篁
北原白秋
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我が長歌の総てを収めて、此の『篁』を成す。主として小田原の山荘にありて、竹林の日夕を楽しみ、移りゆく季節の風と光とに思を寄せたる、そのをりをりの古体を蒐めたり。
かの山荘はまことに篁の中にありて、その蕭々の音は、常に颯々たる松籟に唱和し、簡朴にしてそぞろに幽致にも満ちたりしかど、震災後、大破して繕ふに由なく、ただ辛うじて住むを得たりき。
我が長歌も亦かくのごとし。長歌とは言へども、あながち万葉の古体にもあらず、貧しき詩魂は時に新様の我趣を求めて、自ら姿容を破る。もとより流通するところの所縁ただに和歌の一体に繋ることをのみ幸とすべきか。また言ふところ無し。
眺めても眺めあきずよ 親しめば親しむがまま 幽けきもありのさながら かかはらず またさまたげず 竹は竹 我は我ゆゑ 竹がうれしも
言祝
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大君。日の本の若き大君。神ながら朗らけき現人神。青空やかぎりなき。国土やゆるぎなき。万づ世の皇統。皇孫や天津日継。ああ、我が天皇。大君。道の大君。大稜威。今こそは依り立たせ、けふこそは照り立たせ。高御座輝き満つ、日の御座ただ照り満つ。御剣や御光添ひ、御璽やいや栄えに、数多の御鏡や勾玉や、さやさやし御茵や、照り足らはせ。大君。我が大君。現つ神。神ゆゑに、雲の上の生日の光采りてますかも。
最勝閣にまうでて
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最勝閣にまうでて詠める
長歌ならびに反歌
風速の三保の浦廻、貝島のこの高殿は、天なるや不二をふりさけ、清見潟満干の潮に、朝日さし夕日照りそふ。この殿にまうでて見れば、あなかしこ小松叢生ひ、辺にい寄る玉藻いろくづ、たまたまは棹さす小舟、海苔粗朶の間にかくろふ。この殿や国の鎮めと、御仏の法の護りと、言よさし築かしし殿、星月夜夜空のくまも、御庇のいや高々に、鐸の音のいやさやさやに、いなのめの光ちかしと、横雲のさわたる雲を、ほのぼのと聳えしづもる。しづけくも畏き相、畏くも安けきこの土、この殿の青き甍の、あやに清しも。
この殿はうべもかしこし白妙の不二の高嶺をまともにぞ見る
春鵙
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冬ごもりうらさびぬらし。隣りべは日のあたるよと、萩も枯れ萱も枯れぬと、よろしよと、見つつぬくもる、吾が和ぎごころ。
おのづからうらさびぬらし萩の戸のへだての垣も枯れて匂ひぬ
つれづれと眺めあかぬを、枯れしとて萩は刈られぬ。ほほけしと薄も刈りぬ。ほのぬくみ刈りつる人も、うちたばね、かつぎていにぬ。日あたりの、となりの庭の、そのよろしさを。
枯れはてて萩は薄は刈られける日のたむろべのよろしみ来るを
春はまだととのはざらし。土かづく黄の福寿さう、蕗の薹、萎へ葉の霜の苺や、裏藪の小すみれもまだ、楉枝べのつくつくしまだ、日あたりの枯れし芝生の、下萠えもまだ。
土見れば土の香立つを、はなはだし、春はをさなし。蕗の薹いづらにふふむ。つくつくし萠え立つやいつ。置く霜のややに浅くも、こぬか雨ややに繁くも、裏藪や、菫さく辺の、いまだなじまず。
隣りべの春もをさなしたき火して梅のつぼみをしたしとを見れ
かにかくにうつらふ冬や、隙間洩る風を寒むみと、破れはてし家にこもると、はららうつ雨のこまかに、置く霜の置くと解くれば、ふる地震のふると消につつ、おのづから霞立つ日ののどけくなりぬ。
いつしかとなごに来ぬらし向山の地震の壊え土萠えかすみつつ
冬ごもり、こもりあかねど、寒き日は吾もちぢまりぬ。春まつと妻は急けども、のどならむ家も壊えたり。子が愛づる薄葉鉄の太鼓、その紅き片面剥げしに、土盛りて、せめて植ゑむと、福寿草霜に抜き来ぬ、二株三株。
児が愛づる薄葉鉄の太鼓剥がれたり植ゑて眺めむ福寿草のはな
おもしろの春や、この朝、花しろき梅のはやしに、をさな鵙来てををりける。草餅の蓬よろしと、黄粉つけ、食みつつきけば、いはけなの鵙や子の鵙。ふふみ音の、まだなづむ音の、うぐひすの鳴まねびをる。頬白のふりまねびをる。しづ枝ゆり、ゆり遊びをる。移り飛びをる。
梅おほきとなりやかたは明るくて花のさかりををさな鵙飛ぶ
春鳥の枝に揺る声の、ゆく水のかがよふ音の、朝風の松のひびき、夕風の小竹のさゆれの、おのづから我よあはれと、あはれにも恍れて、しらべて、あるべきものを。
一いきに歌ひ成してぞおもしろきこのごろくやし思ひ凝りつる
子よあそべ、父も遊ばむ、母呼ばむ、来り遊ばむ。日あたりにつくしも立ちぬ。つくしべに蓬も萠えぬ。枯萱の裏むらさきの、ほのぬくみ、かがやく根にはあなあはれ、白きなづなの花も群れたる。
うらなごむ春日よろしみ蓬生や花のなづなを踏みて暮しつ
匂だちとみに春めく蓬生の下べのしめり踏めばかなしも
春の草まだやはらかしとりまぜて摘むとためけり子ろが帽子に
土筆摘み、妻と子と摘み、うすあかき土筆の茎の緑だつその秀の粉の、かなしとも吾も妻も摘め、をさな児もしみみ摘みをる、そのをさなさを。
一つ一つ摘みし土筆をつくづくとまた植ゑてをりもとなをさな児
鍬入れて、繁に篩ひて、掻きならす土はよき土。春雨のよべのしめりに、けさ蒔くや、種子はひなげし、金蓮花、伊勢のなでしこ。向日葵は間をよくあけて、枇杷のべに糸瓜は寄せて、蒔かずしも朝顔夕顔、おのづからまかせたらなむ、垣の根かたに。
盛る土に足あとつけて子も蒔くと画の種ぶくろ日にかがやきぬ
このごろはくつろぎにけり。歌よめばよくもあしくも、墨磨れば濃けれうすけれ、うれしくも恍れて書きけり、かなしくも恍れて書きけり、ただ楽しみて。
歌ふらくおのれ楽しむものならし楽しみてあらむひとりこもりて
おもしろの春の小雨や、うら向けに羽織かぶりて、笻かつぎ、石いくつ飛び、童さび、声うちあげて、翁こそ帰り来ましぬ。柿がもと、白梅がもと、かうかうと帰り来ましぬ。先生らしも。
柿双樹 梅五三本 この庭のさましづかなり小雨流らふ
多摩の浅春
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水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ、老杉の三鉾五鉾、常寂びて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や造酒屋は門櫓いかしく高く、棟さはに倉建て並め、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺なす桶のここだく、新しぼりしたたる袋、庭広に干しも列ぬと、咽喉太の老いしかけろも、かうかうとうちふる鶏冠、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻の雌をし引き連れ、七十羽の雛を引き具し、春浅く閑かなる陽に、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外にも満ち溢るれば、ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎもの心もしぬに、踏む足のたどきも知らず、草まくら、旅のありきのたまたまや、我も見ほけて、見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。酒の香の世々に幸はふ、うまし国うましこの家ぞ、うべも富みたる。
大御代の多摩の酒屋の門櫓酒の香さびて名も古りにけり
西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉
武蔵野や多摩のみなかみ、御嶽道払沢の口、春浅き日南のそとに、餅搗くや爺は杵とり、臼のべや婆は手に捏ね、ぽたらことのどに対ひゐ、ぽたらこよゆるにとめぐる。閑かなるここらの里も、雛祭ちかづきぬらし。御形咲き蓬萠えたり。古りぬれど雛もかざれり。山もあり川もありけり。こもり啼く子ろも居るらし。道埃しろじろ立てて、吹き過ぐと風はさむけど、雲ゆけば日ざし洩れ来て、おのづからうら安の世や、ぽたらこと爺は杵とり、ぽたらこと婆は捏ねつつ、水濞すする。
春なれば草の蓬も搗きこめてのどかなるらし餅搗きをる
道のべののどの餅搗きおもしろと見つつあかずも杵の手ぶりを
めぐり見つ見つつあかずも搗くたびに杵にのり来る餅のふくらみ
搗きたての餅ならすとしろき粉の米の粉まぶし手にたたきをる
きさらぎや多摩の山方、まだ寒き障子の内、人影の、手に織る機の、ていほろよ筬うつらしき。立ちとまり、うつらに聴けば、からりこよ、杼の鳴るらしき。三杈の花咲き湿る、山の井の、下井の水も滴るらしき。
障子にすずろにひびく筬の音山辺の春はすでに動きぬ
山かげの懸樋の縁の紐氷柱本末ほそうなりにけるかも
木彫の人形
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爺が張る四つ手の網に、月さしていろくづ二つ。その魚のくちびる紅き、この魚の背の鰭青き、現とも思へばつめたく、幻と見れば霧らひつ。けだしくも息づく物の、水よりは空や明るき、水離り空やさみしき。春浅き潯陽江の、この月の魚。
月蒼き潯陽江の春浅しふなべり低め四つ手張りたる
たださへや月の光は霧らふらし四つ手に跳ぬる水の江の魚
口あけしぽちりと紅くそめにけり小さき木彫のいつくしき魚
魚売りの爺が日永や、ふち広の菅の編笠、たよたよと担棒かつぎて、はらはらに片手まはして、前籠に魚かすくなき、後の籠魚か多かる。後の籠地にしひきずる、重かるらしも。
菅笠の爺が日永となりにけりになひの籠のうしろさがりに
米つくと、杵は踏みゐつ。雁射ると、弓弦張りゐつ。足に踏む、をかしかりけり。手にし張る、あはれなりけり。米つきは下べ見てゐつ。雁射るは空べ見てゐつ。とざまかうざま。
米つくとうつらうつらに踏む杵のこなた踏む時かなたあがりぬ
雁射ると弓弦ひき放ち反る弓の小手にくるりとかへりたるらし
高砂の牡丹社の子か、命こめ、荒く彫りけむ。つたなけど静立つ牛の、をさなけどゆゆし力や。男ごころよ、ひたぶる恋ふと、下ふかく燃ゆる思の、えは堪へね、なほし堪ふると、遊びつつ、遊び彫りけむ、くるしくも寂びつつ寂びけむ、外には見せずも。
荒彫の木彫の牛のみぎり角ほきり欠きたり思ひかねきや
春はまだ浅き菜畠、白き鶏日向あさるを、水ぐるままはるかたへの、窻障子さみしくあけて、女の童ひとり見やれり、外の青き菜を。
この春や水車が立つる水だまの早や大きなり芽柳のもと
物すごき孟宗藪の月あかりかげるかと見れば騒ぐ葉の影
この秋よ、雲は白うて、事もなき世にしあるかな。山村のここの水之尾、樋のへりにみそ萩さきて、みそ萩に水だまはねて、水ぐるまやまずめぐれり、その水口に。
水ぐるままはる樋口のかがやくは夕日か水にさしあたるらし
この寺の老木の栗のいが栗はまたすがれたり榧の木のまへ
榧は榧さしも青けど落葉木の栗は栗とて枯れにけるかも
米櫃に米のかすかに音するは白玉のごとはかなかりけり
垂乳根と詣でに来れば麻布山子供遊べり日のあたりよみ
母と来て佇み目守る日のたむろ子等が遊びのいつはつるなし
急に涙が流れ落ちたり母上に裾からそつと蒲団をたたかれ
老いしアイヌの歌
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アイヌはよ、老いしアイヌ。神アヱオイナ、アイヌ・ラクグル(アイヌの臭ひある人)の後、神ながら蘩蔞の頭、土の体、柳の背骨、シネ・シツキ・プイコロクル(眼窩の人)神々の髪の毛の人。彼こそはげに、カムイ・オトプ・ウシユ・グルなれ。
彼アイヌ、眉毛かがやき、白き髯胸にかき垂り、家屋の外に萱畳敷き、さやさやと敷き、厳かしきアツシシ、マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、ふかぶかとその眼凝れり。
彼アイヌ、蝦夷島の神、古伝神、オキクルミの裔。ほろびゆく生ける屍。夏の日を、白き日射を、うなぶし、ただに息のみにけり。
彼アイヌ、家屋の空見ず、さやら葉の青の長葉の、アイサク・ピヤパ(髯なき稷)フレ・ピヤパ(赤き稷)チヤク・ピヤパ(はぜ稷)ヤムライタ・ヨコアマム(藪虱に似し稷)、また、脚高の熊檻、仔の熊の赤き舌見ず、汗垂らし、拭ひもあへず。
彼アイヌ、老いたる鷲、古り皺み、病み倦んずる者。ましら髯、いつかしきアツシシ、マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、オンコそぎ、心恍れり。
彼アイヌ、よく黙し、念じ、かつ、しかく黙せり。彼、キム・ヲ・チパスクマ(山の教義)の徒、チクニ・アコシラツキ・オルシユペ(樹の守護の教義)の徒、地上の者、聖シランパの子、黙想者、聖トボチの僕。彼はかく念ずらし。アトニ・ウエンユク(悪楡)よ去れ。ニ・アシユ・ランゲ・グル(をを汝立木人よ)キサラハ・ランゲ・シヌブル・カムイ(をを汝木の皮の尊き鬼神よ)オー・トイヤン・クツタリ(汝地上に拡張せる者よ)総て善し、吾は拝せり。吾は老い、吾は嘆けり。吾は白し、早や輝けり。吾は消えむ、ああ早や、吾が妻、吾が子、吾が弟、吾が族の、残れる者、ことごとく滅せん。オンコ(いちゐ)よ、吾が削る、紅柔き兎の肉なすオンコよ、しかく光らん。
彼アイヌ、老いたる鷲。蝦夷島の神、古伝神、オキクルミの裔。ほろびゆく生ける屍、光り、かつ白き屍。彼アイヌ、眉毛かがやき、白き髯胸にかき垂り、厳かしきアツシシ、マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、夜なす眼の窩のアイヌ、今は善し、オンコ削ると、息長に息吹き沈み、恍れ遊び、心足らふと、そのオンコ、たらりたらりと削りけるかも。
大正五年五月(葛飾にて)
大正六年二月(葛飾にて)
大正十年六月(葛飾にて)
アッシジの聖の歌 米の白玉
犬と鴉 立枯並木の歌
潮来の入江
大正十一年一月(小田原にて)
黎明の不尽 遠山脈の歌
秋山の歌 湯どころの秋
竹と曼珠沙華 竹の林の歌
蜩の歌 岡の鉾杉
榧と栗 孟宗と月
冬の山岨 冬の棚田
荒浪千鳥 落葉行
落葉吟 水仙と菊
竹林の早春 元旦の夜のこと
蕗の薹 聴けよ妻ふるもののあり
ころころ蛙の歌
大正十二年三月(小田原にて)
造り酒屋の歌 餅つきの歌
道のべの春 浅春
大正十四年二月(小田原にて)
大正十二年九月(小田原にて)
大正十三年三月(小田原にて)
大正十三年四月(小田原にて)
冬ごもり ととのはぬ春
日あたり をさなき春
見え来る春 福寿草
春鵙 あるとき
のどか つくし
種子蒔 この頃は
月光と魚 魚売
米と雁 荒彫の牛
大正十四年四月(小田原にて)
大正十五年一月(小田原にて)
昭和三年十月(世田ヶ谷にて)
附記 …以上は潮音(大正五年)三田文学(大正六年)行人(大正九年)大観(大正十年、十一年)日光(大正十二年、十三年、十五年、昭和二年)改造(大正十三年)行楽(大正十四年)婦人の友(昭和三年)等に発表せられたるところに係る。
なほ「童と母」「麻布山」の如きは葛飾に於て成れりと雖も、その取材に至つては曩の麻布の生活に得たるものなり。
底本:「白秋全集 8」岩波書店
1985(昭和60)年7月5日発行
底本の親本:「長歌集 篁」梓書房
1929(昭和4)年5月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「水仙と菊」(「浅春」を除く)、「水郷冬景」、「函嶺の冬」、「孟宗と月」(「孟宗と月」の「反歌」を除く)、「秋山の歌」(「水之尾の秋」を除く)、「岡の鉾杉」(「榧と栗」の「反歌」を除く)、「米の白玉」(「米の白玉」の「反歌」を除く)、「童と母」(「麻布山」の「反歌」及び「童と母」の「反歌」を除く)は底本では「観相の秋」との重複のため省略されています。
※大見出し「水仙と菊」「孟宗と月」「秋山の歌」「岡の鉾杉」「米の白玉」「童と母」、中見出し「浅春」「孟宗と月」「水之尾の秋」「榧と栗」「米の白玉」「麻布山」「童と母」は底本では見出しの体裁をとっていませんが、ファイル作成時に見出しとして追加しました。
入力:岡村和彦
校正:フクポー
2017年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。