砂漠の町とサフラン酒
小川未明
|
むかし、美しい女が、さらわれて、遠い砂漠のあちらの町へ、つれられていきました。疲れているような、また、眠いように見える砂漠は、かぎりなく、うねうねと灰色の波を描いて、はてしもなくつづいていました。
幾日となく、旅をすると、はじめて、青い山影を望むことができたのであります。
そのふもとに、小さな町がありました。女は、そこへ売られたのです。女自身をのぞいて、だれも、彼女のふるさとを知るものはありません。また、だれも、彼女の行方を悟るものとてなかったのであります。
彼女は、ここで、その一生を送りました。サフラン酒を、この町の工場で造っていました。彼女は、その酒を造るてつだいをさせられていたのでした。
月が窓を明るく照らした晩に、サフランの紅い花びらが、風にそよぐ夕方、また、白いばらの花がかおる宵など、女は、どんなに子供のころ、自分の村で遊んだことや、父母の面影や、自分の家の中のようすなどを思い出して、悲しく、なつかしく思ったでありましょう。
いくら思っても、考えても、かいないものならば、忘れようとつとめました。彼女は、生まれたふるさとのことを、永久に思うまいとしました。また、育てられた家のことや、村の光景などを考えまいとしました。
美しく、みずみずしかった女は、いつとなく、堅い果物のように黙って、うなだれているようになりました。人がなにをきいても、知らぬといいました。
「この女は、つんぼではないだろうか?」
「あの女は、きっとおしにちがいない……。」
そばの人々は、皮肉にも、彼女をそんなようにいいました。
彼女は、まだそれほどに、年をとらないのに、病気になりました。そして、日に、日に、衰えていきました。
「どうせ、わたしは、家に帰られないのだから……死んでしまったほうが、かえって幸福であろう。」と、彼女は思いました。
しかし、彼女は、なにも口にはいわなかったものの、胸の中は、うらみで、いっぱいでありました。どうかして、このうらみをはらしたいと思いました。
彼女は、小指を切りました。そして、赤い血を、サフラン酒のびんの中に滴らしました。ちょうど、窓の外は、いい月夜でありました。びんの中では、サフランの酒が醸されて、プツ、プツとささやかに、泡を吹く音がきこえていました。サフランの酒の色は、女の血で、いっそう、美しく、紅く色づきました。
女は、それから、まもなく死んでしまったのです。彼女の体は、異郷の土の中に葬られてしまいましたが、その年のサフラン酒は、いままでになかったほど、いい味で、そして、美しい紅みを帯びていました。
いい酒ができたときは、その酒を種子として造ると、いつまでも、その酒のようにできると、いい伝えられています。この町の人は、その酒の種子を絶やしてはならないといって、珍しく、いい色に、いい味に、できた酒をびんにいれて、地の下の穴倉の中に、しまってしまいました。
この町のサフラン酒は、ますます特色のあるものとなりました。女は、とうの昔に死んでしまったけれど、その血の色を帯びて醸される酒は、幾百年の後までも、残っていました。そして、その魔力をあらわしていました。
砂漠の中の町……赤い町のサフランの赤い酒……それは、いったい、どうした魔力をもっているのでしょうか?
* * * * *
砂漠の中の赤い町は、不思議に富んでいました。それは、人間の生き血を吸うからだといわれていました。また、その町は、魔女の住む町だといわれていました。美しい女が、たくさんいるからです。美しい女がたくさんいるというよりは、この町の女は、みんな、不思議に美しいものばかりだといわれるのでした。そのわけは、もと、この町の女が、南から、北から、また東から、世界の方々から、さらわれてきた、種族のちがった、美しい女たちの子孫であるからです。長い間に、異った種族の種子と種子とが結び合って、いっそう美しい人間が生まれたことに、不思議がありません。
いつしか、砂漠の中に、赤い町があり、そこには、味のいいサフラン酒があり、きれいな女がいるということが、伝説のように、世界の四方に拡がりました。あるものは、それを信ぜずにはいられませんでした。また、あるものは、それを疑わずにはいられませんでした。
しかし、砂漠を越えていくと、あちらの山に砂金が出るということ、また、いろいろの宝石類が出るということだけは、たしかでした。
ダイヤモンドや、ほかの宝石などが、ときおり、砂漠のあちらから、送られてきたからです。
どこの国でも、いつの時代でも、若いものは冒険を好みます。また、働いて身をたてようと思います。広い、広い、砂漠のはてから、砂金や、ダイヤモンドや、また、いろいろな珍しい宝石が出るということを聞くと、彼らは勇んで、それを掘りに出かけようとしたのでした。どんなに、その旅が長く、つらくとも、出かけようとしたのでした。
らくだや、羊に、荷をつけて、彼らは、砂漠の中をあるいていきました。毎日、毎日、同じような単調な景色がつづきました。そして、むし熱い風が吹いていました。
「まだ、水のあるところへはこないだろうか?」
「まだ、あちらに山が見えないかしらん。」
こうして、彼らは、旅をつづけていますと、ある日のこと、はるかの地平線に、青い山の姿をみとめたのであります。彼らは、どんなにうれしかったでありましょう。たちまち元気が恢復しました。はやく、あの山へいって働こうと思ったからです。彼らは、ぴかぴか光る黄金色の砂を幻に見ました。また、すきのさきに、きらきらと光る石のかけらを空想しました。赤い宝石や、ダイヤモンドの数々が、自分らの掌の上で輝いている有り様を想像しました。みんなは、道を急ぎました。赤い町が、やがて彼らの目の前にあらわれたのです。
砂漠の中の赤い町、それは、まったく夢の世界でありました。サフラン酒は、あふれていました。美しい女が、唄をうたいながら、町の中をあるいていました。南方の夜は、あたたかで、月が絹地をすかして見るように、かすんでいました。
「このお酒を召しあがると、疲れがなおってしまいます。」と、美しい女たちがいいました。
みんなは、喜んで、サフランの赤い酒を飲みました。すると、女たちのいったように、たちまちのうちに、疲れがなおってしまいました。ほんとうに、いい気持ちになってしまいました。
「なんという紅い、美しい色だろうな。」といって、若者はコップの酒を、燈火の前へ掲げてながめたりしました。
元気を恢復すると、彼らは、いよいよ山の方に向かって、働きにゆくために出発したのです。彼らは、山へいって、岩を砕いたり、土を掘ったりして働きました。
しかし、いつまでも、遠い他国で、暮らすという気にはなれません。彼らは、ふるさとが恋しくなりました。そして、すこしでもたくさん、金をためて、故郷に帰って、家の人々を喜ばし、安楽に日を送りたいと思ったのであります。
彼らは、ふたたび、砂漠の中を旅をする用意をして、山から出て、ふもとをさして急ぎました。赤い町が、「いまお帰りですか?」というように、目の前に笑っているのでありました。
「くるときに、この町で、サフラン酒を飲んだが、その酒の味は忘れることができなかった。どれ、ひとつゆっくりと酒を飲んでいこう……。」
彼らは、町にはいると、赤い酒のコップを手にしました。
酒場の前を、美しい女がやさしい、いい声で唄をうたって通りました。ちょうど、その唄の声は、海で潮のわく音のようであり、女たちの姿は、春風に吹かれるこちょうのごとくに、見られたのでした。
一杯、また一杯と、飲んでいるうちに、すっかり頭の中にあった考えというものが、空になってしまいました。そこで、持ってきただけの金を、町の中で使いはたしてしまったのです。
彼らは、酒の酔いがさめきらぬうちに、まったく夢心地でこの町を立って、出かけましたが、いつしか砂漠の中で、酔いがさめて、天幕のすきまから星の光を仰ぐと、はじめて、なにも持たなくては、いまさら故郷へは帰れないと思ったのでありました。
彼らは、ふたたび山へもどりました。そして働きました。また岩を割ったり、土を掘ったりしました。
金がたまると、こんどこそは、故郷へ帰って、みんなの顔をば見ようと思いました。彼らは山を下ったのであります。
赤い町が、すぐ目の前に近づきました。彼らはサフラン酒の味を、思い出さずにはいられませんでした。
「もう、ふるさとに帰れば、飲もうと思っても、飲まれないのだから、一杯だけ飲んでゆこう……。」と思いました。
美しい女たちは、悲しい、やるせない唄をうたいながら、酒場の前をあるいていました。若者たちは、夕焼けのように紅い、サフラン酒の杯を、唇にあてて味わっていました。一杯……もう一杯といううちに、頭がぼんやりとしてしまいました。そして、持っているものは、みんなこの町で費いはたしてしまって、ついに故郷に帰ることができませんでした。
彼らは、やがて年をとり、気力がなくなり、永久にふるさとを見捨てなければならないのでした。
そして、砂漠のかなたに、赤い町が、不思議な、毒々しい花のように、咲き誇っているのでありました。
底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷
初出:「童話」
1925(大正14)年6月
※表題は底本では、「砂漠の町とサフラン酒」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2014年2月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。