われはうたえども やぶれかぶれ
室生犀星
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詩を書くのにも一々平常からメモをとっている。メモの紙切れをくりながらその何行かをあわせようとすると、それがばらばらになって粘りがなくなりどうしてもくっ附かない、てんで書く気が動かないで嘔気めいた厭気までがして来る。こんな筈がないと紙切れを読みなおしている間に、頭に少しもなみが打って来ないで只のふろしきを展げたように、ぼやぼやと、よりどころがない、やはりだめだ、机の上を片づけながら臥てしまう。この六十日くらいの間なにも書いていないで、只、うつらうつらと寝るにまかしていた。書くしょうばいをしている奴が書くことが出来なくなると、一行もはたらかなくなってしまう。病いの重さもそうだが、頭がかすかすになって水分も油気もなくなるのだ、例のふろしきのような奴が夜昼なしにふうわりと冠っていた。私はその下にいた。ああいう詩がつづり合せられなくなるということは余程のことだ、出来ている行と行とを合せてゆけばよいだけなのに、口から、はあはあと大息を吐いてまいってしまう。これは余程のことだ。
日が暮れ夜も九時になることが怖い。遅鈍な尿意がもよおしてそのために一時間か一時間半ごとに、起きてはばかりに行かねばならなくなる。それも尿意の放出があればいいのだが、つんぼのように悲しい閉尿の待ちぶせに合うのだ。なんとしても出ないのだ、出てもわずかばかりのしずくしか出ないのである。それでもよろこびとしなければならぬ。他人を騙すように私はいまおしっこなぞしたくないのだと呟く、おしっこがしたい奴はべつに庭の中をうろついていて、犬のように昨日自分でしたところに跼んで、山に穴のあくほど咳をしているあいつのことをいうのだ。此処にいる私は出ても出なくともちっとも、かかわりのない処にいる人間なのだ。頭はれいろうとしているし尿の事には無関心なのである。私はまったくおしっこなぞしたくないんです。苦情は先刻此処に跨っていて、いまも庭をぶらついているあいつの言分なんです。その証拠には私はもう帰りかけているくらいです。さっぱりと快い気分になってあるだけの重い残尿を放出して、あなたの処からかるがると出てゆこうとしている。あなたの真白なお腹は私をうけつけてくれなくとも、それはどうでも宜い、どうでも宜いのだがちょっとだけさせてくれませんか、ちょっと些んのしずくでもそのお腹のうえに出させてくれませんか。私の全身は蒼ざめ此処で最早あなたに跨っていられないくらい、困憊しきってふらふらになっているのだ。ほんとうのことを言えばそうなのだ、どんな大切な物と交換してもよいから、ちょっとだけ普通の人間のように小便させてくれませんか。これは今夜のねがいなのだ、今夜のねがいは後ろに何十年もやって来た果の果のねがいなのだ。だが閉尿は固く遂に私の膝がしらも腰もしびれ、扉につかまりながら私はやむなく廊下に出て行く。
寝所にはいるとまた起き上って足袋をはき、羽織を着てはばかりに往く用意をする。どうにもじっとはして居られないのだ。書斎から茶の間への襖一枚、茶の間から勝手の板戸を開け、次の化粧の間の襖から湯殿への板戸が締まり、そこの小廊下の板戸から離れに渡る三尺の土間を飛び越えねばならぬ。はばかりはその離れの縁側づたいにあるのだ。都合六枚の戸がどんなに気をつかって見ても、戸の軋る音が何処かでして来る。勝手から化粧の間の戸を明けると電灯がぱっと点く、毎晩の気違いじみた便所通いに黙っていられなくなって節マリ子が、からだを夜具から半身起していうのだ。先刻いらっしったばかりなのに大変でございますね、お廊下の電灯をおつけしましょうか、いや、そのまま電灯を消して寝ていなさい、起きないでくれと私は懐中電灯をかざして三尺土間を離れに向って飛び越える、その突き当りの部屋に奥テル子が寝ていた。そこでもまた電灯がかっと点く、節マリ子は四年も手伝ってくれている少女だが、奥テル子は二年近く一緒にいて私の身の廻りのことをしてくれる少女、二人に私は夜中には起きてくれないように言って置いた。たいがい、あそこにいる時間は短かくても三十分はかかるのだ。今年は雨ばかりで軽井沢の夜気は冷たい、その間じゅう起きていて貰うことはからだが冷え切って了う。だから起きないようにいうのだ。私は三十分ばかり跨っていても、とても出ないことが判ると、最後の方法として庭に出て後ろ山の石垣下にゆくより外に、行く処がない、私が三尺土間をまた飛び越えると間もなく奥テル子の部屋の電灯が消え、化粧の間を抜けると節マリ子の電灯も消えた。そして私は書斎にもどると烈しい咳にたたみ込まれ、腹を折ってそれを耐えてから立って雨戸を一枚明けると、用意してある草履に足を突っかけ庭に下りた。全身の蒼白が額にあつまって汗を掻いている。心にある熱い焦りが外の冷気もなにも感じないくらいである。
石垣の石につかまり跼みながら一呼吸いれると、あれほど閉じていたやつが少量ではあったが、黒い土のうえをもっと黒く沁みこんで放出されることを知った。音も感じもない、所と場所を変えれば出ることは何時も最後の手段ではあったが、今夜はあまりに旨くいって石垣の間にある僅かばかりの土の上に、用事あるげに這う羽根のある一疋のむしを見出した。全くこのむしは用事があって夜中に歩いているのだ。私の用事は次の時間の来るまでにもう終った。あと二時間後にはまた起きねばならないのだが、ともかく今はその用事が終ったのである。雨戸を締めようとして後ろ山の景色を見たが、曇天でかさかさして美しくなかった。明るい電灯の下で尿意から放たれたからだを横たえると、ずっと暗い処ばかりにいた眼にはこんなに電灯があかるくては、何も彼もたすかったような気になり、うがいをしてから水を飲み、喉を充分に湿らしてから手を伸ばして煙草を一本つまみあげた。煙草をのめば目に見えて咳込んでくるし其くるしい少時の間は、どんなに酷くてもこらえねばならぬ。けれどもこの山の中の電灯があまりにもこうこうとかがやいている嬉しさは、せめて煙草をのむことで現わすより外に現わしようもない、水を飲めばすぐ尿意にからんで来るので、水とか茶とかビールとかは夕方前には一さいとらなかった、だから煙草をのむよりほかにいまのこうこうとした明るさに代えるべきものがない、煙草をのめば睡れないから睡眠剤までのまねばならないことは判っている、私は火を点けてゆっくりと深くけむりをのみこんだ。うまかった。みるみる私は平常はたらく昼間の私に出会い、料理店で料理を食べている私の張った胸を見出して、そして不意に冷えた自分の睾丸にさわって見ていまさらに驚いた。何時も三四十分の間腰から下は外の冷気とおなじ所で、この者はつねに裸でまるだしのありさまであった。冷蔵庫の中にいる奴と同じであるから、はばかりから帰って来ると私は自分の手のひらでこの者を何時も少時あたためてやっていた。あたためてやらないと睡りが遠退いてゆくからだ。何時か歯医者が歯だってあたためなければならないと言ったが、この者の冷えのふかいことは手のひらが冷たく沁みて来ることでも判る。そして自分の広漠としたはなればなれになった胴とか手とか足とかの、それらのもだえ悲しみ冷えの類がみんなここに集まって、或るときはただ他愛もなくわあと言って啼いている時もあるし、或るときは冷却しきって今夜のように拠りどころもなく、ぶらりとした言葉もないありさまの時もある。平常はちっともその動静を見てやらないのに何の苦情もなく、この者はただ温和しくしているばかりなのだ。怒ったこともないし悲観したふうも見せたこともない、そしてからだの中のどの部分にくらべて見ても、かつてこれをとくに愛したことすらなかった。寧ろ邪魔気で、あってもなくても宜いという虐待気味の、ふだんの扱いようになれて男はみんな打棄らかし放題であった。少年の時分に友達と列んでこれを手のひらの上に大切そうに載せ、ふしぎを蒐めているくせに平凡な、此の中にある玉にふれることの怖さを何時の間にかおぼえていた原始観念が、成長と一しょに薄れてしまい、ついにわすられいまは今夜のように、ひえて石ころのようになっていた。手のひらのあたたかさが玉の深部に脈を打ってつたわり、手のひらは鉄片か石ころを掴んだときの冷えを感じていた。併し私はこの者はつねに冷えていてもよいものではないか、寧ろ冷蔵庫入りの物ではないかと戯談にそう思ったりして、若し冷蔵庫入りの物だとしたら余りあたためていては、却って毒ではないかと、一人でからからと笑って見た。午前二時の私の感想はふたたび人間はどうにもならないと、自分のからだから笑う材料を引き出すものに思った。
うとうとすると、私はまた足袋をはき、着物をととのえて寝所をはなれて書斎の中でこれを行うべく用意にかかった。二個のしびんに代るがわる立ち対い、跼んだり立ったりしてみたが、がんとして尿の通りがなかった。畳の上に坐ってこんなことを繰り返して一たいどうする気かという、何時もの当然の問答をくり返してみた。すぐ立って出ようとしたが、あれから一時間くらいしか経っていない、少女達の目をさまさせることもそうだが、それよりも頻繁に通うということに今夜のいまの状態にこだわりがあって、幾ら何でもばかばかしいという他人への臆測がめずらしく頭に来た。けれども事態はどうにもならないところに来ていて、書斎の襖から始まる六枚の襖板戸を念入りにそっと明け、節マリ子の目をさますまいと引戸をすべらせたが、幸いマリ子の起きる様子もなかった。土間を飛び越えるときにも足袋はきであったから縁側に物音が立たずに、奥テル子の部屋の電灯も点かなかった。タイルずくめの真白な内部にはいり、私は川か山にまたがる跨り方をして身がまえた。この内部にいるあいだは始終私は目をとじていて、物を思うことを避けただ放尿の一心にからみついていた。例によって、まだか、まだ出ないかという声がして来たので、水洗のタンクのねじを強くしめてみたが、水と栓のぐあいで圧迫音が起ってそれが、まだか、まだ出ないかという人声になって聴えるのだ。このタイルに誰か白い人間が塗りこめられているのではないか、そしたら白い人間はもっと外のことを言う筈なのだ。私はがらにもなく巨費を投じて冬も凍らないように厚い壁土をぬりこめ、みがいたタイルで四囲を塗りつめたが、この古い百姓家のような構えに此処だけが病院の便所のように壮麗に見えた。此処でもだえているあいだの私は足の先からあおざめて来ることを覚え、タイルを見詰めている間に眼がきらきらになり紫のにじのような奴が、だんだんに交叉して来ることを覚える。白い人間なぞいるはずがないのにタイルばかりを凝視していると、そういうことになる。そういうことがあったら面白いということになる。すべて白い物というものはそれの展がりによって、何にでも形をととのえてくるから妙だ。
目を明けるとタイルの上に夜明けが渡って、私は小窓をあけて後ろ山をながめた。充分に夜が明けていて凡て夜明けの明りというものは、人間のからだからも射していることが、私自身がまわりと同様にあかるくなっていることで判った。けれども私のあれはとうとう出なかった。外の石垣の下にゆくことを頭にちょっとでも持ったら此処では一さい出なかった。私は廊下から土間をとび越える時に背後で奥テル子の部屋の電灯が、突然に点いて肩先からかがやいて落ちた。やはり起きていたのか、さらに湯殿の前の板の間に出たとき、節マリ子の部屋の電灯もやはり廊下を明るくするために点けられた。懐中電灯の乏しい光では土間は渡れないことがあるのだ。私は庭に下りると石垣にそうて跼んだ。
咳が酷いのでその反射痛が左の背中にあらわれ、物をいうと咳きこんで言葉がきれぎれになった。まるで言葉がまとまらない、私は、ばばばといったりひいひい言ったりするだけで、腰を折り手で畳をささえ、咳のおさまるのを永い間待ったが、その苦しい間に煙草の要求が烈しく起った。ひどい心配事のあるときに煙草がのみたくなる、あの心理なのだ。咳の小歇みのあいだにただ一つの救いである煙草を一服やろうと、私は煙草に火をつけた。そんな物をうけつける筈がないのに、それをとおそうとするのだ。馬鹿の骨頂なのだ。間もなく煙にむせ返って咳は巻き返して、のた打ち廻った。併しその一服の煙のうまさはどうしても通さなければならない無理無体な要求となって来た。これが私の一等いけない癖で苦しむことが判っても、其処を突き抜けて一服やってもそれが死因になるとか、生涯のあとの分に大した影響はあるまいというやけくその想念であった。すべて私の生きて来た所以のものは何時も生真面目と実直のしんの方に、事がならなかったら、やけくそになってやれという打抛りの絶望であった。やけくそにもなれないのに常に其処まで行ってあぐらをかくという生き方の続きは、決して途中で切断されなかったのだ。
噎びながら少しずつでも煙草を吸い、もっと酷くむせんでから私はむねの痛みの去るのを待ってまたはじめるのだ。こんなしぐさは知識のある人間のすることではなく、また、どんなむちゃな人間でもそれを避けているものなのだ。だが、私はそれを繰り返しているうちに突然に咳がとまり、しんとしたむねと喉のあいだにあれほど苦しんで受けつけなかった一服の煙草が、ゆるゆる通ってゆくことをおぼえた。山のけむりは風もなく昇り、私はそれをあと何服かをのんで見て、咳というものもするだけしたあとで休むひまがあって、その遥かな道すじに行きつくと煙草はあまくとろけた網のように頭からすっぽりと被れるようになるものだということが判った。絶体絶命の瞬間を越えなければ其処まで行き尽せない、こんな困難はたびたびやってはならないことだ。私の反省は何時もその場限りでほろびたが、今夜の一服は次の一服につなぎ合しても、咳は猛烈に巻き返してはこなかった。
私は安堵と喜びのあまりちょっと肘を伸ばして何かを取ろうとした拍子に、明治初年頃のすり硝子の笠を持つ電気スタンドを、ごう然と、横倒しに引っかけてしまった。すり硝子の笠はとうてい見つけようもなく、二度と手にはいらない稀品でこのスタンドはこの笠一つで装われているものであったから、私は畳の上の破片をしばらく阿呆のように眺めた。節マリ子も奥テル子も起きて来ない、物音は化粧の間にも離れにもとどかなかったらしい、私は新聞紙をひろげすり硝子の破片を拾いはじめた。砕片で目にもとまらない物まで眼鏡をかけて、新聞紙の上に一つあて置いていった。ちいさな乾いた音を立てて棘立った破片がならべられ、そのあいだじゅう沢山の過去の出来事が頭があいているので、そのあいているところに浮んでは沼の上を見るように消えた。それは結局何と永い間生きていたかという冗らないことに過ぎなかった。どの人も今日までついて来た人はいない、どの人にも特にこれという今夜の私をゆすぶっている者はなかった。砕片の光は畳の目にあってそれをたしかに指先に拾ったはずなのに、指先には光るがらすはつままれていなかった。そのあいだじゅう女のことや金のことや、明日食べるパンにいま少しバターを余計につけさせようということ、保高徳蔵さんの書いた評論家青野季吉さんをおもう文章の旨かったことなどあった。保高徳蔵は雑誌で若い小説家を沢山そだてているあいだに、自分自身の文章までみんな落してしまいはしないかと私は考えていたが、青野季吉を書いた鋭く温かい一文は気概も見どころも文章から立つ埃までみんな大事にしまってあって、親友をとむらうために読める奴は読めというふうに抛り出し、それを読みふけった私は温厚な保高徳蔵にああよく書いてくれたという、うれしい言葉を気負っておくりたかった。作家である徳蔵さんは他人の世話ばかりしていて、編集や編集事務に作家世界からずっと離れていても、持つものはちゃんと持ちそれを見せる時にはうぶな程、きらめきが強いものだということを私はまたしても眼こぼしにしたがらすの砕片を拾いながら、保高徳蔵に会ってきまりの悪いほどあれらの長文が私を打ったことを話してみたかった。誰がこの作家の脳の中を知ろう。知るのはこの人が日頃たいせつにしまっている文章をあらためて読み直すことにあった。
読売文学賞の会合で私は青野季吉の隣の椅子に腰を下ろしていたが、十二月のことで季吉さんは、こほ、こほと控えめな咳をしていられた。私はいくらかの愛嬌半分にあなたは咳をしていられるが、風邪だとすると隣にいてはうつりはせんかな、と、あやふやに言ったが受けとる方では、こんな言い方をされると愉快なものではない、(それに気づいたのは後のことだが、)それから五分間くらい経つと季吉さんはそっと立って向い側の席にうつられた。そっと立つというよりも、あるいは突然に立ったようにも思われ、これは言わなくともよいことを言ったなと、自ら私はいましめるところがあったがもう遅い。時折、私という人間は飛んでもないことを口走る妙な男なのだ。そしてご丁寧にもそれから二週間くらい経ったその会合の席でも、私は季吉さんの隣の椅子に坐っていた。こんどは季吉さんの風邪が治ったらしく、ごほごほいう咳はしなかった。私は言った。此の間あなたがお風邪気味だったので、うつるとか、うつらんとか失言しましたが気にしないでいただきたいと訂正して言った。季吉さんはあの日の風邪はとうに治りましたよと、新しい手巾で口元を拭かれた。この前のときの手巾も真白であった。どうも青野季吉は癇癪持らしい、あの日、不意に立って向うの椅子に行ったのもそうらしかった。
小松ストアというデパートの裏口に立った季吉さんを見かけたのは、つい一年前のことであったが、私はつれの娘に青野季吉がデパートの裏の入口に、のろい足どりで歩いているのはへんだ。ああいう恰好の隙だらけの容子をそのままどうしようもないところに、何かがあるんだと娘の肩を小突いた。それはおなじ老来の私に愉しい隙間見であった。私はそこまでかなり距離があったが一ととおり挨拶の後には、季吉さんは異常なげに微笑していられた。この信州に立つ前に季吉さんのお葬いに行き、くるまが途中で衝突して顔色を失ったまま告別式におくれて出かけたが、失った顔色に斎場の窮屈さが一そう石みたいな顔立にしたらしく、後で或る人があの日どうしてあんなに皺苦茶に昂奮していたんだと言ったから、くるまが衝突してそこで血の気をうばわれたのだと正直に答えた。
私は寒気がして寝所にあがったが、あぐらをかいた恰好といい、黒い手を二本持っているぐあいといい、さらに手の先の鋏のような指を持っている状態が蟹も蟹、川蟹にそっくりなのに呆れた。川蟹は暗褐色で何時でも怒って甲羅の毛を突っ立てて、触れるものは鋏で切り放ってしまう。その川蟹の私が寝所の上からみると、硝子のかけらは電灯のあかりぐあいで、チカチカまだ横の方から光って見えたが、もう拾いあつめる気にならなかった。睡眠薬の大粒をかちんと二つに割って口中にふくみ、川蟹は毛布をかむり漸くぐっすりと睡った。
発熱は毎日一分ずつ下げてゆくのに、七度五六分あれば一週間はかかる。昨日はまたお客さまがあって話しこまれたのですか。折角平熱まで下がっていたのに惜しいことをしました。それでなければ夜中にお起きになって何かなされたのでしょうと、産婆で五六年も夏じゅう続けて注射をしてくれた村田さんが言った。こんどの軽症な肺炎についても毎日彼女は坂博士の指示によって注射をしてくれ、硝子戸をすかしてよい空気を入れても、反対側の硝子戸は明けて置かないように、急激に空気が抜けてゆく迅い通風の中にいては、いまのあなたには荒い風当りになりますと、細かい注意までしてくれていたが、私は電気スタンドの笠をこわして夜中にそれを拾いあつめたとは白状できなかった。発熱のぐあいで硝子のかけらを拾うだけでも影響して来るものらしい。お客様に決しておあいにならないように発熱は話して疲れたところから、少しずつこうふんして生じるのだと彼女は言った。
坂博士はレントゲンでは左肺にかげはあるが、恐らくこれは早晩とりのぞくことが出来るが、今年の軽井沢の冷気は異常にひえるから、早くに帰京されて精密検査をお受けになった方がよい、微熱状態は当分続くと見なければならないという話であった。七月終りからぐずついて寝込み、いまは九月の二十七日だが、何処にも夏の景色が趁いはらわれ、結局、私は今年の夏に往き会わずじまいになった。町にも二三度行ったきりで私としては十年もこんなに寝込んだことがなかったのだ。せめて近くの道路でも見ようとひょろついて門の前まで出てみたが、曇天のよごれた空あかりでは林も道路も冴えた風景には見えなかった。何時見ても美しい若い林が、今日は木々のくみあわせも粗雑で醜い木肌をさらしている。私は病気がそんなにあらわに表面に出てはいないが、重いことはかなりに重い奴がこもっているのではないかと思った。昨日鏡の中で頭髪の上の方からしらがが刷かれることを見入ったが、他人に自慢していた黒い頭の毛が三ヵ月のあいだにまいって、ちぢれた奴が眼立って来たのに、ここにも何かが見えはじめていた。
熱があっても私は湯殿に下りて毎朝髭を剃り、顔はていねいにあたっていたが、この十日ばかり剃刀が引っかかってばかりいて、すみやかな刃わたりがなかった。これは、ひふがかさかさしてあぶら気を失うているからだ。けれども病んできたない茫々の髭っ面を人に見せたくなかったし、医師にも礼儀を感じて顔を剃った。だが、時間のかかるこの髭剃りが引っかかってばかりいるのと、剃り落しがあちこちにあることから、こういうところに私の平常の健康がもはやなくなっていることが察しられた。ひふのよわりはその下にある肉体のふかいところから、おとろえを見せている。これを無理に剃るということは乱暴なことなのだが、朝が来るとやはり剃刀をつかい、髭が剛く剃刀がじゃりじゃりして停って動かない時があった。まるで肉を削ぎとるようなものだ、傷は数ヵ所にあって人間のひふにも荒地のあることが知られた。
翌日列車に乗りこんでから検温してみると、八度あった。微熱ばかりの六十日の間で一等高い発熱、汽車も乗客も熱で、列車が宙に走っていて煙と埃と人がコバルトで彩色したように見え、私は窓につかまりながら弁当を食った。弁当はふしぎにうまかった。これは少女奥テル子の作った弁当なのだが、鮭の燻製をヘビの皮を剥ぐような思いで、赤い身を口にくわえては噛んでいた。汽車も乗客も益々熱い、頭の中を箒で掃く奴がいる。そのため髪をぼうぼうにして私は列車のはばかりに通うのだが、いま行ったばかりなのにまた出掛けようとするのには、乗客の手前があって私はじれじれしていた。英語の推理小説を読んでいる女が真向いにいて、すらすら読めるのか読めないのか判らないが、その女が俯いているので縹緻のほどはわからない、只、はばかりに行こうとするのを邪魔立てしている眼の位置なのだ。立つとすれば彼女の眼の正面に立たねばならない、私は益々熱くなって何かまうものか、他人がどう見ようが私はしたいからしにゆくのだ、他人の考えは他人のむねの中で勝手にひろげていた方がよいと、私は敢然と立って出かけたがその後で直ぐ汽車の中にいるためか神経がいら立って、残尿はゆるく、焚火のもえ残りのように燻りはじめた。奥テル子は用意してきた小型のしびんの包みを下ろして、かまわないからわたくしが屏風になりますからなさいましといった。私の額がくらくらして光るのを見てそういうのだ。併し事態がもっと穏やかな状態にあれば使えるしびんであるが、こんなに心が混乱していてはこれも使えない、汽車は三メートルくらい高い所を走ってレールについていないようだ。眼を閉じて殆ど正座しているふうに姿勢を崩さないでいると全身に汗を感じて来た。
厚顔無恥という状態で私は列車のはばかりに通い、一生を此処に圧搾して小便を信じようとしていた。こんど空戻りをするようなことがあれば、いくら何でも此処にはもう通えないのだ、私が立つと乗客の顔が一せいに向きを変える、この男ははばかりに立ってばかりいるが、変な奴だ、まともの男でないことだけは判るという眼つきが、傲慢を衒っていながら傲慢が三文の値にもならないことに気づいて、私は公園にでも散歩した帰りのような陽気なふうをして見せた。実はだめだったのだ。レールの上をがあーといって走る列車の騒音では、何のために其処に行ったかという用件を取り上げられ、私自身は空っぽであった。そこにいる時間の恐ろしさが私を急き立てた。乗客が一せいに立ち上って騒ぎはじめ、私が突然身投げでもしていはしないかということで、車掌と話し合っている。私はただ手を洗ったばかりで狭い廊下に出ると、そこに奥テル子が立っていてどうかなさったのではないかと、迎えに来たといった。君までが騒いで迎えに来ては乗客の注意が益々私に集中して来るではないか。僕はこれから今一度あそこにはいるのだ。洗面所で顔でも洗ってからさっぱりしてから這入るが、君は何食わぬ顔つきで目立たぬように座席に戻ってくれと彼女をかえした。私は機会を待つのだ、おしっこがしたくなりじーんと来る軽度のしびれを待つのだ、実にばかばかしい話だが此のばかばかしい焦りが人間には、避けることの出来ない悪い病いとなって、永い間多くの年月をへし潰さなければならないのだ、何処の誰が健康であっても次にくる奴はこの碌でもない悪あがきなのだ、私は顔を洗ってから今日はという軽い気分という奴で、扉の内部にはいるとカチンと鍵を下ろした。すると靴ずれの音がして私が出て行くのを早くも待つ人がいた。一人か二人かわからないが、多分一人らしく靴ずれが次第に感情を交えてざくざく聴えて来た。私は内部から人間がいるということを知らせるために、扉をがーんと一つ引っぱたいて急ぐなという言葉のかわりにそれを表現した。併し表側ではまさかと思っていたのに直ぐこつこつと叩き返して来た。早く出てくれという表示であった。このこつこつと叩かれた時から私はまただめになって、扉の外に出た。使用中という奴が出ているのに何故叩かれたのです。他人からそんな注意をうけとると私の用事は即座に停滞してしまう。だから私の用事はまだ済んでいないのだから、早くその子供さんに用事をさせて下さいと私は四歳くらいの子供を連れた男に言った。男は子供が急ぐものだからと謝り、私は鏡のある洗面台に対ってこんな時どんな顔をしているのかと、写真を見入るように鏡に顔を寄せた。これが他人ならどんなに見なれていても、好意を寄せる顔ではあるまいと思われた。
家に着くと翌日から直ぐにへた張ってしまった。いてもいられない落ちつきのないへた張りかたであった。何処か病院にでもゆかないと何の治療も養いも出来ないという、一つの断崖のような処に押しつけられ、行かねばならない処が次第にわかって来るようであった。自分の行先がわかり始めたのだ。或る大きな雑誌社の懇意な夫人に娘の相子がこの話をすると夫人は一緒に相子と連れ立って、入院手続の一さい済してくれ、私はその翌日に行かねばならない処を突きとめたのである。
入院という変化が私に起ってくる時は、大抵私自身が荷物の指揮をして、あれもこれも持参するよう言いつけるのだが、今度は何一つ持って行って眺める気にはならずに、相子にまかせきりであった。こんなことは嘗て私になかったことだ。ちょっとした着換えをすると縁側に出て皆のすることも見ないで、自分自身さえどうなるのか判らないあいまいな気であった。このあいまいの気が時間のうえで少しも修正されずに過ぎ、私は大病院の一室の寝台にすっぽりと細れて寝ることになった。皆のすることも見ずに睡ったふりであった。此処がおちつく先であったのかと、今年はとうとう夏という季節も知らずにすごしたせいか、向いの亜米利加大使館附属の白堊のビルがかがやくのに、夏の日のうずまきをおぼえた。
診断は左のろくまくに故障があってレントゲンの陰影を見ることと、咳のため気管に甚だしい荒れ模様が見られるということであった。閉尿はゴムのくだを入れてこれを誘致するという最後の治療であったが、これらの主治医の診断にもかかわらず私は私自身を放棄する立場を感じたのは物臭さからであった。軽井沢では毎晩の湿布とか氷枕とか、うがいなぞを自分からはじめていたが、此処ではにわかにどうなったっていいや、此処は患者という名の意志のない奴の寝ころがっている一つの断崖なのだ、此処から転がりこむところは決っている。転がりこまないように夜ひるなしに鎹が打ちこまれる筈だ、命のひびを治すのに横着にも私はこっそりと煙草をのんでひびが一日ずつ治ってゆくのを、一日あて後退させるということは主治医も知らないでいたずるい患者なのだ。
手押車が扉の前に来て廊下でとまった。つまり私はここでは手押車に乗るようになり、それが私が重症の人間に早がわりしているのだ。中年になる私の看護婦が手押車を押して、荷物運搬の役目をする自動エレベーターの中に、車ごと引きこむのであった。足の乱れも大したことのない私は仮病をよそおうて降下してゆく、一階に泌尿科があってその診察室の前で車が停った。私は一人の医師の前に腰を下ろしたが、医師は普通の声音よりもやや大きめに突然に冒頭から私を驚かした。「今までに淋病をしたことがあるかどうか。」
私は嘗てこのような無礼な訊問を受けたことがなかったので、却って物しずかにそういう経験はないと答えた。すくなくとも私にこの言葉が叩きつけられるということで、私という人間は仕事をはなれた平の人間になった時には、少しの威厳もなにもない、へなちょこ野郎にしか見えないという悲観的な見方を自分に加えて見てやれやれと思った。医師はあそこの寝台に行って俯きになってねるようにいい、私はその通りにからだの位置をととのえた。医師は肛門から膀胱の診察を終え、私は悶絶直前の掻き廻しにいい気味にもげんなりして寝台から下りた。全くこの横着な男にはこの触診の瞬間では窒息するかと懸命に思えたが、医師はこれ以上なんの質問もしないで書類に書きいれをし、私は医師の巨大な体躯をかすみかけた眸ざしにおさめた。表に待っている手押車に乗る時、私は医師が手押車の上にいるほどの立派な患者に、ちょっとでも見てくれれば宜いと思ったが、彼は後ろ向きであった。これほど手押車を信用したことがなかっただけに、こいつは些っとも役に立たない車だと思い、上からがたがた揺ぶってみたが、ついにこの高貴な手押車は泌尿科の医師の眼にはとうとう触れなかった。私は看護婦にゆっくり泌尿科の前を通ってくれと言ったものの、それは通じなかった。恐らく医師が手押車の上の私を見たとしても、患者が皆乗っているので、いざりの車としか見えなかったであろう。
実際、私は触診のあとでは、不意の衝撃で寝台の上に起き上れないでいた。腰をへし折られたあんばいだったのだ。泌尿科附の看護婦がこの気の毒な百姓家のオヤジか何かに似た奴の背中に手をささえ、そっと力を貸してくれなかったら私は少時そのままでいたかも知れなかった。彼女は泌尿科にいる人でないおだやかさで、お起きになれますかと言い、私は大丈夫起きられますと答えて、起きて寝台から下りた。人間は妙なところで相手の知らないしんせつを受取ることがあって、私はそれをどう言いあらわそうかと思ったが、ただ、頭を下げただけであった。思いがけないものがやって来て心を柔らげるものだ。
泌尿科は一階にあったから其処の待合室の大勢の外来患者の前を、私の手押車はしずしず通っていった。人々はこの患者にちょいと眼をくれただけで、何の反応もなく皆自分自身のことで一杯なのが、私にすぐ判って気安い思いであった。外来患者は丁度記念撮影でもするように一室の方向にむいて、順位を待っていたが私は急速に眼を走らせ、何物かを見出した。私が始終見ていたものでもっとも婉曲な形態を持ち、いままでにすっかりわすれていた物であった。それらは幾十人となく強くどっしりと眼にうけとられる物ばかりであって、私は一種のにわかに生ずる喘ぎさえおぼえたくらいだ。それは若い婦人達がうまく男性患者の間にはさまって、盛りあがるような勢でくみ合せた膝から下の裸の足だった。私はそれを暫く見ないでいて今突然に眼にいれるとそれがどんなにも、あつかましい程うつくしい物であることが判った。相子や奥テル子の足は病室でも毎日見かけているが、他人行儀のよそさんの足を見たのは久しぶりであった。見られていることを知らないでいること、その無関心さであちこちに伸ばされ、くみ合されていて無限な優しいものがあった。常識のゆたかな紳士といわれるような人びとは決して私の表現するようなぐあいには言わないが、あの長いものをすらりと組み合せ、それに何の値をももとめないで在るがままに在らしめていることに、私はむねに痞えているものが一度に下りた気がした。此処は風があって寒い、入院して僅かしか経っていないのに風のきめの粗さが感じられるようになった。その中で皆さんの足は鋭い。手押車でまた運搬用のエレベーターに乗って自分の部屋に戻ったが、翌日泌尿科の前で手押車を停めさせ、附添の井荻看護婦にくるまを戻すように言って私は頑張った。此処まで来て何をぶりぶりしていらっしゃるのだと彼女は言ったが、泌尿科はごめんだ、あなたが無理にくるまから私をおろす心算なら私は歩いて帰ると言い張った。エレベーターは二人きりの乗車であったが、中年の井荻看護婦はあなたという患者さんは一日じゅう怒っていらっしゃると早口に言い、冷蔵庫の氷がとどけば一応すすがなければならないし、すすげばステンレス張りの流しでは物音が立つに決っている。それを一々寝台の上から囂しいといって叱られていては仕事のしようがないのです。奥テル子さんもいらっしゃるしお暇をいただきとうございますと彼女は言い、私が黙ってエレベーターから降りた。病室に戻ってからも彼女は永年看護婦として扱った患者の暴れ加減を見て来ただけに、一たん言い出すと後には引かなかった。私は言った。あなたががたがたステンレスの上で物音を立てる物体が冷蔵庫の氷の塊りであったことを昨日初めて知ったのだ、それを冷蔵庫に入れる大きさに削り取るためにああいう物音が立つのは当り前のことです、今度は僕の考え違いだったから謝る。暇をくれなんて脅さないで下さいと私は言った。
それにあなたがいなくなるとお粥を温めるにも誰がしてくれるか、奥テル子では配膳部のおばさん達に歯が立たない、あなたでさえ、この忙しいのに其処らをうろつかないでくれと叱られているのに、奥テル子ではどうにも牛乳すら温めることが出来ないではないかと私は言った。この清潔無類の病院では個室にも何処にも瓦斯や電気はつかえないことになっている。お湯は洗面所に煮え立っているがお粥とか、さかなの温め物はどうしても配膳部の配膳の終った頃に行って、お願いして瓦斯の火を借りるのが井荻看護婦のいやな仕事であった。二人のおばさんは何十人もの食膳をととのえると、それをステンレス張りの軽快な手押車に乗せて廊下に送り出すのであるが、それだけで彼女らは椅子の上に腰をおろすと物を言う気も物憂く疲れが酷い、そんな手のすいた時なら井荻看護婦は叱られなかったが、彼女が料理最中にうろうろされることは全く料理の味加減にもとがめる眼ざわりであった。だからおばさん達の仕事が済んでしまってから井荻は相子の持って来たさかな、スープの類をあたために行くのだが、それは少女奥テル子には井荻のようにぴしぴしやれない時間を切りつめた厨仕事だった。私は井荻に帰られるとこのたいせつな食事の行き詰りをおそれ、井荻のように世なれた女でないと大病院でのさまざまなやりくりが、なめらかに行かないことを知っていたから、ひら謝りに謝ったのである。
井荻看護婦は朝八時に来て夜の八時に派出会に戻ったが、朝の早い私はパンと牛乳を焼いたり温めたりする時間が、朝の八時の彼女の出勤後でないと出来ないので、寝台の上で八時という時間をあさましく待ちもうけているのも、乳とパンが早くくいたいためであった。向いの亜米利加大使館の勤め人はこの八時という時間には、殆ど全員が出勤していて空車はきちんと屋根を揃えて停っている。寸分たがわない勤め人の気風なのだ。星条旗は七時に屋上にかかげられ五時には下りていた。私の井荻看護婦も八時に扉を明け後二分間後にはパンと乳とを持って配膳部に出かけた。病院からの配膳は奥テル子が食べることにひそかに計画していたが、普通のご飯のほかにお粥が一杯ついていた。それは私へのおばさん達のおくり物みたいで、そのお粥は三拝して啜るべきものであった。私はそのお粥にバターを溶かしこんで時には卵黄をも加えたが、窓外遥かな虎の門界隈の停車区域には夥しいくるまが日光をはね返して、ぎっしり詰っている。そこから雑草と禿げた空地があって学校のような建物に、何かの遺跡と歴史めいた白堊の円柱が朝日をあびて六本建っているのが、廃れた城のあとを見るようであった。柵が打ってあるらしく人がはいっていない、日に焦げて乾き上った景色であった。
宮城まり子さんが台つきの玻璃の高つきに、南方のらん科の花をいれて持って来たが、日がくれるとその窓にある容器の水の中央に先に書いたろーまの遺跡のような円柱のある建物と、停車区域のくるまの赤い尾灯が大流星群をちりばめて、四散八飛して美しく映った。寝台にねながら温和しい顔つきでそのガラスの高つきに見惚れる私は、折柄訪ねて来た森茉莉さんにこの夜景を紹介してほめてほしかったが、茉莉さんはこのガラスの容器をくださるのなら、中にうつるくるまの赤色尾灯や街区の交錯ネオンもついでに貰いたいと言われた、硝子という物の好きな茉莉さんはこの病室にはいるとすぐにこの台つき玻璃器を見つけ、眼をこらせると私にどうしてこんな物があるのかと聞かれた。それから後に宮城まり子さんが来たからガラスの台つきはあなたと同じ名の女の人にあげることにしたと言ったら、うん、森さんならいいわ、差し上げて下さいと言った。
地下室にあるコバルト放射室に下りてゆくのが、私には一等つらかった。放射室では八分三十秒の間背中をむき出しにし、うつむきになる苦しい姿勢がたまらなかった。むねを寝台であっぱくされ、枕であごを支え、手にも支えをもたらせても、やりきれない自分の重量で私はうむうむうなった。腕時計をよく見える位置にすえ眼を閉じて、遠い海鳴りに似た機械の音響がはじまると、人のいない厚いコンクリの壁ばかりの十畳二間くらいの放射室に、私は一人きりでいることの奇異の感情があった。八分間というみじかい時間は此処では私の眼に一分二分というふうに大幅に刻まれ、刻まれた一二分の間が遥かに伸びていって、いくら経っても一分しか経っていない永さであった。こういう時はおんなのことを考えるのが一等だという考えで、私はおんなのことをあれこれと頭にうかべたが、うかべたおんなは考えの中で迅いすがたで直ぐ次へと移行して、あわてて考え終ったおんなを取り戻そうとしている間に、次のおんなの人に及ばねばならなかった。しかもその人はわずかな間に次のおんなにかわってゆくという予想外の早さであった。私は時計を見たがただの二分しか経っていない、後にのこる六分間というものにまた後戻りして、先刻のおんなの人にまた出て貰わなければならない始末であった。この間に咳はむせ返って来てもからだを動かすことが出来ないのだ。枕被いを剥いてそれに吐瀉物を拭き、海鳴りの変化に時間を知ろうとしたが、まだ海鳴りは先刻とおなじ同音であった。腕時計はずり寄って手首の腹の方に廻り、私は人がいないので唸るのが一等よいと思い、唸りつづけた。警笛が鳴って八分三十秒にとどいたときに私にはもうおんなの人は一人も見えていなかった。寝台から降りて手押車に乗ると何とかしてコバルト行きはやめたいと思ったが、コバルト放射は主療の方針であるらしく十七日の内、十日間は八分三十秒、あと一週間は十分三十秒になるかも知れないと主治医は言い、私はあきらめた。
毎日電話がかかってコバルトにお廻りくださいという声をきくと、寝台からむんずりして私は下りた。廊下には例の手押車が待っていてそれに乗り、運搬用のエレベーターの前に行くと一人の老人が立っていた。色は黒く眼球はぎょろりとして少しの余裕のない、迫られた脅迫を防いでいるような表情だ。口は一文字に結ばれ入歯を外しているらしく鼻の下が、ぐにゃぐにゃしていた。それに長身で寝まき姿なのだ。エレベーターが停るとその男はすぐ乗り込み、釦を押したらしく昇降機は音もなく下降していった。私が乗ることを知っていて自分だけで下降してゆくのだ。私は井荻看護婦と顔を見合せたが、どうやらこの男も放射線室に行くらしく確かに私は彼が放射線室から出て来たことを見かけたことがあった。地下で降りると冷たい石とコンクリの放射線室の前の待合椅子に、この男が順番を待っているすがたを見た。次の日にもエレベーターの前で、この男が私のくるまを見ると私より一足先に小走りになって、下降の釦を押しているのが見え、私は怒りを発した。自動エレベーターの扉は開いてその男はすっぽりと内部にはいると扉は締まって下降していった。エレベーターの前で五分間の下降時間を待つということが、相手が便利で迅い速力を持つだけにこれを待つ間は、ばかばかしい空虚をおぼえるものであった。しかも同じコバルト行きの患者なのに押し退けて乗ってゆく奴なのだ、こんな病院の中にいてさえ先を争い、相手をふんづけることで神経の上にその影響を感じないということが、この男のしたたかな気性を知ることが出来る。私はこの男と掴み合いをしてもこの次のエレベーターで彼一人の下降を許してやるまいと思った。此処に来てこのように人を憎み、生涯のぎりぎりの年になって掴み合い殴り合うほどのばかばかしい怒りを感じること自体に、二重の憤りをおぼえた。私は井荻看護婦にあいつとなら殺し合いをしてもよいと叱るように言ったが、井荻看護婦は中年女の物事に関係しない非情の言葉つきで、きっとお急ぎだったのでしょうと言い、少しも同感するふうを見せなかった。それはあんな奴となら殺し合いしてもよいという言葉が気にいらなかったらしい、私はさらに済まないが彼奴は何号病室にいる奴で、姓名と職業とを看護婦事務室から聞き出してくれませんかと言ったら、井荻看護婦はそんな探偵のまねなぞいたしたくございません、第一そんなことをお調べになって何になさるお心算ですと答え、あの男のことでは一さい味方をしてくれないふうを見せていた。私は井荻の同感の情意という奴がほしかったのだ。こういう二人きりで聞いたり見たりしている場面では、井荻しか見ていないのであるから幾ら急いだって礼儀も知らない方だというくらいの、味方の言葉が入りようだったのだが、彼女はそれを頑として言葉に現わさなかった。相手がむやみに怒っていると反対にそれとは無関係な気詰りがつづくと、どうしても同情の表現が出来ない場合と時がある、井荻はいまそんな所にいるのか知らと私は口を噤んでしまった。
この日も何処の何号室から出て来たのか、ちょっと判断しにくい早さで廊下をすり抜けて来た例の男は、すばやくエレベーターの下降標識の矢印の釦を押して了った。私の手押車が廊下からエレベーターの前の空廊にはいった間際であった。エレベーターは停りその男はすべり込んで内部の釦を押したらしく、昇降機はどちらから見ても同じ形の四角な内部をちょっと見せたまま下降して行った。私は井荻看護婦に言った。これでもあなたは私に味方をしてくれないつもりですかと、人間の心の動きを私は突きこんでまともに見たくなってそう言ったのだ。井荻の顔はさすがに直ぐに答えはなかったが、ただ、ああいう気性の方は何時もああなさるより外はないのでしょうといい、この中年の女は一たん心に決めたことは何処までも押し通してやるという気風が見られ、私は自身に引き返して誰かのことばがほしかった。地下室に降りるとその男は放射室の前の椅子に順番を待つために腰を下ろし、私は井荻にくるまから降りるといい、彼奴と顔を合し同じ長椅子に坐り合うのはいやだと言い張り、コンクリの廊下に降りると其処らをあの男に背中を見せながら歩いた。この地階に終日木を削っている大工さんが一人一年じゅう仕事をしているらしく、夥しい木材と鉋屑の中に仕事をしていた。注射液や薬品堆積の倉庫、機械の試動室のようなものから更に薬品を積みこんである小倉庫、そういう室の何処からか医師の助手や看護婦見習や掃除婦が絶えず現われては、エレベーターで片づけられて行き、また、何処かのコンクリの角でそのすがたを消していった。
地下の空気の冷えがからだに迫った中で、私は廊下の一等奥まった一室の前に立ったが、其処は看護婦さん達の着換室らしく四五人の女の人が立って、平常着を白衣に着かえていた。早脚でそこを通りすぎるとこういうところに女の人達の控え室があったのかと、見てはならないものを見た怖れで此処を去った。元の放射室前に戻ると例の男はもう放射時間が終ったらしく、椅子の上にはいなかった。私は寝台の上にあがると例によっておんなのことを考えようとする、時間の消える方法に没しようとしたが、この日どういうわけか、おんなという感覚がちっとも頭に来なくて、茫漠と捉えどころのないおんなのいないおんなの考えに出会した。これはこの日に初めて起ったものではなく、おんながうまく考えあてられたのはほんの二三日しかなくて、あとは今日のようにおんなはさっぱり現われて来ない日ばかりが続いていた。これは私にはもはや毎日おんなを考えようとしても、慾情が枯れかかっていることに原因があること、もはやおんなですら私のたすけになることが稀薄になっていることがわかり、無理にこの思いに突きこんでもむだであることを知った。では何処かの景色とか街とかはどうであろう、併しそんなものは猶更むだであった。むしろこの海鳴りのあるコンクリの四囲の壁がこいが次第にうすい灰鼠をあびている色はどうだろう、私は時計だけを最後に見ていた。これより外に見る物もなかったのだ。時計はとまってはいないが停っているふうをして私を欺いた。だから秒間はずっと伸びて胸ぐるしい腹這いから、少しずつらくにするためにからだをずらせると、機械にごっつりと打つかった。こういう際に地震でもあったらピアノくらいある機械の下敷になり、私はぺちゃんにへし潰れてしまわなければならない、地震が怖い。
次の日、エレベーターの前でこの男と殆ど同時に行き会い、同時にエレベーターは先に釦を押した掃除婦によって、すぐ、眼の前に停り私は手押車から飛び下りて、昇降機の中にこの男よりも先に乗りこんだ。突然の私の乗車はあきらかにこの男にその動機を判らせるものがあるくらい、粗暴で素早いものであった。井荻看護婦は手押車につかまったままエレベーターの下降を、出し抜かれた惘れ返った眼をしながらも、ちょっと待ってと言ったが下降は迅速に行われた。私はこの男がすくなくとも頸部か胸部の孰方かに放射線をあびているらしく、ひどくひふが焼けていることを知ったが、ぎょろりとした眼に人を怖れる容子もなく私の真向から視線をあびせてかかり、私も出来うる限り眼に怒りを潜ませた奴を打っかけてやった。こんなに人を憎んだためしは茲二十年くらい覚えなかったくらいだ。井荻が調べてくれなかったので奥テル子のしらべたところでは、職業は判らないが入院の日に三四人の男が、この男が寝台にあがった時にペコペコお辞儀をして次へと廊下に出ていったそうだが、恐らく何人かの雇用者を持っている男であることだけ明白であった。商事会社か何かにいる男ではないかと私は思った。
地下室に着くと私は物を引き裂くような早さで、石の廊下の上に出ると一直線にコバルト放射室の前にある、粗末な長椅子の最も事務室に近い場所に腰をおろした。順位は事務室にもっとも手近いところから呼び出されるのだ。彼は私とは反対のもっとも端の方に腰をかけ、私のやったことの意識で一杯の顔つきで、ぐにゃぐにゃの頬をふくらがしていた。これは私のうけたものの返しに彼自身で作った原因を彼自身がいま受けとっていることに間違いはない、息づまるこの廊下の物音の絶えたところで、二人の心の状態がどのように混み合ったかは判らないが、私は間もなく放射機の下の寝台にうつむきになって突っ伏し、どのように探して見ても浮ぶおんなの姿はなかった。ぷつっと切断されたおんなへの感応がなくなり、きれぎれに平常挨拶している程度のつきあいのある人等の顔が見えはしたものの、直ぐにそれらも立ち消えになった。弛い放射音が海鳴りのようにつたわる高い天井裏は見ることが出来ないが、天井の灰鼠の混凝土の上に心がとどまって遊んでいる気がし出し、それは天井が見られないために却ってそんな心が遊ぶ状態にあることを知った。天井へとせり上った大きな壁面の切れめに、ちょっとした線が一本曳かれていて、よく見ればそれは線でも何でもない一種のいんえいであることが、さびしく私の眼にえがかれた。蜻蛉や蠅でなければ行けない何物かの断層面にも似ていた。それを展望している間に驚くべき早さで三分間の時間が消去されたのだ。終射の呼鈴が鳴り渡って私は放射室からうしろも見ずに、エレベーターの方に向いて歩いた。井荻看護婦が手押車を支えて私を待ち、私は機嫌好く一階の売店のあたりをふらつくことを提案したが、井荻はこの気違いじみた患者は泌尿科行きでもなければ内科でもない、寧ろ精神科行きだといい、彼女はうまく言い当てたことで突然嬉しそうに会心の笑いを笑って、この病院にたしか神経科があった筈だとまた笑って言った。
私達が病室の廊下にかかると、例の男が看護婦と何か話し合って口を結んだまま、にっと笑った。その笑い顔はぎょろりとした眼球を柔らげ、この男も微笑することがあるのかと、決して見られないものを見た物珍らしさで私は見過した。井荻看護婦がいった。それごらんなさい、あんなお優しい顔をなさるじゃございませんかと言い、私はあなたはあの男の看護婦になって居ればいいんだ。間違って私の所に来たのだと言うと、井荻はまっぴらご免だ、あの眼球で毎日ぎょろりと見られたらたまらないと初めて本音を吐いた。
極端にきれい好きなこの病院の後架に私はつとめて通うようにしたのは、もう四ヵ月も床についていて足の利かなくなることを怖れたからだ。乳白のタイル張りは永い間見詰めていると紫色の彩感が突っ走り、タンクの水勢は谷川のへりに跼んでいるように聴える。それに私は毎日蓄尿を命じられ大きな瓶に一々尿のあるごとに、そそいでためていた。十八個ならんでいるこれら蓄尿瓶に一々その患者の名札が提げられ、どれも尿の色が死色になっても変っていない、或る尿は殆ど青い木の葉の色をしていて、それが服薬のせいだと判っていても、私にはこのみどりの尿がどれよりも悲しく眼にはいった。これが尿の色であるかと思えるくらい、水にひとしい尿色を見ても感慨はなかったのだけれど、みどり色にはまいって了った。これら尿の瓶の列を見ることは生きている証拠であって、ここではたすからない人の尿はなかったのだ。そしてどの人も尿の瓶を提げなければならないし、この大瓶にためて置くことを命じられていて、お互に尿瓶をさげていても恥かしい思いはしなかった。自分の小便を提げるということには社会では可笑しい話なのだが、ここでは尿量を自ら点検し色感を判読することに依ってわれわれ患者の、到底他人にはして貰えないしごとを自分でしていたのだ。
どの患者の量よりも少ない私の尿は、大瓶の底のほうに黄衣のすそを見るように乏しいものであったと書けば、なかなかに尿にも美観はあるが、実際は子供のおしっこくらいしかなかった。極端に水分をとらない私は後架にひんぱんに通うことがいやなのと、一度にちょっぴりしか出ない悲劇を此処でもくり返していた。いま這入ったかと思うと直ぐに出て来たり、廊下を帰りかけながらまた後架に取って返したり、少時ははばかりの周囲をうろつくのが常であった。残尿が描く尿意のはたらきは残酷に私をあやつり、殆ど何分も経たないあいだに同じ所作を反芻しなければならなかった。乏しい尿を見て私は自分に絶望し、他人が勇敢に多量のそれを行うのを隣の便器でそれを知る時、その人のしあわせがむねに来た。患者達は泌尿科でないかぎりそんなことに頓着なく、夕立のように放尿して出て行った。私はどの人よりも永く其処にいて心のあせりと悲しみの連続で、あおい顔をしている。このようにして生きることの哀れは軽井沢でも持てあましたが、あそこには夜明けの庭の中でして今はその蝉の声までが、頭にじいじい残っているが、此処ではタイルと石とコンクリイトしかなくて、土が見えなかった。土の上では尿はつねに柔らかく受けとられていた。何時か下町のドヤ街に半年も泊りこんで、そこのドヤ街人のくらしを撮った若い女の写真家が来てその写真をまとめて出版したいから、序詩を書いてくれと言いに来たことがあった。その若い写真家は以前は皇太子妃の出先とか生活とかを或る週刊誌のために、それだけの専門撮影に何年かをすごしていた。そしてそれは相当重きをなした仕事であったが、不意に去年その週刊誌の仕事を放擲して、このドヤ街にもぐり込んでそれらと生活を一緒にした折の写真集だったが、私は一人の子供が立って小便をしている一枚に見とれた。ちんぽこは白く子供の顔はあんらくそうであった。そこをこの若い写真家がねらったのも何物かを捉えていると思い、私は子供はすごいという一篇の詩を書いて手渡ししたが、皇太子妃の追っかけ写真をやめて、ドヤ街にはいりこんだということに、この写真家の思いあがりと若さとが面白く映った。彼女は皇太子妃の後を趁うて写真をとることに、心から倦怠を感じたのだ。
朝は十三四人の看護婦の人達が大きな事務室の卓を囲うて、環円をえがいて立ち、その日の仕事の受持を婦長から割り当てられていた。医看徽章の白羽箭を後ろにはねた制帽と、白衣に白い靴にいたるまで凡て白ずくめの彼女らは、唯一つの装飾である手巾だけが胸のポケットにたたまれ、うすい藍や、うすい黄色を見せているだけで、紅い手巾は一さいつかっていなかった。それらの大輪の環円人花はちょっと廊下からは花びらを見るのに似ていて、打合せが済むと花びらは弛いこなしで蕊の方からくずれて行った。私はそれを殆ど毎朝見ながら後架に入り、後架を出ていた。
幅二米半に三十米もある病室前の大廊下には、物しずかな昼間でも宵の程でも、看護婦の誰かが用向きで歩いていた。後ろ姿では胴くくりの白衣の紐がはね返り、制帽と髪とをとめてある珠が後ろで光ってみえた。横着な私は咳にむせびながらその咳の静まるのを待って、うまい煙草を夜中の一時という時間にほれぼれと喫煙していた。嘗て満洲奉天の阿片窟で寝台の上にふかぶかと居眠りながら、阿片を吸う人達を見たことがあったが、私はたった半本の喫煙に眼をほそめながらいた。この時間には消灯した廊下の方から懐中電灯の明りが副室の硝子戸を透して、次の病室のカーテンに明りをつたえて来た。間もなくドアが音もなく開いて懐中電灯が寝台の上を走り、私が起きて明けている眼を見られた、というより先刻から電灯を点けていたことをちゃんと廊下から見て知っているらしいのだ。ゆるく副室とのしきりになっているかーてんの合せめから、彼女の声が起った。お寝みになれないんですか、だったら当直の先生にそう言って睡眠薬をいただいて参りますがと言った。夜中に各室を廻る夜の守人である看護婦が、冴えた夜中の声音をひそめてそう言った。私はいま煙草を喫って目をさましていたところです、ご心配なくともいいのですとそう答え、看護婦はではおやすみなさいましと言って廊下に出て行った。大抵彼女らの見廻りにはよく寝込んでいて知らないことが多いが、懐中電灯のあかりがかーてんをとおして外部から射してくる時には、たまたま、尿の関係から私は起きて目をさましていた。僅かなことではあるが夜の守人という感じがあった。
一日に三回の注射の針は私の腕にあとを残し、そこだけ次第に固くしまって来ていた。ここの看護婦さん達はどの人も機嫌が好く、その上優しかったと言えば私がむら気でそう言うのだろうと思う人もあろうが、毎日のことではこうはしんせつにしていられないものだ。彼女達の一人はいった。毎日痛い思いをさせてわるいわね。若しお痛いようだったらそう仰言ってください、足の指先にぴりぴりとしてくるようでございましたら、そう言ってくださいといって注射をすませて出て行った。そして別の血圧をはかりに来た一人はおしっこはどういうあんばいですか、やはり先生の仰言るように洗滌管をとおして見たら、後はおらくじゃございませんかと言った。その話はずっと先に出ていたが、私は洗滌管をとおされることを嫌い、その治療をああ言い、こう言っては引延ばしていたが、現実にはどうしても管はとおさなければ排尿の苦痛が永びくことを知り覚悟はしていた。併し洗滌管をとおされることに様々な条件があっていやであった。事態はもはや私にも、どうにもならないところに急迫していたのだ。
この朝、私は仰向きにならされ洗滌の用意がはじまり、消毒薬その他のチカチカ光るステンレスの台ぐるまが引き込まれたが、私は思いついて医師や看護婦の顔を見ないことが礼儀にかなうと思って、奥テル子に目かくしの被いをして貰った。そして奥テル子に廊下に出るように言い、私は生れてはじめて他人の前で私自身の肉体で、人に隠しているところを努めて平然とあらわすことになった。私は私の馬鹿者の運命がこんなに永い間社会から隠れていたことを寧ろやむをえない、人道のしきたりだったことを守ったためであった。しかも指名手配中ともいうべきこの犯罪者は、何時かはさらし物にならなければならないしたたか者だったのだ。誰でも男という奴はこの小聡しい馬鹿者が一匹いるかぎり、はっと思う間に法規にふれたり不幸の予感なぞくそくらえという奴で、盗んだり騙したりして生涯逃げ隠れしているのだ。どんな親友でもこの逃亡者を見ることは出来なかったが、いま私の犯罪者は一人の医師と二人の看護婦の眼の前でがっちりと手錠を打たれ縛につくことになった。もはや男の数の内にはいらない柔軟動物をかかえた私は、洗滌管が尿道の奥へ膀胱のあたりまで刺しすすんだ際に、絶叫しながら苦痛のあがきで悶えたが、そんなことはこの処刑場では問題にならなかった。充分に洗滌と消毒とを施されるあいだ私は敷布を掴んだ手のひらに汗をかいて、ゆるされているような唸り声をひとこえ発しただけであった。この尿道というところはその昔の大昔から洗滌されたことのない、くらやみ続きの、鬱陶しい下水道にひとしい処であった。そこを火のような勢で洗滌管が通されるのであるから、私は歯をくいしばって我慢をし、洗滌管が早く通りすぎるねがいを持った。その間に私の恥辱感は途絶え、何やら、もじゃもじゃ人の眼がそこにそそがれているものを感じた。私はいま何人の人からそれを見られているのか、幾つの眼が馬鹿者の洗滌に当っているのか、それを私はかぞえようとしながら、洗滌管からの消毒薬の沁み亘ることをおぼえ、私はみみずの胴中を突っ通した釣鉤の状態と、みみず自身の苦痛を回顧した。実に遠い日に私はその残酷を敢て行い、さかなを釣りに行ったことがあったのだ。
一人の看護婦はもうすぐに終りますからといい、あと何分もかかりませんと言ってくれたが、私はその声におぼえがあるような気がした。一たいに完全看護はその受持によって注射でもその日によって入れ代って数人の看護婦によって行われ、一人の特定の任務に決っていなかった。私のところには確か七八人くらいの人がその日の順番によって注射に来ていたが、その内にも三人の看護婦さんが特別にやさしかった。一人は眼鏡をかけて声に唾をふくんでいるような親しみのある人、一人はひふがハムのように美しいふとりを見せた人、も一人はなりの高い愛嬌のある笑い声を持った人、この三人のうちの誰かであろうと思ったが、ステンレスの手車を取りに行った時は私は目かくししていたので、どの人だか判らなかった。手術は絶対にしない私は手術をするくらいなら現状のままでよいという考えであった。いくらも後にない命にきずをつけたくなかったからだ。以前に胃潰瘍をやったときにも手術を避け、薬で仕上げたが食い物も碌にたべずに何年間かを過したのである。それは手術の苦痛をまぬがれる愚かな私の考えで、他人のからだでない私のからだのことは私の心のままに行われる筈であって、そのためお陀仏になってもそれきりであるという例の半分やけくその考えであった。人生のことは叮嚀懇切にやるだけやって見て、それでもだめだったら一挙に蹶飛ばして去るという私の生き方は、ここに来てもなお私にからみ附いていた。
医師は洗滌を終えると、ステンレスのくるまが病室から引き出され、看護婦の去ったあとで私は眼隠しの被いを取り除いた。とにかく院外泌尿科の大家の内診察をもとめる事、それより先にカテーテルの挿入が必要であることが力説された。カテーテルは昼夜の区別なくこれを行い、尿は一さいゴム管によって別の尿瓶にとるという方針であったが、私は身震いしてこれを極度に拒否し続けた。だが、この儘では病院として療意の立場がない、どうしてもこれだけは守って貰わなければならない、そうでなかったら排尿は入院以前と変りがないと言われると、私の傾くところは次第に医師の指図に近よることになっていった。軽井沢で庭にまで排尿のため夜中に彷徨したことをかぞえると、私の行くべきところはどんな苦痛があっても、手術以外の方法としてはこのカテーテルの挿入よりほかになかったのである。ここに例の私のやけくそ観念がはたらいた。どうにでもなれ、あなたに任せたものだというあぐらをかいた感情で、私は大きく頷いてみせた。いやだったら廃めるばかりだ、からだは此方の物だし表に出ればタクシーが走っている。あとはどうにでもなれという即刻退院のやけくそが爆発するまでのがまんであった。奥テル子に私は注意していった。若し逃げ出すようなことがあったら相子を呼んで荷物を纒めるよう、幸い私はどういう時でも寝衣というものを着ずに、帯までしめて寝台にころがっていた。だから此のままのすがたで駆け出せばよかった。それに充分に歩くことが出来た。午後に私は一階までエレベーターでひそかに下降して、正面玄関と玄関から道路のすじみちをしらべ上げ、逃亡にまよわないように見て廻った。奥テル子は若し逃亡する時があったらタクシーはわたくしが見つけるといい、私に同腹を示した。一たいそれではお前は何のために入院しているのかと尋ねる人があったら、病いは治さなければならないが、私の意志まで干渉して貰いたくないという腹であった。玄関前の駐車場は一杯のくるまで埋まり、其の間を縫うて道路を突っ切ってタクシーの疾駆するあたりに出るのには、足が丈夫でもかなり困難なしごとであった。これは時刻からいえば夕暮前をえらび、奥テル子にくるまを見つけて貰うより外に手立はない、これらはたとえ実行されないにしてもそれらの謀りごとを頭に置くことが、私がまだ闊達であることの正体を見るようで愉快であった。
夕刊が来てその学芸欄を開くと、ああ、宇野浩二君という大きな見出しが、私の眼に一杯にはいって来た。その、ああ、という同じ仮名文字の重なったぐあいは、みんな、これを聴いてくれという筆者保高徳蔵さんの嘆いた叫びのような声がひそんでいて、私はまだそれの本文を読まずにいて、眼で硝子窓の方を眺める突然の余裕を生じた。人間はそんな急激な感動につきものの、そのゆとりのある短かい時間に邂逅することがあるものだ。宇野浩二が亡くなったことはとうに知っていたが、このように、ああ、と、いきなり書き立てられたものでは、もはや、ああ宇野浩二君と読んだだけで悲報は一杯につまって打つかって来るのである。キミハユキ、ワレハヤム、という打電だけで私は平常親友とまでゆかない間柄なのに、急速に宇野浩二に近づいていったのは宇野がもう生きていないことが、もとになっていた。生きていた人が死ぬことの魅力のつよさは、さすがに死というものの人一人に就いては、えがたい最後に生きたしめくくりのようなものであったからだ。
宇野浩二は近頃になって私を何となくヒイキにしてくれていた。優しい葉書を寄越してその内あの本のことも書くつもりだといい、同じ作家でも出しゃ張りの劣作ばかり叩きつけている私に、少しのこだわりや邪魔気を見せずによくやっているという、もっともふかい親しみを見せてくれていた。だからそれの嬉しさに千疋屋の前を通り葡萄を買って送ったりして、私は病友によいことをしたという晴れ気を持ったくらいであった。会合の席などでは飛びついて話をしてくれる人ではなく、間を置いてじらせるような気分の後で、短かい文学上の話をちょっとする人であった。文芸家協会の七十歳の祝いの席がずっと上手にあったが、私は広津和郎と宇野君の顔を見に行ったので、その上壇の席にいる宇野の肩をそっと叩いて、本人のことには何もいわずに広津君はどうして来ていないのかと聞くと、広津はほかに会が重なっていて来られないのだと言った。お祝いの会にも出ないような大切な会合があるのか知らと思ったが、広津君にはこんな会合にすぐさんせいしない気質もあるので、私はいくらか失望してからだの工合はどうかと宇野君にあらためて言い、そのまま人込みの中を三十分くらいぶらついて、態々宇野君のそばにまた行ってではこれで僕は失敬するからというと、お世辞をいわない宇野君は、そうかもう帰るかといったきり我々は別れてしまった。
宇野浩二は私より二年くらい前に、大正年間の文壇という壇のうえにもみあげの長い顔をすえ、室生犀星の顔にはモンスターが棲んでいると何かに書き、私が文壇の壇の上に坐りこむと或る雑誌の人が原稿依頼に来て、原稿料は幾らくらい差し上げたらよいかと聞いたから、私は宇野浩二君に支払っている額を払ってくれと答えた。その記者の人が宇野君の所に行き室生犀星がこんなふうに言ったと告げたので、宇野浩二はちょっと色をなして何もおれの原稿料を見当にしなくともよいのにと不愉快げに言ったということを、私は後で誰からかそれを耳に入れた。その大正年間の作家対記者の問答は凡て執筆依頼と同じ言葉を継いで、原稿料の額が商談されたものであった。原稿料の判定のない執筆依頼はどこかにその作家を見下げたような気配もあって、君、ところで原稿料は幾らかと早々に帰ろうとする記者をつかまえて能く聞き咎めたものだ。原稿料の額はちょっと言いにくいものであるが、大正年間では比較的に軽く交互にそれらが打ち合せられた。これは菊池寛、広津、里見、宇野あたりが習慣づけたものであろうが、作家の強みが金のうえに出ていて気丈夫でもあった。宇野浩二の名前はどういう雑誌にも執筆され、私も原稿料に眼がくらんだようによく書き、まるで宇野と書きっくらをしている大量の小説を書いていた。着物の好みに贅沢を愛した宇野浩二は宴会などでは、襟元をきちんと合せて眉の上に気色宜げなひふのあふれを見せ、一応、つねに胴ぶるいしているようであった。宇野のまわりには菊池や久米や芥川がいたのは、宇野がそこに交りこんだのか判らないが、颯爽としておとなの感じだった。少しもこどもぽくはない、宇野はつねにおとなの作家だったのである。
宇野は自宅に湯殿があったのに、銭湯を愛して本郷森川町の公衆浴場で入浴していたが、角川書店の山本さんの話では、よく銭湯で宇野に出会い、山本が退社後の夕刻の時にはいりにゆくと、何時でも、宇野に出会い熱心にからだを洗っているのを見うけた。それは洗っていたというより腰とか胸とかを、一心にみがいていると言った方がよかった。足なら足の一ところを叮嚀周到にタオルと石鹸を当てがい、わき見もしないでこすっていたそうだった。山本がひとなみの時間に入浴を済してあがろうとしても、わが宇野浩二はようやく胸をあらい始め、何時も後に残っていっかなあがる気色は見せなかった。しかも山本とはかなり前に入浴している時間があったのだ。今日は会いそうな日だと何物かを感じていると、わが宇野浩二はちゃんと先着していて熱烈にからだをみがいていた。それに、も一つ驚いたことは湯舟の中にはいっている間に、宇野はすっぽりと顔ごと湯の中にはまり込んで、やがてぶるんぶるんをして顔を持ちあげると、こんどは頭のてっぺんに湯にひたしたタオルで、ぴちゃぴちゃ叩くようにして湯加減を満喫していることであった。湯は夕刻であるから清潔であるとはいえないが、宇野浩二はそのようにして洗っては湯につかり、湯舟からあがると再び黄金をみがくように五体のすみずみまで、洗いそそいで山本さんがいてもそれには関係なく、ぶるんぶるんも遂行するそうであった。勿論、顔もおりおりは湯舟の中でお洗いになって対き合っても、そんなことは一つも気にしないふうだったと、山本さんは言った。からだの色は白い方であったが、それほど痩せていない方で肩のつけねやお腹にはたっぷりした白い肉があったと言い、あれだけ肉づいていたからやはり持つだけ持っていた病気だったのでしょうと山本さんは言った。
私はこれらの宇野君の生きたすがたを聞いてから、これは書きのこした方が後の日のために読む人があったら宜いことだと思った。そして湯舟の中で頭をしずめても宇野の場合は少しもきたない気がしないで、さぞ、ぬくぬくと好い機嫌をさそう温かさであったろうと思った。卑俗幼稚な物のくらべ方を私はしたくないが、宇野の文章というものに身体をみがいていることに似た、そんなみがき方があるような気がして此の隠れたくせの宇野浩二をいまはひたすらに想うのである。大阪の生れで明治の人である彼は何時も下町の町人サムライのぴかりとした風格があった。腕を組んで坐り工合の姿勢のよい彼は余りに後進の若い人達の作品を熱読して、読売文学賞とか芥川賞の折にはどの作家よりも沢山に読んでいる人であった。他人の物を読みすぎると自分の狭さがきゅうくつになり、つい書くことをあと廻しにすることがあるものだが、宇野にそんなことはなかったか。それとも当然我々が書けないところに趁いこまれる時期があって、早くも宇野にそれがやって来ていたのではなかったか。
宇野浩二が長期に亘って何も書かないでいるのは、書いているよりも苦しいことだろうと私は遥かに思うていた。宇野が書き出すとしたらどのあたりを突き破って出るのかと、ひまのある寝ざめの床でそれをおもうていたが、結局、今までの集大成を盛り上げるそれが一つのきっかけとなりはしないかと、会って話の工合がうまく運んだ時に進言するつもりで私はいた。ともあれ彼は私をヒイキにしてくれる同輩の一人であることが、客あれば宇野浩二を物語ってねぎろうていたわけである。
今、この東京新聞の文芸欄に眼を戻して見れば、再び保高の徳蔵さんは、ああ、宇野浩二君という見出しを私の眼の前に差しつけ、君は病院の寝台の上にそうやってああの、こうのと我儘を振り廻しているが、宇野浩二も何処かに入院加療していればもっと持つ病いだったか知れなかったのだ。それを奥さんがどんなにすすめても聞き入れなかったそうであった。一生涯自分の著書の出版記念会すら断わり続けて来て、とうとう一度もそんな賑やかなことを避けて催さなかった宇野浩二は、自分をせんでんするとか威張ってみるとかいうことをしないで、銭湯でみがきあげたからだを好みのよい着物につつんで、そして晩年その一篇も書かないで死んだ。徳蔵さんではないがああと大きく叫んで宇野をくやみ、山本君ではないがあれは全く心のあるだけで、からだをみがいていたものでしょうかねと言うことであった。何と言っても宇野の書いた最近の物では、「芥川龍之介」という評伝と、「宮中陪食記」の二篇とであろう。宇野はたいがいの人には席をゆずらない内心鉄のような作家だが、芥川龍之介にはぞっこん惚れこんで居り、その評伝にもこの人だけには他人が読んでも弱そうに見えても仕方がないという、鉄棒根性を抛げすてた友情があった。そのふかい原因には宇野が精神的にひどく病気した時、芥川がそれを友達以上にいたわって訪ねたこともあったが、芥川は週に一回くらい宇野を気づかって見舞っていたのではないか。ともあれ、芥川生前の文献ではこの宇野の「芥川龍之介」以外に、誰もこれほど日本では書けそうな作家はいない、今のところ日本で一篇しかない評伝なのである。それと同時に宮中賜餐記の一文もこまかい眼くばりがあって、これもまた日本一であった。斎藤茂吉さんのことなぞ生きるがごとく書かれてある。名随筆家であって遂にその名随筆家であることすらも気にしなかったことの、今にして思うと、ゆかしいかぎりの宇野の浩さんではないか。
コバルト行きの手押車の上から、私は眼のぎょろりとした例の男を捜して歩いた。エレベーターの前にも、放射線室の冷たいコンクリの廊下にも、この男のすがたはなかった。私のコバルト行きはこの男に会い、この男と睨み合い憎しみ合うことで患者という弱りはてた世界から、縋りついた人間くさい物をたよりにしていたので、彼に会わないというあての外れたことは大きかった。あらゆる患者という者は突然に何処かに行っていなくなるものだ、退院するか、死去するか、この二つの道しか患者の往くところはなかった。朱いさかなや白いさかなを料理した食卓のある所に帰って行くか、それでなかったら冷たい供え膳の向うに一枚の写真にいやでもおさまり返っていなければならないのだ。
私は男をさがして歩いた。廊下、後架、喫煙室というところ、開いている病室、勿論、コバルトへのエレベーターや地下の廊下にも、男のぎょろりとした眼つき、精悍なからだつきが見られなかった。井荻看護婦も彼の退院したことを私に告げた。何故、このように執拗く彼をさがさなければならないのか、人間はお互に知らない者同士が眼とか頭とかでその生活を少しでも知ると、後篇ともいうべきその人間を何かの弾みに知りたくなるものだ。どれだけ沢山の患者がいても、それぞれに死をまもる孤独の病院にいては、取り分け私のように憎しみを持って対う男と、その憎しみでさえ一つの冷酷な友情に変貌しつつあることがあり得るではないか。
四二二号室の八十歳になる老人が死去した。四二二号は私の左隣室の患者で鼻孔から食物を摂り、死はさし迫った時日の問題になっていたが、この老人の自家用車は毎日病院の駐車場に停車していて、制服の運転手が終日威儀を正して何かを読み、乗車の見込みのない四二二号患者のため、夜おそくまでさん然とした車体をかがやかして待機していた。たまに看護婦が買物につかうくらいがせいぜいで、二年間同じ処に同じ運転手が四二二号患者のために駐車していたのだ。
四二二号患者は夜おそくにも看護婦の名前を続けて呼んでいた。深夜はよくわかるその声音に私はとうとうなじみを持ったが、突然、昨夜からその声が絶えてしまった。私は医師と看護婦の靴音をかぞえ、ひっそりした中にある包みきれない物音を胸に算えた。今朝、眼がさめると、私はすぐ窓から駐車場と、自家用車の数と、例のさん然たる車が其処にないことをみとめた。四二二号患者はついに二年間病院前の広場に駐車させていたが、乗車はしないで死去したのであった。この老人の附添看護婦にキノシタさんという人がいるらしく、急きこんだ語調で何時もキノシタさんと呼ぶ声は必ず二た声続いて起り、そして後は静眠を得るらしく静かになっていた。キノシタさんは私にはしだいに美人になって見えたくらいだ。顔も見ない人の声ばかりになじみを感じていることは、大抵、その顔つきがそこらの老人にありがちな容子を見せてくるからである。八十八歳であっても生きねばならないことに変りはなかろう、五十歳六十歳の小僧っ子から見たら、それだけ永く生きていたら沢山だというかも知れないが、八十八歳の人はまだまだ生きなければ損だと真面目に考えているのだ。生きることに限度はない、永く生きることは予測することの出来ない慾のふかさとも言えるだろう。
どんなせき込んだ苦しい咳をしているあいだでも、隙を見てほんの二三服の喫煙を私は敢行していた。そしてどんなにひっそりした愛喫のあいだでも、右隣の亜米利加人の中年よりか年とった夫人が、誰かが煙草をのんでいると絶叫しつづけて、しまいには寝台から飛び降りて苦しみ出した。それは十遍に三度くらいは私の喫煙を言い当てているようでもあるが、その騒乱と苦痛とは狂気するまで昇りつめた呻き声なのだ。看護婦と医師とが詰めかけ注射をする時もあれば、鎮まるまで医師が彼女を抱きしめている瞬間もあったくらいだ。それ故、私は私の喫煙が不幸な彼女の妄想に似た煙草の臭気をかぎ出さない、私自身の神経の上の安らかな時をえらんで、喫煙しなければならなかった。実際は煙草の臭いが隣室に洩れることは、厚い防音装置のある壁のすき間から洩れることは、絶対にありえないことであった。であるのに、誰かが煙草を喫み、その臭いがわたしの病室に充満していると叫び出すのだ。だから私は夜おそく一人で喫煙する時には寝台にあぐらを組み、隣室の夫人が起きているかどうかを物音で確かめてから、物を盗むように喫煙するのである。そういう喫煙はまずかろう筈がない、眼を細めて確かにいま煙草をあじおうているという意識のもとで、この山の煙を吸うのである。そして夫人が暴れ出さないことが判るとぺろりと舌を出して、自嘲の念いに耐えないのだ。
その日ついに予定のカテーテルの挿入が行われた。それはゴム製の細い管で膀胱までとどいていて、尿はその管をつたって排出され、放尿以外の時はカテーテルの先端を二つに折り、ねじ附の鍵をかけることになっていた。用尿の折はその鍵を外してこれを行うのだが、相当に重いこの鍵はぶらんぶらんしていて、錘に似ていた。私はこの錘を垂れて人生からさらに何物かを釣り上げようとしているのかと、苦笑してこの金具にさわって見たりした。更にこの物はむかしの貞操帯に似ていて、男で不埒な人間はこの鍵のあるカテーテルを常日頃通して置くべきだと、また苦笑して面白がったが、間もなく私は横になっても仰臥してみても、膀胱にさわるカテーテルの先端の触疼が、一時間後からはじまって耐えていられぬようになった。起きようとすれば坐ったまま刺される状態になり、寝台の上を四ツ這いになるより外はなかった。この日から食慾はなくなり終日その疼痛と向い合せになって、ようやく立って歩く時しか痛みをのがれることが出来なかった。併し排尿はうまくゴムの間を通って音を立てて奔流の勢いで出たが、それと、管が通されている苦痛とをくらべると、私は困難苦渋の排尿の方がまだらくなような気がして、主治医にそれをうったえたが、せめて一週間は耐えて貰わないと内部を広くひろげる治療の目標に達しないと言われた。私はその一週間という長時間のカテーテル挿入には、頭が暗くなって呻いた。こんな物は二三日で目的が達せられなかったら一週間だって同じだと思ったが、私はすでに一さいをまもらなければならない一患者としての存在のほかには、何者にも代れなかった。私はツツツという短かいきれぎれの叫びごえと、こいつを引き抜いて暫くの時間でもらくになる方法がないものかと思い惑った。夜中に寝台から下りて冷蔵庫にある冷水をあおりに出かけ、そこらをぐるぐる歩きまわった。奥テル子の目をさまさないため足音を盗み、息をひそめて下りたが、どういう用意ふかく寝台から下りても、窓際にある奥テル子の眼がぱっちりと私がスリッパを引っかけた時には、もうあいていた。少女とはこんな者かと思うたが、もう三週間も附添っていてくれる奥テル子には、毎晩二時間ごとにおしっこに起きる私の習慣が、奥テル子にもそれと同じ眼聡い感応が待ち伏せにしているらしい、夜になると上気している寝顔は火照って湯気が立っているようである。私は叱るように奥テル子に言った。眼をさまさないで寝ていてくれ、一人で起きている方が気がらくだ、寝ると痛み出してくるんだといっても結局寝なければならなかった。寝台の毛布は外れているし尿は尿器にみちているし、湯たんぽの湯は冷えていた。
娘の相子は四時から五時の間に、夕食のさかな、おひたし物などを料理し毎日大森から通い、八時の外来客の帰る時刻にかえって行ったが、私はさかなも刺身にも手をつけないでぶどうとか梨とかメロンしか食えなかった。しまいにはぶどうの青い球を見ただけで、もうやめていた。食物よりも苦痛のひろがり方が大きい、その中にいる間は何も食えなかった。私はうけ取った金をまだ受けとらぬといい出し、今日来た客は誰だったかといい、すでに三度も来てくれた人がまだ一度も見舞いに来てくれないと言うほどの記憶の喪失に打つかっていた。カテーテル挿入四日後には咳まで烈しくなり、まるで自分でも苦痛を誇大にあつかっているのではないかという疑いまで生じた。相子の顔がすぐそこにあるのに、遠くにいる視覚の混乱さえもおぼえ出した。五日目に主治医は一週間ではどれほどの効果があるか覚束ないといい、さらに二三日延期するような口振りであったのに、私はこれ以上通されとおしでたまるものかと思い、あんたんとして井荻看護婦に対って言った。こいつを抜いていて恰も挿入しているような状態にいられないものかと大きな声を発した時に、若い主治医はドアの音も立てずに副室に這入り、耳にはいる私の言葉を聞き取ったらしく、病室にはいって来た時には幾らかきびしい顔つきであった。この若い主治医は叮嚀でしんせつというものの境のこえるくらい、やさしかった。主治医は膀胱の上から下にかけて何時も物柔らかに尿の下降をはかるため、なまの手でさすり下ろしていた。それも時間をかけた寛大なものであったが、皺苦茶の腹から下をさするということに私は誰がこれを敢てしてくれる人があるか、この人のほかにこれに少しの厭気を見せずにしてくれる人がいないと、秋成主治医の前でこれらの観念のあるときは温和しくしていた。だが、二三日延期して完全な治療効果をねらうことに、私は身ぶるいしてこれに反対した。若し一週間で通じなかったらまた改めて挿入するということにし、今のところ一週間で打ち切ることを私は言い張った。すでに私の憔悴が極端に異常であることを見取った秋成主治医は、では、そういうことにすると言って扉から出て行った。
その日の夕刻、私は相子の顔を見て今日は何時もとは化粧の方法がちがっているのかといい、何時もより冴えている顔をながめた。奥テル子の顔の容子も何時もよりずっと近くで見たような透明さがあった。窓の外の亜米利加大使館の星条旗のひらめくのを見上げたときにも、その鮮明さの彩りがなまなましいくらいに見えた。私自身はからだが軽快になり気分のはればれしさは、煙草の味わいが肉をたべるようにうまかった。こんな日もあるのかと寝台から下りて放尿の用意にかかろうとして初めて気づいた。カテーテルを何処かに落してしまっていたのだ。らくもらくの筈だ。私は寝台の上にあぐらをかいて展望した。おれのカテーテルは何処にあるのかと、誰もそれを知らないしそれを捜し廻る必要もない、三十分でも一時間でもこうしていてやろうと、奥テル子がどうして急にあんなに私の機嫌が好くなったのかという顔をし、相子が剥いて出した梨の白い頭をじゃぶじゃぶ齧り出した。
その時、副室から這入って来た井荻看護婦はアルミの盆を捧げるように持ち、その盆の上に私の落したカテーテルが載せられているのを私はじろりと睨んだ。長いゴムと、鋼鉄の鍵と、こいつが私を苦しめ飽くこともなくつけ廻しているのだと、むしろ穢い物を見る無関心さで鼻先でふふんとあしらった。相子とテル子が笑ったが井荻看護婦は笑わずに冷静な語調で、副室の閾際に落ちていたので只今消毒を済したところだといい、秋成主治医に電話して来ていただきましょうかと言った。私は答えた。いま少時そっとしていてくれたまえ、尠くとも夕方まで僕は久しぶりでのうのうしていたい、夕方になれば縛につこう、それまではせめて寝台の上で好き放題に起きたり寝たりしていたい、あなたが看護婦ならそれくらい解ってくれる筈だといい、盆の上の代物に私は手巾をかぶせて視界から遠ざけた。併し井荻看護婦は冷静すぎるくらい物穏やかに言った。カテーテルの外れたのを見ていながら、その儘患者さんの好きにさせて置いては主治医先生に私は何と弁明してよいか、看護婦という立場にいる者の責任も少し考えてやってくださいと本気になって言った。そして今日から病室前には担架の患者さんの扱いになり、「担」の標識が出ているくらいですと言った。私は相子の方に向いてこんなにぴんぴんしているのに、担架患者もないもんだと言い、相子はでは秋成先生にそれを申し上げましょうと言った。
とにかく夕刻までこのままにして置いてくれと、私はしばらくでもからりとしていたくなり、夕刻までたっぷり二時間あるので茶を喫み煙草を吸い、花を生けかえて貰い、廊下に出て見て成程「担」という病札がぶら下がっているのを確かめた。エレベーター前の控えの長椅子に手術を終え健康をとりもどした患者達は、患者という名前から街の紳士に早変りして、うまそうに喫煙のけむりの中に互に話し合っていた。病室で喫煙してはいけないのかと、愚鈍な私ははじめて首をすっこめた。
夕方、ふたたびカテーテルが挿入され、私の眼はかすみ穴の中にはまり込んで身動きも出来ない態になった。疼きはあたらしい荊の尖を突っ刺して来るのだ。併し私は黙ってこれらの一さいが終った時、逃亡感が実際にはどの程度に行われるかは判らないが、院外の街路とタクシーと、ふらりと出て一分間以内に此処をはなれることに頭が奪られた。それはただの一分間でやけくその私の別の一日がやって来るということであった。
今日泌尿の大家である安西博士の往診があるという秋成主治医の前ぶれがあって、午後安西博士が来診、博士はカテーテル挿入の苦痛は、なれてしまえば入歯と同じであるという説を述べ、私は入歯とはうまい比較論だと思い、入歯も入歯、たいへんな入歯だと思った。安西博士はゴムの手袋の消毒等について看護婦に質問をしてから、内診の用意にかかったが、突然、看護婦のしごとのしづらいことが毛にあること、長い毛が邪魔をしているらしく、毛は刈った方がいいね、と言った。けれども看護婦は刈るにしてもその毛の位置について博士に聞き糺したが、博士はそこらの長いのから刈りたまえと言った。私は例によって自分の案による目隠しをして、その下で一たい刈るとか刈らんとか言うのは何を意味しているのか、あるいはこれは例の毛のことではないかと息をひそめてうかがった。毛を刈るのなら一応私の毛であるから私の承諾をとるのが本筋であるが、この場合それらの質問をすることが診行をさまたげるようで控えられ、どうせ生えていてもいなくとも、いい年をしているからには構わんわいという気がしたが、どの程度に刈られるかということが私には現識としての問題になった。病院附の看護婦はではお切りいたしますが、どの程度にお切りしますかという彼女の質問にたいして博士は、恐らく指先でここと、ここらあたりというふうの指図をしているらしく、沈黙が続いたあと私は鋏がさらさらと毛の上を走るのを知った時には、もう毛は刈られて了った後であった。私は目隠しの下からとうとう毛まで刈られたかと思い、たいがいの人間はかかる不祥事の場合にのぞむことは生涯にまたとあるまい、刈られた毛はあらためて貰い受け、これは懇篤に秘蔵するか土の中に埋めるかしたかったが、いくら私がバカモノでも、その毛はこちらに貰って置きますとは言い出されなかった。
安西博士は膀胱には大した故障はない、これはこのままカテーテル療法が適当だと言い、少しも勿体ぶった診察をしなかった。その正直な表現とは反対にいままでよりかカテーテルの挿入が深くはいったらしく、疼痛は烈しく私に身震いをさせた。一たい先刻の毛はどのあたりにあるのかと、眼隠しの下から覗こうとしたが看護婦の背中が邪魔をして、その毛の包みが見られなかった。包みというが恐らく包んでなんかなくて直ぐにゴミと同様に焼却されるものであろうが、博士と看護婦達が手術器類をのせたアルミの手押ぐるまと一緒に、病室から出て行った時に何となく私はその毛だけは置いてゆかせようと井荻看護婦に、烈しい声音を立てて本気になって言った。先刻刈り取った毛をみんなの知らないあいだに、受持看護婦にだけそう言って取って来てください、博士や主治医には気がつかないように言うんだと、私は井荻の顔を睨むようにしたが、彼女は私の顔をまじまじと眺め入り、その中に惘れた物言いにたいする茫然の気味までたたえて見せ、次には薄ら笑いが悄んぼりとのぼった。彼女は言った。そんな馬鹿なことがどうして言えますか。あんな物を取って置こうなんて言った患者さんなんて、世界にも恐らく一人もないでしょう。たとえば、患者さんが取ってお置きになっても結局明日か明後日になれば、取り棄てるよう仰言るにちがいございません。誰でもその瞬間にはそういうお気持になるものでしょうが、それも、ほんの一時間くらいのあいだでしょうと彼女は言った。その時私は井荻看護婦に説明してもわかりにくいことを考えていた。つまり私の毛その物よりも、この物が永い間私のからだにあったことの、余情の容易ならざることをつたえたかった。つまり今の今まであたためられていた奴を人手に渡す前にちょっとこれを見入ってから、では、あとかたもなく焼かれたまえと言うほどのそんな気を井荻に話したかったのだ。井荻は間もなく奥テル子に言ったそうだ。物を書く方なんてもっとお立派なことを考えていらっしゃると思っていたのに、何時も人間の鏡にならないことばかりを考えていらっしゃる。あれで作家なんて呆れたもんだと言った。これにも私は説明しにくい細かさが心にあったが説く機会がなかった。
その日から勿論食慾のない舌は自分の舌でない借り物のように硬くなり、私はわめいた。こんどはもっと酷くなったぞ、このあんばいだと閉尿よりも苦痛が倍加しているようだと、誰にいうとなく独り言をいった。井荻看護婦は例によって少しも私の苦痛には味方をしないで、尿量にこだわってこれを計ることを怠らない、彼女は尿器の目盛りをすかして見ては日誌に書き込み、はばかりでなさらないようにと注意して言った。
夜九時の服薬を配って来た病院附の、あまり来たことのない看護婦さんに私はカテーテル挿入の苦痛をうったえて、痛み止めの注射を一本打って貰えないだろうか、今夜はとても睡れそうもないと言ったが、彼女はたとえ注射を打ってもカテーテルが入っている以上、痛みがとまらないと言った。併し痛いのは私の肉体であってカテーテルとは別問題ではないかと私は迫り、看護婦は挿入物を取り除けば痛みがとまるのであるから注射してもその効力はない、それでも注射をと仰言るなら宿直の先生にうかがってから致します。わたくし達は先生の指示によってのみ働いていると言い、その言葉は一応もっともに思えたが、端麗ではあるがつめたい規律をまもり続けているこの人の顔を、寝台のうえからうらめしく私は見上げた。そしてあなたの言うことはみんな判ったと私はやっとからだを横に直した。
十時過ぎに冷蔵庫の水を飲みに寝台から下りたが、さらに廊下に出て後架に行った。そこで用便を済した私は何気なく其処の階段を下って行き、また、次々にある階段を下りると其処は一階であって私は降りなくともよい四階から、只、茫然と一階まで降りて了ったことに気がついた。そこにポストがあってもう廊下を歩く人もまれであった。失敗ったと思ったがさすがの私も七月から十月まで寝込んでいたのであるから、この四階までの大階段は登りきれるものではなかった。十段くらいずつ登っては憩み、さらにまた十段ずつ登りはじめた。その時、上の階段から誰かが降りて来る靴音がしたので立ち停ったが、それは私を捜している奥テル子ではないかと立ち竦んだが、当にしたテル子ではなかった。錯覚も相当にひどく曲りくねっていることを、初めてこの間違いによって発見した。私は半分くらい登った階段に腰を下ろし、膝頭にめまいが来るようなふらふらしたものを覚え、抱き膝をして大病院の深更と向い合った。
枕元の壁にもうけた受話器は此方からは話が通じないで、看護婦の事務室から始終かかって来た。何々先生がそこにいらっしったらブザーを押してください、何々さんがいらしったら事務室に連絡してください、夕方には、夕刊がまいりましたからお歩きになれる方は取りにいらしってください、という声がかかると電話が嫌いで何十年も架設していない大森の家とは違って、一々その返事をしなければならなかった。午後の四時半から五時までの間に毎日娘の相子が病室に現われるので、大概、四時半すぎると事務室から電話の取次が三十分くらいの短時間に、何本もかかって来た。そちらに相子さんて方がいらっしったら電話口にまですぐいらっしってくださいとか、相子さんがまだいらっしゃらなかったら、誰方か附添の方に代って出てくださいとか、若し相子さんがいらっしったらこれから直ぐにお伺いしますから、そうお伝えくださいとか、そういう電話が込みあうと今かかったのに、もう次の人からかかって来た。それらの電話の主はどういうものか名前が明らかにされなかった。相子の友人とか婦人記者とかでいわば私と共通の電話のぬしなのであるが、私にはかけないでみな相子の方にかかって来て、相子がいないと名前も言わないでいるところに、私への遠慮が女の人の細かい気づかいにあった。その間に例の外科の何々先生がいらしったら至急にれんらくしてくださいというのが交ったりして、私は何々先生はここにいられませんと大きい声で返事しなければならなかった。その間にご面会のお客様でございますから附添の方に事務所前までいらっしってくださいとか、只今、生きた鯉をお持ちになりこれを上げてくださいと言ってお帰りになられたお客様がございますので、直ぐその処置をしてくださいというのがあったりして、病院に生きた鯉を持ち込んで料理して食えとは、何と手数のかかったご仁であろうと、はこばれた鯉の背中を見ただけでも、カテーテルを刺しこんだ膀胱の痛みが一段と加わる思いであった。この生きた鯉の背中にざっくりと庖丁が切り放たれることは、病室ではとうてい想像することも出来ない難事業であった。こんな生きた鯉なぞを搬んで来てどうして料理させるつもりなのか。しらべると高等小学の画の教師をしている人で、新聞は取らないで読んだことのない男であった。
只今お客様が二組いらっしって相子さんに喫煙椅子の方でお話したいと仰言っていらっしゃいますが、附添の方もいま他出中だといたしますと、どう計らったらよろしゅうございますかと言うのがあって、私は寝台から下りかけてみたものの担架の病人がのこのこ、客の前まで歩いてゆくのも嘘つきのように思われ、また寝台に上って電話の様子をうかがったり、膀胱の痛さは痛し電話はしきりなしにかかるし、井荻は買物に行き奥テル子は薬を取りに行っている。どうにもならない所にまた電話でコバルト放射室が空いたから直ぐ治療を受けるように、係の看護婦がそう言いに来たりして私は寝台の上で額に汗をかいて、くらくらしていた。病院にいてもこんな時間に隙間もない生活をしていたら、何処にいったら一たい息をつける処があるのだろう、その間に三回目の午後の注射があったり採血試験に化学注射の日が廻って来て、一日三回の検温するひまもわすれがちな忙殺の暮しであった。私は体温計を脇の下にはさみ込みながら、遅れた検温を飯をくいながら試みていて初めて病人という奴には生きるか死ぬかの忙しさがあるので、その忙しさがつみ重なった向うに生きる者と、そうでないものらが区別される処があるのだ、死ぬにも、生きるにも人間はひまでいるわけにはゆかない、もっとも沢山に生きようとするにも、もっとも多くの忙しい目にあわなければならないのだ、けれども、私自身は何が何やら区別も出来ないまま今はこの生きた鯉の裁判からしてかからねばならなかった。鯉はその習性から一躍すると床の上一面に飛沫を打っかけ、私は寝台の上から彼がついに床の上にまで飛び上がるかも知れない予感で、何時でも下りられる用意までしてかかった。病院に鯉を持ちこむとは、何度言っても同じことだが、一体これはどういう気であろう。
私の癇癪と局部の疼きはこれらの電話の取次ぎで、心理的に一層いらいらしくなりブザーなぞ押すもんかと叫ぶように言い、この間に見舞客があるとその人の顔がかすんだように見え、この前より余程お元気になられましたと言われると、私はこの前なんて今日初めていらっしったくせにと問い返す程の記憶力の喪失が再びはげしかった。その証拠には見舞客がどういう服装であったかも不明で、只、顔ばかりが茫やりと客の椅子の上に見えるばかりであった。毎日のことなので副室との間から這入って来る客の顔をみると、ぎょっとして瞬きのない一瞥のあいだにそれが誰であるかを見定めようとしていた。苦痛は視覚をさまたげる、人間違いばかりしているので変な眼つきをするようになったのである。
坐っている苦痛は歩くことでらくになれた。地下室までエレベーターで降りると、私は霊安室の前まで行き、霊安室というからには何処かいんさんな景情であろうと思ったが、締った扉の中は見えないが普通の病室と変りがなかった。それが変って見えるというのは私の方に無理をした考えを持つからだと思った。その霊安室と背中合せに洗濯物にアイロンを当てる工場の大きさくらいある、洗濯屋さんの仕事場があった。医師の白い上着や百五十人もいる看護婦の白衣や作業服が、真白にかがやいて紙のように緻密にアイロンが当てられていた。ここにはお隣の霊安室の死の気はいさえない、死もアイロンで白く清められている感じであった。私はエレベーターの前まで戻って来た時、かれこれ五時に近く廊下の電灯が点いたばかりの時間であった。にわかに頭脳が明晰になりからだが軽快になった。これは可笑しいぞと思うと気をつけるでもなく前の方に手を廻すと、何時の間にかカテーテルが抜け落ちていることを知った。何処か廊下で落したらしく勿論引き返して捜すほどの気はない、抜けて落ちる物なら打抛って置いた方がよいと私は元気になって、エレベーターから飛び出すと私を捜すための、井荻看護婦がいくらか硬い顔立で立っていた。カテーテルを落していま捜しているんだが見えない、誰かが拾ったのだろうというと、井荻はそんなに嬉しそうなお顔をなさいましても、すぐ、入れなければならないのにお気の毒みたいですと彼女は私を初めて憐れんだ。私は強く言った。もう僕のカテーテルは取り除く時期は来ているし、今度は絶対に挿入しないつもりだ、君がぐずぐず言うなら君にも出て行って貰いたいくらいだと私は先に立って歩いた。井荻は後ろから蹤いて来てあなたが旨く主治医さんに言い含めが出来る自信がおありなら、そう仰言ったらいいでしょう。わたくしを追い出したってカテーテルの待ち伏せをどうすることも出来ないでしょうにと、この確り者は言った。
午後廻診の時、カテーテルが抜け落ちたことを告げ、私はこの儘だと体力の消耗が烈しく精神的の萎縮が甚だしい、それに苦痛も想像外の酷い影響があるから、これを機会にカテーテル挿入を一時中止して排尿奈何をためして見たらどうでしょう。それでも放尿が困難であったらあらためて入れることにし、休息期間という名義で一二日入れないで症状を見たらどうでしょうかと、私は熱心に真面目切ってそういうと、秋成主治医の眼色が特に私の説をくつがえそうとする動きが見られないので、これは旨くゆくかも知れないと思った。主治医はでは二三日容態を見てからにしても遅くはないと、何の抵抗もなくスラスラと困難な問題が解決のはこびになり、井荻看護婦の顔を私はそっと睨みつけた。彼女は、あと二三日お入れになればようございますのにと反撥を見せたが、この中年婦人は口ではそう言いながら眼つきで旨くゆきましたね、と、微笑がそれをつたえているようであった。冷たいふうもするが、それとは反対に柔和なものをどこかに隠している複雑さがあった。
医師が去って私は鏡を見ながら抗生物質の副作用で、顔一面に渋茶色の日焼に似た色が貼りつけられているのを見た。まるでフィリッピンから来た男のつらつきであった。カテーテルを除いた私は寝台から猿のように飛び下りたり一息に飛び上ったりする程、快調きわまりない軽いからだつきになって何かが急に食いたくなった。昼食の時、奥テル子のお膳の上を見て、そこに海苔で巻いたおひたしの緑、ゆで卵、焼ざかなのあぶりの照りを眺め、なかんずく若さぎの酢和えが眼をとらえた。つまり奥テル子は私の特等食を毎日食べていて、食慾を失った私はパンの一片と牛乳と卵よりしか、喉にとおしていなかったのだ。私は奥テル子からその若さぎの酢和えを貰い、熱い粥が食べたくなった。粥というもの、飯というものは十年も食わずパン食ばかり続けて来たが、粥がつやのある乳色の趣きをもって、幼穉な食慾をそそった。今までも粥は食べていたが今日ほど切にそれを要求したことがなかった。例の冷蔵庫で冷した水をがぶがぶ飲み、食事はがつがつして相子が到着する午後の五時には、今日何を用意して来たかが待たれた。玉子焼、刺身、煮ざかな、おひたしに干物というふうに、近くの料理屋からの仕出しもならべて、相子は弁当箱を用意して向う側にある晩は寝台に早変りする深い腰かけに、奥テル子とならんで飯を食べていた。一人の老いたガキと、二人の若いガキは物もいわずに食事時間が、早過ぎて済むのを惜しんでいるくらいであった。
二三日後から私は烈しい咳はしていたが、なおった患者のつらつきで病院の廊下を歩いた。何時の間にか私は顔見知りの看護婦さんから、一様におしょう水が出ますかと見舞いの言葉を受け、私はもうすっかり治りましたと答えた。どうしてしょう水の出ないのがこんなに評判になったのかと思った。僅かに主治医のたった一遍のうなずきで、私は斯様に快活になれたのだ。病院での医師の意志というものがどんなに患者にとって、大きく苦悩をとりのぞく元になることか。排尿の快適さを白いタイルの上に踏んで、しゃあとやることは、実に半年ぶりであった。まだか、まだか、という軽井沢でのはばかりの声は耳にあるが、まだか、まだかと呼び続けるようなその声は山の上からもして来たようだ。
コバルト放射線室の事務室には、いつも一人の若い医師しかいなかった。白い上着とズボンとが運搬用エレベーターから降りると、混凝土のとんねる様式の長い廊下に出るとすぐにその白衣の姿が見えた。十分間くらいの放射を必要とする患者は、寝台車とか手押車で次からはこばれ、医師はそのこまかい十分間置きの患者に機械の操作を試みるのだが、おちつかない忙しいしごとの繁雑さが私にもよく察せられた。ただ、一枚の新聞を折り返して読むよりほかに、長い物は読めない時間と時間にきめられた仕事は、八分とか十分間置きに放射線室の患者を廊下にみちびき出さねばならず、機械の運転を患者ごとにあらためねばならなかった。二週間くらいの交替勤務らしく最初に会った医師には、とうとう行き会うことがなかった。地下室の重厚頑丈な混凝土の冷却しきった通路は、どうかすると両側の壁面が相互にせり出て圧搾して来るような受射後の疲労感が足もとをふらつかせた。その日もエレベーターから降りて通路に出ようとする、コンクリの壁面の曲り角に私がひょいと現われた時に、向うの放射線室にみちびかれて這入って行った一人の男が、これも、ひょっと私の方を見た。その眼のぎょろりとした口もとのぐにゃぐにゃしたのに、なりの高い小肥りの肩の怒ったあんばいは、例のいつでもエレベーターの先乗りをした男であった。ここに来ているとすれば再入院したものに違いない、彼はとうに退院している筈なのだ。私は待ち合いの床の椅子に腰をおろすと時計を見入った。十分すればあの男の顔が見られる。少しも慈悲というものをもたない強い眼つきに対きあえるのだ。私はわずか二三日で自分の体力の増益しているのを感じ、あの男の眼光にむき合える気がして来た。自分の嫌いな男にぴたっと眼を合すことは迂愚の沙汰だろうか、五米前あたりから私は瞬きのない眼を向け、その男も負けるものかというぎょろりとした例の眼つきを私にあびせかけた。その男も私同様私を憎むことによって私の存在をとうから嫌っていることが予知された。擦れ違う時に二人は眼を合せただけで、その眼が限界に来ている睨みあいの発展もなく、彼はエレベーターの方に行き、私は放射線室に順番を得て這入って行った。間もなく今までなかった動悸が打ちはじめ、私の髪の根がいたみ俯向きになって放射を受ける用意にかかった。何というむだな時間をあの男の前でついやしたことだろうと、私はそれをくやしく感じた。遠い海鳴りが例によって起り、広やかな冷却しきったこの放射線室に私は十分五秒の永い時間をむかえた。もう思いうかべるおんなの姿もなく只の患者として石のころがるように転がっていた。誰にこんな時間に此処に転がっている私のことを告げよう。
終射後、今日も手押車や寝台車が何台も廊下に続いた。患者が婦人の場合、すべてが白い車上に女の髪だけが、乱れて生気を帯びて見られ、怖いほど髪というものの表情がばっさり束ねたあたりから、妖気を見せ、いきいきと其処だけがとぐろを巻いて、いくらかの懐しみさえ見せていた。
夜中に眼をさましていると、この頃きまって頭の中で原稿を書くようになった。或る新聞に一ヵ月くらい書く約束のある履歴書風の文体が、毎晩永い時は二時間くらい、うつうつしていながらそれを頭の中で書いていた。七、八、九、十、十一月の五ヵ月間原稿や葉書の返事も書くことに全然気のなかった私は、そこらを睨んで見て戻って来たぞ、あいつが戻って来てうずき始めたぞと病室を眺めわたした。あいつが戻って来たからには私はもう書けるようになったのかも知れぬ。健康がもどって来る時に連れた文章という物も、つづまり私と同様に永い間病臥していて治れば二人づれで仲よく戻るわけになるのだ。文章という奴も白魚や若さぎの水中の列を見るように、はてもなく見えている。あれを書きこれを起し題は何とつけたらよいか、私は起きて蛍光灯の一般照明灯を点け、さらに等身くらいある電気スタンドをともし、病室の白昼を呼び戻して見た。文章の怨霊ともいう奴はそれらの強い光の中でも消えることなく、私の頭に少しの危気ない順序を立てて現われた。たしかに奴が戻って来たことが確かめられた。
私はガキのようになって食う物を一日ずつふやし、膳の上についている物をみんな食った。五時に大きい包みを提げてあらわれる相子の靴音を、時計に睨みあわせて待った。京橋の寿司屋に生きたコチとか鰈とかを料理する店があったが、相子はそこでさしみを仕入れ、煮附にするまぐろを仕入れ、その包みをひろげているのを寝台の上から眺め、その男は鴉のように食うことを急いだ。鴉は爪の音を立てて寝台の鉄の棒をかりかりやって、抗生物質で焼けたフィリッピン人のような額を拭いた。この鴉は一人で食っているというより、どうやら例の怨霊と一緒に箸をつかっているようだ。胃の悪いこの男が一人で斯様に大量に物を食う筈がないように思えたからである。ガキのような男は最後にのこした一とつまみの菜っ葉の屑を見て、それを食べようか食べまいかに打ち迷い、箸をつかいながら食慾というものと対い合って、決断のつかない有様だった。一とつまみの菜っ葉に何があろう、何がこの男にはたらくというのであろう、だが、この男のこの夕方の思いはここから去らなかったのだ、ここにみな集められていたのだ。更に幾すじかのさかなのさしみというものも、皿の上にのこっていて、切り口に青貝のような光を見せていた。ガキの箸はその上を舞い上っていはしていたものの、下降してつまみ上げることが最早なかった。
男はやはり毎晩書くことになやまされた。書ける気が厚くなってそれを行うことが治療の側でも、いりようであった。丁度、退院ということの打ち合せを秋成主治医と話をすました午後に、一人の看護婦さんが私の著書を持って三人の同僚からたのまれて署名をもとめに来た。それは何となく私をあつかうのにしんせつだった三人の看護婦さん達だった。私は言った、明日此処を立とうとしているのに署名もないもんだ。もっと先にそれを言って貰えば同じ注射をしてもらうにも、そんなに痛いとは思わなかっただろうにと私はわらって言った。彼女はそうは気がついてはいましたが仕事と私事とが一しょになるのが恥かしくてといった。間もなく病室の中はトラックの運転手や運搬人の出入りで、荷物が動きはじめた。私は井荻看護婦を眼でさがしている間にもう廊下に出てしまい、階下に何かの打ち合せに行っている井荻に会えなかった。が、井荻にも礼の一つは言いたかったのだ。エレベーターが下降して来てそれに乗りこんだ私は、誰かと話をして廊下の方を見なかったが、大勢の人が立っている様子は見られたけれど、秋成主治医と例の三人の看護婦さんが見送ってくれていたことは、後に相子から聞いて知った。それから退院後のレントゲン写映のために通う病院で、一度は四階の病室の前廊下に立ち寄ってただ歩いて見たかった、或る午後やっと病室前まで行ってみたが、担架ではこぶ患者がいるらしく担の病札が出ていた。何時もこんなに静かであったろうかと思える病室前の廊下には、全く誰も一人の看護婦も通っていなかった。私はあんなに自由に出入りしていた病室の扉に、いまは指一本触れることの出来ないことが、病院の規則であり私のまもらなければならない対社会的の方則であることを思い、嘗て私を寝させてくれた病室の前を徐ろに去った。そしてエレベーターの前に立った時に、もう一軒私に寄らねばならない所のあることに気づいたが、同時に奥テル子の瞳が異様にくるくる廻ってなにごとかを暗示した。何処に寄らなくとも彼処だけは寄らなければならないと、私はテル子にうなずいて見せてはばかりに行った。此処も今日はしんとして人は誰もいない、水の捌ける音が一面に起っていた。白い偉大なる尿器の前にそれを行うた時、私は無心であった。あの時は苦しかったがもう私は治ったという言葉を頭にうかべたが、それは尿器に対う前のほんのちょっとした時間のあいだにうかべた数行であった。いまはただ無心に続けるものを続けてしただけであった。
底本:「蜜のあわれ・われはうたえども やぶれかぶれ」講談社文芸文庫、講談社
1993(平成5)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「室生犀星全集 第十二卷」新潮社
1966(昭和41)年8月30日発行
初出:「新潮」
1962(昭和37)年2月1日号
※「カーテン」と「かーてん」、「手押車」と「手押ぐるま」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「われはうたえど やぶれかぶれ」です。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:日根敏晶
校正:きりんの手紙
2019年2月22日作成
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