町の天使
小川未明
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Sという少年がありました。
毎日、学校へゆくときも、帰るときも、町の角にあった、菓子屋の前を通りました。その店はきれいに飾ってあって、ガラス戸がはまっていて、外の看板の上には、翼を拡げたかわいらしい天使がとまって、その下を通る人々をながめていたのであります。
少年は、すこし、時間のおくれたときは、急いで、夢中でその前を過ぎてしまいましたけれど、そうでないときは、よくぼんやりと立ち止まって、毎日のように見る天使を、飽かずに仰いでいることがありました。
なぜなら、その天使は、あちらの雲切れのした、北の方の青い空から飛んできて、ここにとまったようにも思われたからでした。少年には、それほど、あちらの遠い空が、なんとなくなつかしかったのであります。そして、その天使と青い空とを結びつけて考えると、美しい、また愉快ないろいろな空想が、ひとりでに、わいてきたからであります。
「おまえは、いつ、あのあちらの空へ帰ってゆくの?」と、小さい声でいったりなどしました。しかし天使は、ただこれを聞いても笑っているばかりでした。
雨の降る日も、天使は、そこにぬれながらじっとしていました。また、霧の降った日も……。けれど、少年は、夜になって、大空がぬぐわれたように星晴れがして、寒い風が吹く真夜中には、きっと、天使が自由に、あの翼をふるって、大空を飛びまわるのであろうと思いました。けれど、人は、だれもそれを知らない。そして、天使は、いつもじっとしているとばかり思っているのだと考えました。
「僕は、おまえが、夜になって、だれも人間が見ていないときに、空を飛びまわるのを知っているのだよ。」と、少年は、天使に向かっていいました。
こういっても、天使は、ただ黙って笑っているばかりでした。
S少年は、病気にかかりました。
もう幾日も学校を休んで、一間にねていました。そのうちに、秋もふけて、いつしか冬になりかかり、木がらしが家のまわりに、吹きすさんだのであります。いろいろの木立の葉が、ざわざわといってささやきました。そして、はげしい風の襲うたびに、それらの葉たちは、ちょうど火の子のように、大空に飛び上がり、あてもなく野原の方へと駆けてゆくのでした。
少年は、窓から、いつしか、さびれきった庭の中をながめていました。かしの木の下に、たくさんどんぐりが落ちていました。また、あちらの垣根のところには、からすうりが、いくつか赤くなってぶらさがっていました。ここから見ると、たいそう寒く、さびしい林の中ではあったけれど、そこにはいい知れぬおもしろいことや、楽しいことがあるとみえて、いろいろの小鳥がやってきて、枝から枝へ飛びうつっては、鳴いているのが見えるのであります。
「もう、じきに雪がくるだろう……。」と、少年は思っていました。
「戸を開けて、寒い風に当たってはいけませんよ。」と、お母さんにいわれて、少年は、また床の中にはいりました。そして、あいかわらず、家の外にすさぶ木がらしの音を聞いていました。
「早く、病気がよくなって、学校へいきたいものだな。」と、少年は思いました。けれど、それまでには、なかなかよくならなかったのであります。
お友だちは、遠慮をして遊びにきませんでした。少年は、もう長いこと、お友だちの顔を見ません。そんなことを思って、さびしがっていました。
ちょうど、そのとき、あらしの中をだれか自分を呼びにきたものがあります。
「Sちゃん、遊ぼう!」と、外で自分を呼んでいました。
はじめは、気のせいではないかと考えました。それで、しばらく、床の中で、じっと考えていました。あらしの音は、いよいよはげしくなって、林の鳴る音や、落ち葉の風にまかれて飛ぶ音などがしていたのであります。また、このあらしの間にまじって、
「Sちゃん、遊ぼう!」と、自分を呼んでいる子供の声がきこえてきました。
「だれだろう?」と、少年は思って、床から出て窓の障子を開きました。すると、あちらに、赤い帽子をかぶった二人と、黒い帽子をかぶった一人の子供が、三人でおもしろそうに遊んでいて、自分を手招ぎしたのであります。
「だれだい?」と、少年は呼びかけて、その三人をじっと見守りました。すると、一人は年ちゃんで、一人は正ちゃんでありました。黒い帽子をかぶっている子供は、まったく知らない子供のように思われました。
「年ちゃんに、正ちゃん、君は、どうしたんだい、死ななかったのかい。不思議だなあ……。」と、少年は、死んだはずの二人の友だちが、このあらしの吹く日に、どこからか帰ってきて、自分を誘いにきたのを、少なからず不思議に考えたのでした。
三人は、しきりに、自分を手招ぎしていました。少年は、お母さんに聞いてみて、すぐにも外へ出ていこうと思いました。彼は、ふらふらとへやの中を歩いて、茶の間の方へいって、
「年ちゃんと正ちゃんが迎えにきたから、いってもいい?」と、お母さんにたずねました。すると、お母さんは、走ってきて、
「なんで、おまえはねていないのです。」といって、しかられました。
少年は、年ちゃんに、正ちゃんが外で呼んでいるから、二人を家へいれてくれと頼みました。
「僕、さびしくて、しかたがないんだから……。」といいますと、お母さんは、青い顔をして、目を大きくみはって、少年をにらみました。
「なんで、年ちゃんや、正ちゃんが、おまえを呼びにくることがあるものか。おまえは、夢を見たんだよ。」といいました。
少年は、それを打ち消すようにして、
「お母さん! ほんとうに、外で僕を呼んでいたんですよ。うそだと思ったら、見てごらんなさい。」と、少年はいいました。
「じゃ、私が見てみよう。そして、もしいたら、しかってやろう!」と、母親はいって、窓から、あちらを見ました。
「だれもいないじゃないか。おまえは夢を見たのだよ。」といって、母親は、寒いので、障子をぴしりと閉めてしまいました。
その日から、少年の病気は、いっそう重くなったので、家の人たちは、みんな心配したのであります。
少年は、窓からのぞいて見ると、お菓子屋の看板の上にとまっている天使が、ひとりで、あらしの中に遊んでいたのでした。
「君は、いつも真夜中になると、人の知らない間に空を飛んで、星の世界へいったり、また林の中へはいったりして遊んでいるのだろう……。」と、少年はたずねました。
天使は、はずかしそうな顔をして笑っています。
「今日は、空がよく晴れて、それに風が寒いから、つい天国が恋しくなって、飛んでいました。」と、天使は、答えました。
少年は、あちらの青い空が、ただなんということなしに慕わしくなりました。それに、海の方へといってみたくなりました。
「僕をつれていってくれないか?」と、天使に向かって頼みました。
小さな天使は、しばらく考えていましたが、魔術で、少年を小さく小さくしてしまいました。
「さあ、しっかりと私の脊中にお負さりなさい。」と、天使はいいました。少年は、天使の白い脊中にしっかりと抱きつきました。いつしか、青い空と白い雲の間を縫うようにして、飛んでいたのであります。
目の下には、海が、悲壮な歌をうたって、はてしもなく、うねりうねりつづいていました。風は、吹いて、吹いていました。少年を乗せた、天使は、北へ、北へと旅をつづけたのであります。
そのうちに、紅い潮の中から、一つの美しい島が産まれました。天使は、その島の空を飛びまわりました。見下ろすと、そこには、真っ白な大理石の建物が、平地にも、丘の上にもありました。その有り様は、見たばかりでも神々しさを覚えたのでした。どんな人がこの島の中に住んでいるだろうか? 少年は、もし美しい人たちで、自分を愛してくれるような、やさしい人々であったら、自分はこの島に住みたいと思いました。しかし、その島は、こんなふうに神々しかったけれど、しんとして音ひとつしなければ、また煙の上っているところもありませんでした。地の上に、赤いところや、白いところの見えるのは、花が咲いているのだと思われました。そのうちに、下の道を白い衣服をまとった人々が、脇見もせずに歩いていくのが見えました。その人々は、尼さんが会堂へゆくときのように、笑いもしなければ、話もしませんでした。これを見ると、体じゅうに寒けを催しましたので、この島へ降りてみようとは思わなくなりました。
「あんまり遅くなると、みんなが心配するから、もう、かえりたい。」と、少年は天使にいいました。
小さな、美しい翼を持った天使は、たそがれ方の空を矢のように、速やかに飛んで、ふたたびなつかしい、わが家の見える野原の方へと飛んできました。
「さあ、ここですよ。」といって、天使がおろしてくれたので、ほっとして少年は、目を開きました。
すると、自分のまくらもとには、心配そうな顔つきをした医者と、青い顔をしたお母さんと、妹と、お父さんたちがすわって、自分の顔を見つめていたのでした。
少年は、どうしたことかと思って、不思議でならなかったのです。
それから、数日たちました。少年の病気は、いいほうに向かいました。医者は、眉を開いて笑いました。母親の顔にもはなやかな笑いが浮かびました。
あいかわらず、あらしは、窓の外に吹いて、雪すらおりおり、風にまじって落ちてきました。けれど、そんなに深くは積もりませんでした。そのうちに、少年の病気はまったくよくなって、元気よく学校へ通うことができるようになったのであります。
ある日、少年は、菓子屋の前を通りかかって、天使は、どうしたろうと思って、仰いでみますと、そこにはありませんでした。驚いて友だちに聞いてみますと、いつかの大きなあらしのとき、落ちて壊れてしまったといいました。少年は、すこしいくと、道のはたに天使の翼のかけらが落ちていたのを見つけました。少年は、天使が、いよいよ大空に上ってしまったのだろうと思いました。それから、つぎの休み日に凍った雪の上を渡っていくと、林の中に赤い帽子が一つ落ちていたのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集1」丸善
1927(昭和2)年1月5日発行
初出:「赤い鳥」
1926(大正15)年1月
※表題は底本では、「町の天使」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2020年3月28日作成
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