カラカラ鳴る海
小川未明
|
この港は山の陰になっていましたから、穏やかな、まことにいい港でありました。平常はもとより、たとえ天気のよくないような日であっても、この港の中だけはあまり波も高く立たず、ここにさえ逃れれば安心というので、たくさんな船がみんなこの港の内に集まってきたのであります。
ある日のこと、沖の方がたいへんに荒れたことがありました。沖を航海していたいろいろな船は、みんなこの港を目がけていっしょうけんめいにはいってきました。港の内は諸国の船々でいっぱいになりました。
赤い船や、白い船や、黒い船や檣の三本あるもの、また二本あるもの、長い船やあまり長くないのや、いろいろありました。また旗を立てている船にも、三角の旗や四角の旗や、いくつも旗を立てているのや、ただ一つぎりのやさまざまでありました。また煙突から黒い煙を上げているのもあれば帆船もありまして、それは見るだけでも海の上はにぎやかでありました。
港の人々はみんな海岸に出てながめていました。その中には老人もあれば子供もありました。若者もあれば娘もありました。また子供を負っている母親もあれば、またお嫁さんになったばかりの、髪を美しく結った若い女もありました。
老人はみんなを振り返りながら、
「私は、もう幾十年の昔から、この港の内で朝晩送ってきたものだ。この港にはいってくるような船で知らない船は一つもない。たいていの船はみな見覚えがあるばかりでなしに、私よりみんなずっと船の年も若いものばかりだ。古くて今から二十年と上に出る船はあるまい。私の若かったころの船は、もはやたいてい年を取ってしまって、長い航海の役にはたたなくなったとみえる。そしていつとなしにこの港へもその姿を見せなくなってしまった。ごく若いのはやっと半年から一年、二年というようなのが、この中にまじっている。この港へはいってくるほどの船で私の顔を知らないものはない。みんなきっと一度は私にあいさつをして水をいれるなり石炭を積むなりするにきまっている。私はまたその船をよく覚えている。この船はどこの国の船だかということをよく知っている。沖が荒れているので、このとおりみんなこの港にはいってきたのだ。おまえたちもなにかと、頼まれたりしんせつに世話をしてやるがいい。お天気になるまでは、みんなこの港の内に滞在していることだろうから……。」と、老人はいいました。
若者たちのうちでは、朝のうちから艀に乗って港の内をこぎまわっていました。なにか変わったことがないか? こう知らない他国の船がたくさん集まっているのだから、まちがいが起こってはならないというのでありました。
若者たちは、たくさんな船の間をこぎまわっていますと、この港へ上げるために小舟へ荷をおろしている船もありました。またこの港から貨物を積んでゆくために、小舟で荷を運んでいる船もありました。また船の甲板を洗っているのや、港の町へ遊びにゆこうとして艀をこぎはじめているのや、それは一様でなかったのでした。
しかしどの船もなんとなく活気づいていました。天気になるのを待って、また長い波路を切って出かけようとするので、その前にこれを機会に骨休みをしているように見られました。ある船からは、勇ましい歌の声などがきこえたのでした。
このとき、これらのたくさんな船の中にまじって、一そうの見なれない船が停泊していました。その船には、一つの旗も立っていなければ、乗り込んでいる人たちの姿すら、甲板にはあらわれていなかったのです。そして見るからに、なんとなく陰気な船であって、その船の名さえ書いてなければ、もとよりどこの国の船ともわからなかったのでありました。
「俺たちはいままでこんな船を一度も見たことがない、どこの国の船だろうな。」と、若者たちは目をみはりました。
彼らはこの陰気な、国籍もわからない船の近くに停泊している他の船がありましたから、ようすをきこうとその船へ近づいて、乗組人に、「あの船はどこの船か知らないか。」と、港の若者たちはたずねました。すると、その船の乗組員らは、
「じつは私たちもあの船を見ておかしな船だと思っていたのです。なんでも昨夜、真夜中ごろ、どこからか石炭を運んできて、積み込んだようなけはいでした。そして乗っている人たちは、みな顔を包んで目ばかり出しているので、こちらの国の船とも外国の船とも見当がつかないのです。」と答えました。
「ますます、不思議だ!」と、若者たちはいって、さっそく艀を陸へこぎつけると、老人のもとへやってきました。老人ならたいていの船のことも知っているからです。
ちょうど老人は、そこに立っているみんなを振り向きながら自慢話をしていたときでありました。
若者たちは老人のそばにやってきて、不思議な身柄のわからない船が、港の内にはいっていることを告げたのであります。
「どこにその船はいる?」
と老人はいって、沖の方を見やりました。
「あの赤い船のうしろにいる、あまり大きくない黒い船です。」と、若者は指さしました。
老人は黙ってうなずきました。
「船の名も書いてなければ、またどこの国の船か旗も立てておりません……。」と、若者の一人がいうと、他の一人は、
「なんでも乗組人は、顔を隠して目ばかり出しているといいます。」といいました。
また、そのそばに立っていた他の一人の男は、
「なんでも夜中に石炭をどこからか運んできて船の中に積み込んだともいうことです……。」といいました。
この話をきいた人々は、いずれも首をのばして、その船のいる方を見ました。そして、
「見える、見える、なるほど怪しげな船があすこに泊まっている!」と、口々にいっていました。
老人は独りおちつきながら、
「天気がよくなったら、明日にもどこかへいってしまうだろう。」と答えました。
すると、血気にはやる若者たちは、そんなのんきなことをいってはいられんというふうで、
「海賊船かもわからないものを、このままに黙ってはいられない。すぐに届け出なければ……。」と、一人がいいました。
また、他の一人は、
「この港のものが知っていて、黙っていたということがわかれば、こちらの手落ちになるのだから、どうしてもこのままにしておくことができない。」といいました。
見ている人々の中からも、「このことを港じゅうのものに知らして、あの船を押さえてしまったほうがいい。」といったものもありました。
けれど老人一人だけは、やはり黙っていました。
「おまえさんは目が悪くなってあの船が見えないからだろう。」と、中には皮肉をいって、いままで自慢をしていた老人の鼻を折ってやろうと思ったものもありました。
「なに、私にあの船が見えないことがあるもんか。あの船は昨日の晩方、あらしの最中にどこからかこの港の内に逃げてきたのだ。私はそのときちゃんと知って、身柄のわからない……今までに、見たことのない船だなとは思っていた。」と、老人は答えました。
「そんならなぜ、いままで黙っておいたのですか?」と、艀から上がってきた、若者の一人がたずねました。
老人はうなずいて、
「あらしのために困って逃げてきたのだ。天気になればどこへかいってしまうと思って、黙っていたんだ。」といいました。
若者たちは老人にかまわず、その船を処分することにしました。中にはこの船を取り押さえてしまおうというもの、届け出たほうがいいというもの、またはすぐにこの港から追いたててしまったほうがいいというもので議論はもめたのでした。
しかし、けっきょく、すぐに追いたてるということにきまって、彼らはふたたび艀に乗って出かけました。手に手に万一の場合を慮かって、短銃や猟銃などを携帯しながら、この怪しげな船を目ざしてこいでゆきました。
若者たちは怪しげな船のそばにゆくと、大きな声でどなりました。しばらくするとはたして、顔を隠して目ばかり出した男が、首を出しました。若者たちはすぐにこの港から出てゆくように、もし聞かなければ、その船を取り押さえるなりその筋へ訴え出るなり、するからといったのであります。
すると、その怪しげな船の中から幾つも頭を出しました。どの首も目ばかり出して黒い布で包んでいます。そしてその黒い頭をぺこぺこ下げて、どうか今夜だけもう一晩ここに泊めておいてくれと頼みました。しかし若者たちは承知をしなかったのです。
「ここの港には規則があるのだから、すぐ出てゆかなければ処分をする……。」といいました。
黒い頭が、みんな船の中に引っ込んでしまいました。それからまもなく、その陰気な船は動き出して、影のようにこの港の内から、外海へ出ていってしまったのであります。
この怪しげな船の姿が見えなくなってしまったとき、若者たちは艀をこいで陸へ上がってきました。そして老人に向かって、
「みんなが頭をぺこぺこ下げて、今晩だけもう一晩泊めておいてくれいと頼みました。」と、その有り様を話しました。
この人のよさそうな老人は、やはりうなずきながら、そうだろうといわぬばかりに、
「今夜は、昨夜よりも大きいあらしになりそうだ……。いま、あの船をこの港から立たせるのは、みんなを殺してしまうようなものだからな。」と、深いため息をもらして答えました。
人々が、海岸から散じてしまって夜になりかけたころでした。ほんとうに海の上はひじょうなあらしになったのであります。それは老人のいったとおりでした。若者たちは老人の言葉を思い出し、またあの船を無理に追いたてたことなどを思い出して、さすがにいい気持ちはしませんでした。
若者たちはめいめい心がとがめて、一夜じゅうよく眠ることができなかったのです。
あくる日の朝になって、あらしが幾分かおさまったころ、昨夜この港へ入ってきた船があるということをききましたので、若者たちはさっそく小舟に乗って、その船のところへ出かけてゆきました。その船はよくこの港へやってくる船でありました。
「あなたがたは外海の方で、どこかほかの船におあいになりませんでしたか?」と、若者たちはたずねました。すると、昨夜はいってきたという船の中から、
「そんなに大きくもなかったが、黒い船で一そう浪にもまれて、いまにも沈みかかっていたのを見ました。けれど暗夜のことで、それにあの大暴風雨ではどうすることもできなかった。ただ、不思議なのは、その船はこの港に入ろうとはせずに、あのあらしの中を沖へ沖へといったのはどうしたことかと、みんなが不思議がっていたのだ。いまごろはきっとどこかで沈んでしまったであろう……。」といったものがありました。
若者たちは、まさしくあの船のことであると思いました。かわいそうなことをしたと感じられたのでした。しかし、いまとなってはどうすることもできませんでした。
二日めです。暴風が静まってしまうと、港じゅうに群がっていた船たちは、いつのまにか、思い思いにいずこへとなく出ていってしまいました。人々もあらしのことを忘れてしまい、海の上は平穏にさながら鏡のように輝いていました。
ある日のこと、白い船が一そうこの港の中にはいってきました。そして港の内に停泊すると、小舟に幾つも箱を積んで陸をさしてこいできました。
「私たちは南の国から、はじめてみかんを積んでこの港にはいってきたものです。いくらでもいいから今後の取引のために、安くまけますからこのみかんを買ってください。」といいました。
港の人たちはそこに集まってきました。そして、「どんなみかんだか箱のふたを取って見せよ。」といいました。船のものは一つの箱を砕いて内を見せました。するとみごとなみかんがいっぱい詰まっていました。
そこで取引は、ぞうさなくきまってしまいました。
陸の方からも艀を出して、白い船の積んできたみかんの箱を町へと運びました。やっとその荷を運び終わると、
「さようなら。」といって、白い船はこの港から出ていってしまいました。
「いいみかんをたんとまあ、安く買ったものだ。これで今年はこの町は大もうけをするだろう。」と、みなは口々にいってうれしがりました。
「なんという名まえの船だったかな、だれか憶えていたであろう。」と、一人がいいました。
「さあ、なんといったかな?」と、そこに集まった問屋のものは、たがいに顔を見合わしました。
すると、一人の若者が、
「そのことだ! 俺は、いおうと思って忘れていた。あの白い船にはなんにも名まえが書いてなかったようだ。」といいました。
「まるできつねにつままれたような話だ。」と、みんなは口々にいって、その日は暮れてしまいました。
翌日、箱の中のみかんを取り出そうとしますと、どの箱の中からも、出てくるのはみかんでなくて、円い石塊ばかりでありました。みんなはどんなにびっくりしましたでしょう。
「みかんにしては重い箱だと思っていた。」といったものもありました。
そしてそのとき、全部の箱をあらためて見なかったのを悔いたのでありました。みんなは悪い船にだまされたといって、その黒い石をすっかり海の中に投げ捨ててしまいました。
それから後のことであります。あらしがきたときに、この港のものは、みんなが震え上がらなければなりませんでした。なぜというに、いつか海の中へ捨てた黒い石が、すっかり生きてでもいるようにカラカラカラッと鳴って、波の押し寄せるたびに岸へ打ち上げられて、また波の退くたびに海の底へもぐり込むように隠れたからでした。そしてあらしのやむまでは、カラ、カラ、カラッといって、昼となく夜となく、黒い石が鳴ってやまなかったのであります。
平常は静かな山蔭の港も、あらしの日にはじつに気味悪い港でありました。船乗りらはこの石の音をきくと、ひやりと体じゅうが寒くなるといいます。そしてこの港はいつしか石ばかりになって、船のはいれないまでになってしまいました。いまだにあらしの日には、その海が冷笑うように鳴るのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷
※表題は底本では、「カラカラ鳴る海」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2014年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。