線香花火
中谷宇吉郎
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もう十年以上も前のことであるが、まだ私が大学の学生として寺田先生の指導の下に物理の卒業実験をしていた頃の話である。その頃先生はよく新しく卒業して地方の高等学校などへ奉職して行く人に、金や設備が無くても出来る実験というものがあるという話をして、そういう「仕事」を是非試みてみるようにと勧められていた。それ等の実例として挙げられた色々の題目の中には何時も決まって線香花火の問題が一つ含まれていたのであった。
線香花火の火花が間歇的にあの沸騰している小さい火の球から射出される機構、それからその火花が初めのうちはいわゆる「松葉」であって、細かく枝分れした爆発的分裂を数段もするのであるが、次第に勢が減ると共に「散り菊」になって行く現象がよほど先生の興味を惹いていたようであった。そればかりで無く先生の持論、即ち日本人は自分の眼で物を見なくていかぬという気持が、このような日本古来のものに強い愛着の心を向けさせたこともあったように思われる。先生がこの種の金のかからぬ、しかし新しく手を付けるべき問題についてその実験の道を指示される時には、実に明確にその階程を説き尽されるのであって、明日からでもそのとおりに手を付けさえすれば、必ず一応のところまでは誰にでも出来るように「教育」されるのであった。ところで毎年四月、先生の家の応接間の一夕、この教育を受けては、「なる程線香花火は面白いようですから早速やってみましょう」と云って出掛けて行った数人の人々からその後何の知らせもないのが例であった。こんなことが毎年毎年繰り返されているうちに、とうとうこれは自分のところでやらねばならぬと先生が癇癪を起されたのであった。このことは随筆の中にも書かれているはずである。
丁度夏休みの頃で、Y君と二人真裸体の上に白衣を着て、水素の爆発の写真を撮っていた。午後の暑い真中に、いつものようにその実験室へはいって来られて、しばらく話の末、「どうです。この暑さじゃそう勉強しちゃとても耐りませんよ、一つ銷夏法だと思って線香花火をやりませんか」ということになった。少々前からの実験に手を焼いていた矢先でもあり、早速線香花火の方へ取りかかることになった。まずすべきことは線香花火を買って来ることであるが、それは五銭くらい買えばまず夏休み中の仕事には充分であった。それに写真器と顕微鏡とが揃えば当座はそれで実験が始められるのである。
まず線香花火を一本取り出して火を点けてその燃え方を観察してみる。初め硝石と硫黄との燃焼する特有の香がして、盛んに小さい炎を出しながら燃え上がり、しばらくして火薬の部分が赤熱された鎔融状態の小さい火球となる。その火球はジリジリ小さい音を立てて盛んに沸騰しながら、間歇的に松葉を放射し始める。そして華麗で幻惑的な火花の顕示の短い期間を経ると、松葉はだんだん短くなり、その代りに数が増して来て、やがて散り菊の章に移って静かに消失するのである。沢山の花火についていちいちそれ等の時間を測定して、その平均をとって、まず標準的の線香花火の火花の過程を記録する。
それで火花の実体を見るために、硝子板を火球に近づけて、火花をその上に受けて顕微鏡で覗くという仕事を始める。直ぐわかったことは、この火花は非常に細かい炭素粒の塊が或る種の塩らしい透明物質に包まれたものであるということであった。それで火花の松葉形の分裂はこの透明な高温の鎔融物質中に包まれている炭素粒が途中で爆発的の燃焼を起して、この塊を四散させるためだろうということくらいは見当を付けることが出来たのである。次にはこの火花の写真を撮って分裂の模様を見るというのが順当な経路である。ところがこの赤味がかった光の弱い火花の写真を撮るということが、この頃のように速いパンクロマチックの乾板の得られなかった当時ではなかなか容易な業ではなかった。到頭夏休み中かかって微かな火花の痕跡の写真が撮れるというところで満足するより仕方なかった。それでも「何も写らないという間が一番苦労なので、どんなに微かでも何か写りさえすれば、その後立派な写真が撮れるようになるまでのことはわけはない」と云われる先生の言葉に安心して、この実験はひとまず切り上げということになった。
次の年の夏が来て、また線香花火の時期となった。その年の春大学を出て理研で引続いて先生の実験を手伝っていた私のところへ、東北大学の物理の学生S君がやって来て、何か夏休み向きの実験をやりたいという話があった。丁度良いところだったので、二人で線香花火の写真を撮り出した。狭い暗室の中に閉じ籠って、硫黄の香に咽せながら何枚も何枚も写真を撮って見る。その上乾板の感度を高めるためにアンモニアを使うので、換気の悪い暗室の中は直ぐ鼻をつく瓦斯に充満されてしまう。そのような感覚的の記憶は年を経ると共に苦痛の方面がだんだん薄らいで、懐しさの思い出に変って行くのも面白いことである。もっともそれには単に感覚的の記憶という以外に、その頃のひたむきな気持と肉体的の健康さとに対する愛惜に近い気持が手伝っていることもあるのであろう。
そのようなことを二週間ばかり続けているうちに、何処を際立って改良したということもなしに、だんだん良い写真が撮れるようになってきた。松葉の火花の美しさは、単に爆発の際に非常に沢山の数に分裂するという以外に、この時四散した小火花がさらに第二段、第三段の爆発をすることによるという点も納得出来た。写真を撮ることが出来るようになれば、今度は乾板を廻転しながらその上に火花の像を結ばせると、火花の速度を測ることが出来る。このような場合、普通は廻転ドラムに捲きつけたフィルム上に写真を撮るのであるが、この場合のように感光度の極端に大きいことの必要な時には、乾板を廻す装置を作った方が良いのである。第一費用も十分の一くらいで済む。火花の速度は案外小さく、普通は平均毎秒六十センチくらいのもので、火球を飛び出してから最初の大爆発までの時間は十分の一秒程度のものである。これ等の数値は線香花火の火花の化学変化を調べる時に大切な値となるであろう。速度が案外小さいことは夏の夜の縁側で、僅かばかりの涼風にもこの火花がかなり吹き流されることからも見当の付くことである。
次に調べることは、火花の射出及び爆発の際のエネルギーの源、即ちその化学変化である。線香花火は硝石、硫黄、炭素の粉をよく混じて磨り合わせたもので、これを日本紙の紙撚の先端に包み込んだものである。前に、その外に鉄の粉も混じてあるという話も聞いたことがあるが、現在普通市販のものには鉄ははいっていないようである。この日本紙の紙撚というのも重要な意味があるのであって、沸騰している火球を宙釣りにして保つには紙がなかなか大切なのである。薄い西洋紙で線香花火を作ってみたが、火球が出来ると同時に紙が焼け切れてどうしても駄目であった。このことなどもこの花火が西洋に無い理由の一つかも知れない。火球の中での化学変化を見るには、沸騰している火球をその各段階で急に水の中に落してその溶液の定性分析をすることと、硝子板に受けた火花を洗い取ってその液を調べることを試みた。化学者の眼にはいったら、とんだお笑い草になるのかもしれないが、これで硝石が分解して酸素を供給し、硫黄と炭素粉の燃焼を助け、その際急激に発生する瓦斯で火花を射出する階程を見たつもりなのであった。
火球が酸化のためにどれくらいの温度になった時に火花が出始めるかを見るのは一寸厄介である。これにはやはり器械が要るので、熔鉱炉の中の温度などを測る光学的高温計を用いると理由なく測ることが出来る。それは火球の明るさを電流を通じて赤熱した針金の明るさと比較して、その時の電流の値から温度を知るという方法である。大学の工学部にこの器械があったので、線香花火を一把持って行ってその器械を使わせてもらったら、半日で片が付いてしまった。その結果によると、火球は出来初めは 860°C くらいでその間はまだ火花が出ない。それが内部での硝石の分解による酸化と表面での酸化とのために、しばらくすると 940°C くらいまで温度が上がる。そうすると松葉火花が盛んに出始めるのであるが、やがてまた温度が漸次下がって行って 850°C くらいになると、火花が出なくなって間もなく消失するのである。それでは初めまだ温度が充分高くならぬうちに、アーク灯の光の熱線を火球の片側へ水晶レンズで集光したら、その側から先に火花が出始めるかという疑問が起る。早速やってみたがこれはどうも予期どおりに行かなかった。やはり内部での化学変化が充分進行しないうちは、表面だけ少し温度が上がったのでは駄目らしい。しかしこのアークで照らしながらよく見ると、丁度煙草を輪に吹いた時のような煙の輪の非常に小さいもの、まず南京玉くらいの煙の輪が盛んに火球の表面から放出されているのが見えた。これは火花としては眼に見えないくらいの極微の熔融滴が盛んに射出されるためと思われる。その状態が進んで、化学変化がもっと激しくなると、温度の微変動ももっと大きくなり、或る一部で相当の大きさの塊を射出し得るくらいの瓦斯発生を伴う変化が起り、その時射出された小滴が火花として眼に見えるのである。
この頃電気花火という名前で販売されている西洋ふうな花火は、アルミニウムの粉を主としてこれに光を増すためにマグネシウムを少量加え、硝石その他の燃焼を助ける物質を混じて糊で針金に固めつけたものである。この花火では火球は出来ず、点火と同時に多数の火花を連続的に放出し続けて消えてしまう。この花火では松葉のような複雑で美しい火花は勿論見られないし、火球がジリジリ沸騰している間の絢爛の前の静寂も味わわれない。松葉の美しさは単に炭素の粉が赤熱されて放出されるだけでは起らないのであって、空気中を或る距離だけ走って急激な爆発的の燃焼が起るまでは他の物質で包まれている必要があるのである。線香花火の場合には最も簡単な薬品の組合わせで最も有効にその条件が満されているのである。
この年の夏休みがすんで、線香花火もまず一段落というところまで進んで一休みとなった。その後私は急に外国へ行くことになった。ロンドンで先生から受取った手紙の一節には次のような文句があった。
線香花火の紹介がベリヒテに出ていますね。〝Matuba〟 Funken や〝Tirigiku〟 Funken が欧羅巴迄も通用することと相成り、曙町の狸爺、一人でニヤニヤしている姿を御想像被下度候。
底本:「日本の名随筆73 火」作品社
1988(昭和63)年11月25日第1刷発行
1992(平成4)年9月20日第6刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集 第一巻」朝日新聞社
1966(昭和41)年6月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2012年12月6日作成
2013年1月19日修正
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