一本の銀の針
小川未明
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兄と妹は、海岸の砂原の上で、いつも仲よく遊んでいました。
おじいさんは、このあたりでは、だれ一人、「海の王さま」といえば、知らぬものはないほど、船乗りの名人でありました。ほとんど一生を海の上で暮らして、おもしろいこと、つらいことのかずかずを身に味わってきましたが、いつしか年を取って、船乗りをやめてしまいました。
おじいさんに、一人のせがれがありました。やはり、おじいさんと同じように船乗りでした。ある日のこと、家に、おじいさんと、女房と二人の子供を残して、沖の方へと出かけてゆきました。
おり悪しく、その晩に、ひどいあらしが吹いて、海の中は、さながら渦巻きかえるように見られたのでした。家族のものは心配しました。そして、どうか無事に帰ってくれるようにと待っていましたけれど、ついに、海へ出ていったせがれは、それぎり帰ってきませんでした。おじいさんは、あのあらしのために、破船して死んでしまったのだろうと思いましたが、女房や、孫たちが、悲しむのをたまらなく思って、
「どこかへ避難しているかもしれない。もう二、三日待ってみよう。」といいました。
人間というものは、どんな不幸に出あっても、日数のたつうちには、だんだん忘れてしまうものであったからです。
二日たっても、三日たっても、せがれの乗った船はもどってきませんでした。ある日のこと、その船の破片が波に打ち寄せられて、浜辺に上がりました。それを見たときに、どんなにおじいさんは、悲しんだでありましょう。せがれの女房はあまりの悲しみから、ついに病気となり、それがもととなって死んでしまいました。
二人の子供は、父を失い、母に別れて、そのときから、おじいさんに育てられたのであります。海の上を吹いてくる風が、コトコトと窓の戸をたたく音を聞くと、おじいさんは、それでもせがれが生きていて帰ってきたのではないかと耳を傾けました。また、夜中に、波の音が、すすり泣くように、かすかに耳にひびくと、おじいさんは、せがれの女房のことを思い出しました。それにつけてもおじいさんは、二人の孫たちをかわいがったのであります。
月日は、いつのまにかたってしまいました。兄と妹の二人は、仲よく、海岸の砂原で、白に、黄に、いろいろの花をつんだりして遊んでいますうちに、大きくなりました。
二人は、両親がなかったけれど、おじいさんがかわいがってくだされたので、幸福でありました。
兄は、だんだん年を取ると、自分もどうか船乗りになりたいと思いました。おじいさんは、大事なせがれが海で死んでから、どうしても孫を船乗りにさせようとは思いませんでした。
「海の王さま」と、おじいさんが、みんなからいわれたということを聞くと、兄は、どうかして自分も船乗りの名人になりたいものだと考えたのです。
「僕は、どうしてもおじいさんにお願いして、船乗りにしてもらいたい。」と、兄は、妹に向かっていいました。
「兄さんが、海へいってしまわれたら、私はどんなに寂しいかしれない。」と、妹は、はや涙ぐんで答えました。
妹に対して、やさしかった兄は、なぐさめるように、
「あの遠い海のあちらには、不思議な島があって、そこへゆけば、いろいろの珍しいものがあるというから、それをお土産に持ってきてあげよう。」といいました。
妹は、おじいさんからも、その不思議な島の話を聞いていました。海の中にすんでいる獣の牙や、金色をした鳥の卵や、香水の取れる草や、夜になるといい声を出して、唄をうたう貝などがあるということを聞いていましたから、
「兄さん、私に、金色の鳥の卵と、夜になると唄を歌う貝を、お土産にかならず持ってきてください。」と頼みました。
金色の卵は、鶏にあたためさして、美しい鳥にかえさせようと思ったからです。
「じゃ、忘れずに持ってきてあげるから、おまえもおじいさんに、僕の望みをかなえてもらうように頼んでおくれ。」と、兄はいいました。
妹は、承知して、兄がおじいさんに頼んだときに、自分もいっしょになって願ったのであります。
おじいさんは、すぐにはうんとはいいませんでした。
「おじいさんを、みんなが海の王さまといっていたということを聞きました。どうか、僕を、第二の海の王さまにさしてください。」と、兄はいいました。
「おまえが、その決心をしてくれるのはうれしいが、またあらしにあって船がこわれたら、とりかえしのつかないことになってしまう。」と、おじいさんは、思案をしました。しかし、ついに、孫たちのいうことを許してやりました。
おじいさんは、孫がいよいよ船出をするというので、夜もおそくまで起きていて、船に張る帆を縫っていました。どんな強い風に当たっても裂けぬように、またどんなに雨や波にぬらされても、破れぬようにと、念に念をいれて造っていました。
妹は、兄さんといっしょになって、船出の許しをおじいさんに頼んだものの、兄の身の上が案じられてしかたがありませんでした。
「どうかして、兄さんが無事に、出ていって帰ってこられるように。」と、祈ったのであります。
その日も、妹は、兄のことを心配しながら道を歩いてくると、さびしいところに小川が流れていて、そこに、狭い橋がかかっており、一人のおばあさんが、その橋を渡ることができずにこまっていました。
だれも、人が通らなかったので、だいぶ長い間ここに、こうしておばあさんは立っているものと思われたのであります。
妹は、そのおばあさんを見ると気の毒になりました。自分がどうかして手でも引いて渡らせてあげようと、そばへいってみますと、おばあさんは盲目でありました。
妹は、びっくりしました。こんな盲目がどうして、このあたりまで一人でやってこられたろうかと思われました。
「どんなにか、おばあさん、お困りでしたでしょう。私が手を引いてあげます。」と、妹はいいました。
すると、盲目のおばあさんは、
「どうかおぶって、渡しておくれ。」と、それがあたりまえであるというような調子で答えたのです。
妹は、ずいぶん横着なおばあさんだと心に思いました。また自分がおぶっては、あぶなくて渡られないからでした。
「お手を引いてあげましょう。」
「いいえ、おぶってもらいましょう。」と、おばあさんは、頭を振っていいました。
妹はしかたなく、苦心をして、そのおばあさんをおぶって、ようよう橋を渡ることができました。すると、盲目のおばあさんは、もう白くなった髪の毛を探って、その中から一本の銀の針を取り出しました。
「この針は、不思議な、どんな願いごともかなう針だから、これをおまえさんにお礼としてあげる。けっして、みだりに他人にやったり、見せたりしてはならぬ。」といって、おばあさんは銀の針を妹にくれました。
妹は、喜んで家に帰りました。そして、その晩に、おじいさんが帆を縫うてつだいをして、おばあさんからもらった銀の針で、どうか兄さんが無事に帰ってきてくださるようにと祈りながら縫いました。細い銀の針では、厚い布がよく通りそうもないのに、よく通りました。不思議な針だから、きっとおじいさんの造ってくださった帆は、けっして、風にも、雨にも、破れないであろうと思いました。
真っ白な帆が、でき上がって、それが船に張られたのです。そして、ある朝、若者は、妹や、おじいさんに見送られて、この海岸から沖をさして船出したのであります。
だんだん沖へ、沖へ出ると、そこはものすごい景色でありました。白い波は、いままで自分たちばかりの遊び狂うところだと思っていたのに、真っ白な帆をかけた船が、中へ割り込んできたものだから、びっくりしました。
「この世界は、おれたちの世界だ。それだのに、おれたちよりもっと白い大きなものが、頭の上を平気で踏んでゆくとはけしからん。」といって、波は騒ぎたてました。
いくら波が騒いでも、昔、海の王さまといわれた、おじいさんの孫の乗っている船は平気でありました。波の上を越して、もっと沖へ、沖へとこいでゆきました。
「あちらの島に着いて、金色の卵、夜になるとおもしろい唄をうたう貝を拾ってきて、妹への土産にしよう。自分がこの航海を無事に終えたら、もうりっぱな船乗りだ。いつか、海の王さまの後継ぎだという評判がたつであろう。」と、若者は、そう思わずにいられなかったのです。
波は、いくら騒いでも、どうすることもできませんでした。そのとき、空を風が通りかかった。波は、日ごろはあまり仲はよくなかったけれど、こんなときは味方になってもらおうと思いましたから、風を呼び止めて、
「あんな小さい船のぶんざいで、私たちの世界をかってに乗りまわすなんて生意気じゃありませんか。沈めてしまおうと思うんですが、私たちの力ばかりではだめですから、ひとつ助けてください。」と頼みました。
風は、そういって頼まれると、いやだとはいえなかった。それに、自分がひとあばれしてみたいと思っていたやさきでありましたから、
「よろしい、大いにあばれてみましょう!」と、ただちに受け合うと、もう、高く怒り声をたて、白い帆を張った小船に向かってぶつかりました。小船は、木の葉のように波の上でほんろうされていました。
若者は、おじいさんもかつて、こうしためにあって、それに戦ってきたことを思いました。またお父さんは、やはりこんなめにあって、船がこわれて沈んでしまったのであろうと考えました。彼は、いまこそ自分の力を試すときだと思って、力いっぱい風と波とに戦ったのであります。
しかし、風の助けを得て、波はますます高くなりました。そして、白い帆の上を越すようになりました。
若者は、せっかくここまできながら、望みの島に着くこともできず、空しく海底のもくずになってしまうのかと残念がりました。また岩の上に降りていたたくさんの白い鳥は、波に足場をさらわれてしまって、あらしの叫ぶ空の中で、しきりに悲しんで鳴いていました。そのうちに、日が暮れてしまった。
夜になっても、風は、静まりませんでした。波は、はやく船を沈めてしまわなければならぬと、四方から打ち寄せてきました。若者は、おじいさんのことを思い、また妹のことを思い出しました。
おじいさんの造ってくださった帆は、この風にも裂けませんでした。若者は、どこへなりと風の吹く方向へ押し流されてゆこうと、運命に身を委せてしまったのです。
あたかも、暗い雲を破って月が照らしました。月は、海の上をくまなく、ほんのりと明るくしました。そのとき、白い帆の端で、異様な輝きを放ったものがあります。船の中で頭を抱えていた若者には、それがわからなかったけれど、目ざとい風はすぐにそれを見つけました。妹が、兄さんの無事を祈るために、盲目のおばあさんからもらった銀の針を、だれも気のつかないところに刺しておいた、それに月が映ったのであります。
風は、その光を見てびっくりしました。その光の中に、あの怖ろしい盲目のおばあさんが、じっとしてすわっていたからでした。
盲目で、白髪のおばあさんは、北極の氷の上にいるおばあさんです。波でも、風でも、おばあさんの住んでいる国へいったものは、おばあさんの機嫌しだいで、すぐにも息の音を止められたり、また凍らせられたりするのでした。
あらしは、おばあさんを見ると、ぴたりとやんで、こそこそとどこへか逃げてゆきました。波もまた静かになってしまいました。こうして、若者は無事に島を探検して帰ると、はたして、みんなから、第二の海の王さまと呼ばれたのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社
1977(昭和52)年3月10日第1刷
初出:「少年倶楽部」
1927(昭和2)年2月
※表題は底本では、「一本の銀の針」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2014年2月14日作成
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