大きなかしの木
小川未明
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野の中に、一本の大きなかしの木がありました。だれも、その木の年を知っているものがなかったほど、もう、長いことそこに立っているのでした。
木は、平常は、黙っていました。だれとも話をするものがなかったからです。あたりにあった木はいずれも小さく、背が低うございました。その木の親たちは、かしの木を知っていましたが、もうみんな枯れてしまって、子や孫の時代になっていたのでした。そして、子や、孫は、昔のことを語ろうにも知ってはいないからでした。
山から飛んできた小鳥も、たいていはちょっと枝に止まることがあるばかりで、いずれも、秋ならば赤く実の熟した木へ、春ならば、つぼみのたくさんについている枝へ降りていって、長くこの木と話をしているものもなかったのです。
この木も、若い時分は、ほかの木にまけないほどに、美しくなりました。しなやかな枝には葉の色は銀色に光って、なよなよと風に動いていたものですが、年をとるにしたがって、だんだん木は、気むずかしくなりました。そして、いつのまにか、のびのびとした、しなやかさはなくなり、葉の色も暗く黒ずんで陰気になり、そして、木は、たいへんに無口になってしまったのです。
「ほかの木には、あんなにきれいな花が咲くじゃないか。なぜ俺には、咲かないのだろう? またほかの木には、あんなに美しい鳥や、ちょうが、毎日のようにおとずれるのに、なぜ、俺のところへはやってこないのだろう?」と、かしの木は、不平をいいました。
気むずかしい木は、すこしの風でも腹をたてていました。そして、不平がましく叫びをあげました。
「そんなに怒るもんじゃないよ。」と、からかい半分に、風は、かしの木に向かっていいました。南の方から吹いてくるやさしい風は、どの木にも草にもしんせつで、柔和でありましたけれど、北の方から吹いてくる風は、小さいのでも大きなのでも、冷酷で、無情で、そのうえ寒く冷たいのでありました。
それも、そのはずで、南からくるのは、橄欖の林や、香りの高い、いくつかの花園をくぐったり、渡ったりしてきます。これに反して北からの風は、荒々しい海の波の上を、高い険しい山のいただきを、谷に積もった雪の面を触れてくるからでありました。そして、この孤独な木を慰めてやろうとはせずに、かえってからかったり、打ったり、ゆすぶったりするのは、いつも北から吹いてくる風であったのです。
「なにをしやがるんだい、
折れて、たまるもんか。
あんな、めめしい木や草と、
俺は、ちがうんだ。
裂けたり、折れたりするもんか。」
かしの木は、風に向かってこう叫ぶのでありました。
しかし、風のない日は、孤独のかしの木は、うなだれていました。疲れて、眠ってでもいるように、その黙った、陰気なようすはさびしそうに見られたのでした。
夜になると、雲の間から、星が、下界の草や、木を照らしたのです。そこには、美しい紅や、紫や黄色の花が咲いている花園がありました。花園には、ちょうや、みつばちが、花の上に止まったり、葉蔭に隠れたりして、平和に眠っていました。また、かしの木が独りぼっちで、いつものごとく寂しそうに黙って眠っていました。
星は、平常孤独で、不平ばかりいっているかしの木を哀れに思ったのでありましょう。そのやさしい、涙ぐんだ目つきで、こんもりと黒ずんだ木を照らしていましたが、
「ああして、華やかに咲いている花は、じきにしぼんでしまわなければならぬ。さらばといって、あの孤独なかしの木が幸福で、秋になると枯れてしまう草が、はたして不しあわせであるということができるだろうか?」と、星は、独り言をしました。
ある年の春の、ちょうど終わりのころでありました。どこからか、きれいな小鳥が、親鳥とひな鳥といっしょに飛んできて、この年とったかしの木に巣を造りました。
いままで、この木にとって、こんなことはなかったのです。このあたりの山や、原にたくさんいるような小鳥は、たまには木にきて止まったことがありましたけれど、旅からきた、このような美しい鳥で巣を造ったような記憶は、かしの木の過去になかったことでありました。
孤独の木は、どんなに、喜びましたでしょう。
「そう、俺だって、みんなから振り向かれないものでもない。こんなに、美しい鳥が、俺の枝にりっぱな巣を造ったじゃないか?」と、広々とした野原を見渡しながら、誇り顔にいいました。
旅からきた小鳥は、このあたりにいる小鳥とはくらべられないほど美しゅうございました。赤に、焦げ茶に、紫に、白に、いろいろの毛色の変わった着物を被ていました。そして、おしゃべりでした。
「お母さん、いいところですね。」と、ひな鳥は、親鳥に向かっていいました。
「ああいいところです。これから、毎日、いろいろめずらしいところへ連れていってあげますよ。」と、母鳥はいいました。
「まあ、うれしいこと、うれしいこと。」と、ひな鳥は、喜びの声をあげました。
木の枝に巣ができあがりますと、親鳥はひな鳥をつれて、あるときは青々とした大空を飛んで海の方へ、あるときは、また山を越えて町のある方へとゆきました。そして、夕方になると、彼らは、楽しそうにして帰ってきました。
かしの木は、美しい鳥たちが、無事に、その日の晩方になって帰ってくるのを待っていました。昼の間鳥たちがいないのは、木にとって寂しかったのです。どこからでも、この野原にこんもりと背高く立っている木のようすはながめられました。鳥たちが、この木の姿を目あてに、雲はるかのかなたから飛んでくると思うと、木はいっそう高く背伸びをするように、夕日の中に輝いたのでした。
木は、無口で、そして、こんなに年をとっていましたけれど、遠慮深くありました。鳥たちから、南の国の話をききたいと思いましたけれど、つい、鳥に向かって、たずねることがありません。晩に、鳥がもどってきたら、聞こうと思いましたが、いざそのときになると、
「お母さん、今日は、遠くまでいってくたびれましたのね。」
「お父さんは、まだ、遠くへいこうとおっしゃったのだけれど、おまえたちが、くたびれるだろうと思って、わたしが、反対したんですよ。」
「お母さん、また、明日の朝、早く出かけましょうね。」
「さあ、早く、お休みなさい。」
木は、鳥たちのこんな話を聞くと、また、つぎの機会まで待とうと思いました。
ある日のことであります。
ひな鳥は、母鳥とこんな話をしていました。
「お母さん、いつまでも私たちは、ここにすんでいますの?」と、ひな鳥がたずねました。
孤独な、かしの木は、そのとき熱心に耳を傾けていました。すると、母鳥は、これに答えて、
「ああ、そんなに、ここがおまえたちの気にいったのなら、いつまでもいますよ。」といいました。
この話を聞いて、喜んだのは、ひな鳥よりも、もっと、この年とった大きなかしの木のほうでありました。
「ああ、なんの話も、いま聞くにはおよばない。冬のものさびしい時分になってから、ゆっくり南の方の話を聞くことにしよう。」と、かしの木は思ったのであります。
輝かしい、希望に満ちた、夏の間は、かなり長うございました。しかし、そのうちに、秋となったのであります。
年とったかしの木は、周囲にあったいろいろの木の葉が、いつしか霜のために色づいたのを見ました。また、足もとの草が、枯れてゆくのをながめました。しかしこれは、毎年のことでありました。
ある日のことでした。朝の日の光の中を、翼を輝かしながら、青い空へ舞い上がって、どこともなく飛んでいった、美しい旅の鳥たちはその日、太陽が西の空に沈みかけても帰ってきませんでした。
「どうしたのだろう?」と、かしの木は、いぶかしく思いました。
その晩は、かしの木は、まんじりとも眠りませんでした。鳥たちの身の上を気遣ったからであります。それに、寒い北風が吹いて、かしの木に向かって戦いを挑んだからでありました。
ああまた、長い、物憂い冬の間、この年とった木と、北風と、雪との戦いがはじまるのであります。そして、かしの木は、ついに孤独でした。
底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷発行
※表題は底本では、「大きなかしの木」となっています。
※初出時の表題は「大きな樫の木」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:雪森
2013年4月10日作成
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