も前の学生の間に行はれた歌謡を計らずも目前に歌ふのであつた。

 媼の他所行よそゆきの衣裳はすその長い旧式な黒衣であつた。その衣裳をて媼は私等と芝居見に行き、夕餐ゆふさんをしに行つた。ある日媼はその衣裳を著、貸間を見に私を連れて行つて呉れたことがある。そのときあいにく豪雨が降つて来た。私等は慌てて人の家の軒下に雨を避けた。媼は、天が泣いた、天が泣いたなどと云つた。これは若者の私が老媼などと連立つて歩いてゐるからだといふ意味である。云ふことが通俗だが、独逸ドイツ語で云はれると、そこに情味が出て来るやうでけて悪い気持はしない。媼はこんな笑談なども云つた。

 媼は大戦後特に貧しい暮しをしてゐたけれども、家には南京虫が出なかつた。これは些細事ささいじの如くであるが、実はなかなかさうではない。ある時、北独逸から来てここを通過した日本の旅客が一ぴき持ち運んだことがあつたが、辛うじてそれをとらへたのちは、依然として南京虫は出なかつた。

 媼の家の屋根裏には大戦で逃げた留学生の荷がまだ残つてゐるといふことであつたが、その留学生諸氏は、独逸の敗戦後媼の貧窮を気の毒に思つて金円を贈つて来たほどである。私はその屋根裏には遂に上がらずにしまつた。その屋根裏の隣室には媼よりも貧しい若いプロレタリアの夫婦ものが住んでゐて、夫は工場に通つてゐた。土曜の夜などには、夫婦してギタを弾いて唄をうたふ。その唄は哀調を帯びて時々私の涙を誘つた。

 私がミユンヘンを去つてから、もう満四年が過ぎた。このごろミユンヘンを通過した日本の旅客と合作の絵ハガキをもらつたが、媼も健在でゐるやうである。また、Williウイリー と娘とが正式に結婚したといふことも書いてあつた。私は老境に入りかけ、業務多端のために媼にも全く無音に過ぎた。ただたまたま心に暇があるときに、媼の身の上の多幸ならむことをこひねがつてゐる。(昭和三年十月記)

底本:「斎藤茂吉選集 第九巻 随筆」岩波書店

   1981(昭和56)年227日 第1刷発行

初出:「改造」

   1929(昭和4)年10

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:しだひろし

校正:門田裕志

2012年416日作成

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