ツーン湖のほとり
中谷宇吉郎
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もう十年も前のことであるが、倫敦に留学中私はユニバシティカレッヂのポーター老先生の所へ繁げ〳〵出入りしてゐるうちに、一緒に瑞西へ行かうとさそはれたことがあつた。そして二週間許り、ポーター先生や引退した英国の老法律家夫妻と、ツーン湖畔のオーベルホッフェンといふ小村で暮したことがあつた。
ツーン湖のほとり、瑞西の夏は美しかつた。ホテルは小高い丘陵の上にあつて、ツーン湖面を真下に見下し、その正面にニーセンの嶺が聳えてゐた。上から見下した瑞西の湖は青碧の水をたたへ、晴れた日には、雲の影が濃紫色に輝いて、湖面にうつるのであつた。湖畔のゆるやかな起伏の原は、鮮かな緑で蔽はれ、古城の白い塔が一つその中に立つてゐた。すべての色が鮮明で、周囲の風物は尽く私達が昔から持つてゐた「美しき欧羅巴」の姿であつた。
倫敦の生活に疲れてゐた私は、此処へ来て急に元気になつた。ホテルもよかつた。なだらかな斜面に建つてゐた三層楼といふ感じの此のホテルは、一階のバルコンから爪先下りの庭に続いてゐて、大きい噴水をめぐつて、色とり〴〵の花が植ゑこんであつた。
天気は毎日のやうによかつた。朝食を済ませ、美味い瑞西の牛乳をのんで、蔓薔薇の軒下に出て腰を下してゐると、強い日光が葉越しに射して来て、敷き詰められた細い砂利の上にも、白い夏服の上にも、点々と輝いた光斑を作つてゐた。高い土地に特有な清々しい空気が始終肌をなでて、強い日光が少しも苦にはならなかつた。さういふ時にはよくポーター先生と、アメリカの何処とかの大学の Professor of Constitution of History といふ私には何のことかも分らない専門の学問をしてゐる先生と、それにリーヅの僧正とかいふ老人とが集つて、心霊学の話などをしてゐた。ポーター先生はオリバーロッヂの心霊学の話をして、年をとるとああいふ風になるものだと云つてゐた。さういふポーター先生ももうとつくに六十を越してゐて、真白な髪と髯との間に赤い童顔を覗かせてゐた。歴史の先生は、心霊学には必ず女が入つて来る、その点が面白いと云つてゐた。さういへば日本でも、千里眼にしても霊媒にしても、必ず女が入つて来てゐるやうだと、この人達の話を傍でおとなしく聞きながら考へて見た。外国人といへば、何処へ行くにも必ず夫人がついてゐて、所謂社交的な話許りしてゐるものかと思つてゐたが、かういふ先生方は皆一人で来てゐて、社交とか政治とかといふ問題とはひどくかけ離れた話をしてゐるのが珍しかつた。
此処のホテルは御馳走も随分よかつた。食堂では、老法律家モード氏夫妻がホテル第一の賓客で、真中から少し離れたテーブルに二人でついてゐた。そしてその横にポーター先生の小さいテーブルがあつた。ポーター先生は倫敦の学界では長老格で、永い間ユニバシティカレッヂの教授の地位を占めてゐて、丁度その年は英国学術振興会長をもつとめてゐた人なので、ホテルでも大変待遇が良かつた。私は英国人の眼には随分若く見えたらしく、子供が一人で外国へ勉強に来てゐるといふので、ポーター先生が大変親切にしてくれた。それでポーター先生のお客といふ格で、先生のテーブルに坐らせられた。アメリカのお金持達を尻目にかけたのは、恐らくこの時が初めてで、そして勿論もう最後のことであらう。
毎晩ちやんとドレスをして食卓につくのも馴れて了ふと、却つてきまりがついて良かつた。モード夫人は真黒な服に飾りの何もついてゐないのを着てゐた。細面の綺麗な老夫人で、御殿の大奥様という感じであつた。只一つの装身具として、細い指に大豆位の大きいダイヤが光つてゐた。
長期滞在の客が多い此のホテルでは、客人はそれ〴〵自分の好む葡萄酒を注文して、晩餐の時にのむのであるが、その葡萄酒の罎には夫々客の名前を書きつけて納つて置いて、毎晩夕食の時には出すのであつた。初めての日の食卓で、葡萄酒の表をもつて来て、どれにしませうと云つて来た時はちよつとどぎまぎした。左側に縦に色々な葡萄酒の名を書いて、上に横に年代が書いてあつた。そして各々の葡萄酒について各年代のものに色々のマークがつけてあつた。葡萄酒は旧いもの程良いと思つてゐた位の知識しかなかつた私は、「プロフェッサーと同じもの」と云つて胡魔化すより仕方がなかつた。
晩餐がすむと、よくモード氏夫妻に招待された。此の夫妻は引退後世界中を廻つて歩いたが、結局此処の景色が一番気に入つたと云つて、四年この方、此のホテルに落付いて居るのだといふ話であつた。それも二階の正面のバルコンに続いた四室を借り切つて、室内の調度品を全部自分で取り換へて住んでゐた。居間のドアをあけると、直ぐ眼の前に厚い緑色のカーテンが下りてゐ、それを押しあけて部屋へ入るやうになつてゐた。そしてそのカーテンには丁度目の高さの所に、赤い小さい布片がつけてあつた。時々慌て者が部屋を間違へてドアを開けて覗き込むので、此のカーテンをつけたのであるが、それでも中には、此のカーテンを押し開けて中を覗いてから「失礼しました」と云つて出て行く客があつたとモード夫人が説明してゐた。それでも此の赤い目印をつけてからは、誰もカーテン迄押しのける人は無くなつたといふ話であつた。
居間は案外簡素にしてあつた。そして所々に電気スタンドが沢山灯つてゐた。大抵はバルコンへ通されて、コーヒとリキュールが出た。そしてモード夫人は一人々々の客に煙草を喫むかときいて、灰皿のついたスタンドを別々に持つて来てくれた。モード夫人の物腰には日本の茶の作法のやうなものが見られたのも面白かつた。何かを取りに立つやうな時などは、その通路の側にある小さい卓やスタンドのやうなものを、一々一寸わきに動かしては通つた。充分広い隙間のあるやうな時でも、スタンドの脇をすり抜けて行くやうなことは決してなかつた。
ニーセンが真黒に正面に聳えてゐて、その頂には灯が一つ見えてゐた。此の二階のバルコンからは、遠く左の方にインターラーケンの街の灯も遙か下に見えた。そして月明りに、アイガーとメンシュの山嶺が遠く浮いてゐた。星は毎晩のやうに綺麗に輝いてゐた。モード氏は此のバルコンに小形の天体望遠鏡を設へつけて、時々星を覗くのを楽しみにしてゐると云つてゐた。丁度土星が大きくニーセンの上にかかつてゐたので、その環がよく見えると云つて覗かせてくれた。モード氏は、土星とその環との間が本当の隙間かどうかを見る為に、外の星が土星の真後を過ぎるのを見ようと思つてゐるが、なか〳〵さういふ機会には出会はないと云つてゐた。もつとも恒星と遊星とが丁度重ることは滅多にないので、遊星に大気があるか否かといふやうな問題を解くのに絶好の機会として天文学者も待つてゐるのであるが、あんなに沢山星がある癖に滅多にさういふ場合は起きないのである。モード氏がそんなことを少しも知らずに、時々望遠鏡を覗いて待つてゐるのは一寸滑稽と云へるかも知れないが、その考へ方自身は立派に科学的であるのが面白かつた。
ポーター先生が居た為か、よく物理の話が出た。丁度、G・P・トムソンが電子の波動性を示す実験をやつて有名だつた頃なので、モード氏はあれは本当かといふやうな質問をしてゐた。ポーター先生は童顔で笑ひながら、「電子は不思議なものですよ、親爺(J・J・トムソンのこと)が球だといふのに、息子はそれに羽をつけて飛ばせて了つたのです」と答へてゐた。モード氏夫妻は不思議さうな顔をして聞いてゐた。私にも何のことか分らなかつた。そしてポーター先生が一人でにこ〳〵してゐた。
下の部屋で、蓄音機が何か大物のシンホニーをやり始めた。一寸意外に思つたのは、此の人達はレコードといふと無闇と眉をひそめることであつた。「この次が、タンホイザーで、その次が……で、それからまだ〳〵あるのですよ。毎晩のことですから」とモード夫人迄が珍らしく吐き出すやうに云ふ。まづレコード音楽などをきくのは、田舎の美術青年が文展の絵葉書を蒐集するやうなものとでも思つてゐるのかも知れない。これも英国風な貴族趣味の一面なのであらう。此の癖のよく現はれる例は、この人達は所謂英国人の沢山行く場所をひどく軽蔑してゐるのである。そして勿論アメリカ人といへば、最下等の人間といふことにしてゐるのが可笑しかつた。「此の頃は何処へ行つても、ENGLISH SPOKEN でせう。あの下に AMERICAN UNDERSTOOD と書き添へて置けば良いのでせう」とモード夫人も案外辛辣なことを云ふ。
四年越しに借り切つてゐる部屋の一つは、すつかり改造して、図書室になつてゐた。そしてアルプスに関した本だけを集めた立派な蒐集が出来てゐた。モード氏は其の中から、ウィムパーのアルプス登攀記と、著者は忘れたが、岩攀の研究といふ部厚な本とを採り出して貸してくれた。岩攀の研究の方は案外しつかりした研究なので驚いた。モード氏は若い時でも余り山登りなどはしなかつただらうと思はれる身体付きの癖に、岩攀の技術にはなか〳〵造詣が深いらしく、色々その方面の話をしてくれた。
四五日は見る間に過ぎて了つた。そしたら牛乳の飲み過ぎで、型の如く腹をこはして了つた。余り上等でない室を借りてゐたので、眺望のない後の山に面した寝室の中で、朝からベッドに就いてゐる日が二三日も続いた。ポーター先生が心配して時々見舞に来てくれたが、腹はなか〳〵治りさうもない。それに珍らしく雨が降つて鬱陶しい気持の上に、少し心細くさへなつて米た。ポーター先生は読む物があるかと云つて、ヘンリー・ゼームスの『ねぢの廻転』といふ本を貸してくれた。何気なく読みかけて見ると、妙に頭の冴えるやうな本で、思はず引き入れられて了つた。女主人公が幻想を見る姿が如何にも切実に迫つて来て、それに何となく不安を与へる周囲の雰囲気の描写が恐ろしかつた。外は真暗な雨の夜であつた。下の広間では舞踏会が催されてゐるらしく、賑かな音楽が聞えて来る。時々枕を裏返しにしては、熱した頭を冷い枕の面に埋めながら、女主人公の幻想に引きずられるやうな気持になつて行つた。そして所々にぶつきら棒に挿入されてゐる The turn of the screw. といふ一句が、妙に夢幻的な不安を与へてゐた。読んで行くうちに段々恐ろしい切迫した気持が嵩まつて来た所で、突然この一句に遭ふと、何だか人生とか運命とかいふものが此の句の裏に秘められてゐて、それがちよいと顔を出すやうな気がした。ねぢは廻つて旧の場所に返る、然しそれは最早や旧の場所では無いといふやうな聯想がこの説明しがたい不安の基調をしてゐるやうな気がした。もつともこんな気持は、異国のしかも旅の空で一人病床に就いてゐるといふ特殊の環境と、それに英語の力の不足による意味の曖昧さとから来た所が多いのであらうが、とにかくひどく印象に残る恐ろしい本であつた。
ゼームスでおどしつけられたせゐでもあるまいが、それから二三日して腹も治り、毎日ポーター先生の御伴をして、附近の谷を歩き廻つて、瑞西の山家の生活に親しんで愉快な日を暮した。モード氏の所へも毎晩のやうに招待された。此の二週間が私の在外中一番の豪奢な日であり、且つ楽しい日でもあつた。
愈々明日倫敦へ帰るといふ日の夕方、ポーター先生は、私を村の小さい喫茶店へ連れて行つてくれた。ポーター先生は毎夏此のホテルの常客で、まだ後一月位は居るといふのであるが、私は実験を急いでゐたので、到頭残り惜しいながらに、此の生活を切り上げることにしたのである。
倫敦へ帰つて暫くしたら、知らぬ本屋から本が一冊届けられた。ファウラーの King's English である。同時にモード氏から手紙が来て、「貴君の英語は、英国へ来て半年位とするとなか〳〵巧い。然し時々教養のある英国人だと決して使はぬ言葉を使ふやうだ。例へば I will といふやうなことは滅多に云はぬものだ。本屋から良い本を一冊届けさせたから、それで勉強しなさい」と云つて来た。半年英語を勉強した割には巧いと褒められたのは少々恐縮した。
King's English は成る程良い本であつた。外国人が英語を書く時は、とかく、形容詞でも動詞でも皆名詞にして of でつないで、堂々たる文章にしたがるなどといふ皮肉も書いてあつた。それから、むつかしい字をちよい〳〵辞書をくつて挿入するのもいけない。「職工が、日曜服を平日に着てゐるやうで惨めだから」とも書いてあつた。
日本へ帰つて寺田先生に此の話をしたら、早速手帳に本の名を書き留めて居られた。そして、それから半年許りして又理研の部屋へ伺つた時には、机の上にちやんと此の本が置いてあつた。「なか〳〵良い本だね、少し耳の痛いことも書いてあるが」と云つて笑つて居られた。先生は晩年に到る迄、始終英語の文法の本を机の上に置いて、時々一寸のひまには覗いて居られた。「どうも河の名は閉口だね、とんでもない奴に the がついたり、つかなかつたりするものだから」といふやうなことを勉強して居られた。
アルプス登攀記も、ねぢの廻転も今では岩波文庫に出たので、手軽に再読の機会が得られた。ちやんと分るやうに飜訳されたねぢの廻転を読み返して見て、ツーン湖のほとりで熱い頭で霧のこめた断崖を覗いたやうな不安を感じた時の気持を思い出した。今度はそれ程恐しいとも思はなかつた。多分頭が少し健全になつたのだらうと安心した。
底本:「日本の名随筆67 宿」作品社
1988(昭和63)年5月25日第1刷発行
1999(平成11)年9月30日第9刷発行
底本の親本:「續冬の華」甲鳥書林
1940(昭和15)年7月5日発行
初出:「図書 第三年第三十二号」
1938(昭和13)年8月5日発行
※初出時の表題は「ツン湖のほとり」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2012年12月6日作成
2016年7月11日修正
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