幽霊船
小川未明
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沖の方に、光ったものが見えます。海の水は、青黒いように、ものすごくありました。そして、このあたりは、北極に近いので、いつも寒かったのであります。
光ったものは、だんだん岸の方に近寄ってきました。そして、だんだんはっきりとそれがわかるようになりました。それは、氷山であったのです。
氷山はかなり、大きく、とがった山のように鋭く光ったところもあれば、また、幾人も乗って、駈けっこをすることができるほどの広々とした平面もありました。そして、海の水の中には、どれほど深く根を張っているかわからないのでした。氷山は、すべて、こうした水晶のような氷からできています。それが潮の加減で漂ってくるのです。
このあたりの海には、ほとんど、毎日のごとくこうした氷山を見ました。あるときは、悠々として、この大きな氷の塊は、あてもなく流れてゆきました。そして、遠くにゆくまで、その光ったいただきが、望まれたのであります。さびしい、入り日が、雲を破って、その氷山に反射しています。それは、遠く、遠くなるまで、岸に立って、ながめている人たちの目の中に映ったのであります。
また、あるときは、この氷山が、まるで蒸気機関のついている氷の船のように、怖ろしい速力で、目の前を走ってゆくこともありました。しかし、この白い、光る、氷の上には、生きているものの影はまったく見えなかったのです。
ただ、いつのことであったか、こうした氷山が、岸に近づいてきましたときに、人々は、なんだか黒い小さなものが、氷の上に落ちているのを見ました。
「黒い鳥だろうか?」
「鳥なもんか、海馬か、オットセイだろう。」
岸に立って、沖の方を見ている人々は、いいました。
しかし、それが、近づいたときには、大きなくまであることがわかりました。くまはどうかして、陸に上がりたいと、あせっているようでした。きっと、海の上が真っ白に凍ったとき、くまは氷山の上まで遊びに出たのです。そのうちに、氷山が動きだして、陸との間が離れて、もうふたたび陸の方へ帰れなくなってしまったのでしょう。みんなは、くまが、陸へ上がってきてはたいへんだと思いました。どんなに、暴れまわるかしれないからです。
「おい、みんな気をつけたがいい、くまをこちらに渡してはたいへんだ。」と、口々にいいました。
それで、鉄砲を持ってきたり、槍などを持ってきたりしました。しかし、それまでに、氷山は陸の方へは近づかずに、ふたたび沖の方へと流れていってしまいました。
みんなは、くまが渡れなかったので、安心をしましたが、そのくまが、それから、どこまで流れてゆくだろうと思うと、かわいそうな気がしました。
こんなようなことのある、北の方に起こったできごとであります。いま、それをお話いたしましょう。
「もう、氷山もこなくなった。海の上は、穏やかだから、漁に出かけよう。」というので、三人の漁師は、ある日のこと、船に乗って、沖の方へこいでゆきました。
三人は、沖にあった、一つの島に近づきました。その島には、だれも住んでいませんでした。この島には小さな湾があって、よくこの湾の中にたくさん魚がはいっていることがあります。それで、漁師は、時分を見はからって、この島に立ち寄っては漁をします。獲れるときには驚くほど、獲れることもありました。
三人は、湾の中に、船を進めてようすをうかがいますと、たくさん魚がはいっているけはいがしました。
「これは、しめたものだ」
「しめたぞ!」
三人は、勇みたちました。そして、網を下ろして引くと、はたして、こんなに獲れたことがいままでにもなかったほど、たくさん獲れたのであります。これをばみんな船の中にいれたのでは、これから、もっと沖へ出て仕事をするのに邪魔になりましたから、獲れた魚を島の浜辺に上げておいて、帰りに持ってゆこうということにしたのであります。
三人の中の一人は、島に残りました。二人が夜帰ってくるときに、島で火を焚いて合図をしようとしたからでした。乙の男だけは、だれもいない島に残って、甲と丙の二人が、勇ましい掛け声をしながら、湾から沖の方へ出てゆくのを見送っていたのであります。
「早く帰ってこいよ。」と、乙は、仲間の二人に向かって、いいました。
「ああ、おまえがさびしがっているから、じきに引き揚げてくるとも……。」と、二人は、笑いながら、だんだんと遠ざかったのです。
穏やかな夕暮れでした。乙は、じっと船を見送っていますと、いつしか、青黒い沖の間に隠れて見えなくなってしまいました。子供のころから、海を畳の上のように思っている人たちでありましたから、この荒々しい海をもおそれてはいませんでした。
日が暮れると風が出てきました。それは、思いがけない突然のことでした。急に、浪が高くなってほえはじめました。乙は、沖に出ていった二人の友だちの身の上を心配しました。
「どうか無事に、早く、この島まで帰ってきてくれればいい。」と、祈りながら、火を焚いて闇の夜をこいでくる目じるしを造ろうとしました。そのうちに、風雨と変わって、せっかく燃え上がった火が、幾たびとなく吹き消されたのです。けれど、乙は、熱心に、そのたびに火を新たにつけたのでした。しかし、待ちに待った船は、帰ってきませんでした。
「この暴風に、どこへ逃げただろうか? こんな広い、広い、海原をどこへゆくというところもないのに……沈んでしまったのではないだろうか?」
乙は、もはや、気が気ではありませんでした。そのうちに、怖ろしい夜は明け放れました。見渡すかぎり、大空は、ものすごく、大きな浪頭はうねりうねっています。そして、船の影すら見えないのでした。
乙は、独り、小さな無人島に残されたのでした。彼は、一日、岸に立って、船の帰るのを待っていました。しかし、昨日の暴風に難破したものか、船はその日も暮れかかったけれど、姿が見えぬのでありました。
三日めのことです。乙は、もうやせ衰えていました。やはり海岸に立って、いっしんに沖の方を見ていますと、なつかしい、見覚えのある仲間の乗っている船が、波を切って湾の中へはいってきました。甲も丙も、無事で船の上に動いているのがありありとして見えたのです。
「おうい。」と、乙は、両手を高く挙げて、沖に向かって叫びました。すると、あちらからも両手を高く挙げて、叫んでいたようです。けれど、その声は、聞こえませんでした。
おりから、入り日の影が、波の上を明るく照らしました。そして、船に乗っている二人の顔を赤く彩って見せたのです。
「ああ、なつかしい、まさしく甲と丙だ! よく死なずに帰ってくれた。」と、乙は、目に、熱い涙をいっぱい流して喜びました。
やがて、その船は、すぐ間近にまいりました。
「おうい。」と、乙はまた両手を挙げて叫びました。
甲と丙の二人は、それに対して、答えるであろうと思ったのに、音なく、船をこいで、前方を横切ったかと思うと、その姿は、煙のごとく消えてしまったのです。
乙は、びっくりしてしまいました。
「幽霊船だ!」
こういうと、乙は、がっかりとして、自分の体を砂の上に投げて泣きだしました。彼は、疲れた頭に、いろいろの幻影を見ました。夜中、うなされつづけました。そして、ふたたび、明るくなったときに、彼の目は、血走って、興奮しきっていました。
ちょうど、その日の昼過ぎごろでありました。乙は、顔をあげて、沖の方を見ますと、まごう方なき、なつかしい船の姿を見ました。しかも、昨日見たと同じい……幽霊船の……こちらへこいでくるのを見ました。
一時は、はっと思って、うれしさに胸が躍りましたけれど、つぎの瞬間には、気味悪さで体じゅうがおののきました。
「こいつめ、俺まで、殺す気なのか?」と、乙は狂いはじめました。
その間に、船は、ますます近く、波を切って、島に近づいてきました。乙は、腰にあったピストルを取り出しました。そして、船を目がけて、つづけさまに火ぶたを切ったのでした。
しかし、それは、幽霊船でなかったのか、消えなかったのです。船が岸に着くと、二人は、陸へ踊り上がりました。
「おお、おまえは、気が狂ったのか!」といって、なおも、暴れ狂う乙をようやくに押さえつけました。
乙は、まったく、気が狂ってしまったのです。あの夜、二人の乗った船は、あちらの陸に暴風のため吹きつけられました。そして、波の静まるのを待って二人は、島へ仲間を迎えにやってきたのでした。
二人は、気の狂った友だちを船に乗せて、あちらの陸へと帰ってゆきました。それから、二人は、手あつく、哀れな友だちを介抱しましたので、だんだんと気の狂ったのが、もとに返って、いつしかなおってしまいました。それから、三人は、永く仲のいい友だちでありました。
いまだに、この話は、北の港に残っています。無人の小島は、いまも、青黒い波の間に頭をあらわしています。
底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷
初出:「赤い鳥」
1924(大正13)年11月
※表題は底本では、「幽霊船」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2014年2月14日作成
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