日本的童話の提唱
小川未明
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いま日本は、一面に戦い、一面に東亜建設の大業に着手しつつある。これは実に史上空前の非常時であるといわなければならぬ。それであるから、老若男女の別を問わず、各〻分に応じて奉公の誠をいたしつつある。
すなわち国民こぞって、この大業に参加しつつある訳で、農村に、都会に、涙ぐましい彼等の努力を認めることが出来る。
われら国民が、非常時に処する誠心誠意はかくの如くであるが、なおもっとはっきりと、その行くべきところを明らかにし、指導するものは、何といっても今日の政治でなければならぬ。
政治及び経済のはっきりとした姿こそ、やがて、それが教育や芸術の上にも反映することによって、進むべきところを定めるのであろう。
されば、政治の目的、理想の確立なきところには、未だ真の児童教化運動も起こり得ない筈である。この故に、一日も早く国民としては、政治の革新性と、実行力に信頼したいのである。
たとえば、新しい日本が、自由主義を揚棄しても、独伊の全体主義と軌を一つにするものではない。そして肇国の精神に立ちかえって、皇道の何たるかを深く体得して、その実現を期するものと思われる。世界無二の有難い国体と精神は、自らにして人類を救済するに足りる。
われら国民は、この精神の誤らざる発揚を期すべきであって、所詮、政治、経済、教育、文芸もこの道徳的基礎の上に、立脚しなければならぬものである。
日本の特異性はかくの如きものであれば、日本の子供はまた、特異なる日本の子供でなくてはならぬ。従来主に英米の教育方針によりて、教導せられたるところの日本の子供には、そこに英米その他諸国の子供と習性の上において大差は見出されなかった。しかし日本の子供は、飽くまで日本的性格を有した子供でなければならぬ。
道義日本の子供は、物質力よりも精神力によって指導されなければならぬし、また本性をそこに置いている。
一例をとってみれば、子供が何かいい事をしたからといって、子供に褒美をやるということ、特にお金をやるというようなことは、恐らく明治このかたの慣例であろう。
子供は物を貰ったよりも、親や先生から褒められることに対して、より以上の悦びを持ったものだし、また持つべきものであると思う。
しかし、この頃はただ言葉で褒められたり、頭を撫でた位では、有難く思わなくなって、多くの子供が、何か貰わねば満足しないようになった。自分の行いに対して、物質的報酬を受けるという習慣は、功利主義の欠陥である。
日本の子供は、今日多く見らるるごとく物質的でなかった。そうして精神的であった。
学校の先生は嘘をいわぬものと信じていた。それであるから、先生から褒められれば非常にうれしく思った。
また母親が、自分のした事に対して、褒めてくれる時には、甘やかして褒めるのか、それとも心から褒めてくれるのか、母親の顔をみて鋭くそれを識別しようとした。そして心から、褒めてもらえば非常にうれしく思った。それはお菓子やお金をもらったよりも、うれしく思ったに違いない。金をやるというような習慣は昔にはなかった。むしろ金というものを卑しんだものであった。少なくも子供は精神的の感謝で満足したものだ。精神的であること、ここに日本の子供の姿があった。物質よりも精神を尊ぶという事は、これは、祖先よりの伝統である。精神力の偉大、犠牲的精神の強さ、二千六百年の間に養われたるところの精神的の精華である。
もとより外来の思想によって、一朝にして消磨するものでない。今度のノモンハン戦闘の如きもこれをよく実証している。
私は、日本の今後の文化が、日本精神に立ち還るに当たって、もう少し資本主義の弊害をここにいって置く必要がある。
人間が、金や物質に縛られることによって、永い間人間性を無視してきたのだ。
それであるから真の人間をつくるためには、先ず人間性を解放しなければならぬ。
これまで、子供のためにという施設は、実は大抵金儲けのためであった。また子供のためにという文化も、ただ子供を利用したものが多かった。そしてそれらは真に子供の幸福を増進するものでなかったばかりか、これがために子供の創造性をにぶらせた。
資本主義は、いろいろの分業を産み、人間を機械に隷属せしめ、人間を退化せしめたのだ。
故に本来の人間性に矛盾した功利主義の排除こそ、はじめて子供たちをして正義に邁進し、高邁な人たらしめる素地をつくることができるのである。今、自由主義時代の童話を省みるにこれには『愛』『自由』『同情』それらのものが取り扱われているが、畢竟個人主義的な立場からであり、小市民的な思想に過ぎなかった。
そしてこれらの作品中の個性というものも、単に、我が儘者か、変質者であった。職業的文壇圏内では、時にそれを天才的などと見做したのである。しかしそれは作家の勝手な空想であり、創作に過ぎなかった。
そして決して、健全な発展性に富んだ国民の表現でなかった。日本の子供は共通した感情と知性の上に立たなければならぬ。それこそ偉大な個性であり、明朗な若き日本の姿である。故に日本の新しい童話には、この日本的性格の片鱗が映されていなければならぬ。
今日ほど慌だしい時代の変遷はない。導く者も、導かるるものも、年齢の差こそあれ、同一の目的と理想に向かって反省し、情熱をもって進まなければならぬ。日本の当面する事業は、人類史上に類例を見ないほど偉大なものだ。
もとより外国の場合とか、理論とかが役立つものでない。新しい現実は常に理論を飛躍する。破壊と建設の複雑な渦中にあっては、現実を直観して、伝統的精神の中から体系を見出し新たなる建設的指導理論をつくるよりほかに道はない。この旗幟の下に児童を動員する。
そして、先ずこの度の聖戦の意義について知らせることである。幾百万の生霊を犠牲にして、支那四千年の文化を破壊してまで何で、戦わなければならなかったか、すなわち支那の無自覚なる、欧米に依存して東亜を危うくしたためだ。
先ずその思想を打破して、東亜を解放しなければならなかったからである。これがため、われらの父も兄も犠牲となった。祖先の意志と、祖国の観念を消滅しようとする将来の敵たる共産主義に対しては、各自の光栄ある歴史と民族を擁護するために、東洋諸国同志は、協力してこれに当たらなければならぬ。これが戦線に立つ父兄の志であった。
今の子供は、この志の承継者である。日本の子供は、始めて前途に輝かしい目標を与えられた。これを見ても日本は、兄たるべきである。日本の子供は兄たるの資格を有しなければならぬ。その徳においても、識見においてもそうであらねばならぬ。仮に、支那四億の民衆と、わが一億の同胞と比較して見ても、その数において大差がある。これを心服せしめ、指導することも、偶然ではあり得ない。
先ず日本の子供に、強き人格をつくることである。相手を信ぜしめるためには、何よりも『真実』ということが大切である。戦後における彼我の成人間の感情は容易に解消さるべくも思われない。子供の時代にいたって解消融和し、始めて明朗が期せられる。そこに日満支も各自の特色と技能を発揮し、有機的に結合して、政治に、経済に、ゆるぎなき秩序を形成し、渾然たるところの、東亜の文化が生まれるのである。
今は、正にアジアの夜明けで、全くの童話時代だ。文芸における童話の使命も、亦この時代にあるのだ。まことに無限な童話ロマンチシズムの時代である。
母や、祖母の愛で、子供たちに語られた昔のお伽話は、商品主義の産物でなかった。それであればこそ感化力の偉大なるものがあった。
たとえば舌切り雀も、桃太郎も、その他いろいろのお伽噺は封建時代の導徳感と離して考えることは出来ない。勧善懲悪、因果応報を教え、また克己忍従、主従の義理、憐憫の徳を教えた。
すでに、いまの日本は個人主義を許さない。全体の利福のために行動しなければならぬ。職能の別はあっても、共に同じ陛下の赤子で、兄弟である。始めから、貴賤の別も、階級の別ちのあろう筈がない。こうした矛盾から生ずる対立と反目を除去することが急務だ。
そして、建国以来の精神に則り、日本的感情と叡智を一切の文化の上に輝かさなければならぬ。剛健、素朴、協和、優美、そして東洋的な憧憬と、夢幻こそは、新しい時代の童話の骨子である。家庭における母親と、学校における教師は、この詩を解し、この童話の精神を有さなければならぬ。
日本精神は言葉の上で容易にして、行いの上には厳しいものだということを、この際知らなければならぬ。
子供たちは正直だ、正しいと知れば必ず行う。そして火の中、水の中をも辞さぬであろう。ここに子供の天真と純情が見らるる。今、農村に都会に、子供は小さな体に余りに重荷を負わされて仕事をしている。しかも、決して苦痛を訴えない。小さき者にも国難に直面することが感ぜらるるからだ。これをいいことにして、誰か、私事を恣にしようと考える輩があろうか? 社会はよろしく今の子供たちに、深い同情を持たなければならぬ。
これに徴しても学校の教師は、人格高潔の人たるを要する。善悪は制度よりも、指導者の人格による事が多い。教育が職業となってから、真の教化の精神は頽れたのであった。省みて昔日の私塾をなつかしむ所以である。すなわち、功利主義なるが故に、徒らに知識を重んじて、徳義を軽んじたのである。制度の罪たることを否むことは出来ない。この度、中学校の入学に学課試験を廃して、児童の体力と人物考査に重点を置いたことは、まことに正しく悦ばしいことだ。
新しい時代は、必ずや自信あり強健なる子供達の手から生まれるに違いない。学校外にあって児童の情操涵養に力を注ぐものは児童作家である。そのことは、すばらしい芸術に違いないが、しかし、今の作家達は、読み物において、児童に興味と知識を与えているが、どこへ子供を連れて行こうとするのか? 恐らく作者自身深く考えていないところだろう。自由主義時代はいいとしても、未来に理想的国家を計画し、その建設の途上にあるに当たっては許されざることだ。
先ず作家は唯物主義思想から生まれたる文化を批判し、それを揚棄して、皇道精神の顕現を期さなければならぬ。文芸は一人一人の魂を浄化する作用である。そして児童らに報本反始の大義至誠と、弱きを助けて強きを挫く、すなわち日本精神を植え付けなくてはならぬ。
人間の幸福とは何であろうか? それによって、生き甲斐を感ずることに違いない。
物質に見出すものと精神に見出すものとの相違である。東洋と西洋とは、文化発達の径路も違えば、人間の性格も異なっている。従って、彼岸の理想境も同じくないであろう。
アジア協同体は、この精神を参酌しての産物ではなかったか? 亦、日本の家族制度は、日本精神を中軸とする、世界無比のものである。皇道日本は皇室中心の一大家族でないか? 上下三千年、これがために和協一致が保たれたのである。働かざるもの食うべからずという言葉は、搾取する者の上に正しい物質的の権利義務である。しかし日本の家庭において、曾て親子兄弟が金のために争うことを、正しいとしたであろうか? 父は父であり、兄は兄である。父や兄は、身が痩せても子供や弟妹のために尽くした。
かくのごとき美風も、西洋思想が流入してから漸く頽れた。またあるものは、時勢に恵まれて美食し、残りを蓄えるであろう。あるものはこれに反して職を失い、暮らしに泣くであろう。貧富軒を同じうするは、決して日本の風景ではない。
共産主義は資本主義の転生であって、同じく唯物思想に立脚することを忘れてはならぬ。彼等は階級的鉄則によって、平等を計らんとするのだ。故に人間性を嘲笑する。物質以外に理想を認めない。しかし精神文化が精神力の偉大を現実に発揮して、人間生活の矛盾を除去した時、始めて唯物主義を克服するのだ。
道義日本は、先ずその範を世界に示す時が来ている。何故なら、大戦後の欧州は赤化するであろうし、支那にもこの風潮は押し寄せるに違いない。
今日の物質主義の根強さが、明治以降の教育にあることを知ったら、皇道日本の教育は既に遅きに失する感がある。
果たして、今日の児童らが、この精神によって教育されつつあるか? たとえ統制が強化されても、概念に過ぎなければ、児童の個性を殺して了うであろう。個性は、いつの時代にも大切なものだ。唯その方向を埒外に逸しないことにある。この頃、夜毎に蟋蟀が啼いているが、耳を澄ませばその一つ一つに、いい知れぬ特色がある。しかし、秋を讃うる心に変わりがないから、調和してリズムを破らないのだ。資本主義は子供の個性を殺してきた。親達も金になる学問でなければさせなかった。たとえ子供が自然に対して何か不思議を感じその方に志そうとしても許されなかった。もし国家が一大家族であるなら、将来こうした自由も許されるだろう。そして純粋な科学や芸術が発達するに違いない。それは国家を益することだ。世の中に金持ちはあっても、利益か名誉になることでなければ仕事をしないようでは、今日本の子供に真に芸術的な雑誌を必要としても、国家の手ででもなければ到底望めないことである。
搾取にかがやく資本主義文化が永続するものではない。互譲と、協和に成り立つ道徳的文化こそ人類のためであり、また民族共存共栄の希望に満つるものである。私達は日本の子供を考えるとき、同時に満洲、支那の子供のことを考えぬであろうか? 朝鮮の古い童謡に、よく鳥を歌ったのがあるが、それが日本のによく似ているのを可笑しく思ったことがあった。
支那の詩は李白にしろ、杜甫にしろ、日本人に膾炙されているのは知るごとくである。自然観に、人生観に、同じきがためだ。これを見ると、東洋は元一国という感じさえ起こるのである。
そして、人情には東西の別はないというが、西欧と東洋では異なるところが多い。血は水よりも濃いという。東洋同士が連盟をつくることは、決して不自然ではないのだ。文芸を通して趣味感情が同じであるばかりでなく、日本精神と、儒教との間にも共通が見出される。昔にあって、孔孟の教義は、武士階級に感化を与えたために、日本精神の一環をなしている。すなわち、仁義礼智信は、共通の導徳的根幹であろう。故に新秩序も、可能なる所以である。
思うに、多彩な東洋思想は、同じ感情と信仰の上に発達したものである。されば、東亜の子供達の心を固く結合するものは、これらの感情に根ざした、一つの美しい夢であり、また一つの輝かしい希望であるということが出来る。そして彼等がそれに対して持つ、同情と共感と理解こそは、心と心を結ぶ唯一の紐である。純粋な美しい芸術にのみその力が存する。もっとも美しい芸術、それは童話ではないか? 人生の如何なる高い理想も、希望も、童話の世界では実現が可能であるのだ。唯作家が時代を深く認識して、新しい文化を建設する意欲に燃えなければならぬ。
そして、その間に日本的性格を完成して、やがて東亜の兄弟のために働くという考えを、深く児童らに徹底せしめなければならぬ。しかるに未だ学校の綴り方教育などにおいては、個人主義的なこましゃくれた文章でも、綺麗に書けていれば褒めたりする。不健全な見方もかえって現実的だといって褒めたりする。これ等は文章を職業とした時代の余弊である。むしろ小学校の綴り方においては、子供に事物の真の見方を教えるにある。善悪の判断を誤らしめざるにある。それには指導者がまた確固たる信念と理想を有しなければならぬ。
国家の動力たる政治・経済・教育・文芸が一つの力となって、同じ方向へ回転した時、始めて偉大なる時代の曙が来るのである。柿の種を蒔いても実のなるまでには七、八年はかかる。十年の後の東亜を支配する者の教化は正に今日にあるのだ。
底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社
1977(昭和52)年10月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第5刷発行
底本の親本:「新日本童話」竹村書店
1940(昭和15)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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